[3051] おめおめと生き恥を晒して...

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《日本って実はすごいユートピア社会だった》

■映画と夜と音楽と...[502]
 おめおめと生き恥を晒して...
 十河 進

■ローマでMANGA[39]
 MANGAを通して伝えたい日本の心
 midori

■ところのほんとのところ[56]
 なにかきっかけが欲しい
 所幸則 Tokoro Yukinori



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■映画と夜と音楽と...[502]
おめおめと生き恥を晒して...

十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20110527140300.html
>
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〈ニューメシネマ・パラダイス/酔いがさめたら、うちへ帰ろう。/毎日かあさん/ロード・ジム〉

●「辞めてやらあ」と会社を飛び出した22年前のこと

20年勤めて、初めてリフレッシュ休暇をもらったときのことだ。社内の全員に向かっての挨拶で「何度も...というべきか、何度か...というべきか、辞めようと思いましたが、辞めるほどの度胸も才能もなく、おめおめと20年勤めてしまいました」と切り出した。挨拶する僕の背後には当時の社長が立っていたのだが、どんな顔をして聞いていたのかはわからない。

思い出すと冷汗が出る。若気の至りではない。もう40をいくつも出た歳だった。その数年前に「辞めてやらあ、こんな会社」と怒鳴り散らして机を蹴り、会社を飛び出したことを思い出す。そこまで言って辞めなかったのだから、本人は「おめおめと生き恥晒している」気分だった。現在から数えればリフレッシュ休暇をもらったのが17年前、会社を飛び出したのが22年前になる。

そのとき僕が納得できなかったのは、何の根まわしもなく(それまでは事前にそれとなく本人の意思確認があった)寝耳に水の異動命令だったこと、自分のキャリアや人脈がまったく生かされないジャンルに異動させられること、異動先の編集部は創刊誌を立ち上げたばかりなのに4人のスタッフのうち上のふたりが入れ替わること、などだった。僕は写真雑誌の平編集者だったが、いきなり右も左もわからないビデオ誌の編集長を命じられたのである。

当時は、ビデオカメラが全盛だった。そのため、僕の会社は撮影を中心にしたビデオ誌を創刊した。業界が元気でふたつの陣営が競っていたから、広告だって期待できた。1985年にソニーが8ミリビデオを出し、ビクターはVHSにこだわって8ミリテープ並の大きさのVHSテープで撮影できる小型カメラを発売していた。それぞれにグループを作り、競合していたのである。

しかし、そんなことは写真雑誌を編集していた僕には何の興味もなかった。僕は30過ぎまでは「小型映画」という雑誌の編集部にいたから、フィルム・ムービーについてはそれなりに知識があったけれど、「小型映画」はビデオの台頭によって休刊に追い込まれたのである。休刊前の一年ほど、僕はビデオの記事を2頁だけ作って連載したが、「ビデオの記事は載せるな」という読者の声が凄かった。

「小型映画」が休刊になって8年が過ぎていた。自分が担当していた雑誌がなくなるほど、編集者にとって屈辱的なことはない。僕が何となく「ビデオは仇」という意識を持ったのも無理はないと思う。それに、僕はフィルムのテイストが好きだった。電気信号はどうしても好きにはなれなかったし、ビデオアートと称する作品は理解できなかった。

それに、自分で言うのもナンだけれど、僕は写真雑誌に8年いて人脈もかなりできたし、毎号のように特集を担当していたし、雑誌は右肩上がりで伸びていたし、充実した編集者生活を送っていたのである。毎日、電車の中で「次はあの企画をやりたいな」と頭の中で頁のイメージを浮かべては、ほくそ笑んでいたのである。

その頃の分厚いシステム手帖を見ると、細かな字で企画メモが書かれ、実際の頁のイメージをミニラフで描いている。それを書いたのが自分だとは信じられないほど、熱気が伝わってくる。僕は30代後半だった。それが、40を目前にして、まったく知識のないジャンルの雑誌、人脈も筆者のあてもまったくない、そんな世界への異動を、突然「業務命令」として言い渡されたのである。

さらに僕が激高したのは、創刊誌を作った編集長と副編集長の異動である。同じ編集者として、その無念さはよくわかった。「創刊3号から編集長として入れとは、創刊誌の否定ですよね。『きみのセンスを生かしてくれ』と言うのなら、なぜ創刊スタッフとして呼ばなかったんですか」と、今から考えれば上司を困らせる部下ではあった。実際、ほとんど怒ることがなく人のいい上司のYさんは、血相を変えた僕を前に困惑するばかりだった。

●会社を飛び出した翌々日のロケで出会った鴨志田くんのこと

「辞めてやる」と会社を飛び出す前から、僕は翌日の休暇届を出していた。会社を飛び出した後、僕は連載でタイアップをもらっていた企業に次号の打ち合わせで出向き、そのまま直帰し、翌日は休暇を取った。その日、人事のゴタゴタから逃げるように銀座に出て、シネスイッチで見たのが「ニュー・シネマ・パラダイス」(1989年)だった。その辺のことは「犬よりましな人生」(「映画がなければ生きていけない」第一巻78頁参照)などで何度か書いている。

会社を飛び出した二日目は、以前から予定していたロケだった。僕はロケに直行し、そのままスタッフと打ち上げをやって会社には出なかった。そのときカメラマンの加藤孝のアシスタントをやっていたのが、後にマンガ家の西原さんと結婚することになる鴨志田くんだった。彼は「ニュー・シネマ・パラダイス」に感激して、生まれた国を出る決意をしたと語った。アジアにいくのだと言う。

その後、鴨志田くんはアジアへいき、日本からきた女性マンガ家と出会って結婚したと風の噂で聞いたのだが、僕は西原理恵子さんのマンガを読んだことがなかったので、相手が西原さんだとは加藤くんに教えられるまで知らなかった。鴨志田くんは「アジアパー伝」などの著作を上梓し、小説「酔いがさめたら、家に帰ろう。」を出した少し後に亡くなった。

昨年、「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」(2010年)が公開になった後、「毎日かあさん」(2011年)も映画化され、鴨志田くんの役を浅野忠信と永瀬正敏が続けて演じた。まあ、今の日本の俳優の中では順当な配役だと思う。鴨志田くんはアルコール依存症になり、離婚し、矯正施設に入り、退院して家族の元に帰ったが、すでにガンに冒されていた...。それをふたりの俳優が別々の作品で演じたのだ。

一日ロケで付き合っただけの鴨志田くんのことをよく憶えているのは、鴨志田くんとロケ地へ向かう車の中で「ニュー・シネマ・パラダイス」がいかに素晴らしい映画かと盛り上がったからだ。それから僕は、期限切れが近いけれどメーカーにもらったトライXが編集部にたくさんあるので、よければ差し上げると言い、後日、鴨志田くんは会社に受け取りにきた。

もっとも、加藤くんに言わせると僕は「ニュー・シネマ・パラダイス」の話より、人事異動の話ばかりしていたという。確かに不満を言い募っていたのだろう。そのロケのモデルは碇さんというボーイッシュな美人だった(当時放映中のコカ・コーラのCMに出ていた)のだが、ひと月ほど後に加藤くんが再び彼女と仕事をしたとき、「ソゴーさん、会社辞めました?」と心配そうに訊ねたそうだ。

●自分が非難した人間と同じ行動を取ってしまったみじめさ

大言壮語しながら、結局、日和ってしまうのが多くの人間の結末なのだが、僕も「こんな会社辞めてやる」と大騒ぎしたくせに、それからも同じ会社に勤め続けた。自虐的に言えば、生き恥を晒しているという気分がまったくないわけではない。それだけに「会社に貸しは作っても、借りは作らねぇぞ」という強がりで精神的なバランスを取り、勤め人生活を送ってきた。まあ、そういうバカで身勝手な人間を飼ってくれる会社ではあったのだけれど...。

人間は弱い。一時の感情に駆られて大口を叩いても、冷静になっていろいろ考えると、宣言を撤回しなくてはならない場合もある。屈辱的だし、何しろみっともない。言ったことをきちんと実行するのは首尾一貫していてかっこよいが、口ばかりで実行しないのは信用をなくす。おまけに言い訳など始めたら、恥の上塗り、周りからは軽蔑を通り越して憐れみの視線さえ注がれるだろう。

僕が中学生の頃に封切られた「ロード・ジム」(1965年)という映画がある。「アラビアのロレンス」(1962年)で一躍、国際的映画スターになったピーター・オトゥールを起用し、「アラビアのロレンス」の二番煎じを狙った作品である。オトゥールが演じたジムは心の傷を持つ複雑な主人公だが、やがて英雄になる。そのキャラクターはロレンスに近い。原作はジョセフ・コンラッド。世界文学全集に入るほどの作家で、自らの船員経験を生かし海洋を舞台にすることが多かった。

ちなみに、ジョセフ・コンラッド原作の映画化作品を調べてみたら、意外に多い。「地獄の黙示録」(1979年)の原作「闇の奥」は有名だが、リドリー・スコット監督のデビュー作「デュエリスト/決闘者」(1977年)もコンラッドの原作だった。「卑怯者」(1925年)という古い映画もあった。もしかしたら、これは「ロード・ジム」を原作にしているのだろうか。

ジムは卑怯者である。船員として客船に乗って海に出るが、その船が座礁し、救命ボートだけでは船客を乗せられないため、白人の船員たちは自分たちだけで逃げようとする。ジムはそれを拒否し仲間を非難するが、結局、船が沈没しそうになると、数百人の船客(彼らはほとんどがアジア人で、白人の船員たちは露骨に差別している)を見捨てて自分も逃げてしまう。

その後のジムは、自分は卑怯者だという声を常に聞いていたに違いない。責め続ける己の声からは逃れようもない。彼は船客たちを見殺しにしようとする仲間の船員たちを責めながら、結局、自分も命惜しさで救命ボートに乗ってしまったがために、より自らを責め続けるしかないのだ。彼は、己が非難した恥ずべき行為を行った。言うこととやったことが正反対なのである。それだったら良心の呵責もなく、船客たちを残して逃げようとした卑怯な船員たちの方がマシではないか。

彼は、世界を放浪する。それは逃亡だったのか、あるいは、自分が卑怯者ではないことを証明する場を求めていたのだろうか。どちらにしろ、その間のジムは生き恥を晒している気分だったろう。そういう意味では、死に場所を求める放浪だったのかもしれない。そして、その場所をある南の島で見付けたジムは、島民たちの解放に尽くし、英雄的行為を行うのだ。

「ロード・ジム」には、我らが伊丹十三(当時は「一三」だった)が出演している。イギリスのジェームス・メイスン、ドイツのクルト・ユルゲンスなどと一緒である。ただし、彼が演じたのは南の島の村民の役だった。「ロード・ジム」撮影中にオトゥールから聞いたという「アラビアのロレンス」の裏話は、伊丹十三のエッセイ集で読んだ。オトゥールはデビッド・リーン監督の厳しさをぼやいていた。

●大口を叩いたくせにおめおめと勤め続けてきたのは...

ジムは何百人もの船客を見殺しにすることを非難していたのに、自分も同じことをやってしまったために苦しみ、やがて南の島の島民たちのために英雄的行為を行う。しかし、それで彼の卑怯な行為が帳消しになるわけではない。卑劣な行為は卑劣な行為として残っている。結局、自分は卑怯者ではないことを証明したいために、彼は英雄的行為を行うわけだから、厳しい言い方をすれば、それはジムの自己満足に過ぎない。ジムが精神的バランスを取るための行為である。

ジムのようなタイプの人物は、多くの映画で描かれてきた。ハリウッド映画では主人公が卑怯者では困るので、脇役にジムのような設定の人物がよく登場した。昔、卑怯未練なことをやって後ろ指を指されながら生き恥を晒している男である。彼は、ある日、英雄的な行為を行い卑怯者の汚名を晴らす。彼らの行為の多くは、「再生」という積極的な意味で描かれる。誇りや自尊心を取り戻し、自分が臆病な卑怯者でなかったと己に証明して死んでいくのである。

さて、僕の場合、大口を叩いた以上、きちんと辞表を出し、フリーになって売れっ子編集者になるか、編集プロダクションでも立ち上げてメジャーな仕事を請け負い、会社を発展させるかできていれば、かなりかっこよかったし、精神的にもバランスが取れたと思う。

しかし、挨拶でも言ったように「組織を離れてやっていける才能も度胸もなく」僕は組織に残ることを選択し、おめおめと生き恥を晒してきたのである。今でも、あのとき辞めていればどうなっていたんだろう、と夢想することはあるが、それは意味のないことだ。

あのときのことを思い出すと、出社しないまま三日目になった朝、写真家の管洋志さんの事務所を訪ねる己の姿が浮かんでくる。前からの約束だった。打ち合わせで訪ねたのだと思う。いつも約束した時間ぴったりに姿を現す僕を見て、管さんは「時計みたいな奴だな」と言った。

あの当時、管さんの事務所は講談社と大通りを挟んだ向かいのマンションの裏にあった。事務所の前には、愛車のシトロエンが駐車してあった。夜、ときどき管さんの事務所で呑んでいると、講談社の編集者が「やあやあ」と顔を出したりしていた頃のことだ。

管さんに初めて会ったのは入社してすぐだったが、管さんの記憶にはないだろう。その後、何度か会ってはいたけれど、編集者として本格的につきあい始めたのは、僕が30を過ぎて写真雑誌の編集部に異動になってからである。作品を借りにいったり取材をしたりするうちに、僕を信頼してくれるようになった。

管さんに土門拳賞内定の知らせがあった夜、僕にうれしそうな電話が入り、先輩のHさんと三人で呑んだ。そんな大事な記念の夜に呼んでもらったことが僕はうれしかった。管さんは多くの編集者とつきあいがあったし、ほとんどがメジャーな出版社に勤めていた。

その日、管さんの事務所で打ち合わせを終えた後、「今日で三日、会社に顔を出してないんです」と僕は言った。その途端、堰を切ったように会社の異動人事に対する不満が噴き出した。そんな僕の愚痴ともぼやきとも取れる話を、管さんはイヤな顔をせず真剣に耳を傾けてくれた。しばらくして、管さんが口を開いた。

──辞めるんなら、いくらでも仕事は紹介してやるよ。おまえくらいのキャリアと実力があれば、いくらでも仕事はくるよ。それに写真について、よくわかってる。そういう編集者は少ないんだ。

管さんの仕事は講談社を始め、大手の出版社が中心だった。週刊誌、月刊誌など、仕事の数も多い。僕は管さんの事務所で紹介された、「週刊現代」や「月刊現代」の編集者たちを思い浮かべた。そんな雑誌でライター稼業をやるのも悪くないなという考えが、一瞬、脳裏をよぎった。

──しかしな...、辞めるのはいつでも辞められる。「辞める」と言って、撤回できるのは一度だけだぞ。編集者として、おまえのことは買ってる。とらえどころがないところもあるが、写真を見る眼はあるし、企画力もある。約束は守る。それに、会社の言うことだけを聞く編集者じゃない。組織にそういう人間がいるだけで、カメラマンは心強いんだよ。どこの編集部にいようとな...。

管さんの声は低くて口跡がよく、言葉は明瞭だ。喋り方も僕と違って落ち着きがあり、ナレーターとしてもプロの仕事ができるくらいだ。耳に心地よく響き、じっくりと心に沁みる声である。その声で言われたから、余計に何かが伝わってきた。そのとき「生き恥...晒してみるか」と、僕は心を決めたのかもしれない。以来、おめおめと...と下唇を噛みながら、己の人生を幾分でも筋の通ったものにしようとあがいている。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
>
児玉清さんの「週刊ブックレビュー」は好きだった。亡くなって夫人と出演した映像が流れていて、おっ、と思ったのは、奥さんが北川町子さんだったこと。昔の東宝映画にはよく出ていた。成瀬巳喜男監督の「女が階段を上る時」にはホステスの役で出ていたなあ。懐かしいぞ。

●306回〜446回のコラムをまとめた「映画がなければ生きていけない2007-2009」が発売になりました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1447ei2007.html
>
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4880651834/dgcrcom-22/
>

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■ローマでMANGA[39]
MANGAを通して伝えたい日本の心

midori
< https://bn.dgcr.com/archives/20110527140200.html
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イタリアのMANGA熱は相変わらず高い(もちろん、大人たちの世界とは別個の世界を築いていて、雑誌販売店〈キオスク〉で新聞を買いつつ、「やけに子供向けのデカ目の本が増えてるな」と思う人がいるくらいだろうけど)。

例えば「MANGA」で、イタリア語のみをオプションで設定して検索すると、あっという間に約17,000,000件がヒットする。イタリア・ウィキペディアにも「MANGA」がある。
< http://it.wikipedia.org/wiki/Manga
>
「MANGAとは日本語でマンガ一般を示す言葉である(...)日本以外では日本のマンガを示す言葉になっている」で始まり、歴史も紹介している。

2010年10月に更新されたという、上位5位の売上高を示した図が興味深かった。1位ワンピース(継続発売中)、2位ドラゴンボール(発刊完)に続いて、3位に「こち亀」... ただし、この順位は合計売上数で順位を付けている。単行本一冊につきの売上高は4位、5位も100万部を超えているのに対して「こち亀」は90万部だから、この数字で見ると順位は下がっていくとになると思う。それにしても、ワンピース、ドラゴンボール、スラムダンク、ナルト、ブリーチなどに血道をあげるイタリアのMANGAファンが「こち亀」を気に入るというその事実が面白い。

MANGAファンはワンピ、ドラゴンボールetc.のアクションのかっこ良さに惹かれてると思っている。だから、模倣刀を買ったり、カラテやジュードーを習ったりしてキャラに近づこうとする。ちょっと絵心のある者はキャラの絵をコピーして、更にはMANGA風の絵柄(主に萌え系)を自分のものにしようとする。

そんな人達がファンサイトやファンブログを作るケースがごまんとある。
例えば
< http://www.mondomanga.net/
>
< http://www.shoujo-love.net/
>

MANGA風の絵を描きたい人がすごく多くなっている。そこで高校の時の経済で習った規則が思い出される。──需要があれば供給が出てくる。

フィレンツェにアカデミア・エウローパ・ディ・MANGAというのができて、マンガの描き方の年間コース、サマーコース、コミックスフェアなどでのワークショップを盛んに開催している。
< http://www.accademiamanga.it/
>

代々木アニメーター学院と東京デザイナー学院と提携し、代々木への留学も用意している。ここがワークショップを用意すると、多数のMANGAファンサイト・ブログであっという間にコピペされてニュースが伝わる。
< http://txkun.blogspot.com/2010/05/workshop-di-giapponese-e-manga.html
>

Dondake!! Japan for Gaijin
< http://easyurl.jp/1pa2
>

Giappone-Italia
< http://easyurl.jp/1pa3
>

私の教え子にもサマーコースに参加した、という子がいた。合宿形式1週間で600ユーロ(約7万円)、漫画の描き方の他に日本食調理、日本語レッスンもあったそうな。

私がローマの学校でMANGAセミナーを持っていて、校長はMANGAここまで重要視していない(校長の考え方は、MANGAを教えても仕事に直結しないので、学生を愚弄することになる)ことに、なんでー? と思っている悔しさもあるのだろうけど、私はこのアカデミーには何か胡散臭さを感じる。

登録者になにか教えることよりも、経済効果のみを狙ってるように思えてならないのだ。登録しないと各コースの値段がわからないというのがまず嫌だ。そして何よりも、MANGAの絵のテクニックだけを教えるというのが、MANGA作家を作ることではなく、大衆の要求に応えてお金を出させる、ということであり、それが私の考えるMANGAのあり方に合わない。経済活動の基本というのはそういうもの(需要に応える)ではあるが、それだけを追求し、倫理やら哲学やらを置いてきてしまったところに、現代社会の歪が出てきていると思うからだ。

ここの他に、やはりフィレンツェの「TOKAGE」という日本の文化を紹介することを生業としているグループが、昨年「MANGAも紹介しなくちゃ」と、加藤絵理子さんも講師に招いてMANGAワークショップを開催した。
< http://www.tokaghe.com/
>
Tokage 加藤絵理子さんのワークショップ
< http://easyurl.jp/1pa1
>

他にも、MANGA・アニメニュースのサイト
< http://www.animeclick.it/
>

MANGAのか描き方の本を売るアマゾン・イタリア(でも英語版だ)
< http://www.amazon.it/Digital-Manga-Workshop-Lindsay-Cibos/dp/1904705464
>
↓(本の表紙画像)
< http://easyurl.jp/1pa4
>

こうした現象はイタリアだけではなく、国際的。
< http://www.kewego.it/video/iLyROoafvRBA.html
>
(ドイツ人が解説する漫画の描き方ビデオ)

ワークショップを紹介したGiapone-Italiaのサイトにあったコメント二つが、こうした熱に対するイタリアの若い人の日本への気持ちを代弁している。
曰く「彼ら(日本人)が作るアニメの質には誰も及ばない!!」
「そのとおり! 僕たちは真似することはできるけど彼らのレベルには届かない。日本人はMANGAの本当のマエストロで、誰もその技を盗めない!!」

ここまでだらだらと例を引いてきたのは、ひとつの結論に導くため。MANGAとアニメには日本人の心が宿っており、模倣刀やカラテやキャラコピーの裏で、本人が気づかないまま、日本の心を受け取っているのだ。

日本産の製品の多くは、使い勝手の良さなどを重視して製品ができるまでに多くの工夫がなされる。あたり前のように。MANGA・アニメもそうなのだ。少なくも私が覗いた日本のMANGA編集部では、作家を発掘し、育て、作品ができるまで編集部員も作家も真摯に取り組む。日本以外の漫画家が真摯ではない、という意味ではなく、日本では「もう一歩」深く取り組む。

上に記した二つのコメントは、そのもう一歩の深さをしかと受け取ったことを表している。だからこそ、MANGA・アニメから始まった興味が、日本語や歴史に対する興味に広がり、日本全体への興味と憧憬に広がっていくのだ。

その日本ブームでSUSHIがブームになり、中華料理屋がSUSHI屋に早変わりして、日本の寿司屋では普通の、シャリや魚などの材料に対する注意深さをまったくなくして、姿形を真似しただけのものを提供して、それが流行っているのを見るのはシャクにさわる。前述のアカデミア・エウロペア・ディ・MANGAには、まさに「中国スシ屋」の胡散臭さを感じるのだ。

日本の心とは、「作って売る人の儲け」は二番目に位置付け、一番目には「使う人の使い勝手の良さ」を置く。昔の話で言うと、ホンダがヨーロッパの石畳に合うように、石畳を輸入して研究したことや、誰だったか忘れてしまったけど、ある会社の社長さんがお弁当の醤油袋を破いたら中身が出て服を汚した。簡単に開けられる袋を開発しろと業務命令を出した。会社一丸となって開発に勤しみ、眼に見えないほどの穴を袋にあけることによって、どこからでも簡単に開ける小袋を開発した...という話(日本では当たり前だけど、イタリアでこうしたマヨネーズなどの袋、はさみがないと切り口があっても綺麗に開かないのが普通です)という話。

MANGA構築法はただ物語を順番に語っていくものではなく、キャラの感情を読者に伝えるための工夫なのだ。それを伝えずに、表面的な描き方だけを伝えるのはSUSHIブームに便乗して形だけ寿司にするのと同じ。

日本の心のもうひとつは眼に見えないことに価値を置くこと。出光興産の創始者、出光佐三氏の言葉「社員は家族だ。家計が苦しいからと家族を追い出すようなことができるか。会社を支えるのは人だ。これが唯一の資本であり今後の事業を作る。」は、それを会社経営の基本に置いて成功した例だと思う。
< http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-827.html
>

ついでに、以下の「からくり人形」に関するコラムも、この企業のあり方を伝えていて興味深い。
< http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1116.html
>

MANGA・アニメの多くは、アクションやファンタジーの衣を着ながらも、友情のすばらしさや困難を超えて成長する姿を描く。MANGAファンの多くは、そうした「気持よさ」を刀やアクションのせいだと思って、そっちを真似しつつ、魂の奥ではちゃんと形のないものの価値を受け取っている。

日本の心の底には性善説がまずあり、人を信じ、自分のことより他人を考えた。昭和30年代がブームの裏には、その当時を子供時代で過ごした年代が社会の中心から過去を振り返る年代にさしかかって懐かしむから、ということの他に、そうした日本の心がまだ生きている時代だったから、刀やアクションを真似するMANGAファンと同じように、魂の奥でそうした価値を認めているからではないか。

私も昭和30年代に少女時代を過ごした一人だ。同居していたおばあちゃんはよく「人様に迷惑をかけてはいけないよ」と言っていた。何事にも絶対はなく、日本人が全員性善で全員形のないもに価値を認めていたとは言わない。でも、かなりの高率で日本人はそうだったし、日本って実はすごいユートピア社会だったのではないかと思うこの頃。

まず他人を疑ってかかれ、何事も私のせいではなく他人のせい、私が得するためには他人を陥れろ、例え間違っても謝ったら負け、というのが日本以外の国ではほぼ当たり前の事を思うと、ユートピアだったと言っていいと思う。日本もだんだんこうして「外国化」してきているからこそ、昭和30年代が懐かしいのではないか。だいたい、家の入り口に鍵をかけるのは就寝するときだけだった、というのは、どう考えてもすごい。その鍵も、その気になれば簡単に壊せる類のものだった。

そしてここでコラムの方向がちょっと変わる。
私の中ではすべてつながってるのだけど。

日本の心を見直し、素直に「素晴らしい」と思っていいのだと思うこの頃。私はMANGAを通して、それを伝えたい。

MANGAセミナーの他に、本も出す。この本はデジクリ3019号に書いた、「イタリア漫画界にTSUNAMIを起こす!」のその後だ。
https://bn.dgcr.com/archives/20110303140100.html
>

出版部を作ったマンガ学校の社長に打診したら簡単にOKが出たのだ。今、車庫係をしながらマンガを描いているマウロ君と、家事とか他の仕事をしながら本文を書く私の仕事の鈍さが難だけど、着々と進行中。校長も、学校のコースとしてでなく、読者が勝手に精進する糧にするなら学生を愚弄することにならないと考えたのだろう。

もうひとつは、私の自作マンガ。何10年も模索して(というと聞こえがいいが、未熟だったため)やっとテーマが決まり、誰に向けるものか(イタリア人)も決まり、トーンも決まり、商業化のつもりではなく配信のつもりでFacebookにアップし始めた。私の幼少時の思い出を元に、実際に住んでいた伝統的日本式家屋を主な舞台とした、小さな日常のデキゴト4ページというシリーズ。

< http://easyurl.jp/1paa
>
< http://easyurl.jp/1pae
>
< http://easyurl.jp/1pah
>
< http://easyurl.jp/1paj
>

Facebook内のオトモダチで、講談社モーニングに作品を掲載したことのあるイゴルト(Igort)
< http://www.nekonoashi.com/jp/igort.html
>
< http://www.igort.com/
>

が、個人メッセージを送ってくれて「面白いね。もっと描いてご覧よ。ココニーノ(イゴルトがアートディレクターをしているマンガ出版社)で出すかもしれないよ」と言ってくれた。実現すれば、配信の幅がもっと広がる!
< http://www.coconinopress.it/
>

還暦を数年後に控えて、やっと自分の道が明確になって来た感じだ。イタリアの格言に「例え遅くなっても、全く行き着かないよりはいい」というのがあるけれど、それだ。

【みどり】midorigo@mac.com

延々として進まぬ、東日本の復興。被災者の現在の生活改善すらなされていない様子。また、実際に被害場所で作業する自衛隊、作業員の環境も劣悪らしい。自衛隊のブログで、穴の開いた手袋、ぬかるみでの作業で胴付長靴を履くが、軽易なゴム製のためガレキの中で釘が足に刺さるという負傷事故多発、怪我をしても抗生物質がない。連絡用の無線機は小隊に一台、分隊にはなし、だから隊員は私物の携帯で連絡、、、などなどを知った。
< http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5869
>

ほかにもニコニコ動画で国会中継をよく見ている。もう怖いもの見たさ。現政府は日本を解体したいのだと考えると、宮崎県の口蹄疫の捨て置きとともに、意味がわかる。例えばこれを見て欲しい。
H23/05/24 衆院震災復興特別委・小野寺五典【被災地の衛生環境・蛆の絨毯】
< http://www.nicovideo.jp/watch/sm14544892
>
(ニコ動に登録しないとみられません)

イタリア語の単語を覚えられます!と言うメルマガだしてます。
< http://archive.mag2.com/0000075559/index.html
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■ところのほんとのところ[56]
なにかきっかけが欲しい

所幸則 Tokoro Yukinori
< https://bn.dgcr.com/archives/20110527140100.html
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渋谷ハチ公広場内・青ガエル(旧東急電車の車両)での作品展示は今までの展示とは違い、アートに特に興味のない人の目にも触れると、どういう反応があるのか? そういうことにも興味があり決断しました。展示内容と、反応の件は前回のこの連載で書いています。

この展示はもともとは、建築家の西森陸雄くんの仲間たちが主催するフォロというクローズドなサロンに、ゲストで呼ばれ対談したのがきっかけで、そこから西森陸雄>東急建設>渋谷まちづくりの会の会長>渋谷区の青少年課と話がつながっていって、渋谷のこれ以上ない真ん中である渋谷ハチ公広場で展示してほしいと[ところ]は頼まれました。

ただ、直前の3月11日に東日本では大震災があり、東京では写真展に限らずさまざまなイベントが中止になっていったことに加え、[ところ]自身もあまりの悲惨な報道の毎日に心がおかしくなりかけて、どうすればいいのか分らなくなっていた、というのが本当のところでした。

相変わらず報道は国により規制されているし、被曝の問題も何が事実なのかさっぱりわからない。いまだに不安だらけではありますが、今回の展示はギャラリーでの個展とは違った層の人にも見てもらえてよかったと思います。

西日本の人には実感がつかめないとは思いますが、日本では今までとは比べものにならない大変な事態が起こっているということを認識して、ぜひ各々の出来る範囲で支援してください。お願いします。[ところ]も東日本大震災チャリティプリントをやっていますので、よろしくお願いします。本物のオリジナルプリントを見るいい機会でもあります。
< http://www.tokoroyukinori.com/information/charity/
>

さて、最近街を撮ること、自分の作品を撮ることに、いろいろ考えこむことがある[ところ]です。大震災による津波で、いくつもの村や町が目の前で消えていった映像を見たからということも関係していると思いますが、なぜか花を撮りたくなってきました。

これは多分に今の状況の中で自分に起こった心理的変化で、一過性のものかもしれないので、ちょっと戸惑っています。今まで、[ところ]は花を作品のモチーフに選んだことがないのです。花は美しく儚く脆く、香りも好きですが、実物を超えた花の写真をいまだ見たことがなく、禁断の被写体とすら思えるのです。

この葛藤はいつまで続くのか、まだわかりません。そして、街を出歩くことも今は積極的にはなれないのです。歩いてみればそれなりに5月の風は気持よく感じられるのですが、眼に見えない恐怖にまだ心が囚われているような気もします。体が蝕まれいく環境にあっても、匂いも痛みもないから気づかずに、数年、数十年後になって体がおかしくなったとしても、因果関係はわからない。しかし、渋谷を[ところ]のように撮り続けてる人は他にいない。撮り続ける義務があるようにも感じる[ところ]も存在します。

最近、「ニコ生」で色々な人と対談しています。その中には押井守監督のように、何事にもへっちゃらな感じで強い人もいるし、アイデアの編集長のように、グラフィックデザイナーの歴史を残し続けるために一心不乱に頑張っている人もいるし、東京フォトの実行委員のように、写真をもっとアートとして根付かせるために尽力している人もいます。

[ところ]はといえば、まだ完全にはショックから立ち直れないでいます。先週の日曜日に出演した、アートプロジェクトを立ち上げた深瀬さんに、日本の市場だけでは芸術家は成り立たないと言われても、様々な事態から今身動きが取れなくなっています。「写真家所幸則」はこれからどうしていけばいいんだろうとずいぶん悩んでいます。

なにかきっかけが欲しい。正直、しばらくどこかの大学の講師とか、専門学校の講師をしながら、これからのことを生徒たちと論議しながら一緒に考えてみたいと思うようになりました。

現在、回りの要望もあって私塾「所塾」を始めています。スカイプとfacebookを使っての指導など面白い試みもやっています。リアル塾生の中には、もう2年も[ところ]にくっついてくる熱心な者もいます。ただの素人から審査の厳しいギャラリーで展示できるまで、2年でたどり着いた者もいます。なにかこう、彼らに話すこと、注意することで、自分も再確認ができて、有意義な経験をしているという実感もあります。

「所塾」は私塾なので何10人も受け入れるのは難しいのですが、リアルメンバーはあと3人まで、スカイプメンバーはあと5人まではOKです。目標は高く、世界に通じる写真家と呼ばれるようになることを掲げています。詳しくは塾生がつくったこちらをごらんください。
< http://ichikojin.sakura.ne.jp/tokorojyuku/
>

次回の「ニコ生」は押井守監督を連れてきてくれたVFXスーパーバイザーの佐藤敦紀さんと、押井監督の話のその後と、[所塾」の塾生の写真に対する考え方などの話をするつもりです。よかったら見てください。5月29日19時30分から2時間SPの予定です。
< http://com.nicovideo.jp/community/co60744
>

【ところ・ゆきのり】写真家
CHIAROSCUARO所幸則 < http://tokoroyukinori.seesaa.net/
>
所幸則公式サイト  < http://tokoroyukinori.com/
>

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■編集後記(5/27)

・50歳で会社を辞めた。会社外の活動にそれなりの評価も受け(けっこう派手な外部活動を見逃してくれた会社も寛大というかヌルイというか)、自分でも手応えを掴んでいたので(かなりの錯覚をふくむ)、外でもっと自由にやってみようと思ったからであったが、後から考えると自分が一番得意分野であった「ワークフロー」を、組織内で忍耐強く推進していったほうがよかったかなと、ちょっと後悔した。年金世代になってその後悔はさらに深まる。定年まで勤め上げたら、そうとう裕福な年金を手にすることができたはずだ。だが、そう考えるのは愚かなことで、フリーになってからの毎日の充実感と、明日を知れない不安感という、勤め人には経験できない体験ができたのだから人生はおもしろいのだ。結局、インターネットがなかったら別な今があるわけで、そんなパラレルワードを時々夢想する。インターネットに翻弄されたわけネ。(柴田)

・「ほいほいとFacebookのフレンド申請に応じているとアカウントをのっとられてしまうかもしれない」とFacebookから仕入れたLifehacking.jpの記事。パスワードがわからない時に、3人の友人に本人認証を求めることができるのだが、その3人すべてが1人のダミーアカウントだったら? 対処方法としては、ログインする端末すべての登録。登録めんどくさい......。/ゴルゴ13を一度は読まなければと思いつつ。/自衛隊がそんなに劣悪な環境で働いているなんて。原発内といい、おかしいよ。/以前に書いた宝塚歌劇の「めぐり会いは再び」の曲が、iTunesのJ-Popのアルバム部門で10位だった。今は13位。小田和正と徳永英明に挟まれてる......。ジャケット写真が浮いてるわ。このお芝居楽しかった〜。ショーも良くて、油断すると曲が頭の中で鳴っている。DVD買うかな。(hammer.mule)
< http://lifehacking.jp/2011/05/facebook-unknown-friend-hack/
>
アカウントをのっとられないために
< http://itunes.apple.com/jp/app/id284901478
>
ゴルゴ13のiPhoneアプリがあった
< http://itunes.apple.com/jp/album/id436300768
>
「めぐり会いは再び」。踊りつつなので声が揺れるね。