[3105] 「ぴあ」が存在していた39年

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《こうして日本の間違った文化がイタリアに伝わっていく》

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 「ぴあ」が存在していた39年
 十河 進

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■映画と夜と音楽と...[513]
「ぴあ」が存在していた39年

十河 進
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〈極私的エロス 恋歌1974/ゆきゆきて、神軍/全身小説家/夏子と、長いお別れ〉

●紀伊国屋のカウンターに積み上げられていた「ぴあ」

「ぴあ」が7月で休刊になった。「39年の歴史に幕を閉じた」と報じられていた。創刊は1972年7月だという。そう、そんな頃だったな、と紀伊国屋のカウンターに積み上げられていた創刊当時の「ぴあ」を僕は思い出した。たぶん、新宿テアトルで3本立てを見て、紀伊国屋に寄ったときだと思う。50円くらいだった記憶がある。いや、100円だったかな。

もちろん、僕はその「ぴあ」を買い、二幸裏のレストラン「カトレア」に入って、ロールキャベツを注文した。ロールキャベツが出てくるまで、僕は「ぴあ」という初めて見る情報誌をパラパラとめくり、ああ、これはパリにあると聞いた「コンサート・ガイド」の映画版だな、と思った。そして、そこに載っている名画座の上映作品の情報に驚喜した。

東京に住んで2年が過ぎていた。上京してすぐに名画座通いを始めた。食事を抜いて金を浮かし、映画を見た。予備校には、ほとんどいかなかった。最初に住んだのが赤羽線板橋駅の近くだったが、駅近くに名画座があった。その映画館には毎週通ったのに、3ヶ月で閉館になった。僕は「人生坐」という名前で記憶していたのだけれど、後に池袋文芸坐の鈴木支配人に会ったとき、その話をしたら「それは弁天坐でしょう」と言われた。

池袋は近かったので、文芸坐と文芸地下、日勝文化などはすぐに見付けて、毎週、プログラムをチェックした。東京の名画座に詳しかった友人が教えてくれたのは、銀座並木座、新宿テアトルだった。飯田橋の佳作座とギンレイホールは、どうしても見たい映画が掛かると足を運んだ。大塚名画座、ときには亀有名画座まで出かけたこともあった。

大学に入った年の秋、丸ノ内線の方南町に引っ越し、それ以来、新宿の映画館が中心になった。日活名画座は、もうなくなっていたと思う。新宿文化や蠍座は封切館で高かったから、オールナイト5本立てくらいにしかいかなかった。三越裏の昭和館と昭和館地下でヤクザ映画を見て、新宿テアトルで3本立てを見るのをメインにして、掛かる映画によって新宿ローヤルなどに入った。

大学がお茶の水だったので方南町から丸ノ内線で四谷に出て、国電の中央線快速に乗り換えていたから、ほとんど映画は新宿で見ることになった。中央線快速は飯田橋を通過するので、佳作座やギンレイホールからは足が遠のいた。その頃の新宿には二番館がいっぱいあって、ほとんどの映画が見られた。週末のオールナイト上映で、鈴木清順特集や日活ニューアクション特集を見ていた。

そんな頃、僕は紀伊国屋のカウンターに置かれた薄っぺらいパンフレットのような「ぴあ」を見付けたのである。欄外に載っていた「はみだしぴあ」はまだなかったはずだが、もしかしたら「ぴあ」を映画館の切符売り場で見せると割引料金になるサービスは始まっていたかもしれない。「ぴあ」購入費は、その割引でまかなえた。

「ぴあ」のビジネスモデルは先見性があった。創刊から間もなくして「ぴあ」は急成長し、対抗誌「シティーロード」が創刊された。情報誌に徹していた「ぴあ」に対して、「シティロード」は評論家たちに上映中の映画の星取り表を依頼したり、読み物を充実して差別化を図っていた。

●「ぴあ」は僕の大学の映研メンバーが立ち上げたと聞いた

「ぴあ」を立ち上げたのが、僕が通っていた大学の映画研究会の学生たちだと聞いたのは、いつ頃のことだっただろう。僕が2年だった頃に、おそらく彼らは4年生だった。「ぴあ」は学生たちが起業して成功した企業のハシリだったのだ。矢内さん、黒川さん、専務になった西村さんなどが起業メンバーだったのだろう。

僕が通っていた頃の中央大学は、お茶の水駅聖橋口を出て小川町交差点に向かって5分ほど歩いたところにあった。日販ビルの前を過ぎるとニコライ堂がある。さらに日本大学の校舎があり、それに隣接して中央大学文学部校舎のビルがあった。僕はそこに通っていたのだが、道を挟んで中庭を囲む形の本校舎があり、そこの正面の門がいわゆる「白門」だった。

東大の「赤門」に対しての「白門」だったのだと思う。その頃の中央大学のセールスポイントは、司法試験合格者数がトップだということだった。中央大学と言えば法学部法律学科であり、在学中から司法試験を目指す連中がいっぱいいた。「白門会」という団体があり、法曹界では名門だと聞いたことがある。そんな頃、僕は「法学部の後光で輝いている文学部」に通っていたのである。

第一回ぴあ展が開かれたのは、いつ頃のことだっただろうか。僕は就職して数年経っていたと思う。まだ月刊「小型映画」編集部に異動する前だった。僕は8ミリの特集誌を作っていた。「トーキー入門」「映画制作入門」「旅の8ミリ映画の作り方」「8ミリ映画監督入門」といったタイトルの本である。同時録音ができる8ミリカメラが発表になった頃だった。

隣が8ミリ専門誌「小型映画」編集部だった。そこにいた日比野さんは、後に「自主映画の母」と呼ばれるほど若い映画作家たちに肩入れしていた女性で、彼女のところにはまだ医大生だった大森一樹さんや日大生の森田芳光さんなどがきていた。日比野さんは「ぴあ」とも親しく、あるとき彼女から「ぴあ展」のチケットをもらった。「何ですか、これ?」と訊いた僕に、「きみ、映画が好きだから...」と日比野さんは答えた。

大泉の東映撮影所を借り切って開催された第一回ぴあ展は、大がかりな文化祭みたいだった。あちこちの撮影スタジオで、映画や演劇や音楽に関係するイベントが行われていた。僕は初めて入った撮影所に興奮し、所内を歩きまわったものだ。そのときに僕は評判になっていたけれど、なかなか見ることができなかった「極私的エロス 恋歌1974」(1974年)を見たのである。

当時、監督であり撮影も担当した原一夫さんは30前。ドキュメンタリーの秀作として「極私的エロス 恋歌1974」は評判になっていた。後に、原監督は奥崎謙三を追い続けたドキュメンタリー「ゆきゆきて、神軍」(1987年)が大評判になり、その7年後、晩年の井上光晴を5年かけて撮影した「全身小説家」(1994年)が高く評価された。

日比野さんは自主制作映画の世界で顔が広かったから、もしかしたら「極私的エロス 恋歌1974」などの上映に協力していたのかもしれない。同じ頃、彼女は「杳子」(1977年)をプロデュースした。ネットの「映画データベース」で調べると、初公開は1977年10月22日になっているから、その日、「ぴあシネマブティック」の上映作品として、科学技術館の地下ホールで上映されたのだ。当然、僕もその場にいた。

「ぴあシネマブティック」は、やがて「ぴあフィルムフェスティバル」へと発展する。現在は、「PFF」と言った方が通りがいいかもしれない。多くの映画作家たちを輩出してきたコンテストだ。「杳子」をプロデュースした日比野さんは、長崎俊一監督の作品も制作し、やがてPFFディレクターとして活躍することになるのだが、ぼくを「ぴあ」に引き込んだのは日比野さんだった。

●就職して「ぴあ」に出入りし始めた頃のこと

「ぴあ」が映像作品の募集を始めたのは、僕が「小型映画」編集部に異動した頃だった。「ぴあ」でフィルムフェスティバルを担当していたのが、菊池さんという女性と西村隆さんだった。自分の名前を「リュウ」と読ませ、「リュウ・アーチャー探偵事務所」を名乗っていたし、職場の本棚にはジョゼ・ジョバンニのポケミスが並んでいた。僕と趣味が同じだった。

西村さんは、大森一樹監督の学生時代からの自主映画仲間だった。大森監督が城戸賞を受賞した「オレンジロード急行」(1978年)で商業映画の世界にデビューした後、再び自主制作した「夏子と、長いお別れ」(1978年)に出演をしている。口ひげを生やした西村さんは、なかなか絵になる人だったのである。この作品の上映は文芸坐で行われ、僕は自主映画を商業映画館が上映する意図を当時の鈴木支配人に取材したことがある(先ほどの弁天坐の話はそのときに聞いたのだった)。

「ぴあフィルムフェスティバル」の作品募集に協力する形で、僕は水道橋からお茶の水に向かって線路沿いに歩き男坂と女坂の間にあった猿楽町の「ぴあ」に出入りを始めた。いつも日比野さんがいた記憶がある。日比野さんが「ぴあフィルムフェスティバル」の下審査に入っていたのではなかっただろうか。ということは、彼女はもうフリーになっていたのかな。

その頃から「ぴあ」は不夜城だった。だから、僕も徹夜でつきあったこともある。近くに「ヴェジタリアン」というレストランがあり(今でもある)、深夜にそこで酒を飲むこともあった。日比野さんがいつもカンパリソーダを頼むので、僕も付き合ったらけっこう気に入り、「ヴェジタリアン」というと赤いカンパリソーダが今でも浮かんでくる。

ある日、日比野さんに「この人、ぴあ本誌の副編集長」と紹介されたのが、盛田隆二さんだった。マッシュルームカットに口ひげだったから、印象に残った。ブルージーンズにアロハ風のプリント柄の派手なシャツを着ていた。盛田さんは、その後、小説家になり、先日も光文社の書籍広告で名前を見かけた。紹介された頃はまだ20代だったはずだが、盛田さんももう五十半ば。遠くまできたんだなあ、と月並みな感慨が浮かぶ。

●「ぴあ労働組合」公然化集会で連帯の挨拶を送った

「ぴあ」に組合ができると聞いたのは、1984年の春だった。出版労連に組織部という部署があり、そこで長く活動していた角川書店労組のKさんからの話だった。出版労連に「組合を作りたい」と相談があると、組織部から担当が張り付きになり、非公然で組合加盟者を増やし、もう大丈夫となったときに組合を公然化し、経営者に要求を突きつける。

公然化前に経営側に組合結成の動きを知られるのが、組織部が最も怖れることだった。それによって、公然化前に組織を切り崩された苦い経験が、組織部には数え切れないほどあったのだ。経営者に「組合結成の動きがある」とご注進に及ぶのは、社歴の長い社員や管理職に組合加入を勧誘したときである。だから、管理職へのオルグは、公然化直前に行うのがセオリーだった。

しかし、「ぴあ」の組合結成の動きは、比較的社歴の長い人や中間管理職を中心に起こったため、結成委員長は副部長といった肩書きが付いていたし、結成書記長を引き受けた盛田隆二さんは、その頃はムック編集長だったと記憶している。そういう人たちが中心メンバーだったので、彼らにとって部下である若いスタッフたちをオルグするのは簡単だったのかもしれない。後に組織部のKさんは「ぴあは公然化が早すぎた。もっとじっくり準備すべきだった」と悔やんだ。

当時、「ぴあチケットサービス」の立ち上げが進められていた。経営者としては、正念場だったのだ。チケットサービス事業を共同で立ち上げるはずだったセゾンと決裂し、セゾンが独自にチケットサービスを立ち上げていたので、「ぴあ」としては窮地だった。その状況が組合に幸いした。経営陣は組合ともめるより、呑める要求は呑んで速やかな新事業のスタートを望んだのである。

ぴあ労働組合の公然化は、3月に行われた。自社の労働組合委員長二期目だった僕は、なぜか連帯の挨拶をさせられることになった。当日、昼休みに「ぴあ」の社前(すでに麹町に移転していたが)に大勢の出版労連の組合員たちが集まった。僕の会社の組合員たちもほとんどが顔を見せていた。出版労連の宣伝カーが、その群衆の真ん中に駐められた。

その宣伝カーの屋根には手すりがあり、はしごで登れるようになっている。出版労連書記長が立って、ぴあの組合結成を宣告し、ぴあの初代委員長と書記長が登り、組合結成の宣言文を読み上げ、要求を羅列した。彼らが降りた後、僕はひとりで宣伝カーに登り、マイクを持ってぴあの社屋を見上げた。それから、僕は連帯の挨拶を力強い声で喋り始めた...。

後に日比野さんに会ったときに言われたことだが、そのとき、彼女は「ぴあ」の社屋の上階にいて僕が連帯の挨拶をするのを見下ろしていたという。「G社労働組合がイヤで会社を辞めたのに、こんなところまで追いかけてきたって...思ったわよ」と彼女は笑いながら言った。そのとき、日比野さんはPFFディレクターの肩書きを持っていた。

●「ぴあ」に一年間張り付きになって感じたこと

ぴあ労働組合が出版労連の家庭書共闘会議という組織に配置されたのは、ぴあの組合員たちには不評だった。「家庭書? 僕たちは大手総合書共闘じゃないの」と彼らは思ったことだろう。しかし、大手総合書の組合が獲得している労働条件とは大きな開きがあり、当面は家庭書共闘会議でもいいやと納得したのかもしれない。

自社の労働組合委員長を降りた僕は、家庭書共闘会議の事務局長という役を引き受けていた。そして、結成して数年しか経っていないのに組織問題が出始めていたぴあ労働組合を何とか鍛え直してほしいという出版労連組織部のKさんの要請を受けて、僕が一年間、ぴあ労働組合に張り付くことになった。

張り付くとはどういうことかと言うと、毎週水曜日の夜に行われる執行委員会に参加し、組合の集会に参加し、要求提出や団体交渉といった経営陣との交渉の場に立ち会うことである。ぴあ労働組合の執行委員と同じように行動するのだ。僕は、全体集会で挨拶し、その後、毎週水曜日に仕事を終えてから「ぴあ」に通った。

出版労連には地域協議会という地域割りの組織があり、麹町地域協議会からは副議長のUさんがやはり「ぴあ」の張り付きになり、毎週の執行委員会に参加した。出版労連で熱心な活動をしている人たちは原則的な考えを持つことが多く、Uさんはあまり労働組合的ではない「ぴあ」の執行委員たちに、「それは組合的なやりかたじゃない」とか、「それは組合原則に外れる」と忠告し...、その結果、ひどく嫌われてしまった。

その頃になると僕の組合経験も長くなったが、元来、出版労連に対して批判的な組合(反主流派)で育ったものだから、僕はUさんのような忠告めいた言葉は口にしなかった。その組合のことは、そこの組合員が納得する形で決めればいい、それが組合的な決定でなくてもいいと僕は思っていたし、教条的な考え方には反感を持っていたからだ。だから、自分の経験として「こっちの選択がいいんじゃないか」というアドバイスしかしなかった。

執行委員会が終わると、数人と飲みにいくことが多かった。そのとき、僕は労働組合の話はまったくせず、映画や音楽や小説の話をした。自分の得意分野である。その結果、当時の若い執行委員長に言われたのは、「ソゴーさん、労連の人じゃないみたいですね」だった。僕は自分が「労連の人」と思われていたのだと知り、ショックだった。しかし、彼らにとっては上部団体である労連の人だったのだ。

ぴあの団体交渉は夜の7時すぎから始まり、明け方まで続くことが多かった。一度など朝の8時過ぎまで続き、僕は一睡もせずに会社に出て、そのまま夕方まで働き、帰宅して倒れるようにベッドに入ったことがある。社長の矢内さんは団交には出ず、近くの別の場所にいて経営側団交団と電話連絡を取り合うのだと、ぴあの委員長に教えてもらった。組合側の団交責任者は僕だったので正面中央の席に座り、経営側団交責任者の西村専務と対峙した。

あれは、団交が休憩になって、エレベーターで地下の組合事務所に執行委員たちと一緒に降りようとしていたときのことだ。近くの部屋のドアが開いて、西村隆さんが出てきた。ひさしぶりだった僕の顔を見るとニヤリと笑い、「おう、上部団体の人じゃないか」と言った。西村さんは組合員ではなかったが、その冷やかしの言葉に僕は妙に暖かみを感じたものだった。

「ぴあ」休刊の話を聞いて思い出したのは、西村さんのことだった。もう四半世紀も昔のことだけれど、今でも、「おう、上部団体の人じゃないか」と言った西村さんの声が甦る。あれ以来、西村さんには会っていない。今も「リュウ・アーチャー探偵事務所」を名乗っているだろうか。名前が「隆」だったら(父と同じになるが)、僕も「リュウ・アーチャー探偵事務所」を名乗りたかった、と西村さんと最初に会ったときに思ったことを僕は懐かしく思い出した...。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
>

毎年、9月になると「九月になれば」という映画のタイトルだけが浮かんでくる。音楽なら単純だけど、「セプテンバー・ソング」を思い出す。日本の歌だと「誰もいない海」の最初のフレーズが甦る。いい歳をして、胸が締め付けられるような気がする。去りゆく夏...、という字面を見ただけで感傷に浸れる。便利な性格だと思う。

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■Otaku ワールドへようこそ![137]
野生の猛獣のランチになる覚悟はできていなかった

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山をナメていたわけでは決してないが、多少の楽観はあったかもしれない。そもそも遭遇する確率はそうとう低いはずだし、音さえ出して歩いていれば、向こうから避けてくれるので、鉢合わせするようなことはまずなかろう、と。

なので、大きめな動物が突然出てきて、お互いに真正面を向き合ってにらみ合いになったときは、内心、かなりビビった。釈迦は前世において、飢えた虎にわが身をどうぞと差し出して人生を終えたそうだが、私にはその覚悟はまだできていなかった。次に生まれ変わっても、ろくなもんじゃないと思う。

●生息しているのは知っていた

山歩きに関しては、ずぶの素人ってわけではない。中学時代3年間ずっと担任だった和中先生(仮名)は体育の先生で、猿と河馬を足して2で割ったような顔からサルカバと呼ばれていたのだが、大変教育熱心で、遠足がかなりハードな山歩きだったのみならず、週末には生徒から有志を募ってもっとハードな山歩きを引率してくれた。

おかげで、卒業してからも山から離れられなくなっている。中学時代に習ったことで、今も覚えていることと言ったら、山歩きぐらいだ。意外と硬派な私なんである。あ、ちなみに中高一貫の私立男子校だった。

東京都内に野生のクマが生息している、と聞けば違和感を覚えるかもしれないが、これは事実で、奥多摩に行くとツキノワグマの目撃情報が掲げられ、注意するよう書いてある。東京も西のほうはけっこう本格的な山岳地帯で、クマも出れば、遭難事故もある。

クマとの遭遇のしかたで最悪なのは、お互いに相手の存在に気づかずに接近してしまい、至近距離で出会ってぎゃっとなることである。クマは、自分が忍び寄られ、追い詰められたと思えば、相手を襲うことで防御に出る可能性が高い。音をたてながら歩くのは有効な対策とのことで、たいてい向こうから避けてくれることになっている。で、熊鈴などのグッズが売られている。

クマに出会ったとき、死んだふりはほぼ無効で、これは雷サンに対してへそを隠すのと同レベルらしい。かといって、逃げるのもあんまりいい策ではなく、逃げるものは追いかけて食っちまおうとする習性があるらしい。出会っちゃったら覚悟を決め、威嚇して追っ払う。駄目なら戦う。

8月15日(月)、山へロケハンに。人が来なくて、自然が美しいロケ地を見つけておきたい。この目的に東京都の山はあんまり向いてない気がしている。人口密度の高さは渋谷も奥多摩も大して変わらないし(←ちょっと誇張)、小さな沢沿いに道なき道を登っても、眼前にいきなり砂防ダムの巨大なコンクリート塊が現れて幻滅することがよくある。

で、いつもよく行く方面よりも、いっそう辺鄙な方面へ。単独で。道のあるところは人が通る道理なわけで、道なき道を求めて行く。硬派の血が騒ぐ。沢沿いに登っていくと、見捨てられたわさび田があり、その辺までは作業道がついているのだが、それが終わると、もう道がない。ついでに、水も流れてない。流れた形跡しかない。下の沢は、途中から湧いてきた水が集まって流れとなっているようだ。その枯れた沢の中を登る。

少し行ってみたところで、ここはロケ地に向いてないと判断し、引き返す。いや、向いてないという結論はとっくに出ていたのだが、先がどうなってるのか気になって、ついつい要らんとこまで登ってしまった。あ、クワガタだ。

岩や木にびっしりとついた苔は瑞々しく深い蒼で、厚ぼったくふかふかしている。天気は快晴で下界は猛暑でも、ここは北斜面の深いV字谷の中なのであたりは薄暗くて涼しい。倒木はいい感じに朽ちていてスカスカだ。とても幻想的な景色。まるで妖精かなんか棲んでいそうな......。これで水辺だったら完璧なロケ地になったのに。

熊鈴やラジオを携行していないので、みずから歌って存在をアピール。曲目は"Amazing Grace"。キリスト教徒でもないのに、賛美歌を歌うことで神サマのご加護にあずかれないか、と頼りにしちゃうのはずうずうしいか。いや、それ以前に、神サマを引っ張り出してクマ除けに使おうって魂胆が不謹慎か。この者には相応の試練を与えてやるべし、と思われたかどうかは知らない。

来た道と同じ、水なき沢を下りはじめてしばらくしたころ、右後ろからシャーのようなシーのような音が聞こえる。枯れていた滝から急に水が落ち始めたのかと思った。振り向くと、視界の右端に何やら動くものが。なんか、大きな動物が走ってくる。

ぼてっと丸っこい。チャウチャウかパンダかと思った。体重は自分より重そうだし、立ち上がれば自分と同じくらいの背丈はありそうだ。重そうな割には、動きは身軽だ。全体的にクリーム色というか肌色というか薄茶色というか、そんな色だ。耳は丸っこく、そこだけこげ茶っぽい濃い色だったような......。

かなり距離があるが、けっこう急な、やらわかい土の傾斜を、右後ろから私を追い越して、右前のほうへ、等高線に沿うように走っていく。さっきからのシューシュー音はこいつが発している。鼻息? これはひょっとしてもしかして、あまり会いたくない例の動物に出会ってしまったという事態だろうか。ぞぞぞ。

死んだふりや逃走は有効な作戦ではなく、ここは覚悟を決めて向き合うしかない。相手はピタッと止まり、振り返ってこっちを見てる。どうしようかと思案しているふう。わぁ、来るな。俺はランチではないぞぉ!

思わず発した声が「ワンッ!」。声が裏返ってチワワみたくなった。弱そう。だめじゃん。威嚇になっちょらん。思い直して、ドスのきいた低い声で「おいっ! どっか行け! こっち来るな!」......沈黙。「山へ帰れ!」あ、ここが山だ。闖入者は俺だ。すまん。

真正面と真正面で向き合って、にらみ合い。あんまりこいつと相撲とりたくはないぞ。はっけよぉいっ! 長い長い膠着状態の後、まるで仕切り直しみたく、向こうが身体の向きを変えた。元々向かって行こうとしていた右手奥のほうへゆっくり去って行こうとしている。ふぅ。

追い打ちをかけておこう。「マリアさまがみてる」の主題歌、Ali Projectの"Pastel Pure" を歌ってみる。いかがでしょ? 去りかけてたのに、全身でビクッとして立ち止まり、顔で振り返る。あ、ごめん、気にしないで。

ゆったりと歩き去っていく。貫禄のある後姿。ここでやっと思いついて、写真を撮った。もう遠すぎてよく判別できない。手前の草木にピントが合って、ピンぼけだし。暗いからブレてるし。なんだったのか、よくわからん。にらみ合いのときだったらもっとちゃんと撮れたかもしれないけど、そのときはそんなこと考えつく余裕なかった。

これが、その写真。
< https://picasaweb.google.com/107971446412217280378/EncounterWithAnAnimal
>
クオリティの低い写真ではあるが、ここからでもひとつ分かることがある。
うん、ニホンカモシカだ。

......と、オチがついたところで、話はガラッと変わりますが。

●地デジ波に乗って飛んでけセーラー服写真(被写体は私)

テレビ朝日の深夜番組「さきっちょ☆」のディレクタ氏からメールを頂戴したのは8月13日(土)のこと。番組で「ラーメンショップ高梨」を紹介することになり、特に、「30歳以上の人がセーラー服で来店するとラーメンが無料になる」というところをメインに取り上げたいそうで。

条件を満たして来店した一番手とのことで、ついては店に貼ってある写真を使わせてくれませんか、という相談。はいはいどうぞどうぞ♪ 写真と言わず、本人が出演するでもいいですよ〜、と言ってみたけど、そこまでは必要ないそうで。

放送時間が決まると、その情報も送ってくれた。そして、予告通り、8月30日(火)25:51〜26:21に放送された。写真とは言え、アップで映されると、ヒゲの三つ編みとかリボンとか、はっきり分かりますな。ゲストの人がすげー驚いてるし。コメンテーターさんよ「60代と思しき男性」って、実際は48歳なんですけど。まあ、ツイッターでもよく60代とか70代とか落ち武者とか仙人とかダンブルドア校長とかつぶやかれてるんで、そうみえること自体は無理な脚色ってわけでもないか。

ツイッター内検索をかけてみると「前、デザフェスで一緒に写真撮った」というのが1件、「妖怪横町で参加してた人だ」というのが1件。わ! 有名人でも何でもない私を、デザフェスとテレビと両方で見ちゃったっていう偶然もなかなかだけど、2度目に見たとき1度目と即座にマッチングできちゃうほどのテンプレート焼きつきっぷりも相当か。番組自体、すげー好評じゃん。「見苦しかった」のような感想はひとつもなく。もし次に出してもらえるなら、ゴールデンタイムでひとつよろしく♪

8月28日(日)には寺嶋真里さんと行ってきた。寺嶋さんは映像作家で、最新作『アリスが落ちた穴の中 Dark Marchen Show!! 』の豪華版DVDボックスは売れ行き好調のよう。小さな手品師ことマメ山田さんと、人形作家清水真理さん制作の人形が二人一役で主役のアリスを演じる。DVDボックスの装丁はミルキィ・イソベ氏が手がけており、自由に遊べるようにいろんな大きさや形のカード類がいっぱい詰まっていて、ロマンチックな仕上がりになっている。

新宿駅南口で待合せたとき、すでにセーラー服を着ていた。待合せ場所が広すぎたせいか、お互いに離れて立ったまま相手に気づかず10分ぐらい待ってしまったという間抜けな事態。あの人混みでみずからを晒していた。孔子は四十にして迷わずの境地に達したようだが、この五十近いおじさんとおばさんは迷いに迷ってセーラー服のペアルックだ。新宿から山手線、品川で京急に乗り換え、鶴見市場へ。

店は京急鶴見市場駅から徒歩5分ほどの国道沿いにある。掘っ立て小屋のような店構え、店名すら掲げてなく、そもそも店名はない。おっちゃんが高梨さんというので、通称「ラーメンショップ高梨」と呼ばれているだけだ。駅名になってる市場なんてどこにも見当たらないが、店のおっちゃんによると、その昔、申し訳程度の小さな市場があったそうだ。

カウンターに6席。水のコップは酒のワンカップの空き瓶。そこらへんで拾ってきたものだという。メニューは紙にマジックで手書き。歩道ではバケツで稲を育てていて、穂がついている。段ボール箱の中に木彫りの大黒様がいらっしゃる。以前は寸胴鍋の中にいらっしゃった。どっかでタダ同然で買ってきたもので、「いないよりはマシでしょ」っていうけど、このぞんざいな扱いはかえってバチ当たりなんでは?

ラーメン一杯450円。安い! 他に「卵入500」と「コーン650」などがあるが、普通のラーメンでもそうとうボリュームあって、誰も他のを頼むのを見たことがない。迷っているとおっちゃんから「ラーメンでいいね」と機先を制されてしまうし。で、これが意外と言っては失礼だが、実に美味いのだ。満席のときも多い、人気店なのだ。

店のおっちゃんは69歳。店は丸々36年プラス数日になるという。年中無休。たまに不定期で休む。ラーメン屋の前はたこ焼き屋だったそうで。味はいろいろ変遷があって、今の形に落ち着いたという。寸胴鍋をすくって、ダシの元を見せてくれた。あ、それって普通は企業秘密でも極秘の部類なんでは? ふふーん、なるほど。

歩道に面したガラス戸には「30歳以上セーラ服で来店ラーメ(大)只」(原文ママ)と書いた紙が貼ってあり、横に一番手の人の写真がガムテープで貼り付けてある。この企画は4月ごろから掲げていたが、最初の2ヶ月近くは乗ってくる人が誰もいなかったそうである。

その頃を振り返ると、6月3日(金)にRocketNews24でこの店が紹介された。
< http://bit.ly/mT52q3
>
それを人形作家の美少女さんという男性が見つけてくれて、ツイッターで私に「行ってくれば?」と。こういう挑戦は、男らしく受けて立ちたい。店に電話すると、おっちゃん、めちゃめちゃ感じいい。セーラー服で行きたい旨を告げると「非常にいいことです」と歓迎の意を表してくれた。チャレンジした者はまだいないという。

6月11日(土)に行ってきた。一番乗り成功。雨だったが、11:00amごろ行ったら満席で、外で待つ。お客さんたちからも大いに面白がられ、写真撮影を求めてくる人もいた。その後も入れ替わり立ち替わり、満席状態が続いた。

私にとって、家からセーラー服を着て出かけるのは初めてだし、それで電車に乗るのも初めてだったので、そうとうドキドキした。けど、何も起きないことが分かり、その後はどんどん大胆に。今では、たいていのところには行ける。駅前の交番の前を歩いたときは、外に警官が2人立っていて、目でずーっと追っているが、職務質問してくるでなし、通り過ぎてから後ろでゲタゲタ笑ってるし。以前のアパートの精算に不動産屋へ行くと、「そういう人がいるのは聞いてたけど、あなたでしたか!」と大笑いされるし。う、ご近所でうわさになってる?

翌週、18日(土)にも、また行く。最初のときに撮った写真を店に置きに。店の30mぐらい手前で、通行人のおじさんに話しかけられる。「何その格好」。「すぐそこのラーメン屋で、タダになるってもんで」。「あー、書いてあった、そう言えば。あんたも変わってるけど、あの店のオヤジも変わってるよねー」。え? ふつうかと思ってましたが? 同じ波長をもった人たちを自然に集めちゃう店なのかも。

店に着くと、一番右の席で、セーラー服着た人がうつむき加減でラーメン食べてる。隣が空席なので、私はそこへ。30代前半くらいの男性だ。おかっぱっぽい髪形で、やや長髪。白の夏服、えんじ色のスカーフ、紺の短いスカート、紺のハイソックス、黒のローファ。完璧だ。顔がけっこうかわいいのがうらやましい。イケてる男の娘。

私の左隣りのご婦人は「え? ホントの女子高生なのかと思ってた」って。この方が二番手。千葉から車を運転してきたのだそう。この店のことはネットで知ったそうで、私の写真も見たという。女装歴は長く、コスプレイベントとかには行かないけど、街に出没したり、通学の女子高生の集団に紛れ込んで一緒に歩いたりして遊んでるそうだ。

食べ終わって席を立ったとき、左隣りのご婦人が、「スカート短くて見えそうじゃない」と。そしたら、本人がみずから、ピラッと大サービス。純白、レース入り。すごいかわいい。いや、まぶしすぎます。

同じ日に三番手も現れていたことを翌日知った。てしこさん。放送作家なのだそうで。ツイッターでコンタクトをとってきてくれた。私は写真しか店に残してこなかったのに、よくぞ見つけて下さいました。その写真をブログで使わせてくれませんか、と。どうぞどうぞ♪ 30歳以上でセーラー服着るのって、男性よりも女性のほうが敷居が高いと思う。男性だと変態でも悪ふざけでも分かりやすく、自分に対する言い訳が容易に成り立つ。女性だと意味不明。かえって不審度が高いというか。

てしこさんのブログ、その辺の葛藤が非常によく描写されてて、めっちゃ笑える。店の近くのコンビニのトイレで着替えてはみたものの、清純な女子高生というよりは、なんだかエロっぽい感じになって、出ていく勇気がないと友人に泣き言メールとか。
< http://ameblo.jp/jyoshi-kosuplay/entry-10927793041.html
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テレ朝のディレクタ氏はこのブログをまず発見したようで、てしこさんを通じて私にコンタクトがあった。店に電話してみると、セーラー服来店者は10人になっているという。けど、女性はまだてしこさんだけ。ぜひまた来てくださいというので、それじゃあ、と。寺嶋さん、女性二番手になるのはいかがですか?どういうわけかセーラー服持ってるし。

という経緯で8月28日(日)である。寺嶋さんは、ここのラーメンの美味さに大感激していた。しょうゆ系のスープは濃すぎず薄すぎず、ダシは豚骨と魚介の絶妙なバランス、太麺がスープによく絡み合い、おいしい、おいしい、を連発していた。

このとき寺嶋さんの頭の中で、電球がぱっと点った。そうだ、アリスとラーメンのコラボだっ! いやはやなんともアサッテシアサッテなコンビネーション。30歳以上でセーラー服着て来店すると、ラーメンがタダで食べられちゃう上に、寺嶋さんの企画のことを告げれば、なんと! 豪華版DVDをプレゼント! ただし先着一名様に限ります。詳しくはこちら。
< http://rose-alice-milky.net/
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今すぐセーラー服に着替えて鶴見へゴー! 電車を降りてライバルの姿が見えたら全力疾走すべし。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ(←アイデンティティ拡散)。

YouTubeに上げられている "Bear Climbs Tree Stand" と題された動画、これは本物の恐怖。撮影者はやぐらのような高みから森を見下ろしているのだが、真っ黒い熊がのそのそやってきて、自分に向かってハシゴをゆっくりゆっくり登ってくるのである。自分のつま先まであと3段まで迫る。ドスの効いた低い声で "Hey! What are you doing there? What are you doing there?" と言うと、熊は思いなおして、一段一段降りていき、去っていく。このときの恐怖には一生つきまとわれるんじゃないかな?
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今年もコミケに時期を合わせて、友、イタリアより来たるあり。また楽しからずや。でも、今回はBiancaさん一人だけ。他の人たちは、放射能にビビったとか、円高で無理だとか。Biancaさんはイタリア東岸の漁業の町Porto San Giorgio 在住だが、4月に人形作家の清水真理さん、寺嶋真里さん、私でBresciaの展示に行ったとき、夜行列車で駆けつけてくれた。8月10日(水)、寺嶋さんと私とで中野にて迎える。共にセーラー服で。こうして日本の間違った文化がイタリアに伝わっていく。Biancaさんは、次回来るときは学ラン着てくるぞって。

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■編集後記(9/2)

・意味がよくわからない、そして不愉快な宝島社の新聞見開き広告。マッカーサーのあの有名な写真に、「いい国つくろう、何度でも。」というコピー。なんと6つの新聞に掲載された。いつも意表をついた派手な広告で業界内では評価が高いが、金満の宝島社がいい気なもんだといつも思う。広告意図は「敗戦や災害など、これまで幾度となく苦境に直面してきた日本。(略)『いい国作ろう、何度でも。』この投げかけを通じて、日本人が本来持っている力を呼び覚ましてみたいと考えました。」とあるが、なぜ9月2日なんだ。なぜマッカーサーなんだ。元帥がパイプをくわえて厚木に下りたのは1945年8月28日である。9月2日は降伏文書調印の日だ。日本の国柄壊滅の始まりの日だ。アメリカにとって「都合の『いい国』作り」着手の日だ。嗚呼、この写真の使用は神経を逆撫でする。この広告意図なら、3.11被災地の写真を用いてもっと早いタイミングで掲載されるべきだったと思うが、居座り無能首相のいる間はこのコピーは使えなかったものな。まあ、あざとい宝島社がそういうまともな広告は出さないだろう。どじょう内閣の発足の日だからエールのつもりなのか。いろいろ深読みさせられる広告だ。ところで、どじょうは危険を察知すると泥にもぐって姿を隠そうとする。なんか期待できそうにないイメージの内閣である。(柴田)
< http://tkj.jp/company/ad/2011/#ad_area03
> 宝島社広告

・「はみだしぴあ」が一番好きだった〜。関東版のぴあがあることを知り、その分厚さに、うちひしがれた覚えがある。/「ぱふ」もしばらく休刊。活動再開の際には〜とあるので、本当の休刊なのかも。/てしこさんのブログ面白い。「大黒様 イン 寸胴!!」/おらはデザインに時間がかかるだ。調査やら何やらをし、方向性が決まるまでに時間がかかりすぎる。以前やったのとは違う(本人比)のがやりたいとかってのもある。アイデアがふくらみ、めっちゃいいものになるぞ〜とワクワクする。迷いが出てくる。お客さんの好きなデザインじゃないかも、とか、受け狙いってはずしたらキツいよなぁ、とか、コンセプトを理解してもらえないかも、とか。そしてそのアイデアを実現するのには、途方もない時間がかかることを作業しながら感じ、締め切りのため、あちこち削り結局ミニマムに。短納期のものでもクオリティ下げずに仕上げる人は本当に偉い! いや、反省すべきは自分だ。作業に時間をとるべきなのだ。そうなのだ。ペース配分が大事なのだ。アイデアを形にするのは、本当に難しいのだ。これを形にできる人が凄い人なのだ。バカボンのパパは41歳なのだ。サザエさんは24歳なのだ。銭形警部は29歳なのだ。(hammer.mule)
< http://www.zassosha.co.jp/
>  ぱふ