Otaku ワールドへようこそ![149]ルネサンスの予感
── GrowHair ──

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定価2,200円の本を8,400円で買った。オンラインの書店で検索をかけるとどこもかしこも売り切れで、唯一あったのがアマゾンの中古。で、この値段。さすがに約4倍はひどい。迷ったけど、どうしても読みたかったので購入した。

その本とは、フランス・ヨハンソン(著)幾島幸子(翻訳)『メディチ・インパクト(Harvard business school press)』ランダムハウス講談社 (2005/11/26)。副題に「世界を変える発明・創造性イノベーションは、ここから生まれる!」とある。

転売で価格高騰と言えば、3月16日(金)をもって廃止になる特急日本海の特急券+寝台券などはさぞかしと思い、ヤフオクをのぞいてみると...。定価の2倍程度でやっと入札があるくらいで、それ以上高いのは誰も入札していない。大したことないではないか。もしかすると高騰のピークを過ぎてたのかもしれないけど。




●転売で商売するのは迷惑か

ぬをー、こんにゃろー、やりあがったなー、という思いは確かにある。けどそれは、うまい商売しやがってー、という「してやられた感」であって、なんか迷惑をこうむったという感覚ではない。その値段が法外だと思うなら、買わないことにするという選択肢はこっち側にあるわけだし。誰も買わなければ商売は不成功なわけだし。

実際、別のケースで買わなかったこともある。ボークスから個数限定でローゼンメイデンの真紅のスーパードルフィーが出たとき、非常に欲しかったけど、抽選で外れて入手できなかった。定価は10万円程度だったと思う。ヤフオクへ行って見てみると、24万円になっていた。さすがに手が出ない。けど、その値段でも買うって人はいたのかもしれない。いただろうなぁ。

はたして転売は悪なのか。東京都の「迷惑防止条例」にはそれを禁ずる条項が確かにある。けど、法律で禁じられてるから悪なのではなく、悪だからそれを禁じる法律を作るのであって、いま聞いているのは、その根拠である。法律があるから、では論理が逆で、答えになっていない。読む限り、迷惑っぽいのは、うろついたり人につきまとったりする点にあるみたいだけど、それは転売行為に付随する現象であって、転売行為そのものが悪であるということではないしなぁ。結局答えは法律には書いていない。

話はちょっとズレるけど、法律のことになったついでに言うと、軽犯罪法と迷惑防止条例は、意図を変えずに文章を書き直したほうがいいのではないかと思う。強盗や殺人みたいに悪であるのが言わなくても明らかなのはいいとして、建造物侵入罪みたいなやつは、保護法益まで条文に書いておくべきだ。

つまり、この手の法律は「かくかくしかじかの行為をしてはならない」と言うだけではなく「誰々が何々の被害を被らないよう保護する目的であって」と断り書きをつけておいてほしいのだ。そうでないと、実際に被害を被った者がいなくても、その行為をしたことをもって逮捕されかねない。何も悪いことをしていなくても、法律を文言通りに適用するだけで恣意的にほいほい逮捕できちゃうというのはまずい気がする。別件逮捕と疑わしいケースが実際あるし。

それと、文章がひどい。いかにも悪いことっぽく聞こえる言葉を選択しているけど、ニュートラルなニュアンスの言葉との意味の違いが分からない。たとえば「ひそんでいた」というのは単に「いた」のとどう違うのか。堂々といればいいのか。「うろついた」とは「往来した」とどう違うのか。結局被害が何であるのか、分からないのだ。「こじき」もちゃんと定義した上で、保護法益を明らかにしてほしいなぁ。ネットで乞食ができる「金くれ」というサイト、なかなかいいと思うぞぉ。

まあそれは置いといて。転売行為はなぜいけないのだろう。被害者はもともとの売り手だろうか。本来は売り手の懐に入るべき利益を転売者が横取りしたからいけない、とか。需要と供給のバランスするポイントで価格が決まるという自由競争の原理に立てば、もともとの売り手が価格設定をもっと高めても売れていた、ってことである。けど、列車の切符やコンサートの入場料は需要に応じてむやみに値段を上げるわけにもいかないだろう。

先ほどの本の例のように、べらぼうに値段が高くても買うって人がごく少数しかいないとしたら、最初っから価格設定を高めておいては売れ行きがひどいことになり、かえって損するであろう。だから、そのごく少数の層を狙った転売屋はうまくやったと言える。けど、もともとの売り手がそれをもって損をするわけではないので、被害と言いうるかどうか。

転売屋から買った側はどうかというと、買わないという選択肢があるという状況下において納得ずくで買うのであるから、被害にあったとは言えないような気がする。買いたいけど高くて買えなかった人だろうか。けど、それは需要と供給の均衡点で値段が決まった結果高くなったのだとしたら、あきらめるより仕方がないように思う。

買占めにより、値段がつり上がった場合はどうだろう。本来よりも高く買わざるをえなかったことをもって被害とするか。それなら、悪いのは転売ではなくて、買占めだよなぁ。ダフ屋は別に買占めてはいないしなぁ。

何の価値も付加していないのに差額で儲けるってとこが商業道徳にもとるとか。それなら土地だって絵画だって、投機目的のものはみんなそうだしなぁ。価値を付加しなくても、未来を予測したことをもって、外れた場合に失うリスクと引き換えに、当たった場合は収入を得る、それ自体はアリだよなぁ。寝かしとく時間が短いとダメなのかなぁ。

私が買った本に関してはどうかというと、転売者に対して多少複雑な気持ちを抱くものの、迷惑をこうむったという認識はまったくない。まぁ、本の転売に関しては誰も悪だとは言ってないか。

それよりも、この本、なんでそんなに欲しくなったんだっけ。

●読む前から面白いと確信があった

常々私が抱いている疑問と関係があるのだ。今の日本社会の特徴として、「システム化」と「情報流通のセグメンテーション化」があると思う。今までに何回か述べてきたので、定義等はこのへんを参照していただくことにして。
< https://bn.dgcr.com/archives/20110916140100.html
>

この流れ自体は悪いとは言えず、むしろ、社会を円滑に効率よく運営し、問題の生起を低減する指向にしたがって改善を重ねていけば、そうなっていくのは必然であろう。情報をハンドリングするテクノロジーが社会の安定的運営にうまく活用されている。

だから、この流れを逆転させ、昔に回帰しようと提言したいわけではない。昔はよかったと年寄りっぽいノスタルジーに浸りたいわけではないのだ。何かを得れば何かを失うのは必然。惜しいにしても、相対的には重要度が低いとみられて捨てられるなら、それはそれでいい。

社会のありかたとしては、便利で安全なほうがいいに決まっている。テクノロジーが役立つなら大いに活用すればいい。けど、人間のありかたとしは、どうだったらいいのだろう。そこがあんまり問われないまま、社会システムがどんどん高度化していっている、そこがちょっと不安なのである。

人間はどうあるべきか。これはむずかしい。科学がどんなに発達して、宇宙の謎がひとつひとつ解けていったとしても、根源的な問いに対しては、答えのだいぶん手前までしかたどり着けないような気がする。われわれがなぜ存在するか、という問いに確たる答えが得られれば、そこからの論理的帰結として、どうあるべきかの答えに至るような気もするが。その問いはいっそう根源的だ。

山に登って、しかる後に降りてくるのであれば、それは無駄であり、最初っから登らなければよかったのではないか、というのは理屈としてはいちおう筋が通っている。それをつきつめれば、われわれは生まれて、生きて、しかる後に死ぬのであるから、それ全体は無駄かいな、ってことに。存在という概念を認識する主体がいなくなったら、存在という概念そのものもなくなってしまうのか。そもそも宇宙がハナっから存在していなければ、悩まなくて済む。「宇宙が存在する」とはただの認識にすぎないのであって、実際には存在しないのかもしれない。

19世紀のイギリスの哲学者・経済学者であるジョン・スチュアート・ミルは著書『功利主義』で「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い」と述べている。感じとしては、その通りかな、とも思うが、本当にそうかどうか、解き明かされてはいないのだ。

で、なんとなく、人のありかたとしては、幸せになることを目指せばいいんじゃね? みたいなところが、当たり障りのない共通認識っぽくなってる感じがするけど、それってミルの言葉と反対なんじゃないの? とか思うわけだ。

21世紀の人類さんよ、痩せた豚とか、不満足な愚者とか、そういったもんになってないかい?

社会がシステム化していくという方向性そのものは、まあいいと思う。社会があれば事件や事故は起きる。それほどひどいものではなくても、混乱、不便、非効率、無駄、不快、混雑、困窮、不公平、けんか、いさかい、ののしりあいなど、よく起きる。

起きたら、それに応じて個別に解決を図らなきゃならないのは、まあ仕方ないにしても、それだけで終わってしまっては進歩がなく、同じ問題が同じ頻度で起き続ける。その点、システマティックに解決しようという方向性はすばらしい。問題の根本的なところに対処を施し、起きないか、せめて起きづらくなるような仕組みを考え、それを実現して、運用し、社会全体に浸透させよう、と。問題の生起そのものを根本的になんとかできる。

ただ、システムがあまりにすばらしすぎて、結果として、人間がシステムの下位に位置づけられるようになっていくとなると、どうだろう。人とはシステムに従属する交換可能な部品であり、仕事とはマニュアルにしたがってシステムを回していくだけのルーチンワークである、ってなことになっては、ちょっと、と思う。

なんとなく、そんなふうになってきてないかい? システムが一番偉いなら、機械みたいなやつがその次に偉い。システムに従属することを嬉々として受け入れ、きちっとマニュアルにしたがってルーチンワークをこなし、ミスが少なく、仕事の効率がよい。なんか適応しちゃってて、創造性を発揮する場がどこにもなくても、あんまり苦になってなかったりして。

そういう社会のあり方にうまく適応できなくて、創造意欲満々な人とか、自分探しに彷徨してる人とか、下の下ってことになっちゃいますわな。その中間に、疑問に感じつつもしぶしぶルーチンワークをこなして日々をやり過ごしている大多数のしょぼい人々がいる、ってことになるのかな?

それプラス、例外的に、創造的な営みが、ちゃんと仕事になっている人。システムを構築する人は、システムよりも上位であって、神様みたいに偉い。で、神様とシステムと適応者まではいいとして、それ以下の衆生な人々は煮え切らない思いにくすぶってたりするわけで。ぷすぷすぷすぷす。

だいたいアレだ、細部まで目が届いてものごとをきちっとこなしてる人間がゆるゆるな人間を馬鹿にしてるけどよぉ、機械みたく生きてることがそんなに偉いんかいっ。創造的に生きようなんてちょっとでも考えると、まるで悪いことした罰みたく、自分の位置が下がっていくんだよなぁ。創造的な指向が商業主義と結びついて成功してるやつはいいけどよぉ、商売にならないアートやってたりすると、ただシステム回してるだけの下っ端メンタリティのやつらからでさえ、さらに下にみられるんだよなぁ。「使えないやつ」みたいな烙印を押された日にゃ、いつリストラの憂き目にあうかもしれないから、結局疑問をみずから打ち消して、デキる人のお芝居を演じ続けなくてはならんのだなぁ。ぷすぷすぷすぷす。

システムカースト。上位から、1.システムを構築する神様 2.システムそれ自体 3.システムを回して嬉々としている適応者 4.そのフリをしている不満足な大多数 5.アーティストあるいは社会脱落者。もう革命っきゃないんじゃないかと。

別にシステムを破壊してしまえというんではなく、それはそれとして回していくのはいい。ただ、人間が下位に置かれなくたっていいんじゃないかと。機械っぽく生きるのではなく人間っぽく生きることがもうちょっと肯定されるような意識の転換があってもいいかな、と。人間は人間らしく、文化や芸術を愛し、形而上的な思索に耽り、あるいは自然を愛(め)で、祭りに興じ、生きる喜びをもっと謳歌すればいいんじゃないかと。で、ルネサンスなんではないかと。人間回復。

そんな思いがあって、いま、オレ的には、ルネサンスがどういうふうにして起きたのかに興味がわいてきている。そんなこと言ってるけど、高校時代、世界史は万年赤点だった。かくかくしかじかの時代でした、なんてここで講釈を述べたら、ぜーったいにボロが出るに決まっている。

今は、基礎の基礎から知識を獲得し、とりあえずは高校生レベルぐらいには追いつきたいかな、と。で、分かりやすそうなものをぼちぼち読み始めているわけで。阪急コミュニケーションズの雑誌『pen』のNo.305で「ルネサンスとは何か」の特集が組まれていて、大いに勉強になった。

この手のものを探していて、行きあたったのが件の『メディチ・インパクト』というわけである。ハーバード大学ビジネススクールの教科書ってとこが、また、いい。ぜーったいに面白いに決まっている。

以前に会社の研修でビジネス英語の講座を受けたとき、この本ではないが、ハーバードビジネススクールの教科書を使った。起業家が実際に直面した困難な状況の事例集という形式で、読む分量が多くて大変ではあった。それを通じて英語が上達したかどうかは、どっちでもいいことで、起業家精神というものを学ぶことができたのが大きな収穫だった。ビジネスというとドライなイメージがあったけど、意外とクリエイティブで面白いじゃん。独創的なアイデアが、困難を切り抜ける鍵となる。

『メディチ・インパクト』にも類似の香りを感じ、ぜひ読まなきゃと思ったわけである。

●独創的なアイデアは異質な文化の交差点から生まれる

この本には、ルネサンスがなぜ起きたかについては、実は何も書いてなかった。そのことは、本の始めのほうで断っている。あれれ? 考えてみりゃ歴史書じゃなくてビジネス書だもんね。だが、ルネサンスのエッセンスが書いてあった。

銀行の経営で財をなしたメディチ家は、幅広い分野の文化人や芸術家を保護した。おかげで、フィレンツェには彫刻家や画家、詩人、哲学者、科学者、金融業者、建築家など、多種多様な人々が集結した。彼らは互いを隔てる文化や学問の障壁を取り払って交流し、互いに学びあった。そこから斬新なアイデアが次々に生まれ、ルネサンスを花開かせた。

ルネサンスについて書いているのは、およそこのくらい。著者の考えの中核をなす概念を「メディチ効果」と名付けた由来がそこにあるという。異なる分野や学問、文化が交差する場では、既存の概念をさまざまに組み合わせて新しい非凡なアイデアを数多く生み出すことができる。この本では、ルネサンスにたとえうる成功事例をさまざまな方面から挙げて、メディチ効果の引き出し方を説いている。

「異なる分野の交差点ではアイデアが爆発的に生まれる」。多くの事例から、その通りだと検証できるだけではなく、実践的な教訓がたくさん得られる。政治や経営にも創造性は必要であり、固定観念を打破する斬新なアイデアが困難から救い出し、成功をもたらす。

今までの進歩の方向性に沿った改良・改善は方向的イノベーションといい、誰もが予測しうる。今までなかった斬新な領域の開拓は交差的イノベーションといい、他の追随を許さない独壇場をもたらしてくれる。交差的イノベーションを起こすようなアイデアを得るにはどうしたらいいか。その方法論にまで落とし込んでいる。

アイデアの出し方にとどまらず、形にする方法論まで教えてくれている。分野の交差点において、アイデアはたくさん湧いてくる。アイデア出しの段階では質より量が大事。だけど、それを実行に移すとき、アイデアが多い分、失敗が多いのも必然。失敗をどう捉えるか。多くのヒットを生み出した人をみると、実は空振りも多かったりする。失敗しないための方法論が成功へと導いたわけではないことがよく分かる。

この本は、いかなる分野であれ、革新的なアイデアを得て、それを実現することで成功を収めたいと思う人に向けて書かれたものであり、その論の骨子は、「画期的なアイデアは異なる分野や文化が出会う交差点で生まれる」というものである。それはなぜかを説明し、どうすればよいかを指南する。科学、建築、音楽など、広い分野から成功事例を引き、共通点を抽出することで、非常に面白い数々の教訓が得られる。その本筋の論をもって、本書は良書であると絶賛して終わってもよいのだが、実は私が一番衝撃を受けたのは、その手前のところである。

現代社会の特徴として、交差点が増加しているというのである。ルネサンス以降は学問が細分化し、世界はより小さく特殊な区画に分断されていったという。ところが、今日、進むところまで進んだ分断化は反対方向に転じつつあり、その影響はあらゆる分野にみてとれる、というのである。異分野間の結びつきが増大している世界的傾向の裏付けとして、別の文献を引用し、「今日では、政治、文化、科学技術、金融、国家安全保障、エコロジーといった分野を隔てていた従来の境界がかつてないほど消えつつある」と述べている。

これは、私の感覚と真っ向から対立する。私は、情報のセグメンテーション化がますます進む傾向にあり、あらゆるジャンルがどんどん蛸ツボ化しているように感じていた。けど、それって日本での話。もしかして、これもガラパゴス化? ケータイの仕様が日本だけで独自の進化を遂げ、世界の向いてるほうとは別のほうへ行っちゃった、それくらいなら別にいい。けど、世界の意識が、革新的なアイデアを生み出しやすい方向へ向いているのに、日本だけ、ますます内にこもり、異質な考え方が接触しあうのを嫌い、区画化による平穏を指向しているのだとしたら......。

まあ、船全体が沈んでいきますわな。日本、沈没。そういえば、日本は世界から「新興衰退国」とか揶揄されておりますな。

先ほど、人間回復のためには、システムを破壊までする必要はないと述べた。けど、情報流通のセグメンテーション化のほうは、なんとかすべきなのではないか。情報流通の壁は破壊したほうがよいのではないか。

この壁は、誰か権力者が強制力をもって立てたものではなく、人々の知恵から自然にできてきたものであるから、むやみやたらと壊しては不都合や危険が生じる恐れはある。韓国が好きな人と嫌いな人とで議論を戦わせてもポジティブな成果を生み出しそうな感じは微塵もせず、エネルギーの浪費と不快な後味に終わるであろう。それよりも、同じ考えの者どうしだけでコミュニケーションをとり、自分の側が常識と優越の側、相手の側が非常識と劣等の側というラベル付けをお互いにやっていれば、平和でよい。

京都の洛外に魑魅魍魎が跋扈していたように、壁の外には魔物やら変態やらがうじゃうじゃいるかもしれない。やたら出て行くのは危険である。えてしてその考えは妄想に近く、実際ありがちなのはその逆である。壁の外へ出てみたら、能力が優れた人や考えが卓抜な人がいっぱいいて、がーんと打ちのめされ、自分が今までいかに井の中の蛙であったを思い知らされる。ダメじゃん、オレ。よく知らない外の世界をテキトーに嘲笑してたころのほうが、楽だったなぁ。

そういう痛みは、確かにある。けど、全体が沈むよりはマシだと思えば、壊す方向性を目指してみるのがいいのではないかなぁ、なんて思うわけである。それに、優れた者と出会ってがーんと打ちのめされるのって、慣れてくるとけっこう快感になったりするもんですよ。

そういうわけで、『メディチ・インパクト』はたくさんのことを学ぶことができ、たくさんのことを想起させてくれる本であった。読み終わった後でも買った値段を後悔しない。得たものの大きさ、受けた衝撃、自分の内部への浸透波及を考えれば、そうとう得した気さえする。超オススメと言いたいところだけど、入手困難です。私の読み古しでよければ、どなたか33,600円で買いません?

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。

去年の3月、ドイツからメールが来た。今から日本に行くからね、と。典型的な観光地はどうでもいいから、アングラでダークなとこ、教えて、と。こういう英文を書いてよこす人は、きっと刺青してるに違いないと思えば案の定。オリヴィア。新大久保の韓国料理屋でサンナクチ(蛸の踊り食い)を一緒に食べた。東京に滞在中の金曜日、地震に遭い、予定を一日早めて土曜にそそくさと帰っていった。一年ぶりにメールすると返事が来て、元気だった。東京、なつかしい、また行きたい、と。

イタリアのビアンカは夏コミに時期を合わせて毎年日本にやってくる。去年は、私がセーラー服を着て、あちこちご案内した。そしたら最近メールが来て、今年の夏用に学ランを注文したからね、と。何かにつけ、対抗意識を燃やしたがる人なんである。今年の夏はセーラー服着たおっさんと学ラン着たイタリア人女性が連れ立って東京を歩くことになるのか。去年でさえ、2ちゃんでスレが立ち、小田急線で見ただの新宿で見ただの書かれてたというのに。楽しみだ。

3月11日(日)は、アイドルの卵たちによる練習ライブが三田であった。3回目ともなると、余裕が感じられる。危なげなく見ていられる。余計な緊張が取れてきたのは慣れのおかげもあるけど、厳しい練習をくぐり抜けて実力をつけてきたという自信の裏打ちもあるようで。私は例によってセーラー服姿で激写。1,800枚撮った。

それまでも一か月以上にわたって、毎週日曜に下北沢の音楽スタジオへ行って彼女らを撮っていた。で、実にいいのが撮れている。権利関係うんぬんがあって、公開できないのがもどかしい。もし出版したら木村伊兵衛写真賞ぐらい取れちゃうんじゃないかしら。過去の例に負けず劣らず面白く撮れてると思うんだけどなぁ。

裏切って、勝手に出版しちゃおっかなぁ。「0 + 0 i。複素平面において実軸と虚軸の交差する点。リアル女子中高生をニセ女子高生が撮る」みたいな感じで。斬新じゃないかな? って、冗談ですよん。

次回ライブは4月1日(日)、西川口Heartsにて。時間は未定。
ここをチェックしていただけると。
< http://www.ness2000.com/event.html
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