Otaku ワールドへようこそ![154]河川敷にみる社会の原形 VS. システム社会の苦悩
── GrowHair ──

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●河原の生活は社会の原型なのかも

広大な河川敷をもつ入間川にかかる長い橋。その下に住んでるおじさん、谷川鰤氏(仮名)。たんぽぽは美味いと主張していたけれど、実際のところどうなのだろう。まあそれは来年にでも試しに食してみることにして。

どうも河川敷の暮らしというのがまだピンと来ない。生活していく上で何が欠乏しているのかは、見れば分かる。電気は来てない。夜は真っ暗。水や食料の調達はけっこうな手間。生活保護は受けられない。いろいろ大変そうだ。

なのに、竹やぶの脇の車の中で暮らしている上田友浩氏(仮名)も、橋の下の谷川氏も、福祉のお世話になってアパート暮らしするよりも、こっちがいいと言っていた。いやむしろアパート暮らしなんてまっぴらごめんだ、ぐらいの調子で。欠乏するものを補って余りある何かがそこにはあるのだろうか。そこがどうにも分からない。

デザフェス出展用に人形撮影するのに、お二人のお住まいを使わせてもらっているので、こんなのが撮れましたというご報告も兼ねて、5/26(土)に再び行ってきた。この日は私一人で。姿はセーラー服。話をよくよく聞いてみれば、不便なんてもんじゃない実態が分かってきた。だめじゃん。無理じゃん。成り立ってねーじゃん。

まずは谷川さんちへ。この前は今にも降り出しそうな曇天だったが、この日は好天で、少し暑いくらい。着いたのは午後3時ごろ、傾きかけた赤っぽい日差しに照り出された谷川さんちもまた美しい。いたいた。会うのは2度目。前回は清水真理さんの人形の撮影で、いきなり行って、場所を使わせてくださいとお願いしたのであった。私のセーラー服姿をこの日に初めて見て「いい格好してるねぇ」とにやにや。

谷川さんは、近所の人にも本名を言っていない。栃木県の土呂部(どろぶ)出身。日光の奥のほうで、極寒の地のようである。若いころ出て以来、ぜんぜん戻ってないそうだけど。この前聞いたときは、そのへんで拾ってきたものを売って暮らしていると言っていたけど、その収入では、たまにラーメンを食うぐらいにしかならないらしい。何かの製作の作業場で、人手が足りなくなったときに臨時の労働力として呼んでもらえるのが主な収入源なんだそうで、最近ちっとも来てくれないと心配していた。




さて、この日は先客がいた。農業のノウハウを伝授しているとこから、畑をやっている人だとすぐに分かった。前回はK原氏と書いたが、草原耕作氏(仮名)としておこう。草原氏は、農家に生まれ育っているそうで、農業の知識が豊富だ。しかも面倒見がとてもいい。発泡スチロールの四角い容器を使って、ニラのミニ菜園をこしらえて、谷川さんちに置いてあげている。そして、幅の広い葉っぱが出るようにするためのノウハウを伝授しているのである。

私は草原さんと会うのは初めてだが、勝手知ったる谷川さんちのどこか奥のほうから、釣りなどで使う布張りの小さな折りたたみ椅子を引っ張り出してきて勧めてくれた。さらに水筒のキャップをコップにして熱いコーヒーをなみなみと注いでくれた。厳しい生活を営んでいる人から私なんぞが施しを受けるのは天罰が下りそうだが、人からの厚意はありがたく受けることにしている。薄くてコーヒーの香りがぜんぜんせず、やたらと甘ったるかった。

橋の下の暮らしに力尽きて死んだ人がいたと聞いていたので、そこをさらに聞いてみた。すると、実は3人いたそうである。谷川氏はここへ来てからまだ3年なのに。発見されたとき死後2か月経っていたという人は、水辺側のお隣りさんで、車の中に住んでいたという。運悪いことに、「2か月ばかり出稼ぎに行ってくる」と言っていたので、ご近所の人たちはてっきり行ったものかと思って「なかなか帰ってこないねぇ」なんて言い合っていたそうである。

谷川さんと同じ区画に一緒に暮らしていた人はまた別なのだそう。「次は俺の番かもなぁ」。えーっ、死ぬのは畳の上よりもこっちのほうがいいってことですかい? この橋は塗り替える予定があるとかで立ち退きを迫られていて、谷川さんが最後の一人だ。この前、生まれたばかりでまだ見ていなかったという子猫たち、母猫が高齢出産のせいかお乳が出なくて、どうも絶望的らしい。

次に、車の上田さんちへ。上田さんちの前にも草原さんの手になるミニ菜園ができていて、小さなナスが実っている。こっちの子猫たちはすくすくと育っていて、元気に跳ね回っている。まだ用心するということを知らず、構っても逃げないのだが、向こうから見張っている母猫が低く「うー」とうなり声を立てて威嚇してくる。「噛まれるぞ」と上田さん。

橋の下とは別に、倉庫みたいなところでも死んだ人がいたと聞いていた。その人は、犬をたくさん飼っていた。近くを通ると、犬がわらわら寄ってきて恐かったそうだ。近所づきあいしていなかった。その人が死んだ後には別の人が引っ越してきて暮らしているそうである。その人も近所づきあいしない。なんだか不気味だと言っていた。

探してみると、草むらの向こうにコンテナだかトラックだかがあるのは分かる。けど、そこへ行く道が見当たらない。このあたりにはマムシが生息しているのが分かっているので、草ぼうぼうのところに足を踏み入れる気はしない。

その人とは別に、車の中に暮らしている人がいるが、やはり近所づきあいしないそうだ。あいさつしに行っても返事もしないし、窓を開けもしない。「近所づきあいしない人は、だめなんじゃないかなぁ」と上田さん。「だめ」とは「人として程度が低い」ではなく「先がない」のニュアンス。

ここの暮らし、不便なんてレベルじゃない。生存確率が決定的に低いのだ。頑健で、生まれてこの方病気したこともなく、ここでの暮らしが13年続いているという上田さんが例外的なのかもしれない。もともと貯蓄が600万円あって、車は自分のものだというのも恵まれた条件に違いない。しかも几帳面な性格で、きれい好きなのだ。

ここに、社会というものの原形を見る思いである。生存確率のあまり高くない環境下では、単独で生活してすべてを自力でまかなおうとするのは得策ではない。どうにも立ち行かなくなったら行き詰って終わってしまう。けど、集団で支えあって暮らしていれば、個人個人には好調不調の波があっても、互いに補いあうことで、種としては安定維持しやすくなる。

つまり、原始社会の最も基本的な機能とは、互いに助け合うことにより「種としての生存確率を上昇させること」にあるのではあるまいかと思う。群をなすだけだったら魚や鳥だってなすけれど、助け合ってるってとこがポイント。河原の原始社会が発展していけば、いつかは独立国家になっていくのかもしれない。けど、今はまだ、その社会の内部を統制する法律もなければ政治体制もなく、経済原理もない。

公平・平等という概念を唱える人もいない。互いに助け合うといいながら、ギブとテイクのバランスは、大きく崩れている。草原さんだけが、多大なる貢献をしている。けど、草原さんは、自分だけがいろいろしてあげているのに、みんなは何もしてくれない、などという不満を言ったりしない。あたりまえのように、人々の面倒を見てまわっている。もし、提供した価値と引き換えに代価が支払われる貨幣経済が回っていれば、草原さんは財をなしていたかもしれない。けど、実際には、貢献は無報酬である

このコミュニティにもし政治体制ができて、リーダーを立てることになったら、ふさわしいのは草原さんだと誰もが認めるはずだ。けど、実際には、リーダーという立場の者はいない。その点、社会の組織化の発達段階としては猿以下と言えるのかもしれない。

ここにあるのは、互いの存在を価値あるものとして認め合う、肯定的な空気。生存確率が高くないからこそ、まず生き抜くということに最優先の重きが置かれる。それも、競争を勝ち抜いて自分だけがサバイバルを果たそうという原理ではなく、互いに助け合うことで種としての生存確率を上げていこうという原理に基づく。

生存の基盤が安定してくると、次の段階として、公平・平等の原理が言われるようになってきたり、法律ができてきたり、政治体制ができてきたり、宗教が芽生えたり、他の部族と戦争を起こしたりするようになるのかもしれない。

低い生存確率という決定的なデメリットを補って余りあるものがもしここにあるとしたら、私の勝手な思い込みかもしれないけど、お互いがお互いの存在に無限大の価値を認める「承認」なのではあるまいか。他人からの承認が確保されているがゆえに、自己の存在価値をも自己肯定することができる。

現代の日本の社会は、長い歴史を経て発展してきただけあって、非常によくできている。生存確率が高い上に、個人の自由も最大限に尊重されている。せせこましい社会規範にしたがうことを強要して創造性や個性を許さない「世間」という名の怪物は、ほぼ絶滅させられている。全体の利益のために個は自己の利益や快楽の追求を慎み、ひたすら奉仕せよ、とはもはやあまり言われない。

アダム・スミスは、『国富論』(1776年)の中で、「神の見えざる手」という考え方を示している。利己心による自由競争は、法律などで抑制する必要はなく、なるに任せておけば、「生産と消費」は過不足のない状態へと自動的に導かれるはずだ、と唱えている。今の社会は、この経済原理が社会原理にまで拡張されたような状態であって、個のわがままが最大限に許容されて、しかもなお、高い生存確率が保たれているという、たいへんめでたい社会である。

なのに自殺がやけに多いという、この皮肉というか矛盾というか。日本の自殺者数は平成10年以来13年連続で3万人を超えている。社会は、全体の円滑な運営が損なわれることなく、個人の自由を最大限に尊重するという折り合いをつけながら、いい方向へ、いい方向へと発展を遂げてきたはずであるのに、その流れの中で、人は大事なものを失っていっているのであろうか。

それに、歴史的にも地域的にもまれにみるくらい生存確率の高い安定社会を築き上げているという点においては理想に近い形であるにもかかわらず、人々の間に不平不満が多いというのも皮肉な感じがする。それも、鉄道の運行が完璧になされていないとか、店の接客態度が気に入らないとか、自分よりもラクして生きてるやつがどっかにいるとか、テレビに韓国人がよく映るとか、そんなことで。

動物園に「ヒト」という檻を設けておけば面白かろうと思う。檻の中には数人の「ヒト」が入っていて、だらしなくくつろいでいるのである。見物する人はさぞかしイヤ〜な気分になることであろう。実践してみた動物園はあるようだ。いろんなタイプのヒトの檻をずらっと並べてみるのも面白いかもしれない。いっそのこと動物をやめてヒト園にしちゃうとかね。

マズローの欲求5階層説というのがある。生存にかかわる下位レベルの欲求が満たされると、社会帰属の欲求や名声・金銭・権力獲得の欲求といった上位レベルの欲求が芽生え、最上位には自己実現の欲求がある。この説にしたがえば、今の社会のようにある程度の安定性が確保された状態においては、人々の欲求はもっと創造的な方へと向いてしかるべきである。ところが、どうも実際にはそうはなってなくて、ごく少数のアーティストを除けば、たいがいはだらしなくくつろいでいたり、つまらないものに依存症のようにハマったりしている。

社会からの束縛が緩み、個人の自由が尊重されるのは嬉しいことには違いないのだが、それに伴って自尊心のレベルが高まっていくかと言えば、どうも別物のようである。現代の「システム社会」においては、結局、人間の位置付けはシステムに隷属し、システムを円滑に回すだけの代替可能な部品のようなものになり下がっているのではあるまいか。マルクスが唱えたのと同じ形ではないにせよ「人間疎外」が起きている。

そこでシステム社会そのものへの反省が起きるかといえば、そうはならず、システム社会で生じた問題は、システムをますます補修・強化することで解決を図ろうとする自己回帰のメカニズムが働く。恋愛の自由化はありがたいことだが、それによって実際には晩婚化、少子化が起きている。ならば「婚活ビジネス」で解決を図ろう、みたいな調子。システムそのものが巨大な一個の生物みたい。自律化し、絶賛肥大化中。

システム社会によって人々の自尊心がぼろぼろになっているのだとしたら、これから流行るのは「自尊心回復ビジネス」なのではなかろうか。私の個人的な感覚では、キャバクラやガールズバーなんて、何がいいのかちっとも分からない。雑談なんて基本的にタダですべきもんじゃんか、そんなのにもったいつけて金とるなよ、と思う。けど、そんなところに世の中の需要があるとしたら、それは一種の「自尊心回復ビジネス」なんじゃないかと思う。

現代社会は「監視社会」とも呼ばれる。人が人に興味をもつのは、こそこそズルしていないか監視することへと動機が行っていて、人々が互いに優れた部分を尊重しあった上で、深い相互理解へと向かっていきましょう、という動機が希薄になっていっているように感じる。ここでも自尊心はダメージを受けているようである。

『戦争を知らない子供たち』という歌があったけど、考えてみると、『戦争を知らない子供たち』を知らない子供たちは、生まれつきずーっと安定した社会に生きてきているわけだ。安全で便利なのが当たり前という前提で、細かぁいことが気になって不平不満が絶えないという構図なんじゃろかいなぁ。一度でも河原の生活みたいなのを体験すると「あっ」と気がつくこともあったりするんじゃないかなぁ、なんて。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。

ぜんぜん違うことを書こうと思ってたんだけど。話のマクラのつもりで書き始めたことが暴走して、もともと書こうと思ってたことにはかすりもしなかったよ。あはは...。

前々から「あるなぁ」と横目で見つつなかなか入る機会のなかった中野のメイドバー「Chez Alices」に先日、やっと行けた。靴を脱いで上がるところといい、カウンター席の後ろを通るにも体を横にしないとならない狭さといい、アットホームな感じ。人との距離が近いのだ。

オタクって、一般人に対してはちょっと身構えるけど、仲間と分かるといきなり垣根がなくなっちゃうようなとこがある。隣のにーちゃんと意気投合しちゃって、メイドさんから「いつも一緒に飲み歩いているんですか?」と聞かれるほど。「いやいや、今ここで会ったばっかですけど」。

カウンターの向こうの液晶パネルにアニメ『モーレツ宇宙海賊』(通称「モーパイ」)が映されている。これのオープニングとエンディングの主題歌を「ももいろクローバーZ」が歌っているのだが、隣のにーちゃん、ももクロの大ふぁんなのだ。それはもう熱く熱く、語る語る語る...。ケバヤシ的に抽象的に要約すれば、システム社会にうんざりした人々が人類愛を唱え始めるひとつのムーブメントなのかなぁ、と。

ごく最近になって、「ももクロ」の名を耳にすることが急激に増えたように感じる。人気、急上昇中なのか? 紅白に出そうな勢いとか? その前から、ライブのチケットの入手しづらさは相当なもんだったようで。もともと7千円のチケットがヤフオクで10倍とか。

そんなに見るのが困難なら、ちょっとフランスまで行って来ようかな〜、という気になり始めているケバヤシ。7月5日(木)〜8日(日)にパリで "Japan Expo" というイベントが開かれ、ももクロのステージがあるのだ。「ももクロ」といい「きゃりーぱみゅぱみゅ」といい、いいとこ選んで呼んでるよねー。日本文化のとんがってるトコ、っちゅうか。

しかも、4日間通しのチケットがたったの40Euroで、そのチケットだけでライブが全部見れちゃう。本当だろうかと思い、"Japan Expo" に質問を投げたらメールで返事が来たので、間違いない。すっげーお得じゃん!

ハム速にやられた。
< http://hamusoku.com/archives/7143617.html
>

ハム速って2ちゃんのまとめ(だった)サイトのひとつなんだけど、見てる人けっこう多いみたい。感覚的には、このおっさんの存在を知る人が一気に増えた感じ。

軽く説明しておきますと...。出歩いているときに、見知らぬ人にいつの間にか撮影されて、ネットにアップされるなんて、よくあることで、ぜんぜん気にしてなかった。なので、6月2日(土)に池袋を歩いてたときの写真がツイッターにアップされていたのも、私にとっては別にいつものことじゃん、って感じ。撮られたのは例によって気づいていなかった。あるいは、その瞬間には「撮られたかな?」と思ったとしても、気にしてないもんだから、そのまま忘れてる。

投稿者は「おがさわら(@ogamai_0182)」だが、このアカウントはすでに消滅している。「池袋で、JKに遭遇なうwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwまじワロスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」というツイートで、写真が貼られている。

そのツイートが2ちゃんねらーの人に発見されて、そっちへ転載された。それがさらにハム速に取り上げられた。2ちゃんは投稿量が多いし、面白くないスレや発言がいっぱいあるのでとても読んでられないけど、その中から面白いのだけピックアップして再編集したまとめサイトは見に行くって人、けっこう多いみたい。

まとめサイトの記事を参照したツイートがたくさん上がった。1分間に60件ほど上がったときもあって、ありゃ、ずいぶん情報拡散しているみたいだなぁ、と思ったわけである。ネットの面白いとこだが、本人が自分から晒して「ほーらこんなことしちゃった、見て見て〜」みたいなのはほぼ黙殺され、拡散しない。「おめーの自己宣伝のお手伝いなんかしてやるもんか」という反発がはたらくのかもしれない。一方、本人と無関係の人が「こんなやつ見かけたぜ。マジキチ」みたいに晒すのはよく広まる。

私としては「よくもやりあがったなー」でもなければ「宣伝してくれてありがとう」でもなく、「こっちは好き勝手やってるだけなんで、見て騒ぐ騒がないは、ご自由にどうぞ〜」ぐらいの立ち位置。いや、正直なところ、2ちゃんに自分のスレが立つっていうのを一度経験してみたいなぁ、とは思ってたんで「わーい、達成♪」という気持ちもないではないが。実際に起きてみると、特にどうということもない。ネットでちょっと騒ぎが起きたからって、表へ出ればいつもと何も変わらず、平和は日常は続いていくのでありました。

ところで、まとめサイトに対して本家の2ちゃんがブチキレて、作為的な編集でトラブルを招いたのに謝罪もしない悪質指定5サイトに対して引用禁止宣言を出した。これを受けて、ハム速を含む5サイトは、2ちゃんのまとめ機能を停止している。

よそのサイトへの投稿を勝手に引っ張ってきて、アフィリエイトで稼ぐという「ビジネスモデル」に対する反発の声もあったけど、多くの人が見に行っているということは「ピックアップして編集する」という行為が付加価値を生んでいることの証左であるから、自分は何もせず、他人の労力を利用してラクして稼いでいる、というのとはちょっと違うと思うけどなぁ。けど、元記事の投稿者には一銭も入んないんじゃ、まあ、不満の声も上がるというものか。