[3321] あんた、プライドないの?

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《ジェニファー・ローレンスに惚れる》

■映画と夜と音楽と... 556
 あんた、プライドないの?
 十河 進

■エンドユーザー大変記[31]
 時には邪魔なプライド
 ジョニー・タカ

■ところのほんとのところ[83]
 ふたつの屋上から見る夏の雲
 所幸則 Tokoro Yukinori




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■映画と夜と音楽と... 556
あんた、プライドないの?

十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20120831140300.html
>
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〈バタアシ金魚/プライドと偏見/誇り高き男/ウィンターズ・ボーン/酔っぱらった馬の時間〉

●プライドは自分が納得するかどうかが重要なやっかいな自意識

何の映画かは忘れたが、「あんた、プライドないの?」と主人公がヒロインに責められるシーンがあった。「バタアシ金魚」(1990年)だったかな。ヒロインに「あんたは女のくさった奴のケツふく紙よ」とまで罵られて、ヘラヘラしている主人公はプライドのかけらもなかった。もっとも、このセリフは一般的なもので、多くの映画で使われている。現実の生活の中でも、「あんた、プライドないの?」と言われることはあるだろう。

プライド...、やっかいな自意識だと思う。自分が納得するかどうかが重要なのである。僕も、プライド、自尊心、誇りといった実態のないものにこだわって生きてきた人間だ。「みっともない真似はできないな。卑しい真似はできないな」と自らを律してきたつもりだが、未練がましい性格だから他人から見ると、「あいつ、みっともないな。プライドないの?」と思われているかもしれない。

プライド、自尊心、誇り...、似たようなものだが、こうやって並べてみると、何となくそれぞれニュアンスが違う。「あんた、自尊心ないの?」あるいは「あんた、誇り持ってないの?」と言われるのと、「あんた、プライドないの?」とは微妙に何かが異なる。「プライド」という言葉自体が日本語化しているためか、何だか一番軽く響くような気がする。

英和辞典で「PRIDE」を引いてみると、「誇り、自尊心、プライド、満足感」という意味が出ていた。その他には「高慢、尊大、自惚れ」という意味もあるらしい。ジェイン・オースティンの古典作品は「高慢と偏見/PRIDE & PREJUDICE」だが、キーラ・ナイトレイ主演で映画化されたときは「プライドと偏見」(2005年)というタイトルで公開された。

プライドには、その他に「自慢の種、誇りとするもの」といった意味もあるようだ。昔、西部劇が全盛だった頃に公開されたロバート・ライアン主演の「誇り高き男」(1956年)の原題は、「THE PROUD ONE」だった。「PROUD」は形容詞で「誇りとする、自尊心のある、尊大な」といった意味だから、「誇り高き男」はまさに正しい邦題だったわけだ。「誇り高き男」はテーマ曲がヒットして、昔はラジオなどでよくかかっていた。

極端なことを言えば、冒険小説やハードボイルド小説などは様々な物語のパターンがあるけれど、結局、主人公がプライド、自尊心、誇りをどう保つかを描いているのではないか。その典型的な物語が、ディック・フランシスの「利腕」である。主人公は、競馬界の調査員シッド・ハレー。彼は騎手だったときの事故で左腕を失った、片腕の主人公である。

シッド・ハレーは競馬界の不正を調査していて犯人に迫るが、逆に拉致され馬小屋に連れ込まれる。そこに不正を働く馬主が現れ、シッド・ハレーの残った右腕に猟銃の銃口を当てて「手を引け」と脅迫する。不屈の男シッド・ハレーも残った利腕を失う恐怖に耐えられず、脅しに屈する。彼はパリに身を潜め、その馬主が重賞レースで不正を行うのを止められない。だが、シッド・ハレーは気付くのだ。

──自分の体にどんなことが起きようと、たとえ自分ではなにもできない不具になることすら、耐えられるかもしれない。自分が永遠に対応できない、耐えられないこと......ようやく、鮮明に理解できた......それは自己蔑視である。

彼は、脅迫に屈した己を許せないのだ。彼から誇りを奪い、自尊心を失わせ、プライドをズタズタに引き裂いた相手を追い詰めていく。脅迫に屈し、尻尾を巻いて逃げた自分を蔑んだまま生きていくくらいなら、利腕を猟銃で吹っ飛ばされる方がマシ、と彼は決意するのだ。プライドの復活、自尊心の再生である。誇りを取り戻すために、彼は命をかける。

そんな男たちの専売特許のような冒険物語だが、17歳の少女が主演の映画を見たとき、僕は「利腕」や「高い砦」を読んだのと同じ気分になった。ヒロインを演じたジェニファー・ローレンスには惚れた。昨年のアカデミー賞では最優秀主演女優賞はナタリー・ポートマンに決まったが、ジェニファー・ローレンスはその映画で主演女優賞受賞者のひとりとなった。撮影時は19歳か20歳、見事な若手女優の出現である。

●冬に備えて薪を割り、洗濯し、干し、ひとりで家事を切りまわす

アメリカ中西部ミズーリの山岳地帯。カントリー・アンド・ウェスタンの曲が似合う、プアホワイトたちの見本のような山村だ。荒れ果てた地に建つ粗末な木造家屋にひとりの少女が家族と棲んでいる。長い金髪、厚手の着古したハーフコートを身に着け、すり切れたジーンズに古びたブーツを履いている。彼女はリー、12歳の弟と6歳の妹のために朝食を作る。冷蔵庫をあさりタッパーの中身を匂い、「ないよりマシ」と言いながら妹に犬の餌を渡す。

冬に備えて薪を割り、洗濯し、干し、ひとりで家事を切りまわす。母親は何も言わず、ぼんやりと椅子に座ったままだ。その母親の髪を、リーはブラッシングする。気持ちよさそうな母親をリーは無表情だが愛情にあふれて見下ろす。また、リーは弟と妹と並んで山道を歩く。単語の綴りを教えたり、足し算の問題を出しながら歩いていく。学校へ送っているのだが、貧しくて車がなく歩くしかないのだ。

帰宅したリーは、隣家の妻が馬たちに干し草をやっているところへ自分の家の馬を連れていく。「今、うちにお金がないの」と淡々と口にする。隣家の妻が「干し草は高くて...」と答えると、「もう四日も餌をやっていないの。この子をもらってくれない」と言う。その言い方には、卑屈なところは微塵もない。だが、後ろ髪を引かれるように、可愛がっていた馬を振り返る。悲しみが漂う。

隣家の夫婦が鹿の皮を剥ぎ肉をさばいているのを、リーと弟のソニーが見ている。「肉を分けてくれるかな?」とソニーが言うと、リーは「たぶんね」と答えるが、「ねだってみたら」とソニーが言ったとき、手でソニーの顎を持ち上げ言い聞かせるように「卑しい真似はしないの」と諭す。彼女は母親であり、父親でもある。一家の主であり、自分が家族を守らねばならないと覚悟しているのだ。家族への強い愛情がにじみ出す。

「卑しい真似はしないの」と17歳のリーが弟に諭した瞬間、僕はヒロインに惚れた。この覚悟、この潔さ、このプライド...、何て男らしい(?)少女なんだと惚れ込んだ。以前にも何度か書いたが、僕は「誇り高く、強いヒロイン」が好きなのだ。増村保造が描き出す精神的に強いヒロインたち、あるいは「エイリアン2」(1986年)のリプリーのように、文字通り強いヒロインが大好きなのだ。

こびない、へつらわない、乞わない...、どんなにみじめで悲惨な状況でも誇り高く生きていたい。かなわぬまでも、現実の生活では貫き通せなくても、僕はそう願って生きてきた。そんな生き方の見本が、スクリーンの中にあった。リーは食べ物がなく、飼い犬や馬にろくに餌が与えられなくても、決して誇りをなくさない。プライドを棄てない。卑しい真似はしないのだ。

「ウィンターズ・ボーン」(2010年)のリー・ドリーを取り巻く状況は過酷だ。父親は、覚醒剤の密造で逮捕され保釈で出たものの行方不明である。母親は過酷な現実から逃避して精神を病んでいる。その薬代もけっこうかかっている。幼い妹とまだ12歳の弟を抱え、一家を守っていかなければならない。食べ物はない。車もない。可愛がっている馬に与える餌もない。

ある日、保安官がやってくる。金を積んで保釈になった父親が行方をくらませている。翌週に開かれる裁判に出席しなかったら保釈金は没収され、担保になっている土地と家屋は取り上げられる。そうなったら、一家は出ていかなければならない。棲むところを追われるのだ。リーは保安官に「私が探し出す」と宣言する。そのクールな言い方に、僕はまた惚れてしまった。

●リーにとっては家族を守ることが何より大切なのである

「酔っぱらった馬の時間」(2000年)は、イランとイラクの国境付近に暮らすクルド人の家族の物語だった。次男で12歳の少年は、重い病気の長兄の治療費を稼ぎ、幼い弟妹たちを養うために密輸の集団に加わる。彼が過酷な苦役に耐えるのは、自分が家長として家族を守らなければならないという強い気持ちがあるからだ。彼にとって、家族を守るのは何より大切なことなのである。

同じようにリーにとっては、家族を守ることが最優先事項なのだ。「弟も妹もまだ自分で食べていけない。家を奪われたら私に何ができるの」と、リーは父親の行方を知っていながら隠し通そうとする人間たちに向かって言い放つ。彼女が父親を捜すのは、父親への愛からではない。父親を捜し出さなければ、家族を守れないからだ。そこには何のセンチメンタリズムも存在しない。一片の感傷もない。乾いた、過酷な状況だけがある。

ハードボイルドといえば、これほどハードボイルドな映画も珍しい。情感を盛りあげる感傷など、どこを探してもない(人物たちの奥深い内面にはあるが、それが表面に現れることはない)。描写は乾き、暴力は突然に始まる。荒れ果てた貧しい場所で、貧しいプアホワイトたちが蠢くように生きている。過酷な現実から逃げるためか、男たちはクスリに走り、酒やタバコに溺れる。法を犯して生きている。

そんな大人たちを見ながら、リーは己を確立し、クスリもやらず、まともに生きていこうとしている。肩肘張っているわけではない。彼女のプライドが、周囲の大人たちのような生き方を許さないのだ。貧しさから逃れるために、彼女は軍隊に入ろうとするが年齢制限で引っかかる。彼女は、困難に立ち向かう。逃げない。試練を受け入れ、克服しようとする。誇り高く、プライドを持って...。

山村に暮らす人間たちは、何らかの血縁関係があるらしい。昔から周辺に暮らし、密造酒を造ったりして彼らのコミュニティを作ってきたのだろう。今では、覚醒剤を密造している。リーの父親もずっと覚醒剤を造ってきたのだが、逮捕され10年の懲役を怖れ口を割る。保釈で出た後、裏切り者として仲間たちに殺されたのかもしれない。リーは密告した父親を恥じるが、死んでいるのなら死んだ証拠を探さなければならない。父親の死を悲しむ余裕など、彼女にはない。

そんな彼女も、少女らしい面を見せることがある。父親が裁判に出なかったため、土地と家を奪われるのが確実になり、やってきた伯父(父親の兄)に「先に森を売れ。100年超えた木を切れ」と言われた後、父親の洋服やブーツ、バンジョーを見て涙を流す。母親を外に連れ出し「ママ、私はどうすればいいの?」と口にする。何も反応しない母親にだけは、自分の涙を見せるのだ。

リーは、たったひとりで過酷な現実と対決する。車もなく、ただひたすら山村を歩きまわる。だが、彼女が父親の行方を尋ねて歩きまわることで、波紋が広がってゆく。何かを知っているらしい伯父は「父親を捜すな」と言うが、リーは「家族は自分が守らなければならない」という思いを背負い、命の危険さえ感じながら高い壁のような現実と対峙する。

──殺せば...
──その案は、もう出てる。他には。
──じゃあ、助ければ。この案は誰も出してない?

父親の犯罪仲間に暴行され折れた歯を吐き出し傷だらけになりながら、自分を取り囲んで見下ろす男や女たちにリーはそう言い放つ。命を奪われるかもしれない状況で彼女は命乞いをせず、自分の言い分をきちんと口にする。堂々と主張する。誇りを失うことなく、プライドを棄てることなく、自尊心を保つ。

●困難な状況に陥りながら誇り高く闘う姿は美しい

ひとりの人間が、絶望的に困難な状況に陥りながら誇り高く闘う姿は美しい。彼あるいは彼女が困難を克服しようしているのは、自分のためではない。家族や、恋人や、ときには人類全体のためだったりする。すべては、愛する人のために試練を乗り越える努力をする。懸命に試みる。最大限の力を出そうとする。それは、多くの物語で描かれてきたことだ。

父を捜すことが、いつの間にか父が死んだ証拠(骨)を捜すという残酷きわまりないことになっても、リーはあきらめない。弟や妹と一緒に暮らすために、母親を守り抜くために、父が死んだことを証明しなければならないからだ。彼女は頑固で、信念を曲げず、それでいて可憐で、けなげである。その一途な思いと行動に惚れない観客がいようか。

そう、リーの一途さは、彼女の行動を迷惑がっていた人間たちの心さえ溶かすのだ。だが、それが故にリーには、さらなる試練が待っていた。その最大の試練のシーンで僕は息を呑んだ。こんな無惨なシチュエーションを考え出す人間がいたのかと驚き、心を震わせながらリーの表情を凝視した。むごすぎる、と僕はつぶやいた。その先の行動は予測できなかった。ただ、首を振り、「あり得ない」と口を衝いて言葉が出た。

その試練を乗り越えたリーに、ようやく救いがやってくる。しかし、それはあまりにささやかな救いではないか。17歳の少女の地獄巡りの果てに示される救済は、そんなものなのかと落胆しながらも、彼女はこの先何があっても家族を守り続け、生き抜いていくだろうという確信が僕に生まれた。ときに幼ささえうかがわせるジェニファー・ローレンスの顔が、美しい輝きを放っていた。

それは、姿形の美しさ以上に、彼女がリーという少女の誇り高い生き方を演じきったために生まれた輝きだ。リーという少女とジェニファー・ローレンスが重なる。過酷で悲惨な世界(人間の世界そのものかもしれない)の中で、クスリや違法な行為に流れることなく己を律し、視線を高く上げ、自分が信じ愛するもののために自らの命を省みず、誇り高く突き進む人間を見たくなったとき...、僕はきっとこの映画を何度も見返すだろう。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
>

8月も終わり、9月がやってくる。僕の会社は9月から新しい期になるので、何となくリフレッシュする。今年は3人の新入社員が予定されていて楽しみだ。新しい人は未知だから、何らかの期待をしてしまうのだろう。プレッシャーをかけるつもりはないのだけれど...

●長編ミステリ三作の配信開始→Appストア「グリフォン書店」
→以下でPC版が出ました。楽天コボ版、キンドル版も予定しています
< http://forkn.jp/book/3701/
> 黄色い玩具の鳥
< http://forkn.jp/book/3702/
> 愚者の夜・賢者の朝
< http://forkn.jp/book/3707
> 太陽が溶けてゆく海
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「映画がなければ生きていけない1999-2002」2,000円+税(水曜社)
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■エンドユーザー大変記[31]
時には邪魔なプライド

ジョニー・タカ
< https://bn.dgcr.com/archives/20120831140200.html
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夏休み最後の日、皆様いかがお過ごしでしょうか。私はというと、プライベートに関する事柄で色々大変だったり、真夏の暑い日に青山と渋谷をスーツで駆けずり回って軽い熱中症になったり、かなり大変な夏でした。毎年、去年より暑さが厳しくなっているのを感じます。

その中で、アップルとサムスンの泥沼化した特許訴訟で、アップルの地元カリフォルニアでアップルに軍配が上がりました。

◆アップル対サムスンの今後--アップル有利な評決が示すもの(Cnet Japan)
< http://japan.cnet.com/news/commentary/35020959/
>

最終的には、アップルはサムスン含めグーグルも粉砕したいという野望も見え隠れしますが、そうなると今度はアップルがマイクロソフトと同じように独占禁止法の槍玉に挙げる可能性があります。

(参考)wikipedia-マイクロソフトの4.独占問題
< http://goo.gl/R349P
>(URLを短縮しています)

12月6日の販売差し止め審問が鍵になるかもしれません。サムスンはそれまでに該当するGalaxy SIIをGalaxy SIIIに入れ替えたいでしょう。そうすれば、取るリスクは回収リスクのみになるでしょう。

◆アップルとサムスン、販売差し止めと評決無効について12月6日に審問
(Cnet Japan)
< http://japan.cnet.com/news/business/35021073/
>

日本でも、例えばドコモが「影響はない」と言い切るのには、こういう側面もあるかもしれません。あくまでも、この後の東京地裁での判決次第でしょうが。

◆「選べるを、さらに」でユーザーニーズに応える──ドコモ秋モデルの狙い
(ITmedia Mobile)
< http://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1208/28/news109.html
>

遠目から見てる身としては「いい加減にしろ」という心境です。結局、最終的には双方のプライドを賭けた訴訟になったイメージですが、結末が見えない故、一体どうなるかを超えて呆れています。

ゆくゆくは消費者に何も利益を齎さないどころか、損をさせればあまり意味のないことになり、変な意味で見たら「プライドって、時に邪魔だよなぁ」と思うことがあります。結末は一体どうなるのでしょうか...少なくとも、長期間になるのは覚悟の上で推移を見守りたいですね。

【ジョニー・タカ】johnnytaka32(a)gmail.com

1976年、横浜・関内で生まれ、上州と越後の風を受けて育ち、来世でもFUNKを踊り続けるフリーランサー。ヴァーチャル・キャラクターに曲を付けて選曲を展開する"コンピレーション"を1998年から行っている。2012年はようやく発売されたPSPソフト『フォトカノ』のコンピレーションを展開中(と言っても勝手にやってるだけです。それを続けて14年目)。PS3でも『THE IDOLM@STER2』が発売されたので、そちらの選曲作業も始めてます。
< http://music.ap.teacup.com/cafedejohnny/
>

(日常ブログ)< http://ameblo.jp/johnnytaka/
>
(ツイッター)< http://www.twitter.com/johnnytaka1962/
>

○「夏休みの宿題は追い込みタイプでしょ?」とよく言われる。高校まではそうだった。だけど大学に入ると勝手が違うため、仕事もあるので先行逃げ切りタイプになった。そりゃそうだ。穴埋めのプリントなぞない。殆どレポートだったもんなぁ...。

○「できる社員」であることが仇となるかもしれない...!?
(ライフハッカー日本版)
< http://www.lifehacker.jp/2012/08/120823being-great-at-your-job.html
>

これまで色々な仕事に従事して、私だけではなく、周りの割と"出来る"人間もそうなのだが、やはり会社を結果的に追われたり、自発的に辞める人ほどそうなる割合が高いように感じた。

なので、日本では「出る杭は打たれる」という言があるが、むしろ「出る杭は引っこ抜かれて叩き割られて燃やされる」だと思った。これが2000年代半ばに感じていたこと。その結果、人材流出が顕著になってしまい、韓国や中国にシェアを奪われているのは考え過ぎかな?

○日本の音楽が世界中でどれだけ聴かれているかを調べてみた
< http://fuyu-showgun.net/2012/08/cool-j/
> (出典元:GIGAZINE)

Last.fmのscrobbleアプリはPCだと異常に重いのは、なかなか改善されず結局放置状態。でも、「好きな音楽は?」って聴かれて「Last.fm見てくれ」とはなかなか言えないよなぁ...。mixiいた時はmixiミュージックがあったのだが、結局サービスを止めてしまったため、それがmixi辞めた要因の一つでもあった。そしてなかなか最適なSNSも見つからない。

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■ところのほんとのところ[83]
ふたつの屋上から見る夏の雲

所幸則 Tokoro Yukinori
< https://bn.dgcr.com/archives/20120831140100.html
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[ところ]はこの数か月間、渋谷と香川の高松を行ったり来たりして落ち着かない。引越しを二か所に分散したから仕方がないが、ようするに前回書いたときから状況はあまり変わっていない。渋谷の代官山寄りにあったアトリエから渋谷の原宿寄りへと引っ越し、そして高松にも拠点を作るべく引越し。

高松への引っ越しは、両親が随分歳をとってきたのでそばに住もう、というのが大きな理由である。一人息子なのに高校卒業して以来、近くで住んだことがまったくなかった。他にもいろんな理由が複雑に絡み合っているのだが、ここでは書いても仕方ない。

高松に通うようになって、すごく実感したことがある。子供の頃よりずいぶん気温が上がったように思う。こんなに暑い街だったか? 子供の頃はエアコンがなくても過ごせるような気候だったと記憶している。もちろん学校にエアコンなんかついてなかった。下敷きであおいで涼むぐらいだった。

冬もそれほど寒くなくて、コートなんかもほとんど着た記憶がない。瀬戸内海式と呼ばれる、とても過ごしやすい気候だった。今は冬の寒さもきびしくなっている。そんな気がする。[ところ]の歳のせいか。

東京・高松間をあまりに行ったり来たりなので、[ところ]は新幹線ではなく夜の高速バスを主に使っている。夜間の移動中は眠っていて、朝目が覚めたら東京というのは効率がよく、慣れると意外といいものだ。

最近の3列スーパーシートプレミアムだと、飛行機のビジネスクラス並みに寝やすいし、新幹線の6割の値段ですむという利点もある。[ところ]の使うシートは時々予約が取れないのが難点ではあるが。もちろん安さを追求したら新幹線の3割〜4割のバスもあるけれど、普通のバスだからまず眠れない。

渋谷の新しいアトリエは10階建ての最上階にあって、ドアを開けて外に出た瞬間とても空が近くて、たまたま立地的にそこからは視界を遮るビルがなく、新宿のビル群がとてもよく見える。高松では3階建ての3階にいるけれど、とても広い屋上には何もないのがいい。代表的な大きな庭園に面している側は街の光もなく、晴れた日は窓からの月光の明るさに驚かされる。

今まで[ところ]は渋谷という名前から想像できるように、谷のような所に住んでいたせいか、夜間の自然の明かりに無関心だったのかもしれない。ああ、そういえば外に出ない日は昼の光にも無頓着だった。二つの新しい環境に住むことは、いろんなことを考えるいい機会なのかもしれない。ただし、今の状況をステップにしてより高みを目指すことができるかどうかはまだわからないけれども。

そんな風に思いながら、夏の雲が終わろうとしているのを、高松の実家の屋上からも、渋谷のアトリエの屋上からも見ていた。

先日、久しぶりに[ところ]はクレーの太田さんとずいぶん話をした。そのあと、ずいぶん昔からの知り合いのヨウくんと会った。彼と[ところ]はどういう接点があったのだかよくわからないけれど、ときどき会って話をしている。そして夜は塾生の金杉くんと、深夜の渋谷の中心あたりの一階のオープンカフェで延々と写真の話。話はいつになっても終わらない。

夜が更けていくと、渋谷といえども随分街の明るさは弱まっていくが、そこにいる人々はどんどんパワフルになっていくように感じる。終電の時間に近づくと、駅に急ぐ女性たちのきれいな脚が目立つようになってくる。夏の夜の街は艶かしいものだ。酔いつぶれて倒れている20代前半に見える男の子もいたり、その横で抱きあう男女もいたり、人間観察してるだけでもおもしろい。ただ危ない奴も寄ってくるので、そこがちょっと怖いけど、いかにも渋谷らしい。

その二日後は広島に来ている。さらにその二日後の今は高松にいる。体もかなり疲れている。そろそろゆっくり休みたい。あと少しで引越しにともなう雑事からは解放されると思うが、落ち着くのは秋の終わりごろになるのだろう。

【ところ・ゆきのり】写真家
CHIAROSCUARO所幸則 < http://tokoroyukinori.seesaa.net/
>
所幸則公式サイト  < http://tokoroyukinori.com/
>

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編集後記(08/31)

●TPPはGDP総額の9割以上を日米が占める、事実上の日米FTA(自由貿易協定)である。TPPの正体は「アメリカの輸出拡大」戦略である。アメリカが自国経済を好転させるために、日本経済を餌食にしようと仕組んだ罠である。──と書いて来たが、だったらアメリカが韓国を嵌めたように、日本にもFTAを迫って来るのが当然なのに、わざわざ多国間交渉のTPPを選ぶのはおかしいゾという疑問も生まれる。TPPでは日本同様に貿易自由化の例外を求める国が必ずあるわけで、アメリカにとって日米二国間の交渉よりよほど面倒なことになるからだ。ということを、「週刊アカシックレコード」で知った。同誌(佐々木敏さん)は「日本のTPP反対派は『なぜ米国は日米FTAを選ばなかったのか』の問いにまったく答えられない。それは、彼らに地政学的教養がないからである」と断じている。

同誌はTPP参加諸国と日本、中国のGDP一覧表を用いて、そこに記載された数値をいくつか組み合わせて、米国にとってのTPPの意味を表す不等式をつくれという問題を出している。その不等式を作れない人は、TPPの本質を理解していないのだから、TPPの賛否について論ずる資格はない、という。わたしも資格がなかった(泣)。でも、TPPはアメリカのための戦略だ。否ですね。

TPPはアメリカの対中国政策のひとつで、日本が加盟しないTPPはありえない。TPPは将来、北大西洋条約機構(NATO)の「太平洋バージョン」になる可能性がある、とのことだ。また、将来必ず起きる中国クラッシュの保険にもなる。詳しくは有料版の同誌を読まれるようおすすめする。TPP以外でも、スポーツ、政局、メディア、経済、韓国などをテーマに激しく読み応えがある、ユニークなメルマガである。

今日の新聞で、ASEAN、日中韓などアジア16か国が、東アジア全体にまたがる経済連携RCEP(アールセップ)の交渉入りに合意したとある。RCEPはTPPを上回る規模だが、どこまで実効性のある内容になるかは疑問だ。(柴田)

< http://ameblo.jp/akashic-record/
>
週刊アカシックレコード

●パラリンピックが始まった。以前後記に書いたこと。車椅子の若い男性が、一番前の車両の車椅子スペースにいた。終着駅に着いたのに駅員が迎えに来ていない。降車を手伝おうとしたその瞬間、彼は車椅子を器用に操作して、段差と隙間のある、車両とプラットフォームの間をひょいっと飛び越え、すーっと改札に向かって行った。車椅子の人は助けないといけない弱者のイメージがあったので、とても驚いた。健常者といわれる私がやろうとしても無理だ。そういえば彼は筋肉質だった。

今回のパラリンピックのTV CMを見て、衝撃を受けた。リハビリして、健常者並みになることだって難しいのに、彼らはきっと鍛えていない健常者よりも早いだろう、強いだろう。何度も絶望を味わったに違いないのに、どこにそんな底力があるんだろう。

それで思い出したのが、漫画の『範馬刃牙』だ。私語りで申し訳ないが、私は漫画や小説、脚本などは書けないと思っている。自分の作ったキャラクターを苦しませたくないのだ。この漫画の中で、主人公並みの人気を持つキャラクター二人が、自ら望んで挑んだ戦いで手足を失った。スーパードクターはいなかった。

今後どうなるの? これからずっと義足で? どうしてそんなことをするのよと作者に怒りすら覚えた。取り返しのつかないことをしないで、と。が、彼らは失ったことを嘆くわけでもなく、戦いを挑んだことを後悔するわけでもなかった。どころか、ますます強くなってしまった。(hammer.mule)

< http://blogtimes.jp/blog/2012/07/19184.html
>
ロンドン・パラリンピックのTV CM。心に来ました
< http://baki.ne.jp/
>  範馬刃牙