Otakuワールドへようこそ![177]ポストシステム社会の幕開けの予兆か? 中高年の女装街歩きという現象
── GrowHair ──

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このところ、女装した中高年男性の目撃情報がツイッターに流れているのを目にすることが多くなってきている。

・こないだラフォーレにセーラー服着たおじさんいたわ
・元住吉にセーラー服おじさんいたらしい!!
・仕事で秋葉原にいる。たった今"セーラー服おじさん"とすれ違った。
・明石駅にコスプレじじいおったし笑 赤のセーラー服着てはった。

どれもこれも、私ではない。また、「赤いレオタードでおまるにまたがります」の @omaru_uwabaki 氏も急速に人々の話題に上るようになってきている。

もしかすると、情報が回ってくるのは氷山の一角で、実は前代未聞の一大女装街歩きブームが到来しつつあるのかもしれない。いやいや、到来してないかもしれない。しかし、ここは、到来しているという前提で、この社会現象について考察を加えてみたい。

中高年男性はなぜ女装して街を歩くのか。この問いは、個人的側面と社会的側面から、ふたつの問いに分解できる。第一に、個人の嗜好として内面から湧き起る「セーラー服を着たい」という願望の根源は何か。

第二に、今現在の日本のこの社会において、セーラー服を着た中高年男性が街を闊歩することは、社会がどのような問題を内包していることの現れであり、個人と社会との相互作用においてどのような化学変化がもたらされつつあり、社会の潮流がどこに向かっていることを示唆しているのか。




●個人的側面は、掘り下げてもつかみとれるものが埋まってない

まず、おっさんがセーラー服を着て歩くことの個人的動機について。いくつか仮説を並べてみよう。
(仮説1)変態だから。ビョーキだから。
(仮説2)人々の注目を集めたいから。モテたいから。
(仮説3)かわいくなりたいから
(仮説4)気分が高揚するから
(仮説5)オヤジギャグよりもタチの悪いジョークとして。

こうしてみると、なんだかありきたりで、普通な感じがしないだろうか。「変態」と言い切っちゃえば、仮説2から5まで、全部包含されてしまうようにも思える。

ただ、一口に変態と言ってもタイプはいろいろで、姿ばかりか心もしぐさもしゃべり方も何から何まで女性になりきりたいトランスジェンダー(transgender)系もあれば、女性の着るものが好きで自分も着てみたいフェティッシュ系もある。ウケをとりたいだけのお笑い系明るい変態さんもいるであろう。

ちょっと気になるのは猟奇系変態。そんなタイプの人が実在するのかどうか知らないけれど、欧米などでは、女装して公共の場を歩くような者がいれば、猟奇的な人なのではないかと疑い、警戒すべしと騒ぎ立てる人がいるようだ。潜在的に、幼児を性愛の対象としたいという願望や、女性や子供を暴力で支配したいという願望をもった危険人物であり、社会に野放しにしていてはいけないのだ、と。ほんまかいな。

いずれにせよ、どの時代やどの地域であっても、おそらくほぼ一定の出現率で、変態はいるものであろう。目につくところに出てくるかどうかは当人個人の問題というよりは、環境の側の問題が大きかろう。勤め先をクビになるなど、社会生活に支障を来たしたり、暴漢に襲われるなど、身の危険を感じたりするようではとうてい実行できまい。

なので、人知れずこそこそと女装をたしなんでいる人や、生活環境が許さずそれすら実行できないけれども密かにその願望を持つ人まで関心の対象とすれば、いつの時代にも、どの地域にも、そういう人は普通にうじゃうじゃいるような気がする。これ読んでるアナタもその一人だったりしませんか?

女装というのは、その動機や形態があまりに多様すぎて類型化しようとしてもうまくいかないもののようである。女装者が10人いれば、20のタイプの女装がある、とまで言われている。なので、女装の動機を個人の内面に求めようとすると、一人ひとりの個別の物語の集積しか生じないということになってしまう。

一人の女装したおっさんがどこへ向かって歩いているのかは、割とどうでもよい。そのようなおっさんを生み出した現代の日本社会は、いったいどこへ向かっているのか。こっちのほうが重要そうであるからして、やはり、社会的な側面から女装を眺めてみるのが面白かろう。

●システム社会への過適応と不適応の二極化

女装の社会的側面を論考するに先立って、私が現代の日本の社会をどのように捉えているかについて、述べておきたい。過去に述べてきたことと、多少重複するが、お許しいただければ。

現代の日本の社会は、どういう点が特徴的であると言えるだろうか。ある時代のある地域の社会を特徴づけるものを見つけるには、人の命よりも重く扱われているものは何かと考えてみるとよい。かつては「イデオロギー」であった。社会評論家がよく「大きな物語」と称する特徴を有する時代のことである。

今は、「システム」なのではなかろうか。スイッチを入れれば電灯が点り、商店の棚には商品が並び、物の運送がスムーズに流れ、電車が定刻通りに走り、テレビをつければ番組が放送されており、高速回線で張り巡らされたコンピュータネットワークが生きており、犯罪が起きれば犯人が速やかに逮捕されて正当に裁かれ、政治が営まれ、経済が回り、福祉が機能する。社会が秩序立って回っている。

それはそれで大変結構なことだが、人間様の地位がどうなったかというと、システムに隷属してこれを回す役割を負った部品と化してしまいがちな傾向はないだろうか。それで役に立っているうちは、給料も支払われるし、自分は立派にやってるぞとの誇りも得られるから、いい。けれど、もし何かの事情でその場から自分が抜けたとしても、誰かほかの人が埋め合わせるだけで、システムは何事もなく回っていくであろう。

自分らしさを発揮して仕事しているわけではなく、ただマニュアルにしたがって動いてるだけだったってことになっていないだろうか。いつでも他人と交換可能なシステムの部品と化してないだろうか。つまりは、多分にコモディティ(日用品。交換可能な消耗品)化しているということではないだろうか。

人間よりもシステム様のほうが上位に君臨あそばされている社会。このことをもって、私は現代の日本社会を「システム社会」と捉えている。

システム社会を指向する考え方自体はたいへん合理的である。システム化されていない社会であれば、同じような問題が性懲りもなく起き続け、その都度、個別に対応しなくてはならない。問題の発生の防止は、一人ひとりの注意力に依存しており、緩んできたころにはまた同じ問題が発生する。

一方、問題を類型化し、それが起きないような仕組みを整え、機械化・自動化し、ルールやマニュアルを整備してみなが遵守することで解決すれば、問題の発生そのものを根源的に断つことができる。

これをどんどん積み重ねていけば、問題の発生は減少し、世の中は暮らしやすくなっていく。かくて社会は、便利で安全で清潔で公平でトラブルの少ない、安心で安定なものへと落ち着いていく。

そのシステム化傾向も、だいぶ飽和してきたんじゃないかという感覚がある。システムは、新規に立ち上げたり、大きく発展させたりする段階はもう通り過ぎていて、細かい問題を調整するために、細部へ細部へと詰めていく段階に来ているように感じる。

システム社会において、人は二極化している。過適応と不適応に。どんな社会であれ、適応できない人の側に立たされるよりは、適応しちゃった人の側に立つことができたほうが勝ちなのは言うまでもない。

仕事することを苦痛に感じることが少なく、社会から必要とされるので安定的な収入が得られ、手ごろな娯楽などで仕事モードと遊びモードのバランスがとれ、社会との折り合いがよいために精神的な苦痛をあまり感じずにラクに生きていくことができる。できることならそっち側に立ちたいものである。

システム社会に適応した人たちは、何かにつけ細かいところまできっちりと目配りすることができて、ものごとをほぼ完璧にこなしていくことのできる有能でバリバリな人たちというイメージがある。息抜きにおいても、あまり創造的な指向がなく、マス向けに商業化された娯楽で満足できている。

現実に即してものごとをテキパキと処理でき、細部までキッチリと考えが行き届いていることをもって、自尊心のよりどころとしている。ユルいやつ、自分に甘いやつ、しょっちゅうミスるやつ、細部の細部までルールを遵守しないやつを低くみることで、相対的に自分を持ち上げている。仕事がデキる人。考え方が合理的。あまり悩みがない。議論してもあんまり勝てそうな感じがしない。

一方、不適応側にいる人々は、なんかもやもやしたものを抱えているが、それは理屈ではなく、多分に感覚的なものであって、なぜ自分がこっちの側に来ちゃっているのかさえ、合理的には説明がつかない。けど、自分の中に、未解決の何かがわだかまっていて、仮にがんばってデキる人になれたとしても解消するような感じがしない。

いわゆる「自分探し」ってやつだろうか。大企業に勤めてデキる人になれたとしたって、しょせんはシステムの部品、コモディティにすぎないではないか。自分の価値って、そんなもんでいいのだろうか。もっと固有の何かってないんだろうか。

サラリーマンとなって、均質的な価値世界の場に埋もれるくらいなら、バックパックを背負って物価の安い発展途上の国々を転々と旅してみたほうが、まだしも自分らしさが発見できるのではなかろうか。

お金さえ出せば、出した額に応じて誰に対してもほぼ均質なサービスが提供される類の娯楽では、あまり楽しいと感じられない。なんかもっと創造的に生きることで、大きな喜びに浸れないものだろうか。

現実に即してキッチリと生きること、デキる人になって誇ること、あるいはシステム社会そのものに、なんともいわく言いがたいうんざり感がある。そのうんざりの中身は論理的に分析しづらいのだけれども。

解決できないどころか定義すらもできないもやもやを抱えてくすぶっていても、あんまり幸せになれない。じゃあ、システム社会適応側の人々は幸せになったのか。優越は快感ではあるかもしれないけど、幸せとは同一のものではない。

本をあまり読まないけど自分が書いたものを出版したい人、人の話を聞きたくないけど自分の話は聞いてほしい人、人には関心ないけど自分のことは深く理解してほしい人、人の歌なんか聞きたくないけど自分の歌はみんなに聞かせたい人。

結局、カラオケに行けば、順番に歌うというルールを導入することで、システム化して紛争を避けることはできるけど。やっぱりなーんか不全感、あるんでないかい?

●システム内カオス革命

前置きが長くなったが、中高年男性の女装街歩きの問題に戻ろう。社会的な側面からみたとき、社会の内包する問題との関係はいかなるものであるかを解き明かそう、という話であった。

社会の側の最大の特徴は、その反応にある。実に寛容で肯定的なのである。人々の生理的な反応としては、キモい、おぞましい、ぞわぞわする、だったとしてもおかしくはない。そうだとすると、リアクションとしては、「見苦しいもん見せびらかして歩くな!」とキツくののしられたり、距離を空けられたり、逃げて行かれたりということになりそうなものである。

ところが実際は、大笑いされる、衝撃的と言われながらも避けられるわけではない、写真撮影や握手を求められる、といった反応が主流である。これはどうしたことであろうか。というわけで、次なる問い。「現代の日本社会はセーラー服を着る中高年男性に対してなぜ寛容(許容的)なのか」。

ひとつには、もともと日本の伝統文化の中に女装の慣習があり、それほど抵抗がなかったというのがあるかもしれない。歌舞伎の女形とか、地域の祭りで女装者が街を練り歩く慣習とか。なので、多くの人の生理的な反応はキモい、ではなく、可笑しい、となるのではなかろうか。

で、ここからがちょっと飛躍した仮説になるのだが、システム社会へのうんざり感への共感がひとつの要因としてあるのではなかろうか。つまり、みんな漠然と、システム社会の閉塞感にうんざりした思いを抱いていた。そこへ、既存の規範から大きく逸脱した、変なやつが現れたもんだから、こりゃ面白い、となったのではあるまいか。

人々が求めていたものは「祭り」。それも地域の盆踊りみたいなのじゃ面白くなくて、閉塞感を吹き飛ばすような、ソーシャルムーブメントとしての祭り。それに類するのって過去になかっただろうかと思えば、江戸時代の「ええじゃないか運動」が近いかも。あんときも、女装したおっさんが街を練り歩く運動が全国に飛び火したようだし。

ええじゃないか運動の後に、明治維新が起きた。ということは、現代もまた、システム社会からの解放という革命の起きる前夜なのではあるまいか。

ポストシステム社会とは、いったいどんな社会であろうか。何も、システムをすべて破壊して、原始社会に戻れ、と言っているわけではない。先ほど述べたとおり、システム社会は、合理的であって、暮らしづらくなっていく方向では決してない。ただ、人間の地位がシステムの下に置かれていることが不満なだけだ。

低い位置に置かれているから、人々は自尊心が危機にさらされ、優越願望を抱いている。ところが、すべての人類が他人よりも優越しているというのは不可能な話で、決して満たされることはない。優越があれば劣等がある。AがBに優越するのなら、BはAよりも劣等である。全員の優越願望は、幻想によってしか満たされない。

例えば、生活していく上で生じるさまざまな案件を現実的にてきぱきと処理していることをもって誇りとする現実派な人々がいる。それはそれで確かに立派なことだ。手の届かぬ夢ばかり追い続けるのをやめ、現実に即して等身大な生き方ができる、それが大人になるってことだ。現実世界をちゃんと生き抜いていることをもって優越と捉えている。リア充。

それはそれでよいのだが、コンピュータゲームになんか興じる人々というのは、現実と仮想の区別のつかなくなったゲーム脳のアブナイ人たちだ、とか言い出すに至っては、言っている側にかえって無知からくる危うさを感じてしまう。ホントに現実を見てるの? 人をナメるのもいい加減にしなさい、と言いたくなってくる。

現実派の対極には抽象派な人々がいる。現実に即して生きるだけなら、そこらの動物だってやっていることにすぎない。抽象的な領域でものを考えることこそ、人類に与えられた至高の精神の営みである。形而下的、即物的な生き方は動物的であって、低級だ。

私は大学で数学を専攻していたころ、電気を専攻する人から「同じ理系でも理学系(数学・物理など)と工学系(電気・電子など)とではずいぶん考え方が違うね」と言われて、「そりゃもう貴族と土方ぐらい違うさ」とうっかり本音を言って反感を買ってしまったことがあるけど。

数学は精神の貴族、と実は思ってたりする。夢をほどほどにして現実に即して生きるのが大人だ、とか言ってる連中を心の中では思いっきり馬鹿にしてたりする。

現実派と抽象派は、それぞれ自分のほうが上だと思い込むことで、互いの幻想が保たれている。かくして、成り立たないはずの優越願望の全員満足が成り立っている。しかし、これはあくまでも幻想なので、気がついた瞬間に雲散霧消してしまう。

なので、両者の間ではコミュニケーションをとってはいけない。互いに侮蔑しあっているのが分かっちゃったら、互いに面白くない。触らないのが平和。コミュニケーションの不全によって、かろうじて保たれる自尊心。

かくて、情報の流通は、どんどん小さなセグメンテーションへと細分化されていく。情報は、同じ幻想をもった人々によるセグメント(=カプセル)の内部においてはほぼあまねく流通するが、セグメントを越えてはなかなか流通していかない。セグメント毎に、それぞれ異質な情報が流れるため、それぞれの幻想がますます強化されていく。幻想共有カプセル。

自尊心が保たれていることと、幸せになることとは、ちょいとばかり別だったりする。モニタ内に映し出された二次元キャラに萌え萌えしている「オタク」と、スイーツを前に「私たち、こんなに自分を磨いているのに、どうしていい男がまわりにいないのかしら」などと言っている「スイーツ(笑)」なお姉さん方とは、カップルの成立しようがない気がする。

本当に幸せな人は、自分よりももっと幸せな人がいたら許せない、とか、自分は優越していなければ気が済まない、なんて思わないような気がする。全員が優越側に立つなどという不可能なことが成立しなくたって、全員が幸せになることは可能なような気がする。

人々は、システム社会による人間の地位低下や、細分化された情報流通カプセルの閉塞感に、漠然とながら、うんざりしている。求めているのは解放。祭りだワッショイ。

システムそのものを破壊して原始に戻るのではなく、細分化されすぎたカプセルを一度ガラガラポンして、自由な風通しのよいコミュニケーションに興じたい。求めているのは「システム内カオス」。そんな時代の幕開けの予兆なのではあるまいか。え? 何が? って、セーラー服を着て街歩きしているおっさんたちが。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
< http://www.growhair-jk.com/
>

やはりタレント並みに多忙な日々が続く。平日に3日連続で、仕事帰りにセーラー服に着替えてイベントに出たりとか。

6月11日(火)には、新宿のロフトプラスワンでのイベント「すったもんだがありまして、6/11にロフトプラスワンファン感謝デー第二弾を開催させて頂きます(仮)」に出させていただいた。

前々から一度あの場に出てみたかったので、大喜びで舞い上がっていたが、考えてみると芸人でもなんでもない私には、見せるべき芸が何もない。去年フランスに行ってきたときのことを、ごくごくフツーの調子でレポートした。割と好評だったよう。

6月12日(水)は「赤坂GENKI劇場」でアイドルのライブ。ネットの番組で生放送された。

6月13日(木)は「日刊サイゾー」(紙媒体ではなくウェブ版のほう)の取材で、キャンディ・ミルキィさんと対談。キャンディさんは、かつて女装雑誌「ひまわり」の編集長だった女装界の大御所である。

そんなすごいお方と対談を組んでいただけて光栄の限り。システム社会と女装について論じかけたものの、うまく考えがまとまらなかった。そこで考えなおして、今回ここに書いてみたというわけ。

私がドキュメンタリー映像になった。VICE MEDIA から。
予告編。2万アクセス。
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本編パート 1/2。5万アクセス。
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本編パート 2/2。2万アクセス。
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VICE MEDIAはカナダを拠点として、世界30か国に支部をもつメディア。英語で字幕がつき、世界からアクセスされている。

それはいいのだが、コメント欄がちょっとばかり荒れている。こいつは危険人物だから野放しにしてはいけない、というようなコメントがちらほら。中には佐川一政氏と同系列のように言う人まで。1981年のパリ人肉事件の犯人。VICEは今年の1月、佐川氏のインタビュー映像をYouTubeに上げている。言われっぱなしではちょっとなぁ、と思ったというのも今回のを書いておこうと思った動機のひとつだったり。

6月15日(土)渋谷でライブがあり、二度の出演の合間にラーメンを食べてきた。「唐そば」。店主の長村(おさむら)氏は、早稲田大学数学科の同じ研究室にいた先輩である。あのころから「ウチの親父の作るラーメンはほんっとに美味い」と言っていた。長村氏は東芝に就職したが、辞めて父親の店を継いだ。北九州から渋谷に進出。かつては行列ができるほどの評判の店だったが、今もそこそこ繁盛している。うん、めっちゃ美味い。行列の固有値分解のできるラーメン屋。