Otakuワールドへようこそ![178]数学を試食してみることは可能か
── GrowHair ──

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ウェブのコンテンツ制作の方面の人から、画像の色合わせに苦労しているという相談を受けたので、ちょちょいと考えてみた。リンゴのマークの入ったスマホがテーブルから落ちるのを見て、ピンとひらめいた。

色変換関数を連続な基底関数の線形和で表現しておいて、係数を未知数とする劣決定系(underdetermined)連立一次方程式に落とし込み、色変換に都合のよいように拘束条件を設定することによって解が一意に決定するようにしておいて、あとは解けば目的にかなう解が求まるのではなかろうか。

UNIX上のC言語でちょちょいとプログラムを組んで、試してみた。これがけっこううまくいく。この手法、私よりも先に思いついた人はいるだろうか。特許検索かけてみた。2003年にキヤノンから似たようなのが出ている。けど、ちょっと異なる。

色変換に関する発明である点は共通するけれど、そもそも目的が異なる。それに伴い、都合のよい拘束条件も異なってくる。私のは、ノルム最小化ではなく、もう少し工夫が加えてある。とりあえず、特許出願しておこう。

キヤノンのとは本質的に異なる手法だと私は思ってるけど、似てると言えば似ている。審査を通過するかどうかは微妙なところだ。当該分野に携わる者が、公知の技術から容易に思いつくことができるものは、「進歩性なし」として拒絶されることになっている。その判定は審査官にゆだねるしかない。

方程式を解くプログラムを作成する際に必要な数学の知識については、ウェブを検索して調べることで事足りた。けど、特許を書くにあたっては、ちゃんとした参考文献を挙げておいたほうがいい。ウィキペディアに書いてあります、ってわけにはいかないだろう。あれは誰でも書き込めるし、内容が正しいって保証はないし、ちょくちょく書き替わるからなぁ。




というわけで、紀伊國屋書店新宿南店へ線形代数の書籍を漁りに行った。ムーア・ペンローズの一般化逆行列について記述してる本、あるかな。線形代数の書籍がずらーっと並ぶ中に、「海老原 円」という著者名が目に入った。

ん? この名前、見覚えあるぞ。どこで見たんだっけ。思い出した。四谷大塚進学教室で万年トップだったやつやんけ。検索かけてみると、やはり私と生まれ年が同じだ。東大の数学科を出て、今は埼玉大学の講師をしているらしい。実に38年ぶりに見る名前だ。

彼の著書『14日間でわかる代数幾何学事始』をほめちぎっているウェブページがある。題して「数学って「思想」なんだよな」。いわく「この本の何がいい、って、それは「思想臭むき出し」で書いている、ってことだ」。

つまり、定義・定理・証明などが無味無臭の体で簡潔に書き並べてあるのではなく、その裏にある「ココロ」みたいな部分を描写しているので、イメージがわいて、理解の助けになるということだ。本当に頭のいい人は、難しいことを平易に説明してくれる。
< http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/20121227/1356623142
>

●数学は割り勘の計算をする学問ではない

21世紀に生きているわれわれは、意識しようとしまいと、生活を通じて直接間接に有形無形の先端技術と関わり、利便性や安全性や健康や娯楽といったさまざまな恩恵を享受し、この時代に特徴的な文化にどっぷりと浸っている。

財布から現金を取り出すことがめっきり少なくなり、たいていの会計はカードで済んじゃうし、ネット通販で買い物をすれば、これを買った人はこんなのも買ってると薦めてくれるし、ツイッターやフェイスブックのようなソーシャル・ネットワーキング・サービスにアカウント登録すると見知らぬ人が友達申請したりフォローしたりしてくるし、検索サイトに行ってキーワードを放り込めばたいていの調べ物は片がついちゃうし、液晶画面で本が読めちゃうし、今すぐセックスしたがっている女の子と出会えるサイトの宣伝やチンコのサイズを大きくする薬の宣伝メールが頼みもしないのにどさどさ届くし。

そういう点においては、確かに、間違いなく、今この時代の空気を吸って生きているのだと言える。しかし、一方では、科学や技術の最先端がどうなっているのかは、ごく少数の専門家のものとなっていて、われわれ一般人にはとうてい手の届かない壁の向こうへ行ってしまっているという感覚がある。

宇宙の真理を知りたいという探究心や、数学や哲学といった抽象的な精神の営みを通じて神の領域である理想の高みへ到達したいという憧憬などは、ギリシア時代の人々よりも退化しているんじゃないかという疑いすらある。生活は便利で安全で快適で垢抜けているのに、精神はどこかフニャけてないだろうか。

飲み会の場などで、うっかり私が大学時代に数学を専攻していたことなど言うと、そういう人を待ってましたとばかりに割り勘の計算を任される。単純に合計金額を人数で割るくらいの計算ならやってやれないこともないのだが、誰々は主賓だからタダだとか、偉い人は多く出すだとか、あんまり飲まない女子は半額だとか、けっこうややこしい。挙句の果てに計算を間違える。面目丸つぶれ。数学ってのはそういう学問じゃないんだよー!!! と心の中で大絶叫。

まあ、無理もない。一般の人々って、数学とはどんな学問であるか、イメージする機会すらほとんどないんだよね。ピタゴラスの定理なんて紀元前の話だし、理系に進学することにすると高校で三角関数の微分積分あたりまでたどりついてヒーヒー言ってるけど、それだってやっと16世紀ごろの話だし。20世紀の数学がどっちのほうに行っちゃってるかをちょっとでも垣間見る機会が与えられるのは、大学で数学を専攻するごくごくわずかの人類の特権なのだ。

人間味が完全に排除された、無味無臭の冷たーい世界だと思ってやしません? 面白くもなんともない計算ドリルみたいな苦役を人間に強いることで、人間を機械みたいに扱う拷問だと思ってやしません? 数学者って、もはや人間の感情をもたない、どんな恐ろしいことでも冷徹にやってのける冷血漢に違いないとか思ってやしません?

東野圭吾『容疑者Xの献身』あれは小説としては非常に面白かったけど、えー、もしかして数学屋って世間一般からはそんな人物みたいにみられてるのー? ってあたりが、なかなかショックでもあった。小川洋子『博士の愛した数式』は、数学者を人格的にも高潔で、人柄も優しい、いい人として高く持ち上げて描いてくれてて、私が言うのも変だけど、ありがたい。

数学屋さんを魅力的な人物として描写してくれてるのはいいのだけれど、数学の魅力にまで迫れたかというと、ちょっと疑問なところはある。小説の中にオイラーの公式が登場する。ま、私も中学のころ、それに出会ってあまりの美しさに衝撃を受けて一目惚れ、恋は盲目状態で、ワタシ、何があっても一生ついていきます〜状態になってたクチではあるのだけれど。

その美しさってやつをちゃんと説明するのって難しいよね。π とe と i という、別々の方面から出てきた基本的な定数が、非常に簡潔な式で互いに結びついてるー、とか。指数関数と三角関数という、これまた別々の方面から出てきた関数どうしが、指数の肩に純虚数を乗せることで、実は同じものだという本質が浮かび上がってるー、とか。

どうだ美しいだろー、感動的だろー、とどんなに声を大にして訴えてみたところで、これ、なかなか世間の人々には伝わらないだろうなーというフラストレーションは、尾道の坂道で階段から階段が生えてるのを見てこの造形のすばらしさがどうとかこうとか言って大興奮している齋藤浩氏に通じるものがあるかもしれない。

で、こっちが会計計算に悪戦苦闘している間、ほかのみんなは、自分がいかに数学が苦手か、みたいな自慢話をして、共感しあって盛り上がってる。数学が得意とか言ったら、完全にのけ者、敵キャラ状態ではないか。徹底的にモテない。くぬやろ〜〜〜。

スポーツをしない人間であっても、野球を観戦することはできる。すると、野球とはどんなスポーツであるか、だいたいイメージがわく。音楽のジャンルの好みは人それぞれだろうけど、音楽というものが丸ごと大嫌いという人はそう多くはないのではなかろうか。音楽の美しさと数学の美しさって、だいたい似たようなもんなんだけどなー。

野球をしない人でも観戦して楽しむことはできる。楽器を演奏しない人でも音楽を聴いて楽しむことはできる。それと同じように、数学の研究に直接携わることのない人でも、ちょこっと味見して、鑑賞して楽しむってことは、できないものだろうか。この時代を生きていながら、現代数学とまったく接点をもたないというのももったいない話だ。

●空間をぺろっとなめてみよう

現代の数学は、数や図形そのものをいじくり回すよりも、それらを容れている空間のほうを研究対象とする傾向があるのが特徴的なのではなかろうかと私は捉えている。空間とは何であろうか。

我々が住んでいるこの世界は3次元空間で、それに時間軸を加えると4次元空間とみることもできる。けど、それは物理学でいう空間であって、数学的でいう空間のほんの一例にすぎない。数学でいう空間とは、集合とほぼ同義である。しいて言えば、集合になんらかの構造が導入されたものが空間である。

集合は小学校でも習うので、なんとなくイメージできるのではないでしょうか。「果物の集合」といえば、その要素には、たとえばリンゴやミカンやスイカや柿がある、とか。「円とは一定点からの距離が一定な点の集合である」とか。それだけだと、袋の中にバラバラにものが入っているイメージなのだが。

果物どうしでも、夏ミカンとハッサクはなんとなく近いけれど、柿とパイナップルはあんまり似てないなぁ、という感覚がある。この近い・遠いの概念を導入すると、空間っぽくなってくる。

「色の集合」といえば、その要素には、赤とか青とか水色とかあるわけだけど。やはり色にも近い・遠いの概念が導入できる。さらに、色は足し算ができる。白い壁に赤い光のスポットを投影する。もうひとつ緑色の光のスポットを投影する。それらを互いに近づけていって、重なり部分ができるようにすると、そこには黄色が現れる。つまり、赤と緑を足すと黄色になるというわけで、色の集合には足し算という演算が導入できることになる。

どんなふたつの色をとってきても、必ず互いに足し算することができて、その結果もまたある色になっている。つまり、色の集合は足し算という演算に関して閉じている。「色の集合」という袋の中に、あらゆる色がバラバラに入っているのではなく、足し算という演算によって、あらゆる要素が互いに結びついている。これで空間っぽくなった。

空間にはいろんな種類がある。集合に「ご近所」という概念を導入して得られる近傍空間とか。その近傍がハウスドルフの分離公理を満たしているハウスドルフ空間とか。距離を導入した距離空間とか。足し算という演算を導入した「群(ぐん)」もまた空間の一種と言ってよかろう。足し算と掛け算のふたつの演算を導入した「環(かん)」とか。環の一種で、掛け算の逆元が存在する「体(たい)」とか。

足し算に関して群であって、なおかつ、別に用意した体の要素との掛け算が導入されたベクトル空間とか。ベクトル空間にノルムの概念が導入されたノルム空間とか。ノルム空間の中でも特に極限に関して閉じているバナッハ空間とか。ベクトル空間に内積の概念が導入された内積空間とか。内積空間の中でも特に極限に関して閉じているヒルベルト空間とか。

この辺まで来ると、20世紀の香りがぷんぷんと漂ってくる。ではなぜ数学は、数や図形といった対象物を研究する学問から、それを容れている空間を研究する学問へとシフトしていったのか? 単なる気まぐれで興味が移行したのか、そっちのほうが面白そうだったからか、切羽詰まった必然性があったからなのか。

空間を研究対象とするメリットはいろいろあるのだが、そのひとつは、不可能の証明であろう。ギリシア時代から人類の頭を悩ませてきた問題に、角の三等分問題がある。定規とコンパスを有限回使って、与えられた角度を三等分する角度を作図することが可能か、という問題。19世紀に決着がつくまで、実に2000年も悩んだんだね。

頭のいい人がさんざん悩んだけど、答えが見つからなかった、というのは、なんとなく実は解が存在しないのではなかろうか、というムードを漂わせはするけれど、それじゃ決着しない。

コンパスと定規を使って作図することの可能な図形全体の集合、みたいなものを考えて、その集合のあらゆる要素を調べつくしても答えがない、ということを言わなくてはならない。といっても、要素は無数になるので、片っ端から根気よく調べていっても永久に終わらない。

空間の構造を調べていって、構造上、中に解が潜んでいることはありえない、と証明しないことには決着がつかない。実際、コンパスと定規で作図できる線分の長さは、2次以下の方程式を解いて得られる数ばかりで、3次以上の方程式の解は作り出すことができないことが解明される。一方、角の三等分ができると仮定すると、3次方程式の解が得られたことになる。よって、不可能、となる。

5次以上の方程式の一般解法も人類の頭を悩ませてきた。数式をごちゃごちゃいじくり回して解けるのは4次方程式までで、5次以上の方程式は、どんなにやってても一般解には到達できないのだ。これも、数式をいじり回し続けていたのでは、無限に広い空間を調べ尽くすことはできず、空間の構造に目をつけて、不可能という決着をみる以外になかった。

空間を研究対象とするもうひとつのメリットとして、難しい問題を易しい問題にたとえることで、問題を解きやすくする、比喩のはたらきがあるのではないかと思う。

数値と関数とは互いにまったく別々の概念ではあるけれど、連立一次方程式を解いて数値として解を得ることと、線形常微分方程式を解いて関数として解を得ることとは、なんとなく似てるよね、という感覚がある。その「似てる」の正体がベクトル空間だったというわけだ。

物理で言う3次元空間は、有向線分の集合としてのベクトル空間であるが、このベクトル空間の概念をもうちょっと代数的に抽象化しておくと、関数全体の集合、みたいなのもやっぱり同様の構造をしている空間だったということが分かる。

そうすると、無数にたくさんある関数も、実は、互いに一次独立な基底関数の線形和で表現できるのだな、ってことになる。フーリエ級数展開が、その一例。ただ、3次元の有向線分によるベクトル空間とは異なり、次元が無限次元だったりするわけだけれども。

理系でも誤解してる人が多いので注釈を加えておくと、ベクトル空間というだけでは、まだ大きさの概念も向きの概念もない。ノルムを導入して初めて大きさの概念が生じ、内積を導入して初めて向きの概念が生じる。

この辺の話、数学のよく分かった人からは「甘い!」と叱られそうだし、数学の全然分かってない人からは「ちんぷんかんぷん!」と叱られそうである。結局、誰に向かってしゃべっているのか分からない、孤独な独白の様相を呈してくる。いい加減にしよう。

ま、そういうわけで、あたかも音楽を聴くように、野球を観戦するように、数学を学ばずして鑑賞して楽しむことって、できないものだろうかと思う。不正確・不明瞭な文学的・感覚的表現は、誤解を招きやすいから有害だと批判する人がいるでしょうけど、数学専攻者が飲み会の会計で重宝するなんて誤解に比べたら、マシなほうでしょう。

海老原氏は、『入門書ですらない! 数学傍観者のためのチラ見せ多様体』みたいなのを書いてはくれないだろうか。立ち位置的には、『ゲーデル・エッシャー・バッハ』みたいなやつ。あれは、数学門外漢のためのチラ見せゲーデルの不完全性定理、みたいな位置づけだからね。

一般の人々が、数学とは音楽のようなものだ、と捉えるようになってくれたら大成功。私のような者はもはや会計計算を任されることはなくなり、若い女の子たちにモテモテのウハウハになることであろう。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
< http://www.growhair-jk.com/
>

関西方面のみなさま、たいへん長らくお待たせしましたっ! TBSテレビ『有吉ジャポン』の私が出演した回が、7月6日(土)深夜24:58〜25:28、MBS毎日放送で放送される予定です。

○テレビには一切出ないもののインターネット上で話題になっている人物が続々誕生!
○その中でも今、特に人気がある人物を密着取材!
○"ブサイクなアイドル"と"セーラー服おじさん"に迫る!
○5月24日(金)に関東地方で放送された内容です。
< http://www.mbs.jp/pgm2012/1372518009.shtml
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6月13日(木)に「日刊サイゾー」(紙媒体ではなくウェブ版のほう)の取材で、キャンディ・ミルキィさんと対談しましたが、その内容が7月3日(水)に記事になりアップされました。

キャンディおじさん×セーラー服おじさん 東京2大女装おじさん対談「女装なんてドラッグに比べたら健全!」中年おじさんが"不完全女装"にハマるワケ
< http://www.cyzo.com/2013/07/post_13776.html
>

7月5日(金)、このコラムの配信日ですが、関東圏に電波の届くFMラジオの生放送の番組に出演します。J-WAVE の『GOLD RUSH』という番組。5:40pmから5:50pmまで10分間。番組のウェブサイトでは、「会うと幸せになれるとネットで話題の"セーラー服おじさん"を探して下北沢から生レポート!!」と予告が出ています。
< http://www.j-wave.co.jp/original/goldrush/
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