[3535] 老成するのはよいことか?

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《この連載を始めて15年目に入る。今回で600回だ。》

■映画と夜と音楽と...[600]
 老成するのはよいことか?
 十河 進




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■映画と夜と音楽と...[600]
老成するのはよいことか?

十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20130830140100.html
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         〈人生の特等席/グラン・トリノ/スペースカウボーイ〉

この連載を始めて15年目に入る。今回で600回だ。毎週よく書き続けたものだ、と改めて感慨にふけるくらいは許してもらってもいいかと思う。昔から書くことは好きだったが、自己満足だと言われれば、これほど自己満足なこともない。誰に頼まれたわけでもなく(柴田編集長には頼まれた)、原稿料が出るわけでもない。ただ、読者がどこかにいるという思いだけで続けてきた。

連載を始めて2回目だったろうか、1999年8月末に初めて読者の方からメールをもらった。僕の文章に対する感想というよりは、「私の場合はこうでした」という情報だった。最初に驚くほど反応があったのは、翌年の春先に書いた「世の中には二種類の人間しかいない」という回だった。賛否両論...、極端なことを書いたので論議を呼んでしまったらしい。

ネット時代は、反応がすぐにくる。いい悪いは別にして、確実に読んでくれる人がいるという実感はあった。ただ、人に何かを伝えるのは本当に難しいな、とも思った。いや、思い知らされることがけっこうあった。やがてネット社会が当たり前になり、多くの人がブログを始め、今はソーシャル・ネットワークになった。しかし、僕のスタイルは変わっていない。原稿を書き柴田さんに送ると、週末のメルマガに掲載される。

僕自身でブログを開設する気はなかった。原稿は書くけれど、面倒くさがり屋なのだ。僕が書いた原稿をメルマガで発信し、サイトに掲載してくれる。最近はサイトでまとめて読む人もいるらしい。このスタイルだから続けてくることができたのだ。デジクリ8周年記念で500部限定の書籍にしてもらい、ナンバーを振った本が2か月で完売したと聞いたときは、やはり嬉しくなった。ニス引き二色刷のカバーがシックだった。

連載を始めた当時、僕は40代後半だった。諦めるには早すぎる。何かを始めるには遅すぎる年齢だった。子どもは浪人生と高校生である。まだまだ先が見えない時期だった。金が必要だった。生活を維持しなければならなかった。しかし、迷いもあった。このままでいいのか、という声が毎日のように聞こえていた。家庭は居心地が悪く、仕事はうまくいかなかった。当時は、デジタルデザイン専門誌の編集長をやっていたが、しばらくして休刊が決定した。

一時期ほど深酒をすることはなくなったが、週のうち2日か3日は二日酔いだった。ただし、9時半始業だったから這うようにしてでも出社した。ある種の意地を張っていた。いつも、何かに対して怒っていた。自分より強いモノには昔から反抗的になる傾向があり、会社の経営陣や上司に逆らってばかりいた。たったひとりいた編集部員からは、「ソゴーさん、管理職会議の後はいつも怒ってますね」と言われた。

あの頃の僕を捉えていた気分は、一体何だったのだろう。若い時分に僕を捉えていたのは、将来の不安とルサンチマンと名付けられる鬱屈だった。自分が夢見た場所にいないこと...を、毎日のように思い知らされていた。自分がやりたいことは明確にわかっていたが、生活のためにそれを諦めなければならなかった。しかし、50歳が目の前に見えている中年男が、何をジタバタしていたのだろうか。

14年前の文章を読むと、そんな自分が甦ってくる。懐かしく読んでしまう。つまり、僕はもうその頃の自分ではないのだ。まるで、別の人間のように今の僕は生きている。なるようにしかならないのだ、という諦念が今の僕を落ち着かせている。焦りはなくなった。もう充分に生きた、生活者としてのゴールは見えた、それを実感する。余生...、余った人生である。こんな気分になるのが「老成」なのか。

●いつも不機嫌で、苦虫をかみつぶした顔をしている老人

その老人は、プロ野球のスカウトマンとして何10年も生きてきた。娘が6歳のとき、39歳の妻を亡くした。それから27年が過ぎ、33歳になった娘は有能な弁護士になり、大きな法律事務所の共同経営者になれるチャンスを迎えている。娘とうまくつきあえずひとりで暮らす彼は、もう70歳を過ぎた。スカウトマンとしての契約は残り3か月、経験は豊富だが更新されるかどうかはわからない。チームからは引退をほのめかされている。

彼は、偏屈な老人だ。頑固で、口が悪く、素直に人と接することができない。娘に気持ちを伝えることが苦手で、すれちがってばかりいる。いつも不機嫌で、苦虫をかみつぶした顔をしている。娘に近づこうとする男には見境なく暴力をふるい、大酒を飲み、葉巻をふかし、ステーキを食べ、身体に悪いことばかりしてきた。娘に生活を注意されると、「いざとなれば死ぬ」と減らず口を叩く。小用を足すとき自分の年を実感させられ、ペニスに向かって「この役立たずめ」と罵る。

そんな彼も目がよく見えない自覚症状に耐えかねて、昔からのかかりつけの医者にいく。医者が「緑内障か、あるいは別の病気の可能性がある。専門医を紹介する」と言うと、「今日きたことは、忘れてくれ」と出ていく。病院にいくことなど考えもしない。死ぬときがきたら死ねばいいと思っているのだ。娘から見れば、手のつけられない父親である。それでも、彼女は父親が心配で、自らのキャリアにとって大事な時期なのに父親の仕事先に現れる。

彼女に父親に同行してくれないかと言ってきたのは、父親の昔からの仕事仲間であり親友の男だ。彼はチームのゼネラル・マネージャーで、老人のスカウトマンとしての能力と実績を信頼しており、プライベートでも家族同然である。だが、チームの若いスカウトマンはコンピュータで選手たちのデータを分析し、「コンピュータも使えない老いぼれなんて...」とバカにする。チームのオーナーも若手スカウトマンのデータを信じがちだ。

老人を演じるのは、クリント・イーストウッド。実年齢では80半ばになろうかというイーストウッドだが、頑固で偏屈で口が悪くブルーカラーのマッチョという「おなじみの」キャラクターを楽しそうに演じている。しわだらけの首筋を晒し、自らの老いを逆手にとって笑いさえ醸し出す。イーストウッド自身は若い頃から健康オタクで、未だに背筋が伸びた痩身を保っている。現役の老スカウトマンだと言われれば、納得する。僕の父親と同年代だとは、とても思えない。

親友のゼネラル・マネージャーを演じるのは、相変わらず太った人の好さそうなジョン・グッドマンである。この人を見ると、「名は体を表す」が実感できる。悪役を演じたこともあるけれど、グッドマン(善人)にしか見えない。彼はベーブルース役で主演したことがあるが、今回はメジャーチームのフロント役である。イーストウッドを信頼し、かばい、健康を気遣い、娘に連絡する。娘は父親に失明の危険があることを知り、父親に同行する。

それにしても、イーストウッドが演じる「不機嫌でイヤミな老人」に、なぜ、グッドマンのような親友がいて、長年の仲のよいスカウトマン仲間(他チームの彼らは、いわば商売敵だ)がいて、反発しながらも父親を愛する娘がいるのだろう。彼はいつまでも老成せず、自分の経験とカンだけで物事を判断し、嫌いな相手には突っかかり、権威や権力には反抗する。観客として見ている分には小気味よいが、実人生で出会ったら絶対に付き合いたくないタイプである。穏やかでやさしい、老成した人の方が人々には愛される。

●変わる気がないのは自分の生き方を肯定しているから

「人生の特等席」(2012年)は、クリント・イーストウッドの助監督を長年つとめたロバート・ロレンツが監督をした作品だ。イーストウッドが設立した制作プロダクション「マルパソ」も世代交代が進んでいるのだろう。編集者のクレジットにもイーストウッドの盟友だったジョエル・コックスの他に、もうひとりの名前が出た。「マルパソ」にも次世代のスタッフが育ち、イーストウッド調を引き継いでいる。

「人生の特等席」は、クリント・イーストウッド監督作品と言われても納得する出来映えだ。「グラン・トリノ」(2008年)で俳優としてのイーストウッドはもう見られないかも...と思ったけれど、再び老優は立ち上がった。他の人間には演じられない役だからだ。「グラン・トリノ」でモン族の姉弟のために命を棄てたウォルトは、「人生の特等席」のガスとして生き返ったのだ。「待ってました」と、声をかけたくなる。

──服も買えないのか?
──ヨガの帰りなの。
──カルトにはまったか。

父親を心配してダイナーのカウンターで並んで夕食を摂っているとき、ガスと娘のミッキーはこんな会話を交わす。法律事務所の仕事を終え、ヨガ教室で汗を流した娘はスポーツウェアの上下を着ている。それを「服も買えないのか?」と、皮肉っぽく屈折した訊き方をする父親にはカチンとくるはずだ。彼女は、食事を残したまま出ていく。親子ほどこじれやすい関係はないが、ガスという老スカウトマンは照れ屋なのか、まともに娘と話せない。

──俺は変われない。

ラスト近く、娘は幼い頃からのこだわりを父親にぶつける。父親の思いと娘の願いが、ずっとすれ違っていたことが判明する。父親はスーツケースひとつ提げてアメリカ中を飛びまわり、有望な選手を見つけ出す人生を「三等の人生だ」と言い、娘には違う人生を送ってもらいたいと願ってきた。だが、幼い頃、母を亡くした娘は父親と共に旅をし、スカウトマン仲間と野球を見たことが「人生の特等席」だったと思っている。

それでも、老スカウトマンは「俺は変われない」と断言する。彼には、変わる気がないのだ。それは、自分の生き方を肯定しているからに違いない。自分の仕事を、人生を、「三等の人生だ」と自嘲しながら、生まれ変わっても同じことをやるだろうと確信している。長い経験と実績が、彼に自信を与えている。ただ、彼は娘に対しては悔やんでいる。「誰よりも愛している」と伝えられなかったことを...

ああ、親子は何て面倒なのだろう、と僕は「人生の特等席」を見ながら嘆息した。映画だから「人生の特等席」の父親と娘は理解し合い、和解する。同時に、映画的な盛り上がりがあり、スカウトマンとしての面目が立つハッピーエンドが用意されている。娘は父親の人生を受け継ぐだろう、と予感させる。しかし、現実の人生でこじれてしまった親子の関係は、簡単には修復しない。和解の機会なんてない。そう思いながら、僕はずっと会話をしていない娘の顔を浮かべた。

●「先進的なシステムや技術」と「経験に培われた知識とカン」の対立

「人生の特等席」には、もうひとり重要なキャラクターが登場する。ガスにスカウトされ、レッドソックスで中継ぎ投手として活躍したが使われすぎて肩を壊し、スカウトマンとしてチームに残ったジョニーだ。彼は、ガス親娘と同じハイスクールの選手を追っかけている。スカウトマンとして成功すれば、スポーツアナウンサーになれる前途が拓けている。

「スペース・カウボーイ」(2000年)でもそうだったけれど、イーストウッドの老人映画の基本構造は、「若者=先進的なシステムや技術」と「老人=時代遅れだが経験に培われた知識とカン」の対立である。4人の老人をバカにしていた若い宇宙飛行士は、宇宙で何の役にも立たず足を引っ張るだけ。老人たちは経験と技術で核ミサイルを積んだ衛星を修理し、故障したスペースシップをマニュアル操縦で無事に着陸させる。

ミッキーと恋仲になるジョニーは、老人に対立する「若者」ではない。行き違いや誤解もあったが、ジョニーはガスの後継者になる。老スカウトマンと対立するのは、コンピュータだけで選手のデータを分析し、実際の打席を見もしないでドラフト指名を強行する、無知で未経験でテクノロジーだけを信奉する、データ偏重主義の後輩スカウトマンだ。

野心家の後輩は憎まれ役であり、彼が最後に痛い目に遭うことで観客は鬱憤を晴らす。しかし、ここでも僕は「現実は、そううまくはいかないんだなあ」と思ってしまう。多くの場合、老いは若さに後れを取り、時代遅れの経験やカンや技術は最新テクノロジーに敗北する。ドラフト一位指名の選手がカーブを打った音で、「奴は変化球が打てない」と判断できる老スカウトマンは映画の中だけの存在だ。だから、彼は変わらないでいられるし、老成する必要はない。

僕は、40年近く出版社に勤めた。30年は雑誌の編集にたずさわった。それも社内のほとんどのジャンルの編集部を経験した。動画、ビデオ、写真、広告、デザイン、DTP、CGなどを対象とした専門誌の編集をした。その後、管理部門では、総務、法務、庶務、労務、財務、人事、経理を担当し、さらに企業計画を作成し、製作管理、資材(印刷・用紙)もコントロールしてきた。

それだけ経験すると、何が起こっても怖くない、何とかなるという自信は醸成される。経験のない編集者の希望を、最も効率的に原価のかからない方法でかなえる、最適の方法を導き出せる。それが、僕が40年近く培ってきたものなのだ。だが、年若い編集者は最新のデザインソフトやデジタル・テクノロジーを信奉し、ときに僕を「時代遅れ」のように言う。はっきり言えば、バカにする。僕がリタイアを決めた理由のひとつは、それだった。

──もう、俺の時代じゃない。

そう思った人間は、こだわりを棄てるしかない。諦めるしかないのだ。心穏やかに生きていくためには、自分を余計者と認識せざるを得ない。そう思わなければ、老成などできはしない。自分の仕事にこだわる。ムキになる。「おまえは間違っている」と相手に言う。自分の経験と実績に自信を持ち、仕事上のカンを信じる。そんな人間は若いモンに煙たがられ、邪魔にされ、時代遅れだと言われる。

しかし、「人生の特等席」の老スカウトマンのように...、80を過ぎても監督作品を作り続けるクリント・イーストウッドのように...、戦い続ける老人は老成などしない。できない。考えもしない。しかし、ガスにミッキーやジョニーのような後継者ができたように、イーストウッドにも後継者ができた。己のやってきたことが否定されるのではなく、培った知識や技術が継承されるとすれば、戦う老人も穏やかに引退できる。もしかしたら老成する。

結局、僕は仕事でも家庭でも、後継者や理解者を作れなかったのだ。今になってそう悟るのは悲しいことではあるけれど、それが人生(セ・ラ・ヴィ)だ。そういうものだ。そう思うしかない。現実の人生には特等席はないし、三等席もない。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
>

8月が終わり、9月になります。39年フルタイムで働いてきましたが、9月からは週3日の出社にしてもらいました。逆に言うと週休4日で、いろんな人から「何するんですか?」と訊かれます。「陶芸?」と訊かれることが多いのは、リタイア後の趣味で陶芸が多いのかな。

●長編ミステリ三作が「キンドルストア(キンドル版)」
「楽天電子書籍(コボ版)」などで出ています/以下はPC版
< http://forkn.jp/book/3701/
> 黄色い玩具の鳥
< http://forkn.jp/book/3702/
> 愚者の夜・賢者の朝
< http://forkn.jp/book/3707/
> 太陽が溶けてゆく海

●日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」受賞のシリーズ4巻発売中
「映画がなければ生きていけない1999-2002」2,000円+税(水曜社)
「映画がなければ生きていけない2003-2006」2,000円+税(水曜社)
「映画がなければ生きていけない2007-2009」2,000円+税(水曜社)
「映画がなければ生きていけない2010-2012」2,000円+税(水曜社)

●電子書籍版「映画がなければ生きていけない」シリーズもアップしました!!
「1999年版 天地創造編」100円+税
「2000年版 暗中模索編」から「2009年版 酔眼朦朧編」まで 各350円+税


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編集後記(08/30)

●小学生の頃「世界は恐怖する 死の灰の正体」という映画を見た。自分から見に行くような内容ではないから、たぶん学校行事で見させられたのだと思う。被爆した母親から生まれたという奇形児の映像が強烈なショックで、ときどき思い出しては怯えた。トラウマってやつか。もしかして誤った記憶かもしれないと思い、ネットを探るとそれらの画像もあったし、年代も合っているので見たことは確かだ。だが、あれは小学生に見せる映画か。監督は有名な反戦作家だから、これが日教組の「平和教育」とやらの一環かもしれない。

中沢啓治「はだしのゲン」は若い頃に読んでいる。漫画蒐集狂であったわたしは、ホラー漫画も大好きなジャンルだったが、ホラーではないのに残酷な「はだしのゲン」のコレクションは忌避している。泥臭い絵もきらいだった。当時はこの漫画の思想についてはスルーしていたのだが、この度の松江騒動が気になり、図書館で借りて読んでみて驚いた。中国・韓国による捏造史観を下敷きにしたらしい、とんでもなく偏向した内容ではないか。なぜいままで教育の現場で問題にならなかったのかと思うのだが、日教組がこの漫画を賞賛、擁護してきたからなのだろう。

下村文部科学相が「学校図書館は子供の発達段階に応じた教育的配慮が必要。一般的な表現の自由に反することには当てはまらない」と述べたことは正しい。このグロテスクな漫画は教育上の配慮が必要だ。成長過程の子供が本に親しむ小中学校図書館に、無条件で置くべき本ではない。しかし、「歴史認識に問題がある」といってもラチがあかない。わかりやすい「表現の過激さ、残酷さ」を問題にすべきであろう。

ネットにはこの漫画の画像が山ほどあるが、大人が見てもゾッとする、これ小学生に見せてはまずいでしょというカットも少なくない。子供にトラウマをもたらす。映画のようなレイティングシステムがあれば、この漫画は完全に「PG12」か「R15+」だろう。これしかない。学校図書館にもレイティングシステムを導入せよ。だから、この問題もっと大きく騒がれたほうがいい。「はだしのゲン」単行本10巻を刊行する汐文社、文庫版を出す中央公論新社、ともに売り上げアップ。電子出版のeBookJapanでは、昨年同期の12倍だという。多くの大人が読んで、この漫画の恐るべき正体を知るのはいいことだ。(柴田)

< https://bn.dgcr.com/archives/2013/08/30/images/gen >
画像検索で出て来る「はだしのゲン」の一部。これを見て、わが子や孫に「ぜひ読ませたい本」だと思う人がいるだろうか(閲覧注意)


●私も年齢制限は必要だと思う。小学生には絶対見せたくない。数巻でやめたはず。映画は見てないはず。記憶から消したい。非国民扱いされる人への拷問は、爪の間にキリのようなものを突き刺していた。原爆のシーンはきつく、泣きまくったのに記憶から消している。記憶力のない私の頭ナイス。

同級生の友人二人と会うことがあって、この話題になった。一人は怖くて避け、今でも読んでいないし読む気もないとのこと。もう一人は読んで(義務教育の間、たぶん小学生)、ウジ虫のシーンが、溶けた人の姿がと結構記憶に残っているようなのだが、覚えているのは残酷なシーンであり、その時代の人々の心や怒りではなかったようだ。

読んだ友人も私も読み返すつもりはなく、大人が教えたかったことがそのまま伝わっているかどうかは疑問に思う。編集長のピックアップしたページを見て、これって......と突っ込みたいところはあるのだが、全編読んでいないし読む気もないから書くのはやめとこう。


続き。彼女はストックルームへ。また5分ほど待たされ、作れないことを教えてもらう。もう少し質問させてくださいと、色つき眼鏡は作れるのか聞くと、またまたストックルームに行こうとするので、引き止め、PC用のも作れるのか重ねて聞いた。何度も行ったり来たりするのは大変だろうから。

と、またまた待たされ、色つきとPCのクリア版は作れると教わる。なぜJINSは作れない視力をストックルームでも検査室でもいいから、メモしておかないんだろう。レアケースなのか......。

ネットショップだと、スポーツ用には「交換可能な度数に限りがございます」という注意書きはあったが、室内室外両用のにはない。うーむ。店員さん間違ったか?(hammer.mule)

< http://www.jins-jp.com/jins-pc/lineup/?cat=All#customize
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ブラウンは作れなくてクリアは作れるから、屈折率1.70、1.74の範囲のようだ。って1.74がいかほどのものかわからないけれど。

< http://02memo.seesaa.net/article/216307151.html
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2万ぐらい追加料金払っていたなぁ。超薄型にするために。薄いだけで、目や顔の輪郭がキュッと小さくなるのは同じ。軽いのはいい。

< http://www.eglasses.co.jp/rxselection.html
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近視の強い、-6.00[D]だと厚みは3.3mmの差

< http://ymnetwork.blog15.fc2.com/blog-entry-1943.html
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多少はみ出ても良かったのにと読んでて思った。超薄型なんてなかったから、学生時代は、はみ出た眼鏡を使っていたし。