[3783] 実体と精神は相互に消滅を図りあう

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《月の裏側はベニヤ板でできている》

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 実体と精神は相互に消滅を図りあう
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宇宙の根本原理を解き明かすためのアプローチとして、物質の存在とそれを支配する物理法則とを基礎に据える唯物論の観点に立てば、我々人間もしょせんは食ったもんでできている以上、物理法則の拘束から逃れられるものではなく、つまるところ、系全体の必然の法則にしたがって運動するピタゴラスイッチのパチンコ玉と本質的になんら違いはなく、「私」も「心」も「自由意志」も「感情」もただの錯覚に過ぎないという結論に落ち着く。

いま、こうしてこの文章を書いているという行為についても、私が自分で考えて書いているというのは大きな思い上がりで、さっき飲んだコーヒーが脳細胞に影響を及ぼして、自動的に書かせているのである。私はただのロボットにすぎない。そう考えることで、理屈の整合性がとれるのである。めでたし、めでたし。

ところが、これに真っ向から対立するアプローチがある。唯心論である。物質の存在は、しょせん我々が知覚したものにすぎず、知覚した通りにそこに実体が存在しているなんて保証はどこにもない。しかし、知覚された世界像がたとえ間違っていたとしても、知覚しているというその事実自体は疑いようのないことである。

このように、精神のほうを基礎に据える唯心論の立場に立つと、今度は物質のほうが、実体のあやふやなものとして、存在の確証がおぼつかなくなってくる。

実体的な空間と霊的な空間とは互いに双対(dual)空間をなしており、オバケのほうから見たら、人間のほうがオバケに見えていた、と。

●だるまさんがころんだ

夜、電気を消して、あたりが真っ暗闇になれば、部屋を構成する壁や天井や、部屋の中にあったフィギュアや抱き枕は見えなくなる。しかし、それは、知覚可能なほど十分な量の光が目に届かなくなったから見えなくなっただけのことであり、実体そのものが消滅したわけではないことを我々は知っている。けど、ほんとうにそうだろうか。

電気を消したことによってものが見えなくなると同時に、それらの実体そのものが消滅していたとしても、我々はそれに気がつくことができるだろうか。再び電気をつけたときに、何事もなかったかのように元に戻ってさえいれば、その間にどうなっていたかは知る由もないのではあるまいか。

我々は、目が前にしかついていないので、後ろは見えない。見てない隙に実は後ろの壁が音もなく消滅してたなんてことはないだろうか。ぱっと振り向くと、敵もそれを瞬間的に察知して、見たときにはもう元どおりに修復されている。だるまさんがころんだ。おちおちトイレにも入れない。

見てない隙に後ろの壁が消滅してないかどうかなんて、向き合っている人に聞いてみれば確認できるではないかと思うかもしれない。しかし、目の前にいる人が敵と結託してお芝居を演じているのではないという保証がどこにあるというのだろうか。

私以外の人が全員で結託して、私一人のためにお芝居を演じている。私が死んだとき、「お疲れさまー」と言い合って、劇団ケバヤシは散会する。宇宙は私のあずかり知らぬ原理のもとに回っているのだが、みんなで結託してそれを教えてくれず、私一人だけ真理にアクセスし損なったまま、だまされっぱなしで一生を終える。月の裏側はベニヤ板でできている。

目の前に抱き枕があるとき、手を伸ばせばその感触を確かめることができる。目から来た情報と、触って得られた情報との間に整合性がとれていることをもって、私は実体の存在というものをほぼ確信することができている。けど、ほんとうにそうだろうか。

触っているところにだけは、たしかに感触をフィードバックしてくるが、それ以外の領域は、実は見かけ倒しで、ホログラムのように偽の像しかなく、もし触ったら通り抜けちゃう。触ろうとする直前に、敵はそれを察知して、そこだけ実体があるような感触を作り出している。

我々は、五感が拾い集めてきたごくごく部分的で、しかも不完全な情報をつなぎ合わせて、自分の周辺の様子がどうなっているのか、頭の中で組み立てて、いちおうの世界像というものを構築している。
頭の中に構築された世界像が、我々のまわりに実際に存在する実体世界というものをほんとうに正しく捉えているという保証が、いったいどこにあるというのか。いや、むしろ逆で、正しく捉えていないという保証ならある。

百歩譲って、仮に、我々のまわりの実体世界が、理科の授業などで習ったとおりに存在しているとしよう。

地球は丸いと頭では知っていても、我々日本人はアルゼンチンの人々と足の裏を向き合わせて暮らしているなんて、普段から意識しているだろうか。地平はどこまで行ってもまっ平らだと思って暮らしていたとしても、当面、それほどの不都合は起きない。

いま、立方体の容器があり、18ミリリットルの水ですり切り満たされているものとしよう。立方体の一辺の長さは、縦、横、高さともに約2.62cmである。この水は、縦に約1億個、掛ける、横に約1億個、掛ける、高さ方向に約1億個の水分子からなる。じっくり見てみても、指を入れてかき混ぜてみても、我々にはこの粒々を感じ取ることはできない。

この水分子一粒一粒は、パチンコ玉みたいに硬い実体でできているかどうかなんて、ますます分かりゃしない。実は、実体なんか、なくたっていい。というか、ない。水分子と指先との間で働く電気的な反発力に関して、力と距離の関係を示す関数が存在し、その関数どおりに力が働いてさえいれば、実体なんてなくたって、我々はあるように認識しちゃう。

光だって、ある範囲の波長のものしか感じ取ることができず、赤外線や紫外線や電波やX線をキャッチするセンサーを持ち合わせていない。音についても、ある範囲の波長のものしかキャッチしていない。

脳に電極を差しても痛くもかゆくもなく、電気信号を与えると脳そのものはなんとも感じず、手足などに刺激を受けたものと錯覚する。

我々に備わっているセンサーなんて、かくも不完全なものである。けど、我々は、五感から入ってくるそれぞれの信号を脳内で総合して、いちおう整合性のある世界像を組み立てている。映し出された世界像は、脳内限定のものである。

その脳内世界像が、我々の周囲にある実体をある程度正しく捉えているはずだなんて、いったいどうしたらそこまで楽観できるのだろう。

そこを疑い始めちゃうと、科学といえどもほぼ無力である。ピサの斜塔から大小2つの鉄球を自由落下させた結果、同時に着地する現象が観察された、と言ったところで、斜塔や鉄球の実体が見たとおりに存在することがほんとうに確かなのか、と、そこを根本から問いなおされると、答えに詰まる。

宇宙の根本原理を解き明かしたいという動機から、誤謬を犯すことが絶対に起こりえない真理をどこに求めようかと考えるとき、実体の存在と、精神の存在とを両天秤にかけて、どっちを取るのがより安全か。

今見てきたとおり、実体などというものは、あるのかないのか保証がない。それよりか、たとえ誤って捉えていたにせよ、何かを知覚し、何か世界像を構築しているこの精神の存在のほうが、よ り確固たるものになっていると言えるのではあるまいか。

そう考えると、唯物論ではなく、唯心論の側に立つことになる。以前に私が言っていたのとは、まるっきり反対になってしまう。

●現象を扱わない現象学

そのへんのことを深く掘り下げた哲学者がいる。フッサールである。フッサールは数学の心得があったとのことで、言っていることが非常に抽象的で分かりやすい。

フッサールはみずから構築した学問を「現象学」と呼んでいる。その呼称からすると、火山が噴火したとか、台風が来たとか、月食が起きたとか、そういう自然現象を扱うのではなかろうかと思いそうになるが、そんなもんは一切出てこない。

我々の内部の精神の側で起きているあれこれを「現象」と呼んでいる。我々の外側にあるとされていながら、実際にはあるのかないのかすら知ることのできない「実体」の側のことは「超越者」と呼んで、あっちの世界に追いやってしまっている。

我々は、不完全なセンサーから入ってきた情報をつなぎ合わせて、統一的な世界像を脳内に構築するよう、仕組まれている。その構築した脳内世界像が、外の世界の実体をほぼ正しく捉えているものと思い込むように仕組まれてもいる。けど、それはただの思い込みであって、正しいという保証はどこにもない。

なので、その思い込みのスイッチをいったんオフにして、脳内世界像を括弧に入れて保留にしておき、それでも残るほんとうの正しさとは何かを考えてみましょうと提案する。この判断保留のことを「エポケー」と呼んでいる。エポケーを練習して習得しないことには、「問い」そのものが見えてこない。

センサーからの入力情報をつなぎ合わせて脳内に世界像を構築する働きを「ノエシス」と呼んでいる。そのようにして脳内に構築された世界像のことを「ノエマ」と呼んでいる。脳科学でいう「クオリア」はほぼ「ノエマ」と同義なんじゃないかと思う。

この辺から出発して、精神の働きというものを徹底的に研究しようというのが「現象学」である。

まあ、そこを基点にしたっていいのだけれど、下手すると、考えている内容は正しかろうと正しくなかろうと、私がこう考えているという事実そのものは絶対に正しいのだ、という主張の下に、他者には理解不能なわけのわからないたわごとを延々々々と述べ続けるだけの、メンヘラの日記みたいなことになってしまう危険性がないわけではない。

自分が確信をもって思ったことであれば、どんなことであれ、現実方面との照合をとる必要もなく自動的に正しいのだとフッサールが保証してくれた、などと誤った受け取り方をしていると、やっかいな泥沼に落っこちる。

私はこれを「災害的現象学」と呼びたい。現象学の災害はラカンあたりがまともに食らい、その影響が日本の精神分析学のおっさんたちあたりにも二次災害をもたらしているのではなかろうかと密かにニラんでいたりする。

メンヘラの意味不明日記を木っ端微塵に粉砕してくれたソーカル事件はまことに爽快であった。数学・科学用語を引っ張ってきてみずからの論述にでたらめに当てはめて権威づけする人文系の研究者たちに一撃を食らわそうと、ニューヨーク大学物理学教授だったアラン・ソーカル(Alan Sokal)氏は、同じように、科学用語と数式をちりばめた無意味な内容の疑似哲学論文を作成し、これを著名な評論誌に送ったところ、雑誌の編集者のチェックを通過して掲載された。1994年のことである。

それはそうと、フッサール自身は、科学の意義というものをいちおう認めてはいる。ただそれは、絶対的な正しさではとうていありえず、ある種の信仰という根拠薄弱な土台の上に構築された建造物だという。うん、そこんとこは私もけっこう納得できる。自分で唯物論者だと言っちゃった手前、認めづらいことではあるのだが。

●デカルトは結局何を言ったのか

デカルトは『方法序説』において「われ思う、ゆえにわれ在り」と言った。しかし、それの意味するところは、いろいろに解釈できる。

私は、宇宙の絶対的真理を求めるのであれば、誤りやすい「感覚」に頼るよりも、「論理」の力を重んじなさい、と言っているものと解釈した。

この論理重視解釈をさらに押し進めた先にあるものとして、懐疑論者の論を背理法によって論破したのだとする見方がある。つまりこういうことである。

懐疑論者は、絶対的に正しいことなんか、どこにもありゃしないと主張する。どんなことでも疑うことができるという。言い換えると、疑うことができないことなど、何もないということである。

その主張は、正しいか、誤っているか、二律背反である。正しくて、なおかつ誤っているなどということはありえないし、正しくもなく、なおかつ誤ってもいないなどということもありえない。

仮に、正しいと仮定しよう。「どんなことでも疑うことができる」と。後でここへ戻ってくるので覚えておいてね。

さて、私はいま、あらゆることを疑っている。では、『私はあらゆることを疑っている』というその事実自体を疑うことは可能であろうか。「あらゆることを疑うことが可能」と仮定したのだから、その「あらゆること」のひとつである上記『...』の部分も疑うことが可能でなくてはならない。

ではそれにしたがって、上記『...』を疑ってみた結果、何が得られるかというと、「私はあらゆることを疑っている」ことを疑っていることになる。疑うの疑うで二重否定なので、確信していることになる。

つまり、私が疑っているそのこと自体は疑いえないのである。これは、最初の仮定「どんなことでも疑うことができる」に反する。つまり矛盾が生じている。

この矛盾の原因として、何がいけなかったのかといえば、最初に仮定したことである。つまり、「どんなことでも疑うことができる」という命題を正しいと仮定したことが、間違いの始まりだったということだ。つまり、懐疑論者の命題は、正しくなかったということになる。

ある命題を証明しようとするとき、証明したい命題の否定命題を仮に正しいと仮定しておき、論理的な推論によって矛盾へと導くことにより、最初に仮定した否定命題が誤りだった、ゆえに元の命題は正しいとする証明手法を「背理法」という。

つまり、デカルトは「われ思う、ゆえにわれ在り」によって、懐疑論者の主張を背理法により論破したことになる。

田中仁彦『デカルトの旅 デカルトの夢─『方法序説』を読む』にそこらへんのことが述べられている。読んで目からウロコがぼろりと落ちた。この本、デカルトの解説本として、決定版だと思う。300年以上にわたるごちゃごちゃした議論に対して、なたで割ったようにすぱっと決着をつけてくれて、実に気持ちがいい。

ところで、デカルトの「われ思う、ゆえにわれ在り」は別の観点からの解釈も可能である。それが、先ほどから縷々々々っと述べてきている、唯心論の視点である。

つまり、なにかと錯覚しやすい我々が絶対的な真理を追い求めようとするならば、物理的な実体のほうの存在よりも、我々の精神の働きの存在のほうを確実性の高いものとして重んじるべきであろう、と。われ思うゆえにわが精神が存在するのであって、外の物質世界のことは知らないよ、と。

ただし、デカルト自身の思想は、唯物論でも唯心論でもなく、二元論であるとする見方が主流である。物質的な存在と精神的な存在とを等価に認め、それらは脳内にある「松果体」を介してつながっているという説を主張している。

フッサールは、デカルトの論を、物質よりも精神を重んじよ、と受け取ったクチであろう。

●二つの平原を隔てる山脈

一方には唯物論という名の平原が広がり、他方には唯心論という名の平原が広がり、両者の間は高く険しい山脈によって隔てられている。この山脈をよじ登って越えた者はまだおらず、トンネルを貫通させた者もまだいない。なのに、ぱっと飛び移ることはできるという不思議。

唯物論の平原には、科学の花が咲き乱れている。その土台がどれほど確固たるものかという不安はある。また、物の法則を人にも適用すると、「私」や「心」が追いたてられて錯覚の領域へと片付けられてしまいかねないという奇妙さはある。

現代の物理学の理論では、時間の経ち方がこの物体とあの物体とで異なるとか、この世界は11次元だとか、直感的にはとうていつかみきれないような変てこりんな領域に行ってしまっている。

しかし、科学の方法論はこの平原の掟として確固たる地位を得ており、誤りを犯しづらい堅実さと相互矛盾のない整合性とを備えた妥当な世界観が構築される方向へと導かれつつある。

宇宙全体の諸現象を統一的な理論をもって説明しきってしまおうという動機に対して、ゴールはまだまだ遠いものの、方向的にはけっこういい線いっている。

一方、唯心論の平原は、少なくとも「私」の存在だけは最優先で保証されており、安心して暮らせる。我々の外に存在しているように感じられている実体世界は、絶対的な確実さをもって正しく把握することは原理的に不可能であるのに対して、精神の存在は絶対的に確実である。

それぞれの平原の間は、自由に飛び移ることができるのに、両方の平原を同時に俯瞰することができない。それぞれの平原の住民の言い分に耳を傾けてみれば、それぞれには納得できちゃうのである。しかしながら、両方の言い分を同時に受け入れることはできない。

物質のほうを確実な存在だと捉えると精神のほうが消滅させられてしまいそうだし、精神のほうを確実な存在だと捉えると物質のほうが霧のかなたに霞んでしまう。調停できそうな感じがまったくしないのだ。

ふたつの平原を隔てる山脈に、いちばんよく迫っているのは脳科学である。前置きが長くなったが、本題に入ろう。

●意識は0.5秒遅れてやってくる

ベンジャミン・リベット『マインド・タイム 脳と意識の時間』(岩波書店、2005年)は、脳の器質的な働きと我々の意識との間の関係を実験的に調べた結果を報告し、これを踏まえた上で、唯物論対唯心論の問題や、自由意志ありやなしやの決定論の問題について深く論考している。

脳の器質的な働きについては、脳に電極を差して電流を与えて反応をみることにより調べられる。また、脳神経自身が生成する微弱な電流を計測することもできる。

ところが、このような方法でどんなに目を凝らして見てみても、我々の意識の側において映っている像、すなわちノエマ、あるいはクオリアを外部から直接的に観察することはできない。

何かをひらめいたときに漫画では電球がぴかっと灯ったように表現するけれど、実際にはどこかの脳細胞が発火するというような現象として観察可能なわけではないのである。意識の側の「現象」については、本人から報告してもらう以外に調べようがない。

脳内での電気的な刺激・計測と本人からの報告とを併用することにより、物理世界と精神世界とを同時並行的に観察することができる。例の山脈に、かなりよく迫っている。

実験によって得られた結果を聞くと、唯物論対唯心論の問題は一気に唯物論側に傾いたようにみえる。自由意志は我々の錯覚の産物であると、ほぼ言えているようにみえる。

ところが、この結果を示した当のリベット氏は、早計はいけません、と戒めている。自由意志に存在の余地を与えるべく、なんとかして妥当な仮説をひねり出そうと苦心している。

実験から、大まかに二つのことが示されている。

第一に、意識は0.5秒遅れてやってくるということ。脳にパパパパパッと続けざまにパルス信号を与えるとき、その持続時間が短いと、意識の側としては気がつくことができない。その状態であっても、無意識の領域においては、信号をちゃんと受け取っている。

信号が0.5秒以上持続したときに初めて、意識の側において刺激に気がつく。ところが、いったん気がつくと、刺激が始まった時点までさかのぼって、その時点からずっと気づいていたと報告するのである。

持続時間が0.5秒よりも短い信号については、意識の側に報告されることはなく、永遠になかったことにされてしまうが、それでも無意識の領域においては影響を受けており、後の行動を左右することがある。
我々が昼メシにラーメンを食うかハンバーガーを食うか、自分の意志で自由に決定していると思っているが、もしかすると実は気がつかないうちに、何かにコントロールされていた、という可能性が見え隠れする。

第二に、何か行動を起こそうと決めた時点よりも前に、すでに行動の準備が始まっている。実験では、被験者は、好きなタイミングで手をぴくっと動かしてくださいと言われている。さらに、いつ決めたかを覚えておくように言われている。目の前に時計の針のようなものが高速でびゅんびゅん回っているので、それがどの位置にあるときに決めたのかを後から報告すればよいのである。

行動を起こす約0.15秒前に意志決定していることが結果として分かった。それはいいのだが、もうひとつ分かったことがある。意志決定の時点よりもさらに0.4秒前かそれ以前には、すでに脳内で行動の準備が始まっているというのである。

つまり、私が自由意志を行使してこれから行動を起こそうと決定して、その結果として行動が始まるのではなく、行動が始まりかけた後で、我々は自分の自由意志でその行動の開始を決定したのだと錯覚するのである。

この結果をもって、自由意志の存在は完全に否定された。...ように私には受け取れるのだが、当のリベット氏は納得しておらず、著書の後半は、なんとか実験結果と自由意志の存在とを両立させようと、苦心の思索が続く。

●セルフプログラミング仮説

その著書の中でリベット氏は一切言っていないのだが、私はこう思う。もし、自由意志に存在の余地があるとするならば、それは今行動を起こそうと思いつくことの中にあるのではなく、もっとずっと以前にセルフプログラミングする際に行使できるものなのではないか、と。

同僚のT成氏は、東大出の秀才であるが、人間のセルフプログラミング機能に気づいていて、それを積極的に活用している。日常の現実的な所用については、あらかじめ対処の仕方を自分にプログラミングしておいて、制御を無意識の側に丸投げしてしまい、自身の行動をあたかもロボットのように自動運転に任せてし まう。手の空いた意識は、現実世界から切り離して、大好きなパズル解きなどに活用する。

まだ、富士銀行があったころだから、そうとう前の話である。財布の中身が乏しくなってきたので、帰宅の途上で彼は富士銀行に立ち寄って、お金を下ろそうとする。ところが、その時点で午後6時を過ぎていて、手数料を取られる時間帯に突入している。

財布の中身は今日一日ぐらいはもちそうである。手数料が無料な明日の朝にしよう。彼は、次に富士銀行を見かけたら立ち寄ってお金を下ろすべし、とセルフプログラミングして、あとは自動運転に任せた。

ところがその日のうちに別の富士銀行に遭遇する。彼は自動運転モードのまま、そこに立ち寄り、お金を下ろした。下ろしてから気がついた。「あれ? そうじゃなかった」。オレ、バグってる。

これを聞くに、彼は自動運転に切り替えてからお金を下ろすまでの間、自由意志を行使しておらず、もしそれをどこかの時点で行使したというのであれば、セルフプログラミングの時点においてなのではないかと思う。

でももしかするとこの仮説はおかしいかもしれない。自由意志の存在を認めちゃうと、決定論的な物理法則の立場がなくなっちゃうのだ。

もう面倒くさいから、いっそのこと、決定論的唯物論でも私はいっこうに構わない。悪事をはたらいても責任を取らなくて済むから、都合がいいじゃないか。

一番肝心な、根源的な問いに対して、人類は何百年、何千年も考えてきているのに、21世紀に突入してもまだ答えが得られていないのである。

土台の部分がまだぜんぜん固まってないにもかかわらず、その上に家を建てて、世の人々はどうして不安にならず、平気で暮らせるのか、そこのところが私には不思議で不思議でならない。

仕事においてデキる人になって優越したいとか、社会システムを上手に使いこなすことで金銭的に得をしようとか、悪いことではないけれど、土台が不安な状態で、どうしてそこに真剣になることが可能なのか、そこのところが、いまひとつよく分からない。

オレって、変なのかな?

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティ ティ拡散。
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10月12日(日)、13日(月・祝)は秋フェスが開催された。春にも夏にも開催されるが、いずれも「秋フェス」。秋葉原の「秋」なのだ。場所は「ベルサール秋葉原」、略して「ベルばら」。最初っから狙ってビルの名前つけたのだろうか。

事件があったときはまだ工事中だった。今は、土日に通りがかるとなにかしらイベントをやっているにぎやかな一角になっている。

私は日曜に参加してきた。その日最後のステージ枠、6:00pm 〜 7:00pmはコスプレイヤーたちによるパフォーマンスタイム。13組のレイヤーさんたちがステージに上がった。私は、秋葉原ツアー「AKIBALAND TOURS (アキバランド・ツアーズ)」チームの一員として出させてもらった。
< http://www.akiba-tour.com/
>

以前ご縁があって、2013年7月13日(土)にピンチヒッターで一回だけ案内役を務めている。

ステージに上がったら、200人ほどの観客たちから大きな歓声で迎えられ、実に気分がよかった。ここのイベント、実は出てみたかったんだよねー。出たものの特に芸のない私は、スペインに行ったときのことなど軽く話して、トークで乗り切った。

それ以外の時間は、直前の枠に出演していたアイドルちゃんたちと一緒に写真を撮られたり、道のほうまで出て通行人たちから撮られたり。あと、鳥取の生んだゆるキャラ界の重鎮「トリピー」との2ショも。梨がセーラー服を着て鳥になっているキャラ。会うのは7月のフランス以来だ。

写真はこちら。
< http://picasaweb.google.com/107971446412217280378/Event141012
>


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編集後記(10/17)

●伝説の傑作SFといわれる「地球爆破作戦」(1970)を見た。ユニバーサル100周年を記念したユニバーサルシネマ・コレクションのひとつだ。極秘開発された防衛用コンピュータ「コロッサス」システムが作動したとき、人類は恐怖に支配されるという、よくあるテーマのSFだ。原題は「Colossus:The Forbin Project」だが、なぜ「地球爆破作戦」なんて、まったく内容とかけ離れた陳腐な邦題になったのだろうか。タイトルはともかく、内容はハードでかなりスリリング。44年も前の映画だが、いまでも見応え充分である。

冷戦下において合衆国政府は、まったく新しい防衛システム「コロッサス」を開発した。情報収集、分析、判断、そして決断までを、すべて超大型コンピュータのコロッサスに委ねるという画期的なシステムだという。決断まで? コロッサスには自給自足力、自己防衛力、自己生成力が備わっている。もし情報供給源や電力線などが攻撃されれば、ただちに緊急回路に切り替え必要な行動をとる。つまりいかなる人間にも手出しは不可能なのだ。といったことを、開発したフォービン博士はとくとくと語る。それって、ものすごく危険なことではないか。暴走しても止められないのだ。案の定……。

コロッサスとの対話は文字を通じて行われる。博士の言葉をタイプライターで入力して伝え、コロッサスは電光掲示板のような端末に文字で応じてくる。日本語版で見ていると、コロッサスがしゃべっているが、オリジナルでは音声はなく、駆動中の機械音だけが聞こえる。コロッサスから、ソ連にも別のシステム「ガーディアン」が存在する、リンクせよとメッセージが入る。すでに要求ではなく命令だ。一度はつないだものの、軍事情報の流出を恐れた米ソは同時に回線を切断すると、コロッサスとガーディアンは互いに報復のミサイルを発射し、迎撃して欲しければ回線を復活しろと脅迫してくる。コロッサスがなにごとか考えているときの沈黙がこわい。

自我にめざめたコロッサスの命令は次第にエスカレートしていき、あらゆる施設に映像と音声の監視システムを構築せよ、従わぬ場合はミサイルをぶちこむと迫る。コロッサスにとっては、産みの親フォービン博士は必要で、脅したりすかしたりしてくるが、博士もコロッサスをなだめたり騙したりする。この辺の知的な思考戦が面白いが、結局はコロッサスが人類の上位に君臨すると宣言して、後味の悪いエンディングを迎える。インターネットのない時代に作られた映画でこれだから、クラウドや3Dプリンターもある時代、もっと凄まじい人工知能の反乱の映画ができそうだ、と思ったらとっくにスカイネットがあったんだっけ。また「ターミネーター」シリーズを見直そうかな。   (柴田)

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「地球爆破作戦」


●GrowHairさんのLINEスタンプが審査中らしい。

宝塚歌劇話をしたので、その流れで演出家の小柳奈穂子さんのインタビュー記事へ。小柳さんは演出家としては若くて、最近やっと大劇場(メイン会場)でのお仕事が増えて来られた方。

インタビュー記事が日経ビジネスオンラインに掲載されていた。ジャーナリストの清野由美さんは、ファン歴15年とのことで(宝塚では15年は長いとは言われない……)、ビジネスのヒントがたくさんあるからと今回の記事に繋がったみたい。

そもそも宝塚歌劇は「小林一三の天才的なブランド戦略」によるものであり、「仕組みが確立」されていて、「シビアな実力主義」と「日本ならではの年功序列」が融合し、スタッフは実は「男の園」であり、「演出家はゼネラリスト」。

演出家助手は、どんな難問にも「はい、分かりました」と返事してから答えを探す。「男女で扱いに差はなく」「舞台に関わるすべての技術を、必要に迫られて覚えていき」、アクシデントが連続して起きるため「無駄な責任追及問題みたいなことが、そもそも起き得ない」徹底した現場主義で「面倒くさい民主制が入ってこない」。

「昨日まで鉄道のダイヤグラムを組んでいた方が、異動でまったく畑違いの歌劇団に来るというパターンも」ある「ゼネラリストぶりの幅も広い」ところ。そして「小学校の学芸会はプロジェクト・マネジメントの格好の練習になる」。とここまでが第一回目。(hammer.mule)

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フィギュアに
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スタンプ。乙女や……。

< http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20140908/270933/?rt=nocnt
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「ビジネス」と宝塚の遠そうで近い関係

< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9F%B3%E5%A5%88%E7%A9%82%E5%AD%90
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なぜかこの人の作品は見られないことが多い。チケットが取れなかったり。大劇場デビュー作の「めぐり会いは再び」は大好き。まさか乙女ゲームがヒントだったとは……。