9月16日(土)の夜、京都の焼き鳥屋にて、仲間内の飲み会を催した。題して『知に串刺せば香ばしい』。今回は、この模様をレポートしたい。
ただの飲み会をレポートしてどうするよ、って思われるかもしれない。ごもっともである。
しかし、今回のは、よくありがちな、日ごろの鬱憤晴らし・ストレス発散に酒を飲み交わす会とはわけが違う。ただだらだら飲んだり、わいわい騒いだりするだけの精神の淀みに堕するのをよしとせず、多様性に富んだバックグラウンドをもつ人々によるハイテンションな相互作用から斬新なアイデアが生じる「メディチ効果」を狙って、計画的にセッティングされた。
もともとあんまり多くない友人たちの中からではあるが、根源的な問いについて語りたいことがありそうな人を厳選した。水が低きに流れるような安易な世間話に陥らず、一定水準以上の知的な議論が活発に続いていくよう、協力をお願いした。
また、会話は仲間内にだけ通じるような閉じたものではなく、パブリックに開かれた形で進んでいくことを意識しようということで、YouTubeでライブ配信した。興味があって見にくる人が実際にいるかどうかは別である。そんなにちゃんと事前告知したりはしなかった。
また、事後参照できるようにもなっている。9月21日(木)正午時点での視聴回数は64回である。
実験的な試みであったが、ことのほかうまくいった。私はいわゆる「パーリーピーポー」ではなく、ただのどんちゃん騒ぎで盛り上がるようなタイプの飲み会は、どちらかというと苦手なほうである。この、やや特殊かもしれない基準に照らしてではあるが、そうとう面白い飲み会になったと思う。以下、概要。
名称:知に串刺せば香ばしい
日時:2017年9月16日(土)7:00pm〜10:30pm
場所:京都某所にある焼き鳥屋の個室
出席者:
阿部 将(株式会社洛歩 代表取締役)
鈴木ちよ(京都大学産官学連携本部)
武 盾一郎(線譜画家)
小林秀章(セーラー服おじさん)
阿部は中学からの友人であるが、長らく音信が途絶えており、存在自体が丸ごと私の記憶から消えていた。去年の12月にFacebookで友達申請を送ってくれたのに、「人違いじゃないですか?」などと失礼な対応をした。その後、吉祥寺や中野や信楽や京都で会っている。徐々に記憶がよみがえってきた。
鈴木さんは、阿部が仕事上のつきあいを通じて知り合っている。私は、5月7日(日)と7月9日(日)に京都でお会いしている。たいへん理知的なお方で、人文系の知識の泉のようである。最初にお会いした日、セーラー服を持参で来てくれた。
写真:
https://goo.gl/photos/1JFVuRxKdhxGXfdr5
武は、言わずと知れたデジクリ書き仲間であるが、私と同様、意識の謎にトラップされており、今回の飲み会には欠かせない面子として、京都まで来てもらった。
武は、なんか、すさまじかった。往きの新幹線で二時間ほどずーっと私と意識についての議論をした。京都五条にある紅茶専門店「キトゥンカンパニー(KITTEN COMPANY)」には武の作品が三点ほど展示されており、阿部と一緒にそこに入ってからは、やはり二時間ほど三人で議論した。
飲み会でもよくしゃべった。阿部んちになだれ込んでからは、私は早々にパワーが切れて寝たが、阿部と武は朝5時ごろまで議論していたらしい。
●オープニング
下記のように書かれた紙が画面いっぱいに映っている。
知に串刺せば香ばしい
#chinikushi
取り除かれると、焼き鳥屋の個室。カンパーイ!
●イントロ
【ケバヤシから主旨説明】
基本的には、ただの飲み会。おもしろい会にしたい。けど、ただ酒を飲んで、ドンチャン騒ぎをするだけの飲み会は、私の基準の「おもしろい」ではない。あんまりダラっとせず、話題は何でもいいから、知的な会話が続いていくようなおもしろさが出せるとよい。
メディチ効果を期待して、なるべく幅広い方面の方々にお集まりいただいている。メディチ効果とは、ルネサンスがなぜ起きたのかについての説のひとつで、大金持ちのメディチ家が、さまざまな方面のエキスパートを呼び集めて交流させ、カオス状態が起き、そこから新しいアイデアや文化が生まれ育ったのではないか、とするもの。
【メンバー紹介】
阿部 将:京都で起業した。専門は化学。分野を問わず、本質はなにか、に興味がある。
武 盾一郎:アーティスト。音楽の線画を描いている。神秘的と感じられるものに反応する。それが、根源的な問いへの興味につながっているのかも。元々の専門は電子工学。
鈴木 ちよ:大学職員。文学と経営学が専門。学士は文学、修士は経営。文学は、近代日本の女性文学。文化・芸術において、全力でおバカなことするとか、過剰に凝るとか、才能を無駄使いするとか、そういうところにロマンを感じる。
【話の出発点としての意識の謎について】
以下では下記のように略記。
阿部=阿 鈴木=鈴 武=武 小林(GrowHair)=G
G◆意識がなぜあるか、って実はすごい謎。でも、根源的な問いに限って、世の中の人々の多くが問い自体にピンと来ていない。朝、起きたら意識は自動的についてくるので、意識という現象自体に慣れっこになっていて、よくよく考えると不思議だぞってとこに思いが至らないのかもしれない。
別の問い方をしてみよう。ロボットに意識を宿らせることができますか?
(1)原理的に不可能。いつまで待ってもできない
(2)原理的には可能だが、実際には永久にできない
(3)数百年のレベルの遠い将来、実現する
(4)数年から数十年のレベルの近い将来、実現する
(5)もうできている。われわれが気がついていないだけ
鈴◆(2)。人間は、ものごころがつくと、なぜかすでに「私」がいて、それは他人ではありえない自分であって、そのまま一生いく。考えてみると、不思議なことだなぁ、と思える。そのレベルまで機械が行くって、ありえないんじゃないかなぁ、と。
人間の不合理や不条理を誤差的な要素として機械に載せるんでしょうけど、どうしても、わざとらしさが解消しないんじゃないか。
武◆(5)。既にできてる。目の前にあるこの小鉢にも実は意識が存在する。
ケ◆元の土には宿ってなかったけど、職人が丹精込めて作ったから魂が宿ったとか?
武◆そうじゃなくて。物質すべてに意識が宿っているのではないかと。脳だって、物質で構成されている。その脳に意識が宿っているのだとしたら、その構成要素である物質に意識が宿ってないと、おかしい。塵が積もっても塵にしかならない。
僕らだって、分解していけば、成り立ちは物質に由来している。われわれは生きていて意識があり、目の前の小鉢は生きてなくて意識がない、と思うのは、そう思っているわれわれ側の錯覚なのではないか。
絵を描いていると、素材や道具と出会ったときは、一方通行ではなく、相互の問題として感じられる。僕はペンが好きだけど、ペンも僕のことを好きになっちゃった。
歴史をうんと遡れば、宗教観の発祥において、すべてのものに魂が宿っているとするアニミズムの考え方がある。実は、それが正解なのではないか。
阿◆(3)。作る前の課題として、意識の定義づけができてない。定義できてないのに、ある・ないを論じても、感覚的にしかならない。
感覚的な議論はできるけど、答えには至らない。まず定義する必要があるけど、その上で、正解は(3)であってほしいな、と。
G◆だけど、意識って、定義できた時点で半分解明されたも同然、っていう難しさはある。
私も(3)。だけど、迷いはある。構成要素としての原子・分子に意識が宿ってなくても、複雑に配線されることによって、上位の階層に意識が湧いてくるのだ、とする「創発」説がある。それを信じていいもんかどうか。
武◆ケバヤシは、支持していることになる。この会自体、メディチ効果を狙っていると言ったが、それも一種の創発。どのメンバーも、もともとは内包していなかった考えが、議論の結果として生まれ出ずるのを期待しているのだから。
【受動意識仮説について】
前提知識を視聴者の方々と共有するため、ケバヤシから解説。
ベンジャミン・リベット氏による実験により、われわれの自由意志は錯覚にすぎないのではないかと示唆された。
自分が行動を起こそうと、今、決めた、と思った瞬間よりも0.35秒早い時点から、脳内ですでに行動の準備が始まっている、ということが発見された。
脳の活動をモデル化すると、ひとつの意識と、多数の無意識の小びとたちからなる。小びとたちは、常に、同時並行的に、自主的に、黙々と自分の仕事をしている。
たとえて言えば、優秀な部下たちがそれぞれ自分の裁量でバリバリ仕事をこなしていくのを、後から見て、あれは俺が指示してやらせているのだと勘違いしている間抜けな上司みたいなもん。意識は、実は、事後に下流で見てるだけの、受動的なもんだった、と。
ここまでが、イントロ。
37分経過。この時点で、視聴者数はゼロ。以下、自由討論。
●自由討論
【意識と自由意志の不思議】
武◆意識は随伴現象的であって、すでに決まっていることを後追い的に観察しているだけなのに、自分が自由意志を発動させた結果として行動をとったと錯覚している、と。
日常生活において、何かをやりたいな、とふっと思ったとき、実はもうやり始めてるな、と感じることができるときがある。無意識の小びとたちの営みにこそ、自由意志の根源があって、「わたし」と思っているほうはついでのもの、随伴的。
けど、「わたし」問題が残る。それは錯覚。仏教の無我。ひょっとして、近代に作られた、捏造的産物? 定義ができていない。「わたし」の解釈そのものが、今後、変わるかもしれない。
阿◆意識は追認かもしれないけど、意識と自由意志とを混同してはいけない。そこの定義が間違えてる。意識の前に自由意志が決めてる。無意識側でやってることが意志決定なのではないか。
武◆意識は幻でいいけど、意志はちゃんと在るのではないか。不確定性原理が働いちゃうから、決定論が適用できないスケールが存在しちゃう。決定論的に進んでいないというところに、自由意志の存在する可能性が開かれている。
意志と意識が別次元として存在している。無意識の意志に対して、意識の側からアクセスすることは不可能じゃん。
阿◆それができる人って、世界中に、誰もいないのかな? 偉人とか? いないと言い切るのは、乱暴なのでは?
武◆(そこは置いておいて) 自由意志は、単体では存在しえない。かならず、何かと何かが衝突して、その後で、意志が生じる。
ほんとうに一人ぼっちだと「自由」が意味をなさない。接触とか衝突があって初めて、意志が発揮される。選択肢があるか、よりも、ぶつかる何かがあって、力のやりとりとか情報のやりとりがあって、初めて、意志が生じる。
阿◆一人ぼっちでも発揮できるように意志をプログラミングできたら、それは意志ではない。
武◆不確定性は、プログラムできない。ケバヤシの決定論的世界観は、ニュートン力学に限定された話であって、量子論的な不確定性原理を無視してるよね。原子核のアルファ崩壊とか、どういうタイミングで起きるか予測不能だし。量子レベルでみれば、宇宙って決定論的に進んではいないよね。
ケ◆真空の宇宙空間で、エネルギーを借金して、電子と陽電子のペアがポッと湧いて出て、一瞬後には、消滅して借金を返しちゃうという現象なども観察されてるし。それが、いつどこで起きるか、まったく予測がつかない。
量子レベルでは、確かに、非ニュートン力学的な、非決定論的な現象は観察されている。一本道ではなく、分岐が起きている。
一方、アインシュタインは「神様はサイコロを振らない」と言った。一見、非決定論的な現象が起きたようにみえたとしても、それは、われわれがその底流をなす物理法則をまだ発見していないから、そうみえるだけのことであって、実はそれも含めて決定論的に進行しているのではあるまいか。
武◆原子核のアルファ崩壊が起きるのは、原子核の自由意志なんじゃないか。いま、崩壊しようぜ! みたいな。音楽みたいなもん。人為的に余計なことをすると音楽が乱れちゃう。ものが自然に持っている音楽を、いじらないほうがいい。
………開始からここまで1時間7分
【外から観察できないクオリアがまた謎で】
武◆意識と自由意志とクオリアは、それぞれ別物。
ケ◆クオリアは共感によって語ることはできるけど、物理学の問題として、まだちゃんと言語化できてない。
武◆言語化できていないのはなぜかというと、現状、クオリアが物質の中に格納されちゃっていて、本人にしか見えないから。
頭がつながった結合双生児は、お互いのクオリアが見える。二人ともそれぞれに右脳と左脳をもっていて、そこは、ふつうに人が二人いるのと同様。性格も異なるし、好みも異なる。
ただし、脳が頭の中でつながっちゃっているので、お互いに、ダイレクトに情報のやりとりができている。一方が食べたものの味を、他方が感じられちゃう。一方が目隠ししても、他方が見たものを言い当てることができる。
そういうタイプの双生児に限らず、誰でもお互いにクオリアを共有できるようなテクノロジが生まれると、たぶんクオリアの謎に迫れる。脳と脳とを電線でつないで、お互いのクオリアが直接見えるようにするとよい。好きな人のクオリアって、見てみたいじゃん。怖さもあるけど。
鈴◆絵画や音楽は、クオリアのやりとりに近いかも。直接見せられないから、作品という形態にして届けてる。とは言え、クオリアそのものではないので、受け止める人によって、受け止め方が違っちゃう。
武◆クオリアが直結しちゃったら、表現は要らなくなっちゃう。それはそれで、つまんない。誤解にこそ、表現の意味がある。文学のような形で、外に出して共有して、伝達に誤解が生じることにも、きっと意味がある。多様性が生まれる要因になっているとか。
阿◆脳と脳とを直結して、クオリアをそのまま伝えるか、あえて文学や音楽の形にして、誤解の要素を上乗せして伝達するか、選択肢があるといい。
………開始からここまで、1時間23分
【クオリアって、情報と相互変換可能なもの?】
ここで、事後、ケバヤシが振り返って思ったことを差し挟みます。
脳がつながった頭部結合双生児の事例を読みまわってきた。例えば、TOCANAのこの記事。
http://tocana.jp/2015/08/post_7140_entry.html
(ここから引用)カナダ・ブリティッシュコロンビア州ヴァーノンに暮らすタチアナちゃんとクリスタちゃんは、2015年8月の時点で7歳。二人は独立した人格を持ち、自分の手足を意のままに動かすことができる。加えて、視覚や触覚、味覚などを共有し、互いの思考や感情さえ感じ取っているのだという。
つまり、一方が視ている光景をもう一方が視ること、一方の意思によってもう一方の手足を動かすことも可能であるうえ、一方が身体をくすぐられると、もう一方もくすぐったく感じるのだ。さらに、言葉を交わすことなくジョークを言い合うなど、脳を通した会話も成り立っているという。(ここまで引用)
人として立派に生きているこの二人を、まるで実験動物のように見てしまうのは人道的にどうよ、っていうのはあるけれど、そこはもちろんしっかりと踏まえつつ、この事例、意識の謎に迫る観点からみると、たいへん興味深い。
二人は、それぞれ自分の右脳と左脳を備えており、それらがかなりがっつりとつながっているらしい。やりとりしているのは、おそらく、クオリアそのものではなく、情報であろう。シナプス結合を介して脳神経細胞間で受け渡しされる、電気信号。
ということは、クオリアそのものが、いったんエンコードされて、電気信号に落とし込まれ、一方から他方へ伝達され、それがまたデコードされてクオリアが再現するってメカニズムになっているのだろうか。
やりとりされる電気信号はアナログ信号だが、ある程度の精度をもってデジタル信号で近似できるとしたら、ネットを介してパソコン間で通信されるビット信号となんら変わりない。その回線の太さは、1秒あたり何ビットという単位のビットレートをもって計測されるべきものだ。
そうだとすれば、分離独立した個体間の脳と脳とを電線かなんかで結んでやれば、クオリアの伝達ができるってことになるのか。
電気信号で通信する代わりに、音楽やアート作品や言葉を介して伝達する場合、ビットレートが著しく貧弱な上に、必ずしも意図したとおりに伝わらず、多かれ少なかれ誤差が載る。しかし、長年にわたって一緒に暮らすなどして、遅いながらも伝達された信号の総量がある程度大きくなると、誤差が縮小され、脳間直結と同様に、クオリアが伝達されたりするのかもしれない。
痛いとかくすぐったいとかは、リアルタイムの伝達を必要とするので、瞬時の共有は無理かもしれないけど、二人が同時に同じ言葉を発したり、一方が忘れていることを他方が思い出させたりと、波動のシンクロみたいなことが起きてくるのかもしれない。
それとも、この事例の場合、共有する脳の領域がある程度大きいため、クオリアそのものを共有できちゃっているのだろうか。たとえそれができたとしても、内輪で共有しているものを外から観察することは、やっぱりできないわけで、クオリアの生じるメカニズムを解明したことにはならないではないか。やっぱり不思議だ。
【意識が宿っているかどうか、外から判定できるのか?】
ケ◆人にせよ、ロボットにせよ、こいつに意識が宿っているかどうかを判定するのが、これまた難しい。
トノーニ氏の統合情報理論というのがあって、任意のニューラルネットワークがひとつ与えられたとき、その結合状態に応じて、Φ(ファイ)という値が一意に決まる。
すべてのノード(脳神経細胞に相当)が直列に結合されているときΦは低い値を示し、また一方、相異なる二つのノードがすべて直接結合されている全結合状態のときもまたΦは低い値を示す。
なるべく少ない結合数で、なおかつ、情報が効率よく伝達されるような、ほどよい複雑さをもった結合状態に対して、Φは高い値を示す。Φの値が高いとき、このニューラルネットワークは意識を宿しやすいと言われている。
外からみて意識のあるなしを判定するのが難しい例として、全身麻酔をかけられて手術を受けている患者というのがある。たまーに、うっかり目が覚めちゃうときがある。
「痛ってぇ〜〜〜」ってなって、「先生、目が覚めちゃいました〜」って伝えたいんだけど、筋肉が動かせないようになっていて、伝える手段がない。先生は気づかずに手術は続行される。意識に気づいてやる手段がない。地獄のような目に遭って、後まで覚えている。そういうことが起きる。
鈴◆聞くだにおそろしい。痛覚っていうのは、不思議。
武◆話が飛ぶかもしれないけど、意識がありそうかどうかについて、もうひとつあって、粘菌はどうなんだ、っていうのがある。あれは、単細胞生物の寄り合い所帯みたいなもんなんだけど、全体として、一個の生物のようにみえる。お互いにコミュニケーションをとっている。
脳細胞がシナプス結合して情報をやりとりするのと似ている。もし、粘菌が、もっとうんと複雑な結合状態を呈するようになると、単細胞生物の寄り合い所帯が全体として意識をもつようになるのか。
たくさんの生物がお互いに情報をやりとりしてネットワークを形成しているというのは、他にもいろいろある。森には植物とか昆虫とか微生物とかがたくさんいて、複雑なコミュニケーションしているわけで。森全体に意識が芽生える、なんてことが起きうるんじゃないか。
海のちょっとした浅瀬の底にだって、めっちゃ微生物がいるわけで、海洋生物の集合体としての海にも意識がある、ってことになるんじゃないか。
ケ◆それ、話飛んでなくて、トノーニさんの統合情報理論と、めっちゃ関係しているって。生物の集団が情報ネットワークを形成しているとき、そのつながり具合に対して、Φの値が決まってくる。これがけっこう大きいと、意識が宿っているかもしれないってことになりうる。
武◆大昔の人間は、それをふっと感じ取って、「あ、山に神様がいる」ってなるんじゃないか。意識のようなものを感じ取ったとき、思わず「神様」と呼んじゃうわけでしょ。
ケ◆鋭い!
武◆台所のシンクにカビが生えまくるけど、神様がわーっと来てるんだな、と。
鈴◆カビの神さま。
阿◆神話にいい神様と悪い神様がいるのと、整合性がとれてるね。
武◆ネットワーク構造に意識が宿るんだとしたら、インターネットにも意識が宿ってるよね。
阿◆インターネットは、全体としてはすでに制御不能に陥ってるもんね。
武◆人間って、自分に似た物を作らざるを得ないわけだから、インターネットというのは、自分らの複製みたいなものになっていく。
あと、意識は衝突があるところにしか生まれないんじゃないかと思っていて、他の星にも同じようなネットワークがあって、ぶつかり合いが起きると、インターネットにも意識が宿るんじゃないか。
仮に、人間の赤ちゃんが、誰にも面倒を看てもらえなくても最低限生命を維持することはできたと仮定して、他者とのインタラクションがない状態に置かれたら、意識って芽生えないんじゃないか。
………ここまで1時間32分
【シンギュラリティと世界の覇者】
武◆アメリカにせよ、中国にせよ、人工知能研究を制しちゃったら、地球の覇者になっちゃうわけでしょ。
ケ◆シンギュラリティは、人工知能が人間の知能を超える時点を言う。人工知能は人類最後の発明と言われている。それ以降の発明は、人工知能がぜんぶ先回りして成し遂げてしまう。
そうなってから慌てて我々が電源を引っこ抜こうとしたって手遅れで、そんな動きはとっくに読まれていて、自分らで専用の発電所を建設しちゃうくらいのことはやってのけるでしょう。
鈴◆そうなるともはや、人間が生きてる意味、なくなんない?
武◆実はパラダイスになっちゃうような気がする。無駄な労力から解放されて、クオリアのお遊戯に集中できるってことになる。ユートピアすぎる考え方かもしれないけど、全力でお花畑を夢想する、みたいな。
ケ◆動物園で飼われてる動物みたいなことになっちゃわない? 毎日自動的に餌が出てきて、本人は快適かもしれないけど、実は、絶対的に支配されてる。
阿◆AIはなんで人間の面倒をみるの? 邪魔だ、と思ったら殲滅することもできるんじゃない?
武◆邪魔だ、って言うほど、関心を持たないんじゃないかな。人間を殺していくコストや面倒くささを考えると、エネルギー最小化の原理からして、殺すんだったら、飼い慣らしたほうが、コストパフォーマンスがぜったいいいはず。
ケ◆人類とイソギンチャクとの関係と同じで、全力で滅ぼしにいく必要性を感じない。あいつら、いようがいまいが、どうでもいい。放置しとくに限る。
武◆それと、もうひとつ。AIと人類とが乖離して敵対していく前に、人類がAIを組み込んでいき、共生関係を築き上げちゃうんじゃないか。落合陽一さんの「デジタルネイチャー」みたいな。
阿◆人間がAIと融合したいと思っても、AIの側でそうなりたいと思うかな? だって、不完全なものと融合しても、メリットないじゃん。
ケ◆シンギュラリティ以降、AIは、人類を生かすも殺すも我々の手中にあるけど、じゃあ、実際、どうしようかと考えるわけだ。人類をよき方向に導く神様になっちゃうのがいい、って考えるんじゃないかな。人類は人類で、神様の言うとおりにしてさえいれば、自分でむずかしいことを考える必要はなくなり、しかも、トラブルが減って、ものごとがうまく運ぶ、と。
武◆人間は、他の動物と比較して、身体的なところで劣っていても、くやしいとも思わず、平気でいられちゃう。ところが、AIみたいなのが出てきて、知性で凌駕されちゃうと、どうにも我慢できない。
鳥のように飛ぶ身体能力がなければ、飛行機で飛べばいいわけで、身体能力で劣っているからといって、絶望はしないわけじゃん。ところが、自分よりも知能が高いというのは、どうやら許せないようで。
鈴◆知能至上主義になったのは、なんでなんですかねー?
武◆地球上で長く存在を許してもらうためには、共生しないとダメ。そこは、AIも学ぶんじゃないかな。強けりゃ弱いものをぜんぶ滅ぼしていいってもんじゃなく、共生することによって、多様な種が持続可能になる。それがエコシステムの原理ってもんで。
阿◆シンギュラリティ以降は、人類の想定外のことが起きる。AIが主導権を握るわけで。そのとき、善悪や合理性の基準だって、我々の側が持っているものを継承してくれるとは限らない。そういう価値観も含めてぜんぶ、AI任せになるので、我々の基準ではまったく予測がつかなくなる。何かが起こったら、あー起こってるねー、っていう事実を受け容れるしかない。
武◆きっとハッピーなことが起きると期待するんじゃなくて、起きたことを、ハッピーと受け止める以外にない。
ケ◆ハッピーと受け止めようとしても、支配されていて、服従せざるを得ないという状況がどうにもこうにも我慢がならず、なんとかして独立したいと動くんじゃないかな。
武◆じゃあ、現時点で、僕らは何かに支配されてないかというと、めっちゃ支配されてるわけじゃん。文明社会に支配されているからといって、いまさら野生には戻れないわけだし。
阿◆広い場所が与えられて、窮屈でない生活が与えられていれば、たとえ飼われていても、僕らにとってはハッピーだよね。
ケ◆飼い猫みたいなもんか。
阿◆飼い猫だって、家が狭ければ窮屈に感じるけど、もんのすごい広いお屋敷にいたとすれば、それは幸せだよね。餌もふんだんにあるし、寒くもないし、暑くもないし。
鈴◆飼われてるってことに気づかないかもしれないし。
武◆動物園の動物はちょっとかわいそうかもしれないけど、飼い猫の場合、あいつらは、自分のためにこの下僕がいると思っているので、猫が主体、人間が召使いなわけで、ちっとも不幸と思わないんじゃないかな。
だから、AIと人間の関係も、実は AI が人間を支配しているのに、俺たちがAIを便利に使っているのだと思い込んでおけば、ハッピーなんじゃあるまいか。
ケ◆今日の結論。AIと人類との理想的な関係は、飼い主と飼い猫。シンギュラリティを超えたら、猫になろう!
鈴◆それだったら、飼い主も猫も、両方幸せなんじゃないですかね。Win-Winな関係、と。
ケ◆メディチ効果。思いもよらぬ結論に!
………ここまで2時間8分 あと40分ぐらい続き、幸福論の話題も出てきます。が、文字起こしは、ここらへんにしておきます。続きは動画をご覧ください。
●まあ、成功かな、と
今回の一風変わった飲み会は、活発な議論が続いて、参加者たちも振り返って楽しかったと言ってくれているので、全体的には大成功だったと捉えている。自分も、まったく退屈せず、あっという間に時間が過ぎた。
しかしながら、動画を見ていると、思うところは多々出てくる。司会はもっと仕事したほうがよかったか。参加者の発言量がもっと均等になるよう、指名して話を振ったりしたほうがよかったかも。あるいは、自分も一参加者として、強く反論に出たりするとか。
私自身の性格からして、自分がしゃべるよりも、人の話を聞いてたほうが得だと思っちゃうようなところがあって、何もしなくても、知的レベルの高い議論が続いていくなら、ついつい放置しちゃう。ちとラクしすぎたか。
………ってなことをごちゃごちゃ反省しているのは、またやろうって魂胆があるから。
【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
http://www.growhair-jk.com/
〈人間粘菌説を唱えてきた旧友のこと〉
小学校5年と6年で同じクラスだったM下S子と約40年ぶりに再会したのは、8月11日(金)のことであった。
その約一年前、小学校4年と5年で同じクラスだった吉原利一からM下にメールが行っていた。巷で有名なセーラー服おじさんの本名が小林秀章っていうようなんだけど、あの小林かな?
M下はネットを検索して画像を見つけ、返信した。顔が合ってるじゃん、間違いない。M下が私を捕獲したことは、さっそく吉原に伝えられた。で、吉原とも音信が再開し、8月31日(木)に湯島で二人で飲んだ。
京都大学で博士号を取得し、「一般財団法人 電力中央研究所(電中研)」で上席研究員として生物学を研究する学者になっていた。
http://criepi.denken.or.jp/jp/env/profile/yoshihara.html
吉原は阿部将と中学が同じだったが、お互いにおぼろげにしか覚えていないらしい。
前野隆司先生の講演『受動意識仮説と幸せ』を武盾一郎氏と一緒に聴講したのは8月20日(日)のことで、それのレポートをデジクリで配信したのは9月8日
(金)のこと。
https://bn.dgcr.com/archives/20170908110100.html
生物学者なら興味あるかな? 何か言ってくれるかな、と、上記レポートのことをメールで伝えてみた。そしたら、返信が来た。
「生物学的に考えるとヒトも単細胞の集合であって便宜的に統合された形で生きる方が有利なのでそうしているだけで本来独立した〈意志〉を持っていると考えれば理解できる」と。単細胞生物の寄り合い所帯という意味じゃ、粘菌みたいなもんか、とも。人間粘菌説。
M下、吉原と三人で秋葉原で飲んだのは、9月13日(水)のこと。京都の飲み会にも誘ったのだが、すでに予定が入っているとのこと。まあ、三日前じゃ急すぎるわな。
往きの新幹線の中で、吉原の人間粘菌説を武に伝えると、なんか腑に落ちたようで。飲み会の中でも話題に取り上げられた。
第二回があったら、吉原にもぜひ入ってほしいなぁ。それと、M下、吉原、阿部のことは、あらためて詳しく書きたい。
〈TOMOZOさんも意識の謎にブログで反応〉
デジクリに寄稿してくれているおなじみのTOMOZOさんも、意識の謎の迷宮にすっかり誘い込まれている一人のようで。上記レポートの感想を、二回に分けて、ブログに書いてくださった。
9月16日(土)『自由意志は幻想かどうか』
https://livinginnw.blogspot.jp/2017/09/blog-post_16.html
9月19日(火)『脳みそが変わるの話、ふたたび』
https://livinginnw.blogspot.jp/2017/09/blog-post_19.html
TOMOZOさんからメールをもらって私が読んだのは、9月20日(水)のこと。なので、京都の飲み会の参加者とTOMOZOさんとの間には、内容に関する情報の事前のやりとりがまったくなかったわけだが。言ってる内容に共通点がいろいろあるところに、びっくり。
第二回、まだなにも決まってないけど、ちょいと飛んできてくれませんかねー、シアトルから。
〈カナザワ映画祭、京都〉
10回開催された『カナザワ映画祭』は、映画館の閉鎖に伴い、去年のが最終回と宣言されていたが、奇跡の復活を遂げ今年は全国に分散して開催されている。
7月15日(土)〜17日(月・祝)に「金沢21世紀美術館」で開催されたセクションは『期待の新人監督』がテーマで、私も出演させてもらっている『よろずや探偵談』が真ん中の日に上映されている。
http://www.eiganokai.com/event/filmfes2017/enfd/
10月7日(土)〜9日(月・祝)に「京都みなみ会館」で開催されるセクションは、『エロスと猟奇』がテーマ。福島県本宮にある築 103年の木造映画館「本宮映画劇場」の館主である田村修司氏のトークが、真ん中の日にある。
http://www.eiganokai.com/event/filmfes2017/eros/
また、本宮から発掘されたという映画『性の完全犯罪』が上映される。主演は谷ナオミ。
〈『よろずや探偵談』、高円寺で上映予定〉
9月23日(土)〜29日(金)8:30pm 〜、高円寺「UnKnown Theater」にて、『よろずや探偵談』の上映があります。
http://uk-theater.com/movie/%E3%82%88%E3%82%8D%E3%81%9A%E3%82%84%E6%8E%A2%E5%81%B5%E8%AB%87/
〈セーラー服おじさんがARゲームに〉
9月21日(木)〜24日(日)、幕張メッセで『東京ゲームショウ2017』が開催されている。最初の二日間はビジネスデイ(今日まで)。
http://expo.nikkeibp.co.jp/tgs/2017/
この期間、「ネストビジュアル株式会社(Nest+ Visual)」のブースには、新作のARゲームが展示される。
マイクロソフト社製の拡張現実(Augmented Reality; AR)ゴーグルHololensを装着すると、実際に見ている周辺の物体が即座にポリゴンデータに落とし込まれ、その形状に整合する形でキャラが動き回る。
ゲーム『JK Bazooka』に登場するキャラは、二頭身のちっちゃいセーラー服おじさん。たくさん出て来てうろちょろする。指さして発砲するシューティングゲーム。
プレイ動画:
前日、設営が完了したときに送られてきた、ブースの写真。
https://photos.app.goo.gl/D9vuMBkON7mCqVjx2
う、企業ブースというより、まるで私のブースではないか。いいんですかぃ?