《すごくわかりやすくて圧倒的な矛盾》
■ゆずみそ単語帳[21]
負の遺産のメモリアル
TOMOZO
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■ゆずみそ単語帳[21]
負の遺産のメモリアル
TOMOZO
https://bn.dgcr.com/archives/20180601110100.html
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●リンチ殺人のメモリアル
アラバマ州のモンゴメリーに、今年4月26日、ものすごく画期的な記念館がオープンした。
その名は「The National Memorial for Peace and Justice(平和と正義のための全国メモリアル)」。
これは何かというと、南北戦争後、19世紀の半ばから20世紀のはじめにかけて、南部で年中行事のように行われていた、白人による黒人へのリンチ殺人を記憶するためのメモリアルなのだ。そう、リンチ殺人のメモリアル。
発起人は人権活動家で弁護士の、ブライアン・スティーブンソンさん。
彼が主宰するNGO「EJI(イコール・ジャスティス・イニシアティヴ)」の弁護士たちが、リンチ事件をきちんとした記録にとどめようと、南部各地の地元図書館で文献を調べ、1877年から1950年までの間に起きた4000件以上のリンチ事件をデータ化、報告書にまとめた。
そうして、これまであまり表立って語られることのなかったこの歴史的事実を形にとどめ、乗り越えるために記念碑を構想したという。
このメモリアルは政府のお金でできたものではなく、「100人ほどの有志の寄付」によるもの。国にしろ州にしろ町にしろ、アメリカ南部で公共の資金を使ってこれを作ろうと思ったら、おそらく大紛糾の末、あと100年くらいはかかったのではないかと思う。
ゆるやかな緑の丘の上にあるこのメモリアルは、一見してごく穏当なひらべったい建物に見える(まだ私は行ったことはなく、映像で見ただけですが)。
真っ平らな低い屋根の下には、鉄さび色の一抱えくらいの柱のようなものが、ギリシャの神殿のように等間隔で並んでいる。
https://museumandmemorial.eji.org/memorial
この柱のようなものが、それぞれリンチ殺人事件のあった800のカウンティ(郡。町より少し大きな規模の行政地区)を示すモニュメントなのだ。
近づいてみると、これは柱ではなくて、天井からアイスキャンディを逆さにしたような具合に吊るされていることがわかる。それぞれのモニュメントには、リンチの犠牲者の名前と、リンチがあった年月日が刻印されている。
メモリアルに入ると、モニュメントはちょうど僧院や神殿の大広間の柱のように目の高さに並んでいる。入館者が先に進むにつれ、床がだんだんと低くなっていき、やがてモニュメントを頭上に見上げるようになる。ちょうど、リンチされた遺体が吊るされていたのを見上げるように。
これがどういう意味を持つのか、日本の人の多くにはいまいち分かりづらいかもしれない。わたしもアメリカに来た当初は、この人種間の緊張の歴史をほとんど理解できていなかった。
まず、アラバマ州モンゴメリーというのはどういう場所であるかというと、いうまでもなくディープサウス(深南部)の州都で、公民権運動の時代に最も激しい応酬があった場所のひとつだ。
1955年、ローザ・パークスさんが勤め帰りのバスの中で白人に席を譲るのを拒否して逮捕されたあと、大々的なバスボイコットが組織されて、公民権運動が本格的に動き出すきっかけとなった場所でもある。
そのバスのボイコットを組織したリーダーの一人が、モンゴメリーの教会に赴任したばかりの若きマーティン・ルーサー・キング牧師だった。
バスボイコットは、バス車内の人種隔離を違憲とする連邦最高裁の判決を勝ち取って勝利に終わったものの、奴隷解放後100年近く続いていた人種隔離と暴力はもちろん、そう簡単に終わるはずもなかった。
連邦政府の圧力を跳ね返して人種隔離政策を死守する、と公約して白人の圧倒的な指示を得て当選したジョージ・ウォレス知事は、1963年1月、このモンゴメリーで知事に就任するにあたって「人種隔離を今、人種隔離を明日も、人種隔離を永遠に!」という、アメリカの黒歴史に残る有名なスピーチを行った。
つまり言ってみればモンゴメリーというのは、そのとき、人種隔離政策のイメージ上の大本営のような場所だった。
このメモリアルのある丘からは、そのスピーチの行われた州議事堂と、かつて奴隷貿易のせり市場があったアラバマ川の河畔が望めるという。
●南北戦争後の人種迫害
わたしは5年くらい前にアトランタに行ったときに、地元の歴史博物館で南北戦争についての展示をけっこう時間をかけて見て、それまでごくボンヤリとしか把握していなかった南北戦争が、初めて実感をもって少し理解できた気がしたのだった。
そのときのブログ記事はこちら↓
http://livinginnw.blogspot.com/2013/01/swan-house.html
アトランタの博物館の展示の中には、南北戦争直前にアラバマのとある農場主が言った言葉が掲示されていた。
"There is no middle ground to be occupied. It is right and just that the black race should be held in bondage, or it is wrong and sinful."
Nathaniel Macon, Alabama planter, 1860
「中立的な立場なんていうものはあり得ない。黒人を奴隷にしておくのが正当で良いことなのか、あるいは不当で罪深いことなのか、どちらかだ」
そりゃそうだろう。と現代のわたしたちは思うのだけど、150年前の米国では、これが根源的にホットな問題だった。たった150年前のことである。
21世紀の現在となっては、「人間を所有し拘束し、売買すること」が「正しいこと」とされていた時代を想像するのは、けっこう難しい。
でも150年前にはそれは現実に経済上の大問題であり、奴隷制擁護派は法律や聖書の言葉を駆使して、既得権益と既存の秩序を守るために戦った。
いやいや、あなたたちの言う理想はわかるよ、でも世の中は残念だがそういうふうにはできていないんだよ、と彼らは言った。奴隷制をなくしたら国の経済も秩序も大変なことになるのが君らにはわからんのかね、と。
中立点のない争いは、国を二分する戦いになって、62万もの国民が殺し合って死んだ。62万人。杉並区の人口よりも多い人間が4年間の国内戦争で死んだ。これは第二次大戦での米軍戦死者よりも多いのだそうだ。
南北戦争は、ペリーが浦賀に来てから明治維新が起きるまでの間、幕末と同時進行で起こっている。そう思うと、19世紀なかばのこの時代というのは世界的にものすごいパラダイムシフトの時期だったんだなあ、と今さらながらその数十年間の密度にびっくりする。
もちろん北軍が正義の味方だったわけではないし、南北戦争で奴隷の解放が義務づけられてからも、奴隷から小作人に身分が変わっただけで、元奴隷の生活も立場もほとんど変わらなかった。
南北戦争終結後、政府が優先したのは国の経済的復興と統合であって、人種間の平等などではなかった。憲法に書いてある権利という空約束を根拠に、黒人の指導者たちが政府と対決しはじめるのは、その90年後のことだ。
南部での白人による黒人への「人種テロ」が熾烈を極めたのは、南北戦争後のこの時代だった。
自由人となった黒人たちが、自分も白人と同じ権利を有するなどという間違った考えを持つことのないように、白人たちはしっかりクギをさしておかねばならなかった。一般にジム・クロウ法と呼ばれる人種隔離の法律ができて黒人の権利を制限し、生意気な行動を取った黒人はあちこちの町で見せしめに拷問されて殺された。
この時代、19世紀後半から20世紀はじめにかけてのリンチは、白いフードをかぶったKKKのような秘密結社によって夜中に行われたのではなくて、しばしば白昼、何千人もの群衆が見守る中で、町の広場で行われたのだという(南部だけではなくて、件数はずっと少ないがイリノイ州など北部でも起きていた)。
広場に吊るされた黒焦げの死体と、それを取り囲んでいる白人の大群衆の写真がいくつも残っている。白人の群衆は教会に行くようなパリッとした正装で、拷問されて死んだ死体の前で微笑んだりしている。子どもたちも一緒に。
※閲覧注意
https://www.theguardian.com/us-news/2018/apr/26/lynchings-memorial-us-south-montgomery-alabama
https://www.cvltnation.com/nsfw-american-terrorism-lynching-postcards/
リンチの写真は、記念絵葉書としても使われた。黒焦げ死体の写真が「昨夜こんなバーベキューしたんだぜぇ」というメッセージとともに、米国郵便で配達された。
こうしたリンチは黒人コミュニティ全体へのメッセージだった、と、CBSの番組のインタビューでスティーブンソンさんは語っている。
ある男性は「白人女性の後ろを歩いた」というだけで惨殺された。夫をリンチした白人たちに抗議をしにいった妊婦も殺されて吊るされ、胎児も引きずり出された。声をひそめて生活しなければこうなるという見本として、ぶら下がった黒焦げ死体は何万人ものコミュニティの記憶に刻まれた。
●奇妙な果実から癒しへ
ビリー・ホリデイが『奇妙な果実』を歌ったのは1939年。当時は内容がセンセーショナルすぎて、なかなかレコーディングできなかったという。
ビリー・ホリデイ『奇妙な果実』(英語字幕)
第二次大戦後はさすがに白昼、大群衆を集めてのリンチ殺人は行われなくなったものの、黒人コミュニティが恐怖の下に押さえつけられていたことは変わりない。
公民権運動のもうひとつの起爆剤となったのも、1955年のある惨殺事件だった。
シカゴから夏休みにミシシッピの親戚を訪れていた14歳のエメット・ティル君は、ソーダ店の前で白人女性に気安く声をかけた。シカゴの街の子だった彼は、南部の黒人たちがなぜそんなに小さくなって暮らしているのか、理解できなかった。
声をかけられた白人女性は驚いて逃げ、黒人から性的嫌がらせを受けたというような尾ひれのついた話が広まった。武装した白人の男が二人、夜中に押し寄せてエメット君を連れ出し、目玉をくりぬいて殺し、川に沈めた。
数日後に発見された死体がシカゴに送られると、彼の母親は棺桶をあけたまま葬儀を行い、自分の息子になにが起きたかを見せた。
葬儀には何万人もの人が参列し、死体の写真は全国のニュース媒体で配信され、逮捕された白人の犯人があっさり無罪になった裁判の結果とともに、全米の多くの人びとに衝撃を与え、その後何十年もアメリカの歴史に影響を与え続けるターニングポイントになった。
目玉をくり抜かれた14歳の少年の腐乱死体が、国の常識を問い直す衝撃的なポスターチャイルドになったのだった。
その同じ年にモンゴメリーで、バスのボイコットが起きたのは偶然ではない。ローザ・パークスさんは後に、白人に席を譲るのを拒否した時、エメット・ティル君のことを考えたと語っている。
スティーブンソンさんは、なぜ今、この記念館を作ったのかという問いに、「アメリカを罰したいのではなく、解放したい」からだと答えていた。
忘れたふりをしたり、なかったことにしたりすることでは決して傷は癒せない、直視することでしか過去は乗り超えられないのだ、という。
そして、過去と現在の問題を直視することが、黒人コミュニティだけではなく白人の当事者たちにとっても癒しの始まりとなるはずだ、とも語っていた。
癒しをかたちにするプロセスのひとつとして、リンチ殺人現場の土が、ボランティアや親族の手で集められビンに詰められて、館内に展示されている。
そしてこの記念館では、奴隷貿易から現在までをひとつながりの歴史として展示している。
いま現在も、驚くほど偏った割合で、ときには無実の罪で、黒人男性の多くが刑務所に収容されている。記念館ではその事実が、歴史のコンテクストの中で語られている。
1973年以降、なんと162人もの死刑囚が冤罪を証明されて釈放されているが、その多くは黒人だ。
スティーブンソンさんの主宰するEJIは、死刑囚の無実を証明するために尽力してきた。この冤罪の数が、その既存の法システムに組み込まれたバイアスを物語る。
この記念館は遺物を見るためのものではなく、歴史にかたちを与え、見る人に問いかける構成になっている。
きっと、こういった展示に怒りを感じる人も、これはみんなフェイクニュースだ、捏造だと言い出す人も、無意味だと言う人もいるのだと思う。
でも、こういう淡々としていながら力強い、そして冷静な癒しへの意思があり、たゆまず活動している人たちがいることそのものに、救いを感じる。
この記念館はかたちが変わっていくというところも素晴らしい。
記念館の外の屋外には、吊るされたモニュメントと同じ数のモニュメントが並べられ、800のそれぞれのカウンティから要請があり条件が整えば、それがそれぞれの地元に設置されていくという。
アメリカという国は「すべての人は生まれながらにして等しく自由で独立しており、先天的な権利を持っている」という自然権をうたって建国したのにもかかわらず、奴隷制というとてつもない矛盾を抱え込んでいた国だった。
アメリカの現代史は、「すべての人」の定義をめぐる戦いだったといってもいいと思う。
ちょっと誤解を招く言い方かもしれないけど、平等という理想を掲げながら先住民のネイティブ・アメリカンや、奴隷であったアフリカ系アメリカンの人権を徹底的に蹂躙していたというとんでもない矛盾が、アメリカという国のカオスなパワーのひとつの源なのだと思う。
ある意味すごくわかりやすくて圧倒的なこの矛盾が、20世紀を通して文化面でも政治面でもいろんなものを生み出してきたし、それは米国のみならず世界全体に作用した。
ジャズもロックも奴隷時代のレガシーと人種間の緊張なしには生まれなかったし、何世代も続いた迫害に対する激しい公民権運動とその勝利なしには、そのあとのウーマンリブもLGBTムーブメントも現れなかった。
と、半世紀あとにざっくり振り返ると、まるで現在の社会のあり方にたどり着くのが当然だったかのように思えてしまうけど、1860年の人びとにも、1955年の人びとにとっても、自分たちがよく知っている社会秩序がすっかり変わってしまう未来像は荒唐無稽に感じられたはずだ。
いま、米国はまた何度目かの揺れ戻しを経験して、完全に分裂しているように見えるけれど、これも50年後や100年後の人から見たら、ある方向に向かう途上の、当然の動きに見えるのかもしれない。
その50年後の社会で当たり前になっている生活感覚は、私たちには多分、理解できないのだろう。
【TOMOZO】yuzuwords11@gmail.com
米国シアトル在住の英日翻訳者。在米そろそろ20年。マーケティングや広告、雑誌記事などの翻訳を主にやってます。
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編集後記(06/01)
●2008年フランス制作の「96時間」を見た。原題は「Taken」。この日本語タイトルは「誘拐事件の被害者が無事でいると考えられる猶予期間」だと作中で知った。元CIA工作員のブライアンは、離婚した妻(と娘)が富豪と再婚していて(またこれかい。仲良く平和に暮らしているアメリカの夫婦はいないのか)、愛する娘のキム(17)のことが気になって仕方がない。元妻はキツい女だが。
キムは友人アマンダと二人でパリに遊びに行き、いとこ(外遊中)のアパートに泊まる。キムはブライアンへの電話報告時に、アマンダが拉致されるのを見る。キムはベッドの下に隠れ、引きずり出されるときに、ブライアンの指示通り、誘拐犯の姿形を「髭、180cm、右手に月と星のタトゥー」と伝える。男は電話を取り上げるが、ブライアンの脅しに応じず、「Good luck」と一言。
音声分析の専門家が、この一言から「言語はアルバニア語、トロポヤ県の訛り、男の名はマルコ。犯罪組織のボス・マルコが半年前にパリへ。そいつなら大物だ。月と星のタトゥーは組織のシンボル。彼らの専門は若い女の人身売買。最近は手っ取り早く旅行中の若い女を誘拐する。奴らの犯行だとすると、誘拐後96時間以内に見つけないと永久に戻らない」と断言。そこまで分っちゃうの?
ブライアンは富豪の自家用ジェットでパリに飛び、キム&友人探しに猛進する。誘拐現場でキムの破壊された携帯電話を回収し、SDカード内のデータからキムに接触して来た男と場所を特定。男を見つけて追うが、男は車にはねられて死亡。ブライアンはかつての同僚で、今はフランス国土監視局の副局長ジャンに接触する。協力拒否されてしまうが、マフィアの売春宿の場所は聞き出せた。
ブライアンは建設労働者に扮し売春宿に入り込み、キムのジャケットを着た女を見つける。彼を怪しむギャングたちを皆殺し。女から知らされたアルバニア人の屯する家に入り込み、4人の男の座るテーブルでマルコを特定する。このへんのやりとりが実にスリリングだ。3人を射殺し、マルコを容赦ない拷問に。
キムをパトリスという男に売ったという。マルコを射殺。人身売買に関与しているらしいジャンの権限を使ってパトリスの居場所を特定し、警官を偽って潜入。地下で行われていた人身売買の現場を目撃、しかし不意打ちをくらって昏倒。手錠をかけられたブライアンは、絶体絶命。殺される寸前に神業の如く拘束から脱する。キムの居場所を聞き出し、皆殺し。テンポがよすぎる展開だ。
港に急行すると、アラブ人豪商ラマンの船に乗せられるキムを目撃する。既に岸を離れている。高い橋の上から船の甲板に飛び降りるという荒業、激しい銃撃戦、護衛たちを次々と容赦なく殺す。全員。最後、ラマンはキムにナイフを向けて、取引しようと言うが、ブライアンは躊躇せず顔面に弾丸を撃ち込む。
実に分かりやすいストーリーであった。こんなめんどうくさくない映画は初めてである。とにかく、娘救出に怒濤の一本道。流れに乗っていればいいのだ。洋画で迷子になる傾向があるわたしだが、この映画なら安心。それにしても、いったい何人殺したんだ。無事にカルフォルニアに帰ってきたが、そんなわけないだろう。フランス出国できるはずない。なんて固いこと言わず。(柴田)
「96時間」続編、第3作もあるらしい
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00IHWFLG6/dgcrcom-22/
●TOMOZOさんの記事、心をえぐられそうです。ビリー・ホリデイの歌は知ってましたが、歌詞は知らず。そんな意味があったなんて。途中の画像は目を細め、焦点をぼかして見てみましたが、2つ目のページは途中でギブアップしました。
/96時間面白かった〜。続編も見たいなぁ。Amazonプライムになるのを待つ!
/セイコーGGP続き。ゴールしたら、1位の選手が、抽選か何かで選ばれた子供たちのTシャツにサイン。その後、短い勝利者インタビュー。人によってはトラック外周をまわりつつ観客に手を振っていたり。
その間にスタッフは、次の競技のための準備。スタート位置の調整やハードル設置・片付けなど。この段取りが素晴らしく、システマチックで惚れ惚れ。女子400mの次は400mハードルで、設置に10分かからなかったような。
選手入場は、私が見ていた時間帯だと、男子100mと男子200mだけがチアリーダーに囲まれての派手な演出。やり投げ選手などは、トラック内側に並んで立って、名前を呼ばれ手を振るだけ。続く。 (hammer.mule)