Otaku ワールドへようこそ![281]集合論についての手ほどきと、現代的迷宮へのいざない
── GrowHair ──

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集合論は小学校の算数で出てくるもんだとばかり思っていた私は、それが1971年(昭和46年)から 1979年(昭和54年)までのたった9年間のことだったのだと知り、少なからずショックを受けている。

集合論は数学の理論体系全般を支える、基礎の基礎の基礎であり、これなしにはどんな建造物も構築しえない、すべての土台にあたる部分なのだ。これを若いうちに叩き込んでおかなくてどうするよ!

今は、高校1年になって初めて「集合」という言葉が教科書に登場するらしい。ってことは、それまでに習う計算やら方程式やら関数やら図形やらは、数学の領土に足を踏み入れることなく、外の世界で数学っぽい何か別の営みをしていることになりはしないか。

余計なことを考えずに、決まりきった手順にしたがって素早く正確に手を動かしさえすればいいのだと強制する、単純労働者養成訓練みたいなものではないか。人間を機械扱いしてないか? 数学は、断じて、そろばんではないぞ!

とは言え、「基礎」というのは「初歩」とは違って、案外、一筋縄ではいかないところがある。ちょっと油断すると、「ラッセルのパラドクス」みたいな怖いもんが口を開けて待ち構えているので、そういう危険をいかにして回避すべきか、みたいな議論は、けっこう闇が深い。





そういう深淵と隣り合わせみたいな道を歩かせるのは、なるべく後回しにしておきたいという親心も分からなくはない。世の中には抽象的な議論が得意な人とそうでもない人がいるようなので、義務教育の早い段階で、全員を対象として抽象論を押しつけたりしては、「理解できなかった」という挫折感を多くの人に植えつけるだけに終わりかねない。それはそれで拷問っぽい。

昭和46年発行の大日本図書『小学校新算数』の4年の目次に「3.集合の考え」という項目がある。小学校4年生に集合論を教えることになった経緯については、大日本図書のウェブサイトの「教科書いまむかし」というコーナーに記述がある。

https://www.dainippon-tosho.co.jp/math_history/history/age03_el/

https://www.dainippon-tosho.co.jp/math_history/history/age04_el/


「昭和32年、ソ連が世界初の人工衛星「スプートニク」の打ち上げに成功したのをきっかけとして、欧米を中心に科学教育向上の気運が高まりました」。おお! ソ連のせいだったのか!

ところが、集合などの新しい内容や、全体的な学習量の過多から、学校現場にとまどいが生じ、マスコミからも「落ちこぼれ」が問題視されるようになり、小学校のカリキュラムから集合論が消えていったとのこと。

小学校で集合論を教えなくなったのに、ベン図(後述)を描いて解く問題は、今でも中学の入試で出題されている。例えば、こんなやつ。

【問題1】
ある小学校の4年生に50人に、国語と算数が好きかどうかを聞いたところ、次のようになりました。
○国語が好きな人 → 32人
○算数が嫌いな人 → 21人
○どちらも嫌いな人 → 7人
これについて、次の各問いに答えなさい。
(1)算数が好きな人は何人いますか。
(2)国語と算数のどちらも好きな人は何人いますか。(ここまで【問題1】)

さて、今回は、集合論の初歩的なところを解説します。対象年齢:10歳以上。決して、数学嫌いの人を拷問にかけようという意図ではありません。

いずれは「意識の謎」に迫る話をしたいのです。が、この問題は、哲学の土俵の上で、われわれが日常的に用いる言葉を使って、いくら議論を重ねても、「解明された!」という状態に至ることは決してありません。言葉が浪費されるだけです。

脳という物質の上にどうして意識が宿りうるのか、そのメカニズムを数学の言葉で記述しきったことをもって、初めて「解けた!」と言えるのです。意識の問題は、数学の問題だったのです。哲学方面からではなく、数学から解明された暁には、意識を機械の上に載せる方法論についても、おのずと立ち現われてくるでしょう。

で、本題の話を始めるための前置きとして、数学の山の裾野の部分をざっと眺め回しておこうと思います。その中のひとつの重要なトピックとして、今回は集合論を取り上げましょう、というわけです。

●集合とは何かをきちんと述べようとすると...

話の順番からして、まずは「集合とは何か?」という説明から入るのが筋というものではありますが、たいへん心苦しいことに、それがそう簡単にはいかないという言い訳から入らなくてはなりません。

「集合とは何か」を数学の言葉で厳密に定義しようとすると、えらいことになっちゃうのです。「公理的集合論」というのがありまして。

「公理(axiom)」というのは、それが正しいことを証明抜きで仮定し、他の命題を証明するための前提とする根本命題のことです。いくつかの公理を集めて、ひとつのセットにしたものが公理系です。

公理系は、ひとつの数理体系の出発点を定めたものであり、建造物の土台に相当します。公理系から証明可能な命題を「定理(theorem)」と言い、定理の集まりが数理体系をなすことになります。

ひとつの公理系をなす公理がすべて絶対的に正しいものだと信じることができたら、そこから生じる数理体系もすべて絶対的に正しいと信じることができるはずです。

その意味において、数学とは、この宇宙やわれわれ人間が存在するかしないかいかんにかかわらず、そこに絶対的に存在する真理を、われわれ人間ががんばって「発見」していく営みであるという見方ができます。

一方、われわれ自身の直感に符合するかどうかを別として、恣意的に公理系を定めてみると、そこから、多少奇妙でありながら、決定的な矛盾が見当たらない、ひとつの数理体系を構築できることがあります。

われわれが住んでいるこの世界とは別の法則で成り立っているけど、それはそれでアリかもしれないね、というような別世界。この意味において、数学とは、天地創造に近い営みであるとみることもできそうです。おもしろい公理系をひねり出すのは、「発見」よりも「発明」に近い感じがします。

さて、集合についての公理系のうちで、標準的とされているものに「ZF公理系」というのがあります。これを提唱したZermelo氏とFraenkel氏の頭文字を取って、この名前がつけられています。

ZF公理系において、集合とは何であるかを直接的に規定することを放棄しています。要は、何だか分からないし、何でもいい、と言っています。というか、何も言っていません。集合の要素についても同様です。

要素と集合との間には「∈」という記号で表現される関係性が存在するけれども、その関係性とはいったい何か、という点についても直接的には規定していません。

ただ、この「∈」という関係性に関して、次の8つの命題が成り立つことを証明抜きに仮定し、これをもって公理系としましょう、と提案しています。

その8つの命題を書き並べてみましょうか。こうなります。

(1)∀A∀B (∀x (x ∈ A ⇔ x ∈ B) → A = B)
(2)∃A∀x (not (x ∈ A))
(3)∀x∀y∃A∀t (t ∈ A ⇔ (t = x ∨ t = y))
(4)∀X∃A∀t (t ∈ A ⇔ ∃x ∈ X (t ∈ x))
(5)∃A (φ ∈ A ∧ ∀x ∈ A (x ∪ {x} ∈ A))
(6)∀X∃A∀t (t ∈ A ⇔ t ⊆ X)
(7)∀x∀y∀z ((ψ(x, y) ∧ ψ(x, z)) → y = z)
  → ∀X∃A∀y (y ∈ A ⇔ ∃x ∈ X (ψ(x, y)))
(8)∀A (A ≠ φ → ∃x ∈ A ∀t ∈ A (not(t ∈ x)))

何でしょうね? どっかの遠い星に住む宇宙人が刻んだ壁画かなんかでしょうか? これを小学生に教えたら、たいへんなことになりそうですね。もしかしたら天才が発掘できるかもしれませんが。

というか、(7)と(8)については私もまだ解読できてません。なんのこっちゃ?!

つまり、「基礎」は「初歩」ではないということです。集合とは何かを初学者にも分かりやすく説明しようとするならば、どうしても、比喩を使ったり、実例を持ち出したりして、感覚に訴える方法をとらざるを得ません。

しかし、数学的に厳密な見方からすると、それではあいまいさが残り、定義としては不十分であるとのそしりをまぬかれません。

そこをツッコまれたとき、「そんなにちゃんと知りたいなら、じゃあ、これをどうぞ♪」と差し出すべきものがZF公理系というわけです。

ついでながら、もうひとつ言っておきましょう。ZF公理系にもうひとつ9番目の公理を加えて「ZFC公理系」とする流儀もあります。

この9番目の公理は「選択公理」と呼ばれています。

(9)∀X ((not(φ ∈ X) ∧ ∀x ∈ X ∀y ∈ X (x ≠ y → x ∩ y = φ))
  → ∃A∀x ∈ X ∃t (x ∩ A = {t}))

大雑把なたとえで読みくだすと、「袋がいっぱいあって、どの袋も空っぽではなく、1個以上の飴玉が入っている。このとき、各袋から1個ずつ飴玉を選び出して、選び出した飴玉をひとつの新たな袋に放り込むことによって、空っぽではない飴玉袋を作り出すことが必ずできる」と言っています。

あたりまえのことを言っている感じがします。ひとつの公理として公理系に入れてやって問題ないようにみえます。

ただ、この公理の危なっかしいところは、袋が無限個あったとしても同様の操作ができると言っている点にあります。

この公理を認めないと、集合の式の分配法則であるとか、線形空間における基底の存在といった、ないと困るような定理が証明できなくなります。

つまり、選択公理を入れないZF公理系の8つの公理だけから生成される数理体系は、期待レベルに到達しない、貧弱なものに終わってしまいます。

ところが、選択公理を入れたZFC公理系からは、今度は余計な定理が証明できちゃったりします。そのひとつが「バナッハ・タルスキーの定理」です。

中身の詰まった球があったとして、これを有限個の部分に分割し、それぞれのピースを(形を変えずに)向きを変えて組み合わせることにより、任意の大きさの球を再構成することができると言っています。

パチンコ玉ぐらいの大きさの金塊があったとき、それをバラバラに切って、また貼り合わせるだけで、バレーボールぐらいの大きさの金塊が作れると言っています。

もっとも、バラバラに切り刻んだひとつひとつのピースは、無限に小さな粒子を無限個散りばめたようなもので、体積が定義できない込み入った形状をしているので、金塊でこれを実現するのは不可能なのですが。

選択公理を認めずに貧弱な数理体系に甘んじるか、常識的にはありえないバナッハ・タルスキーの定理を認めるか、苦渋の選択を迫られます。数学は、割と基礎的なところで、深い悩みを抱えています。

この際だからついでに言っておくと、「世の中、なんでもかんでも理屈で割り切れると思ったら大間違いだ」とか、「ものごときっぱり白黒つけられたりするもんか」などと息巻いて、さも自分たちが数学者よりも優れた存在であるかのごとく満悦に浸っている酔っ払いをたまに見かけます。

数学者は単純すぎる世界観の持ち主に違いない、というイメージをもたれがちなんですかね? あんまり合ってないんですけど。

すべてを明快に説明しきろうという指向を持って進めてきた数学の、行き着いた境地がけっこうややこしいことになっていたというのは、ある種、絶望的な皮肉と言えるかもしれません。割と病的なドロドロ感のあるのが数理の世界なんですけどねぇ。

この辺の話は、デジクリに駒場寮のことなどを書いている関根正幸氏が詳しいです。というか、私は関根氏から教わりました。ご質問があれば、彼にどうぞ。

ここでは、集合とは何か、について分かりやすく説明しようとすると、どうしても厳密性に欠けてしまう、という言い訳がしたかっただけです。

●集合とは何か? 初歩的な説明はこうなります

たいへんお待たせしました。ここからは「基礎」の話ではなく「初歩」の話です。集合について一からご説明いたします。まず、集合とは何か、から入りましょう。

集合(set)とは、ものの集まりです。「もの」自体は何でもいいのです。とにかくものをいくつか拾い集めてきて、これをひとくくりにします。このくくり自体をあらためてひとつの「もの」とみなすことにします。この「もの」が集合です。

試しにものを拾い集めてみましょう。私はいま、「ダイオウグソクムシ」、「班田収授法」、「ニュートリノ」を拾ってきました。三題噺みたいですね。これらをひとくくりにしたら集合になるのでしょうか。はい、なります。できた集合を「集合S」と名づけることにしましょう。

集合Sが、ダイオウグソクムシと班田収授法とニュートリノとをひとくくりにして出来たものであることを、数式で下記のように表します。

  S = {ダイオウグソクムシ, 班田収授法, ニュートリノ}

ダイオウグソクムシ、班田収授法、ニュートリノは、それぞれ、集合Sの「要素(element)」であると言います。あるいは、それぞれ、集合Sに属する、とも言います。このことを、数式で下記のように表します。

  ダイオウグソクムシ ∈ S

  班田収授法 ∈ S

  ニュートリノ ∈ S

いま、「圧力鍋」を持ってくると、これは集合Sの要素ではありません。等号「=」に対して、それを否定する記号「≠」があるのと同様に、要素でないことを表す記号は、先ほどの「∈」に対してばっさりと斜線を書き足したものです。ところが、この記号が標準のフォントに入ってないんですね。困りましたが、ここでは下記のように表記することにします。

  not(圧力鍋 ∈ S)

集合の要素となるべき「もの」は何でもいいのですが、いま「ダイオウグソクムシ」を拾ってきた場合、これは一体、何を指し示しているのでしょうか。

どこかにいる、ある一匹のダイオウグソクムシのことでしょうか。分類上のひとつの種としてのダイオウグソクムシのことでしょうか。プラトンのイデア界に存在する、概念化された理想のダイオウグソクムシのことでしょうか。

言葉の指す対象はどうでもよくて、ダイオウグソクムシという文字列が形成する模様のことでしょうか。あるいは、言葉である必要すらなく、他と区別がつきさえすればいい記号に過ぎず、何なら「テトムパ」のような無意味な文字列でもよかったのでしょうか。

感覚的には、一番最後のが近い気がします。{ダイオウグソクムシ, 班田収授法, ニュートリノ} という集合も、{1, 2, 3} という集合も、数学で扱う対象としてみるとき、大した相違はないのだとみてよいと思います。

要素がひとつもない、空っぽの集合というのもアリです。これを「空集合」と言います。記号ではφと表します。

ひとつの集合を定義するのに、二種類の流儀があります。ひとつは「外延的定義」、もうひとつは「内包的定義」です。

「外延(extention)」とは、ある概念に適合する事物をすべて並べ立てたもののことであり、要は、先ほどみたように、要素をすべて書き並べることによって集合を定義する方法です。たとえば、

  A = {1, 2, 3, 4, 5, 6}

のようにして集合Aを定義する流儀です。

一方、「内包(intention)」とは、ある概念に適合するすべての事物、すなわち外延に属するすべてのものに共通な属性のことです。上と同じ集合Aを内包の流儀で定義すると、たとえば下記のようになります。

  A = {x; x は 1 以上 6 以下の自然数}

セミコロン(;)のところは縦棒(|)で書く流儀もあるのですが、縦棒はいろいろな意味に使われることがあってややこしいので、ここではセミコロンを使うことにします。

セミコロンの前には、まず、何を要素とする集合であるかを、変数を用いて書きます。この場合は、変数xを要素とする集合だと言っています。これだけだとxが何なのか分からないので、セミコロンの後に、xの満たすべき条件を書きます。

すべての自然数からなる集合をよく記号Nで表します。これを用いて、集合Aは下記のようにも書きなおせます。

  A = {x; x ∈ N, 1 ≦ x ≦ 6}

セミコロンの前には、変数を単独で置いておくだけでなく、数式も書けます。例えば、集合A1を次のように定義したとすると、

  A1 = {2 x; x ∈ N, 1 ≦ x ≦ 6}

これを外延的定義で書けば、

  A1 = {2, 4, 6, 8, 10, 12}

となります。

外延的定義で書く場合、要素は一定の法則を満たしている必要はないので、自由にものを集めてきて書き並べることができます。先ほどの集合Sを内包的定義で書きなおすのは、きっと無理でしょう。

一方、内包的定義で書く場合、要素の個数が有限ではない集合も定義できるという利点があります。集合A2を下記のように定義するとき、

  A2 = {2 x; x ∈ N}

外延的定義になおすと、

  A2 = {2, 4, 6, 8, 10, 12, ...}

というような書き方になりますけど、点々々の部分がどうなっているのかあいまいなので、前者の書き方のほうが優れています。

内包的定義を用いる場合、外延的定義に書きなおしたらどうなるのか、即座には分からないことがあります。例えば、集合A3を下記のように定義したとします。すべての実数からなる集合をよく記号Rで表します。

  A3 = {x; x ∈ R, x^2 + x + 1 = 0}

この2次方程式は実数解をもたないので、集合A3は、実は空集合だったということになります。あるいは、集合A4を

  A4 = {x; x は素数}

のように定義した場合、

  A4 = {2, 3, 5, 7, 11, 13, 17, 19, 23, 29, 31, 37, 41, 43,...}

となりますけど、点々々の部分がどうなっていくかは、規則性がなく、いちいち判定してみないと分かりません。しかも、無限に続きます。

内包的定義によって集合がきちんと定義されてはいても、その中身がどうなっているかが即座に明らかでない場合が多々あるということです。

あるものの集まりが集合であるための掟のひとつとして、外から任意のものを持ってきたとき、それが集合の要素であるかないかが客観的に判定できないとならない、というのがあります。

例えば「背の高い人の集まり」は集合とは認められません。「背が高い」は主観的な属性にすぎず、やや背が高いかぐらいの人が来たとき、入れるべきかどうか判定するための客観的基準がないからです。一方、「身長170cm以上の人の集まり」は集合と認められます。

以上が、「集合とは何か」の説明だったわけですが、お分かりいただけたでしょうか。

●集合の取り扱いかた

さて、集合が定義できたところで、それを活用するためのもろもろのやりかたをみていきましょう。ここもまだ初歩的な話の続きです。

与えられた集合に対して、その要素の個数が有限であるとき、これを「有限集合」といいます。それ以外の集合は「無限集合」です。

有限集合Aに対して、その要素の個数をn(A)で表します。あるいは、| A | と書く流儀もあるのですが、ここでは前者を採用します。無限集合に対しては、要素の個数は定義できません。

先ほど作った集合 A

  A = {1, 2, 3, 4, 5, 6}

を例にとれば、

  n(A) = 6

です。

ここから、2つ以上の集合が登場します。いろいろ集合が出てくるとき、それら全部を外側から囲い込むような、「これがいま話題にしている世界のすべてだ」という集合を設けておくことがあります。これを「全体集合」といいます。

例えば、先ほどの集合A

  A = {1, 2, 3, 4, 5, 6}

に対して、全体集合Uを

  U = {1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10}

のように定めておくことができます。

全体集合の要素のうち、集合Aの要素ではないものからなる集合を、集合Aの「補集合」といいます。集合Aの補集合は、Aの上に横棒を引っ張って表記し、「Aバー」と読むのが一般的です。

あるいは、Aの右肩に小さくCと書く流儀もあります。が、どちらもテキストで表現できないので、ここではA'と表記することにします。

  A' = {7, 8, 9, 10}

です。

集合Aのどのひとつの要素を取り出しても、それは集合Uの要素になっています。言い換えると、集合Aは集合Uに完全に包含されています。このような関係を

  A ⊂ U

と表記し、集合Aは集合Uの「部分集合」である、といいます。

記号「∈」と「⊂」を混同してはいけません。「∈」は要素と集合との関係性を表し、「⊂」は集合と集合との関係性を表しています。

集合 U, A, A' の関係を図で表すと、こうなります。

http://www.geocities.jp/layerphotos/FigDGCR180608/FigDGCR180608_0001

これを「ベン図」といいます。John Venn氏(1834年8月4日 - 1923年4月4日)が考え出した図です。意外と新しいですね。

さて、登場人物を増やします。集合Bを次のように定義します。

  B = {1, 2, 3, 7, 8}

要素 1, 2, 3 は、集合Aにも集合Bにも属しています。このような要素からなる集合を集合Aと集合Bとの「積集合」と呼び、A ∩ B と表します。積集合は、「交わり」とも呼びます。「∩」の記号は「キャップ」と読みます。

  A ∩ B = {1, 2, 3}

です。要素 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8 は、集合Aの要素であるか、集合Bの要素であるか、両方の要素であるかのいずれかです。このような要素からなる集合を集合Aと集合Bとの「和集合」と呼び、A ∪ B と表します。和集合は「結び」とも呼びます。「∪」の記号は「カップ」と読みます。

  A ∪ B = {1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8}

です。

集合UとAとBとの関係をベン図で表すと、こうなります。
http://www.geocities.jp/layerphotos/FigDGCR180608/FigDGCR180608_0002

A ∪ B の領域は表せてませんが、紫、青、緑の3つを合わせたダルマ型の領域になります。

集合に関する基本的なところって、だいたい以上です。

最初に掲げた問題を解いてみましょうか。再掲。


【問題1】
ある小学校の4年生に50人に、国語と算数が好きかどうかを聞いたところ、次のようになりました。
○国語が好きな人 → 32人
○算数が嫌いな人 → 21人
○どちらも嫌いな人 → 7人
これについて、次の各問いに答えなさい。
(1)算数が好きな人は何人いますか。
(2)国語と算数のどちらも好きな人は何人いますか。(ここまで【問題1】)

まず、設問の(1)と(2)は脇に置いておいて、与えられた条件から分かることをすべて把握してしまおう、という方針を取った私ですが。後で振り返ってみると、これはテスト慣れしていない、真っ正直すぎる方針でした。

というのは、設問自体がヒントになっていて、簡単に解くための方針を示してくれていることがあるのです。

問題の設定で述べられていることを、そっくりそのまま素直にベン図にしたものがこれです。

http://www.geocities.jp/layerphotos/FigDGCR180608/FigDGCR180608_0003

この図さえ描けたら、もう解けたも同然で、あとはがちゃがちゃやってりゃ答えにたどり着けます。

私の解いた筋道。算数が嫌いな人21人は、2つの領域にまたがっています。しかし、どちらも嫌いな人7人が分かっているので、紫の領域の人数がまず分かります。

  n(国語が好き ∩ 算数が嫌い) = 21 - 7 = 14 [人]

国語が好きな人が32人と与えられていて、これは2つの領域にまたがっています。そのうち、紫の領域の人数はいま求まったばかりです。それを引くと、青い領域の人数が得られます。

  n(国語が好き ∩ 算数が好き) = 32 - 14 = 18 [人]

さて、問題は緑の領域の人数です。与えられた数字のうち、全体の人数50人をまだ使っていません。緑の領域以外の領域の人数はすでに全部分かっているので、全体からそれを引けば、緑の領域の人数が分かります。

  n(算数が好き ∩ 国語が嫌い) = 50 - 32 - 7 = 11 [人]

これで分からないところがなくなりました。ベン図で描くとこうなります。

http://www.geocities.jp/layerphotos/FigDGCR180608/FigDGCR180608_0004

で、問題文を読みます。

(1)算数が好きな人は何人いますか。
これは、青い領域の人数と緑の領域の人数の合計なので、

  n(算数が好き) = 18 + 11 = 29 [人]

です。後から気がついたのですが、これはすごい回り道でした。全体の人数が50人と与えられていて、算数が嫌いな人が21人と与えられているので、引けばいいだけです。

  n(算数が好き) = 50 - 21 = 29 [人]

つまり、設問(1)は簡単に解くためのヒントになっていたというわけです。

(2)国語と算数のどちらも好きな人は何人いますか。
これは、図の青い領域の人数であって、すでに求まっています。

  18 [人]

いかがでしたでしょうか。小学校4年生にこの程度の問題を解かせるのは、さほど無理のあることではないのではないでしょうか。

●無から生じる豊かな宇宙

集合論の初歩的な説明を読んだ方々の中には、「集合とはどんなものか、その内容についてはよく理解できたけど、集合という概念の導入はごく自然な、無理のないものと感じられ、どこにあいまいさが残っているのか、どこに深淵が口を開けているのか、まったく見えない」という方が多くいらっしゃるのではないかと思います。

そのあたりに、ちょいと踏み込んでみたいと思います。「初歩」の話はおしまいで、ここからは「基礎」の話です。まずは、集合からどんな豊かな宇宙が生成されるかを見てみたいと思います。

神さまが天地を創造する手順を考えてみましょう。宇宙の隅から隅まで、ひとつひとつの事物をいちいちこと細かに設計するのではありません。これから作ろうとしている宇宙は、どんな物理法則に支配されていることにすると、おもしろいことが長続きして豊かなものになっていくだろう、と考え、これはと思う「物理法則セット」を定めます。

次に、初期状態を与えます。これはたとえばビッグバンです。ビッグバンが起きると、電子やら中性子やら光やらニュートリノやら、四方八方に飛び散っていきます。あとは、いっさい手出しをせず、なるに任せておきます。

そうすると、物理法則によるまったく自然な成り行きで、ダイオウグソクムシやら班田収授法やらが勝手に生成してくるのです。三題噺でした。

数学も天地創造と似たところがあります。公理系を適当に定めておくと、あとは自然な推論による成り行きで、さまざまな定理が生成され、豊かな数理体系が出来上がっていきます。

では、集合という概念を導入したら、いったいどんな面白い宇宙が生成されるのでしょうか。

そこに入る前に、ひとつ準備をしておきます。先ほど、集合A,Bを

  A = {1, 2, 3, 4, 5, 6}

  B = {1, 2, 3, 7, 8}

のように定義しました。集合とは、なんでもいいから何か「もの」をかき集めてきて、それらをひとくくりにして、そのくくり自体を新たなひとつの「もの」とみなしてできたのでした。こうしてできた集合も「もの」であることには変わりがないので、これを、後から作る別の集合の要素として利用することができるのです。集合A5を

  A5 = {A, B}

のように定義します。これ自体、外延的定義ですが、その中身についても外延展開すると、

  A5 = {{1, 2, 3, 4, 5, 6}, {1, 2, 3, 7, 8}}

となります。

先ほど、記号「∈」と「⊂」を混同してはいけないと言いました。「∈」は要素と集合との関係性を表し、「⊂」は集合と集合との関係性を表す、と言いました。

いま、集合Aと集合A5との関係性はどうなっているでしょう。集合と集合との関係性なので、

  A ⊂ A5

と書けばいいかというと、これは誤りです。この関係性は成立していません。集合Aの要素のひとつである1を取り上げた場合、この1は集合A5の要素にはなっていません。集合A5の要素は、あくまでも集合Aと集合Bの2つだけです。なので、上記の包含関係は成立しないのです。

集合Aと集合A5の正しい関係は

  A ∈ A5

です。

いろんなレベルの「もの」をごちゃ混ぜにして、集合A6を

  A6 = {1, {1, 2}, {1, {1, 2}}}

のように定義しても、いっこうに差し支えありません。

準備が出来たので、天地創造にかかりましょう。

いま、ものがまったく何もない、空虚な宇宙を考えます。ここに集合の概念を導入します。すると、要素が何もない集合というものを考えることができます。すなわち空集合(φ)です。これはとんでもなくすごいことです。

まったく何もないところから、空集合というひとつの「もの」が生まれたのです。無から有を、ゼロから1を生みだすことができたということです。

この空集合をT0と置くことにします。

  T0 = φ

あるいは、

  T0 = {}

です。そうすると、T0をただひとつの要素とする、集合T1を考えることができ
ます。

  T1 = {T0} = {φ} = {{}}

T0とT1は、まったくの別物です。要素の個数からして違います。

  n(T0) = 0

  n(T1) = 1

集合T1が出来たら、同様の操作で集合T2を作ることができます。

  T2 = {T1}

この操作はいくらでも続けることができます。つまり、最初は無だったのが、集合という概念を導入したおかげで、無限に「もの」が生成できたというわけです。

もともと無だったところから生成した概念宇宙において、われわれが住んでいるこっちの宇宙に気兼ねする必要はぜんぜんありません。今できた、T1, T2, T3, ...に「自然数」という呼び名をつけてみてはどうでしょう。

こっちの世界では、リンゴがいくつかあれば、それらを一個、二個、... と数え、椅子がいくつかあれば、それらを一脚、二脚、... と数え、その「数える」という行為を一段抽象化すれば、ものが何であるかに依存しない、純粋な個数としての「数」という概念に至ります。

しかし、いま、もともと無だった宇宙に生成してきた“自然数”は、こっちの宇宙での「数えるという行為を抽象化する」過程とまったく無関係のものです。あっちの宇宙に勝手に湧き起こってきたものです。

同じような調子で、あっちの宇宙に自然数の四則演算を導入したり、方程式を導入したり、整数や有理数や実数や複素数へと拡張したり、関数を導入したり、ベクトルを導入したり、微分や積分を導入したりして、数理体系を構築していくことができます。

数理の世界というのは、ひとつには、こっちのごちゃごちゃ雑然とした世界からエッセンスを抽出して、抽象化すると行ける世界だとみることができます。

ところが、公理主義的な見方をすると、数理世界とは、こっちの世界の事情から完全に切り離されて、あっちの世界に無から作り出せるものだとみることができそうです。

ともかく、無の世界に集合という概念を導入したことから、非常に豊かな世界が湧き起こってくるという点がポイントです。豊かな世界はいいのだけれど、ちょっと油断すると地獄が口を開けている、という話を次にしたいと思います。

●おそろしいパラドクス

数理体系は、その中にたったひとつの矛盾があってもいけません。矛盾とは、たとえば「aは集合Aの要素であって、なおかつ、集合Aの要素ではない」といったことです。

こういうのがひとつでも見つかると、そこを足掛かりにして、「すべての命題は真であって、なおかつ、偽である」ことが証明できてしまうのです。これは体系全体の崩壊です。まさに蟻の一穴です。ひとつぐらい矛盾があっても、それを例外扱いして隔離しておこう、というわけにはいかないのです。

われわれ人間は、どういうわけか、自分自身についてものを言うことができます。それによって自己が崩壊しちゃう、なんてことはあまりありません。ところが、数学では下手な自己言及をやらかすと、あっという間に矛盾が生じて、体系全体が崩壊することがありうるのです。

そういう危険は、ぜひ事前回避しておかなくてはなりません。先ほど見たZF公理系、あんな宇宙人の言語みたいな奇天烈な経典を、わざわざ提示しなくてはならないとする動機は、この危険回避にあります。

では、アブナイ世界に足を踏み入れてみましょう。「そういうお前をわしゃ食った」って昔話をご存知でしょうか。村人たちが、「いかに大きなものを食ったか」というホラで競い合っていた。ある者は家を食ったと言い、ある者は山を食ったと言う。ある者が暗闇を食ったと言い、これは優勝かと思われたが、最後に和尚が「そういうお前を」と言い放って決着がついたという話。

次のような集合αを考えてみましょう。αは、すべての集合からなる集合です。

  α = {x; x は集合}

これはデカい。和尚の決定的なホラ話のようにデカい。けれど、問題は、この集合αが自分自身をも食っちゃってる点にあります。集合αの定義から、ありとあらゆる集合が集合αの要素になっていて、一方、その集合α自身もひとつの集合であることに違いなく、両者から必然的に、集合αは自身を要素として含むことになります。

  α ∈ α

これを許しちゃうと、たいへんなことになります。

どのような集合も、自身を要素として含むか含まないか、どちらかです。集合β,γを次のように定義します。

  β = {x; x は集合であり、x ∈ x}

  γ = {x; x は集合であり、not(x ∈ x)}

どんな集合Xを持ってきても、Xは集合βか集合γのどちらか一方に属さなくてはならず、どちらにも所属しないことはできないし、両方に所属することもできません。言い換えると、すべての集合からなる集合αのどんな要素も、集合βに属するか集合γに属するかのどちらかであり、集合αが集合βと集合γに2分割できたことになります。

  β ∪ γ = α

  β ∩ γ = φ

と、こういうことになります。

さて、集合γもひとつの集合であることに違いないので、これは集合βか集合γのどちらか一方にだけ属さなくてはならないことになります。

では、第一の可能性として、集合γが集合βに属すると仮定してみましょう。つまりは、

  γ ∈ β

です。ここから、集合γは、集合βの定義に書かれている条件を満たさなくてはならないことになります。その条件より、

  γ ∈ γ

です。これを読みくだすと、集合γは集合γに属する、となります。これは、すでに矛盾です。集合γは、集合βか集合γのどちらか一方にだけ属さなくてはならないはずなのに、前者に属すると仮定して出発したら、後者に属するという結論に行き着いてしまいました。なので、第一の可能性は排除されたことになります。

残っているのは第二の可能性だけです。集合γは集合γ自身に属するという仮定です。

  γ ∈ γ

すると、集合γは自身の定義条件を満たさなくてはならず、その条件とは、

  not(γ ∈ γ)

です。これは矛盾です。集合γが自身の要素であって、かつ、要素ではない、ということはありえません。よって、第二の可能性も排除されました。

二つに一つしか可能性がなかったのに、どっちだと仮定しても矛盾に陥ってしまった、ということになります。これは、決定的な矛盾です。これをラッセルのパラドクスといいます。

これを許すと、数学の体系がぜんぶ崩壊します。なんとしてでも回避しなくてはなりません。先ほどの集合α,β,γみたいなやつを集合とは認めない、とする禁止則がどうしても必要になってきます。なおかつ、制約はできるだけ緩くして、自由を最大限許し、生じてくる数理体系の豊饒性を保証しておきたい。

そこを何とかするために考え出されたのが、先ほどの宇宙人言語みたいなやつの8番目です。「正則性の公理」と呼ばれています。この公理は1925年に導入されています。

20世紀に入ってからの数学が、どんなクレイジーな景色になっているか、ピンとくる人は多くないようです。現代数学の基礎なんて、小学校、中学校、高校ではもちろん扱わず、大学でも文系ではもちろん扱わず、理系でも数学科以外では扱わず、数学科でも「数学基礎論」に触れる勇気のあった人だけが教わることです。あのジャンル、発狂率が高い気がします。数理は病理だ。

ラッセルのパラドクスなどを知っている人は、人類の中でも、さほどのパーセンテージを占めていない気がします。珍しい話が聞けて得したと思っていただけると幸いなのですが。

あと、数学屋さんのイメージが多少なりとも現実の姿に近づいてきてくれればよいなぁ、などとも。ヒゲを三つ編みにして、セーラー服を着て、往来を闊歩していますけれど。

あ。またやらかしました。意識の数理を記述するための準備としての集合論の話を、もう少し先まで進めるつもりでいたのですが、前置きだけで紙面(?)が尽きてしまいました。続きはそのうち書きます、ってこれも何回か言ったような気がするので、振り返って拾い集めなきゃ。


【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
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ふんぎゃ。本文をいっぱい書きすぎちゃったんで、この欄、省略します。