前回、シンギュラリティ来ない派の意見をピックアップし、それらを詳しく検討してみるための準備を整えた。ここから、中身の議論に入っていきたい。
https://bn.dgcr.com/archives/20181102110100.html
今回、後編とするつもりでしたが、終わらず、中編となりました。
●シンギュラリティいつかは来る派の私
自分自身は安全な場所に身を隠し、他人の論の粗探しばかりしていたのではあまり潔くないので、シンギュラリティ来るか来ないかについて、自分がどういう見解をもっているのか、立場を明らかにしておきたいと思う。
といっても、私は問いに対する正しい答えを知りたいだけなので、支持する仮説が反証を食らってもたなくなれば、有望そうにみえる別の仮説へとさっさと乗り換えるつもりだ。立場は常に暫定的なものであって、石にかじりついてでも防衛しきろうという覚悟はない。
【シンギュラリティについて】
シンギュラリティは、原理的には来うるものだと思っている。しかし、それの実現には、科学的な大発見やら技術的な大発明やら、ブレイクスルーをいくつも経た上でなくてはならず、それがいつ来るかなんて、全く予想がつかない。
数年後ってことはまずないと思うが、数十年後レベルか、数百年後レベルか、はたまた、原理的には可能であっても、具体的な実現方法はついに考案されずに終わるのか。
ただ、周辺的な動向を眺めるに、中国やアメリカがAI研究に年間数兆円レベルの予算をつぎ込み、世界のトップクラスの頭脳がこの方面に呼び集められてしのぎを削り、研究が次々に実を結んで論文がぽこぽこ発表され、AIにできることの範囲がぐんぐん拡大してきており、収穫が加速している感じがすることから、もうこれから第三次AI冬の時代に突入する可能性は非常に薄いとみている。
20年~30年程度先の近未来において、シンギュラリティと呼ぶべきものかどうかは分からないにせよ、社会のありようが根底から塗り替わるような大変革が、AIによってもたらされてもおかしくないように思う。
ついでに言うと、日本はこの流れからこぼれ落ちそうな気配が濃厚とみている。産業革命のときは、日本は最後の波になんとか乗ることができて、工業国としての経済的繁栄を手中に収め、波に乗り損ねた中国や韓国とは大きく明暗を分けた。が、今度のAI革命においては、逆の憂き目に遭いそうだ。
【哲学的な立場は唯脳論】
感情も欲望も自意識も創造性もひっくるめて、すべての主観的な現象は脳のはたらきに還元できるとする考え方を「唯脳論」というらしい。この用語は養老孟司氏による造語のようで、もともとは「還元できる」というほどの強い主張ではなく、「関連がある」程度のやんわりした定義だったようだが。
また、一部の人文系の人がこの用語を使うとき、すでに「ものの分かっていない人たちが唱える浅薄な考え」という色に、ほんのりと染まっているようにもみえる。
安全に使える用語かどうかはともかく、私はだいたいその立場をとる。前述したように、外から客観的に観察する限り、脳といえども物質であることには間違いない。物質である以上、物理法則には厳密にしたがうはずである。この観点でみる限り、脳だって機械のようにしか動作しえないはずである。
この立場をラ・メトリの「人間機械論」と呼んでもいいけれど。しかし、「人間は機械にすぎない」とする哲学的主張、あるいは(非)宗教的(無)信仰ではなく、人間を物理的な存在として客観的な視点から眺める限りにおいて、まさしく機械だよね、というのは、一面的ではありながら、ひとつの真理である。
外から客観的に観察すれば、機械のようにしか動作していないようにみえる脳に、いったいどういうメカニズムで意識が宿るのか、という不思議さはある。これを「意識のハード・プロブレム」という。オーストラリアの哲学者デイヴィド・チャーマーズ氏によって提起された。
物質であることに相違はないのに、路傍の石ころに意識が宿っておらず、脳に意識が宿っているのだとしたら、その違いは何だろう。原子・分子の配置のしかたいかんによって、意識が宿ったり宿らなかったりするのだろうか。
原子や分子の一個一個には意識が宿っていないけれど、それらの配列のしかたがある特定の条件を満たすときに限り、意識が宿るのだというのは、ひとつの仮説としてアリだと思う。
原子・分子がある特定の配列のしかたをすることによって、まず、ビット記憶や数値演算などのベーシックな機能が生じ、その機能を足がかりにして意識が生じるという階層構造になっている可能性が考えられる。脳細胞の一個一個の機能を調べていくと、どうやら、簡単な計算しかしていなさそうにみえる。
だとしたら、有機的な物質からなる脳によって生じる計算とそっくり同じものを、コンピュータなどの無機的な物質の上で実行したとしても意識は宿るはずだ、という話になる。
チャーマーズ氏の「フェーディング・クオリア(fading qualia)」という思考実験がある。脳細胞をひとつ、またひとつと人工物に置き換えていったとしても、他の脳細胞との接続部分さえちゃんと作り込んであれば、その置き換えに脳が気づくはずがないから、脳全体の機能はまったく影響を受けないはずである。
最後まで置き換えが進んで、ついにすべてが機械になったとしても、脳は元と変わりなく機能しているはずである。
これは、説得力がある。この原理に立ち返れば、人工物が意識を宿していたとしてもおかしくはないと考えられる。脳の機能を機械に移植しさえすれば、意識や欲望や自律性や創造性なども含めて、人間にできるおよそすべてのことは、原理的には機械によって遂行可能であろう。
人工物には肉体がないから、死の恐怖はなく、人間と同じように思考しようがない、という議論は、まったく的外れだ。唯脳論の立場に立てば、脳そのものを、同等の機能を果たす機械に置き換えれば、そこにおのずと意識が宿り、元の人間と比べて欠けるものは、肉体も含め、何ひとつない。
原子・分子の一個一個に意識が宿ってはいないけれど、それらのある種のコンビネーションによってなる脳には意識が宿るとする考え方を大きくくくって、私は「創発説」と呼んでいる。このあたりを半信半疑ながら、暫定的に支持している。
もし創発説が丸ごと否定されると、ロジャー・ペンローズ氏の「量子脳説」あたりを考慮せざるを得なくなる。その線もありうるかな、とは思っている。
あるいは、原子・分子にも小さな意識が宿るとする仮説や、サーモスタットにも小さな意識が宿るとするチャーマーズ氏の「情報二相理論」も、仮説として死んではいない。
意識の謎は、かようなまでに根が深い。解けるまでにあと300年はかかるだろうと思っている。この300年という数字に根拠があるわけではないが、意識を研究する専門家たちの間でも言っていることが根本的なところでばらんばらんで、まだみんな入り口のあたりをうろうろしている段階なんだな、と思えるというのがひとつある。
また、解けるまでには、越えなくてはならないハードルがいくつもあるような気がしている。ひとつの扉を開けることにより、それまで思いつきもしなかった新たな問いが湧き起り、その問いを解決する扉が開いたとしても、また新たな問いが出てきて、……の繰り返しがそうとう続くのではないかという気がしている。
意識を研究している科学者の多くが、問いのむずかしさを楽観しているのではなかろうかと、心配でしかたがない。
脳を物質として外から客観的に観察する限り、ライプニッツの「意識を宿す風車小屋」みたいなことになって、物質としての脳を仔細にわたって調べてみても、「これが意識の実体だ」というようなものをつまみ出すことができない。
意識は、本人の主観的体験であって、第三者から直接的に観察することはできず、本人の自己申告を信じる以外にないという限界がある。
チャーマーズ氏のいう「哲学的ゾンビ」は見破ることができない。これが原理的な限界なのか、現時点での人類の知見の到達段階の問題なのかは、よく分からない。「意識の第一人称性」という。
「心の哲学」と呼ばれる哲学の一分野がある。代表的な哲学者にジョン・サール氏やデイヴィド・チャーマーズ氏がいる。
この分野の哲学は、科学の視点でみても持ちこたえうる議論を展開し、意識にまつわるもろもろの問題をよく整理してくれているので、意識を研究する上で、大いに助けになっている。
アメリカ、イギリス、オーストラリア方面で流行っているらしい。私は、この分野には高い価値を見出している。
一方、意識というものは客観的にみてもちっとも実体が見えてこないので、本人が観察者となって内省する主観的な視点が大事とする考え方もある。
そうすることによって、風車小屋みたいな悩みは解消する。フッサールの「現象学」あたりに端を発する唯心論的な系統である。フランスやドイツなどの大陸方面で流行っているらしい。私は、この分野を丸ごと「どうもなぁ」と思っている。壮大な時間の無駄だったんじゃなかろうかと。
主観をもって主観を論じたところで、いったい何が分かるというのか。
「主体側のメカニズムも客体側の真相もさっぱり分からないけれど、少なくとも私からは、ものごとがこう見えている」と報告しあうばかりで、科学的な検証のしようがなく、行けども行けども一定の真理に到達する見通しが開けてこないんじゃないかと思う。
ネズミどうしがネズミの言葉でネズミについて議論しあったとしても、人間には理解できない。意識について、それを宿す本人が観察者となって、主観的にああだこうだと論じあったとしても、酔っ払いが「オレは酔ってないぞ」と言うようなもんではないか。
喫茶店で、隣りのテーブルからいやおうなく聞こえてくる、おばちゃんどうしの日常的な会話みたいなもんか。聞こえてくるからついつい聞いちゃうけど、つまらないことこの上ない。
だからといって、こっちから「もしもしご婦人方、その会話はおもしろくない上に、まったく無意味で、時間の無駄であるから、今すぐやめて、エネルギーをもっと有意義なほうへ向けるのがよろしいかと」などと口をはさむのは、差し出がましいにもほどがあるってもんである。
唯心論的哲学についても、その視点で論じることに意味があって、おもしろいと思う人たちが好きなように取り組めばいいのであって、こっちからとやかく言うことではない。わざわざ首を突っ込まなければいいだけの話である。
私は、哲学全般について偏食なく勉強して、広範で抜けのない網羅的な知識を身につけ、誰かが問いを提示すれば、その問いについて人々が過去に議論してきた歴史を返答する、哲学辞書みたいな人になりたいと目指しているわけではない。
唯心論的哲学と科学との関係性は、平行線でもまだうっとうしくてしょうがない。限りなく決裂していき、遠く離れ離れになって、まったく接点がなくなればいいと思う。まあ、今現在も、それに近い状態ではあるけど。
科学の側にとっては、隣りのおばちゃんたちの世間話が何かの参考になる可能性は皆無だし、哲学の側にとっては、ソーカル事件みたいなことをしょっちゅう起こされても癪にさわるだけであろう。
このところ、個室に分かれているタイプの居酒屋が増えてきている気がする。そういうのでいいのだ。
【科学万能主義者ではない】
人文系の学問のかなり大きな部分を、あっさりと心のゴミ箱に捨て去っている私であるが、だからといって、科学万能主義者であるというわけではない。
科学は客観を旨とする。人が外部の対象物を眺めているとき、その対象物がどういうふうに見えているかは、眺める主体としての人間の側の主観に依存する部分が多々あり、人によって見え方が異なるかもしれない。
そのような主観依存部分を極力排除し、客体としての対象物そのものが、現実にどうなっているかをつかみ出そうとするのが、科学の姿勢である。
客観的な事実と厳密な論理に基づいて、宇宙がどうなっているのかを正しく知り、根本原理を解明しようとするのが科学である。
その姿勢はいいとして、実際にそれが可能かというと、根底の根底の部分で、主観を完全に排除することができないという限界がある。
我々がそこにあるように見えているとおりに、現実世界があるとは限らない。脳は神経を通じて入ってくるビット列を処理しているだけであり、その神経の元のほうに手足や目や耳があり、それらの器官のさらに先に現実世界があるというのが100%ぜったいに確かだとは言い切れない。
この世で起きているありとあらゆる物理現象を計測した結果と照合して、齟齬を生じない物理法則を発見し、数式で表現できたとして、それの正しさはどこまで保証されるだろうか。
計測器がこれこれの数値を示しました、と言えば客観的に聞こえるが、その数値自体を読み取っているのは人間であり、そこに数値が示されているように受け取るのは、主観の側の作用である。計測器が実在するという保証はないし、現実世界そのものが実在するという保証もない。
われわれ人間が設計して製造した計測器にひっかからない存在や作用があったとして、観測できないけど実際に起きている物理現象までひっくるめたら、その法則は成立していないかもしれない。
観測不能な存在や作用を無理矢理想定する必要なく、認知できる範囲内のことについては、すべて整合性のある説明がついたことをもって、この世界の根本原理が把握できたと言うほかはない。
われわれがものごとを理解したと思うのもクオリアの一種であり、主観の作用である。脳の仕組みから言って、われわれが理解できることの範囲に限界がある。宇宙の根本原理が、われわれの理解可能な範囲の外にあるかもしれない。
もしかすると私は、壮大な劇場で、巧妙に仕組まれたお芝居を見せられていて、この世界の実在や、物理法則の正しさを信じ込むように差し向けられているだけかもしれない。
われわれの脳がこの世界を把握したと思うとおりに、世界が実在すると信じる考え方を「素朴実在論」と呼び、そんなのはとっくの昔に否定されているし、そのことは私も理解している。
科学者はいまだに素朴実在論を信じているのではないかと、言いがかりをつけてくる者がいるが、ずいぶんナメられたものである。そういう失礼な物言いをするほうが、よほど幼稚で恥かしいと自覚しなさい。
聞いて怒る科学者がいないのは、隣りのおばちゃんの世間話程度の関心しか持たれていないからであろう。いいことだと思う。
科学によって得ることのできる知見が、どうがんばっても100%正しいと言い切れるようにはならないという限界を知っているという意味で、私は科学万能主義者ではない。
けど、限界に絶望して、科学を丸ごと捨てなきゃならないのか。根底のところで絶対的な確実性を保証できない科学よりは、知りえないということを知っているという確実性を有する哲学のほうがナンボか偉い、とする考え方も、ソクラテスっぽくてかっこいいけど。
何も分からないでいつも済ませることができるか。そうもいくまい。「素朴不可知論」とでも呼んでおくか。ちなみに不可知論的であることを英語で "agnostic" というが、字義通りの意味は「非グノーシス派」ですね。
科学を捨てたからといって、それに代わるマシなものがあるような気がしない。絶対的な確実性はないにしても、酔っ払いの戯言よりは相対的に正しさの度合いが高い。
相対的な正しさで比べたら、科学以上のものは見当たらない。一旦は絶望しても、結局は科学に帰ってこざるをえないのではなかろうか。相対性という限界は念頭に置きつつ、結局は科学に信頼を置くしかなかろう。
私は唯心論系の哲学を丸ごと無価値と断じて捨て去っているが、無価値なのは自分個人にとってであって、人類や社会にとって無価値であるとまでは主張していないことをいちおう言い添えておこう。
ゲームに組み込むAIを設計するのに、唯心論的なものも含めた哲学からモデルを借りてこようとする三宅陽一郎氏の立場をどう思うかと問われると、少し窮する。それは、大いにアリだ。
三宅陽一郎『人工知能のための哲学塾』
ビー・エヌ・エヌ新社(2016/8/11)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4802510179/dgcrcom-22/
意識の本質的な謎を解明したいという動機と、人間味ある動作を誘発するおもしろいAIを作りたいという動機とでは方向性が異なるから、ぐらいの答えでどうだろうか。
あと、こんなウェブサイトを見つけた。渡辺遼遠氏による『シンギュラリティ教徒への論駁の書』と称するサイト。
http://skeptics.hatenadiary.jp/
非常におもしろいことに、言っている内容は私とほぼ一致する。ところが、あっちはシンギュラリティ来る派に対する反駁として述べており、一方、私は来ない派に対する反駁として述べている。100%来る説と100%来ない説とをお互いに否定しあっているだけなので、そうなる。そんなもんだ。
【AIについて】
ところで、AIの定義がまた、焦点の定まらないことになっている。文字通り受取るなら、「人間のもつ知能を人工物の上で再現したもの」ということになる。真の意味のAIは、まだ実現していないことになる。これが一番狭い意味のAIの定義である。
その対極には、何でもかんでも包摂する、広い意味のAIがある。今のところ、AIを実現するなら、コンピュータ上のソフトウェアをもってする以外にないが、逆に、すべてのソフトウェアをAIと呼んでいいというわけにはいかない。
例えば、素数を小さい順に100個求めるプログラム、なんていうのは、さすがにAIとは呼びたくない。
「コンピュータ上で走るソフトウェアのうち、その機能が人間のもつ知能に似ていて、賢そうにみえるもの」というのが広い意味のAIの定義ということになろうか。これだと、非常に広い上に、AIとAIでないものとの境界があいまいである。
しかし、世の中一般でAIというとき、だいたいこの意味で使われることが多いのではないかと思う。私がしかたなくこの言葉を使うときも、その線で言っている。
用途を例示して、こういうのができるのがAIだと言うこともできる。
・機械翻訳などの自然言語処理
・人間の話し相手をしてくれるチャットボット
・自動車やその他の乗り物の自動運転
・医者、弁護士などの知的職業の遂行
・販売、接客、事務仕事、単純労働など、幅広い職業の遂行
・掃除、洗濯、炊事、買い物などの日常仕事
・小説を書く、絵を描く、音楽を作曲するなどの創造的活動
・囲碁、将棋、チェスなどの頭脳ゲーム
・ビッグデータからの情報抽出
・工場において部品や製品を製造する機械の最適制御
まあ、イメージしやすいという利点はあるけれど。こたつを指して猫だと言っているような隔靴掻痒感はある。いやいや、中にいるのが猫なんだけど。
外からの見かけだけでAIをあぶり出しているけど、本来は、上記の機能をいったいどうやって実現するのか、中身としての方法論を問うのがAIである。
少し立ち入ると、AIのサブジャンルやモデル化された問題や問題を解く、アルゴリズムを指す個別の用語として、例えば次のようなものがある。
機械学習、教師あり学習、教師なし学習、強化学習、ニューラルネットワーク、深層学習(Deep Learning)、畳み込みニューラルネットワーク(Convolutional Neural Network; CNN)、再帰型ニューラルネットワーク(Recurrent Neural Network; RNN)、深層強化学習(Deep Q-Network; DQN)、敵対的生成ネットワーク(Generative Adversarial Network; GAN)、EMアルゴリズム、変分ベイズ、など。広義のAIは、これらをぜーんぶ包含している。
科学技術の中身の話をするときは、割ときっちりと定義された、上記の用語を使うのがよい。AIという言葉を使う必要性が生じるのは、それによって生活や社会のあり方が大きく変容する、といった文脈においてであることが多い。技術用語というよりは、人文系の用語になっている感じがする。
【再びシンギュラリティについて】
意識を備えるAIを「強いAI」という。シンギュラリティが起きるためには、まず強いAIが必須なのだとしたら、私の予想ではあと300年は来ないってことになる。
しかし、「意識の第一人称性」を逆手にとれば、備えていなくたって、利用者にはどうせバレやしないとも言える。AIが人類を超えるために、意識を備える必要はなく、それを備えているフリがじゅうぶんに上手ければよいってことになる。哲学的ゾンビでいいのだ。これで、300年レベルの問題が、30年レベルの問題に切り下がっただろうか。
むずかしい問題が、比較的簡単そうにみえる問題に置き換わったからといって、やっぱりそこそこむずかしいには違いない。
日常会話を延々と続けていって、不自然さを呈さないとか。国際紛争やテロの問題を解決、あるいは緩和するにはどうしたらいいか、考えてくれ、とか。ロココ文化について論評する文章を書いてくれ、とか。スーパーで食材を買ってきて、カレーライスを作ってくれ、とか。私が退屈しないような観光旅行の計画を練ってくれ、とか。
人間を肉体領域と精神領域とに二分できるとして、ある特定の人の精神領域を丸ごと機械の上に移植して、精神の生きた状態を存続させることを「マインドアップロード」と呼ぶ。レイ・カーツワイル氏は、いつか実現するであろうと言い、私は原理的になら可能であろうと思う。
しかし、マインドアップロードのためには、哲学的ゾンビでは駄目で、意識をちゃんと宿していなくてはならない。そうでないと、言葉をもってコミュニケーションする相手にとっては意識の不在に気づけないとは言え、本人にとっては死んでるのと同然だ。
私はカーツワイル氏のシンギュラリティ論を笑い飛ばそうとする人を笑い飛ばそうとするが、だからといって、カーツワイル教の狂信者ではない。自分の立場に整合性をとろうとするなら、マインドアップロードはあと300年くらいは無理だと言わざるをえない。
ただ、未来予測において、油断は禁物、というのも自覚している。コンピュータ将棋がまだ初級者レベルだった1990年代、次のようなことがまことしやかに言われていた。
コンピュータは、先の手を一手一手、間違えずに緻密に読んでいくことには長けているかもしれないが、中盤の入口に差し掛かるあたりでは、手が広すぎて、プロでさえ長い手順を読み切ることなどできない。
仕掛けのタイミングなどは経験からくる直感的なものが効いてくる。コンピュータは本質的に、そういうところが苦手だ。ゆえに、コンピュータ将棋がプロを負かす日は永久に来ない。
私も、永久にとは言わないまでも、数十年レベルでは来ないだろうと思っていた。ところが、結果はご存知のとおりである。将棋というジャンルに限定するなら、シンギュラリティはもう来ている。
予想を大ハズシして恥をさらすのはありがちなこととしても、そこから教訓ぐらいは拾い上げておこうよ。
今現在のAIはすべて、用途ごとにそれぞれ別個に作り込まれた「専用AI」である。ひとつのソフトウェアが幅広い用途に適用できるような「汎用人工知能(Artificial General Intelligence; AGI)」のレベルにまでは、まだ至っていない。
また、今現在のAIは、大量のデータにもとづいて学習した結果として得られた識別能力を頼りにして、新たに入ってきたデータを振り分けている。過去に経験のない新しい事態に直面したときに、その場面に応じて、妥当な対処方法を自力で考え出して、柔軟に対処する自律性は、まだ備えていない。
買い物に行ったり炊事したりする例をとってみると、人間にとってはものすごくむずかしい仕事ではないかもしれないけど、汎用性と自律性が要求される課題であり、今のAIでできることではない。
だからと言って、人間にしかできないことである、と言い切ってしまうのは恐い。将棋のことを思い出すと、何年先まで人間の牙城が存続するかについては、あんまり楽観してるとまた馬鹿をみるぞ、という緊張感がある。
意識のアップロードまでに300年かかるとは言っているけれど、言いながらどこかで少しムズムズしてはいるのである。
カーツワイル氏の言うことを全面的に信じないまでも、まじめに聞いておいたほうがいいぞ、とは思うのである。
【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
http://www.growhair-jk.com/
《なじみのパン屋が閉店》
1988年入社以来、30年にわたってお世話になってきたパン屋が11月9日(日)をもって閉店した。
お店は50年やってきたという。会社では「偏屈パン」と言えば、あの店ね、と通じた。店のじいさんがいつも不機嫌で、お金は手渡しでは決して受け取らず、積んである薄茶色の紙袋の上をととととっと叩きながら「ここに置いて!」と命令してくる。唾が飛ぶから店内でしゃべるな、とか、いろいろうるさい。
じいさんが亡くなってからは、おばあさんとその娘さんとで切り盛りしてきたが、さすがにおばあさんも体力的にきつくなってきたという。娘さん一人ではとてもできる作業ではないので、仕方なく閉店とのこと。
需要はあるのに人手不足でってパターン、最近多いような。
《素人童貞氏とお会いした》
静岡のM性感「ミラージュ」のあかねさんと10月14日(日)にお会いし、私と話が合いそうだからと、素人童貞氏をご紹介いただける話になったことを10月19日(金)に書いた。
『利他性、前向き、頭いい─その業界で成功する三条件か』
https://bn.dgcr.com/archives/20181019110100.html
11月4日(日)、あかねさんが東京に出てくる用事ができたついでに、三人で会った。その模様、30分間だけツイキャスで生配信し、後から視聴できるようYouTubeにも上がっている。
その時点では、まだ発売日前だったが、見本として届けられていた著書を頂戴した。
素童『昼休み、またピンクサロンに走り出していた』
ぶんか社(2018/11/10)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4821144921/dgcrcom-22/
非常におもしろかった。素人童貞氏は哲学を専攻したそうだが、哲学は一般論なので、どんな具体的な事例にも適用可能で、特に風俗に当てはめた例はさほど多くないので書いてみた、とのこと。
世にあふれる風俗レポートは、幼稚なナルシシズムが鼻につく自己満足なものが多い中、背景に思想の感じられる格調高さと、妙に笑える力の抜け加減を備えた、快調なレポートになっている。
自身の趣味趣向にばかりしがみつくことなく、特に趣味でない領域にまで進出していく探究心と積極性には感心する。
計量分析の手法を用いて、店の女の子の紹介文から、書いた人の本心をあぶり出す分析は、すばらしい。大量のデータから、人が気づいていなかった意外性のある情報を引き出し、しかも、言われてみれば納得性があるというのが、統計の真骨頂だ。
11月18日(日)7:00pmから新宿ロフトプラスワンで、出版記念トークイベント『めっちゃ前向きな風俗放談』が開催される。残念ながら私は行けないが。
https://www.loft-prj.co.jp/schedule/plusone/102269
《コスプレのプロがハロウィーンにもの申す》
AbemaTVから、私にインタビューしたいとメールが来たのが11月2日(金)で、収録されたのが3日(土)で、放送されたのが4日(日)。ニュース番組のスピード感、すごい。『千原ジュニアのAbema的ニュースショー』という番組。
先日、渋谷で起きたハロウィーン暴動騒ぎについてコメントしてください、と。え? 私がですかぃ? Abema的の「的」とは「まと」を外すという意味なんだそうで。
トラックを引き倒したりと暴動化したお祭りについて、「コミケを見習え!」と怒りのコメントをしてきた。テレビ的にはあんまり喜ばれないかな、とも思ったが、ボツにならず、ちゃんと採用された。Abemaさん、度胸ある! ありがとう。
私が映っている映像のテロップに「コスプレのプロ」とか。いやいやいやいや。いい外しっぷりだ。
https://abematimes.com/posts/5124584