Otaku ワールドへようこそ![305]脳エージェントモデルという枠組みで意識を捉えなおす
── GrowHair ──

投稿:  著者:



意識とはまことにもって不思議なものだなぁ、とつくづく思う。これまでも繰り返し延べてきたことではある。われわれにふつうに意識があるということ自体からして、超常現象にもまさる不思議なことなのだ。これは感覚の話ではなく、論理の話だ。

世の中には納豆が好きな人と、それほどでもない人と、どうにも苦手な人とがいて、好きな人どうしが「おいしいよねー」と言い合って、「やあ、仲間仲間」と共感しあう、そういう話ではないのである。

もっと尖鋭化された論理をもって突き詰めていくとき、そこに根源的な問いがいやおうなく立ち現われる。それは、人類によってまだ解かれていない数学の難問のような形でそこにある。目の前に現然とある「はてなボックス」が見えているか見えていないか、そういう問題なのだ。

うんと厳しい言い方をすれば、「意識って不思議だよねー」と言って、一見共感しあっているかのようにみえる人たちの中にも、本当の謎が何であるか、分かっている人と分かってない人とがいるってことである。

今回は、これでもか、っていうくらいカッチリとした論理をもって、問いを明瞭化したいと思う。

要点だけ先取りして簡単に述べると、意識の問題を数学の問題のように扱えるよう、一段階抽象化した、あるモデルを考えてみましょう、という話である。そのモデルは目新しいものでも何でもなく、「強化学習(Reinforcement Learning)」やカール・フリストン氏の「自由エネルギー原理(Free Energy Principle; FEP)」において取り扱うエージェント対環境のモデルにほかならない。

ただし、抽象的な個体としての存在であるエージェントが、そのココロにおいて何を指すかという含意において、一般的には、一人の人間であったり、一匹の動物であったり、一体のロボットであったりするところを、ここでは、人間や動物の脳だけ、あるいは、ロボットにおいて脳に相当するCPU+メモリだけをもってエージェントと考えることにしたい。言わば、「脳(だけ)エージェントモデル」。

人間の脳を、機械であるといったんはみなしてみるとき、その機械が呈している機能が実に不思議だなぁ、ってわけである。

数学者ポール・エルデシュの同僚レーニ・アルフレードは次のように言ったとされる。「数学者はコーヒーを定理に変換する機械である」。





●はたして人間は機械か

ここはまだ序文の続きみたいなもんで、厳密な話には立ち入らない。

はたして人は機械であるか。私はこの問いの答えを知らない。しかし、仮にでもいいから、いったんは、人は機械であるということにしておいて、その観点からものごとを眺めなおしてみることで、人間の精神のはたらきの不思議さが明確に立ち現れてくるのではないかと考えている。

この仮定の下で論を進めていったとき、なんらかの決定的な矛盾にぶち当たり、どうにも立ちゆかなくなったら、この仮定は棄却されるべきものである。つまりは、作業仮説である。

人間と機械って、わざわざ問うまでもなく、明らかにぜんぜん別物でしょう、という意見が出てくることは容易に想像がつく。たしかに、イメージとしては、まったく相容れない、異質なものどうしなのかもしれない。「一本のバナナと一輪の薔薇の花とをどうやって区別したらいいですか」と問うのと似たり寄ったりの自明さではないか、と。

バナナと薔薇だったら、色も違うし(あ、黄色いバラもあるか)、形も違うし、感触もニオイも違うでしょ、と言える。同様に、人間と機械の明らかな違いを挙げていくなら、人間には喜怒哀楽の感情があるとか、心の原動力として生命維持への欲があるとか、死への恐怖があるとか、だからこそ一回限りの生へのいつくしみの情があるとか、言語を操って他者とコミュニケーションをとるとか、主体性を備えているとか、多様な状況に柔軟に対応できるとか、創造性を発揮するとか、社会性があるとか、信仰心が芽生えるとか、性別があってエッチするとか、二次元に萌えるとか、まあ、いくらでも言うことはできるでしょう。そういうものは機械には備わっていないとみえる。

しかし、これは現時点での話である。人間の進化がのろのろなのに対して、機械は急速に追い上げてきている。車を運転したり、碁を打ったりするのも、かつては人間の領域だったが、今では機械が浸食してきている。この調子でいけば、上に挙げたような、人間特有と思われている機能についても、そのうち機械が体現しはじめるのではなかろうか。

機械がどんなに進化しても、未来永劫にわたって決してまたぎ越すことのできない、人間と機械とを分かつ本質的な壁はあるのでしょうか。あるとしたら、その壁はいったい何でしょうか。ぜったいに越えられないとする根拠は何でしょうか。このように問いなおしてみると、答えるのが一気に難しくなるのではなかろうか。

人間と機械はぜんぜん別物でしょ、と言っている人であっても、『ドラえもん』はさほど違和感なく見ることができているのではなかろうか。未来永劫、ぜったいに実現することのありえないファンタジーだからと、安心して見ていられるのだろうか。それとも、何世紀か先の話なら、実現していてもおかしくはないと思って見ているのだろうか。

2018年6月27日(水)、グランフロント大阪にて、『第8回CiNetシンポジウム 脳科学が拓く おもろい AI・ロボット社会』と題する講演会が開催され、その中で、ロボティクスで著名な石黒浩氏(大阪大学教授、ATR 石黒浩特別研究所所長)の特別講演があった。

『人と関わるロボットの研究開発』
http://www.osaka-u.ac.jp/ja/news/seminar/2018/06/7798


私はそれ以前に石黒先生とは面識がなく、ちょうどいい機会なので、仕事を休んで、新幹線に乗って、聴講しに行った。質疑応答の時間が設けられたので、挙手して聞いてみた。

用意された300席がほぼ満杯になった会場で、最前列で聴講しているセーラー服を着たおっさんが挙手し、マイクが渡された瞬間、会場の空気に少し緊張が走ったかもしれない。

石黒先生の答えは、そのような壁はないと考える、というものだった。

こてこての決定論的唯物論を唱える哲学者にド・ラ・メトリ(1709年-1751年、フランス)がいる。著書『人間機械論』には次のように書いてある。「人間は機械である。また、全世界には種々雑多な様相化の与えられた、ただ一つの物質が存在するのみである」。

人間機械論
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003362012/dgcrcom-22/


この本はひどい。各章の冒頭で主張内容が端的に述べられているのはいいとして。それに続くのは論拠であろうという当然の期待を裏切って、実際に述べ立てられているのは、権威批判と教会批判のオンパレードである。もう、言いたい放題言いまくっている。笑い転げて読む分にはいいけど、哲学書の範疇にすら入れてよいものかどうか。

ただ、彼のとった人間機械論の立場自体は、とかく反対へ行きがちな哲学史において、至極まっとうなものだったと、私は高く評価している。

●モデルにおける全体集合としての宇宙とは何か

では、モデルの話に入っていきたい。まずは、考えている世界の全体について。

(定義1)考える対象の全体は、物理的な実在としての宇宙全体とする。これをUと表記する。

考える対象は、現実世界ですよ、と言っているだけ。諸物が実在すると、いちおう(※)考えられている、この世の全体。

※「いちおう」と断り書きを入れたのは素朴実在論の否定を考慮してのこと。しかし、ここでは深入りせず、さらっと流して進みましょう。

数学の世界だと、この世の事情から束縛を受ける必要がなく、もっと自由自在な概念世界を遊び場とし、4次元だろうが5次元だろうが無限次元だろうが、多種多様な空間を考えていいことになっている。しかし、ここでは現実世界の話に限定する。なので、次元は3次元。

物を入れておく器としての3次元空間は、あらゆる方向に限りなく広がった座標系であってよいが、何もないところまで想定してもしょうがないので、なんらかの物理現象が起きている範囲に限定しておこう。かつてビッグバンが起きたのだとしたら、そのときに発せられてあらゆる方向に拡散していった光が届いている球の中だけ、ってことで。光速よりも速く進むことはできないので、われわれがこのフロンティアに到達ことはできない。

まあ、実際問題として、そんなに遠くまで考える必要はなく、そこらへんのご近所まででじゅうぶん事足りるのだが。

この段階では、まだ、時間軸は導入されていない。後で入れようとは思っているけど。

●宇宙を2つの領域に分割する

(定義2)全宇宙Uをある特定の領域とそれ以外の残り全部の領域という2つのパートに切り分けて考える。前者をBと、後者をB'と表記する。特定の領域Bは任意に定めてよい。Bを「エージェント」と呼び、B'を「環境」と呼ぶ。

集合論だと、全体集合Uからその一部をなす集合Bを除いた残りからなる集合は、集合Bの補集合と呼ばれ、Bの上に横棒(バー)をつけて表記するのが慣習である。しかし、テキストでは書けないので、B'と表記する。

集合の式で表せば、下記のようになる。

    U = B ∪ B'

    B ∩ B' = φ

    ただし、φは空集合。

Bは、その3次元領域さえきっちりと特定できるのであれば、ほんとうに何でもよい。そこらへんに落ちている、一個の石ころであってもよい。

今の段階では、まだ時間軸を導入していないので、Bは、今現在、そこにある石としてよい。時間軸が導入された上で、人が石を蹴って、その石が移動したとすると、Bは、石がもともと占めていた空間領域にそのまま留まり続けるのではなく、石に伴って移動する。

目の前にコップがあって、コップには水が入っていて、水には氷が浮かんでいるとする。時間軸を導入しないのであれば、この氷1個をBとすることも可能である。しかし、時間が経つと、氷が溶けて水と混ざってしまうので、例として具合がよくない。同様に、石鹸や消しゴムも適当ではない。

ピチッと密閉したタッパーウェアがあれば、それと、その内側の領域を合わせてBとしてよい。

地球とそれを薄くカバーする大気圏ぐらいまでをBとしてよい。公転に伴って、Bは移動していく。地球の北半球だけをBとするのもアリである。

一台の自転車をBとしてもよいが、その一部であるペダルだけをBとしてもよい。一台のコンピュータをキーボードやモニターをセットにしてBとしてもよいが、キーボードの [H] のキー1個だけを取り上げてBとしてもよい。

強化学習や自由エネルギー原理は、このエージェント対環境のモデルをベースにしている。それらのモデルにおいても、Bは抽象的な主体であり、具体的に何を指しているかは明言していない。しかし、議論して意味があるものとして含意しているのは生物一個体であろう。あるいは、それに準じるロボット一体とか。

Bとして、一人の人間だった場合を考えよう。身体も含めた、ふつうに一個体とみなすことのできる領域をBとする。洋服は着替えられるので、Bに含めなくてよいだろう。

胃や腸の内側はB'側と考えたい。内側の内側は外側であるという理屈。人間は考える筒である。腸内細菌みたいなやつは人間と共生しているとみることもできるようだが、いちおうB'の側としておこう。

人間は胃壁から栄養分を吸収したり、肺から酸素を取り込んだりしている。もともとはB'側にあったものをB側に組み入れている。毛が抜けたり、爪が切られたり、垢が洗い流されたり、蚊に血を吸われたりするとき、B側にあったものが B'側に出ていっている。

結局、エージェントBは、何によって規定されるのであろうか。
(1)空間領域か
(2)原子・分子の集まりか
(3)概念か

まず、(1)ではない。もし(1)だとすると、ある石ころをBとするとき、その石ころが蹴られて移動した場合でも、Bは石ころが元あった3次元領域に留まり続けなくてはならない。そういうものではない。

(2)も苦しくなっている。一人の人間をBとするとき、原子・分子レベルでは、いろいろ出たり入ったりしている。何か月か経つと、ほぼ総入れ替えになっている。また、物質としては一揃い揃っていても、死んでいては、人間として機能しなくなっている。

結局、(3)ということになる。物質としては、B'からBに取り込まれたり、BからB'へ出ていったりすることがあってもよいが、それでも境界面がしっかり保たれている存在、それがエージェントBである、ってことになる。

脳と身体とが別々の場所にあって、電波で相互に通信しあっているような場合、物理的には2つに分離しているけれども、合わせて一体と考え、これをエージェントBしてよいだろう。

●エージェントが指一本の場合で練習しておこう

私の考えるモデルにおいて、エージェントBの具体例として含意しているのは、一個の脳である。そこへ進む前に一本の指で練習しておこう。

ある特定の人物の右手の人差し指をエージェントBとしよう。右腕という比喩を持ち出すとかえってややこしいが、忠実な部下である。このBにとっては、身体の残りの部分はB'に属し、身体の外側の領域もB'に属する。

Bにとって、入力は2つある。ひとつは、触覚センサーを備えており、指が何かに触れたとき、どんな感触がしたか、情報が入ってくる。もうひとつは、脳から「この筋肉をこの程度の強さで収縮させよ」という指令が神経を伝って降りてくる。

出力も2つある。ひとつは触覚情報を神経を介して脳に伝える。もうひとつは、脳からの動作命令に応じて筋肉を収縮させることによって指を動かし、それは外部の世界にはたらきかける。

ほんとうはこれ以外にもいろいろあるのだが、モデルとしてはひとまず省いておいてよいのだと思う。後でよくないとなったら取り込めばよい。

例えば、血流があり、それに乗って酸素や栄養分が運び込まれたり、老廃物が運び出されたりしている。また、爪や毛や垢はBからB'へ移行する。お風呂に長く浸かっていると指がふやけるってことは、外から水分を吸収するのであろう。また、日焼けするということは、紫外線も入力のひとつになっているってことだ。

そういうのは一切合財、モデルから省く。そうすると、上記2つの入力と2つの出力という要件さえ満たせば、指の素材は天然のものである必要はなく、機械で置き換えたとしても、機能さえ果たしていればいいってことになる。そういうのは、そんなに遠からず実現しちゃうかもしれない。

●エージェントが脳の場合はどうか

さて、指でみてきた議論がそっくりそのまま脳でも成立するかというのは、検討の余地のあるところであろう。

しかし、一個の脳をエージェントBの具体例とするモデルを考えること自体に、不合理であるという批判や、けしからんというお叱りを受ける余地はないように思う。

物理的な宇宙全体をUとし、その中の一部分をBとするモデルを考えた。Bの具体例として採用可能な条件は、BとB'との境界面がはっきり定まることであった。その条件を満たす限りにおいて、Bは何でもよかった。何でもよいのであれば、その一例として脳を取り上げたってよかろう。こういう理屈である。ここまではひとつも問題ないように思うのだが、いかがだろうか。

脳領域をBとするとき、BとB'との境界面は、自然に定まるのか、という問題は検討しておいたほうがいいかもしれない。頭蓋骨を開けると、重さ1.5kgばかりの白いしわしわの塊が入っていて、これが脳である。バナナの皮みたいに、引っ張れば簡単に剥離するようになっていれば簡単だが、たぶんそうはなっていない。

脳の下部から神経の束が延びており、身体の各部と接続している。「ここでお切りください」と点線が引かれているわけでもないので、どこまでが脳なのか、よく分からない。

パソコンの電源ケーブルが、パソコン本体の一部であるか外部であるかという問題に置き換えてみよう。電源ケーブルの途中のどこでもいいから、ニッパーでばつんと切断してみよう。そして、ここまでがパソコン本体だったのだ、ってことにしておけばいいのではないかな。

脳についても、延髄の適当なところでバスッと切断して、ここまでが脳でした、ってことにしておけばよいのだと思う。そこに神経細胞の束の断面が現れるが、それが外界B'とのインターフェースとなる。ただし、意識が宿っていたり、重要な計算をしたり記憶を保持したりしている領域がB'の側に行ってしまってはまずいので、なるべく末端に近いあたりで切っておくのがよかろう。

(定義3)BとB'との相互作用の手段には、ビット列の同時並行的な入出力があり、それ以外には何もないものとする。B'からBへ渡るビット列を入力信号と呼び、BからB'へ渡るビット列を出力信号と呼ぶ。

ビット列とは、例えば "100101110100110111..." のような、0と1の並びのことである。

指で練習したときと同様、実際には脳においても血流やそれに乗った物質の出入りはある。特に、神経伝達物質はちょいと気になる。しかし、ここでも大胆に、モデルからは捨象してしまおう。

そうすると、このモデルにおいて、脳エージェントBにとって、B'と関わるための入出力はビット列以外に何もない、ってことになる。

これは、一段階抽象化したモデルではあるが、現実の脳のありようをよく反映していると思う。ほんとうは重要なはたらきをしている入出力要因を、モデル化過程でうっかり捨象してしまっていた、ということでない限り、このモデルの上で脳の機能について論じるのが、まっとうな筋だと思う。

脳は、ビット列の形で入力信号を送り込んでくる神経細胞の元の末端に、視覚センサー、聴覚センサー、味覚センサー、嗅覚センサー、触覚センサーとして機能する目耳舌鼻皮膚が実在しているかどうか、最初から知っているわけではない。

同様に、脳は、ビット列の形で出力信号を送り出した神経細胞の先の末端に、収縮可能な筋肉が実在しているかどうか、最初から知っているわけではない。

もともと知らないというだけでなく、どうがんばっても、知りようがない。脳が直接的に知ることができるのは、あくまでも並列ビット列形式の入出力信号だけである。身体の存在は、あくまでも推測の結果にすぎない。その内容が現実と一致しているかどうかの保証はどこにもない。これが、まさに、素朴実在論の否定、ということにほかならない。

しかし、一方、「私」はそれらがあることを知っている。というか、知っているつもりになっているというか。まあ、思い込みであり、錯覚なんだけども。脳と「私」とを混同してはならない。「私」とは、脳よりも、どちらかというと「志向的クオリア」だ。

(定義4)1/100秒を1単位とする等間隔に刻まれた離散時間を導入する。

実際の神経細胞は、1本あたり100 [ビット / 秒] ぐらいのビットレートでビット列を伝送することができると言われている。

いま、われわれのモデルに時間軸を導入するとするならば、1/100 秒を1単位とする等間隔に刻まれた離散時間でいいような気がする。現実の時間の経過は「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」みたいに連続的なものだが、これをクオーツ時計の秒針のように、カチッ、カチッと離散的に刻むものとしてモデル化してしまおう。

(定義5)Bは出力信号をすべて決めることができる。しかし、Bは入力信号をどれひとつとして直接的に決めることができない。

Bが、出力信号と入力信号との関係性の法則を習得した後で、特定の入力信号を得たいがために、それが返ってくるはずだという予測に基づいて出力信号を送り出すことは可能である。しかし、それは、間接的な手段による入力信号選択であって、直接的なものではない。これは定義5と矛盾しない。

(定義6)初期状態において、Bは、B'に関する情報を何一つ保持していないものとする。

親から遺伝して授かった、生まれつきの先験的知識のようなものは、とりあえず、何もないと仮定しておく。

地球に帰ってきたばかりの宇宙飛行士へのインタビュー映像がおもしろい。重力があるのを忘れて、コップを手から放しちゃうのだ。
https://www.huffingtonpost.jp/2019/01/20/astronaut-lame-for_a_23647999/


重力の存在って、忘れちゃうことが可能なんだね。忘れることができるようなものが生来備わっているはずがないと思う。

以上が、「脳エージェントモデル」である。

ここまでのところ、私としては、ごくごくあたりまえの、つまらないことしか言っていないつもりなのだが。何か、議論の余地があるだろうか。

図1:脳エージェントモデル(制作: Solaris LLC)
https://photos.app.goo.gl/Ys2Kh5QwbvAUQCfH8

(上記アルバムの左側の図)

●問題は世界を理解すること

(問い1)脳エージェントモデルの下で、B'のありようをBは正しく知ることが可能だろうか?

答えは「できない」。

その反例として、「水槽の脳」を挙げるだけでよい。脳がむき出しの単体の状態で、水槽の中で培養されている。脳との間で入出力信号を送受信する神経細胞の逆側の端には巨大なコンピュータが接続されている。

コンピュータの中では、ある恣意的な物理法則の下で世界をシミュレーションする計算が進行している。脳が出力したビット列信号に基づいて、それと整合する五感入力ビット列信号を送り返すようになっている。これが、B'の現実の姿である。

一方、脳Bの側は、このシミュレーションにすっかりだまされて、自分は身体を保有し、ふつうに生活しているものと思い込まされている。これが、脳が推測した結果として得られたB'の姿である。現実のB'と脳が思っているB'との間には、非常に大きな齟齬がある。

われわれの脳自身、こんなふうになっている可能性は論理的には否定できない。

図2:水槽の脳(制作:Solaris LLC)
https://photos.app.goo.gl/Ys2Kh5QwbvAUQCfH8

(上記アルバムの右側の図)

●脳の不思議1:デバイスドライバの自動開発

デバイスドライバの自動開発の話は、2019年2月22日(金)配信分に書いています。

『外界と私との連絡手段はビット列のやりとり以外に何もない』。
https://bn.dgcr.com/archives/20190222110100.html


なので、詳しくはそちらを参照していただくことにして、ここでは簡単に言っておきます。

一個の脳を、CPUとメモリとからなる一台のノイマン型コンピュータにたとえてみよう。目鼻耳口手足のような身体を、ハードディスクやモニタやキーボードのような外付け周辺機器にたとえてみよう。

コンピュータの場合、周辺機器をつなぐだけですぐに使えるようになるわけではない。周辺機器の入出力信号に関する仕様書を参照しながら、人がデバイスドライバーと呼ばれるプログラムを書き、それをコンピュータにインストールしなくてはならない。

今のパソコンだと、このインストール過程が自動化されている場合がふつうなので、ユーザはデバイスドライバーの存在に気づかなくていいようにはなっている。しかし、誰かがそれを開発したという事情は変わっていない。

仕様書なしに、入出力信号の実例にだけ基づいて、仕様を推測して、デバイスドライバを自動的に開発する技術は、人類はまだ獲得していない。とてつもない難問なのだ。

脳エージェントモデルにおいて、Bはビット列の入出力とは別に、手足の仕様書を参照することができるわけではないので、入出力信号だけを頼りにデバイスドライバを自力で開発しなくてはならない。生まれたての赤ん坊は、スーパー難問を解かされるという目に遭っているのだ。

不思議と、これを解いちゃうんだな。両眼立体視できるようになるためには、三角関数の知識がないと無理なような気がするけど、いったいどうやって解いているのだろう。

この過程は無意識下で進行する。意識化できるんだったら話はラクで、自分が解いたその解法をプログラムに落とし込んでコンピュータにインストールすれば、一丁上がりである。そうはいかない。

解いた本人が、どうやって解いたのか説明できないどころか、スーパー難問を解いたという自覚さえない。無意識の不思議である。

●脳の不思議2:愛情のビット列表現

子育てにおいて、次のような経験則があるとしよう。濃厚な愛情をもって子育てをした場合と、希薄な愛情をもって子育てをした場合とを比べると、概して、前者のほうが、子供が世界を理解するのが早さと正確さにおいてまさっている。

さて、まったく同じことを脳エージェントモデルの上で言い換えるとどうなるか。入力ビット列には、濃厚な愛情の載ったビット列と、希薄な愛情の載ったビット列との区別があり、前者のほうが、問題を解きやすくなっている。

なんか、変な感じがしますかね?

●意識に身体は必要か

前置きが長くなったが、本題に入ろう。私の主張ポイントを述べておきたい。このあたりは議論の余地がめちゃめちゃありそうな領域なので、慎重に言わなくてはならない。

第一に、意識はBの側に宿る。BとB'にまたがって宿るわけではない。言い換えると、意識が生じるために、器質的にはBだけあればじゅうぶんであり、B'を必要としない。

「意識に相関した脳活動(Neural Correlates of Consciousness; NCC)」という問題がある。フランシス・クリック(Francis Crick)氏とクリストフ・コッホ(Christof Koch)氏が提唱した問題で、脳のどの部位に意識が宿るのかを問うている。

もう少し正確に言うと「ある特定の意識的知覚を共同して引き起こすのに十分な、最小の神経メカニズム」は何かを問うている。

脳の一部が腫瘍などでダメージを受けた場合、即座に意識がどうかなっちゃう部位と、意識にはぜんぜん影響しない部位とがある。なので、意識は脳全体にわたって宿るのではなく、どこか一部に宿るものであろうと考えられる。それをできる限り小さい領域にまで絞り込みましょう、という問題である。

Nikos Logothetis 氏(Max Planck Institute for Biological Cybernetics)や渡辺正峰氏(東京大学)が取り組み、いい結果を出している。

意識を宿す物理基盤としては、脳の中でもごく一部だけで事足りるというのだから、ましてや身体は関係ない。

詳しくは、Wikipediaに「意識に相関した脳活動」という見出しがあるので参照してください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/意識に相関した脳活動


第二に、質において、どのような意識が宿るかは、B'に依存する。

もし、入出力信号がぜんぜんなければ、明瞭な形では、どのような意識も生じえない。視覚信号が入ってこないことには視覚クオリアは生じえないし、聴覚信号が入ってこないことには聴覚クオリアは生じえない。仮になんらかの意識が生じたとしても、抽象的な夢をみているようなもや~んとした感じで、明瞭さに欠くであろう。

この意味において、B'がなくてもBだけで意識が形成しうるとは考えていない。

脳エージェントモデルを持ち出すことで、意識の解明が進展するってわけではないけれども、問題を整理し、不思議さをあぶり出すのには、それなりに有効なのではなかろうか。


【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
http://www.growhair-jk.com/


《NHKラジオの電波を汚した》

一週間前から予告されていた通り、5月24日(金)9:05pm~(50分間)、NHKラジオ第一で『とりしらベイビー』が放送された。ネット上で話題になっている、ちょいと一癖ありそうな人をスタジオに呼んで、「取り調べ」するという番組。尋問するのは小籔千豊さんと池田美優(みちょぱ)さん。
https://www4.nhk.or.jp/torishirababy/


この回、取り調べられるのは私、JK爺。この名前で呼んでくれるのは、近所の居酒屋くらいだった。メディアじゃ初めてではなかったか。大変ありがたい。

5月8日(水)に収録した際、包み隠さずいろいろ白状したけど、後でよくよく振り返ってみると、しゃべった内容があんまりNHK向けじゃなかったかも。そこをカットして、音楽かけて穴埋めしたら、きっと今回のは音楽番組みたくなってるかも。

心配しながら聞くと、これが驚くべきことに、意外とまかり通っている。NHK、勇気あるなぁ。下着まで取り調べられる場面とか。しかし、女の子のパンツがいかに好きかを延々々々語ったところはほとんどすべて、ばっさりとカットされていた。

天安門広場の一件は、ヒヤヒヤ。誓いの薔薇の指輪の複製を作ったこともだ。

意識の話。打合せの日、話が一通り済んだ後で、スタッフの一人が大幅に遅れて到着するってんで、つなぎの雑談でしゃべったのが、台本にもちょこっとだけ載っていた。本番で、その話を始めたら、調子が出てきて止まらなくなってしまい、思わずばーーーっとまくしたてちゃった。

小藪さんもみちょぱさんもぽかーーーん。こんなの放送したら聴くほうもきっとぽかーーーん、だろうから、カットされるだろうな、と思っていた。そしたら、独白マシンガン長台詞をほとんどカットすることなく放送していた。

渡辺正峰先生に言及。意識のアップロードの話。うっかり言っちゃった会社名はちゃんとカットされてる。自然につながっている。甘利俊一先生にも言及。

打合せでまったく言ってなく、当然、台本にも載っていなかったのに、本番で急に思いついて言っちゃったことが、放送された。小籔さんから、「最近ので何かないの?」と聞かれ、思わず「橋本環奈さん、尊敬してます」と。うわぁ。

でも、容疑は晴れたらしい。意外とちゃんとした人、みたいな形でまとめていただけた。

twitter の反応:

#とりしらベイビー やっぱり面白い。
今一番色々な人に聴いて貰いたい番組。毎回様々なゲストが。
今回は、セーラー服おじさん。似合ってるし、凄く良い声。
そして話の内容が濃くて頭の良さが滲み出てた。
素敵な考え方と生き方です。
22:01 - 2019年5月27日

#とりしらベイビー 5/24聴き逃し。JK爺を取り調べ。
人って外見では分かりません。これは毎回聴いていて思うのですよ。
毎回取り調べにとんでもない人が現れる!って聴いてみると納得あるいは
感心してしまう。今回もそうでした^ ^
21:12 - 2019年5月26日

ラジオに出てるJK爺ってあのセーラー服のおじさんか。
声も渋いし話もわかりやすくて面白い。
21:53 - 2019年5月24日

頭良すぎて馬鹿な話賢い話高速で行き来してアナウンサーも誰もついていけな
いギャップ萌えでした^^;
21:50 - 2019年5月24日

出掛けなきゃなのにNHKラジオ第一がセーラー服おじさんがゲストで耳が離せ
ない
21:38 - 2019年5月24日

NHKラジオにセーラー服おじさんがゲスト出演してて、海外旅行の話してたの
面白かったな。「私は透明人間的な旅ではなく、自分を実験台にして文化の違
いを楽しんでいる(要約)」
21:38 - 2019年5月24日

NHK ラジオのウェブサイト「らじる★らじる」で聞き逃し配信しているのが、6月1日(土)正午まで。
https://www4.nhk.or.jp/torishirababy/x/2019-05-24/05/69441/3715008/

https://www.nhk.or.jp/radio/ondemand/detail.html?p=4917_01


《出版記念イベントでのトークが全文掲載》

2019年3月26日(火)に渋谷の「BOOK LAB TOKYO」で開催された『コンテンツマーケティング最前線02』出版記念トークイベントの内容が全文、5回に分けてログミーに掲載された。

デジクリを「誰にも発見されないメルマガ」呼ばわりしてしまった。すいません。
https://logmi.jp/business/articles/321233


コンテンツマーケティング最前線02
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B07P4D3VSC/dgcrcom-22/