[4818] 「意識 2.0」を提唱したい

投稿:  著者:



《練習に「猫」という概念を定義してみよう》

■ Otaku ワールドへようこそ![307]
 「意識 2.0」を提唱したい
 GrowHair
 



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ Otaku ワールドへようこそ![307]
「意識 2.0」を提唱したい

GrowHair
https://bn.dgcr.com/archives/20190628110100.html

───────────────────────────────────

このところ、意識にまつわる理屈っぽい話が何回か続いた。今回は気分を変えて、違う話題を取り上げようかな、という思いもあるにはあったのだが、どうも自分自身が意識の海でおぼれかけていて、それ以外のことをあんまり考えなくなっているぞ、という状況がある。そういうわけで、今回も意識をこってりと語ります。

●猫がきゅうりを見てジャンプするのはなぜ?

ひところ、猫がきゅうりを見て大ジャンプする動画がネットで大流行した。黙々と食事している猫の背後に、大きめのきゅうりをそーっと置いておく。食べ終えた猫が、振り向きざまにきゅうりに気づいて、ピョーーーンと飛びのく。

特に危害を加える可能性があるわけでもなく、ただ転がっているだけのきゅうりにものすごくびっくりして、オーバーなリアクションをとるのがこっけいで、類似の動画が次から次へと上がっては大拡散した。

そのうち、専門家から、これは虐待にあたるという批判が出て、流行はしぼんで消滅した。

猫はきゅうりをヘビと間違えるのではないかという説が出ている。きゅうりに替えて、トマトで実験した人はいないのだろうか。たとえトマトであっても、そこにないと思っていたものが、いつの間にか忍び寄っていたのだから、びっくりはするだろうが、そのびっくり度合いがもし緩和されていれば、きゅうりをヘビと間違えた説の信憑性が高まる。

もし、ヘビと間違えた説が正しいとすると、猫のオーバーリアクションには合理性がある。そこにあるものが本当はヘビではないのにもかかわらず、それはヘビだと認識するとき、この認識の誤りを「第一種過誤」と呼ぶ。

「あわて者の誤り」とも呼ぶ。逆に、目の前にヘビがいるのに、それはヘビではないと認識するとき、この認識の誤りを「第二種過誤」と呼ぶ。「ぼんやり者の誤り」とも呼ぶ。

きゅうりの件について言えば、第一種過誤を犯した場合、無駄に飛びのくだけなので、被害がそんなに大きいとは言えない。一方、第二種過誤を犯した場合、逃げそびれてヘビに食われてしまう可能性があり、被害はまさに致命的である。

ヘビと認識するパターンの範囲を広く取っておけば、第一種過誤の可能性は増えるけれど、第二種過誤の可能性は減る。逆に、狭く取っておけば、第一種過誤の可能性は減り、第二種過誤の可能性は増える。

このように、第一種過誤と第二種過誤とは、いわゆる「あちらが立てばこちらが立たず」の関係にあり、これをトレードオフ(trade-off)という。

第二種過誤のほうが、結果としてこうむるダメージが重大であるならば、ヘビの範囲を広く取っておくのが合理的というわけである。猫の第一種過誤を笑っている人間のほうが、むしろ第二種過誤をやらかしそうで危なっかしい。

きゅうりを見て飛びのく猫の映像が、あれだけたくさん出回ったということは、その猫たちのうちの多くは家の中で飼われているものであり、生まれてこの方、現実にヘビと遭遇して危ない目に遭った経験がなかったのが、多くいるのではなかろうか。

だとすると、みずから学習して、後天的にヘビの危険性を習得したのではなく、先祖代々受け継いできていて、生まれつき備わっていたのかもしれないことになる。大雑把なヘビの絵の情報が、遺伝子のどこかに記録されてたという訳か。

そう言えば、きゅうりを見ても悠然として、飛びのかない猫もいるらしい。ご先祖がヘビに遭遇するような環境に暮らしてなく、ヘビの情報が遺伝子に書かれていないってことか。じゃあ、あらゆる猫は遺伝子にヘビがいるかいないかで2種類に大別てきるってことか。

ここらへんに不思議なことがいっぱいある。第一に、遺伝子に書き込むことができる情報の量は限られているので、自分の身体の設計図ぐらいで使い切ってしまうのではないか。外界の情報まで記録しておけるほど、容量に余裕があるのか。

第二に、外界の情報を遺伝子に記録しておいたとすると、その情報を受け継いで生まれた個体の環境ががらっと違っていた場合、その情報がかえって不利に作用する可能性が生じ、環境への適応の柔軟性を減じるマイナスの効果を生む可能性がある。

第三に、ここが特に不思議なのだが、いくらなんでも、外界の情報をすべて遺伝子に書いておくというわけにはいかない。生まれたての個体は、外界について、ほぼ何も知らないはずである。

五感の情報としてビット列の形で脳に入力されてくる信号の相互の関係性や、運動指令の情報としてやはりビット列の形で出力されていった信号との関係性を頼りに、外界がどうなっているかという問題を解いているのだと考えられる。

この問題を解く作業は、各個体が自力で遂行するのであるから、それを解いた結果が脳のどこにどんな形で格納されるかは、個体に依存して異なる可能性がある。にもかからわず、遺伝子に書かれているヘビの概形の情報と、パターンマッチング(照合)することができるのか。非常に不思議だと私は思うのだが、この不思議さがうまく伝達できているだろうか。

●ヘビの認識基準をどう記述するか

猫ときゅうりとヘビの例で、話を続けよう。「ヘビとはこれこれこういうものだ」というのを、どういうふうに記述するのがよいだろうか。

大雑把なヘビの絵を一枚描いて、これと似てるやつがだいたいヘビだ、ということにしておく手があるかもしれない。しかし「似てる」の基準がはっきりしないという不満が残る。どこを比べて似てると判定すればよいのか。どの程度似ていることをもって、ヘビと判定すべきか。

もう少し客観的に記述しようとするならば、形状が細長くて、長さが10cmから2mの範囲内で、色が色相環のここからここまでの範囲内である、と規定しておくのがよいかもしれない。形状の細長さについては、長径の長さと短径の長さとの比率をもって数値化できそうだ。この値が5以上ならヘビ的に細長い、みたいに。

いま、長径/短径比、長さ、色相という3種類のモノサシを持ち出した。これらのモノサシのことを「パラメタ(parameter; 媒介変数)」と呼ぶ。3種類のパラメタの値は、それぞれを独立に動かすことができる。

3種類のパラメタのそれぞれの値を組にしたものは、3次元空間をなす。これをパラメタ空間という。いまの例では、パラメタを3種類用意したが、これに重量とか体温とか表面の摩擦係数とかを仲間につけ加えて、種類を増やしたってよい。パラメタが4種類あれば4次元空間をなし、5種類あれば5次元空間をなし、N種類あればN次元空間をなす。

パラメタ空間全体の中から、ある一部分を切り取って、この範囲内をヘビとしよう、というふうに定めることができる。このパラメタ空間内のヘビ領域は、直方体に限定する必要はなく、斜めに置かれた楕円体など、任意の造形であってよい。

ヘビ領域を定めたということは、ヘビ領域とそれ以外の領域との境界が定まったということでもある。いま、パラメタ空間が3次元だったら、境界は曲面をなし、すなわち2次元である。一般にパラメタ空間がN次元だったら、境界は(N - 1)次元をなす。

うんとざっくり言えば、これが「多様体(manifold)」の概念だと思ってよい。パラメタ空間が3次元の場合、ヘビ領域の境界面は2次元多様体をなす、というわけである。

「ヘビとは何か」を定めるための方法のひとつとして、パラメタ空間内に境界を定めておき、その内側をもってヘビとする、というような方法をとることができる、ってわけである。

猫の場合、第二種過誤を犯しては非常にマズいので、パラメタ空間において、ヘビ領域を広めに取っておくのがよい。その結果、その領域がきゅうりまで包含してしまうと、第一種過誤を犯すケースが生じるけれども、第二種よりはマシでしょ、というわけである。

もうひとつ、ヘビ領域の情報をそんなに詳しく書いておけるほど遺伝子の容量に余裕がないかもしれず、また、判定をスピーディーに行う必要があるから複雑な計算はしていられないという事情もきっとあり、どうしたって大雑把な判定にならざるを得ないのであろう。

だから、猫がきゅうりを見て大ジャンプするのは、行為としてはたいへん合理的である、という見方ができる。その一方、それがどんなメカニズムによってなされるのかは、謎が多い。

猫にとっては迷惑かもしれないが、いろいろ実験してみると謎が解けてくるかもしれない。

同様の例で、蜂が巣を作るのを防止する手段というのがあった。アシナガバチが軒下に巣を作るのを防止するのに、新聞紙を大きめの団子に丸めて、麻ひもでくくってつるしておくと効果的なのだそうである。これは、アシナガバチが新聞玉をススメバチの巣と誤認するからだと言われている。

理由もメカニズムもよく分からないけれど、アシナガバチはスズメバチの巣を判定する基準を備えており、それは大雑把であるか、広めに取られた判定基準であるのだと解釈できる。

人間の場合、想像力が豊かな人だと、逆三角形状に点が3つあるだけで、もう人の顔に見えてしまうようだ。先天的なものかどうかは、よく分からないけど。顔に限らず、実際とは別のものに見えてしまう現象を "pareidolia" という。この単語で画像検索をかけると、それっぽいのがぞろぞろ出てきておもしろい。

●定義を定義できるか

人と人とが、契約不履行や遺産の取り合いや痴話喧嘩や不貞などで揉めた場合には、当事者どうしでとことん話し合ってもどうにも解決が図れなかったら、最後の手段として、話を民事裁判に持ち込むという選択肢がある。

科学の未解決問題に関して、どの仮説を支持するか、立場の異なる者どうしが議論する場合、そうそう決着がついたりするものではないが、前提基盤が共有しあえているうえで、かみあった議論を展開しているのなら、まあ、よしとしよう。

問題なのは、議論がまったくかみ合っておらず、水かけ論が延々と続き、どこでズレが生じているのか見えなくてお互いに疲弊していくような事態である。これはつらい。最後の最後に「やっぱり定義かな?」ってところに行き着く。

意思疎通の手段として同じ言語を弄していながら、その実、言葉の意味の統一が図れてなかったじゃん、という、絶望の深い淵。

すべての議論の根っこの根っこにあるのが定義である。定義の近傍には不吉な渦が形成されていて、下手すると、すべての議論を吸い込むブラックホールになりかねない。はたして定義を定義することは可能なのか。なんだか循環論法の香りがぷんぷん漂ってきますね。

それはともかく、「定義とは何か」を自己流に述べると、次のようになる。「定義する」という動詞には、「ある概念を」という目的語が必ず伴う。「ある概念Aを定義する」とは「任意のaに対して、aが概念Aの実例であるか否かを決定する手続きを示すこと」。いかがでしょ。

「概念A」は任意であってよいのだけれども、そこに「定義」を代入してよいかどうか。触れないことにしよう。そのスポットはヤバい。

辞書で「定義」を引くと、次のように書いてある。「論理学で、概念の内包を明瞭にし、その外延を確定すること。通常、その概念が属する最も近い類と種差を挙げることによってできる」。

これ、すっと読めました? 解説したほうがよさそうですよね?「有袋類とは、腹部に育児嚢をもつ哺乳類である」。これをもって「有袋類」という概念を定義したことになっている。

「有袋類」というカテゴリに、最も近い親のカテゴリは「哺乳類」である。この部分が、辞書で言う「最も近い類」にあたる。哺乳類であっても、犬とか猫とかは有袋類ではない。そこを区別する基準が「腹部に育児嚢をもつこと」である。この部分が、「種差」にあたる。

で、有袋類を上記のしかたで定義したことをもって「内包を明瞭に」したことにあたる。有袋類として約270種が知られているらしい。有袋類とは、カンガルーと、フクロネコと、コアラと、オポッサムと、……というふうに全部書き並べると「外延を確定」したことにあたる。

概念Aを定義するには、内包を明瞭にするか、外延を確定するか、どちらか片方をやっておけばよい。

脱線するけど、「〇を〇する」の〇の中に同一の語を入れて、ちゃんと意味をなすようにできるだろうか。「酢をすする」みたいなのじゃなくて。「定義」以外に思いつくだろうか。

「否定を否定する」、「否決を否決する」、「却下を却下する」は、単なる反復で、マイナスのことを二回重ねるとプラスに戻る、みたいな話。

「意識を意識する」とか。こういうやつ。「定義を定義する」と同様のヤバみを感じる。あれに似ている。「〇についての〇をメタ〇という」ってやつ。「議論についての議論をメタ議論という」、「数学についての数学をメタ数学という」。こういうやつ。

●練習に「猫」という概念を定義してみよう

脱線から復帰して、じゃあ、練習に「猫」でも定義してみますか。外延でやろうとするとたいへんなことになる。世界中からすべての猫を探し出してきて、こいつとこいつとこいつと……と列挙しなくてはならない。

仮に根気よくそれをやろうとしたとして、新しい個体が見つかったとき、それを猫と判定するか猫でないと判定するか、基準が明確になってないことには、判定者の主観が混ざりこむことになって具合がよくない。

どうしたって内包でやらざるを得ない。親のカテゴリは哺乳類でよいだろう。問題は、哺乳類の中でも他の種とどう弁別するか、その基準である。もふもふしてるとか? じゃあうさぎはどうなんです? 「にゃあ」と鳴くとか? オレだって「にゃあ」と鳴くけど?

「猫」なんて辞書で引いたこと、ないでしょ? 「体はしなやかで、足裏に肉球があり、爪を鞘に収めることができ、長いひげがセンサーとして機能し、舌はざらつき、瞳孔は暗所で円形に開き明所で縦長に細くなる」とかなんとか。パラメタ空間がやけに多次元だ。

けど、われわれが、塀の上で日向ぼっこしている小動物を見かけたとき、それが猫だと同定するのに、そんなにたくさんの項目をいちいちチェックするだろうか。一目見たその瞬間に猫だと分かるのではなかろうか。

われわれは猫を見たとき、それが猫であることを瞬間的に同定する能力をもっている。まあ、よほど紛らわしいやつが来ない限り、たいがいできるぞ、と思っている。この弁別能力があることをもって、私は猫という概念をちゃんと理解しているぞ、と思っている。

一方、猫を定義してください、とあらためて言われると、たいへん困る。高次元のパラメタ空間において、猫領域を定めようとして四苦八苦する。そして、今まで、そんなこと考えたこともなかったぞ、と気づく。

しかし、よくよく考えてみると、N次元パラメタ空間において、猫である領域と猫でない領域との境界をなす(N - 1)次元多様体を「ここ!」と決定できないことには、猫をちゃんと定義したことになっていないし、それができなかったら、実は猫をちゃんと理解していなかった、ってことになりはしないか。

ここに気づくことが、ものすごーく重要なのだと私は思う。われわれは、なんとなく猫という概念を理解したつもりになっているけれども、それは、猫という概念の範囲をきっちりと特定することによって、その概念を定義したことをもって「分かる」という由緒正しい分かり方をしていない。なんか別の分かり方をしているらしい、っていうことだ。

じゃあ、われわれが「分かる」と言ったときの、その分かり方とは、いったい何なんだ。そこがすごーく謎なのだと思う。

現時点の人工知能(Artificial Intelligence; AI)は意味を理解できていない、と言われる。言い換えると、「記号接地(symbol grounding) 問題」が解決していない。

GoogleのAIに画像を見せると、そこに写っている被写体が猫であるか猫でないか、非常に精度よく判定してくれる。どうやってそれを実現しているのか。何千枚という大量の画像について、まず人が、これは猫である、これは猫でない、と一枚一枚、正解をタグづけして、セットにしておく。この画像と正解のセットの大量の集まりを「教師データ」としてAIに食わせ、「学習」させる。

AIは画像という入力から、正しい判定結果という出力を導出するための「関数」を内部的に生成する。これは、かなり柔軟な形状の境界多様体を決定することに相当する。この関数の生成は、多層につないだニューラルネットワークを用いることでうまくいっており、この仕組みを「深層学習(Deep Learning)」という。

関数の生成がうまくいっていれば、まだ見たことのない新たな画像を入力されても、正しく判定できるようになっている。これの精度はすでに人間並みのレベルまで到達している。

ここまで出来たからといって、AIが猫という概念を理解した、と言っていいものかどうか。人によって猫が好きな人と嫌いな人とがいるかもしれないが、たいていの人は「猫のあの感じ」という言葉にしづらい感覚をもっているのだと思う。AIにはそこが欠如している。

しかし、われわれの側は、定義という観点からすれば、猫という概念の範囲を特定できていないので、その意味では猫を理解したとは言いがたい。われわれが猫を理解しているつもりになっているのは、思い込みであり、錯覚なのではないのか。

そういう見方をすると、われわれは、ほんとうには分かっていないことを、分かったつもりになっているという誤りを犯していることになり、AIよりも劣っているということになりはしないか。

●定義に無頓着でも分かったつもりになれる都合よさ

まだ小さいさっちゃんは、ヒト以外の動物は猫三匹しか見たことがない。ウチのミケと、隣りのタマと、路上生活者のノラ。しかし、この時点ですでに、不完全ながら、「猫」という概念が形成されているのではあるまいか。

人間が、実際に生活していく中で、猫などの概念を獲得していく過程は、猫というクラスのインスタンスである、現実のもふもふ生物としての猫と次々に出会うことを通じてであるのが通例であろう。

何千匹もの猫と出会い、何万もの猫でないものと出会い、しかる後に、パラメタ空間において境界面を立てることによって猫領域を限定する、という概念形成の仕方をやっていると、ある程度大きなサンプル数が集まるまでは、猫という概念を形成するのを保留にしておかなくてはならない。これは、どんくさい。

たった三匹の猫と出会い、それ以外の動物とはまだ出会ったこともない時点で、猫という概念を形成せよ、と言われても、理屈ではぜーったいに無理な話だ。

だって、ハクビシンもネコギツネ(未分類新種)もチーターもピューマもジャコウネコ(猫ではない)もミーアキャット(猫ではない)も大熊猫(猫ではない)もウサギも犬も象もキリンもまだ出会っていないのだ。いったいどこに境界線の引きようがあるというのだ。

あるいは、全身真っ黒なヤマトという新顔の猫が目の前に現れたとして、これを猫と判定すべきか猫でないと判定すべきか、いったい何を基準にせいというのだ。

しかし、無理なら無理で、不完全であってもいいから、この時点でも分かることを分かっておいたほうが、都合がいいということはあろう。

具体的にどんな手法を使えば、暫定的不完全理解が可能なのか、私にはまるで見当がついていないのだが、なんか上手い手を使っているような気がする。

面倒だなぁ、と思うのは、猫という概念に対する自分の理解は、暫定的で不完全なものである、ということを自覚できている人が非常に少ないという点だ。たいていの人は猫ぐらいだいたい分かってる、と思い込んでいる。

言い換えると、きっちりと境界を立てて定義する、ということにまったく無頓着なのである。これは「能力」と呼んでいいのか「欠陥」と呼ぶべきなのか。

この分かってなさに気づいてもらおうと、「あんたは猫が分かっていない!」などと叱りつけてみたところで、何も進まない。根気よく説明しようとしても、たいてい成功しない。うううむ。

どうやったらそんな都合のいい理解のしかたができるのか、私には不思議で不思議でしかたがない。

ここらへんのことは、人工知能のフィールドでももちろん問題になっている。Googleの猫画像の弁別精度が高いのは大したもんだけど、何千枚も教師画像を与えて学習させないと、猫という概念が形成できないのは、人間の理解のしかたとは明らかに異なる。そんなに大量のサンプル画像を人間が用意してあげないとならないのは、面倒くさい。

近ごろ、「ワンショット学習(One-Shot Learning)」というのが話題になっている。AIが概念を理解するのに大量のサンプルを必要としなくなってきたってことなのか? AIの理解のしかたが人間のそれに近づいてきたってことなのか? ちょっとした脅威を感じる。気になりつつも、勉強すべきことが多すぎて、そっちまでぜんぜん手が回らない。

●意識2.0を提唱したい

「猫」という概念自体は抽象概念ではあるけれども、それのインスタンスはミケやタマやノラやヤマトなどであり、触ることもできれば、勘定することもできる個別の実体である。第一次的な抽象概念と呼んでおこう。

それに引き替え、「幸福」、「経済」、「ベクトル空間」、「時間」などの概念は、インスタンスが挙げられないか、挙げられたとしてもまだ抽象的である。抽象度が一段と高まっていると言ってよい。

この種の抽象概念は、インスタンスを適当に3つか4つかき集めてきたら、それらを包摂するくくりとして自然にもや~っと浮かび上がってくるものではないと思う。この手の高次の抽象概念を用いて、何か議論をしようとするならば、今度こそ、ちゃんと定義してから始めないことには、まともに話が伝わらないのだと思う。

ところが、こういう高次抽象概念についても、われわれは、ちゃんと定義できていないのにもかかわらず、なんとなく、理解しているような気になれちゃうという錯覚をやらかす。つまり、なぜか、境界面に無頓着でいられるのだ。混乱する議論の元凶は、多くの場合、ここにあるのではないか。

知能にせよ意識にせよ、無意識にせよ、感情にせよ、心にせよ、私はバージョン1.0とバージョン2.0の区別が必要なのではなかろうかと思い始めている。

アントニオ・ダマシオ氏(南カリフォルニア大学教授)は次のように言っている。「人工知能が人間の心を再現できるという考えには断固として反対です。感情を持つ能力が人工知能にはないからです」。

もし、同じことを、そこらのおっちゃんが言ったのだとしたら、私は「うわぁ、こいつ、なーんも分かっちゃいねーんだな」と、考えの浅いやつ認定して、鼻くそを指で弾き飛ばすかのように、意識から忘却のゴミ箱へと放り捨てていたであろう。

しかし、脳や神経や身体と情動や感情との関係性を長年にわたって探究してきた、偉大なる神経科学者であるダマシオ先生に対して、この扱いで片づけるわけにはいかない。

アニル・セス氏(英国サセックス大学)は、「機械に意識は宿らない」と言っている。セス氏は、金井良太氏(株式会社アラヤ代表取締役)が現地に行って意識について一緒に研究されていた神経科学者である。

意識について、「心の哲学」の領域のビッグネームであるジョン・サール氏やデイヴィッド・チャーマーズ氏とも、概して見解が整合するようにみえる。にもかかわらず、それを言ったのは、私にとって、たいへん意外であった。かといって、やはり鼻くそ扱いはできない。

どうも、定義なんじゃないかなぁ、と思う。知能や意識や感情について、それらは何かを規定する定義において、そもそも、それらは身体や生命に依存する概念であるという捉え方がひとつある。意識とは、身体に密着した概念であり、切っても切れないものだと捉えている。これをバージョン1.0と呼びたい。

「コンピュータに意識が宿りうるか」という問いについて考えるとき、バージョン1.0の流儀で意識を捉えていると、「コンピュータには生命がありません、コンピュータには身体がありません、ゆえに、定義から、意識が宿ることは決してありません」で、あっという間に話が終わってしまう。議論が始まりもしないのだ。

機械に意識が宿ったという実例を見た人はまだいないので、意識は身体や生命に依存して生じるものだ、という捉え方をしていたとしても、即座に、それは間違いであると言えるような証拠を突きつけることはできない。これはこれで一理あるのだ。

「コンピュータに意識が宿りうるか」という問いに対して、正解は宿るかもしれないし、宿らないかもしれないし、そこはまだ分からない。しかし、この問い自体が意味のあるものとして、検討の俎上に載せるためには、バージョン1.0の定義のしかただとうまくいかない。

あらためて、知能や意識や感情という概念を、それを宿す主体に依存しないものとして捉えなおさなくてはならない。これをバージョン2.0と呼びたい。

1.0対2.0の対比は、「特殊」対「一般」、あるいは、「観察対象」対「純粋」のように言い換えてもよいかもしれない。

1.0にせよ、2.0にせよ、科学の言葉で、パラメタ空間に境界を立てるような形で定義することはできていないので、どうしてもあいまいさは残るのだが、区別があること自体は、はっきりしていると思う。

ダマシオ氏やセス氏は1.0の土俵の上で話をしているのだ、一方、カール・フリストン氏やジュリオ・トノーニ氏は2.0の土俵の上で話をしているのだ、と、こういうふうに、定義のバージョン違いだったのだ、と理解すれば、両者を矛盾なく包摂できるような気がしている。

ここが、今回、言いたかったことである。あと、前回述べたことについて、軽く補足。

●無意識について補足

「無意識」という概念については、何かを認識したり抑圧された感情がくすぶったりしているけれども、意識には上らない心の領域が、意識領域に隣接して、なんかあるでしょう、と言われている。そこには私も賛成だ。

ただ、無意識という概念の境界のうち、意識に隣接するのは一部にすぎない。無意識という概念が、奥行き方向にどこまで行ったら行き止まりになるのか、そっちの境界をちゃんと規定した人はいるのだろうか。

無意識という概念についても、やはり、その定義的範囲に人はけっこう無頓着で、どこまで行ったら無意識が行き止まりになって、意識でも無意識でもな領域に突入するのか、そこに無頓着なまま、なんとなく無意識を理解したぞ、という気分に多くの人が陥っているのではなかろうか。というか、ほぼ全員なのではなかろうか。

しかし、そこのところをちゃんと明確化しておかないとマズいことになる。「計算機に無意識が宿りえますか」という問いについて考える場合だ。計算機はたしかに、自分がどんな計算をしているか、意識していないであろう。じゃあ、それは無意識なのか。

無意識すら伴わない、ただの機械的な作動にすぎないのではあるまいか。それは、野球のボールに意識が宿っていないからといって、無意識なら宿っていると簡単に結論づけるわけにはいかないのと同じことなのではなかろうか。

つまり、無意識について論じる際にもやはり、われわれは定義に対して無頓着であり、そのことに気づきづらいという、同じ問題が絡んでいる。そこに気がついてくれないと困るなぁ、と思うわけである。


【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
< http://www.growhair-jk.com/
>

《 大阪 》

6月21日(金)、会社を休んで、新幹線で大阪に向かった。太陽の塔を見るのは万博以来だ。

大阪大学を訪問し、日本ロボット学会の会長である浅田稔教授とお会いして、意識と身体についてディスカッションした。

ロボティクスの大御所であらせられる先生が、私一人のために2時間近くも時間を割いてくださったこと自体、たいへんありがたくも畏れ多いこと。

身体について示唆に富んだ動画を見せていただいたりして、いろいろと教えていただき、たいへん有意義であった。

写真:
https://photos.app.goo.gl/vvy41TMKrz5WRXx39


なお、文と写真との間にギャップがあると思われる向きもいらっしゃるかもしれないが、そのギャップはわずか2時間である。

浅田先生は、翌日、北海道出張の予定があり、また、その日のうちに論文を7本査読しておかなくてはならないとのことで、この写真の後、早々に帰っていかれた。めっちゃお忙しいさなかに、ほんとにほんとにありがとうございますー。

《 汐留 》

6月26日(水)、会社を休んで汐留へ。『第4回全脳アーキテクチャシンポジウム』を聴講した。
https://wba-meetup.connpass.com/event/132698/


一杉裕志氏(産業技術総合研究所)のお姿は、以前にも何回かお見かけしていたが、今回、やっとごあいさつできた。

一杉氏は、ウェブサイトで、脳の情報処理に関連する情報源をたくさん示していて、これまでここからたどって行き着いた解説を読んで勉強したことが何度もあり、大いに役立っている。

とくに、「脳を理解するための情報源メモ」には、「脳の情報処理原理の理解に必要な知識の良質な情報源を、独断で選んで紹介します」とあり、項目別に解説記事などへリンクが張られ、それぞれ紹介文を添えている。非常にありがたい。
https://staff.aist.go.jp/y-ichisugi/j-index.html


今回の本文にも書いたが、脳は、入出力ビット列だけを頼りに、外界がどうなっているかという不良設定問題を解きにいっている。どうやって解いているのかが、非常に大きな謎だと思っている。以前、同じことを「デバイスドライバの自動開発」という表現でも述べた。

以前、金井良太氏に聞いてみたとき、「おそらくデータ圧縮と関連があるのではないか」という示唆をいただいた。今回、一杉氏にも聞いてみたら、腰を抜かしそうな答えが返ってきた。「そこはもう解けたと思っているので、今は次の課題に取り組んでいるのです」。うわっ、ほんとですかぃ? なんか、天才っぽいなぁ、とは思っておりました。

昨日の今日なので、まだまったく咀嚼できていないが、その論文はおそらくこれであろうというのが特定できた。これからダウンロードして、読んでみる。


【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
http://www.growhair-jk.com/



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
編集後記(06/28)

●偏屈BOOK案内:「偽善者の見破り方 リベラル・メディアの『おかしな論議』を斬る」岩田温 その2

以下はある人物の「新憲法試案」の中にあった一文である。〈独立した一つの章として「安全保障」を設け、自衛隊の保持を明記することとした。現行憲法のもっとも欺瞞的な部分をなくし、誰が読んでも同じ理解ができるものにすることが重要なのだ。この章がある以上、日本が国家の自然権としての個別的、集団的自衛権を保有していることについての議論の余地はなくなる。〉

これはその人の「新憲法試案」(PHP研究所/2005)に付された解説である。きわめて現実的な安全保障政策を語っている。現行憲法の第九条二項、すなわち「交戦権」の否定と「戦力」の不支持という、最も欺瞞的な部分を批判し、憲法において自衛軍の存在を明記すべきだというもので、まことに正論である。

集団的自衛権の行使についても、それは「権利」であって「義務」ではないから、同盟国に自動参戦義務を課すような話ではないとし、それぞれの国家が国益のために、その行使について判断すればよいと解説している。リベラルでありながら、現実主義的な態度こそが、日本のリベラルの求められている姿勢である。もちろんこの人は、「自衛軍」の存在を憲法に明記すると主張する。

その人は10年後、安倍総理に集団的自衛権の行使容認に“反対”の立場から手紙を送った。アメリカに媚を売るような形での手段的自衛権の行使に反対、とした上で「私は日本を『戦争のできる普通の国』にするのではなく、隣人と平和で仲良く暮らすにはどうすれば良いかを真剣に模索する『戦争のできない珍しい国』にすべきと思います」……ある人の正体は、鳩山由紀夫サンである。

筆者は「麒麟も老いぬれば駑馬に劣る」と断じる。とても政治家の見解とは思えぬ非常識な主張である。もっとも民主党政権(2009〜2011)の変節、左傾化というより劣化を最も象徴している人である。かつての民主党は、自民党ではできないとされた改革を実現する政党として政権を担ったはずであったが、いやはや悪夢の3年間だった。3人の首相のお粗末だったこと。平成の大惨事。

政権運営に大失敗し、下野してからは先祖返りして、反対のための反対に終始し、あろうことか、共産党との連携まで模索したこともある。集団的自衛権の問題では「第九条を守れ」「立憲主義を破壊するな」と叫ぶだけで、現実的な対応はまったくしていない。あれ、鳩ポッポはどうしたと思ったら、やっぱり元祖宇宙人に戻って、いやはるかに劣化して訳の分からない珍獣になっている。

自民党は憲法第九条の第三項に、自衛隊の存在を明記せよと主張する。じつに真っ当な意見である。これに対して、立憲民主党の枝野代表は「憲法改悪」と批判した。日本を守る自衛隊を、国民の多くから支持されている自衛隊を憲法に位置づけるのを憲法改悪というのか。立憲民主党はいかにして日本の平和を守ろうというのか。立憲民主党のサイトに行ってみた。わっ、枝野さん、字がものすごくヘタだねえ。これは恥ずかしい。知的レベルがわかるわ。(柴田)

「偽善者の見破り方 リベラル・メディアの『おかしな論議』を斬る」
岩田温 イースト・プレス 2019
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4781617824/dgcrcom-22/



●iPhoneを路上で拾った、の続き。iPhoneの場合はAppleにも問い合わせがあるのだろうか。SIMフリー機を直接Appleから買ったの。UQだけど画面上にはau表記なので、auに連絡が行ってもなぁ。あ、SIMを見たらいいだけだな。

バッテリーが切れている状態で持ち歩いた末に落としたら、最後にバッテリーが切れた場所がわかっても仕方がない。「iPhoneを探す」が使えない。警察側で充電してくれたらいいんだけど。

持ち主からの連絡は不要とした。困った時はお互い様だ。が、もし持ち主が見つからなかったら? 拾ったのはXS plusかX Plus。続く。(hammer.mule)