[4912] 性別おひろめで大惨事の巻◇はぐれと桃山/伏見城攻略の巻

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《比叡山が見えないというのは「京都としてどうよ」》

■ゆずみそ単語帳[26]
 性別おひろめで大惨事の巻
 TOMOZO

■はぐれDEATH[88]
 はぐれと桃山/伏見城攻略の巻
 藤原ヨウコウ




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■ゆずみそ単語帳[26]
性別おひろめで大惨事の巻

TOMOZO
https://bn.dgcr.com/archives/20191129110200.html

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すこし前のことだが、CNNのニュース速報で妙な見出しを見た。

「Yet another gender reveal backfired, this one leading to a plane
crash in Texas.
(Gender Reveal がまたもや裏目に。今回はテキサス州で飛行機が墜落)」

Gender reveal=「性別を明らかにする」だよね。

それが backfired(裏目に出た)ってなぜ?

そしていったいなぜ、飛行機が墜落?

最初、LGBT関連で何かが起きているのかと思ったのだけど、そうではなかった。

ぐぐってみると、「gender reveal」というのは、おなかにいる赤ちゃんの性別がわかったときに、それをみんなに知らせる、という意味で使われてるのだった。そのおひろめパーティーが「Gender reveal パーティー」。

ウィキペディア先生によると
「Gender reveal parties are typically held near the middle of the pregnancy.
(Gender reveal パーティーは、妊娠中期におこなわれることが多い)」という。

むかしは子どもが生まれたときに「It’s a boy! 」または「It’s a girl! 」とかかれた風船とかリボンを飾って、男の子でしたよー、女の子でしたよー、とお披露目していたものだけど、いつの間にかそれが、おなかから出てくるのを待たずしてお披露目するのことになっていたのであった。

Gender reveal パーティーは、どうやら10年くらい前からのトレンドらしい。全然知らなかった。

ニューヨーク・タイムズの記事(2019年6月)
https://parenting.nytimes.com/pregnancy/gender-reveal-cake


これによると、最初は、切ってみると中にブルーまたはピンクのクリームやスポンジがはいってるケーキで性別をおひろめする、というインスタ映えするアイデアを、とあるブロガーが2008年に紹介し、それがSNSで一気に山火事のようにひろまったという。

アメリカ人の中には、こういうホームパーティー系のイベントになると、命が燃え出す人がかなりの割合いて、ときに異常なまでのクリエイティビティを発揮するのは周知のとおり。

前庭のハロウィンやクリスマスのデコレーションが、どんどんエスカレートしていき、しまいにはどこかのテーマパークのアトラクションのような、入園料を取られそうな有様になっていくのとおなじ原理で、しかもSNSという燃料を投下されて、性別おひろめパーティーの演出も映えるだけでなく、どんどん奇抜な方向に爆進していき、ペットのワニを使ってピンクの粉を撒いてみたり。
https://heavy.com/news/2019/06/gender-reveal-pet-alligator/


つい先月はアイオワ州で死亡事件まで発生した。
https://www.nytimes.com/2019/10/28/us/gender-reveal-party-death.html


ピンクだかブルーの粉を室内でまきちらそうとして、手製のパイプ爆弾的装置を作ったら、それがガチで大爆発し、56歳の親族が亡くなってしまったという悲劇。

生まれた子どもは、自分の性別おひろめパーティーで親戚のおばさんが爆死したと聞いたら、いったいどういう気持ちになるんだろうか。

山火事のように広まったこのトレンドは、じっさい2017年にアリゾナ州で山火事を引き起こしている。

からからに乾いた山の中に、火薬の一種とブルーの粉末を詰めた箱をおいて、それを銃で撃ち、爆発させるという衝撃的な性別おひろめのおかげで、1万9,000ヘクタールが燃え、800万ドルの損害を与えた。
https://www.cnn.com/2018/11/27/us/arizona-gender-reveal-party-sawmill-wildfire-trnd/


山火事の原因を作ったこのお父さんは、8万ドルの罰金支払いを命じられているそうである。切ない。

先日のテキサスの飛行機墜落事故も、小型機でピンク色の水を撒いているあいだに、低空を飛びすぎて地面に接触したという。さいわい死者は出なかった。
https://www.newsweek.com/gender-reveal-plane-crash-botched-stunt-absurd-trend-1470812


生まれてから何年かたって、やっぱり自分は別の性別だったと分かって変わることだってあるんだから、なにも生まれる前から男だ女だって、そんなに大騒ぎせんでもいいと思いますけどね。


【TOMOZO】yuzuwords11@gmail.com

米国シアトル在住の英日翻訳者。在米そろそろ20年。マーケティングや広告、雑誌記事などの翻訳を主にやってます。

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■はぐれDEATH[89]
はぐれと桃山・伏見城攻略の巻
比叡山が見えないというのは「京都としてどうよ」

藤原ヨウコウ
https://bn.dgcr.com/archives/20191129110100.html

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以前、伏見について書いたことがあった。その時「東の境は桃山」とバッチリ書いたような気がするのだが、実を言うと桃山に関しては遠くから眺めているだけで、実際に近づいたり山越えをしたことはなかった。

副業の絡みでここ半年ほど桃山に通っていて、「やっぱり桃山が東限だわ」と実感した。

伏見城、桓武天皇陵等を西の懐に抱く桃山だが、正直、山越えをしようという気は当初まったくなかった。山越えといっても、東山の山中越えや途中越えに比べれば、本当にちょっとした丘を越えるレベルなのだが、越えると風景はがらりと変わる。

西側斜面の方がどちらかというとなだらかで、東側はけっこうな急勾配になる。伏見城は東西南北に対する拠点の一つとして築かれたようだが、「この場所なら」と、ド素人のボクでもうなずけるような立地の良さである。

写真で遠望する伏見城(偽物です)が低い位置に見えるのだが、実際にゆるやかなはずの西側から登っていっても、それなりのきつさがある。「なんとなく軽く登れそうな」という雰囲気なのだが、どうしてこれがじわじわと足に来る。

こんな斜面に土塁だの出城だので防御されたら、攻撃側は相当な被害に遭うはずである。

実際、関ヶ原の前哨戦となった伏見城攻防戦では、西軍の進軍をみごと遅らせ、東軍の(秀忠の率いる中山道組はそれでも遅れた)到着を有利に運んでいる。

籠城戦のキモは友軍の外部支援だが、ことこの時の戦に限って言えば、当時伏見城にいた家康の家臣・鳥居元忠自身が、援護を拒否したとする説もあるようだ。それでも西軍の展開を遅らせるには、十二分にその威力を発揮している。

この時の伏見城は秀吉が築城したもので、伏見城はその後、家康の手で再建されている。ただ基本は秀吉が縄張りをしたままで、現在でもいたるところにその名残が見られる。

「北堀」と呼ばれる場所はその典型だろう。現在はテニスコートや野球場、下手をすればサッカーまで出来るような、巨大な幅の堀が人工的に作られている。じっさい、テニス場とかあるし。

ボクが攻め手なら、絶対にこっちから行きたくない。出来ることと言えば、せいぜい飛び道具の乱射ぐらいで、その効果も正直かなり怪しい。現代兵器ならなんてことはないだろうが、当時の鉄砲ではとうてい太刀打ち出来そうにない。

西軍からいえば、あたり前のように西側か南側からの攻撃を選択せざるを得ないのだが、上記したように相当厄介で微妙な傾斜な上に、南側には緩やかな起伏が加わる。

攻城戦では、防御する側の3〜10倍の兵力が攻撃側に求められるのが定石らしいのだが(伏見城戦では実際、西軍40,000に対し1,800で対抗したらしい)、そもそも秀吉自身は攻城戦を得意にしていた節が多々ある。

小田原攻めはちょっと脇に置いても(規模がすごすぎるわ)相当数の攻城戦をモノにしている。そんな秀吉があっさり落とされるような城を築くはずはなく、こと淀川水系を生かした政治・物流の拠点としての城なら、当然のことながら盤石を期したというのが自然な結論であろう。

本来、西軍の拠点の一つとして機能すべき城が、逆に西軍を苦しめたのは皮肉である。まぁ、先に押さえた家康の方が一枚も二枚も上だっただけなのだが。

孤立無援で落城まで10日もかかったのは、防御側の奮戦、というよりもむしろこの城の強固さにあったと見る方が自然だろう。

家康が本気で伏見城防御に援軍を出せば、更に日延べは出来ただろうが、兵力の分散という戦で一番の愚策を取るはずもなく、関ヶ原の会戦を優先したのはボクが今さら指摘するまでもない。

ところが、鳥羽伏見の戦いとなると、なぜか伏見城は重要な戦略地としての機能を見せていない。

もちろん、家康の頃に比べれば鉄砲の威力は増しているが、それでもわざわざ山を下って戦闘をするほど、鉄砲は脅威ではなかったはずだ。

生まれ育った福山には福山城があるが、こっちは完全に平城であり、空襲で焼け落ちる前は天守閣の一番上の楼閣にまで弾痕が残っていたと、担任の先生から教えてもらったのだが、伏見城の地理的な高さは福山城の比ではない。

むしろ伏見城と桃山を防御壁にして、東側の山科に大軍を潜ませた方が何かと有利である。万が一伏見城を突破されても、山科で会戦することに特段不利なことはない。

ボクに言わせれば、山科からは東にいくらでも撤退できるルートがあるのだ。撤退できるルートというのは、もちろん兵を集合させるのにも有利である。というか、会戦が上手な指揮者がいれば山科を戦場に選ぶだろう。

先にも記したように、桃山の東は傾斜がきつい。桃山を越えて西から攻める方は、むしろ撤退しづらい状態になるのだ。

ところが、実際は狭苦しい伏見城下で、馬鹿みたいな乱射と切り込みの繰り返し。なんだか雄壮で格好良さげな印象を持つ人も少なくないようだが、ボクに言わせれば市街地戦ぐらい面倒くさくて鬱陶しい戦術はない。

「鳥羽伏見激戦地跡」という碑がある場所は、宇治川派流の水路脇であり、普通に歩くのすら狭いところである。人家も密集しているし(寺田屋は目と鼻の先だ)防御どころの話ではない。さっさと伏見城に軍を集結させ、東からの援軍を待ちつつ、悠々自適の防御戦をしていればいいだけの話である。

「ここまで援軍を頼りにしてもいいのか?」と素朴な疑問を抱かれる方も少なくないと思うが、戊辰戦争は一言でいえば東征であり、東日本ことごとく維新軍と戦闘をしている。援軍はいくらでも手配できたはずなのだ。まともな政治力と戦略の持ち主なら、むしろこちらの方が圧倒的に有利と考えるのが自然だと思う。

ボクは維新軍が優れていたとは、爪のアカほども思っていない。むしろ、幕軍がダメすぎたのだ。戦争話はこれでお終い。

長々、戦争話をしたのは桃山の東に広がる、山科という平坦な地域に注目して欲しかったからだ。

山科と言えば、大石内蔵助の隠遁所を思いおこす方もいると思うのだが(本当にいるのか?)、こんなのは山科の片隅に他ならない。未だにイマイチ開発されずに、だら〜っと広がる山科を思い浮かべることができる人は地元民ぐらいだろう。

だが、伊賀・鈴鹿越えを考慮に入れると、山科は伊勢志摩地域への最短ルートの拠点になる。東海道を馬鹿正直に通過するより、実はこちらの方が圧倒的に早くて近い。伊勢志摩まで出てしまえば、後は水運も使える。

実際、本能寺の変直後、家康は伊賀・鈴鹿越えで堺(だったかな?)から脱出している。

東山の東には琵琶湖が広がるが、湖東から以東となると峻険な山道の連続である。実際、東海道新幹線はなぜか琵琶湖沿いに一時北上し、岐阜羽島、名古屋というルートをとっている。

山科ルートの難所は鈴鹿峠だが、近世まではむしろこちらの方が賑わっていた節すらある。何しろ、現在の京都・滋賀・奈良・三重の4県が接する場所でもあるからだ。

この辺の事情は時代を遡るともっと分かりやすく、修験道や山岳宗教の伝達ルートを探り始めると、極めて重要な分岐点として鈴鹿は浮かび上がってくる。和歌山にもいけるし、北陸道にも繋がるし、尾根伝いという点では恐ろしく便利極まりない場所である。

と、ここまで持ち上げておいて言うのもなんだが、ボクは山科という場所にはそれほどいい思い出はない。というか、悪い印象しかないのだ。半分食わず嫌いなのは白状するが。実害もあったし。

何より東山と桃山の境目を抜ければ山科、という地理的な意味合いも大きい。再三書いているように、ボクは東山・桃山山系以東に行くことを頑なに嫌がっている人である。

単に免疫がないというだけの、幼児性丸出しの理由でしかないのだが、同じはぐれるにしても、瀬戸内海を中心というある種の強迫概念があるからだ。

ちなみに奧さんやおねえちゃんは「京都で十分」(おねえちゃんにいたっては「上賀茂で十分」)という、家族揃っての引きこもりである。ボクは余所者なので、多少奧さんやおねえちゃんよりも範囲が広いが、現代の交通事情からすれば、もう異常なぐらい活動範囲は狭い。

で、山科だ。山科の住民の皆様には大変申し訳ないのだが、東山なり桃山を越えると、ボクは極度に緊張が増す。いきなり広がる平野でくらくらするのだ。これなら山中越えから琵琶湖を望んだ方が、精神衛生上好ましいことこの上ない。せめて宇治川クラスの川でもあれば話は異なっただろうが、それすらない。

とにかく大きな川なり海なり湖なりと、狭い平地と山がセットになっていないと落ち着かないのだ。

未だに「巨椋池が現存したらなぁ」と夢想するのは、このおかしな感覚にもよる。いや、宇治川でも十分なんですがね。個人的には巨椋池でトドメを刺して欲しいところなのだ。

以前にも書いたが、宇治川は下って淀川に合流し、更に瀬戸内海へと通じる。ここに根拠がイマイチ不明な安心感を覚えるボクが、桃山で遮られた山科に目を向けるはずもない。正直なところ、山科はなかったことにして、一気に大津まで行きたいぐらいの気分なのだ(おいっ!)

同じ沿岸でも日本海側は「寒そう」という、身も蓋もない理由で近づきたくないし、太平洋沿岸となると広すぎて不安になる。

京都盆地なり、瀬戸内海の狭さ(島が点々としているとなお良し)が、ボクのスケールの限界である。

まだ閉鎖される前に一度、現在の伏見城の天守閣に登って風景を一望したことがあるのだが、西に山崎山系が広がり、宇治川・桂川・淀川まで見晴らせた。ボク的にはいい塩梅の展望。

話が少し逸れるが、六甲山の上から眺める風景も大好きである。瀬戸内海を挟んで淡路島、四国まで見渡せる。この近さ(!)がボク的にはちょうどいいのだ。多分、分かりやすい目印(ランドマーク)があるかないかだけではなく、そこを起点(もしくは移動中の目安)とすることが重要らしい。

ボクの伝書鳩並みの方向感覚については、以前に書いたと思うので端折る。google map頼りだとなぜか目的地に辿り着けない、というアホな現象をあわせて考えると、どうやらやはり何らかのランドマーク(地図に載っているようなベタなものではなく)を頼りに移動しているとしか思えない。

さらにこのランドマークの選び方も、あくまでもボクの主観基準なので、他の人から見ればとんでもないものを見ている可能性が高い。

山や島、川というのはそういう意味では非常に分かりやすいのだが、google map以前の頃は、本当にアバウトに山を目指して「二つ、三つ山を越せばそのうち海が見えてくるはず」程度でさっさと出発していたもんだ。実際、これでちゃんと目的地に着けるのだ。

山科もそれなりにランドマークはあるのだが、ボクの好みのものは皆無に等しい。むしろ山科側から見た東山なり桃山なりに目がいき、結局「さっさと戻ろう」というアホなことにしかならない。

ちょっと話が逸れるが、琵琶湖周辺となると話は変わる。まず琵琶湖が微動だにせず(当たり前や)中心にあるので、琵琶湖が見えるところを移動していれば、どう迷子になろうが必ず一周してスタート地点に戻れるという、わけの分からん安心感がある。

更に湖西側には比叡山・東山が丸見え状態であるし、湖東側には伊吹山がある。東西押さえられれば、南北は特にランドマークがなくてもどうにでもなる。逆もしかり。瀬戸内海は正にこの逆のパターンの典型である。おまけに島が見える範囲で、結構それがあるのでお気楽この上ない。

とここまで書いて、どうも人工的な建造物やら何やらはあんまり頼りにしていない節があることに気がついた。特に新しくなればなるほどダメ。こうなると、山科でイマイチ上手にランドマークを見つけられないのも腑に落ちる。

建造物ほど信用できないものはなく、何しろあっさり潰されて新しく建て直されたりするのが通例であり、特に最近の東京、大阪などはワケ分からん。

ランドマークではないが、ボクにとって比較的安全なのは地下鉄にならざるを得ないのは、こうした理由にもよる。

もっとも、新しい地下鉄渋谷駅では地獄を見たし、やれやれと思って地上に出るとクラクラするくらい、ボクが知っている景色とは別もんだったりする。品川駅周辺には間違っても近づくまい、とすら思っているくらい、再開発とやらはボクにとっては鬼門なのだ。

神保町あたりは比較的安心できた、数少ないスポットの一つだが、今では御茶ノ水駅周辺の管楽器屋さんくらいまで行動エリアが狭くなってるし。その御茶ノ水ですら、最近はちょっと怪しくなってきている。

山科や東京の悪口ついでに言えば、京都市内だって再開発でげんなりしているのだ。

とにかく、比叡山が見えないというのは「京都としてどうよ」と、まず思ってしまうのだ。四条〜御池間は正にこの連続で、鴨川から離れれば離れるほど比叡山は見えなくなる。というか、鴨川からしか見えないなどという、アホなことになっている。これならまだ山科側の方が圧倒的に見やすい。

誤解のないように書いておくが、「昔は良かった」などとぼやく気はまったくないし、懐古主義者ですらない。昔がどうあれ、今はこうなっているのだから仕方ないではないか。気にくわないけど。

他の皆様はどうかしらないが、風景はボクにとってかなり重要であり(ほとんど無意識に近いのかもしれないけど)特に自然が生み出した起伏なり何なりが、それなりの指標にならないと安心できないようだ。これは瀬戸内育ち(ボクのケースはかなり特殊だと思うが)という環境が大きく影響している。

瀬戸内海で溺れて死にかけたことはいくらでもあるが、とりあえず海面に出てしまえば、潮に流されようが手近な島に避難できるだろう、というイマイチ根拠薄弱な安心感があるのだ。これが太平洋となると、もちろんお手上げである。

山科なり東京なりで溺れるというのはあり得ないのだが、どうもこのアホな安心感を持ちづらいのかもしれん。

もちろん、経験値の低さが東山・桃山東限説の根幹にあるのは確かだが、バンコクもシカゴもそれほど不安にはならなかった。なにしろ、でかい川と湖があるのでこっちの方がむしろ気楽とすら言える。

そう考えると、富士山が間近に見れるところなんてのは、安心感があるのかもしれないなぁとふと思ったのだが、静岡側は太平洋だし、山梨側は寒いし(!)というワナもあるので、やっぱり安心できないような気がする。

とまぁ、富士山ですらボクに安心感をもたらすことができないのだから、山科の皆様は安心してボクのビビりっぷりを笑えばよろしい。反論の余地もないし。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com



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編集後記(11/29)

●偏屈BOOK案内:本郷和人「日本史のツボ」

「○○を知れば日本史がわかる」と銘打った本。その○○とは、天皇、宗教、土地、軍事、地域、女性、経済の七つである。筆者の本職は「大日本史料」の第五編という史料集を編纂することで、建長年間のことであれば日本一詳しい“たこつぼ”学者さん。日本史の流れを掴むとは、「ツボ」を押さえることだと考え、日本通史を七大テーマでまとめた。謙虚で丁寧な語り口が好感。

軍事がわからないと日本史はわからない。筆者が「大東亜戦争」を「太平洋戦争」という、連合国側から見た呼称を用いるのは違和感があるが。戦後、軍事史の研究がなおざりにされた原因のひとつは、敗戦ショックで戦争=悪、軍事=悪という認識が日本国民のなかに刷り込まれたこと、もうひとつはイデオロギー的なもので、皇国史観の反動でマルクス主義的な唯物史観が勢いを持った。

軍隊=悪、自衛隊=悪という図式から、トータルな歴史科学としての軍事研究史はほとんど進まなかった。軍事とはその時代の政治、外交、経済、科学技術などと密接に結びついている。軍事を戦術、戦略、兵站の三つに分けると、それぞれは工学(技術)、政治学、経済学だといえる。戦略はまさに政治、外交に近接している。兵站(ロジスティック)は経済と密接に関係している。

その意味で常備軍は、財政上非常に重い負担となる。世界中で平時にはいかに常備軍を少なくするかに腐心している。しかし日本は、この兵站問題を歴史上ずっと軽視してきた。兵隊をいかに食わせて戦わせるかというテーマを真剣に考えたのは織田信長以降で、兵站の天才は秀吉である。だから、大量の軍勢を動員できたのだ。兵站を整えるには、それを支える経済力が必要になってくる。

つまり、軍事史とは戦闘の勝ち負けだけではなく、その背後にある政治、経済のあり方を学ぶことだ。「戦争に勝つためには何が必要か」といえば、敵を上回る(通説では3倍)戦力、優れた装備、そして大義名分である。現実にどれくらい動員できたのか、応仁の乱はもちろん、関ヶ原の合戦、富士川の合戦、川中島などもおおいに水増しされている。史料を鵜呑みにしてはいけない。

戦争に勝つための第一条件は、敵を上回る兵力、第二に経済力+情報力、そして大義名分だ。何のために戦うのか、勝てば何が手に入り何を守れるか、これを兵にきちんと説明できないと、兵の士気が高まらない。そこで思想や文化といった要素が必要になる。戊辰戦争は薩長が仕掛けた「官軍VS.賊軍」というイデオロギー戦争だ。こう見ていくと、先の大戦で日本が負けたのは当然だ。

第一の兵力、第二の装備を調える国力で、アメリカのほうが圧倒的に強いのを分かっていながら、ゼロ戦や戦艦大和などの一点豪華主義で突破し、あとは奇襲などの戦術と、国民へのプロパガンダ=思想戦で乗り切ろうと考えたことにある。その思想戦に、皇国史観というかたちで歴史学も利用されてしまった。そもそも戦争に勝った、とはどういうことか。各論あるが筆者はこう考えた。

「戦争を仕掛けた側が目的を達成できれば仕掛けた側の勝ち、達成できなかったら負け」。被害の多寡は問題でなく、最大の目的が達成されたかどうかで見るべきだという。よって、関ヶ原は東軍の勝ち、家康は論功行賞を行った。つまり戦後処理の段階で、既に徳川政権は確立していた。だから「1603年、家康が征夷大将軍に任命されたから、徳川幕府ができた」というのは間違いである。家康はとっくに天下人になっていたのだ。うわー、ナイスな考察!(柴田)

本郷和人「日本史のツボ」2018 文春新書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4166611534/dgcrcom-22/



●今更ラグビー、アルゼンチン対トンガ続き。ラグビーは下克上が起こりにくい。ランキングが離れていれば尚更。

格闘技は圧倒的な差、勝敗が一瞬でつく技があると面白い。けれどラグビーでは、あまり面白いとは思わない。時間や回が決まっていると、逆転が期待できなくなり、作業・消化になるからだ。

どちらの国を応援しているわけでもない。まわりの日本人もほとんどそうだったと思う。だから素晴らしいプレーや試合展開に期待していた。

ニュージーランドで言うところのハカ、トンガのシピタウを見て、会場の雰囲気は最高潮に。もちろん私もワクワク。(hammer.mule)

花園でのシピタウ|ラグビートンガ代表