[4948] お猿さんへ戻る日々

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《なぜ木に登る?》

■はぐれDEATH[93]
 お猿さんへ戻る日々
 藤原ヨウコウ
 



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■はぐれDEATH[93]
お猿さんへ戻る日々

藤原ヨウコウ
https://bn.dgcr.com/archives/20200207110100.html

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先日、SNS絡みで面白いネタに当たった。

「サル・ゴリラ研究の第一人者・京都大学総長が語る、人の本質とこれからの進化【連載】鼎談・The Nature(3)」
https://finders.me/articles.php?id=1482


ボクが注目したのは「人の本質とこれからの進化」ではない。この部分である。

「一人で歩いていると五感が働いていろんな声が聞こえてくるのですが、実は視覚をたくさん使っていて、視覚優位の世界に住んでいると言ってもいいでしょう。人とサルは視覚的優位の世界を共有していて、サルは木に登って視覚に映るもので世界を解釈しています。」(記事抜粋)

記事を読んでいただくのが一番イイのだが、ここでの「一人」とは「アフリカの原野で一人」であり「人間の世界を抜け出すため」の方法論だ。

以前、五感について触れたことがあるのだが、さすがに「アフリカの原野に一人」という経験はないし、山で一人と言ってもごく限られた時間だけしか経験はない。それでも人工のノイズ(聴覚に限らず)よりは自然の方が楽だ。

昨年の11月頃から、あれほどよく聴いていた音楽をまったく聴かなくなった。大鬱病大会に突入していて、音楽が騒音にしか聴こえなくなっていたからだ。

音楽に限った話ではなく、人工のものは見ることすら出来なくなっていた。当然、部屋から出ることはない。

一般的な引きこもりに、このような要素があるのかどうかボクには分からないのだが、とにかく人工的なあらゆる刺激が苦痛で仕方なかった。人との接触だって今はまだ可能な限り避けているし、大好きなおねえちゃんですらほとんど連絡を取っていない。(※おねえちゃん=はぐれの娘)

まぁ、こっちはボク自身の精神状態が悪すぎるので、敢えて避けているところも大きいのだ。大概おかしなことをおねえちゃんの前でもしているのだが、それでもさすがにドツボにはまって死んだ目をしている姿を見せる気にはなれないし、妙なことを口走るのもイヤだし。

部屋がほぼ無音状態になると、普段聴こえなかった音に気がつくのは当たり前の話で、これまで気にしていなかった換気扇の音にまで過敏になり始めたのには正直まいった。他にもファンの音やら、家電製品の小さな音まで耳につく。

ここまでくると完全に病気である。何しろPCの画面を見るのすら苦痛な時期があったのだ。

■伏見も十二分にやかましかった

引っ越しで環境が変わり、だいぶマシになっている。恐らく前住んでいた場所や、生活圏の環境そのものにも嫌気が差していたのだろうと思う。場所が悪いわけではありません。あくまでもボクの精神状態の問題です。

松ヶ崎に引っ越してきて、まず驚いたのが、ヘリコプターのエンジン音と救急車のサイレンの音が“聞こえない”ということだった。

以前にも書いたが、辻堂に住んでいた頃は米軍戦闘機の訓練コースの真下だったので、とにかく爆音がすごくて、これで一度完全に神経をやられている。ついでに吐血もして死にかけた。

命からがら行き着いたのが伏見だったのだ。辻堂と比較すれば明らかに静かだったのだが、松ヶ崎に戻って、伏見も十二分にやかましかったことに気がついて驚いている。

多分、五感が都会の環境にアジャストできていないのだろうと思うのだが(歳も歳だしね)、とにかく福山のド田舎から京都市内で一番まったりした場所に出てきて、そのまんま6年過ごした人である。

20代初期までに人工音にほとんど接していない、という経験則だけが無駄なまでに頑強に抵抗したのだろう。その後の会社員時代を除けば、ボクはほぼ左京区の狭い中だけをちょろちょろ転居を繰り返している。とにかく静かじゃないとイヤであるらしい。頑固さも場合によっては厄介そのものである。

ちなみに、伏見でヘリコプターが低空を飛ぶのは日常茶飯事で、大雨や台風の翌日などは確実に出動する。宇治川やそこに流れこむ川の増水、さらには賀茂川・桂川・大和川が合流する淀川水系全体の警戒が主目的なのだろう。とにかくここ2〜3年は大雨がすごかったし。

ここに事故や身投げで川に流される人が加わるので、更に回数が増える。住んでいた時は「大変やなぁ」と思っていただけなのだが、無意識のうちにストレスを感じていたらしい。まぁ、前例が米軍の戦闘機やからなぁ……。

更に宇治川派流を行く十石船のアナウンス音は、4月頃から10月末まで毎日聞こえてくる。内容は一緒なので、伏見在住末期には完全にイヤになっていた。後述するが、家電量販店で延々繰り返されるあの変な音楽とアナウンスは、もちろん大嫌いなので、よほどのコトがない限りボクから近づくことはない。

■夕方の梵鐘とカラスの啼き声

さて、肝心の松ヶ崎である。救急車のサイレンの音すら滅多に聞かない。伏見じゃ毎日、一日中聞こえていたのだが、こちらに引っ越してきてある日突然遠くの方で救急車のサイレン音がして、初めてこの辺では滅多に聞こえないことに気がついた。

代わりに聞こえるのは、今のところせいぜいが鳥や鹿の啼き声。夕方ののんびりした梵鐘と同時に聞こえる間抜けなカラスの啼き声ぐらいで、カラスに至っては「完全にウケを狙っているやろう」としか思えないほどアホっぽい。上賀茂はここに水車の音が加わる。のどかさは倍増である。

さんざん書いているが、繁華街の喧噪はボクの苦手とするところで、ことに無駄にでかい音量で流れる音楽や案内には閉口する。聴きもしないのに、イヤホンを耳に入れることすらある。

フェイクでもめったににイヤホンはしないんですがね。大事な音、例えば後ろからくる自転車や人の気配に気がつきにくくなるから、基本はオープンにしておきたいのですが、それでも我慢が出来ない時はやっぱりある。

が、とりあえず松ヶ崎周辺にいる限り、この騒音やら無駄な気遣いから開放された。まず自動車が無茶な追い越しとかしないのである。これは極端に狭い道幅の峠道と深く関わっている。

日常的に峠道を往復する運転手さんは、危険をよく分かっているのでまず無茶はしない。その調子のまんまで市内に入るので、穏やかそのものである。ここは開けた伏見との大きな違いであろう。

岩倉から市内に出るのだって、どのルートを選んでも確実に両面通行の狭い峠道(昔に比べればまだマシにはなったけど)通らざるを得ないのだ。スピードの出しようがない。おまけに北から市内に入る時は、ほとんど渋滞が発生しないのだ。主要ルートは名神絡みなので、渋滞するのは御池通り以南である。

ここに普通の通り(?)の狭さの上を行く道が多数あり、こういう道はだいたい通学路になっているし、こんな狭い道を馬鹿みたいなスピードで走る自動車はまずない。たまにいるけど大抵他府県の自動車で、無理なことをしては地元民の顰蹙を買っている(笑)

峠道もそうだし狭い道もそうだが、両面通行の道ではすれ違う場所というのが暗黙のうちに決まっていて、これを知らないとまぁ大変なことになる。観光客に「知っておけ」というのは無理があるのだが、地元の人は他府県の自動車がゆっくり走る分には、別に急かしたりしない。この方が何かと無難だからだ。

上賀茂の自宅前の道などはもう最たるもんで、この道は“譲り合いの聖地”みたいな勢いである。こんなんを見ながら通学していたおねえちゃんが、無茶をするはずもなく(もちろんボクも学生時代から知っているので、めちゃめちゃ安全運転しかしなかったし)、さっさと自動車すら入れないような道を選んでいく。

おねえちゃんの高校時代の通学路を聞いて驚いたのだが、もうビックリするほど安全な道しか使っていない。本人曰く「怖いし」らしいのだが、リスク管理としては正しいので、もちろんほったらかしだ。

目につくものも、やはり人工物は苦にしかならないケースが圧倒的なのだが、ここはボクの偏った主観が大いにモノを言っている可能性が高すぎるので、今はあまり触れない(笑)

それでも空が見えていたらまだ安心する。

東京に行った時に極端に出る現象なのだが、高いビルよりもその間から見える空の方に目がいきがちなのだ。それでも何となく場所は憶えていたりするので、完全に無視しているわけではないようだ。

地下鉄はもうどこに行っても苦手。狭いし暗いし(当たり前や)うるさいし、と三拍子揃ってダメだったりする。

伏見はそれなりに開けてたし、空もよく見えたのだが、松ヶ崎に戻って建造物の高さ規制が強固なことに改めて気がついた。

前にも書いたが、五山の送り火があるので、京都盆地北部の山縁は特に規制がキツい。ちなみに、この辺で一番高い建造物はと言うと、ボクの母校かおねえちゃんが通ってる大学(4階建て)が上限である。

ボクの部屋は、山にへばりつくように建っている建物の3階なので、窓から見える景色を遮る人工物は皆無に等しい。ちなみに、近場でおねえちゃんの通っている大学よりも背の高いものと言えば、植物園の針葉樹林か建勲神社のある船岡山くらいである。

上記したように、ボクの視覚は普通の人よりも相当偏っているようなので、法螺話として読んでいただくのがちょうどイイだろう。

というワケで、やっと本題の視覚だ(枕が長すぎるわ!)

■木が「登って下さい」という

四季折々の自然風景の変化にはかなり敏感らしく(おねえちゃんの方が更に上だけど)、些細な変化に一喜一憂できたりするのが、なかなかお得なところである。

同じ所を見ているはずなのに、他の人が見事に見落としていたり、通り過ぎてしまうようなものに、イチイチ反応している。ああ、あくまでも安全なところ(自動車が通れないような川縁とか)を歩いている時です。

チャリや原チャに乗っている時は、さすがにそれでころじゃない。それでもチャリならまだ見れるかな? 原チャは100%無理。

最近は深泥池の周りをお散歩しているのですが、毎日毎回なんかしら見つけてて全然飽きない。つまらんものにしか反応してないんですけどね。なぜか不思議と愛おしかったり懐かしかったりと、実に安上がりな楽しみ方をしている。

先ほどちょっと触れたが、空も見るのは大好きである。厳密には雲なんですが。できれば晴れている日に、ちょろっと出ている雲がありがたい。雲の動きをぼけっとながめているのが大好きなのだ。

もちろん形そのものも大好きで、それこそ季節や天候で雲は変化する。似たような形の雲はあっても、いつ見ても雲の姿は違う。飽きないのだ。

一時期、雲の写真を毎日のように(というか、のべつまくなしに)撮っていたのだが、さすがにプロではないので空間の広がりまでは綺麗には撮れない。スマホだしね。

「見える空気感」はあるのだが、それを写真にするとなると話は別である。なんとなく「こんな感じかなぁ?」と思って撮っているのだが、感じたものすべてが撮れているわけではない。

深泥池というのはちょっとした窪地がそのまんま池になったような所で、周囲を山で囲まれている。と書いてしまうと農業用の貯水池みたいだが、じつはこれ国指定の天然記念物で、観測される限り今のところ日本最古の池である。

もちろん環境保護は相当厳重。まぁWikiに出てくるので、ややこしいところはじゃんじゃん飛ばす。

水がめちゃめちゃ綺麗なので、池の写真を撮ると水面に映り込む空や雲までもれなく付いてくる。

もちろん池も眺めているのですが、ボクの目がいきがちなのは、どちらかというと周囲の山(というか丘というか)とそこに生えている木々である。

詳細は別稿に譲るが、すぐに道を外れて山を登り出したり、気になる手頃な木を見つけては木登りをするなど、アホなコトにうつつを抜かしている。

「木に登る」でピンときたかたもいらっしゃるかもしれないが、正に冒頭で引用した「サルは木に登って視覚に映るもので世界を解釈しています」そのまんまである。実際、木の上で休んだりしてるしね。

植生にもよるし、木が生えている環境にもよるが、高い建造物から眺める視覚とは明らかに異なる。そもそも「登れる木かどうか」という所からスタートしないとお話にならない。枯れてスカスカになった木に登るほど、ボクは馬鹿ではない。

もっともこれは、小学生時代の経験値が大いに働いているのですが。木の種類や大きさ、枝振りも全部考慮に入れつつ「どこまで高く登って安全に周囲を見渡すことが出来るか」がポイントになる。

ちなみに、意識してやってるわけではないところが、我ながら悲しい。無意識のうちに、こうした要素で選んでしまっているようなのだ。もちろん、山の高いところになればなるほど、ポイントは高くなる。

まず眺望の広さ、さらには身の安全である。ここでの身の安全は、他の動物から逃れるための安全である。猪とか熊とか。

さすがに猪や熊は出ない。昔は出てたみたいだけど。今はせいぜい鹿程度だが、彼らの邪魔はしたくないのだ。好き勝手してくれてるのを木の上から眺めるのも楽しいのだが、そうなると彼らに感づかれないようにしないとどうしようもない。当然、鹿の視覚から外れたところで、気配を殺すしかないワケだ。

この段階でもう既にいつでも猟師になれそうだが、そんな気はさらさらない。とにかく眺めるのが楽しいのだ。

もちろん、眺望はめちゃめちゃいいので、木の上から京都市内を眺めることが出来る。とはいえ、主に見ているのは周りの雑木林一帯である。山の上なので自然の匂いも満喫できるしね。

とにかく、人工物から一番解放されるのが今のところ木の上、というのは現代人としていかがなものかとも思うのだが、もうしゃぁないではないですか。それでなくてもお猿に近い身体なのだ。

岩場の崖とかあれば、それはそれでそっこー登ってしまいそうな勢いなのだが、幸いなことに、この辺にはそういう場所がない。起伏は京都盆地内でも有数の緩さである。

加えて素人観察だが、地質が表面の方は泥岩っぽい。その上から落ち葉が重なって腐葉土化してしる。堅牢な岩場など出来るはずがないのである。

植生も実に分かりやすく、苔類からシダ類、針葉樹、広葉樹と幅広く群生している。いわゆる典型的な雑木林なのだが、もう本当に学校の授業に使えるお手本のような植生である。

ちなみに、ボクが登るのはもっぱら広葉樹である。針葉樹はなんとなく信用できない(笑)

根の張り方が広葉樹の方が広い上に、枝分かれも大木になると相当ぐちゃぐちゃになって、足がかりだらけになるからだ。ボクに言わせれば「登って下さい」と言われているようなもんである。

同じ針葉樹でも松類ならまだ食指が動きそうだが、この辺は杉の木ばかり。いわゆる北山杉のベースで(植林して伐採する商業用の杉はまた別の場所)野生化している杉だけである。ちなみにボクは、花粉症とはまったく縁のない人なので、学生時代から杉花粉で困ったことは一度もない。

野生の雑木林というのは、一見するともうカオスなのだが、ボクみたいな田舎もんには「ああ、こんなん、こんなん」にしかならない。

自然に生えりゃ大体こうなるという認識しかないので、逆に人の手が入って手入れされている雑木林の方が、ボクの目には異様に見えてしまう。一応、ちゃんと周囲の植生なり土壌なりを計算に入れつつ作っているようなのだが、どうにも苦手である。

この典型的な例が、実は嵐山だったりする。

遠くから眺めてる分には別にいいんですが、いざ山に分け入るとやはり人間くささが鼻に付きだす。別の意味で嵐山は興味があるのですが(この辺はチャートと呼ばれる、めちゃめちゃ硬い岩盤と崖のメッカなのだ)、山に登るという意味では、あんまり興味がわかない。ほんまもんのお猿もいるしね(笑)

自然に自生している植生や、年月を掛けて生み出される地面の起伏そのものは、人工的な風景よりもボクには圧倒的に優しく見える。もっとも、それなりのリスクはもちろんあるのですが、「人が無理矢理」というのがどうもボクは気にくわないらしい。

そうして考えると、伏見の水路なり水門などは 、もろに人工物の塊にしかならなくなるわけだ。住んでた頃はそれなりに楽しんでいたが、こちらに戻ってからは「いや、もうええわ」とか思ってるし。

自然の川を堪能したければ、ちょいと足を伸ばして鞍馬山に行けば、もうイヤというほど見れるしね。今はまだ寒いから行ってないけど、春から晩夏に掛けての鞍馬山は大好物だったりする。もっと奥まで足を伸ばせば、登れる木もたくさんある。

「なぜ木に登る?」と不思議に思われる方も多いと思うが、これはボクにも正直よく分からない。とにかく、ひょいと目についたら登ってしまうのだ。

余談だが、母校の文化祭では学内に生えている銀杏の実を集めて売る、というのが伝統行事で各学科・部活・サークルが先を争って拾い集める。ボクが在籍していた学科は、基本出だしが遅い。特にボクの学年は酷くて、落ちている銀杏などもう既に拾われ切ってしまい、ぜんぜんなかった。

同級生の一人が「まだあんなに木にぶら下がってるのに」とつぶやいたので、ボクともう一人が「登って木を揺すったら落ちてくるんちゃうか」と言いだした。これまた伝統なのだが、「言い出しっぺがやる」という鉄の掟があるので、この役をボクと同級生がやる羽目になったのは言うまでもあるまい。

じゃんじゃん登って下から、「危ない、危ない」と言われるぐらいの高さ(校舎の三階ぐらいの高さまで登ってた)で、木を揺すりまくったので大豊作である。当時の実習室があった校舎の前の銀杏の木は、全部これでほとんど裸にしてやった。

さすがに一緒に登った同級生は、「藤原と同じ木は怖すぎる」と言って別の木でやっていた。傍から見ると相当な無茶ぶりだったようで、同級生はもちろん先輩や後輩、大学の事務員さんや先生方も驚いて見ておられた。みんな笑ってたけどね。

そりゃ、窓から見える木が突然ゆさゆさ揺れ出したら驚くわな。ちなみに、お咎めは一切なしだ。過去にいくつも例があったとボクはにらんでいる。この程度の悪さをしそうな先輩だって、いくらでも思いつくし(笑)

まぁそれでも、年上の人達はイイですよ。ビビったのは後輩連中で、「一番上の学年になったら、アレをせなあかんのか?」(学祭の銀杏売りは学科の最上級生の役目。売り上げは卒業展の場所代にまかなわれる)と思った子もいたらしい。

出遅れたからやっただけの話なので、翌年から銀杏拾いのスタートはもちろん早まった。学習能力が高い頭のいい後輩達である(笑)

■注文の多い木登り男

いつから木に登りだしたのかは、まったく記憶にない。崖はよく登っていた。とにかく視点が高くなること、視野が開けることは、ボクにとっては相当重要なようだ。もちろん、自然の風景がベストである。上記したように優しいし。

もちろん「木に登る」以上は安全なはずもなく、いつ落ちて地面に叩きつけられるか分からない。下生えの木や腐葉土化した落ち葉でそれなりのクッションはありますが、まぁ体操競技に使うような安全マットの柔らかさなど皆無に等しい。

ボクは手袋も嫌いなので素手で登るのだが(足の裏はさすがに人並みにやわらかいので靴を履きますが)、幹の皮や棘で手のひらを傷つけることだってある。ボクは滅多にありませんが。握る前に調べてるしね。

握るなり足をかけるなりの前に、安全を確認するのは当然で(でないと枝が折れるわ)、この確認作業中は大体三点(両手と片足か両足と片手のどちらか)で身体を支えて行う。

大体、結構スゴい格好になっているのですが、自然に生えている木なのでこちらの都合に合わせてくれるはずもない。50代半ばにしては無駄な関節の可動域の広さと、筋肉の柔らかさがないとまず無理です。

この辺は視覚よりも触覚ですかね。とにかく載せてみないと分からない。ここで判断を間違うと枝が折れる。まぁ三点のうちの一点が失われるだけなので、二点残ってりゃまだどうにかリカバーはできます。

ちなみに、筋力はほとんど使わない。特に腕は使わないですね、ボクの場合。三点に分散して体重を支えているだけなので、極端に筋力が必要なわけではない。上半身は背筋で大抵どうにかなる。正しいのかどうかは知りません。

でも木登りを始めてから背筋が明らかに発達しだしているので(肩の筋肉に変化はほとんどない)胴体で登っていると考えるのが無難そうである。専門的な言い方をすれば、体幹で登っているのだ。この辺の詳細は別稿に譲る。

さすがに木登りの危なさはボクもよく知っているので、今は「一日一本」(!)に限定している。ほぼ毎日登ってるんですが、イチイチ登る木を変えているので、登れそうな木を探しながら山の中を歩き回ることになる。アホの骨頂やな。

それはともかく「五感に優しい」ものは、身の回りに沢山ある。伏見よりも明らかに野生の自然環境は増えたので、この辺の差は相当顕著だ。酷い言い方をすれば、田舎の原風景である。

嗅覚も無駄に敏感で、自分がタバコを吸っているクセに他人の吸うタバコの匂いが嫌い、などというアホなコトにすらなっているのは、以前にも少し触れたと思う。

いわゆる屋外の喫煙所ですら、ボクにはくさくて仕方がない。かと言って、喫煙禁止の場所でタバコを吸うような度胸はないので、ギリギリまで我慢して、「もうさすがに無理」という時しか行きません。

スマホながめながら、いつまでも喫煙コーナーでタバコを吸う人がいるが、もうボクには理解不能。においが気にならないのかなぁ、といつも思ってしまう。だからというワケではないが、非喫煙者の人がタバコのにおいをイヤがるのは、めちゃめちゃよく分かるのだ。あれは本当に苦痛ですよ。

話題にならない「異臭」にも反応する。満員電車は大嫌い。異臭が塊になって鼻に流れこんでくるのでもう地獄である。

前に書いたかもしれないが、ボクは徹底した鼻呼吸の人なのでにおいを遮断する術がない。だからといって、口呼吸にする気にはまったくなりませんが。風邪がうつるわ。

マスクをする、という手もありそうだが、ボクはマスクが大嫌いなので相当な時にでも出くわさない限り、まずつけない。冬場の電車の中で時々する程度で、よく見る「いつでもマスク」は、ボクに限って言えばありえない。むしろ「苦しくないのか不思議」とか思ってながめているぐらいだ。

このへん、山の中は安心そのもので、目一杯鼻呼吸をしても無問題どころかむしろ清々しい。花粉症もないのでほぼ無敵と言ってイイだろう。

視覚がもうお猿レベルなのは明白だが、引っ越して判明したのには正直たまげたが(どこかで「これが普通」と思っていたのだ)、散々書いているように骨格レベルからお猿なのだ。やることなすこと考えること、あらゆる面で現代人よりもお猿に近いのだろう。

もう半世紀以上これでやってきたので、いまさら現代人を目指す気はもちろんない。どうしようもないからね。ただ、住む環境には配慮が必要だということが明白になった。それも相当縛りがキツい。

野生動物が人里に出てきて、「獣害」とか言われている昨今である。ボクの存在そのものが「獣害」になりかねない。さすがに畑のものを盗んだりはしませんけどね。

それでも、十二分に異常な人であることは確かだろう。某所で「そのうち、あの山に天狗がいるという噂が立ちそう」などとからかわれているぐらいなのだ。

実はちょっとボルタリングをやってみようかとも思ったのだが(人工的に足がかりを作った崖登りでオリンピック種目にもなっている)、そっこーでやめた。

専用の靴が気にくわなかったのだ。「そこかいっ!」とか言わないでいただきたい。ボク的には足の指が使えない靴など、「登る」に関して言えば無意味なのだ。安全ロープも邪魔だし。とにかく不自由なのがイヤ。

とまぁ、とことん現代の一面を否定しているわけだが、あくまでもこれはボクの問題である。社会通念からすればボクの方がおかしいのは明白であり、ボクは出来るだけ目立たず、迷惑を掛けないように注意しながら好き勝手することにした。

そもそも現代人から遠い存在なのだ。この際だから「絵が描けて、本が読めて会話も少し出来るお猿」になるくらいの勢いでもないとやっとれん。間抜けこの上ない話なのは、ボク自身よく分かっているが、仕方ないではないか。

問題はおねえちゃんやな……あの子は木登りなどしないが、泳ぐ方は達者やからなぁ……泳ぐのが大好きなお猿の道か??? あり得ない話じゃない。何しろ生まれてこのかた、上賀茂から一歩も出ていない子なのだ。

まぁもう大学生なので本人に任せる。責任はボクが全面的に負いますよ。骨格・筋肉レベルの遺伝から、水泳まで準備してしまったのは、何を隠そうこのボクなんだから。

ホモ・サピエンスへの道は、かくも遙かに遠いのである。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com



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編集後記(02/07)

●偏屈BOOK案内:倉山満「2時間でわかる政治経済のルール」

地政学を理解する上で必要な用語は、アクター(関係国)、パワーズ(大国・列強)、ヘゲモン(覇権国)、チャレンジャー(挑戦国)、イシュー(争点)である。アクターとは主体性のある国、その中でも大国をパワーといい、その国の言うことを聞かないと話がまとまらない国である。現在ヘゲモンはアメリカ、チャレンジャーは中国。他の大国・小国はふたつの陣営に分かれる。

世界は米欧と中露の対立で動いている。これが現代世界のバランス・オブ・パワーである。地政学には軍事が関わるので、戦後日本ではタブー視されてきた。いまの日本はパワーではもちろんないし、アクターですらない。韓国や台湾と同様のその他大勢にしか過ぎない。日本はアメリカ陣営の一員である。中国・北朝鮮とは違い、「人を殺してはいけない」という価値観を共有できる国だ。

国際政治では日頃の付き合いはすべてカモフラージュ、敵か味方かは「いざという時」に分かる。米朝会談の直後、マスメディアは「日本は蚊帳の外だった」といい、保守メディアは「いや外ではなかった」といった。筆者は、蚊帳の外ではなかったが、あえて言うなら「日本そのものが蚊帳」で、日本はアクターではなくシアター(場)に過ぎないと考える。まあ、そうかもしれないな。

トランプの「アメリカ・ファースト」は世界中から嫌われていて、友は二人しかいない。イスラエルのネタニアフと日本の安倍だという。トランプにとって、頼りになるけど信用ならないインド、信用できるけど頼りにならない東南アジア、頼りにならない上に信用もできない韓国、こうして並べてみると、日本が一番マシ。蚊帳だけど。安倍はトランプの外務大臣的に各国間をとりもつ。

国際社会において日頃の付き合いはすべてカモフラージュ。敵と味方はいざというときに分かる。敵と味方に対する対処方法を間違えてはいけない。中国に甘く、トランプに冷淡な今の日本、安倍内閣。敵に塩を送り、味方に仇なす行動をとりつつある。トランプを裏切り習近平を国賓として迎えるという、まれに見るバカ方針を変えようとしない。いったい安倍は日本をどうする気なんだ。

筆者は結論として、今のアメリカには第二次朝鮮戦争を起こす能力はない。北朝鮮は中露両国が後ろ盾でいる限りアメリカは怖くないが、戦争を起こす能力はない。日本には「中立」を無条件でいいことのように考える人が多いが、中立とはどちらの味方でもない。両方の敵である。敵と味方を間違えるな。日頃の行動はカモフラージュ、いざというときの行動がすべて、隣の隣を見よ。

筆者は自民党議員と話すと、絶望的にレベルの低い人が多く、しかも勉強熱心だからよけいに救いがないと落胆する。自民党議員は自分でアタマを作らずに、官僚から情報を貰って「勉強」している「政治的な意味で、無責任で道徳的に劣った政治家」とまでいう。自民党議員は官僚機構をシンクタンクのように思っている。ポジショントークから離れられないのが官僚だというのになあ。

小学校で三権分立を習った(ような記憶がある)。立法:国会、行政:内閣、司法:裁判所、しかし実態は違うという。真の三権は、内閣法制局、財務省主計局、検察庁である。そして、日本の実質的支配者は内閣総理大臣ではなく、財政事務次官と法制局長官である。……絶望感が得られる怖い本だ。(柴田)

倉山満「2時間でわかる政治経済のルール」2019 講談社
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4065149290/dgcrcom-22/



●胃カメラ続き。血圧は120にはなっていないものの、上がってきたのでベッドへ移動。ああ暇だ。スマホは足下だ。もう多少動いてもいいとは思うけれど、なんとなくちゃんと寝ておかなければと諦める。

点滴をすると寒くなる。バスタオルはかけてもらっているけれど、上着をかけたいなぁと思いながらも、何もせずに寝転んだまま。ああ暇だ。

点滴が終わり、今回の胃カメラについて画像を見ながら先生の話を聞く。食道にポリープ、胃の中にもポリープ。次に来た時に生検の結果がわかるとのこと。

薬をもらい、会計を終えて帰宅。前日夜から絶食なので、お弁当でも買おうと思ったが、その気になれず、おうどんを作って食べる。(hammer.mule)