[5167] 美しく醜い日本の私。岡本太郎と日本の伝統

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《しっかり意識を向けるべきは目の前にある現実なのだ》

■ゆずみそ単語帳[40]
 美しく醜い日本の私。岡本太郎と日本の伝統
 TOMOZO




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■ゆずみそ単語帳[40]
美しく醜い日本の私。岡本太郎と日本の伝統

TOMOZO
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岡本太郎の『日本の伝統』(光文社)を読んだ。

「近ごろ世の中がチンマリ落ちついてきました。新しいものにぶつかって前進していくというよりも、一種の無気力さから、すべてが後もどりしているのではないか、という感じです」

序文から、いきなりこれである。この本が書かれたのは、なんと1956年、昭和31年。敗戦からたったの11年後。『三丁目の夕日』よりも前の時代だ。

「チンマリ落ち着いてきた」????

日本はこれから安保闘争と高度成長期を迎えようという時代。その時点ですでに日本の「無気力」を感じているとは、いったいどういうことなのか。

■岡本太郎という人

わたしたちの世代にとって岡本太郎は、テレビのコマーシャルで「芸術はバクハツだ!」と叫ぶ、エキセントリックなゲイジュツ家だった。1980年代のあの騒々しい躁状態のテレビ空間のなかで、太郎さんは怪異な存在として、躁状態の芸人たちをしのぐ存在感を爆発させていた。

10〜20代の頃のわたしはその背景も仕事も思想もほとんど知らず、単に「よくわからんけど凄みのあるアートおじさん」だと思っていた。

『日本の伝統』は、ベストセラーとなった『今日の芸術』に続く、太郎さん渾身の芸術論。どちらも、ぜんぜんアカデミズム目線ではなく、アートにあまり親しくない人向けに書かれている。

太郎さんは18歳でフランスに渡り、第二次大戦の直前に帰国するまで10年以上を当時アートの中心地だったパリで過ごし、ヨーロッパの重厚な伝統と、最先端の抽象主義やシュールレアリスムなどの思想と切り結んだ。帰国後、兵役を経て、戦後日本の文化を厳しく見つめ、芸術のあるべき姿を説いたのが『今日の芸術』。さらに、その主張にもとづいて日本文化の性格と位置づけを語ったのが『日本の伝統』だ。

その視線は21世紀の日本人にとっても充分に刺激的なものだと思う。

■日本の美術史BY太郎

「日本人くらい、一方に伝統のおもみを受けていながら、しかし生活的にその行方をうしなっている国民はないでしょう」(『日本の伝統』47p)

……と語る太郎さん。日本の伝統芸術を俯瞰する視点も、とてもおもしろい。

飛鳥・奈良時代に大陸からわたってきた豪華絢爛な仏教美術は、現代の鑑賞者が薄暗い堂宇のなかで見る佇まいとはまったく違う、極彩色の「こってりとした壮大なスペクタクル」であったし、「この時代の人は、おそらく今日つきあったらやりきれないくらい無邪気だったにちがいない」という。(同67p)

たしかに、当時の超大国、唐から直輸入の文化を貪欲に消化中だった天平の人たちの美意識は、素朴でまっすぐな「大陸かぶれ」だったのかもしれない。

平安時代、魑魅魍魎が跋扈する世界を締め出し、都にこもった貴族たちの繊細な宮廷文化を太郎さんは「重箱文化」と呼び、それが以降の日本文化の土台になってしまったことを嘆く。これを土台として「本質的な対決のない不毛な世界のなかで消極的に身をまもる順応性」が日本の特徴になったという。(同226p)

中世の戦乱の世には、禅宗というこれまた新しく輸入された「積極的な無の哲学」にもとづく「わびさび」の美学が成立して、貴族のすさびだった茶の湯や民衆娯楽だった能を高度な自覚をもつ芸術に高めた。太郎さんは、これらは芸術革命であり、当時のモダンアートだった、と語る。

しかしそれ以降の江戸文化については辛辣だ。徳川の封建時代には日本の芸術は「人間の表側よりも裏側だけに神経を集中し、強烈な生命力の奔出よりも繊細なひねりを「通」とする」文化に落ち着いていき、「洒落や、味や、型の世界に堕落して」いった、と指摘する。(同69p)

さらに明治維新後の帝国日本は、国策として日本文化を国内外に喧伝するために「伝統」芸術をまとめあげ、「消極的な裏側文化の面だけに『日本の伝統』という決定的なレッテルをはってしまった」という。(同69p)

戦後の社会でうやうやしくありがたがられていた日本の伝統美術は、明治時代に西洋文明に対抗すべく盛り立てられたものの継承だ。太郎さんは「私はこのような、西欧文化へのコンプレックスとして急ごしらえされた、いわば影のようなつくりものを信じることはできません。それはついに実体を喪失した文化の裏側であるにすぎないのです」とスッパリ斬る(同70p)。

「裏側」の伝統美術にまったく感心しなかった太郎さんは、縄文美術、元禄時代の尾形光琳の作品、そして室町時代以降の日本庭園に、真正の芸術を見る。

■縄文、光琳、枯山水

戦後、日本の伝統美術の覇気のなさに絶望していた太郎さんは、縄文土器の美を発見して衝撃を受けたという。

縄文美術は21世紀の今、なんだか人気だが、戦後まもなくの時代には正統な日本の伝統とは異質なものとして敬遠されていたという。

縄文の美の発見者を自認する太郎さんは、「空間を内部に取り込み、造形要素に転化せしめ、ついには空間そのものを彫刻した」ジャコメッティやカルダーといった、20世紀抽象主義彫刻家の作品にみられる空間構成よりも「さらにはげしい」突き抜けた空間処理を縄文土器に見出す。そして、現代の芸術家も縄文人が超自然的世界と交渉していたような直截さで現実と対峙するべきだ、と主張する。

また、太郎さんは1930年代のパリで、たまたま目にした尾形光琳の「紅白梅」の「すさまじい非情美」に打たれ、狂喜したという。

「明快さの裏には、技術的に、また精神的に、のっぴきならない矛盾をはらんでいる。はげしい対立を克服して、一だんと冴えた緊張がある」と、太郎さんは光琳の「紅白梅」「燕子花図屏風」を評価する。(同117p)

光琳のこの二つの作品には、元禄時代の富裕な町人層の現実主義と、京都のお公家さんに受け継がれていた貴族芸術の優雅な抽象性という矛盾が烈しく対峙して「非情」な論理性に裏づけられた美を作り出しているという。

太郎さんによれば、そういった「根本的な矛盾」との対決こそが「人間を生命の底からゆすって動かす」真の芸術の条件なのだ。

後半では、太郎さんは日本庭園を分析する。室町・桃山時代から江戸時代というのは「近代日本の美意識が完成された時期」であり、その時代に造られた名園と呼ばれるものの多くには、借景という「驚異的な技術」があったと指摘。(同141p)

周囲の自然と人工の庭を対峙させることで高度な緊張を生む借景の「おどろくべき弁証法的技術」を称賛しつつ、現在(昭和中期)のインテリたちはもったいぶって名園を称賛しているけれど、きちんと理解していない、とクギをさす。

そもそも、塀の後ろの木が伸びてしまったり家が建て込んできたりして、肝心かなめの借景が消えてしまった庭が多いのだという。

鎌倉以降には禅の思想にもとづき、枯山水に代表される哲学的な庭が造られはじめた。しかし太郎さんはこの枯山水にも満足しない。

傑作とされている龍安寺の石庭も「不徹底」であり、自然と反自然の対峙という「大きな問題を提起していながら、趣味的な安逸さのため途中で堕落してしまっている」とダメ出しをしている。(同245p)

日本庭園そのものが「一種のあいまいさ、つまり徹底した自然でもなければ、反自然でもないという弱さ」を持つ、と、ピシリと言ったあとで太郎さんは、いや、でも庭っていうのは「一義的な」芸術表現をめざしてはいなかったんだよな、とも書き添えている。

武将や大名たちにとっては庭は芸術革命の場ではなく「静かに放心する」癒やしの場であり、「消極的な精神生活の反映」であったと。(同267p)

こうした「消極的な」安らぎの追求としての美術は人間にとって一義的なものではないと、太郎さんはみなしていた。

■芸術はバクハツなのか

『日本の伝統』が面白かったので、前作の『今日の芸術』(同じく光文社、初版は昭和29年)も読んでみた。

この本での太郎さんの主張の要は、芸術とは人の精神を自由にするものであり、誰もが芸術をもつ生き方をすべきだ、なぜならそれが人間の根源的喜びだから、ということ。

いわく、芸術とは常に先駆的で、「見るものを圧倒し去り、世界観をくつがえし、生活を変えてしまう力をもつ」ものである。芸術を見る側も受け身ではダメで、作る側と同じくらいの緊張感をもってぶつかるべきであり、そうすることで「命がぐっと飛躍」する……つまり、新しいものの見方に覚醒し、自分を縛っていた古い世界観から解放されるのだ、という。(『今日の芸術』Kindle版1086)

その緊張した精神活動である芸術の対極にあるのが固定観念や権威主義であり、自らの精神を積極的にはたらかせず「型」と「符丁」に堕した生活だという。たとえば、自分が好きだから、ではなくて誰もがやっているからという理由で床の間に掛け軸を飾るというような「世間体と見栄」ばかり気にする「封建日本の絶望的な形式主義」が生活を貧しくしている、と、口調は烈しい。(同194)

うんうん。アートは現実世界の矛盾に個人が渾身で向き合うところから生まれ、弁証法的融合をもって新しい地平をひらき人を自由にしていくというのも、形式主義と保身が人の精神を縛って貧しくするというのも、うなずける。

基本、そのとおりだと思うのだけれど、でも、20世紀後半にアート界がたどった道をすでに見てしまい、さらにグローバリゼーションと科学技術が生んだ副作用の悲劇を目の当たりにしている21世紀の今読むと、やはり、太郎さんの熱い主張のはしばしに、1950年代らしい科学と人類社会の進歩に対する手放しの楽観的視線が目についてしまう。人類の進歩と調和は、20世紀なかばに夢見られていたほど簡単に実現しなかったよね…。

そして、アートが思想と精神を解放するというのは本当だけれど、そんなにしょっちゅう緊張はしてられないよ、とも思う。

個人にも社会にも、緊張と弛緩の両方が必要だ。その拮抗と矛盾が芸術の素にもなるはずだし、緊張だけを素晴らしいと持ち上げるのも、歪みを生むと思う。爆発するのはもちろん大切だけれど、爆発して広がったあとに収束していく静かな時間の大切さも無視してはいけないと思うのだ。

太郎さんは緊張の極限にある芸術を「一義的」とし、一方で快さを求めるアートを「モダニズム」と呼び「気晴らし」と位置づけている。(同1199)

でも、安心と快の追求も、そこにヨコシマなごまかしがないかぎり、「一義的な」爆発の芸術と同じくらい尊いと思うのだけど。

要は自分の本心にごまかしがないか、そして自分が狭く限定された「型」に安住しすぎて不具合を起こしていないか、常に点検する姿勢こそが大切なのではないか、と思う。

■日本文化の「変態的なゆがみ」

日本という国は昔からまさにその「型」に重きを置く社会であったことは確か。徳川300年の封建体制で磨かれたその精神はなかなか刷新できるものでもなく、現在にもそれが色濃く残っているのは誰もが認めるところだろう。

精神の自由を至上とする太郎さんは、しきたりを押しつけては出る杭を叩きまくる社会制度を心の底から憎んでいた。その憤怒が『今日の芸術』の最終章に噴出している。

戦後、軍国主義的な道徳は消えるかと思ったら、すぐに息を吹き返した。敗戦によって「徹底的に批判されたモラル」が簡単に戻ってきたのは「根本の精神がほんとうに変えられなかったからだ」といい、「今日の日本文化には、まだまだひじょうに変態的なゆがみがあります」と一刀両断する。(同2358、2804)

昭和30年の日本人が「チンマリ落ち着いて無気力」であるというのは、そういう意味だったのだ。堅苦しく形式的な社会が元通りに復元され、多くの庶民もまた、自由をあきらめ、偉い人のいいなりになる生活に戻ってしまったということ。

日本社会で美徳とされている「謙虚さ」も多くの場合見せかけの「型」にすぎず、謙虚をよそおって責任をのがれ、相手を安心させて利用したり、権威におもねって保身をはかり、「上にはペコペコし、下には弱いものいじめ」をする、自分の利益しか目に入らない小役人根性が隠れている、と太郎さんは刺す。そして率先して行動する人は潰されるので、みな周りをキョロキョロして動かなくなり、責任の所在がどこにもない、と。(同2851)

太郎さんによれば、本当の謙虚さというのは、卑下しておもねることではなく、自分を積極的に主張し、その責任を身に引き受けることなのだ。かっこいい。

■伝統は開けたもの

そして、『日本の伝統』の後半で、太郎さんは、伝統というのは開かれたものであると主張する。

伝統とは、ある国や地域に特異的に属する「閉ざされた枠、制約」だと従来は考えられてきたけれど、実はそうではない。西洋にはじまった機械文明が世界を覆う現代にあっては、文化の記憶は広く共有され、個人の前にこれまで人類が築いてきた遺産が無限に広がっているのだから、と太郎さんはいう(『日本の伝統』277p)。

そして、逆に個人を「強力に限定し、規制するものがあるとすれば、それは現在、現実にある」とも。

つまり、しっかり意識を向けるべきは目の前にある現実なのだ、という。

太郎さんは、昔ながらの美しく整った町並みを保つ古都と比較して駅前広場の醜悪なカオスを嘆かわしいと書き綴る学者を、全身でディスる。

「(駅前広場が)いにしえのイカルガの里にくらべて、またパリやローマの、統一され洗練された町にくらべて、いかにみにくく、混乱し、気違い沙汰であるか。だが歯ぎしりして、私はそうは言わない。

それが現実であり、日本現代文化の姿であるならば、全面的におのれに引きうけなければならない。ツバをひっかけただけで通りすぎるとはもってのほかです。

もし日本中の駅前広場が狂気の沙汰ならば、それ以上の現実をつくり、生きがいを押し出していくことだ。いかにしてそれを変え、ゆたかに充実した世界に高めてゆくかというほうにエネルギーを投げつけるべきです」(同63p)

国や民族や市町村や家から受け継いだものを愛するのはとても良いことだけれど、それと自分を同一視して守りに入ってしまうと、妙なことになる。

太郎さんのいうように、世界中の文化のすべてを自分が受け継いだ伝統と考えた上で、目の前の現実に積極的な責任を負っていくというのは、現代人だからこそ可能になった立ち位置なのだし、感謝して受けとるべきだとわたしも思う。

近年、ネット上で、愛国者を自称する奇妙な人たちをよく見るようになった。

「日本」がすこしでも批判されると脊髄反射的に反応して、自分の急所が攻撃されたかのように激怒する人たち。

そういうかたちで逆上している人を目にすると、この人は「日本」について、「伝統」について、さらには自分自身の内面について、どれだけ本当に真剣に考えているのだろうか、と思わずにいられない。

ちょっと冷静になれば、人に腹を立てる代わりに、自分自身についても自国の文化についても、もっと深く重層的に理解できるはずなのに。

批判に対して感情的になるというのは、自信がないということだ。つまり本当には、自国なり文化なりの価値に自信が持てていないのだ。本当に肚の底からの自信があるなら、怒ったり相手を攻撃したりなどという幼稚なことに時間とエネルギーを使う代わりに熱くかつ冷静に対話ができるはずだから。

太郎さんの主張も、今この時代にネットに発表された意見だったら、そういう自信がなくて傷ついている人たちがウヨウヨ寄ってきて大騒ぎになるんだろうな、と思う。

『日本の伝統』は、そんなネトネトウヨウヨしてしまいがちな人たちにこそ、読んでもらいたいなと思う。

日本の伝統
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【Tomozo】
英日翻訳者 シアトル在住
https://livinginnw.blogspot.com/



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編集後記(02/12)

●偏屈BOOK案内:アダム・プランティンガ「アメリカンポリス400の真実!」加藤喬訳 並木書房 2016
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サンフランシスコ市警の現役巡査部長が、13年目になる今日までの体験を語る。本を書いた動機は、ただ単に書くのが好きだということと、警官の仕事から得られる知識体系に魅了されたからだという。

警察のありのままを400件も描くが、いわゆる告発モノではない。警察を理想化するものでもない。実際、警察組織にはいくつもの欠点、偏見、手落ちがあり、それを追及するのもこの本の目的のひとつである。

警察業務は苛立たしいことが極めて多く、成功の喜びは微々たるものらしい。やり甲斐と苛酷さ、滑稽な状況と身のすくむ瞬間が交代で沸き起こるのが警官の仕事。興味津々の400件が明るいタッチで語られる。

警官にとって最悪の事態は、女性と一戦交えなければならないときだ。女性だからといって手加減すると、とんでもない目に遭う。彼女たちは目や急所も構わず攻撃してくるからで、騎士道精神はケガのもと。

警官が一般人にとって好奇心の対象であることはわかるが、たびたび聞かれる「人を撃ったことがあるか? には「ノー」の確率が高い。もし過去に引き金を引いていたとしたら……。

ほぼ間違いなく、PTSD(心的外傷後ストレス)の原因になり得る。映画の中ではヒーローが多数の敵を倒し、おもむろにタバコを吸うところだが。リアルでは強制的休職を余儀なくされ、心理カウンセリングも課される。

映画やテレビドラマの警官は、武装した犯人を前にすると、決まって「武器を捨てろ!」と警告する。プロの警官からすれば、そんな間抜けなことするな、と叫びたくなる。

「あんなのみんなデタラメだ。犯人が3メートル先にいて、銃を持っている。こっちは隠れる場所もない。なにを待ってるんだ? さっさと撃て。撃つ方が先だ。撃ってから言ってやれ。『武器を捨てろ』にこだわるなら撃ってからにしろ」。

至近距離で人を撃った場合、返り血や飛び散った細胞組織を全身に浴びる。その血には肝炎、エイズをはじめ血液感染する病気が伝染していないか一連の検査を受け、最終結果が出るまで数か月、ずっと恐怖と怒り、フラストレーションにさいなまれる。

「この期間、警察の仕事がこんな苦痛に見合うだけの価値があるかどうか誰しも自問する」のだそうだ。大統領を警護するシークレットサービスと一緒に仕事すると、法執行機関の序列の中で一介の警察官がいかにとるに足らない存在であるかを味わうことになる。現場警官は邪魔者に過ぎないのだ。

対狙撃チームの出番が本当に回ってきたら、警官はどう対応すべきか。シークレットサービス・エージェントが本物の親切心から警官に言った。「床に倒れ死んだふりをしていてください」。

独立記念日を祝うなんて言って、空に向けて銃を撃つバカがいる。弾丸はいずれ落下してくる。最終速度は秒速122mにもなり、人間の頭蓋骨を貫通するスピードだ。撃った本人にあたれば自業自得。それを「愚か者の自然淘汰」と呼ぶ警官もいる。

大都市で勤務する警官の離婚率は全米平均より際だって高い。8割に達するという推計もある。長時間にわたる激務、ストレス、休日出勤、怒りと敵意を生み出す不健康なライフスタイル、これらが破綻の理由だ。署内で配布される会報には、しばしば離婚弁護士の広告が掲載される。

「日本の警察400の真実!」なんて、だれか書いてくれんかね。20歳若返れたら、「犯罪社会学」ゼミ出身のわたしがやる。(柴田)


●airCloset続き。初回に届いたのは、セーター2点とスカート。モノトーンを好きなテイストに入れていたため、送られてきた服には地味な印象を受けた。

が、巻きスカートのシルエットが、トレンドを入れつつ、出しゃばらない、でも少し華やかな絶妙なもので、一目見て気に入り、買ってしまおうかとまで思ったぐらい。でも中古にしてはお高めなので迷う。

トップスはどちらも似たようなものを持っていた。1点は試着のみ。もう1点は肌触りが良く、目立たないように少しラメが入っていて、届いたスカートと良く合うものであった。

が、世は新型コロナでキュウキュウしており、出かけることはほとんどない状態。2週間ほど借りて、着たのは2回。続く。(hammer.mule)

airCloset
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紹介コード「Wudsu」で3,500円OFF