[2549] 映画に暴力はつきものだが…

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<今すぐ悔い改め善良な生活を送りましょう>

■映画と夜と音楽と…[400]
 映画に暴力はつきものだが…
 十河 進

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■映画と夜と音楽と…[400]
映画に暴力はつきものだが…

十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20081205140200.html
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●一触即発…満員電車の中は危険に充ちている

僕が平穏な日常生活の中でも、最も暴力に近いところにいるなと感じるのは、通勤途上だ。満員電車の中での諍い、怒鳴り合い、ホームでの殴り合い、血を流している人を見たこともある。僕自身、電車の中で意味もなく酔っ払いにからまれたこともあるし、乱暴に背中を押されたこともある。けっこう身の危険を感じる。

しかし、多くの人にとって暴力は日常ではない。暴力を振るうことも振るわれることもないだろう。少なくとも、30年ほど前に酔っ払いのふたり組に殴られて以来、僕は殴られたことはない。人を殴ったことは小学生のときのケンカ以来、記憶がない。酒を呑んで論争をすることはあるが、暴力沙汰にまでは発展しない。

しかし、映画の中には暴力が充ちている。暴力と死だ。暴力(斬り合い)のない時代劇は、あまりない。「赤ひげ」(1965年)には斬り合いはないが、赤ひげがヤクザたちを投げ飛ばし腕を折るシーンがある。ヤクザ映画では殴り込みがクライマックスだ。西部劇では人は簡単に死ぬし、アクション映画も銃弾が乱れ飛ぶ。

そんなことを考えると、人は暴力を見るために映画館にいくのだろうか、とさえ思う。もちろん悪い奴らがやっつけられるのは、爽快感がある。僕だって好きな映画を挙げると、暴力も死もない映画は珍しい。恋愛映画には暴力はあまり登場しないかもしれないが、最近は不治の病での死が大流行である。

村上春樹さんはデビュー作「風の歌を聴け」の中で、主人公の友人である鼠と呼ばれる青年に小説のアイデアを語らせている。その後、主人公は鼠の小説の構想について、こんなことを書く。

──鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。

確かに、そういうものかもしれないが、僕の周りで死ぬ人は同僚の年老いた親であったり、顔を見たこともない親戚の老人だったりする。その死は、僕自身には何の衝撃ももたらさない。日常の中の死だ。しかし、毎日のニュースを見ると、世界は暴力に充ちていると思わされる。戦争、テロ、無差別殺人、知人同士の殺人、家族間での殺人…。

そして、映画で描かれる暴力には二種類ある。娯楽としての暴力と、考察すべきものとしての暴力だ。たとえば「ダイ・ハード」シリーズで描かれる暴力は、娯楽として消費される暴力である。観客は射殺されるテロリストたちを見て喝采を送る。ほとんどの映画では、暴力は娯楽として描かれる。

セックスとヴァイオレンスは映画の始まりから二大見せ物だった。そして、それは映画における規制の対象でもあった。次第に描写の規制は緩やかになり、最近ではポルノ映画まがいのセックスシーンもあれば、脳漿が飛び散るようなヴァイオレンス描写もある。そして、現在、セックス描写とヴァイオレンス描写によってR15といった細かいランク付けがされている。

●スクリーン上に描かれる暴力は本物でないことが前提だ

人は、なぜ暴力の映像に魅せられるのか。それは、スクリーン上に描かれる暴力が本物ではない前提に立っているからだと思う。「プライベート・ライアン」(1998年)のノルマンディー上陸シーンは「まるで本物の戦場にいるような臨場感」と評されたけれど、そう書いた批評家の誰にも戦場の経験はなかった。どんなに本物らしくても、それは映画なのである。

もちろん「ヴァイオレンスの巨匠」と呼ばれたサム・ペキンパー監督の作品のように射殺された人物からスローモーションで血が飛び散り、ゆっくりとくずおれるなんてことは現実にはない。ジョン・ウー監督作品のように、人が死ぬときに白いハトは飛び立たない。

映画を作る側の人間が暴力描写に凝るのは、観客にショックを与えたいからだ。ヒッチコックは「サイコ」(1960年)のシャワーシーンを数え切れないくらいのカットで編集し、大きなナイフで裸の女が殺されるという扇情的なシーンを凝りに凝って演出した。

僕は映画の中には考察すべきものとして暴力を描いたものがあると書いたけれど、それで思い出すのは「わらの犬」(1971年)だ。「ヴァイオレンスの巨匠」は自ら「暴力」について、あの映画で考察している。そして、もう一本、思い出す映画がデビッド・クローネンバーグ監督の「ヒストリー・オブ・バイオレンス」(2005年)である。

クローネンバーグという監督は才人だが、一筋縄ではいかないという印象がある。最初の頃、僕はグロテスク好きな(そういうのが好きな観客もいるが僕はダメ)監督だと思っていた。その認識を改めたのは、スティーヴン・キング原作の「デッド・ゾーン」(1983年)を見たときだった。「ショーシャンクの空に」(1994年)の登場までキング原作の映像作品としてはベストだった。

その「ヒストリー・オブ・バイオレンス」は、誰もいないモーテルの駐車場から物語が始まる。ふたりの男が部屋から出てくる。オープンカーに乗る。その男たちが醸し出す何かが僕の背中をゾクゾクさせた。不吉な予感で充たされる。スクリーンでは男たちが意味もないことを話しているだけだが、映されていない向こう側の世界で何かが起こっている、という予兆が消えない。

凄い演出力だと僕は思った。映っていない何かを感じさせる映像の力。凶暴な風がスクリーンから吹いてくる。狂気を孕んだ雰囲気が支配する。「水がない。水を汲んでこい」と年輩の男に言われ、若い男がフロントに入っていく。おそらく、そこに何かがある。何かが起こっている。そして…

いきなり、ある田舎町に暮らす一家の描写になる。ハイスクールに通う長男、まだ幼い娘がいる。父親のトム(ヴィゴ・モーテンセン)は街でダイナーを経営している。母親は弁護士(だったと思う)の幸せな一家。しかし、長男は学校でいじめられている。相手に「臆病者」と罵られても「僕は暴力は嫌いだ」と最初から恭順の意を示してしまう。

そんなある日、あの男たちが街を通りかかる。「もう金も尽きたぜ」と若い男が言い、年輩の男が「そんなものはすぐに解決する」と答える。男たちは閉店間際のダイナーに入る。コーヒーを注文した男たちは、帰ろうとするウェイトレスを乱暴につかまえ椅子に座らせる。「たいしてないが、レジの金は全部持っていってくれ」とトムが冷静に言う。

「俺たちが本気だと見せてやれ」と年輩の男が言い、若い男がウェイトレスに銃を向けて引き金を引こうとした瞬間、トムがコーヒーを年輩の男にかけてカウンターを飛び越える。男が落とした拳銃を拾い、若い男を射殺する。ナイフで足を刺されながら、年輩の男の脳天を撃ち抜く。

トムは、アメリカ中の話題になる。ヒーロー扱いだ。テレビ局が殺到し、新聞に大きな写真が出る。そして、暴力の匂いをさせた男たちがトムのダイナーにやってくる。男たちはトムを「ジョーイ」と呼ぶ。「人違いだ」と言っても、しつこく男たちはやってくる。

●暴力は人間関係を崩壊させ人を孤独に追い込む

男たちは暴力の匂いを撒き散らし、一家にまとわりつき不安に陥れる。トムは家族を守ろうとする。男たちは「おまえはフィラデルフィアの有名なギャングで殺し屋だったジョーイだ」と言う。男たちはトムをフィラデルフィアに連れ帰ろうとする。

父親が強盗ふたりを殺して以来、家族を「暴力」が支配し始める。最も変わったのは、長男だ。彼は学校でからんできた相手に反撃し、完膚なきまでに痛めつける。血まみれの相手を「カス」と罵る。だが、そのときの彼の表情は暗い。その長男に「暴力では何も解決しない」とトムは説教する。

田舎のダイナーのオヤジだと思っていた自分の父親がプロのようなガンさばきを見せ、明らかにギャングだと思われる男たちを怖がらず、反撃しようとさえする。父親は本当に平凡な田舎町の軽食堂のオヤジなのだろうか、と彼は思ったのだろう。

この映画で感じたのは暴力を振るった後の何とも言えないイヤーな生理的な嫌悪感である。長男はからんできた相手を殴りつけるが、その暴力への嫌悪感を露骨に見せる。彼は、暴力を振るえる人間になったことを嫌悪している。僕は人を殴ったことはないけれど、殴った後にはひどく落ち込むと思う。それが普通の人の反応だ。

高見順に「いやな感じ」という長編小説がある。戦前を舞台にした一種のピカレスク・ロマンで、主人公は右翼テロリストとなって最後に人の首を斬る。それがタイトルの「いやな感じ」なのだが、暴力は振るう人にも振るわれる人にも「いやな感じ」しか残さないのではないか。

「ヒストリー・オブ・バイオレンス」の冒頭に登場するふたりの男が不気味なのは、彼らが暴力を振るうことに無感覚になっているからなのだと思う。彼らは人を暴力でしか支配できない人間であり、ある意味では暴力でしか他人とコミュニケーションがとれないのだ。狂った人間である。人の命に何の価値も感じない狂人だ。

もし、自分の父親がかつてそんな人間だったとわかったら、いくら血のつながった父親でも、怪物を見る目になるのではないだろうか。そんな人間を受け入れることができるだろうか…といったことを、この映画は考察している。暴力によって影響を受ける様々なこと、それが何に波及するのか、そんなことを考えさせる。

すべてが終わって自宅に戻ったトムは、食卓を囲む家族のいるキッチンに立つ。幼い娘が皿とナイフとフォークをテーブルに並べる。息子がローストビーフの載った大皿を引き寄せる。だが、誰も何も言わない。無言のまま、4人の家族が絶望的な顔でテーブルに向かっている。

現実の世界では、正義の暴力などない。どんな暴力も人を幸せにはしない。暴力は人間関係を崩壊させ、信頼関係を破壊し、人を孤独に追い込む。そんなメッセージのようなものを僕は感じた。「ヒストリー・オブ・バイオレンス」で描かれた暴力は、ジョン・マックレーンが大型拳銃を撃ちまくる暴力とはまったく異質のものだった。

もちろん、僕は「ダイ・ハード」も大好きではあるけれど…。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
完全な思い違いをしてしまいました。「南国太平記」は直木三十五じゃないですか。どうして間違ったのだろうなあ。しかし、間違うときはそんなものだと思います。訂正します。すいません。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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うちゅうじんではない私だが、予言は嫌いではない。高橋里季さんが薦めている本、「ニュートンの予言 2060年、世界は滅亡する」(中見利男/日本文芸社/2007/10)を読んでみて思ったのは、物理学の法則に基づいたシミュレーションによる算術的な未来予測も、天からの声をキャッチすることによる呪術的な未来予知も、過去の経験の積み重ねから帰納的に導き出される法則を未来にも延長して先のことを言い当てるという点において大差ないんじゃないかな、ということである。

で、本の感想などを交えつつ、私も神について語ってみたくなってきた。決して、ネタが尽きたから、苦しいときの神頼み、というわけではない。

●数学・物理学者は仮の姿、って……

「ニュートンの予言」には、ざっと次のようなことが書いてある。

ニュートンは、数学・物理学者の余興として未来予言に取り組んだのではなく、事実はそのまったく逆、異端の神学者が数学・物理学者の顔を持っていたにすぎない。

ニュートンは、聖書の解読に50年を費やし、4,500ページにも上るレポートを書き残した。そこには、聖書の暗号を解いた結果、2060年に世界が破滅することが判明した、と書かれている。みずから終末予言の決定版を提示することにより、それまでヨーロッパに数多くみられた軽率な予言を粉砕するのが狙いだったに違いない。

レポートは秘密文書として220年間、ポーツマス伯爵邸で封印されてきた後、一部は英国の経済学者ケインズが競り落とし、また一部はロンドンの収集家アブラハム・ヤフダ氏が競り落とし、現在、ヘブライ大学に保管されている。

ニュートンは、聖書解読作業において、旧約聖書の「ダニエル書」と新約聖書の「ヨハネの黙示録」を特に重点的に掘り下げている。ニュートンは、ダニエル書の四番目の獣とヨハネの黙示録の竜とは同じ存在を暗示していると考えた。それは、ローマ帝国。

ニュートンは、三位一体というカトリックの教義に反し、神、キリスト、精霊は、それぞれが独立したものとして捉えていた。イエス・キリストの神性を否定し、キリストは人間であるとした。したがって、イエス・キリストを人間として栄誉を讃えるのは構わないが、神として崇めることは偶像崇拝にあたり、モーゼの十戒に反するとした。ニュートンは、ローマ教会から異端とみなされたグノーシス主義を擁護した。また、秘密結社「シオン修道会」の第19代総長だった。

ニュートンは「2060年、世界は破滅する」と予言している。しかし、破滅の日をひとつに絞りきれておらず、2060年、2132年、2344年、2370年、2374年の5つを候補として挙げるに留まっている。また、これらの算出に際し、「神の国の一日は人の国の一年に相当する」という読み替えを行っている。仮に2060年に終わらなくとも、あと4回、終わりの日のアラームは鳴り続けることになる。どうやら先送りにしていくよりほか手がないようだ。

310ページの本を無理矢理要約すると、ざっとこんな感じである。さて、ケバヤシの感想。「う〜ん、どうもなぁ」。著者自身はいちおう大真面目に書いている。私のように世界地理にも世界史にも疎い人にとっては、いい勉強になる。「しかしなぁ」。たぶん、ニュートンは、神への正しい崇拝について、当時の定説に捉われず、自分の頭で真剣に考えた、そしたら結果として、カトリックの教条とは異なる考えが出てきてしまった、弾圧を恐れ、しかたなく、封印。そんなとこじゃないかなぁ。

万有引力を発見したあの偉大な科学者ニュートンが、実は終末予言に相当の力を注いでいたというのは、イメージとしては、ずいぶんびっくりなものがある。「だけどなぁ」。科学者とは仮の姿で、実は異端の神学者、とまで言っちゃうのは、どうなんでしょ。

たぶん、ニュートンは、宇宙を支配する原理のすべてを解明し、神の許へ行って、姿を拝みかったんじゃないかなぁ。そのための最も地道な方法論として科学がある。科学には、観察した事実に基づいて、それらを破綻なく説明する法則性を発見していく帰納法に立脚した物理学と、すでに正しいと分かっている命題に基づいて、厳密な論理的推論によって新たな命題を導き出す演繹法に立脚した数学とがある。

この方法論は非常に堅実で、ここから得られた物理の法則や数学の定理は、誤謬の入り込む余地が非常に小さく、宇宙の真理に近いものであると考えられる。実際、ニュートンは万有引力の法則と運動方程式を発見し、ライプニッツとともに微分・積分学を確立した。これらの成果はとてつもなく偉大である。

しかしながら、宇宙のすべてを説明づける根本原理に至る、という最終目的に対しては、歩みがのろすぎて、非常にまどろっこしい。ニュートンは、自身が発見した原理が、まだ最終的なものではないことをちゃんと認識していたに違いない。しかし、こつこつとした歩みでそこへ到達するには、一生という時間が短すぎる。

多少論理は飛躍しても、先を遠くまで見通すための光として、直観力や想像力や神秘的な力をも活用しないことには、最終目的地から遥か手前をうろうろするばかりである。科学的思考の水先案内人として、宗教的、超越的な思索も必要だったのではあるまいか。物理や数学と、哲学や宗教との関係って、そんな感じなんじゃ、ないかな?

●哲学を原点に引き戻してくれる本

ニュートンの万有引力と運動方程式が、もし仮に宇宙の根本原理であったとすると、ひとつ、素朴な疑問が生じる。それは、「この世で起きるすべてのことは運命としてあらかじめ決まっているの? 我々に備わっているはずの自由意志って、もしかして思い込みとか錯覚の類だったの?」という疑問だ。

どういうことか。ニュートンの万有引力は「どんな2つの物体であれ、質量Mの物体と質量mの物体がrという距離を置いて存在するとき、両者の間には引っ張り合う力fがはたらき、その大きさは、Mおよびmに比例し、rの2乗に反比例し、比例定数はGである」というふうに定量的に記述されている。また、ニュートンの運動方程式は、「どんな物体であれ、質量mの物体にfという量の力が加われば、結果としてその物体にはf/mという量の加速度aが生じる」というふうに、これまた定量的に記述されている。

力には万有引力以外にも、電磁力などがあるのだが、それを考慮に入れても本質は変わらないのでここでは置いておくとして、ニュートンの2つの法則を素直に受け入れると、結局この宇宙すべてにおいて、最初の状態さえ決まれば、その後に起きることはすべて必然的に決まってしまう、ということになる。偶然によって何かが起きる余地や、意思によってAかBかを選択する余地がどこにもなくなってしまう。

例えば、これから昼飯を食うとして、我々は、ラーメンにするか、ハンバーガーにするか、自由意志で選択することができると考えている。ラーメンにしようと思えばできるし、ハンバーガーにしようと思えばできる。どちらも可能と思われる。しかし、ニュートンの法則を分子レベルで適用すれば、実は選択の余地なんてなくて、それは単なる錯覚で、宇宙の開闢以来、ラーメンならラーメン、ハンバーガーならハンバーガーと、どちらか一方に決まっていたのだ、ということになる。

これは大変困ったことである。例えば、犯罪を処罰する法律は、我々に自由意志があることが前提になっている。物干し竿からパンティーを失敬することもできた、よだれを垂らしつつ素通りすることもできた、しかしあなたは失敬することを選択した、その選択に対して責任をとってもらう、よってこれこれの罰を与える、というのが法律の根拠となっている。もし犯人が心身喪失状態にあり、自由意志がはたらいていなかったら、選択の余地がなかったということになり、処罰の対象外となる。

もし、自由意志なんてもんが、そもそも錯覚だったとしたら……。盗むことも思いとどまることもできて、迷ったんだけど、結局盗むことを選択しちゃった、というのは本人の思い込み。裁判官が、こいつは自由意志によって盗むことを選択したのだ、と判定を下すのも思い込み。盗むことも、判決が下されることも、運命だった。この世で起きるありとあらゆることは、最初から運命づけられていた、ってことになる。

たいへんやる気がそがれますね。じゃあ、今までがんばってきた俺はどうなるんだ、と。最初っから決まってたんなら、がんばる必要なんて、ないじゃないか、と。はい、がんばってると思ってること自体が実は思い込みであって、がんばるか、がんばらないか、なんて自由意志による選択の余地なんて、最初っからなくて、がんばったつもりになって、あれをしたりこれをしたり、というのが、運命として最初っから決まっていたというだけのことです。がんばって絵を描いて、これは俺の創作物だ、なんて思っていても、それはただの思い込み。どんな絵が描けるかは、最初っから決まってた、ってわけです。たいへんやる気がそがれますね。

そのへん、どうなんでしょ? そういうことを考えるのが「哲学」である。宇宙の根本原理について、論理的につきつめて考える。それが、哲学。どうも最近の哲学は、科学のことをほぼ無視するか、誤解するか、曲解して、人間の精神とか社会のあり方とか、すっかり逸れてしまった議題について、文系頭のおっさんたちが、ただの思いつきみたいなことをごにょごにょごにょごにょ延々と垂れ流しにしている観がある。哲学は、完全に文系オヤジ連中に乗っ取られたというか。どうしようもないところへ堕落したというか。

哲学の原点に立ち返って、いちばん根本的なところにある哲学の精神みたいなものを思い出させてくれる良書がある。飲茶氏の「哲学的な何か、あと科学とか」(二見書房、2006/11/30)である。

哲学に関してまったくの素人を対象に想定し、入門書として平易に書かれているところがいい。哲学ぶったいかめしい言葉使いをせず、口語的な調子を貫いている。引っ張り出してくる思考実験のネタも、ドラえもんの道具とかだし。本全体を通じて伝えようとしていることは、哲学の面白さであるところが、またいい。哲学的な思考をしていると、楽しくて楽しくて、思わず時を忘れちゃいますよ、みたいな。

それでいながら、哲学することのいちばんの根本的なところを紹介するにあたって、ポイントをはずしていないところが、またまたいい。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」だって、「これは近代自我の萌芽である」なんてしょーもないことは決して言わない。原典に忠実にしたがった、素直な解釈が述べられている。アインシュタインの相対性理論についても、いちばんの本質的なところを、分かりやすく解説している。

ある意味、どんな本よりも、一読の価値があるかもしれない。一部分は、作者のウェブサイトでも読めます。
< http://www.h5.dion.ne.jp/%7Eterun/
>

●1/8,000,000の神話

神様は一人ではなく、大勢いる。その数およそ800万と言われ、神の国は、だいたい東京都の区部ぐらいの規模である。その生活ぶりも東京都区民と大して変わらず、混んだ通勤電車で会社に行って仕事したり、スーパーで晩飯の具材を買ったり、カラオケで流行歌を振りつきで歌ったりしている。

しかし、東京都と違って、住民は揃いも揃って神様ばかりなので、みんないたって善良。テロリストも潜んでいなければ、通り魔もいないし、下着ドロボーもオレオレ詐欺もいない。おかげでちょっとしたいさかいすら起きず、世の中いたって平和、おしなべて事もなし。来る日も来る日も天下泰平、平穏無事、本日晴天、出前迅速、落書無用。ほんわかぱっぱ〜、ほんわかぱっぱ〜。

実はみんな、いささか退屈している。そこで、ひまつぶしに神々総出でゲームでもやろうかという話になる。ゲームの名は「神の中の神」。下記のようなルールで進められる。

(ルール:1)各々の神様は、各自それぞれの天地を創造し、その世界を司ることができる。
(ルール:2)各々の神様は、各自の世界の物理法則を思い通りに設定することができる。
(ルール:3)各々の神様は、各自の世界の初期状態を思い通りに設定することができる。
(ルール:4)審判の号令とともに一斉にゲーム開始となり、神様には、物理法則および初期状態の設定に7日間与えられた後、各自の世界が一斉にスタートする。
(ルール:5)ひとたび世界がスタートしてからは、神様は各自の世界の成り行きをつぶさに観察することができるが、それに影響を与えるような一切の手出しをしてはならない。これを破った場合は、その時点で、その神様の司る世界は瞬時に消滅させられ、その神様はゲーム失格となる。
(ルール:6)各世界において、その世界のすべてが静止したままの状態に陥ったり、平行移動・拡散などの定常的な動きが続くだけの状態に陥ったり、同じことが反復されつづけるだけの状態に陥ったりして、この先変化が見込まれないと審判に判定された時点で、その世界は「終わった」とみなされ、司る神様はゲームから脱落する。
(ルール:7)神様は、それぞれの世界がどれだけ長く存続したかにより順位づけされる。最後まで生き残った世界を司る神が優勝し、「神の中の神」の称号が与えられる。

いざ、ゲームの火ぶたが切られると、これが盛り上がるまいことか。なにしろここの住人は、創造性に長けること神のごとし、って実際神なのだから。奇妙奇天烈、奇想天外な世界が百花繚乱。ある神様の作った、物質と精神が入れ替わった宇宙では、空間にまず精神の素粒子が散在し、それらが離合集散することによって、物質が形成される。また、ある神様の作った7次元の世界にはやっぱりオタクがいて、「6次元萌え〜」とか言ってるし。

で、それら800万の世界のうちのひとつが、我々の住むこの世界、というわけだ。ものごとを成り行きに任せておくと、時として、とてつもない不幸に陥る人が出てくる。そんな人は、よく「神も仏もあるもんか」なんてつぶやくのだけど、真相はこうである。神はいるし、見てはいる。だけど、ゲームのルール上、手出しができないんだよねー。「ごめん、悪く思うなよ」(神の声)。

さて、我々のこの世界を創造したまい、司りたまう神は、いったいどのくらい善戦しているのかというと、これが実は、ものすごくいい線いっているのである。初めは800万人もいた参加者が、今では10人に絞り込まれている。その中にまだ生き残っているのである。ひょっとすると優勝するんではないかと目されている。すごいじゃないか!

ところが、ここへ来て、ちょっとした異変が起きている。神様が創造した世界に住む者たちの知恵が予想以上に高度に発達してきているのだ。いや、ある程度までは予測していたことである。自意識を備えて自律的に行動する生物の出現や、それらのコロニーの形成、言語による個体間の情報伝達、貨幣による経済システムの構築、文明の発達、学術の発展、芸術の振興などは、予想のうちに入っていた。

神々をして、ちょっとたじろがせているのは、次のような事実である。すなわち、神様がこしらえたひとつの閉じた系の中で暮らしていながら、その系の外のことにまで想像、あるいは推測を及ぼすことのできる者が出現してきたということである。端的に言って、神の存在を見通すことのできる者が現れはじめたということである。みずからを「予言者」と称して、人類に情報を行き渡らせようと働きかけたりしている。

今に、人類は知的レベルにおいて、神々を超えてしまうのではないか。そんな危惧が広がっている(ここだけの話、ここの神々は、自分たちを創造したもうた、もうひとつ上のレベルの神については、まだ想像も及んでいないのだ)。一定の法則の下に、大量のエージェント(存在単位、粒子)が相互作用する系において、下位レベルの個々の粒子の機能からは想像もつかないような高度な機能が上位レベルにおいて発現する現象を「創発(emergence)」という。この創発により、世界がどれほどまでに高度なところへと発展していきうるのか、そこまでは神々もあらかじめ分かってはいなかったのだ。このままいくと、神々の世界と人々の世界とで、主客逆転しかねない。

さて、どうしたものか。「神様ほど善良ではないやつらの中から、神様よりも知恵をつけたやつが現れるのを見るのはいやだなぁ、ゲームの続行は断念して、今のうちに強制的にハルマゲドンしちゃおうか」なんて意見も出ている。下界には、それをまた察知して、ネットに「世界終了のお知らせ」なんて書き込んでるやつまでいる。

まあ、そういうわけで、今、世界は曲がり角に来ているのです。このことを皆様にお知らせしたく、私は思い切ってこの稿を草したのであります。皆様におかれましては、今すぐ悔い改め、善良な生活を送るようにされんことを。そうすれば神々からの赦しが得られ、この世界はまだまだ存続することができます。もしかすると優勝できるかもしれません。

え〜っと、何で私がそんな神々の秘密を知っているのかと疑問に思われたあなた、いい勘してます。お答えしたいのは山々なんですが、あんまりしゃべりすぎると、失格になりかねないんで。んじゃっ。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp

カメコ。中野にある行きつけのメイドバー「ヴィラージュ・レイ」のメイドさんたちの何人かは、いわゆる「地下アイドル」。11月23日(日)にライブがあった。行って、カメコる。毎度のことながら、出演者とヲタ芸師の息の合いっぷりに感心。シンクロナイズした動きも見事だし、手拍子や掛け声がぴったり揃ってキマるのも、実に気持ちいい。大森スポーツセンターの小ホールは88席あるが、50人ほどの来場者のうち、おとなしく座って聞いてるのは半分ぐらい。盛り上げることで盛り上がるヲタ芸師たちが、結局一番楽しんでる感じ。いや、カメコも存分楽しんだけど。気がつくと1,200枚以上撮ってた。うち60枚を厳選して掲載しています。
< http://www.geocities.jp/layerphotos/Heiwajima081123/
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■編集後記(12/5)

・またもや裁判員制度について(だって突っ込み所満載なので)。裁判員候補者が実際に裁判員に選任される次のイベント(苦役)が、裁判所に呼びつけられて行われる手続きである。候補者は質問票の回答を求められ、当該事件の裁判長の面接審査が行われる。PR映画に出て来るような知的で好感度満点の裁判長ならいいが、ゴーマンで意地悪い人という可能性もある。ここでは候補者のプライバシーはない。そして裁判官が「不公平な裁判をする恐れがある」と認めた候補者を裁判員から除外する。また、検察、弁護側も、直接質問はできないものの、候補者への質問を裁判長を介して行える。検察官はとにかく有罪判決をしてくれそうな人を求め、弁護士はとにかく無罪判決をしてくれそうな人を求めるだろう。被告に有利、あるいは不利な判断をしそうかどうか、というのが選任の基準になるのは間違いない。そのために、根掘り葉掘り、不愉快な質問が出されることが予想できる。そして、検察、弁護士は自分の側に不都合そうな候補者を各4人ずつ「理由を示さず」除外請求できる。読売新聞の連載「あなたも裁判員」で、あるベテラン裁判官は「検察官や弁護士が戦略的に候補者を除外していくことは、広く国民から裁判に参加してもらうという裁判員制度の趣旨になじまない」と語る。まさしくその通りだが、絶対にこういう選任手続きが行われるはずである。裁判員制度により、国民の視点、感覚が裁判に反映され、司法への信頼が高まる、なんて大ウソである。こんな愚行を3年間続けてから見直しの予定である。スタートさせてはならない。(柴田)

・LECの「本気で学ぶ、LECで合格(うか)るDS日商簿記3級」2日目。ビジネス書に(書名失念)、3級の知識は最低持っておくよう書かれてあったのを思い出したのだ。経理ソフトウェアQuickBooksを使っていて、仕訳の知識がなくても問題ない。見積もりから請求書発行、入金管理に口座管理までやっている。フリーランスや小規模経営には最適なソフトだと思っているが、国内では継いでくれる会社がなくて古いバージョンを使い続けている。海外のソフトなので日本の経理実情に合わせるのが大変なのかもしれない。やりはじめてまだ2日目なのに、これらの知識があるとないとでは、QuickBooksが吐き出す書類や青色申告のための書類の見え方が違ってくるなと。自動で仕訳されるより、自分で仕訳しながら入力する方が、実情をより理解できそうな気もしてきた。この学習ソフトは、クイズ形式でいつのまにか覚えるというものではなく、DSの中でまずは文章を読まないといけなくて、受け身ではいられない。場所を選ばないのだが、メモをとりたくなる。まずは読んで、理解して、反復練習ね〜。(hammer.mule)
< http://www.lec-jp.com/dsstyle/
>  これ
アマゾンで見る(レビュー10件)。これだけでは無理だろうって
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0013EYHM4/dgcrcom-22/
>
< http://www.lec.co.jp/press_release/081128.pdf
>  宅建と秘書も