●一触即発…満員電車の中は危険に充ちている
僕が平穏な日常生活の中でも、最も暴力に近いところにいるなと感じるのは、通勤途上だ。満員電車の中での諍い、怒鳴り合い、ホームでの殴り合い、血を流している人を見たこともある。僕自身、電車の中で意味もなく酔っ払いにからまれたこともあるし、乱暴に背中を押されたこともある。けっこう身の危険を感じる。
しかし、多くの人にとって暴力は日常ではない。暴力を振るうことも振るわれることもないだろう。少なくとも、30年ほど前に酔っ払いのふたり組に殴られて以来、僕は殴られたことはない。人を殴ったことは小学生のときのケンカ以来、記憶がない。酒を呑んで論争をすることはあるが、暴力沙汰にまでは発展しない。
しかし、映画の中には暴力が充ちている。暴力と死だ。暴力(斬り合い)のない時代劇は、あまりない。「赤ひげ」(1965年)には斬り合いはないが、赤ひげがヤクザたちを投げ飛ばし腕を折るシーンがある。ヤクザ映画では殴り込みがクライマックスだ。西部劇では人は簡単に死ぬし、アクション映画も銃弾が乱れ飛ぶ。
そんなことを考えると、人は暴力を見るために映画館にいくのだろうか、とさえ思う。もちろん悪い奴らがやっつけられるのは、爽快感がある。僕だって好きな映画を挙げると、暴力も死もない映画は珍しい。恋愛映画には暴力はあまり登場しないかもしれないが、最近は不治の病での死が大流行である。
村上春樹さんはデビュー作「風の歌を聴け」の中で、主人公の友人である鼠と呼ばれる青年に小説のアイデアを語らせている。その後、主人公は鼠の小説の構想について、こんなことを書く。
僕が平穏な日常生活の中でも、最も暴力に近いところにいるなと感じるのは、通勤途上だ。満員電車の中での諍い、怒鳴り合い、ホームでの殴り合い、血を流している人を見たこともある。僕自身、電車の中で意味もなく酔っ払いにからまれたこともあるし、乱暴に背中を押されたこともある。けっこう身の危険を感じる。
しかし、多くの人にとって暴力は日常ではない。暴力を振るうことも振るわれることもないだろう。少なくとも、30年ほど前に酔っ払いのふたり組に殴られて以来、僕は殴られたことはない。人を殴ったことは小学生のときのケンカ以来、記憶がない。酒を呑んで論争をすることはあるが、暴力沙汰にまでは発展しない。
しかし、映画の中には暴力が充ちている。暴力と死だ。暴力(斬り合い)のない時代劇は、あまりない。「赤ひげ」(1965年)には斬り合いはないが、赤ひげがヤクザたちを投げ飛ばし腕を折るシーンがある。ヤクザ映画では殴り込みがクライマックスだ。西部劇では人は簡単に死ぬし、アクション映画も銃弾が乱れ飛ぶ。
そんなことを考えると、人は暴力を見るために映画館にいくのだろうか、とさえ思う。もちろん悪い奴らがやっつけられるのは、爽快感がある。僕だって好きな映画を挙げると、暴力も死もない映画は珍しい。恋愛映画には暴力はあまり登場しないかもしれないが、最近は不治の病での死が大流行である。
村上春樹さんはデビュー作「風の歌を聴け」の中で、主人公の友人である鼠と呼ばれる青年に小説のアイデアを語らせている。その後、主人公は鼠の小説の構想について、こんなことを書く。
──鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。
確かに、そういうものかもしれないが、僕の周りで死ぬ人は同僚の年老いた親であったり、顔を見たこともない親戚の老人だったりする。その死は、僕自身には何の衝撃ももたらさない。日常の中の死だ。しかし、毎日のニュースを見ると、世界は暴力に充ちていると思わされる。戦争、テロ、無差別殺人、知人同士の殺人、家族間での殺人…。
そして、映画で描かれる暴力には二種類ある。娯楽としての暴力と、考察すべきものとしての暴力だ。たとえば「ダイ・ハード」シリーズで描かれる暴力は、娯楽として消費される暴力である。観客は射殺されるテロリストたちを見て喝采を送る。ほとんどの映画では、暴力は娯楽として描かれる。
セックスとヴァイオレンスは映画の始まりから二大見せ物だった。そして、それは映画における規制の対象でもあった。次第に描写の規制は緩やかになり、最近ではポルノ映画まがいのセックスシーンもあれば、脳漿が飛び散るようなヴァイオレンス描写もある。そして、現在、セックス描写とヴァイオレンス描写によってR15といった細かいランク付けがされている。
●スクリーン上に描かれる暴力は本物でないことが前提だ
人は、なぜ暴力の映像に魅せられるのか。それは、スクリーン上に描かれる暴力が本物ではない前提に立っているからだと思う。「プライベート・ライアン」(1998年)のノルマンディー上陸シーンは「まるで本物の戦場にいるような臨場感」と評されたけれど、そう書いた批評家の誰にも戦場の経験はなかった。どんなに本物らしくても、それは映画なのである。
もちろん「ヴァイオレンスの巨匠」と呼ばれたサム・ペキンパー監督の作品のように射殺された人物からスローモーションで血が飛び散り、ゆっくりとくずおれるなんてことは現実にはない。ジョン・ウー監督作品のように、人が死ぬときに白いハトは飛び立たない。
映画を作る側の人間が暴力描写に凝るのは、観客にショックを与えたいからだ。ヒッチコックは「サイコ」(1960年)のシャワーシーンを数え切れないくらいのカットで編集し、大きなナイフで裸の女が殺されるという扇情的なシーンを凝りに凝って演出した。
僕は映画の中には考察すべきものとして暴力を描いたものがあると書いたけれど、それで思い出すのは「わらの犬」(1971年)だ。「ヴァイオレンスの巨匠」は自ら「暴力」について、あの映画で考察している。そして、もう一本、思い出す映画がデビッド・クローネンバーグ監督の「ヒストリー・オブ・バイオレンス」(2005年)である。
クローネンバーグという監督は才人だが、一筋縄ではいかないという印象がある。最初の頃、僕はグロテスク好きな(そういうのが好きな観客もいるが僕はダメ)監督だと思っていた。その認識を改めたのは、スティーヴン・キング原作の「デッド・ゾーン」(1983年)を見たときだった。「ショーシャンクの空に」(1994年)の登場までキング原作の映像作品としてはベストだった。
その「ヒストリー・オブ・バイオレンス」は、誰もいないモーテルの駐車場から物語が始まる。ふたりの男が部屋から出てくる。オープンカーに乗る。その男たちが醸し出す何かが僕の背中をゾクゾクさせた。不吉な予感で充たされる。スクリーンでは男たちが意味もないことを話しているだけだが、映されていない向こう側の世界で何かが起こっている、という予兆が消えない。
凄い演出力だと僕は思った。映っていない何かを感じさせる映像の力。凶暴な風がスクリーンから吹いてくる。狂気を孕んだ雰囲気が支配する。「水がない。水を汲んでこい」と年輩の男に言われ、若い男がフロントに入っていく。おそらく、そこに何かがある。何かが起こっている。そして…
いきなり、ある田舎町に暮らす一家の描写になる。ハイスクールに通う長男、まだ幼い娘がいる。父親のトム(ヴィゴ・モーテンセン)は街でダイナーを経営している。母親は弁護士(だったと思う)の幸せな一家。しかし、長男は学校でいじめられている。相手に「臆病者」と罵られても「僕は暴力は嫌いだ」と最初から恭順の意を示してしまう。
そんなある日、あの男たちが街を通りかかる。「もう金も尽きたぜ」と若い男が言い、年輩の男が「そんなものはすぐに解決する」と答える。男たちは閉店間際のダイナーに入る。コーヒーを注文した男たちは、帰ろうとするウェイトレスを乱暴につかまえ椅子に座らせる。「たいしてないが、レジの金は全部持っていってくれ」とトムが冷静に言う。
「俺たちが本気だと見せてやれ」と年輩の男が言い、若い男がウェイトレスに銃を向けて引き金を引こうとした瞬間、トムがコーヒーを年輩の男にかけてカウンターを飛び越える。男が落とした拳銃を拾い、若い男を射殺する。ナイフで足を刺されながら、年輩の男の脳天を撃ち抜く。
トムは、アメリカ中の話題になる。ヒーロー扱いだ。テレビ局が殺到し、新聞に大きな写真が出る。そして、暴力の匂いをさせた男たちがトムのダイナーにやってくる。男たちはトムを「ジョーイ」と呼ぶ。「人違いだ」と言っても、しつこく男たちはやってくる。
●暴力は人間関係を崩壊させ人を孤独に追い込む
男たちは暴力の匂いを撒き散らし、一家にまとわりつき不安に陥れる。トムは家族を守ろうとする。男たちは「おまえはフィラデルフィアの有名なギャングで殺し屋だったジョーイだ」と言う。男たちはトムをフィラデルフィアに連れ帰ろうとする。
父親が強盗ふたりを殺して以来、家族を「暴力」が支配し始める。最も変わったのは、長男だ。彼は学校でからんできた相手に反撃し、完膚なきまでに痛めつける。血まみれの相手を「カス」と罵る。だが、そのときの彼の表情は暗い。その長男に「暴力では何も解決しない」とトムは説教する。
田舎のダイナーのオヤジだと思っていた自分の父親がプロのようなガンさばきを見せ、明らかにギャングだと思われる男たちを怖がらず、反撃しようとさえする。父親は本当に平凡な田舎町の軽食堂のオヤジなのだろうか、と彼は思ったのだろう。
この映画で感じたのは暴力を振るった後の何とも言えないイヤーな生理的な嫌悪感である。長男はからんできた相手を殴りつけるが、その暴力への嫌悪感を露骨に見せる。彼は、暴力を振るえる人間になったことを嫌悪している。僕は人を殴ったことはないけれど、殴った後にはひどく落ち込むと思う。それが普通の人の反応だ。
高見順に「いやな感じ」という長編小説がある。戦前を舞台にした一種のピカレスク・ロマンで、主人公は右翼テロリストとなって最後に人の首を斬る。それがタイトルの「いやな感じ」なのだが、暴力は振るう人にも振るわれる人にも「いやな感じ」しか残さないのではないか。
「ヒストリー・オブ・バイオレンス」の冒頭に登場するふたりの男が不気味なのは、彼らが暴力を振るうことに無感覚になっているからなのだと思う。彼らは人を暴力でしか支配できない人間であり、ある意味では暴力でしか他人とコミュニケーションがとれないのだ。狂った人間である。人の命に何の価値も感じない狂人だ。
もし、自分の父親がかつてそんな人間だったとわかったら、いくら血のつながった父親でも、怪物を見る目になるのではないだろうか。そんな人間を受け入れることができるだろうか…といったことを、この映画は考察している。暴力によって影響を受ける様々なこと、それが何に波及するのか、そんなことを考えさせる。
すべてが終わって自宅に戻ったトムは、食卓を囲む家族のいるキッチンに立つ。幼い娘が皿とナイフとフォークをテーブルに並べる。息子がローストビーフの載った大皿を引き寄せる。だが、誰も何も言わない。無言のまま、4人の家族が絶望的な顔でテーブルに向かっている。
現実の世界では、正義の暴力などない。どんな暴力も人を幸せにはしない。暴力は人間関係を崩壊させ、信頼関係を破壊し、人を孤独に追い込む。そんなメッセージのようなものを僕は感じた。「ヒストリー・オブ・バイオレンス」で描かれた暴力は、ジョン・マックレーンが大型拳銃を撃ちまくる暴力とはまったく異質のものだった。
もちろん、僕は「ダイ・ハード」も大好きではあるけれど…。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
完全な思い違いをしてしまいました。「南国太平記」は直木三十五じゃないですか。どうして間違ったのだろうなあ。しかし、間違うときはそんなものだと思います。訂正します。すいません。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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- 映画がなければ生きていけない 1999‐2002
- 十河 進
- 水曜社 2006-12-23
- おすすめ平均
- ちびちび、の愉悦!
- 「ぼやき」という名の愛
- 第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
- すばらしい本です。
- ものすごい読み応え!!
by G-Tools , 2008/12/05