私症説[06]ささやかな悲願/永吉克之

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われわれ人間に最も近い類人猿、なかでもチンパンジーのみなさんにお願いしたいのは、そろそろ人間の言葉を話せるまでに進化していただきたいということなんです。チンパンジーのみなさんは、今では自動販売機でジュースを買うこともできるし、檻の鍵を開けることもできる。言葉を話せるようになるまで、あと一歩、いや半歩ですよ。後はその手をちょっと伸ばすだけの進化なんです。何を迷う必要があるでしょう。

期待できるのはチンパンジーさんしかいないんです。九官鳥やオウムの一派も人語を発しますが、あ奴らは物真似をしているだけで、自分の意志を伝えているのではありません。あんな下等動物と張り合う必要なんかありません。連中はほとんど爬虫類なんですから。

私がこんなことを考えるようになったのは外でもありません。ある日曜日、4歳の息子を連れて、動物たちと触れあうことのできる動物園に行ったんです。その日は、子供たちが、首輪をはめて柵の外に出したチンパンジーさんに自分の手から餌を食べさせるという趣向でした。大丈夫よと励ましながら、怖がる子供の手をひっ掴んで、無理矢理食べさせている親子が多いなかで、わが息子は、自らバナナを手に取ると、臆することなくチンパンジーさんに近づき、さあ、と言ってバナナを差し出したのです。親として、これほど誇らしいことはありません。よくやったぞ、息子。私は涙を見せまいと、天を仰ぎました。



チンパンジーさんは、息子の手からバナナを掴み取って口に入れると、まだ食べ終わらないうちに、息子の隣にいた子供に手を伸ばして、餌をせがみました。息子は満足気に私を見上げて、パパ、食べたよ、見た? と言いました。しかし私は怒りのあまり、口がきけなかったのです。

息子からバナナをもらったチンパンジーさんは、もらうのが当然の権利でもあるかのように「ありがとう」もいわず、あまつさえ、次の餌を要求するのですから。私は、こみ上げてくる憤怒を抑えながら、しばらく様子を見ていました。チンパンジーさんは、次の子供からはリンゴを与えられましたが、またしても、ありがとうを言わないのです。私は、すっかり理性のコントロールが利かなくなって、ついチンパンジーさんに、掴みかかってしまいました。飼育係の人がすぐ止めに入ってくれたからよかったものの、危うく私はチンパンジーさんを撲殺するところでした。

その後の細かい話はご容赦ください。それ以来、息子は私を恐れるようになりました。最近では、母親にしか口をききません。息子がこんなになってしまったのは、ひとえにチンパンジーさんが「ありがとう」のひとことを言わなかったからなのです。こんな不幸を繰り返さないためにも、チンパンジーさんには、是非とも、人語を話してもらいたいと願ってやみません。

まあ、そんな個人的な話はいいでしょう。もし、みなさんが人語を話すようになれば、それでみなさんはもう人間と同等です。自分の意志や感情を人語で表現する生き物には人格に相当するものを認めなければなりません。特に、チンパンジーのみなさんは人間と同じヒト科なんですから、議論の余地のない「人格」です。ですから教育を受ける権利も労働する権利も発生するでしょう。

そして、これは人間のみなさんに申し上げたい。ひとつ想像してみてください。ここにチンパンジーがいるとします。いや、ウシでもカメでも、動物ならなんでもいいです。とりあえず、彼、としておきましょう。彼が、お腹が空いた、具合が悪い、散歩したい、と日本語で気持を訴えたとしましょう。あなたは、それまでのように、彼を檻に入れたり鎖に繋いだりできますか? 頭を引っ叩いたり、食べ物を放り投げてやったりできますか? できないでしょう。それは、その動物に人格を認めているからです。

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こんな風に私は、仕事が休みの日には、いつも動物園に行って、チンパンジーの柵の前で、連中を説得し続けたのだが、チンパンジーからは何の反応も得られなかった。それどころか糞を投げつけられて、その一片が口の中に入ったこともある。

ある日、これでダメならもう諦めようと意を決し、ロイド眼鏡に燕尾服、シルクハットにステッキという出で立ちで、チンパンジーの柵の前に立った。ただ私はひどく酔っていた。素面ではとても話せないような秘密を暴露するつもりだったからだ。来園者たちは、そんな私を遠巻きにして避けていた。

「チンパンの旦那方、あたしゃ、もうみーんな判ってんですよ。とっくの昔に旦那方が日本語を話せるまでに進化してるってことをね。……ほう、顔色も変えないとはいい度胸だ。じゃ、どうして旦那方が、それを隠していたのか。それはこういうことですよ。つまり人語を解する動物には人格を認めなければならない。いくら行政が認めないと言っても、大衆の感情ってものがそれを許さない。人間とお話ができるのに、猿というだけで檻にいれるなんて可哀想、差別よっ、てわけでさ。そして人間と同等の権利が与えられる。教育も受けられるし、就職もできる。しかしですよ、権利のあるところには義務もあるわけでね、まず法律を守らなくちゃいけません。チンパンジーだからって、信号無視してもいいということにゃなりませんわな。公共の場で交尾、あ失礼、セックスをしたら公然猥褻罪に問われます。どうです? 旦那方は、人語を話せるのを人間に知られて、人権なんて余計なものを押しつけられちまうのが厭なんですよ。義務を負わせられるのが厭なんです」

木の枝から枝へと飛び回ったり、タイヤのブランコで遊んだり、仰向けになって居眠りしたりしていた十頭、いや十人のチンパンジーたちは、私が話し終えるなり、一斉に私の方を向いた。そして口を開くと、まるで社訓を唱和するかのように声を合わせて、一言半句たがわず話し始めた。それぞれ音程が違うので、ひどい不協和音だったが、誰かが指揮をしているかのように、息がぴったり合っていた。息継ぎのタイミングも、間を置くタイミングも揃っていた。これはチンパンジーだからこそできるのだ。

——チンパンジーたち
「永吉さん、それは違います。われわれは義務を負うことを、決して厭うものではありません。むしろ、あなたが言われたように、人権を認められたことの証左であると考え、名誉にすら思っているのです」
——永吉
「ほう、じゃあなんでまた、ずっと隠してたんですかい?」
——チンパンジーたち
「時期尚早だからです。現在、飼育係を抱き込んで連絡係にし、他の動物園のチンパンジーたちとの連携を図っているところです。そうやって準備しておいて、然るべき時が来るのを待っているのですよ」
——永吉
「然るべき時が来たら、何をしようってんですかね?」
——チンパンジーたち
「餌の品質の向上を要求します。それがわれわれの悲願なのです」

失望した。革命を起こすとでも言うのかと思った。この動物園のチンパンジーは最年長でも21歳だ。その若さで何というケチな悲願だろう。私が若い頃は、自分たち若者が連帯すれば、社会すら変えることができると考えていたものだ。

どんなに大きな志を描いても、いずれ現実と妥協して、小さくなってしまう。始めっから小さな志を掲げてどうするのだと、私は憤懣やるかたなかった。で、このチンパンジーたちの主張は話題にするほどの内容ではなかったためか、地域の広報紙に、数行で紹介されただけだった。

【ながよしかつゆき】thereisaship@yahoo.co.jp
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