[4887] 芸術だと思いました?◇古書店での幻の見合い

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《私にとっての芸術は私だけのものだ》

■ショート・ストーリーのKUNI[253]
 【番外編】芸術だと思いました?
 ヤマシタクニコ

■海浜通信[006]
 古書店での幻の見合い
 池田芳弘




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■ショート・ストーリーのKUNI[253]
【番外編】芸術だと思いました?

ヤマシタクニコ
https://bn.dgcr.com/archives/20191024110200.html

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10月14日で終了したが、あいちトリエンナーレを観てきた。「表現の不自由展・その後」も観てきた。と書くと柴田編集長が顔をしかめるかもしれないが、別に柴田さんにケンカを売るために行ったわけではない。ちなみに、私は柴田さんが大嫌いな朝日新聞の購読者でもある(笑)。

あいちトリエンナーレに興味を持ったのは、芸術監督を務めることになった津田大介氏が、「参加アーティストの男女比を半々にする」と表明したときからだ。そうしようと思ったきっかけは、昨年に発覚した東京医大の不正入試問題だったそうだ。

あれは、私にもものすごいショックだった。この社会で女が不当に差別されていることは、もちろんいやというほど思い知らされてきたし、そのくらいのことはあって当然だなという気持ちも一方であったけど、一方では、いやー、冗談ですよギャグですよ、そんなことあるわけないでしょ、これはどっきりカメラ(古い)ですよ~、とだれかがへらへら笑いながら登場して、はいおしまい、とまっとうな現実に引き戻されることをかすかに期待していた。

だけどそんなことはなかった。そのときの情けなさ、悔しさ、絶望感といったら、藁人形やサンドバッグがいくつあっても、どれだけやけ食いしても足りないほどだ。

だから、これはぜひ、あいちトリエンナーレなるものに行かなければなるまいと決めた。まだ4月だった。東京在の友人K氏に「行こう」と声をかけると「行こう行こう」と返ってきて、でも開幕までだいぶあるなあとか言ってたような。

ところが、開幕早々、あいトリの中の企画である「表現の不自由展・その後」がめんどくさいことになってしまったのはご存じの通り。「不自由展」以外の作家の中にも、抗議の意を込めて作品を引き揚げる人が出てきたりして、あれまあと思った。

でも、とにかく行くつもりではあったのだが、たまたま2人とも仕事が忙しくなり、8月、9月はとても行けなかった。はっと気づくと、10月14日で閉幕だという。あわてて、とりあえず10月8日(なんとなく土日や祝日は避ける)に出かけたのだが、結果的に「表現の不自由展・その後」再開初日にあたってしまったのだ。

再開とはいっても、簡単には見せてくれない。抽選で、しかも一回につき30人(翌日から定員を増やしたらしいが)という。

名古屋駅で落ち合ったK氏と、ほかの展示を見たりしながら、受け付け開始時刻の午後1時ちょっと前に受付場所に行くと、もう行列ができていて、すでに50人は超えていたようだ。

それ以降も、列はどんどん伸びる一方(700人以上だったとか)。こりゃだめだ。ガラガラ抽選でもティッシュしかもらえず、コンビニで缶コーヒーが当たると、これは夢かと思う私が当たるわけない。

はずれる気満々だが、こういうのもまあなんというかレアな経験だよなー、当たる当たらないの問題ではないんだよなー、うんうん、と自分を納得させる。

メディアの取材もすごくて、「リストバンド型抽選券」を腕につけてもらうところでは、でかいカメラを抱えた人が何人も待ち受けている。「ここでこのようにして抽選券を腕につけてもらうんですね!」などと、レポーターが実況中継してたりするので超はずい。顔を隠しながら進んだ。

その後、他の展示を観たりしてるうちに抽選発表の時間になったので、番号が表示されるモニタ前に。人垣をかきわけて番号を確かめるが、やっぱりはずれた。K氏も同じく。くやしい。「こりゃだめだ」とか言いつつ、やっぱりくやしい。当たりたい。それが人情だ。

てことで二回目(3時から)に挑戦。また列に並ぶ。またリストバンド型抽選券をつけてもらう。そして40分後にまた抽選発表のモニタ前に行くと……。

なんと、当たってしまった。K氏ははずれたが、私だけ当たったのだ。若干びみょう。でもK氏は「いいよ。どっかで待ってるから」という。うーん、なら、そうするか……。

このときもモニタ前はものすごい人だかり。メディア関係もさらに増えていて、私にも「すいません、ニュースウォッチ9ですが、当選された方ですか? 見終わったあとでお話を聞かせてもらってもいいですか?」「○○テレビです。ひょっとして当選された方ですか」等声をかけてきたが、丁重に無視させていただいた。

私をだれだと思ってるんだ。大阪で一、二を争うシャイなおばはんなんだからな。

4時になって抽選にあたった30人は「不自由展」会場へ。すでに報道されてるとおり、金属探知機をあてられ、脚立に乗ったカメラマンがずらっと並んで、ばしばしシャッターを切る横を通り、やっと展示室へ入った。

見終わって出ると、また何人ものメディア連中に声をかけられる。「すいません、抽選ではずれた連れが待ってるんで」「これからすぐ大阪に帰るんで」と振り払ったが、中に一人、追いかけながら質問してきた女性がいた。

「どうでした? 芸術だと思いました?」

えっ、と思った。無視してもいいけど、いろんな意味でひっかかって、思わず立ち止まった。

芸術だと思いました?

どう答えたらいいのか一瞬迷い、とりあえず「えっと……すごく問題視されていた映像作品ですけど、終わったときに自然発生的に拍手が起こりました」そう答えると女性は意外そうな顔をした。

この日は展示された作品鑑賞と別に、一回目の鑑賞ではマネキンフラッシュモブのパフォーマンスとディスカッションが行われ、2回目(私の観た回)では大浦信行氏の「遠近を抱えて Part II」が上映された。

「遠近を抱えて Part II」は、当初、壁面のモニタで流されていたらしいが、そこは立ち止まってじっくり見にくいところであるし、一部だけ見て誤解される可能性があったという反省からか、この日は大きめのモニタ前にみんな集まり、椅子や座布団に腰を下ろしてじっくり観たのである。

作品は過去、富山県立近代美術館で展示されたあとに問題となり、展覧会の図録が焼却処分になったという作者の体験が核となっている。映像と音楽のコラージュといった感じだが、言いしれぬ緊張感に満ちた、きわめて内省的な作品と感じた。

拍手をした人は複数いて、それぞれがどんな気持ちで拍手をしたのかは微妙に異なるかもしれないが、拍手が起こったことをその場の人たちは普通に受け入れてるという感があった。その後、みんな静かに展示室を出た。

芸術って何なのだろうか。この作品が芸術だとか、そうでないとかは、どうやって決めるのだろう? それ以前に、芸術って何なのか。あのときの女性が口にした「芸術」と、私が芸術と聞いて思い浮かべるイメージはたぶん、少しずれているだろう。だから困った。

芸術という言葉が用いられているシーンを思い浮かべる。高校のとき、美術や書道、工芸といった科目をひっくるめて「芸術」と言ってた。「芸術、何取るん? 書道? 美術?」みたいに。

「芸術家」という言葉があるし、「愛知芸術文化センター」などと、施設名にも普通に使う。「いやー、あの人は芸術家やからねー」みたいな言い方をされることもある。

「芸術」は重々しい響きとはうらはらに、けっこう俗な使われ方をする言葉のような気もする。「芸術」という言葉を簡単に使う人って、芸術に関心ない人のような気もする。そんなことないか。

「芸術だと思いました?」と聞いてきた人は、あえていえば「すぐれた芸術」という意味で聞いてきたのかと思うが、そんなこと簡単に言えない。

「感動しました?」みたいな意味で聞いたのかもしれない。だが、その場でびびびっと来る感動もあれば、10日くらい後でじわじわ来る感動もあるし、ごくごく冷静に「うーん、この手があったか……」と、思わず腕を組んでしまうような感動(というのかどうか?)もあるだろう。

少なくとも私は、芸術とは個人的な体験であり、瞬間だと思っている。世間の人がどれだけ「これはすばらしい」「まさに芸術だ!」と言おうが、それはそれだと思っている。私にとっての芸術は私だけのものだ。ほっといてほしい。

万人が認め、未来永劫変わらず誰もが芸術と認め続けるものがあるのかどうか。あるかも知れんけど。

書いた瞬間にいちいちひっくり返して何やねんといわれそうだが、要するに私も分ってない。わかってたら苦労せん。私みたいな人が多くてめんどくさいから、最近「アート」という言葉が多用・乱用されてるのかもしれないとも思う。字も簡単だしな。ごちゃごちゃ考えんと、なんでもアートでええんちゃうん~っていう。はいはい、別にいいですよ、それで。わたしゃ単なるアマチュアもの書きですよって。

話はそれるかもしれないが、朝ドラではけっこう「つくる人」が主人公だったりする。ケーキ作りだったり手芸や洋裁の人だったり、まんが家後扇風機作るひとだったりアニメーターだったり今度は陶芸家だったり。

アニメーター(「なつぞら」)のときは、へー、こんな風に作ってたんだとか、当時のアニメ作りの現場を知ることができて興味深かったりする。

だけど、主人公が、ほんとにその世界がむちゃくちゃ好きで、描きたくて、つくりたくてたまらないからその道に進んだのかどうか、いまいち伝わらない。

常に主人公は明るく前向きで、いろんなことができて人に好かれて、ついでにちょっと、つくるのが好き、程度にみえる。ものすごく努力してるような気がしない。

まあ主人公が「つくる人」であっても、それ以外の生活や人間関係の描写がメインなので、そうなってしまうのだろう。半年続けないといけないしね。結局「つくる人」であることは単なるネタでしかない。

さらに、いやなのが「○○でみんなを笑顔にする」みたいなセリフがよく出てくることだ。なんでだれかを笑顔にするために、描いたりつくったりしなきゃならないのだ。いや、そう思う人がいてもいいけど、自分が描きたいから作りたいから、ではいけないのか、見るひとを怒らせるようなものは作っちゃいけないのか……ケーキは食べた人が怒り出しては、売り物にならないけど。店つぶれる。

あ、そうか。つくる人、描く人はいいけど、「ゲージュツカ」は困るということか。己の内なる衝動に従い、表現することを第一義とするような「変な人」が主人公では、朝ドラは成り立たないんだよね。

いや、「まんぷく」の立花萬平は寝食忘れて発明に夢中になる「変な人」だったじゃないか。そうか。男は変な人でもいいが、女は社会と折り合いをつけながら、ほどほどにやっていける普通の人じゃないとだめなんだな。

おっと、話がずれてきた、ようにみえるがずれていないぞ。だからあいちトリエンナーレでは、参加作家を男女半々にという試みがなされたのではないか。とかなんとか考えながら、私は友人K氏が飲んだくれて待つ栄界隈へ急いだのであった。


【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
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「不自由展」でもうひとつ大きな話題となっていた作品「平和の碑」(少女像などと呼ばれる)だが、これについては難しいなと思っていた。日韓関係のさまざまなこと、先入観抜きで単なる少女像として観られるかどうか、自分でも自信がなかった。

だが、広い真っ白な展示室で静かに座っている少女を観たときは、なんともいえない気持ちになった。この子は作品としてこの世に生まれ落ちた瞬間から重いものを背負わされ、おそらくこれからも苦労していくんだなあと思って。そんなおばちゃん的な感傷がふさわしいのかどうか知らんけど。


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■海浜通信[006]
古書店での幻の見合い

池田芳弘
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海が好き、ただそれだけの理由で、大阪市内から和歌山の漁港に移住した。

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昔の話だが、梅田の阪急かっぱ横丁に加藤京文堂という古書店があった。

小さなギャラリーが併設されていて、フランスや日本の幻想文学が揃っていた。「岬にての物語」の蕗谷虹児によって手彩色されたものや、リザード革表紙の「黒蜥蜴」など、三島由紀夫の豪華本もガラスケースに収まっている。

そして端正な雰囲気の主人とは対照的に、目の大きな、およそ古書店の店番には似つかわしくない、若い美人がいつも座っていた。

当時私は三十才に近くなり、行き付けの工芸品専門のギャラリー「心斎橋泉画廊」の女主人から相手はいないのか、うちで展覧会をされている先生たちはどうかなど、しきりと心配されていた。

その頃は特に興味のある存在はないものの、何とはなしに、古書店の店番の女性に惹かれるが、まだ話したこともないと伝えたところ、では今度一緒に出向いて、私がうまくお茶でもご一緒できるように計らうから任せて下さい。そう言われ、後日二人で梅田に向かった。

加藤京文堂に着く前に、陶芸をしている亭主が以前展覧会を開いたので挨拶にと、女主人は少し広めの古書店に入り、私も同行した。そこで今まで知っている古書店とは異質の、非常に元気そうな年配の社長に出迎えられ、女主人は一通りの挨拶を終えて切り出した。

「本日、出向いたのはこの方が、京文堂さんの店番の方を見初められ……」話し終わらないうちに社長は大きな声で「それはめでたい! ぜひ早めに釣書を交わしましょう。あの若さと容姿でこんな地味な仕事に就いてるのは、きっと良い人に違いない、私に任せて下さい」

そうして私のことを色々聞かれたのだが、実は内心そこまでの展開は期待せず、ただ美人だから話をしてみたいというレベルで来たことを言い出すのを、勢いに飲まれた我々は恐縮してしまって、時間ばかりが過ぎていった。

しかし、意を決して事情を伝えたところ、「池田さん、男子というものは一度そういうことを言い出すからには、それなりの覚悟があってしかるべきです」等々と延々お説教を述べられた。

そして結局、目当ての美人にも会わずの帰り道、私たちはお互い気まずく、それから泉画廊に行くことはなかった。

数年前だろうか、再度かっぱ横丁を訪れてみると加藤京文堂は代替わりしていて、もちろんあの時の美人もいなかった。そして今日のように雨が降る日、検索してみると一人の女性が浮かび上がってきた。グレゴリ青山さん。

あの店に長期間勤めていた事、休暇をとっては度々アジア旅行に行き、旅行記を執筆されている事、一時は和歌山で田舎暮らしをされていた事、それらの体験を綴った作品の数々で人気がある事。

画像がまったく見当たらないため、ご本人かどうかはわからないが、きっと今
頃、私の好きな人もどこかで雨を見ているのだろう。


【Ikeda Yoshihiro】
ikeda@brightocean.jp
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編集後記(10/24)

●偏屈BOOK案内:藤原正彦「国家と教養」

わたしの大好きな藤原先生、面倒くさそうなタイトルだが……。これからの教養とは、具体的にどのようなものであればいいのか。四本柱がある、とおっしゃる。まずは長い歴史をもつ文学や哲学などの「人文教養」、政治、経済、地政学などの「社会教養」、それに自然科学や統計を含めた「科学教養」の三本である。確かにそうだとは思うが、若い頃ならともかく、今はもう読めない。

それに加えて、そういったものを書斎の死んだ知識としないため、生を吹き込むこと、すなわち情緒とか形の習得が不可欠ということである。これが四本目だ。我が国の誇る「大衆文化教養」が役に立つ。「本、人、旅」「映画、音楽、芝居、本」「読書、登山、古典音楽」などと表現できる。これなら分かる。

これら四本柱に触れ、自らの血肉とするためには、どうしても読書が主役になる。教養をどのように定義する人でも、読書を外すことだけは不可能である。大学生の半数が月に一冊も本を読まない。国民の教養を維持するために、ケータイ、スマホの使用規制を全国の小中高で実施すべき時が来たようである。「民主主義という暴走トラックを制御するものは、国民の教養だけなのです」

藤原先生はお茶の水女子大に在職中、10数年にわたり読書ゼミを続けた。主に明治期から戦前に書かれた書物を通し、生まれてからこれまでありとあらゆる偏見、独断、誤解でもみくちゃにされた学生達に、日本人としての生き方や考え方に触れさせたかったからだ。本の絶大な威力にふれ、ジェンダー論に染まった彼女たちは、みるみるうちに変化し、多様な価値観を持つようになった。

良書を読むことで、人間はいくつになっても、あっという間に思考や感覚が鋭く、そして大きく変貌することが可能だという。あまりに劇的に学生達が変貌するので、洗脳教育をしているのではないかと自問することもあったそうだ。「本の絶大な威力にいまさらながら気付かされました」。本を読むことで自己を向上させることができる。それは人間としての愉悦といってもよいことだ。

この本は「本を読むということは人間として生きることなのだ」と結ぶ。わたしはいま、人間として生きているようだ。昔金持ち今貧乏。お金はないから3市の図書館を使い倒している。2019年はこれまでに軽く300冊を超えた。たぶん人生で一番本を読んでいる。もっとも、そのうち1割くらいは、一見してダメダメ本か、手に負えない超難解本で、ソッコー返却しているが。(柴田)

藤原正彦「国家と教養」2018 新潮文庫 
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106107937/dgcrcom-22/



●今日のヤマシタさんのお話でいろいろ考えた。世間とは違う断面が見られた。女性についても考えた。

/以前、芸術というくくりはなんとなくわかるような気がするけれど、アート(現代アート)がわからないと書いたことがある。

Wikipediaの「芸術」を見たら、artは現在でいうところの「技術」にあたる、とのこと。現代でいう技術はテクノロジー・テクニック、それ以外の装飾・美的要素をアートが引き継ぐ。

日本では「リベラル・アーツ」の訳語になったと。「人が持つ必要がある技芸(実践的な知識・学問)の基本」と見なされた自由七科。文法学・修辞学・論理学の3学、および算術・幾何(幾何学、図形の学問)・天文学・音楽の4科のことらしい。

「アート」の項目は、「芸術・美術など間接的に社会に影響を与え得るものである」。Wikipediaでは、芸術よりアートの方が範囲が広いみたい。

英語版で「Art」だと、「芸術とは、創造的な表現の作品を指し、スキル、学習された応用技術も指します」。

「Liberal arts education」では、今では「文学、哲学、数学、社会科学および物理科学などの学問分野を指す」「専門的、職業的、または技術的なカリキュラムに関係しない」

「The arts」では、具体的な項目(文学・音楽など)とともに、「アートは物語を語り、環境と人類の関係を伝えるための容器として機能」。

岩波・広辞苑の「芸術」は上記に近く、新明解は「一定の素材・様式を使って、社会の現実、理想とその矛盾や、人生の哀歓などを美的表現にまで高めて描き出す人間の活動」とまで書いてある。

「アート」は三つとも、「芸術・美術」とあって、辞書的には芸術とアートはイコールのようだ。Wikipedia英語版のところはすべてGoogle翻訳。Wikipediaや辞書は、絶対ではなくて、編集方針で説明は変わってくるし、解釈は時代で変わる。

「プロパガンダをアートと認めるか」となると別の話なんだが、ロシア(構成主義)のポスターとかには好きなのがあったりする。いや、日本のにもいい感じのがあった。終わったものなら距離が持てて、そのもの自体を評価できる気がする。となると、終わっていないもの(一度解決したが)が物議を醸し出すのは当たり前の話だよなぁ。

「プロパガンダ」と「オピニオン」は違うという視点の記事もあった。「政府や政党が直に関与していることがポイントであり、独立したアーティストが行う政治的な表現はオピニオンの一種と考えるべき」。一番有名な像は、ある政党が守ってるし、設置のために頑張ってるから、プロパガンダと言ってもいいよね。ダメ?(hammer.mule)

https://ja.wikipedia.org/wiki/芸術

https://ja.wikipedia.org/wiki/リベラル・アーツ

https://ja.wikipedia.org/wiki/アート

https://en.wikipedia.org/wiki/Art_(disambiguation)

https://en.wikipedia.org/wiki/Liberal_arts_education

https://en.wikipedia.org/wiki/The_arts


【インタビュー】アートとは何か | 美術評論家・倉林靖
https://tabica.jp/entry/life/archives/26469


芸術の意味!?辞書では、芸術の定義はいったい何て書いてある?
https://dessin.art-map.net/art/teigi.htm

同じことやってる人がいた

ソビエト時代のプロパガンダポスターを翻訳してみた
http://osoroshian.com/archives/44003836.html


いまベトナムでは戦時中に生まれたプロパガンダアートが人気
https://trip-s.world/propaganda-art-vietnam


強烈な50のビジュアルプロパガンダとその背後にある意味
https://www.canva.com/ja_jp/learn/examples-of-propaganda/


「クッパとともに戦おう!」もしマリオの世界にプロパガンダポスターがあっ
たら
https://dailynewsagency.com/2011/09/12/mario-propaganda/


ハリウッドも羨む、ソビエト・アヴァンギャルドの映画ポスター10選
https://jp.rbth.com/arts/79617-soren-avantgarde-eiga-poster


「政治と芸術」の密接な関係を議論する好機を逸してしまった
https://blogos.com/article/395951/