[4947] 主人公になり切って頭の中で演じてごらん◇五年読んでも終わらない話

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《わかりやすいが、えっ、それでええのん?》

■ローマでMANGA[151]
 主人公になり切って頭の中で演じてごらん
 Midori
 
■エセー物語(エッセイ+超短編ストーリー)[43]
 五年読んでも終わらない話◇永遠凝視者
 海音寺ジョー




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■ローマでMANGA[151]
主人公になり切って頭の中で演じてごらん

Midori
http://bn.dgcr.com/archives/20200206110200.html
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ローマ在、マンガ学校で講師をしているMidoriです。私の周辺のマンガ事情を通して、特にmangaとの融合、イタリア人のmangaとの関わりなどを柱におしゃべりして行きます。

●コースの第二部に突入

マンガ学校の話。参加を強制している「サイレント・マンガ・オーディション」(SMA)の締め切りが1月31日にあり、クラス10人中一人だけ締め切りを守って作品を仕上げ、提出できた。

一か月半で物語を作り、原稿を仕上げるというのはプロ並みのスピードを要求されたわけで、初めて自分で作品をゼロから作る生徒にとっては、かなりの難関だったのは確かだ。とりあえず、中間考査とオーディション参加という二大イベントが終わり、コースの第二部に突入となった。

SMAの締め切りがこれまでの3月末から1月末に変更になり、授業の進め方も変更した。講義とストーリーボードチェックを授業で行い、SMAの原稿制作は家でやってもらうつもりでいた。締め切りが2か月早くなったので、原稿制作を学校ですることを許可し、その分、講義の時間を削らざるを得なくなった。

ただ、生徒のストーリーボードをじっくり見直して、共通する欠点をしっかり把握する事ができた。これは、学校外で私にコンタクトを取って、ネーム(ストーリーボード)のお直しを依頼してくる人にも共通する。

●授業内容の建て直し

共通する欠点を言葉で表現するのに、勉強中の本、「感情から書く脚本術」
(カール・イグレシアス著が助けてくれる。)
https://matome.naver.jp/odai/2152300069051937001
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「感情・性格」を表現するのはキャラの行動 ←これが欠ける

本文内に例としてジャック・ニコルソン主演の「恋愛小説家」が出ている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%8B%E6%84%9B%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E5%AE%B6
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B06ZZG7LGP/dgcrcom-22/

主人公の潔癖脅迫症を表現するのに、石鹸で手を洗い、その石鹸を捨ててもう一つの新しい石鹸を下ろして、もう一度手を洗う。カメラは洗面台の家具にいっぱいの石鹸を映す。この「行動」で潔癖症を表現した。

もう一つの例、ケチな人物。ケチであることを表現するには? 食事にプラスチックの皿を使い、それを洗って乾かししてもう一度使う。これも行動だ。

コースの生徒のSMA用ネームも、今お直しを頼まれているネームも、「感情・性格」を表現するためにキャラに行動させる」というのがない。

物語である以上、キャラが何かするのは当然なのだけど、その行動と感情・性格を表現するための行動、というのは意味が違う。物語を進めるためのキャラの行為の羅列では、読者は感情移入できない。

赤頭巾ちゃんが淡々と無表情で花を摘んだら、義務でやってるだけになってしまう。大好きなおばあちゃんに喜んでもらおうと夢中になって摘むのだったら、あっちやこっちに目をやって赤い花だったり、大きい花だったり、自分の目が惹かれるものを探すだろう。

時々束になった花をちょっと持ち上げてみて陽にかざし、その可憐さに微笑むかもしれない。もっと大きい花束の方がいいかしら? と思って、花束と花畑を見比べながら、真剣な眼差しで摘む花を吟味するだろう。

それが「感情・性格」を表す行動なのだ。つまり、シノプシスで「赤頭巾ちゃんが花を摘む」とあったときに、どんな風に摘むのかを具体的に想像できるかが肝要ということだ。

そして、このことを理解してもらうために、どのような例題、課題を作成するのかが講師の腕の見せ所となる。

●「感情・性格」を表現する「行動」

これを理解してもらうために、SMAのストーリーボードを見ながら「この主人公がこれをする時に、なり切って頭の中でいいから演じみて」と、何人にも言った。

例えば、このようなシーンを描こうとした生徒がいた。「姉と喧嘩をした5歳の男の子が、夜、怒りから眠れずに、同じ部屋で寝る姉に、マジックペンで顔にいたずら書きをするという復讐を決意する」

兄がいるというこの生徒に、兄弟喧嘩をしたことがあるだろう、と聞いた。当然ある。その時の気持ちを思いだし、頭の中で自分がこの主人公だったら、ベッドの中でどんな風にイラつく? 何度も寝返りをうつ? いたずらをするためにどうやって起き出す?

他にも、足の悪いホームレスが朝、公園で目覚めて起きる、というシーンを描いた生徒がいた。あっけらかんと、パッパッと起きてしまう。

「いつも邪魔者扱いをされている人は、目が覚めて自分の隠れ家から出る時に、どう出ると思う? 用心しながら、そーっとゆっくりと、周りを確認しながら出るんじゃないの? しかも足が悪いということがこの物語の中で重要な要素なのだから、パッと起き上がれずに、杖に頼ったりしながら起きるんじゃないの?」と言った。頭の中で演じてご覧、とも。

もう一人は「水が怖くて泳げない男の子が、好きな女の子にプールでのパーティに呼ばれ、恥をかかないために友達に助けてもらって泳ぎの練習をする」という話を持ってきた。

「水が怖くて泳げない」ということを表現するのに、セリフで済ませる(これはSMAではなく、別の話。SMAではセリフを使えない)。水が怖いというのは、好きな子のためにこれを克服する話の中では大事な要素だ。

ここをしっかり、それも、主人公の立場から描くことが肝心だ。それを伝え、「例えば、プールを恐る恐る覗き込む主人公。主人公が見る「悪意に満ちた」水の表面。後退りする主人公……といった情景が浮かぶけど、主人公が抱く恐怖を絵で説明してみて」と言った。

返って来た修正ネームでは、震える主人公のコマの後、北斎の有名な絵のように波がたつプールの水のコマがあった。「水が怖い」はこの2コマでおしまい。

うーむ、つまり、「頭の中で演じてみて」とか、私が脳内演劇で出てきた行動を解説してもわかってもらえない、ということがはっきりした。では、どうやればいいいのか?

●「SIMPLYPIANO」方式

一昨年の1月から「SIMPLYPIANO」というアプリでピアノキーボードの練習をしている。一年で(簡単な)楽譜を読めるようになり、両手で(簡単な)曲を弾けるようになった。

このアプリの優れたところは、手取り足取りという感じで、すごく簡単な右手で弾く節を繰り返し、次にその節の伴奏になる左手を繰り返し、次に両手で何小節かを繰り返す。

つまり、「演じてみて」というのは、例として何小節かを流して聞かせ、突っ放してることなのだ。「演じてみる」やり方を教える必要がある。(演劇の本を読もうか)

つまり、ある状況を生徒に示し、みんなでこの状況にあった時、どんな行動を取るかを、ディスカッションしてみるのもいいかもしれない。そして、この時、この行動が感情を表すようになるよう、繰り返し繰り返し訂正していくことで、スイッチが入るかもしれない。

つまり、次の講義に向けて私がやることは、課題に適した「ある状況」の例をいくつか考えだすこと。もちろん複雑なものではだめだ。

「性格」を表す状況と「感情」を表す状況を考案する必要があるかも。あるいは、状況によっては両方に共通して使える例があるかもしれない。

この稿を書きながら今後の講義をどうしていくか、という方針がはっきりしてきた。書くという行為は、漠とした考えを言葉に翻訳していくから、助けになりますね。


【Midori/マンガ家/MANGA構築法講師】

月一のフリマで墨絵による似顔絵を描いて、お小使い稼ぎをしている。会場で「似顔絵師」の名刺を勝手に持っていってもらって、その宣伝効果が少しずつ現れ始め、メールでの問い合わせが増えてきた。

最近もらった依頼では、ある女性の似顔なのだが、写真を三枚送ってきてこれを墨絵と、できればカラーでも描いて欲しい、と言ってきた。写真に写ってる人は同じ女性。さらに追加でもう一枚写真を送ってきてこれはカラーのみ。

カラーは水彩で描いた。しばらく水彩をいじってなかったので、不安の中にも楽しみがあった。もう一歩強弱をつけられるとなお良し、と自分で判定した。今のところ、どうやったらもっと強弱がつけられるのかわからない。

それと、写真を元に描くと、パッとみて印象に残った部分をつい大きく描いてしまう癖を発見。それが効果的ならば、私のオリジナルなスタイルになるかもしれないが、今のところそこまでいってないので、気がついて慌てて下書きを消したりした。

それと、初めてのケースの依頼。送ってきた写真はいずれもセルフで、う〜む、ひょっとして、インスタで知って岡惚れして、自分の部屋を彼女の顔でいっぱいにしたいのか……などと想像を巡らせた。あ、「ソーシャルネットワークで片思いした人がとる行動」の例になるね、これ。

[注・親ばかリンク]息子のバンドPSYCOLYT (このバンドは解散。最近新しいバンドを組んでレパートリーを増やしてるところ)


お絵かきインスタ
https://instagram.com/midoriyamane

MangaBox 縦スクロールマンガ 「私の小さな家」
https://www-indies.mangabox.me/episode/58232/

主にイタリアのレストラン情報のブログを書いてます。
< http://midoroma.blog87.fc2.com/>

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■エセー物語(エッセイ+超短編ストーリー)[43]
五年読んでも終わらない話◇永遠凝視者

海音寺ジョー
http://bn.dgcr.com/archives/20200206110100.html
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◎五年読んでも終わらない話

生来がケチなので、本は図書館で読んでる。前職はラーメン屋で、本を読む時間がなくて、でも習性で町の図書館で限界冊数まで借りてた。

そして留守電に「返却期限を過ぎてます」と督促メッセージを入れられ、全冊未読のまま謝りながら返却するという、不毛なローテーションを続けていた。

介護仕事に鞍替えし、収入が激減したが一日八時間しか働かないようになったので、本を読む時間が確保できるようになった。

以来、超併読術を駆使し、複数冊を同時進行で読み進めている。(超併読術について、詳しくはバックナンバーズ『超併読術のはなし』を御参考ください)
http://bn.dgcr.com/archives/20180123110100.html

もう、絶対一生かかっても読み終わらんと諦めてた古川日出男さんの『アラビアの夜の種族』や、飯嶋和一さんの『狗賓(ぐひん)童子の島』、ジュンバ・ラヒリさんの『低地』、冲方丁さんの『光圀伝』など、一年から三年かけて読破していった。

アラビアの夜の種族
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4043636032/dgcrcom-22/

狗賓童子の島
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4094066853/dgcrcom-22/

低地
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4105901109/dgcrcom-22/

光圀伝
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4041020484/dgcrcom-22/


途中で停滞期間を挟みつつ、粘り強く読み抜いてゆくことに少なからぬ達成感があり、精神に快い高揚をもたらしていると思う。

おのれの教養の限界というものがあるんで……すべてを吸収した、とか内容が血肉になった、と偉そうなことは言えぬが、「オレ、こんだけのページを全部読み切ってんで!」という満足感は、自尊心を慰めてくれる快感は、筆舌に尽くしがたい。

しかし、数々の長編小説と併読、という形ではあるものの……今年で六年目となってしまい、まだ読み終えてない作品がある。

『失われた時を求めて』でも、『大菩薩峠』でもない。『徳川家康』でも『死霊』でもない。これらも、いつかは読みたいけど。

その本とは、船戸与一さんの『満州国演義』シリーズ全九巻である。二〇二〇年二月二日現在、第七巻『雷の波濤』第四章「発熱する午後」……頁でいうと、288ページを読んでいる最中である。

満州国演義
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101343209/dgcrcom-22/

この長編は、手強い。

ぼくが在東京時代、荻窪のブックオフで発見したときは、確か五巻が刊行されたところだった。仕事のハードさからどうせ読み切れまい、と諦めて買わなかった。

滋賀に越して来て隣町の図書館で第一巻を借りた時、第八巻が刊行されたばかりだった。第八巻『南冥の雫』の表紙が、新刊コーナー棚に平置きで並んでたので、鮮明に覚えている。

かつて「週刊新潮」に連載されてたのが、四巻以降書下ろしになって、定期的に出版されていた。執筆途中で公開されたことだが、船戸与一さんは肺がんと闘いつつ書いておられて、当時は御存命だった。最終第九巻を刊行し終えた二か月後他界され、この作品が遺作となった。

著者の生と死の時間を渡りながら、まだこの船戸与一さん畢生の、ライフワーク作品を黙々と読み続けているのだった。

『満州国演義』は日中戦争時代を生きた四兄弟の物語である。

船戸与一作品はガキガキのハードボイルド路線で、ラストは主人公以外、皆全滅か、主人公もろとも登場人物全員死亡、というパターンが殆どで、とても正気でいられない読後感が、何とも言えない。

もちろん『山猫の夏』とか『夜のオデッセイア』など、凄惨ながらも滅茶苦茶爽快な読後感を抱けるものもあるのだが、今まで読了出来得た作品群から鑑みれば、少数派と言える。

台詞回しに独特のくせがあり、その事で批評家の意見がばっさり割れてる、と勝手に思ってるのだが、めちゃくちゃザックリ描かれるのだ。本作もそうだ。ついでに、主人公四兄弟の名は、一郎、二郎、三郎、四郎である。

わかりやすいが、えっ、それでええのん? と美食家的読書家は絶対思うはず。しかし、それは決して適当にネーミングしたのではないことに、六巻ぐらいまで読んだ時点で気づいた。

この四人は日中戦争を演義ものとして物語化するために、極めて記号的に組まれた駒なのだ。一郎が外交官、二郎が馬賊、三郎が憲兵、四郎が映画会社の社員と、四方向の視点から立体的に「戦争」が描かれる。

狂言回し役として頬に傷がある男、関東軍特務機関の間垣徳蔵が、局面が変わるごとに登場し、物語の横糸をかがっている。

そして歴史上実在する人々は主人公たちの、伝聞の形で登場し、それらは影、黒塗りの人形のように背景に出てくるのみで、主人公四人と間垣だけがモノクロの舞台にカラーで登場し、動く。そんな舞台装置で演義が進行するのだ。

六年もだらだらと読んでいると、もう永遠に終わらないでいいやん、というモラトリアムな気持ちになってくる。しかし、船戸さんは何処かの雑誌のインタビューで「現代情勢への警笛として、この泥沼の戦争を書きたかった」という意味のことを訴えておられた。

その記事を思い出すにつけ、この緊迫する現在においては、やはり読破せねば、と仕切り直しの気持ちになるのだった。

これだけ長々と書いておいて、図書館から五年半も借り続けで、というのは悪いので ……すみません、次の賞与支給日に文庫版で、全巻買わせていただきます。(おわり)

◎永遠凝視者

フランス人・ルイブライユが発明した六点表記法によって、日本語点字も六点の凸(突起)の組み合わせで表せる。

一桝に六点、さいころの六の目の右上から下にかけて第一点・第二点・第三点、左上から第四点・第五点・第六点と定められ、一,二,四点の組み合わせで母音、三,五,六点の組み合わせで子音を表し濁音、半濁音、拗音、拗濁音、拗半濁音は六点×二桝で表現される決まりである。

読む人は凸面から、書く(打つ)人は凹面からの読みをまず習うが、凸面からも凹面からも同表記の字がある。一,二,四点でエ段、三,五,六点でマ行を示す、「め」である。

点訳者が催事などで点字板を打つ速さを競う目打ち競争は、「め」をひたすら打つ競技である。一分間に、小さい点字枠に点筆で「め」を何桝打てるか? というゲームだ。

目目目目…

慣れた点訳者はダラララと心地よい打音で「目」を量産していく。

もう一つ、凸面からも凹面からも同じに読める字がある。一,四点でウ段、三,六点でハ行を示す「ふ」である。目打ち競争で延々と打ち込まれる「め」に対して、「ふ」は話題にもならない。


【海音寺ジョー】
kareido111@gmail.com

ツイッターアカウント
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編集後記(02/06)

●偏屈BOOK案内:桑満おさむ「“意識高い系”がハマる ニセ医学が危ない!」

標準医療を否定して、矛盾だらけのトンデモ健康法に囲い込む「ニセ医学」がはびこっている。SNSで誰もが気軽に情報を発信できるようになり、それがカルト化しているようだ。筆者が危ぶむのはネットを中心に広がる反医療の「マイナーなニセ医学」である。ニセ医学ハマリ度チェックをやってみたら、結果ゼロ。大丈夫、ニセ医学にかすりもしない。わたしはその方面には詳しい。

ニセ医学にハマっている人はヒステリックな自然派で、能力が低い人ほど自分を過大評価する認知バイアスが働く。これを「ダニング=クルーガー効果」という。自分が信じたものは正しいと固執し優越感を持ち、周囲に否定されても「正しいことを知らないのだ」と見下す。能力はないのに自己評価が高く、それを周りにも認めさせたい。「意識高い系」と呼ばれるタイプの人に多い。

「意識が高い」人は常に向上心や責任感をもち努力する人だが、「意識高い系」の人は、自分はメディアリテラシーが高く、能動的に正しい情報を入手できると考えている。彼らはマスメディアや一般的な知識を否定し、手に入れるのがネットの片隅に転がる陰謀論だったりする。そして周囲を同調させようとする。

ニセ医学の発信者は代替医療(自然療法など)を商売にする人や、目立ちたいトンデモ系ジャーナリスト、講演や自費診療で儲けようとする医者などである。彼らが発信したニセ医学を、自然派ママなど「意識高い系」がどんどん拡散させる。ニセ医学信者は「量の概念」が欠如しているくせに、数字を自分たちに都合よく利用する。天然は身体に良くて合成は悪いとは、イメージでしかない。

合成されたものを食べると身体に良くないという考えは、さまざまなニセ医学がベースになっている。酵素栄養学もそのひとつ。超トンデモ論論である。酵素はそもそも栄養素ではない。酵素食品と発酵食品は別物である。「意識高い系」が愛用している「EM菌」は天変地異も治せるらしい。彼らが広める「反ワクチン」もデマ。「ワクチン=自閉症」のインパクトは大きかったが大ウソ。

予防接種は個人防衛に加え「社会防衛」効果がある。必要な予防接種は社会全体で受ける必要がある。子どもの予防接種を拒否する親がいるが、それは保護者の選択であり、実際に被害を受けるのは子どもである。インフルエンザの流行時期に予防接種を受けることは、社会生活を送る上でのひとつのマナーであると筆者は考える。激しく賛同する。ヘンな思想のバカ親には困ったもんだ。

世の中に、感染した方がよい病気などない。感染しないほうがよいからワクチンが作られる。反ワクチン運動は何のために行われているのか。代替医療や自然療法、スピリチュアルやオカルト系に導くためか。病気になったら、迷わず最も治療効果が高い標準医療を選ぶべきである。「転写」「波動」「共鳴」といった怪しい言葉を聞いたら、ニセ医学を疑うべし。最悪のニセ医学とは……

それは「ガンは治る」である。筆者は“沈むとわかっている藁をつかませる”ニセ医学を絶対に許さない。なかでも近藤誠医師の「がん放置論」は、がんは放置すべきという結果を支持するために、データを切り貼りしていると喝破。「具合が悪いときには、自由診療ではない医者の診察を受けなさい」「ネットの反医療論はどれも信じなくてよい」。ナイス、ニセ医学バスター。(柴田)

桑満おさむ「“意識高い系”がハマる ニセ医学が危ない!」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4594083056/dgcrcom-22/


●胃カメラ続き。様子を見に来た先生は、1分もしないうちに、血圧を上げる点滴を指示。え、私そんなに大変なことに? 緊張したからではないか、という話に落ち着いた。

ええ、私とても緊張しました。同じ姿勢だったし、邪魔にならないようにとなるべく動かないようにしました。たぶん以前の胃カメラや別の時も同じような事態にはなっていたのではないかと思います。自分ではそれをまずいとは思ったことなかったです。それなのに動いてもらって申し訳ないです、と心の中でつぶやいた。

数分後、少し上がってきたので、安心してもらおう、この場にずっといてもらうのは悪いなぁと「上がってきましたね」と言ったら、「そういう点滴をしたのです」と苦笑しながら先生がおっしゃって、いやそういう……ええ、まぁ、という気持ちになった。

麻酔をしたら30分は帰られないと聞いたから選択しなかったのに、点滴したらもっと時間取られるやん〜と思った程度にしか思っていないのだ。(hammer.mule)