[4969] 極太芯ホルダーの復活◇アントニオ・ダマシオ『意識と自己』を読んで

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《認識は感情である》

■グラフィック薄氷大魔王[647]
 極太芯ホルダーの復活
 吉井 宏

■ゆずみそ単語帳[27]
 わたくしといふ現象:アントニオ・ダマシオ『意識と自己』
 TOMOZO
 



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■グラフィック薄氷大魔王[647]
極太芯ホルダーの復活

吉井 宏
http://bn.dgcr.com/archives/20200311110200.html
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昨年7月後半の4回目の「ペンの持ち方フォーム改造」以来、「もう紙には描かず、板タブのみでヤル!」ってことで、調子悪くなかったのだが……。

板タブのみで描いた形を、紙に色鉛筆やコピックなどで大きめに描き直してみると、どれだけ時間をかけてもダメだったのに、数十秒で満足行く形に描けたりする。おかしいな、と何枚描いてもやはり紙に描いたもののほうが、のびのびしていい形になる。

あと、「ブルーライトはやはり目に悪い」って記事。同時に「ブルーライトは自然界にもあるから心配する必要はないと医学会では断言」って記事もあるけど、気になる。

Macのブルーライト軽減機能Night Shiftも使ってるし、色をちゃんと見る必要があるとき以外はいつも相当暗くしてるから、まんがいちブルーライトに悪影響があるとしても、最低限に抑えられてる自信はあるものの……。

とりあえず、そんな曖昧な理由でまた紙に戻ってみた。大きめに描く。コピー用紙や裏紙などにコピックで走り書きしてあったものを、2日かかって色鉛筆やダーマトグラフで本番用の紙(PMパッドなど)に「清書」。

今までずっとやってきた方法だけど、結末はわかってる。次第に紙に描くのがイヤになって「早くスキャンして板タブで作業したい!」ってなるに決まってる。案の定、そうなったw
http://www.yoshii.com/dgcr/rakugaki-IMG_2367

なんでイヤになるんだろ? 鉛筆や色鉛筆で描くには筆圧をかけなきゃいけないから、一日中やってると相当疲れるんだろうな。手を動かすのが億劫になってくる。翌朝に続きをやると、それほどイヤじゃないのはそういうことだろう。

筆圧がいらないコピックは素早く描かなきゃいけないから、ノリノリで描き飛ばす以外描きにくいし、水性のフェルトペンは乾いてないところを描くと引っかかるのが苦手。

他に筆圧がなるべくいらない筆記具は何だろうと探したら、極太芯ホルダーがあった。5.6mmで4Bか6Bの芯。重さもあるので力を入れなくても太い線が描ける。今まで、でっかく描きたいときに発作的に描いてみては「やっぱダメだ」って、あまり使ってこなかった。

写真上は学生時代に名古屋駅前のビルの画材屋で買った芯ホルダー。スペア芯も2セット買ったのに片方は未開封みたいなw
http://www.yoshii.com/dgcr/shinholder-IMG_2368

あと、走り書きドローイングは楽しいけど、それを紙で清書に近い形にまでもっていくのは無駄だなって。赤や青の色鉛筆で下絵を描いて、黒で清書。これ、二度手間というより三度手間。スキャンした後でPhotoshopで整えて、もう一度清書することになるから。

そんなの以前から気がついてるけど、どうしても紙の段階で「見れる」ものにしたくなっちゃうんだよなあ。アイディアが決まったら、極太芯ホルダーで走り書きし、さっさとスキャンするのが良さそう。

●極端に長持ちな消耗品など

学生時代に買った芯ホルダーと替え芯を、約40年も持ち続けてるのも大概かもしれんけど、これだけモノ減らしやってても、「特別な思い入れがあるから捨てられない」じゃなく、学生時代に買って現役で使ってる長持ちな消耗品がいくつかある。
http://www.yoshii.com/dgcr/nagamochi-IMG_2513

・ホッチキスの針

デザイン学校の授業では、パネル貼りやビニール貼りなどにホッチキスを多用。大きめの箱の針を買ったけど、まだ三分の一くらい残ってる。ホッチキスの登場頻度が減ってるので、使い切らないかもなあw ラベルに220円とある。現在の希望小売価格は税込み429円だけど、Amazon等では250円ほど。

・リキテックス金属チューブのブリリアントブルー(大)他

B1パネルを何枚も描くので、大きなチューブを買った。使い切らないうちにソフトタイプやラミネートチューブのリキテックスが登場したため、表舞台から退いた。フィギュアの塗装にまたリキテックスを使い始めたけど、レギュラーのリキテックスは使う機会がない。

・その他の長寿消耗品

惜しくも、つい先日使い切ってしまったカッターの替刃(大・お徳用)もあったな。行方不明の期間があり、別の替刃を使ってたのも長持ちの一因。高校のとき買った、Gペンやかぶらペンなどのペン先もある。シャープペンの芯など含めれば40年越えがゴロゴロw 封筒なんかも郵便番号の枠が5桁のものがいっぱい残ってる。


【吉井 宏/イラストレーター】
HP  http://www.yoshii.com
Blog http://yoshii-blog.blogspot.com/

新型コロナ。疫病除けに妖怪「アマビエ」の絵がTwitterで流行してて、僕もアップ。作りかけのTDWキャラの上半身がイメージにぴったりだったので、下半身を三本ヒレに改造。


ところで、「なるべく外出しないこと(正確には、人が集まる場所に行かないこと。通勤はしかたない)」に関して。

僕みたいに何か月も外出しないで制作してても平気で、「引きこもりです」と自嘲するような人が「変な人認定」される一方、「外で元気に遊ぶ」は無条件に良いこととされてきた。

昔から「部屋にこもってると、ろくな人間にならないぞ」という世間の圧力はずっと感じてきた。でも、ニュースなど見てると、「どんな状況でも、ダメと言われてても、熱があっても、外出せずにいられない変な人たち」という対極の存在が浮き彫りに……。

思い出すのは、6年生のある時の昼休み。某友達があまりにスラスラと上手く絵を描くのでくやしくて、教室に残って一心不乱に絵を描いてた。そこへ担任の先生がやってきて、「宏、外でみんなと遊ばないのか?」。ハッとした。

先生は、僕が外で遊ばず教室にこもって、一人で絵を描いているのを心配してるんだ! かわいそうな寂しい子供と認定されたんだ! カーーーッと頭に血が上ったのを覚えてるw (普段は活発な子供だったから、心配された可能性はあるw)

○吉井宏デザインのスワロフスキー

・三猿 Three Wise Monkeys
https://bit.ly/2LYOX8X

・幸運の象 LUCKY ELEPHANTS
https://bit.ly/30RQrqV

・SCS ペンギンの赤ちゃん PICCO
https://bit.ly/2JStbC4
 
 
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■ゆずみそ単語帳[27]
わたくしといふ現象:アントニオ・ダマシオ『意識と自己』
TOMOZO

http://bn.dgcr.com/archives/20200311110100.html
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●意識や思考の重層構造

ふだん、気にして生きてる人は少ないのかもしれないけど、意識や思考というのは、ミルフィーユみたいに、何重にも重なった構造になっている。

自分で自分の状態に気づいていなかったことに気づく、ってことは誰にでもわりとよくあるのではないかと思う。

イライラしたり急に不安になったとき、その原因を正確に特定できないのはふつうだし、自分が何かの強い感情に圧倒されているのに、ぜんぜん気づかずに生活していることだって珍しくない。

自分の感情や、それが身体に及ぼしている状態を細部まで完全に把握している人間はたぶんいない。感情だけではなく、「思考」だって完全に把握なんかできていない。

自分がぼんやりと「考えて」いることを言語化する作業には、けっこうなエネルギーが必要だ。

わたしは英語を日本語にする仕事をしているので、言葉の意味について毎日のようにうだうだ考え込むのだけど、英語で書かれたある考えを日本語に置き換えるときには、その考えを英語でも日本語でもない薄暗い領域にいったん引き取って、そこで日本語に合った形に整えてから明るい場所に出力する、という作業をやっている。

薄暗い領域に言語のかたちをとる前の段階の思考があって、言語はその上にのっかっているものだということを、二つの言語の間を行き来する作業のなかではわりと日常的に実感する。

日常的な行動の大部分も、とくに意識しないでやっていることが多い。歩いたり車を運転したりりんごの皮をむいたりといった作業は、最初はすごく難しくて全神経を集中しなくてはならなかったはずだけど、慣れてしまうと「身体が覚えて」いるのであらためて注意を向ける必要はない。

「意識」に対して「前意識」と「無意識」があり、人間の行動は「無意識」の領域でなにやらかなりの部分が決定されているという「局所論」を19世紀にフロイトが提唱して以来、人間には無意識という領域があってそこで何かが起きているんだということは常識になったけれど、じゃあそもそも意識や無意識って一体何なのよ、どういうしくみになっているのよ、という話になると、それから100年たった今でも結論が出ていないのだ。

脳神経科学者のアントニオ・ダマシオ教授が書いた『意識と自己』(講談社、Kindle版、2018年、田中三彦訳。原書『The Feeling of What Happens』1999年出版)は、その無意識/意識のメカニズムについて、脳科学の知見にもとづく、とっても納得の、わくわくするような仮説を紹介してくれている。

ダマシオ教授はそもそも、脳に障害を負った患者に正常人とはちがう意識状態が観察されることを手がかりに、長年かけてこの理論をみがいていった。

とくに欠神発作という症状を持つ患者の観察から、「意識とはなんぞや」と深く考えるようになったそうだ。

「意識を失う」というと、ふつうは深い睡眠や麻酔にかかったときのような状態をさす。まわりで何が起きているか一切感じられず、思考もなく、話しかけても反応しない。意識のスイッチがオフになっている状態。

でも、てんかんの一種である「欠神発作」の患者は、とつぜん数秒から数十秒、「覚醒しているのに意識のない状態」に入るのだという。その間、手に持ったカップからコーヒーを飲んだり、周りのものにさわったり、歩き回ることもあるが、話しかけても反応はないし、意識が戻るとその間の記憶はまったくない。

昏睡状態なのに目覚めている。まわりに注意を向けて行動することはできるが、それを意識していない。「そこにいるともいえるし、いないともいえる」奇妙な状態。

「注意」と「意識」が分離する状態があり得るということは、「注意」の機能と、自覚的・主体的に行動する「意識」のプロセスはそもそも別システムだってことだ。

この患者を観察したあと、ダマシオ教授は、意識が生まれるのに必要なのは「自己の感覚」じゃないかと考えるようになった。そして自己の感覚というのは「認識の感情」だという結論に達する。

●大きく分けると三層

ダマシオ教授は、人間の意識は大きく分けて原自己(proto-self)中核意識(core consciousness)【ここに中核自己(core-self)と自伝的自己(autobiographical self)がある】拡張意識(extended consciousness)に分かれている、という説を提唱する。

「私は、意識も注意もさまざまなレベルで起きていて、一枚岩ではなく、いわば上方へ向かうらせんの中で相互に影響しあっていると考えている」と、ダマシオ教授はいう。(1575)※Kindle版『意識と自己』掲載ページ 以下同※

意識のある人間のなかには、生物が進化するなかで比較的古い時代にできあがった脳の部分(脊髄、脳幹など)のはたらきと、わりあいに新しい部分(大脳皮質など)とそのはたらきが、互いに信号をやりとりしながら、ものすごく複雑で繊細なネットワークをつくっている。

そのネットワークの信号のやりとりのなかで、「イメージ」がニューラルパターンとして形成される。「イメージ」というのは視覚だけじゃなくて、あらゆる感覚器官から入ってくるすべての信号と、脳のなかで信号がつくるすべてのパターンをさす。

目にうつるもの、音、振動、香り、温度、動きの感覚、痛み、身体の内側で生じるさらに微妙な感覚。もっと上のレベルでは、記憶や感情なども「イメージ」の単位になる。

意識の問題は二つにわけられる、とダマシオ教授は言う。ひとつは、そういうイメージがどうやってできてくるのか、という問題。

こういうイメージは、意識のある間じゅう流れ続けている「脳内の映画」のもとになる。感覚器官や身体の中の器官から受け取る信号から、ニューラルパターンから、いったいどうやってこのようなイメージができてくるのか、という問題だ。

視覚を例にとると、網膜からはいった光が像を結び、さまざまなニューロンを次々に刺激するあいだにどうやって「イメージ」ができるのか。ひとつひとつのイメージ形成に、莫大な数の小さな部位と信号とプロセスがかかわっている。神経学の分野でかなり解明が進んでいるが、まだ肝心な部分は明かではない。

そしてもうひとつが「脳がどのように『認識のさなかの自己の感覚』(sense of self in the act of knowing)を生み出すのかという問題」だという。つまり、脳内の映画を見ている自分を認識する自分がどのように生まれるか、という問題。(162)
 
●意識と情動は切り離せない

ダマシオ教授の説で一番面白いのは、「認識は感情である」と喝破しているところだと思う。

そもそも情動・感情とは何か。

ダーウィンやフロイトは19世紀に情動を進化の文脈でとらえ、基本的な情動がいろんな生物のあいだに共通して見られることを指摘したが、それ以降、哲学でも科学でも情動はまともな研究対象として見られてこなかった、とダマシオ教授は指摘する。

哲学の世界でも神経学や認知科学の世界でも、情動というのは理性とは対極の関係にあって「完全に独立している」もので、考える価値すらないと考えられてきたが、これは「ロマン派的人間観にもとづく屁理屈」だ、とダマシオ教授はいうのだ(648)。また、意識や認知についての議論では長いあいだ、進化的視点、そしてホメオスタシスの視点が無視され続けてきた、と指摘する。

そして、情動は生命の維持(ホメオスタシス)にも、推論と意思決定のプロセスにも、なくてはならないシステムだという。情動とは、進化の古い段階で意識が生まれる以前から生命体に備わっていたものであり、個体にとっても、意識が生まれるために不可欠なシステムなのだ。

ダマシオ教授は、情動(emotion)と感情(feeling)を三つの層に分けて考える。まずは情動。これは意識以前に生命体に存在し、外側から観察可能な現象で、複雑な化学的/神経的反応により生じる。具体的には内臓や筋骨格の変化として外から観察可能。そして、情動が起きている本人には気づかないレベルで、つまり意識よりも前に起こる。

次に、もっと複雑な生物の脳内では、情動が「イメージ」になる。このプロセスも、本人が意識する前に自動的に起きている。

そしてこのイメージに脳が「気づいて」内的にとらえてはじめて、いわゆる普通にいう「感情」になる。

情動は、生物に備わっている代謝調節や反射作用などの「サバイバルキット」的な機能よりも上の層にあり、認識や理性といったもっと複雑な機能よりも下にあるプロセスで、生体調節装置の一部であり、生化学的に決定され、脳の諸装置に依存する、自動的に起こるニューラルパターンだという。

「意識的であろうがなかろうが、行動には情動とそれを支える生物学的機構が必ず伴う」(1003)とダマシオ教授はいう。

生命体のありとあらゆる行動、経験、思考のベースには情動があり、究極的に「生存指向」の行動をもたらしている。

つまり、生きるという目的のために身体にとって良い状態を保つ装置が情動で、その処理のほとんどは脳が「気づく」前に終わっている。

不快感や緊張といった身体全体の状態も情動の一種で、これをダマシオ教授は「背景的感情(background emotion)」と呼ぶ。こうした状態は「現在進行している生理的プロセスや環境との相互作用によって生みだされる内部状態の条件」により引き起こされる。(908)

人間の脳のなかで起こるすべてが生化学的&神経パターンの結果であり、そのもっともオリジナルなかたちが情動なのだから、認識、つまりは意識のはじまりも情動であるというのは理解できる。

●わたしの中のわたしの雛形

人間の身体には、細胞内の化学的特性と変化を感知してホルモンを分泌したり、腸、心臓、皮膚、血管などの平滑筋を収縮させたりして、身体を生存に適した一定の状態に保つ為の無数のシステムがあり、絶えず微細に連係しあっている。

ひとつひとつは「ほとんどがゲノムにより先天的にさだめられた」はたらきをする部品からなる、いわば複雑な交通システムみたいなものだ。

そしてその全体が脳と連絡をとりあっていて、脳内に完全な「ひな形」として存在する(389)。つまり脳のなかに、身体に対応するマップがある。

「この雛形は何も『知覚』しないし、何も『認識』しない。話もしないし、意識をつくったりもしない。この雛形は脳の中の一連の装置であり、その主たる役目は有機体の命の自動化された管理である」(412)

この自動化された自己管理機構を、ダマシオ教授は「原自己(proto-self)」とよぶ。これが、意識がはじまるのに必要な「自己の感覚」を生む装置だというのだ。

有機体の生存のために身体を安定した状態に保っている脳のさまざまな装置が、意識の「前兆」的存在。つまり、ミルフィーユのいちばん下の層、ティラミスでいうとレディーフィンガーにあたる部分だ。

ただし、この層は下にとどまっているだけではなくて、上の層や身体のほかの部分と、化学物質または電気信号をつかって活発にやりとりをしている。

ここでもダマシオ教授は、身体が「単一のシステムではない」ことを強調する。身体は「いくつかのサブシステムの組み合わせであり、その一つひとつが多様な身体的側面の状態について、脳に信号を伝達している」といい、そのサブシステムが進化の異なる段階で生まれてきたものであることにも着目する。(2588)

そのサブシステムの連係の中から、生命体の「物質構造の状態をマッピングしている、統一のとれたニューラルパターン」が生まれ、これが意識の前段階である「原自己」だというのだ。

●時間のなかの動的な存在

ダマシオ教授はこの原自己が生まれるのに必要なシステムは、脳幹核、視床下部と前脳基底部、島皮質、S2皮質、内側頭頂皮質などだと考えているが、ただし、これらの箇所に原自己が宿っているのではなく、原自己は「脳幹から大脳皮質までの多くのレベルに、神経経路により相互に結ばれたいくつもの構造の中で」多種多様の信号から、「動的に、継続的に生み出されている」と考える。(2674)

「動的に、継続的に」生み出され続けている信号のパターン。それが「自己の素」だというのだ。

これを読んですぐに思い出したのは福岡伸一ハカセの『動的平衡』。細胞、さらには分子のレベルで見ていくと、生命活動というのはアミノ酸の並べ換えであり、常にゆらぎ、物質的には激しく入れ替わりながら平衡を保っている、という解説だ。

「生命現象のすべてはエネルギーと情報が織りなすその『効果』のほうにある。……テレビを分解して精密に調べても、テレビのことを真に理解したことにはならない。なぜなら、テレビの本質はそこに出現する効果、つまり電気エネルギーと番組という情報が織りなすものだからである。そして、その効果が現れるために『時間』が必要なのである」(『動的平衡』福岡伸一、木楽舎、137ページ)

生命について福岡伸一ハカセはこう述べているが、ダマシオ教授も、意識が生まれる条件である「感覚的表象の統合」は、「おそらくタイミング機構に依存している」と述べている。意識が生じるには、時間が必要だということだ。

わたしたちという現象は、時間のなかで断続的に光っている信号なのである。

 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電灯の
 ひとつの青い照明です
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといっしょに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電灯の
 ひとつの青い照明です
 (ひかりはたもち、その電灯はうしなはれ)

 宮沢賢治『春と修羅』

宮沢賢治のこの詩を読んで、子どもの頃にひどく衝撃を受けた。なぜなのかは説明できないながら、自分という存在が「仮定された有機交流電灯の照明」のひとつであるという把握に、殴られるような衝撃を受けたのだった。

自分が、そして自分のまわりのあらゆる人たちが、自然界または人間の歴史という仮定された世界の中の、実体があるようなないようなネットワークの上で点滅しながら「いかにもたしかに」灯るあかりである、というのは、すべてを塗り替えるような世界観だった。その見方に圧倒されて、なんだかふわっと軽くなったような気がした。

わたしはダマシオ教授のこの仮説に、賢治が描いたこの世界観を連想する。生命が時間の中で動的な平衡を保つシステムなら、意識も、その前段階のシステムもしかり。いずれも、ゆらぎの中で生まれてくるものであり、確固とした「一枚岩の」存在ではない、というダマシオ教授のこの理論は、「わたし」という存在のありかたに、まったく新しい鏡を用意してくれたように思う。

「わたし」という存在とか認識とか意識とかっていうものは、不変ではないにしても、デフォルトでしっかりしたモノである、とわたしたちは漠然と考えて生活している。

社会制度も多くの哲学も多くの宗教も、「自分」と世界をとりあえず不変の存在だとみなしている。自分という存在は世界認識の基礎なのだから、フワフワ動いてしまっては困ることになる。でもわたしたちというのは実は、毎秒揺れ動く「現象」なのだ。

わたしたちの身体そのものが、無数の細胞がめいめいに忙しくはたらいて動的な平衡を保ち、部分が死んでは生まれ変わっている、ひとときたりともじっとしてはいない「現象」である。

そしてその上に乗っている「意識」も、無数の錯綜する電気信号や化学物質の信号のレイヤーがいくつも重なるという条件が整った上に「いまここ」で、はてしない点滅の連続として生じている現象なのだ。

言語や思考や性格というのは、さらにその上にのっかっているソフトウェアのようなもの。

「自分」が実はそんなたよりないパーツでできている暫定的な存在であるという考えはわたしにとってはとても衝撃的だったし、同時になにか解放されるような明るさを感じた。

これは般若心経にある「色即是空空即是色」ってやつと同じじゃないかな、とわたしはひそかに思っている。

わたしたちの世界というのは、個人的な内面のレベルから政治経済のレベルにいたるまで、ありとあらゆる物語で構成されている。

モノとしての自分も、自分の意識も、揺れ動く更新可能な存在なのだということを、賢治の詩もダマシオ教授のこの理論も、実感させてくれるのだ。

ちょっと話が壮大にそれてしまったが、ダマシオ教授の説、なかなか刺激的ではないでしょうか。

まとめると、

・意識は一枚岩ではなく、注意行動と意識は分離することもある
・脳内には身体感覚のひな形があり特定の脳の部位にそれぞれ表象されている
・「自分」のなかには、生命保持装置としての「原自己」、自己の意識が生じる「中核自己」、そして言語活動など理性のベースである「拡張自己」がある
・原自己は脳の比較的古い部分に、拡張自己は新しい部分に頼っている
・感覚も感情もニューラルパターンのイメージとして脳のなかにあらわれる
・身体と脳、脳の各部分はお互いに入出力を繰り返し、影響を与え合う、重層的な存在である
・認識は感情の一種としてあらわれる。意識には情動が不可欠である

といったところ。意識がどう始まるかについてのダマシオ教授の説は、また別のときにあらためてまとめてみたいと思います。


【TOMOZO】yuzuwords11@gmail.com

米国シアトル在住の英日翻訳者。在米そろそろ20年。マーケティングや広告、雑誌記事などの翻訳を主にやってます。

http://livinginnw.blogspot.jp/
http://www.yuzuwords.com/


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編集後記(03/11)

●偏屈BOOK案内:牧野愛博「韓国を支配する『空気』の研究」

2019年10月15日、サッカーワールドカップ・カタール大会(2022年)のアジア第2次予選H組、韓国対北朝鮮の試合が、平壌の金日成競技場で行われた。だが、5万人の収容能力がある観客席には一人の観客もいなかった。両国報道陣の姿もなかった。2018年9月、平壌のメーデー・スタジアムに金正恩と文在寅がいた。15万人もの熱狂する観衆がいた。文は感激した表情で7分間も演説した。

文在寅らの進歩勢力は、かつて軍事独裁政権と闘争した。進歩勢力にとって、北朝鮮は、「敵(軍事政権・保守)の敵」だから味方だと考えた。北朝鮮はどう見ているのか。韓国の知人が「都合の良い女なのだよ」と説く。金正恩にとって、文在寅はトランプの実態を教えてくれ、仲立ちもしてくれる重要なパートナーだったが、2018年6月に米朝首脳会議が実現すると変化が。

文政権の北朝鮮に対する提案はことごとく頓挫した。「北朝鮮を一方的に愛する韓国」という構図は、現在の南北指導者層にだけ当てはまる話であって、一般の人の持つ感情はもっと複雑だ。韓国の北朝鮮研究者が筆者に「過去、韓国の世論がもっとも否定的になった時期は?」と謎かけをした。答えられぬ彼に「2000年6月の南北首脳会議の直後さ」。金大中と金正日の初の会談だ。

南と北の経済格差が40対1の時代、統一したら北の人々の面倒をみるために税金がどっと増えるのではないか、貧困層が流れ込んで治安が悪くなるのではないかと考える人は多かった。既に分断から70年以上経つ。若い人を中心に「無理に統一する必要はないのではないか」と考える人が増えている。感情抜きにしても、「北朝鮮とどう向き合うか」はとてつもなく大きな課題になっている。

歴代指導者の行動を簡明に表現すると、朴正煕:パルリパルリ(早く、早く)文化の創始者、金泳三:実利を計算しない情と直感の人、金大中:日韓共同宣言を発表した冷徹な実利主義者、盧武鉉:コンプレックスが強かったパポ(馬鹿)、朴槿恵:孤立した「朴正煕の娘」の悲劇、文在寅:「悪いのは相手、自分は悪くない」という旧式思考……、と非常に興味深い読み物になっている。

2018年ベルギーで開かれたASEM首脳会議、文在寅も安倍首相も出席した。文はフィリップ国王の隣に着席する優遇を受けた。メインディッシュが終わると、文は周囲への挨拶もそこそこに退席してしまった。国王が同席した席を中座する等、想像もできない無礼な行為、常識外れに驚愕。その空席にはドイツのメルケル首相が座り事なきを得たが、韓国に向ける欧州各国の視線は冷え込んだ。

筆者が韓国がらみの記事を書くと、必ず右と左の両方から叩かれる。まったく同じ文章なのに、右は「韓国におもねっている」、左は「朝日のくせに韓国に冷たい。ウソの情報をもとに嫌韓記事を書いている」とけなされる。確証バイアスである。筆者の知人の編集者たちは「ほとんど専門家と呼ばれている人たちが空中戦を演じているだけだ」といい、結局ふたつの結論に分かれていく。

「韓国は日本とは似て非なる国だ。違う点があっても。不愉快になることもあるだろう。だが、日本人にも韓国人にも『情けは人の為ならず』という言葉をいま一度思いだすべきではなかろうか」となまぬるい言葉であとがきをまとめるこの筆者、やっぱり朝日新聞。よく見る「日本人として、自分たちはどうだろうかと胸に手を当てて考えてみたい」という文言。もういいよ〜。(柴田)

牧野愛博「韓国を支配する『空気』の研究」2020 文春新書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4166612484/dgcrcom-22/


●長寿消耗品に心当たりがありすぎる。/私も何ヶ月でも引きこもれる! 休憩時間に運動場に行くのが面倒くさい。帰宅してから外へ遊びに行くのが面倒くさかった。ただし、いったん出かけると、ついでにアレもコレもとハシゴする。/「意識は一枚岩ではない」に頷く。

/火事続き。隣の部屋が施錠してあって、安否確認ができない、○号室の人はいますか、と叫ぶ消防隊員。すぐそばに待機してらして、問題ないことが確認された。

その後、消防隊員に両脇を抱えられた男性が、指揮テーブルに。煙を少し吸ったとのことで、救急車へ。先に避難されていた高齢のご両親も一緒に移動し、全員の無事が判明。大事にならなくて良かった〜。(hammer.mule)