[2277] 無頼な作家が愛した映画

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<何も言わず殴ってやろうと決意した(まあ、決意だけですが)>

■映画と夜と音楽と…[346]
 無頼な作家が愛した映画
 十河 進

■Otaku ワールドへようこそ![58]
 私はUFOを見た!
 GrowHair


■映画と夜と音楽と…[346]
無頼な作家が愛した映画

十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20070921140200.html
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●ガンを公表して亡くなった無頼な作家

今年の五月、五十九歳で亡くなった藤原伊織さんの小説は、最初に「テロリストのパラソル」を読み、しばらく後に「雪が降る」という短編を雑誌で読んだ。調べてみると、「小説現代」1998年3月号の掲載だ。その「雪が降る」という短編が妙に心に残った。

藤原伊織さんは、直木賞を受賞してからも長く電通社員として二足のわらじを履いていたせいか、あまり作品は残していない。僕は「テロリストのパラソル」以来、どの小説も「そんなあ、ちょっと無理な設定だろう」と突っ込みながらも、肌が合うのかけっこう読んでいる。

長篇二作目の「ひまわりの祝祭」は、主人公がアートディレクター。彼は銃の名手である。「てのひらの闇」の主人公は元CMディレクターで、今はある企業の宣伝課長。しかし、ヤクザの組長の息子でもある。「シリウスの道」の主人公は、明らかに電通と思われる広告会社の営業マン。不思議な設定の「蚊トンボ白鬚の冒険」の主人公だけが配管工だ。

作家は、自分がよく知っている世界を選ぶ。藤原伊織さんは、やはり広告業界を背景にすることが多かった。僕が藤原作品にすんなり入れるのは、広告写真の専門誌編集部にいたため広告業界について少し詳しいからかもしれない。

だが、亡くなってから未読だった「ダナエ」「シリウスの道」「蚊トンボ白鬚の冒険」を読んでみたが、その文体と作家が持つ価値観(美学と言ってもいいけれど)に共感することが多いのだとわかった。藤原作品の主人公は、みんな無頼でありながら精神的にはストイックなのだ。

藤原伊織さんは、すばる新人賞を受賞した「ダックスフントのワープ」を含めて長篇六冊、遺作として出されている「遊戯」を含めて短編集三冊しか遺さなかった。しかし、どの本も僕には印象深い。評判は聞いていたが、「シリウスの道」は事件らしい事件が起こらないのに最後まで一気に読ませる力を持っている。

今年発行された短編集「ダナエ」にも感心した。画家が主人公の表題作が特にいい。美術関連のものをモチーフに使うことが多い人だったが、本人も美術大学への進学を考えていたほどだったという。しかし、美術大学をやめて、東大のフランス文学科に入った。その後、電通に入社するのだからエリートではあった。

しかし、「テロリストのパラソル」以来、どの小説からも無頼の気配が伝わってくる。本人がギャンブル狂だったのは有名だが、今年、文壇関係者が常連だという酒場で「あんな酔い方をする人は他にいない」と聞いた。呑んでいるうちに意識不明になるという。「四人の人に担がれて車に運ばれるのを目撃したわよ」と酒場のママが言った。

藤原伊織さんは僕より四歳年上で、完全な団塊世代。どちらかと言えば全共闘世代だ。「テロリストのパラソル」の中で、バリケード封鎖をしている校舎の屋上で主人公とヒロインが会話をする場面が回想されるが、それは間違いなく1969年1月19日に機動隊によって封鎖が解除された東大安田講堂だ。

その「テロリストのパラソル」は、リバー・フェニックス主演「旅立ちの時」(1988年)がなければ書かれなかったのではないか、と久しぶりに「旅立ちの時」を見直して思った。

●革命家の両親と共に地下生活を送る少年の悲劇

「旅立ちの時」が制作された1988年というのは、実に微妙な年だなあと僕は思う。全共闘が安田講堂を封鎖してから二十年めだ。二十年前、アメリカだって様々な大学で同じことが起こっていた。フランスの五月革命からも二十年たっている。その頃、日本はバブル景気に浮かれ、革命などという言葉は死語になっていた。

「旅立ちの時」は、そんな時代に革命をめざして闘う両親と共に地下生活を余儀なくされている少年の物語である。両親は全共闘世代にも多かった同志結婚である。革命をめざして先鋭化し、ベトナム戦争を終わらせるために兵器工場を爆破し、巻き添えで守衛に重傷を負わせてしまう。

彼らはFBIに追われ、二歳の長男を連れて地下に潜る。やがて次男が生まれる。その次男も今は十歳だ。彼らは単に逃亡しているのではない。革命組織に属し、組織からの援助を受けている。また、個人的にカンパしてくれる仲間もいる。そのひとりである歯科医は「僕は後ろめたいんだ。きみたちは闘い続けているのに…」と言う。その言葉が僕の世代には切実に響く。

「テロリストのパラソル」の主人公は、友人が作った爆弾の誤爆で人が死ぬ事件に巻き込まれ、二十年逃亡を続けている。今は新宿でバーテンをやっているが、朝起きたときからウィスキーを飲むほどのアル中である。ある日、中央公園でベンチに座っているときに広場で大爆発が起こる。その死者の中に、かつて愛した女と海外に逃亡していたはずの友人がいた…

おそらく「旅立ちの時」は藤原伊織さんに強い印象を残し、乱歩賞応募作品を書こうと決意した時にインスパイアされたのだと思う。なぜなら、「雪が降る」という短編には「旅立ちの時」が重要な映画として扱われているからだ。いや、「旅立ちの時」という映画のために書いた小説のように僕には思えた。

──「ところでお訊きしたいんですが、『ランニング・オン・エンプティ』って、なにを指すんですか」
 志村は顔をあげた。
 陽子とこの少年のあいだに、そんな会話があったのだろうか。いや、いま聞いた彼のたずね方からしてもそれはありえない。
「その英語、きみなら、どう訳すだろう」
「『空白の疾走』。それとも『虚無を駆ける』、かな」
 志村は思わず口もとがゆるむのを感じた。「きみのお母さんも、まったくおなじことをいってたよ。あの映画の邦題はほんとうにひどいって」

「母を殺したのは、あなたですね」というメールを受け取った主人公の志村が少年と会うシーンで交わされる会話である。この後、「旅立ちの時」と長男のダニーを演じたリバー・フェニックスの話になる。リバー・フェニックスはこの映画でオスカー候補になった。

●リバー・フェニックスを初めて見た「スタンド・バイ・ミー」

リバー・フェニックスは二十三歳で死んでしまったせいか、どの映画を思い出しても、その姿に悲しみが重なる。僕が初めて彼を見たのは、1987年のメーデーの日である。デモの後に見た「スタンド・バイ・ミー」(1986年)は、人生の悲しみに充ちた名作だった。

リバー・フェニックスが演じたクリスの死を報じる新聞記事を見て、作家になった主人公ゴーディの回想が始まる。貧しい家庭、不良の兄のせいで、クリスもワルと見られていた。その彼が努力して弁護士になったのに、つまらぬケンカを止めようとして巻き添えで死んでしまう。

今、「スタンド・バイ・ミー」を見ると、クリスの死に二十三歳で死んでしまったリバー・フェニックスの死が重なる。深夜の森で焚き火の淡い光を浴びながら、クリスが給食費を盗んだことを告白するシーンの悲しみがさらに高まる。彼はその金を教師に返したのに教師はそれをネコハバし、盗みの犯人としてクリスが停学になる。

当時、朝日新聞の映画評はまったくの新人について「リバー・フェニックスが出色で、男の色気さえにおいこぼれる」と絶賛した。その称賛に値するクリス役だった。まだ十代半ばの少年である俳優が感じさせる人生の悲しみに、僕も反応した。しばらくは、会う人すべてに「スタンド・バイ・ミー」を勧めた。

「ランニング・オン・エンプティ」の原題を持つ「旅立ちの時」で十七歳の多感なダニーを演じたリバー・フェニックスにも、終始、悲しみがつきまとう。名前を変え、他人の戸籍を借用し、引っ越しばかりが続く生活の中でダニーは、ピアノに自分の才能を見出す。

新しく入った高校の音楽教師がその才能を評価する。音楽教師の娘をダニーは愛し、娘も彼を愛してくれる。音楽教師はジュリアード音楽院を受けるべきだと勧め、ダニーも実技審査を受ける。だが、入学するためには前の学校の成績表などが必要になる。

「正体が明らかになり、おまえにはFBIが張り付き、二度と家族とは会えなくなる」と父は言い、「家族は団結すべきだ」とダニーの自立を認めない。母親はダニーの夢を知り、十数年も会っていなかった父親に会いにいき「ダニーを預かって」と言う。

──いい映画だった。
 エンドロールが流れ、狭い廊下にでたとき、志村は足をとめた。ソファにすわり、ひとり泣いている女性を見たからである。
          (中略)
「なんで泣く必要があるんだい」
「だって、母親のアニーがリバー・フェニックスとピアノを連弾するシーン。アニーが父親と十五年ぶりに会って話すシーン。あそこで泣かない人は人間じゃない」
「じゃあ、おれは人間じゃないかもしれない」

幸いなことに「雪が降る」のヒロイン陽子に、僕は人間として認めてもらえそうだ。僕もこのふたつのシーンでは、涙をこらえるのが大変だった。そして、将来に何も望めない生活に耐えるリバー・フェニックスの、悲しみをこらえた演技にこみあげてくるものがあった。

「ナイーブな」という形容詞は、リバー・フェニックスのためにあるのだと僕は思った。ジェームス・ディーンとリバー・フェニックス以外に「ナイーブ」という形容詞の使用を禁止したい。改めて「僕ってナイーブだから」と自分で言う輩は何も言わず殴ってやろうと決意した(まあ、決意だけですが)。

ちなみに、「雪が降る」というタイトルは、もちろんアダモの「トンブ・ラ・ネージュ」からとっている。雪が降ることでドラマが始まるのだ。藤原伊織という人はこういう使い方がうまい人で、「テロリストのパラソル」ではゴールデン・カップスの「長い髪の少女」が、「シリウスの道」では中島みゆきの「地上の星」が聴こえてくる。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
日本冒険小説協会会長の内藤陳さんの誕生パーティに参加してきました。会場か渋谷で夕方に駅前にいましたが、ちょうど駅の反対側では自民党総裁に立候補したふたりが並んで演説していたようです。近くの神社が秋祭りで、神主姿の人が行き交ったり、御輿が車道を練り歩いていました。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
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■Otaku ワールドへようこそ![58]
私はUFOを見た!

GrowHair
< https://bn.dgcr.com/archives/20070921140100.html
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ここ二〜三週間、UFOにつけ狙われている。私を拉致しようという魂胆らしい。外を歩いているときなど、ふと気配を感じて振り返ると、低空を円盤状の乗り物がホバリングしていて、側面から突き出た物質転送ビーム砲の銃口が発射のタイミングを見計らって私を追尾している。その度ごとに建物の陰などにさっと逃げ込んで、ぎりぎり難を逃れている。

UFOは全体がホログラフィックスクリーンで覆われていて、全方位カメラで撮った映像をリアルタイムで映し出しているため、あたかもあらゆる入射光がそのまま透過したかのような効果により、どこから見ても完全透明、見た目には何もないように映る。しかし、心の目というか、第三の目というか、存在を光によってではなく、重力場のゆがみによって感知する手段によれば、はっきりと姿を捉えることができる。

球形を上下から押しつぶしたような扁平な楕円体。直径10メートル、高さ3メートルほど。人のような形をした身長60センチほどのものが四つ乗っている。やつらの狙いは私の脳内妻、真紅らしい。テレビで自慢しすぎたようだ。

……てなことを本気で言い出すほど症状が進んではいないものの、このところオカルトの世界に引きずり込まれている。コミケで関わった同人誌「Spファイル」のせいである。

●「好き」と「信じる」の狭間で
「Spファイル」はオカルト的な不思議現象について、これでもかというほど語り倒す同人誌。毎年夏コミで新刊が出て四号目を数える。UFOの目撃談や超常現象の体験談を分析・解説したり、ゆかりの地を実地検分してレポートしたり。80ページほどの紙面のほとんどが細かい文字でびっっっしりと埋められている。大文字のSは「ハイ・ストレンジネス(とても奇妙な)」、小文字のpは「ロウ・ポッシビリティ(ありそうもない)」を表している。

今年の夏コミの号では、依頼を受けて、私も一枚かませてもらった。といってもオカルト方面に何の知識があるわけでもなく、担当したのは写真の撮影である。私の中では、同人誌を作る人たちはオタクの中でも一段高いところにいる。ネタ至上主義とでも言おうか、価値があるんだかないんだかよく分からないことに情熱のすべてを燃やし尽くす、崇高な精神の持ち主たち。チョイ役ながら、私も仲間に入れてもらえた気分。非常にうれしい。

門外漢の私に声がかかったのは、人づてによってである。知り合いの人形作家である美登利さんがまず引き込まれ、去年の夏コミの新刊向けに、人面魚を作っている。今年の新刊では、シモントン事件と称されるUFO遭遇事件をイメージした写真を載せようという企画があり、美登利さんを通じて撮影話が来たのである。札幌在住のプロのモデルであるみやびさんにお越しいただき、横浜にあるフォトスタジオ "StudioR310" で撮影した。
StudioR310 < http://r310.net/
>

「Spファイル」全体を通じて底流をなす独特のユーモアは、実にややこしいところに成り立っており、なかなか説明しづらい。執筆者はみんなオカルト話が大好きで、たくさんの書物を読み漁って豊富な知識を蓄えているが、だからといってすべてを鵜呑みにできるほどイノセントではなく、なまじ科学的知識や論理的分析力があったりするもんだから、話の粗雑なところはすぐに見抜けてしまう。痛烈な皮肉を投げつけてみたくもなるというものだ。

今年の号にも「直立二足歩行する人類、特にビリーバーと呼ばれる奇特な方々において、頭部に明確な二つの節穴がある。古くはコティングリー妖精事件において、紙を切り抜いて制作された二次元妖精の写真を名だたる紳士たちが声高に本物だと主張している。あまりの痛々しさに、撮影した二人の少女が真相の公表をはばかったほどである」とある。ついつい白熱しすぎる議論に対して距離を置いて静観するユーモア感覚である。

しかし、そんなに馬鹿にするのなら自分がその世界に入っていかなければよさそうなものではないかと思えば、そういうわけにもいかず、強い興味をもってのめり込んでいるわけだから、あんまり冷やかしてばかりいると、自分のまたがっている木の枝の元のほうを鋸で引くようなことになる。だけどもうそんなことはどうでもいいから、オカルトの世界を徹底的にほじくって遊び、ほじくりすぎて何もなくなってもさらにほじくって、しまいには何か出してしまおうという、すばらしいノリのよさなのである。

そのあたりを理解していなかった私は、去年の号では、見事なまでに企図にはめられた。

●オカルトを低くみていた

正直言って、私は、オカルト系に群がる人たちを心の中で低くみていた。超常現象を無邪気に信じるのも、意地悪く疑ってみるのも自由だけど、ただ、印象として、不思議な現象には執着する割に、正統派の科学には無関心なようにみえていた。真実にいたるための方法論に関する共通基盤が不在なのに、ただ熱いだけの真剣な議論を交わせば、紛糾して不毛な泥沼に陥りがちである。ならば関わらないのが賢明というものかな〜、と。

いや、妖怪や霊的現象のたぐいは迷信に属するもので、科学的に考えればいるはずがない、と主張しているのではない。それはそれでひとつの信仰にすぎず、科学はそんなことは言っていない。特に物理学は、帰納法という方法論を拠りどころにしており、これは観察された現実が先にあり、それらの膨大なデータに共通する法則をエッセンスとして抽出し、物理法則としましょう、という謙虚な方法論である。

帰納的法則に水戸黄門の印籠のような制圧力はなく、ここにあらせられるは法則様なり、自然はすべからくこれに従うべし、と振りかざしても効果はない。逆に、それまで正しいとされきた法則に反する現象が観察されたときには、法則のほうが修正を余儀なくされる。こうして科学は進歩してきた。

確かに、科学は雷が電気的現象だと解明してしまったし、月にはウサギがいないことを示してきた。これからすると、歴史的には、不思議な現象も次々に正体が暴かれていく流れだが、だからといって、最終的にはすべてのことに説明がついてしまい、神秘はなにひとつ残らないというところへ至るのかどうかは、誰にも分からない。

物質がまったく存在しないように見える宇宙空間でも、素粒子レベルで見ると、何もないところからエネルギーを借金して、粒子と反粒子のペアがポンと生まれたりするらしい。そして、一瞬のちには借金を返して消滅するらしい。ものがお化けのように突然現れたり引っ込んだりするのである。たまに運悪く、片割れのほうだけブラックホールに引き込まれて出て来れなくなり、もう一方が泣いて逃げてくることがあるようで、ブラックホールからもわずかな放射線が出ているように観察されるらしい。

こういう最先端の物理学のほうが、よっぽどオカルトっぽいと思うけどなぁ。なので、オカルトに対する真に科学的な態度は「判断保留」なんだと思う。

●小説の舞台をレポート

去年の夏の号の特集は、「駒木野の真実」。篠田節子の小説「ロズウェルなんか知らない」は、過疎化していく町を活性化しようと、UFOを観光の目玉に町おこしを企てる人々を描いているが、その舞台となった駒木野を訪れ、駒木野青年クラブのメンバーにインタビューしたり、駒木野円盤フェスティバルを取材したりして、レポートしている。

これがどれもこれも大変よく書けている。特に駒木野青年クラブの鏑木啓吾氏にインタビューした馬場秀和氏のレポートは秀逸で、ホレボレする。鋭い観察眼により情景の細部をよく捉え、そこから筆者や相手の心の動きを克明に浮き彫りにして、臨場感がある。TRPG(テーブルトークロールプレイイングゲーム)の世界では有名な人らしい。

先に着くバスで来る相手を待たせては失礼だからという奥さんの助言を聞いて一本早い電車で行ったところが、駅前に本屋すらなく、一時間近くの時間つぶしに困る。タクシーが一台、辛抱強く客を待っている。余計な期待を抱かせないよう、遠巻きに歩く。そんな寂れっぷり。

裏返ったような高い声でぶしつけにものを言う鏑木という男は、大手出版社からのインタビューだと勘違いしてやってきて、同人誌だと聞くと露骨に面倒くさそうな態度を表し、気まずい空気が漂う。しかし、「Spファイル」の説明をすると急に機嫌がよくなる。「これは同類を見つけたときの顔だ。いや、"自分より格下" の同類を見つけたときに、器の小さい人間が見せる、あの笑いだ。私はこの品のない笑顔をよく知っている」。

私はこれを読んで、その情景を確認しに行ってみたくなり、行き方を調べようと、ネットを検索してみた。そして、二人が待ち合わせたというJR三坂駅は実在しないことを知る。鏑木氏も、駒木野も、UFOフェスティバルも...。一冊丸ごとみんな巧妙なでっち上げ。やられた。

●怪しい者です

さて、前置きが長くなったが、最新号の特集は「なければ創ろうUFO事件」。ちなみに、第三号の次が第五号なのは「マイナー同人誌に四号なし」(三号目でたいてい力尽きる)の法則を逆手にとったシャレである。

巻頭言で馬場氏は、このところ深刻化の度合いを増している数々の社会問題、例えば所得格差、いじめや自殺、少子高齢化、失われゆく自然、荒廃する心などなど、の原因は、UFO事件が少ないことにあるのは明らかだ、としている。そして、「嘆くばかりでは何の解決にもならない。こちらから積極的に創っていくという前向きな姿勢が求められるのだ」と訴えている。「そう、本特集を読めば、誰にでもUFO事件は創れるのだ」。

奇妙な写真を主体とした別冊付録では、シモントン事件をイメージした(茶化した)写真を載せている。この事件は数あるUFO目撃談の中でも屈指のトホホ系である。1961年4月の昼前、アメリカに住む60歳の農夫ジョー・シモントン氏は、騒音を聞いて庭に出てみると、円盤型の物体が地面すれすれに浮いていたという。開いたハッチから、中に三体の異性人が見え、バーベキューをしている。一人が水差しを差し出すので、水を満たして返してあげる。パンケーキを焼いているので、欲しいと言うと、四枚くれる。後で政府機関に分析してもらうと、地球外の材料から出来ており、塩分が不足していて、味はまるでボール紙のようだったという。

もともとおかしい話なのだが、「Spファイル」はさらに脚色を加える。シモントン氏を、頭の足りなそうな若い女の子で置き換える。メルヘンチックに装飾したリビングでソファにもたれ。まずそうなパンケーキを食べている。あたりにはUFO関連の本がいっぱい散らばる。

宇宙人のアルラと交信しているという彼女の日記は、絵文字やギャル文字だらけ。「これわぁすっごぃ事イ牛なんだぉ! UFOがぁとんできてぇ、ぉ水あげたんだってο そしたらね、パンケーキをくれたんだけどぉ、ダンボールみたぃな味がしたんだって☆ アルラがぉしぇてくれなぃから、成分を分木斤しちゃったよぅο ぉ女家にぃけな〜ぃο」こんな感じ。

その写真を私が撮ったのである。札幌在住のみやびさんはプロのモデルで、有名な写真家に撮ってもらったこともあるという。今回は、「魔女の会」とやらで東京に来たついでを狙っての撮影。魔女の会の人たちも二人見学に来ていて、お互いに「怪しい者です」と自己紹介しあう。

コンセプトをみやびさんに伝えるのに、美登利さんが機転を利かせてくれた。上記の日記を実にそれっぽく読み上げてくれたのである。もう空気が和んで和んでしかたがなかった。こんなんでよかったんだろうか。みやびさんも、こんな和気藹々とした撮影は初めてだという。うっ。やっぱユルユル過ぎましたかね? しかし、編集のペンパル募集氏(この名前はウンモ星人が郵便で人類にコンタクトをとってきた事件にちなんでいる)は喜んでくれて、当初の予定を大幅に超えて、五枚も使っていただけた。結果オーライ。

今にきっと、「Spファイル」が起爆剤となって、UFO話がニュースを席巻し、日本は平和で安泰、世界的にもUFO大国としての地位を揺るぎないものにして、各国から特別の眼差しが注がれる日が到来することであろう。

「Spファイル」 < http://sp-file.qee.jp/
>
馬場氏のアーカイブ < http://www.aa.cyberhome.ne.jp/%7Ebabahide/bbarchive/
>
みやびさん < http://www.xie-works.com/
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【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
怪奇写真家。前回話題にした直江雨続君は、将棋会館で指してきたそうで。あの場所は空気を吸ってくるだけでも1級分ぐらいは強くなる。だけど、対局したとは、勇気あるなぁ。女子高生からはいいように遊ばれ、7歳の坊やからはコテンパンにのされ、うつむいてぶつぶつ言いながら千駄ヶ谷駅に向かう羽目にあうかと思いきや、意外と踏ん張った。鈴木環那女流初段の「すごいじゃないですか!」を脳内エコーさせて、すっかり気をよくしている。1級認定。今週末は風間加勢氏(アマ4段)のお家におじゃまして、将棋大会。自称初段の私は、雨続君にはまだ負けるわけにはいかん。
雨続君のブログ < http://ametsugu.no-blog.jp/
>

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■編集後記(9/21)

Adobe Acrobat 8.0 Professional 日本語版 Macintosh版・昨日の新聞に一ページ全面をつかったADOBE ACROBAT 8の広告が出ていた。NEW LEADER、NEW STYLEという英字が大きくつかわれ「あなたのチームは、進化しているか。」というのがメインコピーらしい。「チームの力を、個人の能力の足し算で語る時代は終わりをつげた。これからのチームづくりに必要なもの。それは一人ひとりの個性や知を掛け合わせることで、チーム全体の力を何倍にも高めるという考え方だ。」そのために、あたらしいワークスタイルの実現に向けて、ADOBE ACROBAT 8を導入しましょう、という広告らしい。言ってることは理解できるが、具体性はまったくないイメージ広告である。わたしは、ACROBATの発明はノーベル賞ものだと思っている。いままでもその恩恵に浴してきたし、いま進行中の冊子編集仕事にも、これはなくてはならない存在だ。しかし、この新聞広告の説得力のなさはどうだ。ACROBATファンとしては情けない。URLが記載されているのでアクセスする。このサイトでは、あるプロジェクトチームの5つのストーリーが展開されていた。音声ONでいけば、5人の声とテキストと、ちょっとコミカルな動画でそれぞれの仕事におけるPDFの発見と活用が語られる。これはかなりおもしろい。わたしは今まで出版におけるPDFの活用は知っていたが、一般の会社のプロジェクトにおける活用はよく知らなかったからだ。このサイトの説得力はある。見てよかったと思う。しかし、常に顔をつきあわせているたかだか5人のチームで、会議をPDFにする、PDFで意見交換をするってのも、たしかに有効だと思うが、5人が揃っていてみんなが黙ってそれぞれのパソコンで会議している場面を想像するとおかしい。最後にチームリーダーのムービーが出てくる。これは珍妙。ちゃんと口をあけて、ひとりごとを言いながら室内を移動している。かなり不気味だ。このサイトを見て、また会社員やりたいと思った(笑)。(柴田)
< http://www.acrobat-style.jp/
> ADOBE ACROBAT

・小川アリカさんの個展に行って来た。クレイアニメ映像やCG作品は見たことがあって、展示物もそうだと思って出かけたら、主に立体物が展示されていたので驚いた。携帯で撮影したので画質が悪いのは許して。キャラクターの生き生きした感じ、かわいらしさ、色彩などは生で見て欲しいな。キャラの顔やポーズだけで性格までわかっちゃいそう。クレイアニメの時にブロンズ像のように見えていたキャラクターの手足が柔らかくて自由に動いてびっくり。そりゃそうだな。「守ってあげたい」はぜひ裏側を見せてもらって。今日届いたばかりという山田正紀「白の協奏曲」(双葉社)と、その表紙の立体物もあった。普段はクライアントに立体物をあげるらしいんだけど、これは小さいから戻ってきたみたい、とのこと。えー、もらえるなら発注したいよ〜。マメマジロやあれやこれらが欲しい……。立体物って何故あんなに説得力があるんだろう。十河さんや永吉さんの連載が書籍になった時、見慣れたモニタ表示やプリンター出力ではないからか、急に質量が「現実感」にかわってて、インクの匂いがして。触れるのって楽しい。CDが一番完成度が高いとか、DVDで見たらいいといって、ライブや舞台を見に行かないという人がまわりにいるけれど、違うんだって、空気なんだって、臨場感なんだってと話すことがある。CGや写真や映像はその空気ごと切り取るために、そしてその現実以上のものを見せるために腐心するわけで。脱線した。アリカさんの世界、ぜひ体験してみてください。(hammer.mule)
< https://bn.dgcr.com/archives/20070910140100.html
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小川アリカ作品展
< https://bn.dgcr.com/archives/20070921140300.html
> 会場写真
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< http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/457523592X/dgcrcom-22/ref=dp_image_0
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