[2315] シンプルな人生観で生きたい?

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<デカルトあたりからやりなおそうよ>

■映画と夜と音楽と…[354]
 シンプルな人生観で生きたい?
 十河 進

■Otaku ワールドへようこそ![62]
 現実を離れて思索をめぐらす
 GrowHair


■映画と夜と音楽と…[354]
シンプルな人生観で生きたい?

十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20071116140200.html
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●撮影直前に制作中止になる映画はどれくらいある?

馳星周さんの新作が書店が平積みになっていた。馳さんは、現在、軽井沢に住んで、著述に専念しているらしい。僕は最初に評判になった「不夜城」しか読んでいない。金城武が主演した映画版(1998年)も見たが、人がむごたらしく死ぬし、ちょっと救いがないところがあって苦手だった。

先日、新宿ゴールデン街の酒場「深夜+1」にいたら、「ここが馳星周がいた酒場?」と言いながら入ってきた二人連れの客がいた。もう二十年近く昔になるのだろうか。馳さんは「深夜+1」のカウンターに入っていた。その頃の馳さんは地味な人だったとも聞く。

今も三人の若者たちが交替でカウンターに入っている。みんな、早稲田の学生らしい。そのひとり、K太郎クンは映画を志していて、今年、初めて現場に入れるということで夏前から張り切っていた。フォース助監督なのだという。何の映画か聞いたが、「まだ公表できなくて」という返事だった。

秋から本格的な撮影に入るということだったが、先日、カウンターに入っているので「あれ?」と思ったら、クランクイン直前に制作中止になったという。「それは残念でしたね」と僕は言ったが、本人はそれほど落胆している風には見えなかった。撮影直前の制作中止は、よくあることなのかもしれない。

映画は、クランクインまでの準備にも時間がかかる。しかし、その段階では動いているのは制作者、監督、助監督などそれほど多くはない。ところが、クランクインすると各パートのスタッフ、キャストなど、一日に拘束する人数は数十人に膨れあがる。

以前、東映Vシネマの担当者に聞いたら、Vシネマ規模でも一日最低五十万円はかかるそうだ。劇場公開の映画なら数百万の単位で金が消えていく。そのため、制作中止になるのはクランクイン直前が多い。制作に入るか中止するか、ギリギリのところでの決断を迫られるからだろう。

吉田喜重監督がテレビのインタビューで、クランクイン初日に制作中止になったときの無念さを語っていたことがある。美術スタッフがセットをきれいに拭きあげたところで制作中止が知らされ、全員が悔し涙を流したエピソードを披露していた。

制作中止の原因は、制作費が集まらなかったことである。ほとんどそれだけが原因だ。K太郎クンがフォースにつくはずだった映画も、おそらくそうなのだろう。フォース助監督はカチンコを叩くので、数万円するカチンコを自分で買ったと話していたが、内心は悔し涙にくれていたのかもしれない。

●シンプルな人生の目的を吐露した凶暴なヤクザ

K太郎クンは、さすがにいろんな映画をよく見ていて、セリフもよく覚えている。先日、「仁義なき戦い 広島死闘篇」の大友勝利(千葉真一)のセリフを口にしたときは、ちょっと驚いた。もちろん、印象的なセリフだから僕もよく覚えているが、下品な卑語なので僕はとても口にできない。しかし、そのセリフをK太郎クンは、実に優雅に爽やかに、すらっと口にした。育ちの良さがうかがえた。

「仁義なき戦い 広島死闘篇」は昭和三十年(1955年)頃の広島で、博徒の組とテキ屋の組が抗争を繰り返した事実をベースにしている。テキ屋の組の二代目が大友勝利で、この男は「仁義なき戦い」シリーズ中、最も凶暴でめちゃくちゃなキャラクターである。

大友勝利は「仁義なき戦い 完結篇」にも登場するが、この時は宍戸錠が演じた。年老いても大友勝利は徹底抗戦を主張する武闘派で、人の下につくのをよしとせず、自分が天下を取ろうとするのだ。単純といえば単純で、力だけを信じて生きている男である。老獪な策士にのせられて自滅する。

若き日の大友勝利は博徒の組と抗争を起こし、父親であるテキ屋の大親分に叱られると、その父親にくってかかる。その態度はまるで狂犬だ。そのときのセリフが次のようなものだった。ちなみに「あれら」とは、対立する組のことである。

──あれらのホテルで何売っちょるか、知っとるの。淫売じゃないの。
  いうならあれらは○○○の汁で飯くうちょるんど。

K太郎クンは、この「○○○」を含むセリフを実に優雅に口にしたのだ。この三文字は西の方で一般的に流布する卑語で、「仁義なき戦い」シリーズでは頻繁に使われる。ただし、テレビ放映時には必ず音を消される。WOWOW放映時の録画テープで確認したら、千葉真一が「お……」と無音で喋っていた。

それにしても下品極まりないセリフだが実に絶妙で、脚本を書いた笠原和夫の筆が絶好調だったことを実感する。出てくるのがみんな極道ばかりだから、自然、セリフは下品で直接的なものになる。「仁義なき戦い」シリーズがヒットしたのは、彼らが喋る広島弁に負うところが大きい。広島弁で語られることで、微妙なユーモアが醸し出されるのだ。

さて、先ほどのセリフを口にした後、大友勝利は怒鳴るように言う。これも印象的だった。
──わしらうまいもん喰うてよ、
  まぶいスケ抱くために生まれてきとるんじゃないの。

実にシンプルな人生観である。わかりやすい生きる目的である。僕は、初めて見たときに、このセリフが最も印象に残った。こんな風な人生観だけで生きていけたらどんなに楽だろうと、心底羨ましかったものだ。まだ、社会人になる前、二十一歳のときだった。

大友勝利は「人生の目的は何だろう」「人が生きるのはどういう意味があるのか」などと悩むことは絶対にないだろう。彼は食欲と性欲を充たすために生まれてきたのだと断言し、そのためには金がいるのだと父親に言い募る。金を手にするために広島の縄張りを博徒の組から奪って何が悪い…。実にシンプルな論理だ。

●「欲望」を人生の目的にすることは虚しい

二十一歳の僕が大友勝利の「わしらうまいもん喰うてよ、まぶいスケ抱くために生まれてきとるんじゃないの」というセリフを聞いて、羨ましいと思ったのは、自分が絶対にそんな価値観では生きられないと思っていたからだ。それは人生観というより、獣の本能だった。

しかし、その言葉に含まれるある種の真実を僕は感じ取り、自己韜晦的に口にしたくなることはある。酔っ払って、「人生に意味なんかない。うまいもん喰って、まぶいスケ抱くために生きてるんだ」と大声を出し、真面目な同僚を驚かせ、女性の同僚に嫌われた若き日もあった。

しかし、僕が本当にそう思っているのなら、別の人生があっただろうと思う。こんな文章を書き続けることもない。本も読まないし、映画も見ない。権力をめざし、上昇志向だけで生きてきただろう。現世利益だけを信じて、金に汚く、いい女を見れば口説いたに違いない。

ところが、僕は大友勝利のシンプルな人生観に対抗する、それを否定する有効な論理を持たないのだ。「人はパンのみにて生きるにあらず」とか、「しっかりしていなければ生きていけない。優しくなれなければ生きていく資格がない」とか、それらしいフレーズを浮かべても決定打はない。

そんなとき「わしらうまいもん喰うてよ、まぶいスケ抱くために生まれてきとるんじゃないの」という強烈なフレーズに含まれる一面の真実が僕の中で膨れあがる。実際に、そんな人生観だけで生きている人間を見たら、嫌悪感でいたたまれない。彼らの多くは、自分の欲望を満たすことだけを考え、他者に対する想像力を持たない。

そこまで考えて僕はわかった。少なくとも僕は「うまいもん喰って、まぶいスケ抱く」だけでは生きていけない。というか、うまいもんは食いたいが「まぶいスケを抱く」ことには価値を感じないのだ。僕を必要としてくれる人でなければ、何の意味もないと思う。

人は、他者との関係の中で生きる。生きざるを得ない。「まぶいスケ」と出会ったら、好きになってほしいと願う。他者を意識すると、自分の存在意義を問う。自分は人の役に立っているかと検証する。人の役に立っていることが実感できたときには、深い満足感を味わう。存在理由が確認できたと喜ぶ。生きている意味があったとさえ、思う。

「うまいもん喰って、まぶいスケ抱くために生まれてきとる」という人生観で生きている人も、まともな人間なら仕事をして金を得ようとするだろう。そのときに、人は仕事で「世のため人のため」に役立っていることを実感したいし、きつい仕事をやり遂げた達成感を味わいたいし、多くの時間を費やしている仕事なのだから充実していたいと思うはずだ。

だとすると、その人の生きる目的は、もう「うまいもん喰って、まぶいスケを抱くため」だけではなくなっている。おそらく、やむを得ず始めた仕事の中で、何かの「目的」を見付ける。それを「夢」と言ってもいい。「夢」を持たない人生は辛い。毎日が味気ない。死ぬまでの時間をつぶすだけの人生になる。

いろんな人が生きている。それぞれの価値観、人生観がある。「夢」や「目的」だって様々だ。平穏無事に大過なく家族が幸せに暮らせることが夢の人もいれば、ビル・ゲイツのような成功を収めることが夢の人もいる。K太郎クンのように、映画制作の世界で生きていくことが夢の人もいる。

だから、きっと「欲望」を「夢」と勘違いしてはいけないのだ。人生に意味はない、と僕も思う。しかし、「うまいもん喰って、まぶいスケ抱くために」だけ生きるのでは、何だかさみしい。シンプルな生き方には憧れるが、少しは考えながら自覚的に生きていたい、と思う。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
写真家の管洋志さんが新潮社から写真集「奄美—シマに生きて—」を出版し、写真展を開催しています。先日、久しぶりにニコンサロンのオープニングパーティに出席してきました。管さんに最初にお会いしてから三十年になりますが、印象的には変わらない人だなあ、と改めて思いました。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
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■Otaku ワールドへようこそ![62]
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●定義を定義する

私は数学を専攻したせいか、「オタクの定義」のように「定義」という言葉をけっこう気軽に使っている。しかし、世の中一般には、めったに使うことのない、難しい部類の語のように思われているのかもしれない。ならば、というわけで、軽〜く解説してみたい。

あるものを定義するというのは、それがどういうものかを、他のものと区別がつくように、明確に述べることである。要するに「〜とは何か」を述べたものが定義である。試しに「傘」というものを定義してみよう。

「傘とは、戸外で雨に濡れるのを防ぐために、柄の部分を手に持って、シートの部分を頭上に広げて使う用具である」ぐらいに言っておけば、だいたい定義になっている。

ここまでは、そんなに難しくないのではないか。難しいのは、数学で「円」を定義せよ、と言われて、「正確な丸い形」とか「月やスッポンに共通に見られる輪郭の形」と答えたのでは駄目で、「一点から等距離にある点からなる集合」とやらなくてはならないあたりにあるのではなかろうか。なぜ簡単なことをわざわざ難しく言い換える必要があるのか。

ものを定義する際には、原則がいくつかある。まず、定義しようとしているものを、定義の中で使ってはいけない(※)。例えば「傘」を定義するのに「傘状の形をした」なんてやってはいけない。これでは話が回ってしまう。こういうのを「自己撞着」(正確には「自家撞着」)という。

※ 例外はある。再帰的(recursive)な定義というのがある。「階乗」を定義するのに「1の階乗は1である。nの階乗は、(n−1)の階乗にnを掛けて得られる数である」と、「階乗」の定義の中で「階乗」を使っているが、これでぎりぎり定義になっている。

ちなみに、「再帰的な論文」というのがある。ある論文の参考文献の欄にその論文自身が参照されているとき、これを再帰的な論文という。そういうのは実際にあった。直接ではないが、一人の著者が同じ論文誌に同時に二本の論文を寄稿していて、それらが相互参照しているのである。これは読み終わることができなくて困った。

論文Aを読んでいると、途中で「論文Bを参照」とあるので、そっちを読み終わってから戻ってこようと論文Bを読み始める。すると途中で「論文Aを参照」とあり、ならばそっちを読み終わってからと思い論文Aに行くと、「論文Bを参照」とあり...。無限ループに陥ってしまった。リセット、リセット。

二つの定義の間でも、自己撞着を起こしてはいけないという原則がある。Aを定義するのにBを使い、Bを定義するのにAを使ってはいけない。先ほどのように「傘」を定義したのであれば、今度は「雨」を定義するのに「雨とは傘をさす必要が生じる天気」のようにやってはいけない。

この原則を守ると、「傘」を定義するのに「雨」が出てきて、「雨」を定義するのに「水」が出てきて、「水」を定義するのに「液体」が出てきて、……というように、たどっていけば、より基本的な単語へと向かっていく。

Aを定義するのにBを使っているという関係をA→Bのように書くことにすると、傘→雨、雨→水、水→液体となり、これをどんどん続けていけば、結局、あらゆる単語が矢印で結び付けられ、しかも、全体のどこを見ても、矢印をたどっていったときにぐるっと一回りして元に戻る箇所がひとつもない、壮大な言語体系が構築されるはずである。

辞書というものはたいてい知らない単語を引くものであるが、たまにはよく知ってる単語を引いてみると、これが実に面白い。暇な方は、辞書を引き引き、この体系を作ってみてはいかがでしょうか。もっとも辞書の場合、単語を定義するものではなく、単語の意味を説明するものであるから、そんなに厳密にはできていなくて、実際にはそこいらじゅうでループしているので、参考程度のものです。

さきほどの矢印をもっとたどっていったとき、最も基本的な単語というのはどの辺に行き着くのか? 液体→物質→存在→空間。辞書では、もうこの辺で回っている。そりゃ、単語の数は無尽蔵ではないから、いつかは必ずこういう行き詰まりの単語に行き着くはずである。

だけど、これはゆゆしき事態である。定義というのは、分かっている概念を材料として使い、新しい概念を次から次へと構築していく体系であるから、空間や存在が分からない、となると、物質も分からない、液体も分からない、水も分からない、雨も分からない、傘も分からない、ということになり、結局何もかも分からない。体系が総崩れしてしまうのである。世界の崩壊。

「言葉」を定義するには「言葉」という言葉を使ってはいけないだけではなく、どんな言葉を使ってもいけないのだと思う。「言葉とは、今ここでこうして使っているもの」とやったのでは、やはり自己撞着っぽい。だから、言葉の体系の外から何かを借りてこないことには「言葉」という概念は定義できないのである。だけど、概念を表現するものとして、言葉以外にいったい何があるというのだ? ここら辺に言葉の限界が見える。

幸いにして、我々には現実世界があるので、なにも存在や空間といった根本から説き起こさなくても、実際に傘立てに入っている傘を差して、「これも傘だよ」「あれも傘だよ」とやれば、それらの共通項から「傘」という概念にたどり着くことはできるので、現実の生活上は意味の伝達に困らない。だけど、それは現実世界あっての言語体系ということであって、辞書のように現実世界を切り離して言葉だけで閉じた体系を作ろうと思うと、何もかも、まったく意味をなさくなるのである。

あ、それで先ほどの「円」の定義の話。数学は数学で閉じた体系を構築しようとしてきた。閉じた体系だから、外から月やスッポンを借りてきてはいけない。それと、数学の中で定義が回るなんて間抜けなことは絶対にあってはならない。定義を次々にたどっていくと、最後には「点」とか「距離」といった無定義用語に行き着くようになっている。この体系に違反しないためにも、「円」はぜひとも「一点からの距離が一定な点からなる集合」のようにやっておく必要があるのである。

数学がある程度分かる方に向けて、ひとつ注釈しておこう。通常「距離」と言えば、幾何学的な空間の中にある「点」と「点」との間に生じる量であるが、「点」や「距離」自体は無定義用語である。いま、関数f(x) をある種の「点」であるとみなして、ここへ「距離」という概念を新たに導入する。関数 f(x)と関数 g(x) との間の「距離」とは、f(x) と g(x) との差の2乗をxについて0から1まで積分した値の平方根のことである、と勝手に決めちゃう。そうすると、f(x) の2乗をxについて0から1まで積分した値が1になるような関数 f(x)全体の集合というのは、原点を中心として、半径が1の、れっきとした「円」なのである。月やスッポンのような丸っこさなんて、影も形もない。こういう比喩的な「円」までもが堂々と市民権を授かれる自由さが、数学の面白いところである。

●存在と認識

ソクラテスの「無知の知」ではないけれど、我々は本当はものを何も知らないのだ、ということを一度認識してみるのはよいことなのかもしれない。さきほどどん詰まりに陥ってしまった「存在」と「空間」をはたして我々はどれほどよく知っているか? まわりを見回せば、時計だの電灯だの、ものがあふれかえっているわけだから、それが存在していることぐらい、感覚的によく分かる。それらの存在を入れている広がりが空間であるから、これもよく分かっている。そんな感じがするかもしれない。

だけど、存在は視覚や触覚といった感覚を通じて認識されるのであって、その頼みの綱の感覚は時としてさほど当てにならないことも知っている。鏡に映った像やレンズを通して見える像、ホログラムで浮かび上がる立体映像などは、あたかもそこにあるように見えるが、そこに実体はない。

物質は分子という単位が大量に寄り集まって構成されていることを、我々は習って知っているが、その感じを感覚的に受け入れることができているだろうか。分子はさらに原子からなり、原子はさらに原子核と電子からなり、原子核はさらに陽子と中性子からなることも、我々は習って知っている。とりあえず陽子や中性子や電子を小さなパチンコ玉みたいなものかと想像して間に合わせてみるが、現実にはどんなふうかなんて想像の域外のことだ。

多分、そこに何があるというわけではない。おのおのの素粒子の中心位置がこの辺にあるという位置座標があり、お互いにこれだけ離れていればこれほどの力が働くはずだというポテンシャル関数があるだけ。つまり存在と言ったって、そこに実体として何かカチッとしたものがあるというものではなく、あるのは座標とか関数とかエネルギーといった抽象的なものであって、各存在単位が相互に働きあって運動しているという現象だけなのである。硬いだのやわらかいだのといった触覚だって、そういう原子間の相互作用の総体である。結局、存在の本質って、とてもつかみづらいのだ。

そこが分からないせいで、連鎖的に何もかもが分からなくなって、世界観が崩壊してはかなわないから、それを何とかするために哲学はあるのだ。デカルトは、我々の感覚が当てにならないということをよーく自覚していた。それなので、感覚を通じて確かめられたつもりになっているだけのあやふやな「存在」ではなく、もっと確実な「存在」はないかと考えた。考えに考えて、ついに思い至ったのが「我思う、ゆえに我在り」である。「方法序説」に書かれている。「我」という言葉に引っ張られて、これを「近代自我の芽生えである」というふうに捉えるのがまるで主流みたいに言われているようだが、私はまったく逆に解釈している。

私がごちゃごちゃ考えていることの内容は正しいかもしれないし、間違っているかもしれない。いや、それどころか、私が何かを考えているということ自体も、感覚からくる錯覚なのかもしれない。しかし、もしそうだとしても、仮にいま、「私が何かを考えている」ということを正しいと仮定すれば、その「考える」という行為を行っている主体としての「私」は絶対に存在しないわけにはいかないから、「私が存在する」ということも正しいと帰結されるであろう、というこの「論理の運び」自体に誤りはないだろうということである。

つまり、ものごとを正しく捉えるために、少しでも間違いを犯す可能性のあることはすべて排除して、これだけは絶対に間違いなかろうということをひとつでも見つけようとするならば、思い込みや錯覚に陥りやすい自我なんてものは邪魔っけでしかない。物質の存在は、当てにならない感覚を通じてしか認識されないから、絶対的な確実性はない。物質の存在以前に、もっと確実な存在として、論理の存在がある。つまり、「物質以前に論理あり」という主張である。

例えばピタゴラスの定理。直角三角形の斜辺の長さの2乗は、残る2辺の長さの2乗の和に等しいという定理だが、これは、理解する人類がいようがいまいが、物質やら宇宙空間があろうがなかろうが、成り立つ真理なのではなかろうか。私はそうだと思う。いやいや、そんなことはない、という考え方もありうる。ピタゴラスの定理とは、ひとつの概念である。概念であるからには、頭で考えるものである。こういうことを考える頭は人間に属している。したがって、人間なくしては、ピタゴラスの定理も存在しえないのではないか。うーん、それも一理ある。それだと自我が中心になる。

だけど、やっぱり、私は、人間よりも偉い絶対真理があって、人間はただ発掘したに過ぎないと考えている。そういう立場から見ると、デカルト以降、哲学はあさっての方向に迷走しちゃったように見える。時には数学や物理学と一体になって真理を追究していくようなそぶりを見せながらも、純粋な理系を離れて文系的な学問に行き、人間や社会を論ずるようになってしまった。科学の考え方を借り物のように引っ張ってきて、「自我」を捨てるどころか中心に据えてみんな好き勝手なことをぐだぐだぐだぐだ述べている。それを、科学の側から粉砕してくれた「ソーカル事件」は、実にスカッとする、小気味よい事件である。悪いこと言わないから、ねえみんな、近代哲学を一度ご破算にして、デカルトあたりからやりなおそうよ。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
火曜の朝、会社を30分遅刻。いつも通りの時間に起きて、いつも通りに出かけたつもりだったのに、電車を乗り換えるときになって、駅のホームの時計がいつもより30分も遅い時間を指していて、わが目を疑った。あれ〜、時間がどっかに消えたよ。そう言えば、出掛けにハイデッガーの「存在と時間」について考えを巡らしていたかもー。/そろそろ禁断症状が出てきそう。Novaうさぎの幻覚が現れたりするんではないかと。早く再開してくれないかなー。/11/29(木)に白内障の手術の予定。ひー、こわいよ〜。

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■編集後記(11/16)

巡礼―珍日本超老伝・都築響一「巡礼〜珍日本超老伝〜」を、つんのめるように読み進めている最中である(双葉社、2007)。おもしろい、おもしろい。筆者は、日本中の悪趣味なB級スポットを集めた、分厚い写真ルポルタージュ「珍日本紀行」で第23回木村伊兵衛写真賞を受賞している。ほかにも独自の視点で、変わった対象をガンガン取材するスーパーエディターである。この本は「サイゾー」に連載された28人の日本珍紳士録を元にしている。いやはや、「絶滅危惧種のオレサマじいさんにガツンとやられる快感」を得られると同時に、どっと疲れるのである。もっとも、筆者は毎月一人、こんな人外の相手から何時間もマシンガン・トークを浴びて、疲労困憊しながらそれを手頃な長さの軽妙なテキストにまとめるという難作業を28回やり続けたわけだ。その大変さは想像できるが、なかなかうらやましい仕事だ。「一問百答」というインタビュー記事が添えられた超老人の回もあり、これはキャプション級のこまかい文字でびっしり、珍妙な問答が絶妙のテンポで突っ走る。筆者は、北から南までこの珍で怪で超の老人をめぐる旅を「お遍路」にたとえ、会った老人を「生身の阿弥陀如来」だったのだろうかと言う。大竹伸朗のカバー絵は、まさにあの世で、血の池地獄に咲く蓮の花と雲の流れる青空という不吉さ、タイトルにはDF金文体を絶妙の起用だ。扉は蓮の花の絵と御詠歌と、まことに抹香臭い、念の入った造本である。そう、超老人はみんなじいさんなのだ。クリエイティブなのはやっぱり男だ。男のほうがやっぱりエラい。でも、狂った(いい意味で)じいさんに、よくできたばあさんが陰から支えになっているケースがあまりに多いそうだ。だったら、女のほうがエラいのか。今日もベッドに入ってからこの本を読んで、元気をもらおう(しまった、やってしまった、陳腐このうえない表現! へたこいた〜)。(柴田)

・手術うまくいきますように!/すごいよ、データクラフトさん。大きくなる会社は違うなぁと。以前後記に書いたが、ストックフォトを探していて、見当たらないのでイメージサーチなるサービスを利用した。すぐに返事が来て存在を確認。購入しようとしたら、「購入後14日間は何度でもダウンロードできる」とあったので、ぎりぎりまで購入するのはやめることにした。いくつバックアップをとろうが、どんなトラブルがあるかわかったもんじゃないのだ。再購入すれば済むことなんだけどさ、同じものを買うのは心情的にちょっと。たとえばアクトツーさんだと回数制限なので、何年も前に購入したソフトがダウンロードできて安心便利なのだ。今回、購入時にアンケートなるものがあって(これもさすが)、気軽に「半年以上のスパンの仕事だってある。二重三重のトラブルがないとも限らないから回数制限へ云々」と書いたら返事が来てた。こういうアンケートに返事ってこないよね? 最初から明言しているメーカーは多いし。あちらもわかってらっしゃるだろうに丁寧な回答。バックアップでの対処をと書かれてあって、そりゃわかっているんだけどさ〜、サーバ圧迫するだろうしさ〜、いままで再度の画像ダウンロードなんてやったことないしさ〜、でも万が一のことがあったらさ〜、何か救済措置があったらいいと思っただけなんだよ〜、と心の声。もともと変更を期待していなかったので気にはしていない。で、またメールが来ていて、イメージサーチの担当者さんから「ご購入ありがとうございます!」と。この会社は顧客情報を共有していて、きちんとメールするんだ、自動送信かな、さすがだなぁと。すぐに買わなくてすみません〜。(hammer.mule)