[2329] 自分を変えたかった…あの頃

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<人生の真理を悟った気がした>

■映画と夜と音楽と…[356]
 自分を変えたかった…あの頃
 十河 進

■Otaku ワールドへようこそ![63]
 鳥取の中国庭園でコスプレ、再び
 GrowHair


■映画と夜と音楽と…[356]
自分を変えたかった…あの頃

十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20071207140200.html
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●知り合いが誰もいない中学校で自己改造を決意した

自己改造の決意を、過去に何度かしたことがある。最初に覚えているのは、中学一年生の冬のことだった。小学生時代、運動音痴だった僕は、ひどいコンプレックスに悩んでいたし、自分が運動にはまったく向いていない人間なのだと思い込んでいた。

小学生の頃、スポーツバッヂテストというものがあった。様々な運動能力を測定するテストである。跳び箱は何段まで跳べるか、五十メートルは何秒で走れるか、ソフトボールをどれくらい投げられるか、柔軟度はどれほどか、逆上がりはできるのか、懸垂は何回までできるか、といった内容だった。

僕は、ほとんどのジャンル、クラスの男子の中で最下位だった。逆上がりはできなかった。五十メートル競走はビリだった。懸垂は一回でおしまいだった。トップだったのは柔軟度だけだ。体育館のステージの端に立ち、躯を前屈する。両手の先が自分の足先を超えてずっとずっと下がっていった。

しかし、それは女子に近い能力だった。男子はおおむね躯が固く、女子は柔軟度が高かった。僕の身体能力は女子に近いのだ、とさらに落ち込むことになった。逆上がりは、猛練習の結果、小学校を卒業する頃までには、できるようになったけれど、運動能力に関する劣等感は、当時の僕の人生を支配していた。

小学六年生の冬に引っ越し少し離れた中学に進学した僕は、小学生時代のイメージを変えるのに最適の環境だった。同じ小学校からその中学に入ったのは数人だけ、同じクラスにいたのは増田さんという女子がひとりだけだった。しかし、彼女は三組になり、九組になった僕とほとんど顔を合わさなかった。

誰も僕のことを知らなかった。僕は自己を改造し、別の人間に生まれ変わろうと思った。しかし、性格が簡単に変わるはずがないし、突然、身体能力が発達するわけもない。相変わらず、僕は体育の時間が好きになれなかった。ところが、中学一年生の秋、千五百メートル走で僕は一着になってしまったのだ。

それまで、そんなに長い距離を走ったことはなかった。しかし、クラスの男子全員で走らされた体育の時間、僕は淡々とその距離を走り抜き、一着でゴールしたのだった。奇跡が起きた気分だった。大げさなことを言えば、人生の真理を悟った気がした。人は、それぞれに適性がある。持久力を必要とする長距離走が僕に向いていた…。

その頃から、僕は運動音痴であると思い込んでいた自分が、もしかしたら少しはマシになったのではないかという期待を抱くようになった。そんな頃、仲の良かった友だちに「ソゴー、今からでもバスケットボール部に入らんか」と誘われた。

入学当時と違い、その時期だと三年生は引退している。少し我慢すれば一年生が入ってくる。今から考えれば、いい時期に僕は入部したのだ。三学期から僕は本格的にバスケットボール部の練習に励むようになった。しかし、担当の先生は鬼の喜岡と呼ばれる人で、練習は厳しかった。

それでも、僕は毎日毎日、何時間も体育館の中を走り回った。ウサギ跳び、腹筋、腕立て伏せ、指立て伏せ、ランニング、ジャンプ練習、パスやシュートの練習を繰り返し、クタクタになって帰宅した。

●結局はうまれついての運動能力が支配する

バスケットボールは五人でプレーするが、ゾーンディフェンスでもマンツーマンディフェンスでも選手のポジションは決まっていた。今は何というのかは知らないが、ヘッド、左右の四十五度、左右の九十度である。これは、バスケットゴールに対しての位置を示すのだと思う。

ゴールの両脇が九十度であり、ゴールの正面がヘッドだった。四十五度の選手はその中間の位置にいる。当時、一六八センチの身長だった僕は左九十度のポジションに配置された。九十度のポジションは、ゴールしたボールのリバウンドをフォローしなければならないから、身長の高い選手が配置されるのだ。

中学二年になって、僕より身長の高い同級生が入ってきた。はっきり言って彼は僕より鈍くさかったが、すぐにレギュラーの九十度を確保した。右九十度である。左九十度の僕のレギュラーポジションは奪われなかった。その布陣で、僕らは二年生の秋に開催される新人戦にデビューした。

香川県下にいくつの中学校があるのかはわからない。日本一面積の小さい県だから、全国的に見ると少ないのかもしれない。しかし、その年の秋、僕たちのチームは、新人戦で県下四位に入った。しかし、今でも僕は、優勝したチームの強さを思い出す。圧倒的に強かった。勝てる気がしなかった。

四位は中途半端だった。せめて準優勝と考えたのか、新人戦が終わった後、喜岡先生は戦力の補強を図った。先生がスカウトしたのは、全校でもワルと評判のYクンだった。彼は僕と同じクラスだったが、いつも詰め襟の胸元をはだけ、細身の学生ズボンを履き、授業中はそっぽを向いていた。授業をさぼることも多かった。

Yクンは、いつも誰かを睨んでいるような目をしていた。目が合うと「ガンをつけた」と言われそうで、クラスの誰もが彼の視線を避けた。実際に彼が暴力を振るっているのを目撃したことはなかったが、他校の生徒をカツアゲしたり、殴ったりしているという噂は聞いていた。

そのYクンがバスケットボール部に入ってきたのだ。彼の運動能力は優れていた。すばしっこかったし、反射神経が抜群だった。僕は一年近く練習を重ね、肺活量も増えたし、ジャンプ力も増していたが、彼にはすぐに追い抜かれた。練習ではない。生まれ持った能力なのだと、僕は絶望した。

Yクンは身長もあり、僕のレギュラーポジションをすぐに奪った。喜岡先生は、右九十度の僕より背の高い選手を温存し、僕のポジションにYクンを配置した。僕はレギュラーを外れ、ベンチを温める補欠選手になった。交代要員である。

練習試合は頻繁にあった。バスケットボールでは選手交代はよく行われるから、まったく試合に出ないことはなかったが、やはりスターティングメンバーとして出場するのとは違った。Yクンはラフプレーでよくファールをとられたから、前半で三ファールになることはよくあった。

そんなとき、僕は後半の最初から出場し、第四クォーターをYクンに譲った。それでもYクンは試合終了前に五反則退場になることが多かった。喧嘩腰で乱暴だったけれど、Yクンの得点力は抜群だった。僕が部長でも、僕よりはYクンをメインに使ったと思う。

●ジェイムズ・ボンド「サンダーボール作戦」を見た日

同じクラブにいるせいで、Yクンとは言葉を交わすようになった。しかし、不良の評判を気にして、警戒していたのは確かだ。レギュラーを奪われたことでは、彼個人に対しては何も思わなかった。自分の運動能力のなさを思い知っただけだった。

体育の授業で、バスケットボールの試合をすることもあった。そんなとき、僕はクラスのチームではエースになれた。体育教師は「やっぱり専門にやっとる奴は違うの」と誉めてくれる。練習の甲斐があった、練習すれば少しは人よりうまくなれるのだ、と僕は納得していた。

中学三年生の夏休み前だった。県大会が迫ってきた。練習はますます厳しくなり、夏だというのに暗くなるまで体育館のコートを汗だくになって走り回った。そんなある日、練習を終えて運動場の隅にある洗い場で水を浴びているとき、Yクンが「ソゴー、映画いかんか」と僕に言った。

ドキッとしたのは事実だ。Yクンは「『007/サンダーボール作戦』や。切符はあるんや」と続けた。三作目の「ゴールドフィンガー」(1964年)が大ヒットし、OO7シリーズ最新作「サンダーボール作戦」は、鳴り物入りの大作として話題を呼んでいた。

ショーン・コネリーの007人気が全盛期を迎えていた。当時、さいとうたかをが月刊「ボーイズライフ」でマンガ版007を連載していた。ジェイムズ・ボンドはデューク東郷とそっくりだったが、「ゴルゴ13」の連載はまだ始まっていなかったと思う。「ボーイズライフ」を僕は毎号買っていたので、「サンダーボール作戦」の特集記事も読んでいた。

そんな僕の嗜好を知っていたのか偶然なのか、Yクンは誘っているのである。僕は「断ったらいじめられるかもしれないな」と思い、「うん、いく」と答えてしまった。しかし、その週の日曜日が近づくにつれて気が重くなった。繁華街の映画館で不良と評判のYクンと一緒に補導されたら…、と心配した。僕はクラス委員などをつとめる典型的な小心者の優等生だった。

その日、親には内緒でYクンと映画を見た。映画は派手だったが、イマイチ乗り切れなかった。クローディーヌ・オージェというボンドガールを射止めた女優が評判で、そのヌードシーンを期待したのだが、「ボーイズライフ」に載った水着写真とほとんど変わらなかった。

映画館を出ると「面白かったのう」とYクンが言った。「コーヒーでも飲まんか」と続ける。「あ、あ、うん」と曖昧な返事をしたせいで、僕は彼のいきつけの店へいくことになった。当時の中学生が喫茶店でコーヒーを飲むというのは大事件だった。僕は、初めて喫茶店に入った。

その店で何を話したのかは、よく覚えていない。僕は緊張していたのだ。というより、いつ補導員が現れるかを怖れていた。コーヒーの味などわからなかった。Yクンと一緒に補導されたときの親や教師の反応を想像し、早く帰りたかっただけだった。

しかし、その夜、僕はわかった。県大会を迎えてレギュラーになったことを、彼は僕に詫びたかったのだと。県大会はバスケットボール部員全員の究極の目的だった。そこで優勝でもすれば、秋の全国大会に出られる。だが、レギュラーはYクンに決まった。だから、映画への招待は、きっとYクンの詫びなのだ。

Yクンの噂を聞いたのは、それから十数年後のことだった。神戸でヤクザになっていたYクンが刺されて死んだと教えてくれたのは、たぶん同じバスケットボール部にいた誰かだと思うが、今はそれも遠い記憶の彼方のことになってしまった。

その消息を聞いたとき、「やっぱりな」と納得し「ソゴー、映画いかんか」と言ったときの彼の顔を甦らせたことだけは憶えている…。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
とうとう十二月。激動の一年、身辺に変化の多い一年でした。本を出したことで、いろいろ波及したこともあります。しかし、一番大きな変化は勤め人生活にひと区切りついたことでしょうか。やっている仕事に大きな変化はありませんが、精神的にはかなり違います。「明るく 明るく 生きるのよ」と二代目コロンビア・ローズの歌声を甦らせる日々。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
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■Otaku ワールドへようこそ![63]
鳥取の中国庭園でコスプレ、再び

GrowHair
< https://bn.dgcr.com/archives/20071207140100.html
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サイボーグとして生まれ変わったGrowHairです。おかげさまで、目の手術は無事成功しました。白内障で真っ白白に濁ってた左目のレンズを人工のものに交換し、久々に3Dの景色を見て感動しました。紅葉した桜並木がきれい。

さて、今回は、11月23日(金・祝)、24日(土)、鳥取の中華庭園「燕趙園」で開かれたコスプレイベントのことをレポートします。

「中華コスプレ日本大会」は昨年9月、今年5月に引き続き、3回目の開催で、参加者もどっと増え、好天にも恵まれ、「彩雲国物語」や「三国志大戦」などの作品に登場するお姫様や武将などに扮するコスプレイヤーたちが、中国庭園の背景に見事に溶け込み、それはそれは華やかだった。

前回の参加者が、今回はコスプレではなく本物の花嫁の姿で披露宴を催し、居合わせた人たちから盛大に祝福される場面もあった。また、今回参加できなかった人から地元宮崎県の芋焼酎「諸葛」が届き、慰労会でみんなでありがたくいただいた。参加者からこれほどまでに愛されているコスプレイベントはなかなかないと思う。スタッフのきめ細かな配慮と、それに応えて協力する参加者たちの心意気の結晶であろう。

●羽田空港を疾走

10月の館山などでちょくちょく撮らせてもらっている万鯉子さんたちのチーム「裏天竺」の4人が、今回はイベントの前日に町長さんを町役場へ表敬訪問するというので、同行させてもらうことに。で、木曜に鳥取入り。

前日、遅くに仕事から帰り、準備やら部屋の片付けやらで寝る暇がなく、そろそろ出かける時間だっけと思ったときには、とっくに出かけていなくてはならない時間だった。気がついて大慌て。6:55羽田発の便に乗るのに、羽田空港駅に着いたのが6:30。ゲートは、第2ターミナルの突端、めちゃ遠い。ひた走る。前を走る4人に追いついてみれば、裏天竺のみなさんだった。おはようございます、ひーはーぜーぜー。後で聞けば、私の後ろ姿を目印にひた走るコスプレイヤーがもう3人。ぎりぎりセーフ。

鳥取空港に着くと、イベント主催者の古川(ふるかわ)氏と山陰放送の取材クルーのお出迎え。山陰放送は3人のコスプレイヤーを3日間密着取材するのだそうで、イベントに先立ってさっそく燕趙園へ撮影に向かう。私は裏天竺のお付きのカメコ(?)として、倉吉白壁土蔵群などを観光した後、湯梨浜町役場へ。

●気さくでノリのいい町長

燕趙園は、JR山陰本線倉吉駅のひとつ手前の松崎駅から徒歩10分ほどのところ、東郷湖のほとりにある。ほぼ隣接する「養生館」は明治17年創業という、風格ある温泉宿。このあたりは東郷温泉と呼ばれ、80℃の湯が湧く。湖畔の対岸には「羽合(はわい)温泉」もある。裏天竺の4人は、養生館に立ち寄って、「西遊記」の「御一行」に変身。燕趙園はテレビドラマ版西遊記のロケ地でもあり、それにちなんだコスというわけだ。

午後、湯梨浜町役場へ、宮脇町長を表敬訪問。新聞やテレビなど、大勢の取材陣を従えて町長室へ。カメラに囲まれての会談だったが、町長をはじめ、町役場の職員の方々も暖かく迎えて下さり、終始笑いの絶えないなごやかな雰囲気であった。万鯉子さんはコスプレの楽しさを力説し、宮脇町長にも薦めていた。「それがリーダーシップってもんでしょう」。町長も「衣装を作ってくれるなら」と、けっこう乗り気だったりして。

帰り際に、町長から「あたご梨」をいただく。かぼちゃほどもあろうかという(←いや、それはいくら何でも大げさだ)特大の梨。帰京する日にみんなでいただいた。大きくても、味は大味ということはなく、甘くて美味。

日本海新聞の記事(写真入り)
< http://www.nnn.co.jp/news/071123/20071123007.html
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鳥〜みんぐの記事(写真5枚入り)
< http://www.treaming.net/modules/bulletin/article.php?storyid=1193
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●滝でコス撮影

同じ日、イベントのスタッフから、近くにいい滝があると聞いて、行ってみる。燕趙園から車で10分ほどのところにある、今滝と不動滝。針葉樹と広葉樹の混ざる山間に緩やかな小川が流れ、それに沿って滝へ向かう小径がついている。入り口には古い木製の鳥居があり、神々しい空気。

10メートルほどのほぼ垂直な岩壁の手前を水が落ちる。水量はさほど多くないため、滝つぼは浅く、小さい。修行僧が滝行する場所でもある。滝のしぶきであたりは湿っぽく、シダが密生する。木の幹や石につく苔も鮮やかな青で、生き生きとして見える。ニッポンの原風景。幽玄の美。

東郷湖周辺はほぼ真っ平らなのに、さほど遠くないところにこういう風景とは、やや意外だ。我々一行は、口々にこのすばらしい風景を褒め称え、大はしゃぎで撮影になだれ込む。生を喜び尊ぶ自然の声が聞こえてくるような、それによって心が浄化されていくような快適な空間、できれば朝から丸一日でもここに居たいと思うほどであった。

●今回も好評だったイベント

23日(金)24日(土)は、燕趙園でイベント。今回も、北海道、九州、四国を含む日本全国から参加者が集まった。昨年9月の第1回は約50人、今年5月の第2回は約70人と増加傾向だったのが、今回は一気に増えて、約150人になった。

空港で会ったときの裏天竺の4人は、みんなものすごい大荷物を引っ張っていた。飛行機が飛ぶのかと心配になるほど。けど、それで全部ではなく、あらかじめ宿に送っておいた分もあったそうで。衣装や武器などの小道具は言うに及ばず、スーパードルフィーに二胡にカメラにパソコン……。イベントでは、こういうのが魔法のように出てくる、出てくる...。面倒くさがらずに、何でもかんでも持ってきちゃう気合いの入れようがすごい。重いからって、三脚だの長いレンズだのを置いてきた自分が恥ずかしい。

初日の4時からは、コスプレコンテスト。今回は7チームがエントリした。司会は館山でもお会いした通称駱駝さん。審査委員長は鳥取大学の野田教授。審査副委員長は鳥取県文化観光局の田栗副局長。宮脇町長もご列席。各出場者のパフォーマンスの後の撮影タイムでは、後ろの席の人たちが撮影しやすいようにと、お偉い面々までみんな頭を下げて、テーブルに突っ伏す。ほんとうに気さくで親切な方々で、ほのぼのとした空気を醸してくれる。

最初に登場したのは、群馬から車で来たという「筆龍(ペンドラゴン)」の2人、加寮サヤカさんと加寮アスカさん。ゲーム「三国志大戦」の劉備と曹操に扮する。衣装がめちゃめちゃ豪華できれい。会場からどよめきと大きな拍手。剣の戦いも見事に決まる。衣装は全部手縫いで、一日に7時間縫う日もあり、1〜2ヶ月かかって制作したという。

三番目に登場した「だんな一座!!」は第1回からの連続出場。1歳10ヶ月の娘さんを西遊記の孫悟空に仕立て上げ、ギャグ連発で会場を笑わせる。最後に登場したのは、空港で会った3人組「鳥取愛で隊」。「彩雲国物語」の紅秀麗、し(草かんむりに此)静蘭、茶鴛洵に扮する。神奈川県の学校でお互いに知り合った学生なのだそうで。みんな可愛くて、元気がいい。3月に燕趙園に来たときに、鳥取の人たちが快く受け入れてくれて鳥取が大好きになり、このチーム名にしたという。来る当日朝までミシンかけをしていて、空港で全力疾走するはめにあったのだと明かしてくれた。

審査結果の集計の間、第1回優勝チームである「裏天竺」のパフォーマンス。しっかりと仕込んだネタで、会場を沸かせてくれる。模範演技と言えよう。西遊記の御一行がメロンを9つ手に入れるが、4人でどうやって公平に分けようかという割り算ネタ。さて、優勝したのは、最初に登場した「筆龍」。賞金5万円と吉川英治記念館よりの文庫本「三国志」全8巻を獲得した。

続いて開かれた交流会も大いににぎわった。色鮮やかなコスチュームのままで参加したコスプレイヤーたちが、丸い中華テーブルを囲んで、実に華やかな光景。末席(!!)には野田教授や宮脇町長も。「盛り上げ隊」のたすきをかけた万鯉子さんたち裏天竺のメンバーが、席を回って盛り上げる。裏天竺はスタッフの打合せに出たり、受付を勤めたりして大活躍だが、実は正式にはスタッフではなく、これまで親切にしてくれて非常に楽しい思いをさせてくれた鳥取の人たちへのご恩返しで、自主的に動いてくれている。

その後は、ライトアップされた燕趙園で撮影したり、獅子舞を見たり。まる一日たっぷり楽しんでくたくたに疲れてもまだ時間が足りないような気がする、不思議なイベントだ。翌日も丸一日たっぷり楽しむ。イベント終了後は、スタッフとコスプレイヤーたちで慰労会。このとき、前回の参加者から送られてきたお酒をみんなでいただきました。ごちそうさまです。

翌日、日曜は特にイベントではないが、燕趙園のご厚意でコスプレOK、居残り組がずいぶん来たらしい。裏天竺と私は午前中は「鳥取愛で隊」とともに再び滝へ、午後からは花回廊へ。

●冠雪した大山の雄大な姿を望む花回廊

5月にはイベントの翌日に鳥取砂丘へ行ったが、今回は趣向を変えて、県立「とっとり花回廊」へ。米子の南東、大山(だいせん)のほぼ真西に位置する、大規模なフラワーパークだ。四季それぞれの花が一年中楽しめる。周囲1キロの屋根付き回廊が円形に巡る。回廊自体は水平だが、地形が水平ではないので、ところによっては高さ30メートルの空中を歩く。

紅葉した林の向こうに、冠雪した大山を望む。大山はここから見るのが一番きれいだと思う。とうの昔から死火山だが、独立して、でんと構える姿が雄大で美しい。水に侵食されたとみえる溝が深くくっきりとつき、富士山よりも荒々しい印象。

地上にはフラワートレインがゆっくりと回る。線路はなく、タイヤのついた車両なのでバスとも言えそうだが、蒸気機関車の形をしたエンジンつきの車両が、連結器でつながった3両の客車を牽引する。うねうねと曲がりくねった坂だらけの狭い歩道を器用に通り抜けていく。一周約20分。

バラ園あり、水上花壇あり、霧の庭園あり、杉の林あり、とどこもかしこもすばらしい眺め。絶好の……コス撮影ポイントだっ!! またしても大はしゃぎ。事前に許可をもらっていて、更衣室まで用意していただけたこともあり、コス撮影を大いに楽しむことができた。2時間足らずしか時間がなくなってしまったが、駆け足で回りつつ撮りまくった。杉林の中から大山を背景にしたのが、格別にいい絵になったと思う。

鳥取というと、砂丘だけが突出して有名だが、他にもまだまだ知られざるいいところがあることを知った。第4回は来年の5月に予定しているそうだ。行く方は、ついでにあちこちに足を延ばしてみてはいかがだろうか。こういうのがもっと近くにあれば便利だということではなく、鳥取だからこそ、わざわざ行きたいんだ、という気持ちに私もなってきた。

このイベントの運営は、何もかもゆるゆるだ。参加申込みにはいちおう締切りがあるけど、当日の参加も受け付けちゃうという具合に。みんな仲間なんだから、協力しあって楽しい集まりにしようよ、という心意気で成り立っている。何でもかんでもシステム化してきっちり運営したがる最近の世の中一般の傾向とは逆行しているのかもしれない。だけど、それだからこそ、寛大な心と親切心でひとりひとりに対応してくれる鳥取の人たちに心を打たれるのだ。

参加者が増えてくると、今までのようなゆるゆるの運営では難しくなってくるのかもしれない。だけど、希望的には、今まで3回のよさをいつまでも失わず、来た人たちにしみじみといい思い出を残すイベントでありつづけてくれたらと願う。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
カメコ。オタク向けイベントで町おこしと言えば、アニメ「らき☆すた」の舞台となった埼玉県の鷲宮神社もすごいことになってたみたいですね。12月2日(日)、鷲宮町商工会をあげてのイベント「らき☆すたのブランチ&公式参拝in 鷲宮」が開催されたようで。原作者の美水かがみ氏や声優さんたちがゲストに呼ばれ、関連グッズが販売され、約3,500人のファンでにぎわったらしい。オタクが一般人から犯罪者予備軍のように危険視されてたのも遠くない昔だが、いまや隔世の感がある。ちょっとうれしい。
< http://sankei.jp.msn.com/entertainments/game/071202/gam0712021827000-n1.htm
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■編集後記(12/7)

・集英社WEB文芸RENZABURO[レンザブロー]は、小説やエッセイなどを中心とした文芸作品を掲載するウェブサイトだ。同社の新聞広告の隅っこに小さなお知らせがあったので見に行った。10月末頃スタートしたようだ。執筆陣は、若い世代から幅広く支持をあつめている人気作家たち。現在の掲載作品は、恩田陸の長編「鈍色幻視行」、古川日出男の短編「記録シリーズ・天狗」、加門七海の短編ホラー「怪談宵月夜」、酒井順子のエッセイ「はじめての40代」などのほか、柴崎友香、宮下奈都、中島さおり、橘蓮二、中村航&フジモトマサル、浅倉かすみらのエッセイ、短編、回文、動物ギャラリーなどでバラエティ豊かな「雑誌」である。見せ方がまた「雑誌」である。文芸作品の縦組みがうれしい。文庫本のページをめくるようなギミックが楽しいのもあれば、加門作品のように横スクロールがふさわしい見せ方もある。書体も文章にふさわしいものが使われ、添えられた写真やイラストもきれい。横組み、縦スクロールのエッセイもある。いままで見たWEBマガジンの中では一番出来がいい。Flashをつかった見せ方だから各ページは画像である。シャープさはやや足りないが、読みやすい。1024×768ピクセル以上が表示可能なディスプレイなら快適だ。ただし、Mac OSは10.1x以降が推奨環境である。レンザブローと名乗るキャラクターはかわうそで、たぶん編集長。ほかに七つのキャラクターがいて、それぞれが得意分野をカバーする編集者か。なんだか楽しそう。ブログでもケータイ文芸でもない、ちゃんとつくりこまれた文芸サイトだ。こういうWEBサイトやってみたいが、技術が問題である。サポートしてくれる人を求む。ただし、当方お金はない(キッパリ)。(柴田)
<http://renzaburo.jp/> 集英社WEB文芸RENZABURO


・いいなぁ、柔軟力。欲しいなぁ。/ENDSのライブに行ってきた。楽しかった!好きになって、存在を知ることができて良かったとつくづく思った。
「Superior」という、重め歌詞がさらっと流れていく明るい曲。一番好きな曲というわけではなかったのだが、今は聞くと胸が痛くなる。何度か後記で触れている話。娘さんとは面識がない。知り合いであるお母様からは許可はあるし、むしろ書いてもらった方がとは言われているけれど、今の自分の中には、その種がなくて、その種を持っている人や種を持っている人の身内の方にとってひどいことを書いてしまうような気がしてどうしても避けてしまう。娘さんはお誕生日に自殺した。数年前にも自殺未遂をし、それが原因で車椅子生活をしていた。持ち続けていた希死念慮が強くなってきて、かかりつけ医師の紹介で、別の病院に緊急入院したのだが、10日後、若い担当医の間違った認識ゆえか外出許可が出てしまい……。ネットってこわいなぁと思うのが、その担当医の名前で検索すると彼の学会参加感想文が見られる。そこには「若い女性が死ぬ死ぬと言うが、実際に死んだ人はいないという統計報告や講義を聞いて、やっぱり、と」というようなことが書いてある。つまり学会での精神科医の認識ってそんなものってこと。気持ちはわかる。私のまわりにも死ぬと言ってから死んだ人がいないから。ふりまわされるばかりだから。でもそのぐらい自ら死ぬのはこわくて避けたいものなのだと聞いた。しかし可能性はゼロではなく、WHOによる「自殺予防の手引き」にはそれが誤りであることが書かれてある。

娘さんは車椅子生活になってからは、入院してリハビリを続けていた。ヘルパーさんがとても良い方だったらしく、彼女の希死念慮は弱まり、その頃の写真には笑顔がいっぱい。ヘルパーさんの赤ちゃんを抱いている時の笑顔はきれいだ。ある人はmixiの自分の写真に、生前から娘さんとのツーショットを使っていたりする。若い女性らしく、お化粧が好きだったり、携帯機種に凝ってたり、お花を育てていたり。社会復帰するために勉強していたり。お母様にはお花や化粧品を贈ったり。車椅子生活は大変でもきっと楽しい充実した生活をされていたんだろうなぁと想像できるのだ。たぶん大きな転機は支えになってくれていたヘルパーさんの転勤。老人介護に携わるうちの母も言っていたが、本気で向き合わないと介護なんて無理。勤務時間内にだけ、患者さんたちの気持ちが高まるわけではないから、お金にならないとわかっていても相談に乗ったり、駆けつけたりするらしい。クライアントと直取引をしているIT業界人たちも頷いてくれると思う。いや、どんな仕事だってそうだろう。そのヘルパーさんは親身になってくれ、勤務時間外にもメールをしてくれたりしたそうだ。

他の要因が重なり、彼女のお誕生日には偶然が重なり……。〜たら、〜れば、がなければ、まだ娘さんは生きてらっしゃるだろう。お母様は自責の念により、臥せってしまい外出もままならない。自殺は自分のせいだと言う。彼女の人生は何だったのかと言う。育て方のことまで考えていらっしゃるのだが、息子さんは成人して就職し元気だ。その息子さんからもお母様には、お母様のできる最大限のことをしたよね、という言葉をかけてもらっている。泣くところを見たことがない、という旦那様の涙を見たそうだ。ご家族の痛みが和らぐには何年もかかるだろう。自責の念も消えることはないかもしれない。ゆっくりとでいいから回復されることを祈っている。赤ん坊はほうっておいたら生きられない。食事させ、排泄の始末をし、言葉や動きを教える、正面から向き合う。それだけでも親として十分すぎると思う。娘さんは犯罪に走らなかった。倫理観は持ってらした。ある時期を越えたら親だけの責任じゃない。取捨選択するのは自分の責任だ。娘さんの場合、希死念慮は病気であり、自殺という方法をとった病死だと私は思う。病死だって、何の責任もない親御さんたちは自責の念にとらわれる。それは仕方がない。娘さんの心が開いている時に、この曲を聞いて欲しかったなぁとお母様と二人で話したことがある。病気だったから届かないかもしれないけれど。自分に価値がないと思う人、自殺を考えている人、うつかもしれないと思う人……いろんな人がいるよね。無理しないでまわりに甘えて。俯瞰したら解決策や、楽しいこと、楽になることが見つかるかもしれないよ。たとえ学校や会社、かえって身近な人に相談できなくても、相談窓口や病院だってある。なんとなく、なら体の病気のせいかもしれない。多重債務なら無料弁護士相談がある。迷惑かけて申し訳ないなら、その分償っていくしかない。「Superior」から。「挫けそうな気持ち 分かち合える幸せを」「無のために生まれはしない あらゆるものつなぐように」(hammer.mule)
< http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/
>  資料
< http://www8.cao.go.jp/survey/h19/h19-jisatsu/
>  世論調査
< http://www.lifelink.or.jp/hp/top.html
>  遺族の会
< http://mainichi.jp/select/wadai/news/20071201k0000m040162000c.html
>
検索で相談窓口へ。(穴はあるけど)対応を考えてくれたYahoo!に感謝だ。
< http://www.ends.co.jp/
> ENDS公式