映画と夜と音楽と…[356]自分を変えたかった…あの頃
── 十河 進 ──

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●知り合いが誰もいない中学校で自己改造を決意した

自己改造の決意を、過去に何度かしたことがある。最初に覚えているのは、中学一年生の冬のことだった。小学生時代、運動音痴だった僕は、ひどいコンプレックスに悩んでいたし、自分が運動にはまったく向いていない人間なのだと思い込んでいた。

小学生の頃、スポーツバッヂテストというものがあった。様々な運動能力を測定するテストである。跳び箱は何段まで跳べるか、五十メートルは何秒で走れるか、ソフトボールをどれくらい投げられるか、柔軟度はどれほどか、逆上がりはできるのか、懸垂は何回までできるか、といった内容だった。

僕は、ほとんどのジャンル、クラスの男子の中で最下位だった。逆上がりはできなかった。五十メートル競走はビリだった。懸垂は一回でおしまいだった。トップだったのは柔軟度だけだ。体育館のステージの端に立ち、躯を前屈する。両手の先が自分の足先を超えてずっとずっと下がっていった。

しかし、それは女子に近い能力だった。男子はおおむね躯が固く、女子は柔軟度が高かった。僕の身体能力は女子に近いのだ、とさらに落ち込むことになった。逆上がりは、猛練習の結果、小学校を卒業する頃までには、できるようになったけれど、運動能力に関する劣等感は、当時の僕の人生を支配していた。


小学六年生の冬に引っ越し少し離れた中学に進学した僕は、小学生時代のイメージを変えるのに最適の環境だった。同じ小学校からその中学に入ったのは数人だけ、同じクラスにいたのは増田さんという女子がひとりだけだった。しかし、彼女は三組になり、九組になった僕とほとんど顔を合わさなかった。

誰も僕のことを知らなかった。僕は自己を改造し、別の人間に生まれ変わろうと思った。しかし、性格が簡単に変わるはずがないし、突然、身体能力が発達するわけもない。相変わらず、僕は体育の時間が好きになれなかった。ところが、中学一年生の秋、千五百メートル走で僕は一着になってしまったのだ。

それまで、そんなに長い距離を走ったことはなかった。しかし、クラスの男子全員で走らされた体育の時間、僕は淡々とその距離を走り抜き、一着でゴールしたのだった。奇跡が起きた気分だった。大げさなことを言えば、人生の真理を悟った気がした。人は、それぞれに適性がある。持久力を必要とする長距離走が僕に向いていた…。

その頃から、僕は運動音痴であると思い込んでいた自分が、もしかしたら少しはマシになったのではないかという期待を抱くようになった。そんな頃、仲の良かった友だちに「ソゴー、今からでもバスケットボール部に入らんか」と誘われた。

入学当時と違い、その時期だと三年生は引退している。少し我慢すれば一年生が入ってくる。今から考えれば、いい時期に僕は入部したのだ。三学期から僕は本格的にバスケットボール部の練習に励むようになった。しかし、担当の先生は鬼の喜岡と呼ばれる人で、練習は厳しかった。

それでも、僕は毎日毎日、何時間も体育館の中を走り回った。ウサギ跳び、腹筋、腕立て伏せ、指立て伏せ、ランニング、ジャンプ練習、パスやシュートの練習を繰り返し、クタクタになって帰宅した。

●結局はうまれついての運動能力が支配する

バスケットボールは五人でプレーするが、ゾーンディフェンスでもマンツーマンディフェンスでも選手のポジションは決まっていた。今は何というのかは知らないが、ヘッド、左右の四十五度、左右の九十度である。これは、バスケットゴールに対しての位置を示すのだと思う。

ゴールの両脇が九十度であり、ゴールの正面がヘッドだった。四十五度の選手はその中間の位置にいる。当時、一六八センチの身長だった僕は左九十度のポジションに配置された。九十度のポジションは、ゴールしたボールのリバウンドをフォローしなければならないから、身長の高い選手が配置されるのだ。

中学二年になって、僕より身長の高い同級生が入ってきた。はっきり言って彼は僕より鈍くさかったが、すぐにレギュラーの九十度を確保した。右九十度である。左九十度の僕のレギュラーポジションは奪われなかった。その布陣で、僕らは二年生の秋に開催される新人戦にデビューした。

香川県下にいくつの中学校があるのかはわからない。日本一面積の小さい県だから、全国的に見ると少ないのかもしれない。しかし、その年の秋、僕たちのチームは、新人戦で県下四位に入った。しかし、今でも僕は、優勝したチームの強さを思い出す。圧倒的に強かった。勝てる気がしなかった。

四位は中途半端だった。せめて準優勝と考えたのか、新人戦が終わった後、喜岡先生は戦力の補強を図った。先生がスカウトしたのは、全校でもワルと評判のYクンだった。彼は僕と同じクラスだったが、いつも詰め襟の胸元をはだけ、細身の学生ズボンを履き、授業中はそっぽを向いていた。授業をさぼることも多かった。

Yクンは、いつも誰かを睨んでいるような目をしていた。目が合うと「ガンをつけた」と言われそうで、クラスの誰もが彼の視線を避けた。実際に彼が暴力を振るっているのを目撃したことはなかったが、他校の生徒をカツアゲしたり、殴ったりしているという噂は聞いていた。

そのYクンがバスケットボール部に入ってきたのだ。彼の運動能力は優れていた。すばしっこかったし、反射神経が抜群だった。僕は一年近く練習を重ね、肺活量も増えたし、ジャンプ力も増していたが、彼にはすぐに追い抜かれた。練習ではない。生まれ持った能力なのだと、僕は絶望した。

Yクンは身長もあり、僕のレギュラーポジションをすぐに奪った。喜岡先生は、右九十度の僕より背の高い選手を温存し、僕のポジションにYクンを配置した。僕はレギュラーを外れ、ベンチを温める補欠選手になった。交代要員である。

練習試合は頻繁にあった。バスケットボールでは選手交代はよく行われるから、まったく試合に出ないことはなかったが、やはりスターティングメンバーとして出場するのとは違った。Yクンはラフプレーでよくファールをとられたから、前半で三ファールになることはよくあった。

そんなとき、僕は後半の最初から出場し、第四クォーターをYクンに譲った。それでもYクンは試合終了前に五反則退場になることが多かった。喧嘩腰で乱暴だったけれど、Yクンの得点力は抜群だった。僕が部長でも、僕よりはYクンをメインに使ったと思う。

●ジェイムズ・ボンド「サンダーボール作戦」を見た日

同じクラブにいるせいで、Yクンとは言葉を交わすようになった。しかし、不良の評判を気にして、警戒していたのは確かだ。レギュラーを奪われたことでは、彼個人に対しては何も思わなかった。自分の運動能力のなさを思い知っただけだった。

体育の授業で、バスケットボールの試合をすることもあった。そんなとき、僕はクラスのチームではエースになれた。体育教師は「やっぱり専門にやっとる奴は違うの」と誉めてくれる。練習の甲斐があった、練習すれば少しは人よりうまくなれるのだ、と僕は納得していた。

中学三年生の夏休み前だった。県大会が迫ってきた。練習はますます厳しくなり、夏だというのに暗くなるまで体育館のコートを汗だくになって走り回った。そんなある日、練習を終えて運動場の隅にある洗い場で水を浴びているとき、Yクンが「ソゴー、映画いかんか」と僕に言った。

ドキッとしたのは事実だ。Yクンは「『007/サンダーボール作戦』や。切符はあるんや」と続けた。三作目の「ゴールドフィンガー」(1964年)が大ヒットし、OO7シリーズ最新作「サンダーボール作戦」は、鳴り物入りの大作として話題を呼んでいた。

ショーン・コネリーの007人気が全盛期を迎えていた。当時、さいとうたかをが月刊「ボーイズライフ」でマンガ版007を連載していた。ジェイムズ・ボンドはデューク東郷とそっくりだったが、「ゴルゴ13」の連載はまだ始まっていなかったと思う。「ボーイズライフ」を僕は毎号買っていたので、「サンダーボール作戦」の特集記事も読んでいた。

そんな僕の嗜好を知っていたのか偶然なのか、Yクンは誘っているのである。僕は「断ったらいじめられるかもしれないな」と思い、「うん、いく」と答えてしまった。しかし、その週の日曜日が近づくにつれて気が重くなった。繁華街の映画館で不良と評判のYクンと一緒に補導されたら…、と心配した。僕はクラス委員などをつとめる典型的な小心者の優等生だった。

その日、親には内緒でYクンと映画を見た。映画は派手だったが、イマイチ乗り切れなかった。クローディーヌ・オージェというボンドガールを射止めた女優が評判で、そのヌードシーンを期待したのだが、「ボーイズライフ」に載った水着写真とほとんど変わらなかった。

映画館を出ると「面白かったのう」とYクンが言った。「コーヒーでも飲まんか」と続ける。「あ、あ、うん」と曖昧な返事をしたせいで、僕は彼のいきつけの店へいくことになった。当時の中学生が喫茶店でコーヒーを飲むというのは大事件だった。僕は、初めて喫茶店に入った。

その店で何を話したのかは、よく覚えていない。僕は緊張していたのだ。というより、いつ補導員が現れるかを怖れていた。コーヒーの味などわからなかった。Yクンと一緒に補導されたときの親や教師の反応を想像し、早く帰りたかっただけだった。

しかし、その夜、僕はわかった。県大会を迎えてレギュラーになったことを、彼は僕に詫びたかったのだと。県大会はバスケットボール部員全員の究極の目的だった。そこで優勝でもすれば、秋の全国大会に出られる。だが、レギュラーはYクンに決まった。だから、映画への招待は、きっとYクンの詫びなのだ。

Yクンの噂を聞いたのは、それから十数年後のことだった。神戸でヤクザになっていたYクンが刺されて死んだと教えてくれたのは、たぶん同じバスケットボール部にいた誰かだと思うが、今はそれも遠い記憶の彼方のことになってしまった。

その消息を聞いたとき、「やっぱりな」と納得し「ソゴー、映画いかんか」と言ったときの彼の顔を甦らせたことだけは憶えている…。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
とうとう十二月。激動の一年、身辺に変化の多い一年でした。本を出したことで、いろいろ波及したこともあります。しかし、一番大きな変化は勤め人生活にひと区切りついたことでしょうか。やっている仕事に大きな変化はありませんが、精神的にはかなり違います。「明るく 明るく 生きるのよ」と二代目コロンビア・ローズの歌声を甦らせる日々。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
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