<微分、積分、いい気分>
■映画と夜と音楽と…[365]
蒼ざめた馬を見た人々
十河 進
■Otaku ワールドへようこそ![68]
画像の輪郭線を抽出する方法について
GrowHair
■映画と夜と音楽と…[365]
蒼ざめた馬を見た人々
十河 進
■Otaku ワールドへようこそ![68]
画像の輪郭線を抽出する方法について
GrowHair
■映画と夜と音楽と…[365]
蒼ざめた馬を見た人々
十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20080229140200.html
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●日曜日に鼠を殺せば、月曜日には…
先日、長い間、気になっていた映画を見た。「日曜日には鼠を殺せ」(1964年)というフレッド・ジンネマン監督作品だ。中学生の時に学年誌の映画紹介の記事を読んで以来ずっと見たかったのだが、とうとう40数年、見る機会がなく今に至った。DVDが発売になったので、いつでも見られると思っていたらワウワウで放映してくれたのだ。
驚いたのは映画のタイトルが「BEHOLD A PALE HORSE(蒼ざめた馬を見よ)」となっていたことである。「ヨハネ黙示録」第六章第八節の有名なフレーズであり、その出典も映画の冒頭で明らかにされる。「蒼ざめた馬を見よ。これに乗るものの名を死…」というもので、60年代カルチャーに触れた人にはおなじみのフレーズだろう。
僕が高校生の頃、晶文社からロープシン(サヴィンコフ)の「蒼ざめた馬」という本が出ていた。その頃、五木寛之さんが「蒼ざめた馬を見よ」という小説で直木賞を受賞した。そのフレーズの意味はよくわからなかったが、僕も「蒼ざめた馬を見よ。これに乗るものの名を死といい、黄泉これに従う」という言葉のカッコヨサにまいったものだった。
キリスト教圏ではこのフレーズは有名らしく、クリント・イーストウッド監督主演の西部劇「ペイルライダー」(1985年)もこのフレーズからとっているし、映画の中でも引用される。イーストウッドが演じたガンマンは「死」を象徴する存在だった。つまり「蒼ざめた馬に乗ったライダー」なのである。
しかし、である。僕が気に入っていた「日曜日には鼠を殺せ」というタイトルは誰がつけたのだろうかと疑問が湧いた。この映画を見た宣伝担当者が「日曜日には鼠を殺せ」という邦題をつけたとすると、あまりにかっこよいではないか。だいたい、映画を見ても「日曜日には鼠を殺せ」という邦題の意味がまったくわからない。
原作小説は「日曜日には鼠を殺せ」のタイトルで、映画が公開された頃、早川書房から出版されていた。作者は「赤い靴」(1948年)などの監督で脚本家でもあったエメリック・プレスバーガーである。その小説の原題が「Killing a mouse on Sunday」だった。それを、なぜかタイトルを変更して映画化した。
キリスト教圏ではない日本では「蒼ざめた馬を見よ」より「日曜日には鼠を殺せ」の方が思わせぶりでいいと、映画会社の宣伝部は考えたのだろうか。この映画が公開された頃、まだ五木作品は書かれていなかった。ロープシンの「蒼ざめた馬」は出ていたが、まだまだマイナーだった。
「日曜日には鼠を殺せ」をネットで調べたら、その意味がわかった。聖書の教えを忠実に守る敬虔な清教徒は、日曜日は安息日だから働いてはいけないと考える。だから、日曜日に鼠を殺した猫がいたとしたら、月曜日に清教徒に殺される…という意味だという。日曜日に鼠を殺すとひどい目に遭うよ、ということだろうか。
日曜日に鼠を殺すことは徒労であり、そのために手痛いしっぺ返しを喰らってしまう…そう理解すれば、この映画のテーマに合っているかもしれない。スペイン市民戦争に敗北した主人公はフランスに亡命しているが、彼を宿敵として狙うスペインの警察署長の罠を知りながら帰郷し、壮絶な銃撃戦の中で死んでいく物語なのである。
●「スペイン市民戦争」という言葉が輝いていた頃
「スペイン市民戦争」という言葉を知ったのは、「日曜日には鼠を殺せ」の紹介記事が最初だったと思う。次に「誰がために鐘は鳴る」は、ヘミングウェイが義勇兵としてスペイン市民戦争に参加した体験から生まれたことを知った。「誰がために鐘は鳴る」は、ハリウッドで1943年に映画化された。スペイン市民戦争が人民戦線側の敗北で終わった4年後のことである。
しかし、スペイン市民戦争とはどういうことだったのかを理解したのは、五木寛之さんの「裸の町」を読んだときだった。僕はファシスト側(反乱軍)のフランコ将軍を支援したのがナチス・ドイツとイタリアであり、人民戦線側(政府軍)を支援したのがスターリンのソ連とメキシコ革命後のメキシコだったことを知った。「裸の町」は、スターリンがスペインに送った大量の金塊を巡る物語だった。
高校生のときだった。アラン・レネ監督「戦争は終わった」(1966年)を見て、未だに反フランコの活動を続けている人々がいることを僕は知った。1960年代半ばの現在の話なのに、かつての人民戦線の闘士である主人公(イブ・モンタン)は、反フランコ政権の地下運動を続けているのだった。
スペイン内乱が終わって、四半世紀が過ぎていた。それでも、スペインはフランコ将軍が敷いた体制が続いているファシスト国家だった。僕は「スペイン市民戦争」のことをさらに知りたくて、写真家ロバート・キャパの「ちょっとピンボケ」を読み、その頃すでにフランスの文化大臣になっていたアンドレ・マルローの「希望」を読んだ。
「革命」という言葉にロマンを抱いていた16歳の僕にとって「スペイン市民戦争」は、輝ける何かになった。多くの小説家や詩人が反ファシストの立場で義勇軍に参加した内戦。ロバート・キャパは銃撃され崩れゆく瞬間の兵士の写真を撮り、ヘミングウェイやマルローは自らの体験を小説に書いた。マルローは「希望」を基にして「テルエルの山々」(1939年)という映画を作る。
スペイン市民戦争の時代に生きたスペイン人はパブロ・ピカソがいて、パブロ・カザルスがいた。ピカソは、フランコ将軍を支援するナチス・ドイツによって大規模な空爆を受けたゲルニカの悲劇を作品に昇華した。カザルスはフランスに亡命するが、各国政府がフランコ政権を認めたことに抗議して演奏活動を停止する。今でも僕はカザルスの「鳥の歌」を聴くたびに、スペイン市民戦争に思いを馳せる。
だが、イギリスの詩人ジョージ・オーウェルの「カタロニア賛歌」を読んで、僕の「スペイン市民戦争」に託した夢や希望は潰えた。オーウェルは左翼作家というよりはアナーキストの立場だったが、それでもスペイン市民戦争が始まると人民戦線側の国際旅団に義勇兵として参加する。
そこで彼が体験したのは、同じ人民戦線側からの攻撃である。左翼陣営内部の対立であり、分裂だった。スターリン率いるソ連からの支援を受け勢力を拡大したスペイン共産党は、人民戦線側の多数を占めていたアナーキスト派をトロッキストと呼び、1937年にはとうとう軍事的な衝突を起こす。人民のための理想の社会を作ることを目標としていたはずの左翼陣営の内部分裂…、それが僕には信じられなかった。
オーウェルは味方の銃弾から逃れた体験を「カタロニア賛歌」で記し、この後、「動物農場」でスターリニズム批判を展開し、「1984年」で全体主義に支配される暗黒社会を描き出し、人間が作る国家や政府への絶対的な不信を明らかにした。大学に入った僕が学生運動にのめり込む人間たちの言葉を信用せず、内ゲバを繰り返すセクトの人間たちを軽蔑したのは、高校生の頃にオーウェルを読んだからかもしれない。
●無駄だと思われる行為に己の誇りをかけるとき
「スペイン市民戦争」への夢や希望を失ったときから40年が過ぎた現在、僕は「日曜日には鼠を殺せ」の冒頭シーンを見ながら、一瞬、それを甦らせた。おそらく記録映画のフィルムを使っているのだろう、軍人ではなく普通の市民の姿をした人たちが戦いを展開していた。銃を持たず、投石でファシストたちに対抗している人々の姿も映っていた。
そのフィルムが終わり、フランス国境に並ぶ人民戦線の兵士たちの列が映る。フランスに亡命するためには、武器を放棄しなければならない。その中のひとりが列を離れてスペインへ戻ろうとする。「あきらめろ、マヌエル」という声がかけられる。1939年のことである。
20年後、スペイン国境に近いフランスの街で暮らすマヌエル(グレゴリー・ペック)は、かつての同志の息子の訪問を受ける。マヌエルの情報を得るために警察署長(アンソニー・クイン)は、少年の父親を拷問し殺したのだという。少年は、マヌエルに署長を殺し父の敵を討ってくれと訴えるが、マヌエルは冷たく少年を追い返す。
マヌエルは母が病の床に伏せっていることを、しばらく前から知っていた。20年間、反政府ゲリラとしてマヌエルはスペインに戻り、銀行強盗や政府機関への攻撃を繰り返してきた。しかし、年老いた今、彼は母が病気だと知りながらスペイン国境を越えることができない。「俺は臆病になった」とつぶやく。
「奴は反政府ゲリラのリーダーなどではない。単なる強盗だ」と新聞記者に主張する警察署長は、マヌエルを逮捕するために彼の母親を病院に収容し、病院の周囲に罠を張り巡らせる。マヌエルが信頼する同志カルロスも署長に籠絡され、密告者になりさがる。
マヌエルは母が死に、カルロスが裏切ったことを知る。しかし、マヌエルは埋めてあった武器を掘り出し、ピレネー山脈をひとりで越えていく。その孤独な影が印象的だ。母が死に、罠だとわかっているところへ、なぜ彼は帰っていくのだろう。間違いなく、そこには「死」が待っている。蒼ざめた馬に乗った死が、黄泉を従えて待っている…
マヌエルの行動には、何の意味もない。死んだ母に会うという目的以外に何もないし、おそらく母の亡骸を安置した部屋まで彼はたどり着けない。徒労である。しかし、彼はピレネーを越える。それは、おそらく彼が生涯をかけて闘ってきたものに殉じるためだ。自分の人生を無にしないために、彼はあえて徒労と言われる行為を選ぶ。
安息日に働いたことをもって月曜日に殺されるとしても、日曜日に鼠を殺すことは必要なのではないか。人は現実の利益より、誇りや自尊心といった精神性を重視する。それが、人間ってものじゃないのか。だから、僕には自死とも思えるマニエルの行動が理解できる。共感する。自分もそうありたいと思う。
この映画は1964年に公開されたが、映画の中の現在時は1959年の設定であり、ほとんど同時代の話だった。僕が本格的にスペイン市民戦争に興味を持つきっかけになった「戦争は終わった」の主人公も、1966年に27年前に終わった内戦を引きずっていた。
当時の僕にとってスペイン市民戦争は自分が生まれる12年前に終わった内乱であり、そんな昔のことにこだわることが理解できなかった。だが、50年以上を生きてきた今ならわかる。35年前の蟠りが僕の中の大きな部分を占めているし、その想いを抱いて生きてきた35年間なんて、ほんの一瞬のことだ。たった35年、未だに決着(オトシマエ)はつかない…
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
前回、うっかり「ハンフリー・ボガード」と書いてしまいました。「ボガート」ですね。三谷幸喜の芝居「エキストラ」に出てくる映画ファンのおやじ(角野卓造が演じていた)が「ボガードじゃなくてボガート」としつこく訂正するセリフがあり、僕とそっくりと笑ったのに自分がうっかり間違ってるんじゃ仕方がありません。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
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■Otaku ワールドへようこそ![68]
画像の輪郭線を抽出する方法について
GrowHair
< https://bn.dgcr.com/archives/20080229140100.html
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写真の上にトレーシングペーパーをかぶせて、上から鉛筆で輪郭線をなぞると、線画に起こすことができますね。これに相当することを、パソコンを使って自動的に行うこともできます。たとえば、アドビシステムズが販売しているおなじみの画像編集ソフトウェア「フォトショップ」を使えば、[フィルタ]→[表現方法]→[輪郭のトレース]メニューでそういう処理ができます。
コンピュータの中で、いったいどんな計算が行われているのかは、利用する側からみれば、立ち入る必要のない領域です。せいぜい、「中の人」が画像を隅から隅まで眺め渡して、せっせとトレースしているんだな、はいはいご苦労さん、ぐらいに思っておけばいいわけです。いわゆるブラックボックスってやつですね。
だけど、ソフトウェアを書く側からみれば、どうやって輪郭線を抽出したらいいかは重要な問題です。このための手法はいくつもあります。実は、私も最近、ひとつ思いつきました。この手法は、一般的によく用いられている「ラプラシアン・ガウシアンのゼロ交差」と呼ばれる手法に比べて、ほんのちょっとだけいいところがあるのではないかと思っています。
なので、今回はその話をしてみたいと思います。まあ、いきなり数式がぞろぞろ出てきては楽しくないかもしれないので、まずはカタい話抜きに画像処理のことを一から説き起こして、ピクニック気分でゴールまでたどり着けたらよいかと思います。
●画像を浮き彫り的に見る
我々人間が写真を眺めるとき、そこに何が写っているとか、背景がどうなっているとか、シーンを瞬時にして理解します。その上で、何らかの感情が呼び起されたり、絵としての面白さを味わおうとする働きが起きたり、いいとか悪いとかきれいとかきたないとか好きとか嫌いとか、判定が下ったりします。しかし、コンピュータで画像を扱う方法について考えるとき、画像を眺めるにも、ふだんとは違った入り方が必要になり、ちょっとしたコツが要ります。画像をある種の立体としてとらえるのです。
立体といっても、ホログラムなどの3D映像のように、写真に写っている対象物の元の立体形状を復元しようというのではないのです。もっと機械的に、白っぽいところは手前に飛び出していて、黒っぽいところは奥に引っ込んでいるように見るのです。浮き彫り的立体像とでも言いましょうか。
単純なことなんですが、これが意外に慣れを要します。人間の脳内では、左右の目から来た平面像から元の立体形状を復元しようとする回路が常に勝手に作動しているようで、このスイッチをわざわざ切って、浮き彫り的な立体像に切り替えて見るということに、なんとなく抵抗感があります。まあ、人間に限らず、猫や猫型ロボットでもそうだとは思いますが。
自分が小さな点になったつもりで、この浮き彫り的立体の世界へ入っていき、歩き回ってみましょう。広い平らなグラウンドに、雪が15センチくらい積もっている光景を想像してみてください。足跡は全然ついていません。今、窓の外が実際にそうなっているという人はラッキーです。ぜひ、外へ出ましょう。
その前に、パンダの写真を用意しておきましょう。パンダでなくてもいいのですが。パンダイルカでもいいし、パンダ犬でもいい。それを片手に眺めながら、頭の中で雪の上にでっかく投影し、黒いところを足で踏み固めていきましょう。パンダの目のまわりの黒は、靴跡のような形にへこみますね。その周辺の白いところは、元の積もった雪のまま触りません。白い領域でも、陰影がついてややグレーがかって見えるところは、少しだけ雪を押し固めます。こうしてできるのが、浮き彫り的立体像です。
2メートルぐらい積もった雪で作ったら、ほんとうに自分が画像の中に入って探検しているようで、楽しいかもしれません。雪がなければ霜柱でもいいかも。雪とか霜柱とか、踏む感触がいいですよね。霜柱もなければ、爪楊枝はいかがでしょうか。ビニールの円筒の中にぎっしり詰まった爪楊枝。手のひらで底を押し上げて、全体を少し浮かせます。そしたら、一部分を上から指で押し込みます。こうして絵が描けます。
爪楊枝もなかなかいい感触です。私なんざ、たま〜に意識がぶっ飛んで、小一時間、表から裏から押し込んで遊んでることがあります。一度、ユニットバスの浴槽ぐらいの広さの枠にびっしりと爪楊枝を詰め込んで、ぎゅうぎゅう押して遊べたら面白かんべえと思います。手形とかギジョッとつけてみたくなりますね。
●実はみんな理解している「微分」
微かに分かる微分、分かった積もりの積分、と言われ、微分・積分は、ただでさえ難しい数学の中でも、最も難解なことのように言われがちです。まあ、そういうところがあるというのも否定しきれませんが(多様体上のストークスの定理なんて、私ゃさっぱり理解できちょらんし)。
だけど、微分という概念そのものがそんなに難しいものかと言えば、意外とそうでもないのです。習わなくたって、みんな最初っから直観的には知っているとも言えます。
坂道をえっちらおっちら上っている自分を想像してみてください。この坂の勾配が、水平に100メートル進んで、垂直に6メートル上がるのに相当するならば、この坂は6%の坂だと言いますね。だけど、それは平均の勾配です。もしかすると、坂の勾配はずっと一定ではなかったということもありえます。たとえば、前半の50メートルは比較的ゆるやかで2メートルしか高度をかせいでいないけど、後半の50メートルがけっこうきつくて4メートルかせいだのだったとしましょう。そうすると、前半は
2 [m] ÷ 50 [m] = 4%
後半は
4 [m] ÷ 50 [m] = 8%
だったということになります。
しかし、これもやはり、前半、後半、それぞれの区間の平均の勾配です。区間は、もっと狭めていくことができます。1メートル進んで3センチ上がったというのなら、3%です。10センチ進んで7ミリ上がったというのなら、7%です。
だけど、これとても、やはり2地点の間の平均の勾配です。勾配という概念は、2地点の間に斜めに板を渡さなくても、ある1地点だけで、「この地点での勾配」というものを考えることができると思いませんか? 「そうだ、そうだ」とおっしゃるなら、もう微分が理解できています。それが微分です。
1ミクロン進んで50ナノメートル上がったのなら、勾配は5%だ、というふうに、2地点間の距離をどんどんどんどん限りなく近づけていったとき、平均の勾配の値もあるひとつの値に近づいていきます。それが、その地点、1点における勾配です。すなわち、微分。
一本の丸太ん棒を寝かせて置き、その上に平らな板をのせてシーソーのようにして、左右に片足ずつ乗せて板に乗り、バランスをとってみましょう。横から見ると、丸太ん棒と板とは、1点で接しています。その1点における丸太の勾配が、すなわち板の勾配になっています。板が丸太を微分しているわけですな。
車のスピードメーターが指している、現在のスピード、これも微分です。A地点からB地点までどれだけの時間をかけて到達したかによって、2地点間の平均のスピードが決まるわけですが、スピードメーターの指しているのは、それではなくて、1地点を通過する今、この瞬間のスピードです。これは、まさしく微分です。先ほどの坂道の例で、水平方向を時間に、垂直方向を移動距離に置き換えただけの話です。
つまるところ、微分とは、坂がどれだけ傾いているかを、1地点ごとに求める計算のことなのです。どうです? 微分なんて、もうコンビニみたいに身近に感じられませんか? 微分、積分、いい気分。
●画像を微分すれば輪郭線が取り出せる
さて、これで準備が整いました。先ほどの雪で作った、浮き彫りパンダに戻りましょう。黒領域は踏み固めてあり、白領域は積もったままです。では、その間の境界線はどうなっているでしょう。ほぼ垂直な壁になってますね。つまり、勾配が非常にきつい。だから、画像を微分して、勾配が非常に大きなところを抽出すれば、それが輪郭線になっているというわけです。
ただし、ここで言う「微分」には、ちょっと注釈を加えておく必要があります。浮き彫り画像の中を歩き回るとき、先ほどの坂道の場合と違う点があります。坂道では、道に沿って上るか下るかの方向にしか進めないのに対して、画像では、東西南北斜め、どっちの方向にも進むことができます。そして、どっちへ進むかによって、勾配が変わってきます。
こういう場合に便利な「グラジエント」という概念があります。グラジエントは矢印です。いま、山の中腹に立っているとします。このとき、グラジエントは、坂を最も急峻に上る方向を向きます。矢印の長さは、その方向の勾配を示します。グラジエントの逆向きは、谷へ向かって最も急峻に下る方向を示しています。ところで、等高線に沿って進めば、勾配はゼロです。実は、グラジエントと等高線とは、かならず直角をなすという性質があります。
いま、等高線で描かれた地形図を持っているとします。自分がいる地点に点を打ちます。その地点から、等高線と垂直に、上る方向に矢印を引きます。等高線が密集しているところなら勾配がきついので長く、まばらなら緩やかなので短く引きます。この矢印がグラジエントです。
画像の輪郭を抽出するには、各点でグラジエントの長さを求め、これが大きいところを抽出すればよい、ということになります。フォトショップでは、[フィルタ]→[表現手法]→[輪郭抽出]メニューを選ぶと、どうやらこの方法で抽出したと思しき輪郭線が表示されます。
この方法、実はあんまりうまくない点があります。輪郭線がぼやけていると、太く抽出されます。闇夜に黒牛とか雪に白うさぎとか、輪郭線がはっきりしないと、途切れ途切れになったりします。画像のトレースとしては、あまり美しくないのです。
●出っ張りとへこみの間を追跡する
この問題点に対処するために、「ラプラシアンのゼロ交差」という手法が考案されています。ラプラシアンは、簡単に言うと、自分のいる位置のすぐ周辺で地形が凸レンズのように飛び出しているか、凹面鏡のように引っ込んでいるかを示しています。飛び出しているとマイナスの値、引っ込んでいるとプラスの値が出てきます。
いま、公園のすべり台を思い浮かべてみましょう。一番上は平らですが、すべり始めのところはだんだんと傾きが急になっていくので、そのあたりの形は出っ張っています。つまり、ラプラシアンがマイナスの値をとります。だーっとすべるところは、出っ張っても引っ込んでもいない平面なので、ラプラシアンはゼロです。いちばん下にさしかかると、だんだんと傾きが緩やかになっていくので、形としては、引っ込んでいます。つまり、ラプラシアンがプラスの値をとります。
そういうわけで、ラプラシアンの符号が転ずるところを抽出すれば、傾きの最も急峻なところを抽出することに相当するというわけです。この方法のいいところは、幅ゼロの究極的に細い線でトレースしてくれることと、線をたどっていくと途切れずに一回りして必ず元の位置に戻ってくることです。
画像全体に対して、ラプラシアンの値がプラスまたはゼロの領域を黒く塗り、マイナスの領域を白く塗ることにすれば、どんな画像も白黒2色で塗り分けることができます。その境界線を抽出するのだから、上に述べた2つの性質は、成り立つのが当然です。
この方法だと、画像に載ったノイズを拾って蛇行しやすいので、あらかじめ「ガウシアン」と呼ばれる平滑化を施しておくという工夫が加えられています。それが「ガウシアン・ラプラシアンのゼロ交差」です。
この方法は一般的に広く使われているようなのですが、私はずいぶん前から、厳密に言って正しくはないなぁ、と気がついていました。いま、お山のすべり台を思い浮かべます。これは、丸い砂山のような、というか、釣鐘を地べたに置いたような、というか、そういう形のお山で、山頂から360°どっち方向にでもすべり降りることができます。このすべり台の勾配の最も急峻なところでラプラシアンの値はどうなっているでしょうか。
グラジエント方向には出っ張っても引っ込んでもいません。が、等高線方向には丸みを帯びて出っ張っています。だから、ラプラシアンはマイナスの値をとります。もう少し下まで行って、グラジエント方向のへこみと等高線方向の出っ張りがちょうど同じになって相殺しあったところでラプラシアンの値がゼロになります。つまり、輪郭線が曲がっているところでは、ラプラシアンのゼロ交差はカーブの外寄りに抽出されてしまうという欠点があるのです。
●ケバヤシアンの登場
正しい方法は、グラジエント方向に沿った2次微分の値のゼロ交差を抽出するというものです。こうすれば、お山のすべり台でも、最も急峻なところを抽出することができ、しかも、先ほどの2つの好都合な性質が保たれています。
これ、いちおう私が自力で思いつきました。なので、発案者をたたえて「ケバヤシアン」と呼んでいただけたらと思います。「ラプラシアンのゼロ交差」に代えて「ケバヤシアンのゼロ交差」というわけです。
だけど、私以前に同じことを考えた人はいないのでしょうか。いやいや、そんなことはないでしょう、きっと。画像処理の基礎的な手法の研究に従事している技術者なら、そんなに発見しづらい手法ではないような気がします。案外と古くからあって、ただ、あまり使われて来なかっただけなのかもしれません。
特許は検索してみました。近いところで、(株)東芝が1991年に出願した「画像処理装置」(特開平5-167927)というのがありました。医療向けの画像処理に関する発明で、DSA(digital subtraction angiography)という技術を用いて得た血管の画像から、血管の輪郭線を抽出する装置について述べられています。その内容は、まさにグラジエント方向の2次微分のゼロ交差を求めるとい
うものです。ただし、中身の計算は私のと異なります。
東芝のは、グラジエント方向に画像の断面を求め、字義通りに2次微分のゼロ
交差を探していきます。私のは、グラジエント方向の2次微分がひとつの数式
で表現できているので、値がより正確に、しかも一発で求まります。なので、その違いを頼みに、私もいちおう出願しておきました。一年半後に自動的に公開されるので、特許庁のホームページに行って「ケバヤシアン」で検索をかけると出てくるでしょう。
だけど、基礎的な技術なので、権利化して独占的に使うよりも、広く使っていただいたほうが、個人的には嬉しいかな〜と思っています。審査で拒絶された場合は、使用料をいただく必要もないし。
それよりも、この方法って、効果のほどはどうなのでしょう。えっへん、実は、たいしたことないんです(ここまで引っ張っておいて、それかよ?)。いやいや、画像によるのです。パンダの写真みたいなやつでは、ラプラシアンもケバヤシアンも、結果に大差ありません。が、ある製品の電子顕微鏡画像のように、ぼやーっとボケている上に、ノイズに埋もれかけているような画像に対しては、効果てきめんなのです。そういう画像でしか違いが現れない上に、計算時間は余計にかかるので、今まで軽視されてきたのかもしれません。
●お待ちかねの(?)数式です
ちゃんと数式で示してくれなきゃ不明確ではないか、とじれている方がいらっしゃると思います、3人くらい。お待たせしました。
画像の面をX-Y平面とします。高さ方向にZ軸をとります。zをxで偏微分した値をzxと書きます(本当は、xはzの右下に添え字として小さく書くのですが)。同様に、zをyで偏微分した値をzyと書きます。
zをxで2回偏微分した値をzxx、yで2回偏微分した値をzyy、xで1回偏微分して、しかるのちにyで1回偏微分した値をzxyと書きます。
zのグラジエント▽zは
▽z = (zx, zy)
というベクトルです。
zのラプラシアン△zは △z = zxx + zyyという式で示される値です。
zのケバヤシアン△Kzは
△Kz = (zxx zx^2 + 2 zxy zx zy + zyy zy^2) / (zx^2 + zy^2)
という式で示される値です。a^2とはaの二乗を表しています。
ちょっとグロテスクな式ですね。だけど、見慣れるとかわいく見えてきます。この手法は、電子顕微鏡写真のように、荒れた画像を取り扱っている方には朗報なのではないかと思います。もしご興味がありましたら、ご連絡をいただければ、喜んで詳しくご説明いたします。
【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
画像処理技術の研究にかかわるサラリーマン。法律で印刷してはいけないことになっている画像をいちいち手作業で修正するのが面倒だから、画像処理で自動化できないか、という相談を受けたことがあります。実験に必要だからとサンプル画像をたくさんもらってきたのですが、うまいアイデアが浮かばず、結局、眺めただけで終わりました。今もひたすらそんな作業をしてる人がどこかにいると思うと心が痛みます。この場をお借りしてお詫び申し上げます。
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■編集後記(2/29)
・新聞の特集「埼玉県公立高校入試問題と解答」をざっと読んでみた。ざっと、ですよ。本気になって取組んだら、とても残念な結果になるのがわかっているから、あくまでざっと眺めてみたんだよという防波堤。国語は大丈夫。傍線部の意味するものを次の4つから選べ、なんて問題は深く考えてはいけない、表面的なことを素直に捉えればOKというテクニックをどこかで読んだが、まさにその通りで、考えれば考えるほど泥沼にはまりそうだった。社会もまあ及第点はとれそうだ。英語はちょっと危ないかも。理科と数学はまったくダメ。総合すると、間違いなく不合格だ(防波堤の意味がなかった)。高校入試問題になんとか対応できたのは30代まで。以降、加速度的にわからなくなっている。もしかしたら、いまの中学入試でも理数系は無理かもしれない。そんなわけで、やさしく解き明かしてくれたGrowHairさんのテキストも、残念ながらよくわかりませんでした。もうしわけない。国語と日本史と日本地理なら、ある程度自信はある。高校で世界史を選択しなかったので、いまだに世界史はわからないし、もはや学ぶ熱意はないから死ぬまでわからないだろう。高校では、定期試験で友人の日本史を身代わりで受けていたので(自分の大学受験科目だったので、トレーニングになるから)、友人はとうとう日本史がよくわからないまま今日に至る。もうしわけない。神奈川県が、県立高校で日本史を必修化した。まことに結構なことだと思う。文部科学省の「世界史は、中学で本格的な学習が行われていない」という理由で、1994年度から世界史が必修になっていたとは知らなかった。いやはや、説得力ない理由だ。教育において、自国の歴史より世界の歴史を重要とするなんて珍しい国だ。怒りすら覚える。「国際化が進む中、自国の歴史や文化を深く理解する学習が必要」という神奈川県の考えの方は正しい。絶対正しい。この動きが全国的になればいい。(柴田)
・うわ、めっちゃ欲しい。リラックマのマグカップ。ローソンで対象商品についているポイントを集めるともれなくもらえるそう。Hot Pepperに3点おまけの台紙がついてたよ。あとはiDやEdy、QUICPayで払うと抽選でもらえるグッズとか、先着プレゼントやローソンポイントカード会員限定とか、もう気になって気になって。といっても身の回りにリラックマグッズはほとんどないんだけどさ。OLの頃ならきっと集められたなぁ。いまはコンビニでお買い物ってほとんどしないもの。買おうか迷っているのが、リラックマのスタンプ。リラックマののんびりした絵に添えられた「やればできるんです」と「ここらでひとハナさかせてみますか」を、人に見せない日誌に押してみたいのだ。日々の自分にOKを押していってあげたいのだ。「たいへんよくできました」ではだめなの。こういう文面のスタンプってないわよぉ。文面のわりになめた態度のリラックマが良くて、気負わずにいられそうじゃない? まぁすぐに飽きそうで買うの躊躇しているんだけどね……。(hammer.mule)
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蒼ざめた馬を見た人々
十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20080229140200.html
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先日、長い間、気になっていた映画を見た。「日曜日には鼠を殺せ」(1964年)というフレッド・ジンネマン監督作品だ。中学生の時に学年誌の映画紹介の記事を読んで以来ずっと見たかったのだが、とうとう40数年、見る機会がなく今に至った。DVDが発売になったので、いつでも見られると思っていたらワウワウで放映してくれたのだ。
驚いたのは映画のタイトルが「BEHOLD A PALE HORSE(蒼ざめた馬を見よ)」となっていたことである。「ヨハネ黙示録」第六章第八節の有名なフレーズであり、その出典も映画の冒頭で明らかにされる。「蒼ざめた馬を見よ。これに乗るものの名を死…」というもので、60年代カルチャーに触れた人にはおなじみのフレーズだろう。
僕が高校生の頃、晶文社からロープシン(サヴィンコフ)の「蒼ざめた馬」という本が出ていた。その頃、五木寛之さんが「蒼ざめた馬を見よ」という小説で直木賞を受賞した。そのフレーズの意味はよくわからなかったが、僕も「蒼ざめた馬を見よ。これに乗るものの名を死といい、黄泉これに従う」という言葉のカッコヨサにまいったものだった。
キリスト教圏ではこのフレーズは有名らしく、クリント・イーストウッド監督主演の西部劇「ペイルライダー」(1985年)もこのフレーズからとっているし、映画の中でも引用される。イーストウッドが演じたガンマンは「死」を象徴する存在だった。つまり「蒼ざめた馬に乗ったライダー」なのである。
しかし、である。僕が気に入っていた「日曜日には鼠を殺せ」というタイトルは誰がつけたのだろうかと疑問が湧いた。この映画を見た宣伝担当者が「日曜日には鼠を殺せ」という邦題をつけたとすると、あまりにかっこよいではないか。だいたい、映画を見ても「日曜日には鼠を殺せ」という邦題の意味がまったくわからない。
原作小説は「日曜日には鼠を殺せ」のタイトルで、映画が公開された頃、早川書房から出版されていた。作者は「赤い靴」(1948年)などの監督で脚本家でもあったエメリック・プレスバーガーである。その小説の原題が「Killing a mouse on Sunday」だった。それを、なぜかタイトルを変更して映画化した。
キリスト教圏ではない日本では「蒼ざめた馬を見よ」より「日曜日には鼠を殺せ」の方が思わせぶりでいいと、映画会社の宣伝部は考えたのだろうか。この映画が公開された頃、まだ五木作品は書かれていなかった。ロープシンの「蒼ざめた馬」は出ていたが、まだまだマイナーだった。
「日曜日には鼠を殺せ」をネットで調べたら、その意味がわかった。聖書の教えを忠実に守る敬虔な清教徒は、日曜日は安息日だから働いてはいけないと考える。だから、日曜日に鼠を殺した猫がいたとしたら、月曜日に清教徒に殺される…という意味だという。日曜日に鼠を殺すとひどい目に遭うよ、ということだろうか。
日曜日に鼠を殺すことは徒労であり、そのために手痛いしっぺ返しを喰らってしまう…そう理解すれば、この映画のテーマに合っているかもしれない。スペイン市民戦争に敗北した主人公はフランスに亡命しているが、彼を宿敵として狙うスペインの警察署長の罠を知りながら帰郷し、壮絶な銃撃戦の中で死んでいく物語なのである。
●「スペイン市民戦争」という言葉が輝いていた頃
「スペイン市民戦争」という言葉を知ったのは、「日曜日には鼠を殺せ」の紹介記事が最初だったと思う。次に「誰がために鐘は鳴る」は、ヘミングウェイが義勇兵としてスペイン市民戦争に参加した体験から生まれたことを知った。「誰がために鐘は鳴る」は、ハリウッドで1943年に映画化された。スペイン市民戦争が人民戦線側の敗北で終わった4年後のことである。
しかし、スペイン市民戦争とはどういうことだったのかを理解したのは、五木寛之さんの「裸の町」を読んだときだった。僕はファシスト側(反乱軍)のフランコ将軍を支援したのがナチス・ドイツとイタリアであり、人民戦線側(政府軍)を支援したのがスターリンのソ連とメキシコ革命後のメキシコだったことを知った。「裸の町」は、スターリンがスペインに送った大量の金塊を巡る物語だった。
高校生のときだった。アラン・レネ監督「戦争は終わった」(1966年)を見て、未だに反フランコの活動を続けている人々がいることを僕は知った。1960年代半ばの現在の話なのに、かつての人民戦線の闘士である主人公(イブ・モンタン)は、反フランコ政権の地下運動を続けているのだった。
スペイン内乱が終わって、四半世紀が過ぎていた。それでも、スペインはフランコ将軍が敷いた体制が続いているファシスト国家だった。僕は「スペイン市民戦争」のことをさらに知りたくて、写真家ロバート・キャパの「ちょっとピンボケ」を読み、その頃すでにフランスの文化大臣になっていたアンドレ・マルローの「希望」を読んだ。
「革命」という言葉にロマンを抱いていた16歳の僕にとって「スペイン市民戦争」は、輝ける何かになった。多くの小説家や詩人が反ファシストの立場で義勇軍に参加した内戦。ロバート・キャパは銃撃され崩れゆく瞬間の兵士の写真を撮り、ヘミングウェイやマルローは自らの体験を小説に書いた。マルローは「希望」を基にして「テルエルの山々」(1939年)という映画を作る。
スペイン市民戦争の時代に生きたスペイン人はパブロ・ピカソがいて、パブロ・カザルスがいた。ピカソは、フランコ将軍を支援するナチス・ドイツによって大規模な空爆を受けたゲルニカの悲劇を作品に昇華した。カザルスはフランスに亡命するが、各国政府がフランコ政権を認めたことに抗議して演奏活動を停止する。今でも僕はカザルスの「鳥の歌」を聴くたびに、スペイン市民戦争に思いを馳せる。
だが、イギリスの詩人ジョージ・オーウェルの「カタロニア賛歌」を読んで、僕の「スペイン市民戦争」に託した夢や希望は潰えた。オーウェルは左翼作家というよりはアナーキストの立場だったが、それでもスペイン市民戦争が始まると人民戦線側の国際旅団に義勇兵として参加する。
そこで彼が体験したのは、同じ人民戦線側からの攻撃である。左翼陣営内部の対立であり、分裂だった。スターリン率いるソ連からの支援を受け勢力を拡大したスペイン共産党は、人民戦線側の多数を占めていたアナーキスト派をトロッキストと呼び、1937年にはとうとう軍事的な衝突を起こす。人民のための理想の社会を作ることを目標としていたはずの左翼陣営の内部分裂…、それが僕には信じられなかった。
オーウェルは味方の銃弾から逃れた体験を「カタロニア賛歌」で記し、この後、「動物農場」でスターリニズム批判を展開し、「1984年」で全体主義に支配される暗黒社会を描き出し、人間が作る国家や政府への絶対的な不信を明らかにした。大学に入った僕が学生運動にのめり込む人間たちの言葉を信用せず、内ゲバを繰り返すセクトの人間たちを軽蔑したのは、高校生の頃にオーウェルを読んだからかもしれない。
●無駄だと思われる行為に己の誇りをかけるとき
「スペイン市民戦争」への夢や希望を失ったときから40年が過ぎた現在、僕は「日曜日には鼠を殺せ」の冒頭シーンを見ながら、一瞬、それを甦らせた。おそらく記録映画のフィルムを使っているのだろう、軍人ではなく普通の市民の姿をした人たちが戦いを展開していた。銃を持たず、投石でファシストたちに対抗している人々の姿も映っていた。
そのフィルムが終わり、フランス国境に並ぶ人民戦線の兵士たちの列が映る。フランスに亡命するためには、武器を放棄しなければならない。その中のひとりが列を離れてスペインへ戻ろうとする。「あきらめろ、マヌエル」という声がかけられる。1939年のことである。
20年後、スペイン国境に近いフランスの街で暮らすマヌエル(グレゴリー・ペック)は、かつての同志の息子の訪問を受ける。マヌエルの情報を得るために警察署長(アンソニー・クイン)は、少年の父親を拷問し殺したのだという。少年は、マヌエルに署長を殺し父の敵を討ってくれと訴えるが、マヌエルは冷たく少年を追い返す。
マヌエルは母が病の床に伏せっていることを、しばらく前から知っていた。20年間、反政府ゲリラとしてマヌエルはスペインに戻り、銀行強盗や政府機関への攻撃を繰り返してきた。しかし、年老いた今、彼は母が病気だと知りながらスペイン国境を越えることができない。「俺は臆病になった」とつぶやく。
「奴は反政府ゲリラのリーダーなどではない。単なる強盗だ」と新聞記者に主張する警察署長は、マヌエルを逮捕するために彼の母親を病院に収容し、病院の周囲に罠を張り巡らせる。マヌエルが信頼する同志カルロスも署長に籠絡され、密告者になりさがる。
マヌエルは母が死に、カルロスが裏切ったことを知る。しかし、マヌエルは埋めてあった武器を掘り出し、ピレネー山脈をひとりで越えていく。その孤独な影が印象的だ。母が死に、罠だとわかっているところへ、なぜ彼は帰っていくのだろう。間違いなく、そこには「死」が待っている。蒼ざめた馬に乗った死が、黄泉を従えて待っている…
マヌエルの行動には、何の意味もない。死んだ母に会うという目的以外に何もないし、おそらく母の亡骸を安置した部屋まで彼はたどり着けない。徒労である。しかし、彼はピレネーを越える。それは、おそらく彼が生涯をかけて闘ってきたものに殉じるためだ。自分の人生を無にしないために、彼はあえて徒労と言われる行為を選ぶ。
安息日に働いたことをもって月曜日に殺されるとしても、日曜日に鼠を殺すことは必要なのではないか。人は現実の利益より、誇りや自尊心といった精神性を重視する。それが、人間ってものじゃないのか。だから、僕には自死とも思えるマニエルの行動が理解できる。共感する。自分もそうありたいと思う。
この映画は1964年に公開されたが、映画の中の現在時は1959年の設定であり、ほとんど同時代の話だった。僕が本格的にスペイン市民戦争に興味を持つきっかけになった「戦争は終わった」の主人公も、1966年に27年前に終わった内戦を引きずっていた。
当時の僕にとってスペイン市民戦争は自分が生まれる12年前に終わった内乱であり、そんな昔のことにこだわることが理解できなかった。だが、50年以上を生きてきた今ならわかる。35年前の蟠りが僕の中の大きな部分を占めているし、その想いを抱いて生きてきた35年間なんて、ほんの一瞬のことだ。たった35年、未だに決着(オトシマエ)はつかない…
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
前回、うっかり「ハンフリー・ボガード」と書いてしまいました。「ボガート」ですね。三谷幸喜の芝居「エキストラ」に出てくる映画ファンのおやじ(角野卓造が演じていた)が「ボガードじゃなくてボガート」としつこく訂正するセリフがあり、僕とそっくりと笑ったのに自分がうっかり間違ってるんじゃ仕方がありません。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
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■Otaku ワールドへようこそ![68]
画像の輪郭線を抽出する方法について
GrowHair
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写真の上にトレーシングペーパーをかぶせて、上から鉛筆で輪郭線をなぞると、線画に起こすことができますね。これに相当することを、パソコンを使って自動的に行うこともできます。たとえば、アドビシステムズが販売しているおなじみの画像編集ソフトウェア「フォトショップ」を使えば、[フィルタ]→[表現方法]→[輪郭のトレース]メニューでそういう処理ができます。
コンピュータの中で、いったいどんな計算が行われているのかは、利用する側からみれば、立ち入る必要のない領域です。せいぜい、「中の人」が画像を隅から隅まで眺め渡して、せっせとトレースしているんだな、はいはいご苦労さん、ぐらいに思っておけばいいわけです。いわゆるブラックボックスってやつですね。
だけど、ソフトウェアを書く側からみれば、どうやって輪郭線を抽出したらいいかは重要な問題です。このための手法はいくつもあります。実は、私も最近、ひとつ思いつきました。この手法は、一般的によく用いられている「ラプラシアン・ガウシアンのゼロ交差」と呼ばれる手法に比べて、ほんのちょっとだけいいところがあるのではないかと思っています。
なので、今回はその話をしてみたいと思います。まあ、いきなり数式がぞろぞろ出てきては楽しくないかもしれないので、まずはカタい話抜きに画像処理のことを一から説き起こして、ピクニック気分でゴールまでたどり着けたらよいかと思います。
●画像を浮き彫り的に見る
我々人間が写真を眺めるとき、そこに何が写っているとか、背景がどうなっているとか、シーンを瞬時にして理解します。その上で、何らかの感情が呼び起されたり、絵としての面白さを味わおうとする働きが起きたり、いいとか悪いとかきれいとかきたないとか好きとか嫌いとか、判定が下ったりします。しかし、コンピュータで画像を扱う方法について考えるとき、画像を眺めるにも、ふだんとは違った入り方が必要になり、ちょっとしたコツが要ります。画像をある種の立体としてとらえるのです。
立体といっても、ホログラムなどの3D映像のように、写真に写っている対象物の元の立体形状を復元しようというのではないのです。もっと機械的に、白っぽいところは手前に飛び出していて、黒っぽいところは奥に引っ込んでいるように見るのです。浮き彫り的立体像とでも言いましょうか。
単純なことなんですが、これが意外に慣れを要します。人間の脳内では、左右の目から来た平面像から元の立体形状を復元しようとする回路が常に勝手に作動しているようで、このスイッチをわざわざ切って、浮き彫り的な立体像に切り替えて見るということに、なんとなく抵抗感があります。まあ、人間に限らず、猫や猫型ロボットでもそうだとは思いますが。
自分が小さな点になったつもりで、この浮き彫り的立体の世界へ入っていき、歩き回ってみましょう。広い平らなグラウンドに、雪が15センチくらい積もっている光景を想像してみてください。足跡は全然ついていません。今、窓の外が実際にそうなっているという人はラッキーです。ぜひ、外へ出ましょう。
その前に、パンダの写真を用意しておきましょう。パンダでなくてもいいのですが。パンダイルカでもいいし、パンダ犬でもいい。それを片手に眺めながら、頭の中で雪の上にでっかく投影し、黒いところを足で踏み固めていきましょう。パンダの目のまわりの黒は、靴跡のような形にへこみますね。その周辺の白いところは、元の積もった雪のまま触りません。白い領域でも、陰影がついてややグレーがかって見えるところは、少しだけ雪を押し固めます。こうしてできるのが、浮き彫り的立体像です。
2メートルぐらい積もった雪で作ったら、ほんとうに自分が画像の中に入って探検しているようで、楽しいかもしれません。雪がなければ霜柱でもいいかも。雪とか霜柱とか、踏む感触がいいですよね。霜柱もなければ、爪楊枝はいかがでしょうか。ビニールの円筒の中にぎっしり詰まった爪楊枝。手のひらで底を押し上げて、全体を少し浮かせます。そしたら、一部分を上から指で押し込みます。こうして絵が描けます。
爪楊枝もなかなかいい感触です。私なんざ、たま〜に意識がぶっ飛んで、小一時間、表から裏から押し込んで遊んでることがあります。一度、ユニットバスの浴槽ぐらいの広さの枠にびっしりと爪楊枝を詰め込んで、ぎゅうぎゅう押して遊べたら面白かんべえと思います。手形とかギジョッとつけてみたくなりますね。
●実はみんな理解している「微分」
微かに分かる微分、分かった積もりの積分、と言われ、微分・積分は、ただでさえ難しい数学の中でも、最も難解なことのように言われがちです。まあ、そういうところがあるというのも否定しきれませんが(多様体上のストークスの定理なんて、私ゃさっぱり理解できちょらんし)。
だけど、微分という概念そのものがそんなに難しいものかと言えば、意外とそうでもないのです。習わなくたって、みんな最初っから直観的には知っているとも言えます。
坂道をえっちらおっちら上っている自分を想像してみてください。この坂の勾配が、水平に100メートル進んで、垂直に6メートル上がるのに相当するならば、この坂は6%の坂だと言いますね。だけど、それは平均の勾配です。もしかすると、坂の勾配はずっと一定ではなかったということもありえます。たとえば、前半の50メートルは比較的ゆるやかで2メートルしか高度をかせいでいないけど、後半の50メートルがけっこうきつくて4メートルかせいだのだったとしましょう。そうすると、前半は
2 [m] ÷ 50 [m] = 4%
後半は
4 [m] ÷ 50 [m] = 8%
だったということになります。
しかし、これもやはり、前半、後半、それぞれの区間の平均の勾配です。区間は、もっと狭めていくことができます。1メートル進んで3センチ上がったというのなら、3%です。10センチ進んで7ミリ上がったというのなら、7%です。
だけど、これとても、やはり2地点の間の平均の勾配です。勾配という概念は、2地点の間に斜めに板を渡さなくても、ある1地点だけで、「この地点での勾配」というものを考えることができると思いませんか? 「そうだ、そうだ」とおっしゃるなら、もう微分が理解できています。それが微分です。
1ミクロン進んで50ナノメートル上がったのなら、勾配は5%だ、というふうに、2地点間の距離をどんどんどんどん限りなく近づけていったとき、平均の勾配の値もあるひとつの値に近づいていきます。それが、その地点、1点における勾配です。すなわち、微分。
一本の丸太ん棒を寝かせて置き、その上に平らな板をのせてシーソーのようにして、左右に片足ずつ乗せて板に乗り、バランスをとってみましょう。横から見ると、丸太ん棒と板とは、1点で接しています。その1点における丸太の勾配が、すなわち板の勾配になっています。板が丸太を微分しているわけですな。
車のスピードメーターが指している、現在のスピード、これも微分です。A地点からB地点までどれだけの時間をかけて到達したかによって、2地点間の平均のスピードが決まるわけですが、スピードメーターの指しているのは、それではなくて、1地点を通過する今、この瞬間のスピードです。これは、まさしく微分です。先ほどの坂道の例で、水平方向を時間に、垂直方向を移動距離に置き換えただけの話です。
つまるところ、微分とは、坂がどれだけ傾いているかを、1地点ごとに求める計算のことなのです。どうです? 微分なんて、もうコンビニみたいに身近に感じられませんか? 微分、積分、いい気分。
●画像を微分すれば輪郭線が取り出せる
さて、これで準備が整いました。先ほどの雪で作った、浮き彫りパンダに戻りましょう。黒領域は踏み固めてあり、白領域は積もったままです。では、その間の境界線はどうなっているでしょう。ほぼ垂直な壁になってますね。つまり、勾配が非常にきつい。だから、画像を微分して、勾配が非常に大きなところを抽出すれば、それが輪郭線になっているというわけです。
ただし、ここで言う「微分」には、ちょっと注釈を加えておく必要があります。浮き彫り画像の中を歩き回るとき、先ほどの坂道の場合と違う点があります。坂道では、道に沿って上るか下るかの方向にしか進めないのに対して、画像では、東西南北斜め、どっちの方向にも進むことができます。そして、どっちへ進むかによって、勾配が変わってきます。
こういう場合に便利な「グラジエント」という概念があります。グラジエントは矢印です。いま、山の中腹に立っているとします。このとき、グラジエントは、坂を最も急峻に上る方向を向きます。矢印の長さは、その方向の勾配を示します。グラジエントの逆向きは、谷へ向かって最も急峻に下る方向を示しています。ところで、等高線に沿って進めば、勾配はゼロです。実は、グラジエントと等高線とは、かならず直角をなすという性質があります。
いま、等高線で描かれた地形図を持っているとします。自分がいる地点に点を打ちます。その地点から、等高線と垂直に、上る方向に矢印を引きます。等高線が密集しているところなら勾配がきついので長く、まばらなら緩やかなので短く引きます。この矢印がグラジエントです。
画像の輪郭を抽出するには、各点でグラジエントの長さを求め、これが大きいところを抽出すればよい、ということになります。フォトショップでは、[フィルタ]→[表現手法]→[輪郭抽出]メニューを選ぶと、どうやらこの方法で抽出したと思しき輪郭線が表示されます。
この方法、実はあんまりうまくない点があります。輪郭線がぼやけていると、太く抽出されます。闇夜に黒牛とか雪に白うさぎとか、輪郭線がはっきりしないと、途切れ途切れになったりします。画像のトレースとしては、あまり美しくないのです。
●出っ張りとへこみの間を追跡する
この問題点に対処するために、「ラプラシアンのゼロ交差」という手法が考案されています。ラプラシアンは、簡単に言うと、自分のいる位置のすぐ周辺で地形が凸レンズのように飛び出しているか、凹面鏡のように引っ込んでいるかを示しています。飛び出しているとマイナスの値、引っ込んでいるとプラスの値が出てきます。
いま、公園のすべり台を思い浮かべてみましょう。一番上は平らですが、すべり始めのところはだんだんと傾きが急になっていくので、そのあたりの形は出っ張っています。つまり、ラプラシアンがマイナスの値をとります。だーっとすべるところは、出っ張っても引っ込んでもいない平面なので、ラプラシアンはゼロです。いちばん下にさしかかると、だんだんと傾きが緩やかになっていくので、形としては、引っ込んでいます。つまり、ラプラシアンがプラスの値をとります。
そういうわけで、ラプラシアンの符号が転ずるところを抽出すれば、傾きの最も急峻なところを抽出することに相当するというわけです。この方法のいいところは、幅ゼロの究極的に細い線でトレースしてくれることと、線をたどっていくと途切れずに一回りして必ず元の位置に戻ってくることです。
画像全体に対して、ラプラシアンの値がプラスまたはゼロの領域を黒く塗り、マイナスの領域を白く塗ることにすれば、どんな画像も白黒2色で塗り分けることができます。その境界線を抽出するのだから、上に述べた2つの性質は、成り立つのが当然です。
この方法だと、画像に載ったノイズを拾って蛇行しやすいので、あらかじめ「ガウシアン」と呼ばれる平滑化を施しておくという工夫が加えられています。それが「ガウシアン・ラプラシアンのゼロ交差」です。
この方法は一般的に広く使われているようなのですが、私はずいぶん前から、厳密に言って正しくはないなぁ、と気がついていました。いま、お山のすべり台を思い浮かべます。これは、丸い砂山のような、というか、釣鐘を地べたに置いたような、というか、そういう形のお山で、山頂から360°どっち方向にでもすべり降りることができます。このすべり台の勾配の最も急峻なところでラプラシアンの値はどうなっているでしょうか。
グラジエント方向には出っ張っても引っ込んでもいません。が、等高線方向には丸みを帯びて出っ張っています。だから、ラプラシアンはマイナスの値をとります。もう少し下まで行って、グラジエント方向のへこみと等高線方向の出っ張りがちょうど同じになって相殺しあったところでラプラシアンの値がゼロになります。つまり、輪郭線が曲がっているところでは、ラプラシアンのゼロ交差はカーブの外寄りに抽出されてしまうという欠点があるのです。
●ケバヤシアンの登場
正しい方法は、グラジエント方向に沿った2次微分の値のゼロ交差を抽出するというものです。こうすれば、お山のすべり台でも、最も急峻なところを抽出することができ、しかも、先ほどの2つの好都合な性質が保たれています。
これ、いちおう私が自力で思いつきました。なので、発案者をたたえて「ケバヤシアン」と呼んでいただけたらと思います。「ラプラシアンのゼロ交差」に代えて「ケバヤシアンのゼロ交差」というわけです。
だけど、私以前に同じことを考えた人はいないのでしょうか。いやいや、そんなことはないでしょう、きっと。画像処理の基礎的な手法の研究に従事している技術者なら、そんなに発見しづらい手法ではないような気がします。案外と古くからあって、ただ、あまり使われて来なかっただけなのかもしれません。
特許は検索してみました。近いところで、(株)東芝が1991年に出願した「画像処理装置」(特開平5-167927)というのがありました。医療向けの画像処理に関する発明で、DSA(digital subtraction angiography)という技術を用いて得た血管の画像から、血管の輪郭線を抽出する装置について述べられています。その内容は、まさにグラジエント方向の2次微分のゼロ交差を求めるとい
うものです。ただし、中身の計算は私のと異なります。
東芝のは、グラジエント方向に画像の断面を求め、字義通りに2次微分のゼロ
交差を探していきます。私のは、グラジエント方向の2次微分がひとつの数式
で表現できているので、値がより正確に、しかも一発で求まります。なので、その違いを頼みに、私もいちおう出願しておきました。一年半後に自動的に公開されるので、特許庁のホームページに行って「ケバヤシアン」で検索をかけると出てくるでしょう。
だけど、基礎的な技術なので、権利化して独占的に使うよりも、広く使っていただいたほうが、個人的には嬉しいかな〜と思っています。審査で拒絶された場合は、使用料をいただく必要もないし。
それよりも、この方法って、効果のほどはどうなのでしょう。えっへん、実は、たいしたことないんです(ここまで引っ張っておいて、それかよ?)。いやいや、画像によるのです。パンダの写真みたいなやつでは、ラプラシアンもケバヤシアンも、結果に大差ありません。が、ある製品の電子顕微鏡画像のように、ぼやーっとボケている上に、ノイズに埋もれかけているような画像に対しては、効果てきめんなのです。そういう画像でしか違いが現れない上に、計算時間は余計にかかるので、今まで軽視されてきたのかもしれません。
●お待ちかねの(?)数式です
ちゃんと数式で示してくれなきゃ不明確ではないか、とじれている方がいらっしゃると思います、3人くらい。お待たせしました。
画像の面をX-Y平面とします。高さ方向にZ軸をとります。zをxで偏微分した値をzxと書きます(本当は、xはzの右下に添え字として小さく書くのですが)。同様に、zをyで偏微分した値をzyと書きます。
zをxで2回偏微分した値をzxx、yで2回偏微分した値をzyy、xで1回偏微分して、しかるのちにyで1回偏微分した値をzxyと書きます。
zのグラジエント▽zは
▽z = (zx, zy)
というベクトルです。
zのラプラシアン△zは △z = zxx + zyyという式で示される値です。
zのケバヤシアン△Kzは
△Kz = (zxx zx^2 + 2 zxy zx zy + zyy zy^2) / (zx^2 + zy^2)
という式で示される値です。a^2とはaの二乗を表しています。
ちょっとグロテスクな式ですね。だけど、見慣れるとかわいく見えてきます。この手法は、電子顕微鏡写真のように、荒れた画像を取り扱っている方には朗報なのではないかと思います。もしご興味がありましたら、ご連絡をいただければ、喜んで詳しくご説明いたします。
【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
画像処理技術の研究にかかわるサラリーマン。法律で印刷してはいけないことになっている画像をいちいち手作業で修正するのが面倒だから、画像処理で自動化できないか、という相談を受けたことがあります。実験に必要だからとサンプル画像をたくさんもらってきたのですが、うまいアイデアが浮かばず、結局、眺めただけで終わりました。今もひたすらそんな作業をしてる人がどこかにいると思うと心が痛みます。この場をお借りしてお詫び申し上げます。
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■編集後記(2/29)
・新聞の特集「埼玉県公立高校入試問題と解答」をざっと読んでみた。ざっと、ですよ。本気になって取組んだら、とても残念な結果になるのがわかっているから、あくまでざっと眺めてみたんだよという防波堤。国語は大丈夫。傍線部の意味するものを次の4つから選べ、なんて問題は深く考えてはいけない、表面的なことを素直に捉えればOKというテクニックをどこかで読んだが、まさにその通りで、考えれば考えるほど泥沼にはまりそうだった。社会もまあ及第点はとれそうだ。英語はちょっと危ないかも。理科と数学はまったくダメ。総合すると、間違いなく不合格だ(防波堤の意味がなかった)。高校入試問題になんとか対応できたのは30代まで。以降、加速度的にわからなくなっている。もしかしたら、いまの中学入試でも理数系は無理かもしれない。そんなわけで、やさしく解き明かしてくれたGrowHairさんのテキストも、残念ながらよくわかりませんでした。もうしわけない。国語と日本史と日本地理なら、ある程度自信はある。高校で世界史を選択しなかったので、いまだに世界史はわからないし、もはや学ぶ熱意はないから死ぬまでわからないだろう。高校では、定期試験で友人の日本史を身代わりで受けていたので(自分の大学受験科目だったので、トレーニングになるから)、友人はとうとう日本史がよくわからないまま今日に至る。もうしわけない。神奈川県が、県立高校で日本史を必修化した。まことに結構なことだと思う。文部科学省の「世界史は、中学で本格的な学習が行われていない」という理由で、1994年度から世界史が必修になっていたとは知らなかった。いやはや、説得力ない理由だ。教育において、自国の歴史より世界の歴史を重要とするなんて珍しい国だ。怒りすら覚える。「国際化が進む中、自国の歴史や文化を深く理解する学習が必要」という神奈川県の考えの方は正しい。絶対正しい。この動きが全国的になればいい。(柴田)
・うわ、めっちゃ欲しい。リラックマのマグカップ。ローソンで対象商品についているポイントを集めるともれなくもらえるそう。Hot Pepperに3点おまけの台紙がついてたよ。あとはiDやEdy、QUICPayで払うと抽選でもらえるグッズとか、先着プレゼントやローソンポイントカード会員限定とか、もう気になって気になって。といっても身の回りにリラックマグッズはほとんどないんだけどさ。OLの頃ならきっと集められたなぁ。いまはコンビニでお買い物ってほとんどしないもの。買おうか迷っているのが、リラックマのスタンプ。リラックマののんびりした絵に添えられた「やればできるんです」と「ここらでひとハナさかせてみますか」を、人に見せない日誌に押してみたいのだ。日々の自分にOKを押していってあげたいのだ。「たいへんよくできました」ではだめなの。こういう文面のスタンプってないわよぉ。文面のわりになめた態度のリラックマが良くて、気負わずにいられそうじゃない? まぁすぐに飽きそうで買うの躊躇しているんだけどね……。(hammer.mule)
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