うちゅうじん通信[20]うちゅう人の時間
── 高橋里季 ──

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「究極の理想主義」を支える「時間についてのこと」を書きます。「究極の理想主義」については、デジクリサイトを見てね。
< https://bn.dgcr.com/archives/20080404140100.html
>

私は、「時間」を感じると、とっても幸せなんだけど、ヒトがヒトとして、一番ツライのも時間だと思うんです。たとえば牛や豚にも「情」はあるような気がするの。そういう意味で親子の情っていうのは、私の考えでは、べつに人間的なことではないんです。気がするだけで、研究した訳じゃないんだけど、牛だって、自分の子が自分から引き離されたりする時って、そうとう恐いと感じてるんじゃないかな? 身を引き裂かれるような想いをしていそうな気がする。

ヒトの脳や心の研究も大変なのだから、私たちが牛の脳とか気持ちを真剣に検討する余裕は「一億年経ってもあり得ない」かもしれないんだけど。とりあえず、私は、「情というのは、ヒトのことを考える道具にはならない。」としておきます。


やはりヒトの大問題は、「死ぬことを知りつつ生きている」ということで、この意味は、ただ知っているのではなくて、長い時間知っているということです。牛だって、自分の子が殺される前の晩ぐらいから、恐怖の一夜を親子で過ごしているかも知れません。

(誤解のないように、私の一番好きな料理はビーフシチュー。魚は、そうとうわからないように料理されていないとダメで。魚の形をしているとね、箸でさわるのもイヤ。でも、なぜかハンバーグは嫌い。???)

こういう意味からも、私は、「自分だけは殺人を犯したり、人に迷惑をかけないようにする。倫理的に恥じない生き方をする」だから、「犯罪者は自分とは違う特別に悪い人たちなんだ。」っていう考え方はわかんないわ。

「あんな残酷なことをするなんて、私には理解できない。」っていうような言い方って、ノーテンキな感じ。まあニュース番組のインタビューには、そう答えるしかないと思うけど。

それでね、私の何にでも使える方法のひとつに、「一番ツライことが道しるべになる」っていうのがあってね。「時間」が、ヒトの不安や期待を牛の何千倍にもしているのなら、時間のことを考えればいい。

そんなことを考えて、時間の本などもいろいろ読んでみました。学者さんはすごいな。私が想像するより、ずっとたくさんの時間の考え方が夢物語ではなくて、実際に研究されていたりする。

それでね、思い付いたの。自分が死ぬまでの時間しか考えないから不安や期待が、大きくなりすぎるんじゃないかな、って。考えないというよりも、ヒトが想像できる時間って、せいぜい100年くらいかも。300年後がどうなっているか、具体的には全然想像できない感じ。地球の空気が、今と同じかどうかもわからないものね。

「究極の理想主義」について書いている時に、「生きる意味」のこともがんばって書いているけど、私にはあんまり「生きる意味」は必要ありません。

私が、「時間を知る生き物」だということが、私の一番の苦悩であり、また、幸せの理由です。絵を描くときも、出来上がった絵を想像して、ワクワクできる。たった一枚の絵で、幸せ。

中国の人は、現世主義で、なんといっても「長生き」が大事なことなんだって、本で読んだことがあります。仙人とかね。私はあんまり長生きしなくてもいいや。大雑把に言えば、日本人はやっぱり桜の花が散るのを美しいと思うのかもしれません。自分が死ぬか死なないかより、私は、「殺す」のがイヤだな。

(誤解のないように、桜の花が散るのを美しいと思う、だからヒトも桜のように潔く死ぬべきだ。とか言ってませんからね。)

一億年後、ヒトが、「一億年前の人は、平気で動物を殺して食べていたんですって。そうしないと、タンパク質が不足して、本当に死んでしまう身体だったらしい。」って、「コワ〜イ!」とか言っていたら、いいな。

死ぬ心配のないヒトが、どんな倫理観を持つでしょう? どんな絵を描くのかな? 私、今、そういう絵を想像力いっぱいに描けたらいいなと思いますが、今、書いていることと、仙人のように生きたいということは、全然ちがう。

自分が死にたくないということと、ヒトは一生懸命生きるべきであることと、戦争はすべきでないということと、いろんなことを安易に「だから」で繋ぐのは、変です。そういうクセのある人って、どんなに読書をしても、自分勝手に文脈を取り違えてしまいそう。

「私は殺されたくない。だから、みんな殺しあいはやめよう。」っていうのは、変なの? って感じるのが普通だと思うんだけど。

一億年後のことを想いながら絵を描くのは「狂気」。その狂気が殺人犯の狂気と、なんら質的にも量的にも変わらない神経伝達物質の表出だとして、凶器を買うより絵の具を買った。ほとんど、タイミングや運の問題でしょう? たとえば、今の時代を私が、どういう文脈で捉えることができるのかっていうのは、ほとんど、私の運がそうだった、、、くらいのこと。

絵を描き終えて、初めてわかるの。「私の時間は、絵を描くことに使われたんだな。」いえ、「時間は、絵を描くことに私を使った。」大地震も起きなかったし、世界も終わらなかったらしい。こういう「時間についてのこと」が、私が理想を持つ理由です。

がんばって書いたけど「言うべき時に言うべきだ」っていう言葉自体が、なんだか、海外の本を訳すときに使われるような感じ。TPOと「時と場合」の感覚って、すごく違うと思うし、「場合」っていう感覚もなんとなくわからない感じ。私だけ? 「べきだ論」って、なんだかキライなのは、世代感覚かも。

「思考」「感情」「感覚」「直感」べきだ悲しい好き縄文回帰、全部否定したら、なんにも残らないかと心配していましたが、どうも「時間感受性(感性または本能または、、、)」で、なんとかするつもりの私です。

【たかはし・りき】イラストレーター。 riki@tc4.so-net.ne.jp
・高橋里季ホームページ
< http://www007.upp.so-net.ne.jp/RIKI/
>

photo
ミ・キュイ
甘糟 りり子
文芸春秋 2008-02

中年前夜 肉体派 シャンパンとスパとランニングシューズ!  ホテルジョグノート 42歳の42.195km―ロードトゥロンドン

by G-Tools , 2008/04/18