うちゅうじん通信[36]うちゅう人の「絶望のススメ…罪について」
── 高橋里季 ──

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……女の一滴の涙より重要なことなど、この世にはないと思うの。
  アナタの命は、アナタの命なのだから。……

クリスマスパーティでは、考えるのをお休みして楽しむとして、今日は、少しマジメで重たいことを考えます。「罪」について。私は、コンセプトを考えるのが大好きです。

今の学生さんは、留学ということもあるらしいけれども、欧米に留学して、いったい何を知りたいのかと言えば、実は、「罪」についての感触だったりするんじゃないかなぁ。そのあたりが、日本の若い人にとっては、切実なんだという気がします。経済の根幹にある思想ということがね、若い世代には、切実な問題。

それは、「戦争に行って、人殺しをしてもいいかどうか。」ということと、同じようなことなんだと思います。今の日本の経済(または社会)的な価値の中で、一生懸命働く事が、はたして良い事だと思えるのかどうか。または、消費生活を楽しむことが良い事なのかどうか。どんな結婚をして、どんな家庭を作っていくにしても、今は「私の世代は、それがアタリマエだったから。」なんていうのが理由にならない時代。なので、自分なりの動機や根拠や理由が大切になってきた感じ。



日本では「罪の意識」が曖昧なまま、欧米なみに「個人の責任」ということが言われ始めて、倫理観が今、過渡期。善悪と原罪についてのウィキペディアが面白いので見てみてね。
< http://ja.wikipedia.org/w/index.php?oldid=22797092
>

さて、ある時、愕然とする。自分の親が、わりと社会の底辺にいることがわかる時が来る。生活設計とか全然出来ていなくて、子供にとってみたら、「何を考えてオレを産んだのか、うちの親は。」って思う。「何を考えて生きてきたのか、オレの親は。」

最低居住水準を満たせないのがわかっていたのに、どうして弟を作ったんだ?とかね。狭いからって、お父さんは毎晩、外で呑んで、子供が寝た頃に帰ってくるとか、共働きで家事も妻まかせで、もうボロボロなお母さんは子供のことなんて何にも考えられないとかね。
< http://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/023/pdf/d13200007_4.pdf#search

='居住水準%202007%20東京' >
(東京都のこういうサイトもあるんだけど、エクセル書類なので、私には読めなかったです。)

すでに、親の世代だって、読み書き算盤も教わらずにオトナになった「気のいい下層階級」なんかではない。それなのに、子供が大学進学っていう時に、家族一人当たり年間250万円の生活費がないっていうのは、どういうつもりだ?とかね。

今だって、縄文時代みたいに「家族が食えなくなったら、役に立たない子供から死んで行くのが自然の掟だ」とか言っちゃう親って、いるかもしれない。幼子、爺婆から平気で殺しちゃうのが自然な訳です。獣みたいに、ワイルドにね。日本だって、つい最近まで、子供は働き手としての意味が大きくて「いっぱい産んでおく」とか、いざとなったら売れるとかいうことがあったらしいじゃない?

戦後のニューファミリーの子供を大切にする家庭像を最初に作ったのは、高島屋の広告戦略で、高島屋がカルチャースクールや子供の為のコンクールなどまで企画してターゲット像の展開をしたことを本で読んだことがあります。

「意味」とは「共有された幻想」だと言えると思います。だから、社会とは違う意味で言葉を使うしかない親というのは、いつの時代にもいます。縄文時代と現代では「死」の意味も「子供」の意味も違うでしょう。

子供にとっては、自分の親を「変、オカシイ、失敗者」と認めるのは、とても恐いと思うの。自分が教わってきたことや、普通だと思ってきたことが信じられなくなるし、社会的にそうとう不利な立場なのだということや、それからの長い人生、どんなに一人でがんばらなくてはならないかを考えると、地獄が突然ポッカリと口を開けて現れたようなもの。

なんだかよそよそしかった小学校の友達を「変なヤツ」って思ってたのに、もしかしたら変なのは、貧乏子だくさんのウチの家庭かもしれないって、わかる時が来るの。

「自分の親がオカシイ」と認識するよりは、「うちみたいな家庭は、いっぱいある。親がオカシイわけではない。社会の仕組みがオカシイんだ。」と思う方が気が楽。とりあえず、自分の環境は大変だけど、親も自分もマトモなんだと信じていれば、自信を失わずに済む。

でもね、ごまかさない方がイイと、私は思うの。オカシイ親を、まず、オカシイと認めることは、とても大切なことだと思うんです。お手本がない状態で、自分の人生を模索するのは、本当に大変なことだけれど、「どうして自分の親が誤ったのか」を考えることで、祖父母の世代の感覚や、歴史や時代、倫理観の移り変わりとかも、見えてくるんだと思います。

罪の張本人の親の代わりに、誰が悪いのか、幻想を作りあげるのも相当に大変なことです。嘘が明らかになりそうになるたびに、自分を騙す新しい嘘を考えなくてはならない。

罪の連鎖を断ち切る勇気を持つ方がいいんです。精神的に断ち切ることができないと、イライラするし、どうしてイライラするのかも、よくわからなくて、そこから逃げるために、親と同じような逃避的な恋愛や結婚や、逃避的な社会行動に、つまり危険な幻想にしがみついてしまうことになると思うんです。

クリスマスだって、幻想かもしれない。お祈りだって、現実からの逃避かもしれない。でも、たくさんの人が、長い間、試して残してきた、ひとつの方法だと思います。私はクリスチャンじゃないけれど、「罪」についての感性という点では、聖書のことを考えるのはいいと思うわ。

最近の本では、「ポアンカレ予想を解いた数学者」ドナル・オシア著がオススメ(前にも紹介したけど)。数学の発展の歴史がよくわかる本なのですが、「キリスト教もイスラム教もそうだが、中世の思想の根幹にはアリストテレス哲学の原理がある。」とか書いてあります。いろんなことが、繋がりながら変わっていく「ダイナミズム」が面白い。

もしも「幸せいっぱい。何の不満も不安もないわ!」というのでなければ、自分の親の罪、社会の罪、人間の罪の歴史、そして自分の罪の重さに、打ちひしがれるくらい、一度は絶望した方がいいと思うわ。

「どうしようもないな。」ものすごく「どうしようもない。」っていうこと。それでも、なんとかしようと思う。誰が悪い訳でもないのに、誰もが罪人だと知る時に、初めて神が必要になるし、宗教的な心情ということがわかるんだと思います。

誰かに教えられなくても、「飲み込むことを知っていた」ように、モーセやキリストのように「祈ることを知っていた」ハズ。ミームに気づくクリスマスをちゃんと楽しむことができたほうがいいと思うの。

もしも、今年のクリスマスがひとりきりのクリスマスでも、静かに祈ることができるのはとても素敵なことだと思います。とりあえず、神様に心から祈ること(キリストじゃなくてもいいけど)ができるようになってから、「行為」だと思います。

好意は、わりとどこにでもあるけど、愛情は、軽蔑や憎悪や絶望を超えたところで、やっと出会えるような気がするの。なんだか不安だったり、淋しい気がしていても、ホットミルクを飲んで落ち着いて考えてみたら、なぁんだ、セロトニン不足だっただけ。恋愛なんて興味なくって、本当は出世したくてしょうがないんだ、という自分に気づくかも。

でもね、「ホットミルクを飲んでみる」ように、「女を抱いてみる、恋をしてみる」のはダメ。他者との関係を「自分探しの道具」として試してみるのはダメです。

子育てをしていて、親が「なんだか、子供にいろんなことを教えられている気がする。親として自分も育っているなぁ。」と感じるのはいいんだけど、そういうことを子育ての目的にしてはダメだと思うの。同じように、恋愛関係は楽しくて、そこから自分の心が成長するということはあると思うけど、それを目的に、相手を探すのはダメなんです。他者と関係を持つということは、互いに協力して「何かをする」場合であって、「お互いに楽しむため」ではありません。心や気持ちのことは、ひとりひとりでしか、どうにもならないからです。

逆に、自分の親を客観的に見ることは、一番はじめに試してみなければならないと思うの。もしも、親が「貧乏だけどがんばっている自分という幻想」を子供に押し付けるようなオカシイ人だったら、その延長で「家庭を大事に思っている」というのは、家族を自分勝手な幻想の道具としてしかみていないのと同じです。

私は、「そんなのは愛ではない。」という感性が正しいと思います。そこを「親も親なりに自分を愛してくれた。」なんてゴマかしては、「愛」という言葉の意味を曖昧にして、いつまでたっても愛って何なのか、自分の愛という言葉に責任を取らない態度に繋がると思うんです。

宗教的な意味での愛は、たとえ親に愛されたことのない人でも、その意味を獲得することができるように、たくさんの人が文化として残そうと情熱を注いできた大切なことなのだから、その意味を簡単にゴマかすのは、罪。

私は、外国の下層の家族愛の物語をお手本に、「これが愛」なんて言うのはイヤ。日本のテレビドラマもそうだけれど、きれいな女優さんが演じる「大変だけど生き生きとがんばっている女性像」を見ていると、現実は、もっと悲惨だろうな…と思います(もちろん難しいテーマだとは思いますが)。

今の日本の状況自体がね、「罪」について、どうもよくわからなくって、イライラしている感じがするの。そういう時に、若いエネルギーって、実際に「罪を犯してみる」のが手っ取り早く「真実に触れて」イライラを解消する方法だ!っていう方向に走ることがあると思うんだけど、今の日本の状況なんかに感化されちゃダメ。だからって、なるべく関係のない文化を真似ていれば安心っていうのも軽薄すぎる感じ。一度きりの命なのだから、できるかぎり悩んだほうがいいと思うの。真剣に、クリスマスパーティに着る服を選んでみるのも、いいかも。

クリスマスをお祭り気分で受け入れた世代の感覚は、今では通用しないと思います。娯楽としてのクリスマスのデートに、男子がお金をいくらでも使う時代ではない。それは、不景気だからではなくて、逆に、「そんな娯楽にお金を使う価値を感じない」という心情が先にあるのだと思います。

戦争中に戦争に参加したように、社会が堕胎を認めているから堕胎していいのだとか、結婚という制度があるから相手を見つけようとか、人には消費者としての社会的価値があるからお金を使うとか、学校教育があるから子供を学校に行かせることがいいのだとか、そういう行為のしかたとは違って、行為を自分で選ぶことをみんなが考えはじめていると思います。

愛や罪を知って、そこから、独自の距離をとることによって、建ち直った後の日本の意味づけが、ようやく始まる気がします。与えられた意味ではなくて、または与えられなかった意味を嘆くのではなくて、意味を創ることを、日本は、やっと始めるところです。と、もう40年も前から言われているの(私が知るかぎりでも)だけれども、戦後、経済を建て直すのに50年、心や言葉を立て直すには、100年くらいかかるのかもしれません。

せめて、クリエイターは、ミーム担当ということで、不景気でも、そういうことを忘れないでいたいと思います。いつもやっと日本も心の問題に着手かな!と思うと、国外でいろんなことが起きて、あっという間に不景気で、心のことはアトまわしになっちゃうけれども。

世界の人口は増え続けているから、祈りの力もパワーアップしていることでしょう。少子化でニッポンがどうなろうと、心配することはありません。不幸な関係や悲惨な家庭を作ってはダメです。女の一滴の涙より重要なことなんて、この世には無いのだからね。

【たかはし・りき/イラストレーター】riki@tc4.so-net.ne.jp

・高橋里季ホームページ
< http://www007.upp.so-net.ne.jp/RIKI/
>
今回は少しマジメな文章でしたが、女性を描くイラストレーターとしてのコンセプトを考えてみました。雑誌の占いによると、私の来年のラッキーファッションは、「都市の信仰」がテーマ? プリミティブとか苦手なので困ったわ。