<そのエネルギーにブォンと押されて>
■映画と夜と音楽と…[393]
名優の姿に遠く遙かな昔が甦る
十河 進
■うちゅうじん通信[31]
うちゅう人のピカソ
高橋里季
■ところのほんとのところ[4]
個展が終わって、次はパリ
所 幸則
■映画と夜と音楽と…[393]
名優の姿に遠く遙かな昔が甦る
十河 進
■うちゅうじん通信[31]
うちゅう人のピカソ
高橋里季
■ところのほんとのところ[4]
個展が終わって、次はパリ
所 幸則
■映画と夜と音楽と…[393]
名優の姿に遠く遙かな昔が甦る
十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20081017140300.html
>
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●公開当時「まいりました」と平伏した映画
今週はいろいろな出来事があって、何から書き始めようかと考えていた。結局、一番気になったのは、緒形拳さんの突然の死である。ニュースは日本全国を駆けめぐり、テレビでも代表作が紹介された。それは「鬼畜」(1978年)であり「復讐するは我にあり」(1979年)であり、「楢山節考」(1983年)だった。
どれも立派な映画で、特に「復讐するは我にあり」の凄さには、公開当時「まいりました」と平伏した記憶がある。佐木隆三さんの原作は読み始めたらやめられない圧倒的な迫力があったが、映画は今村昌平監督の主人公の心の闇を突き詰めることへの執念が迸るような作品だった。
しかし、僕が思い出す緒形拳さんは、映画なら「狼よ落日を斬れ」(1974年)の人斬り半次郎であり、「影の軍団 服部半蔵」(1980年)の甲賀四郎兵衛であり、「魔界転生」(1981年)の宮本武蔵であり、「将軍家光の乱心 激突」(1989年)の石河刑部(いごう・ぎょうぶ)だった。
テレビドラマなら「豆腐屋の四季」(1969年)の松下竜一、「必殺仕掛人」(1972〜1973年)の藤枝梅安、「必殺必中仕事屋稼業」(1975年)の知らぬ顔の半兵衛、「必殺からくり人」(1976年)の夢屋時次郎が忘れられない。今もいくつかのシーンが浮かぶほど印象深い。とりわけ、夢屋時次郎の最期は記憶に刻まれている。
緒形拳さんは1937年の生まれ。亡くなったときは71歳だった。NHK大河ドラマ「太閤記」(1965年)はほとんど見ていなかったが、信長役の高橋幸治、石田三成役の若き石坂浩二に人気が集まったのは記憶にある。僕は翌年に放映された「源義経」はずっと見ていたから弁慶役は印象に残っている。
改めて僕が好きだった緒形拳さんを挙げてみると、ほとんど時代劇である。しかし、最初に賞を独占した「鬼畜」や俳優としての幅を広げた「復讐するは我にあり」、またテレビドラマとして高い評価を得た吉村昭原作の「破獄」など、一般的には現代劇のイメージが定着しているかもしれない。
元来、緒形拳さんは新国劇の大御所である辰巳柳太郎の付き人(弟子)としてスタートした人だから、チャンバラつまり殺陣の基礎はできている。いや、殺陣は新国劇のお家芸だ。殺陣ができなければ、新国劇の役者はつとまらない。緒形拳さんに続いて売れた新国劇の役者は若林豪で、彼の殺陣も見事だった。
もっとも、最近でも「隠し剣 鬼の爪」(2005年)や「蝉しぐれ」(2005年)「武士の一分」(2006年)など、数少ない時代劇が作られると、必ず重要な役で出演していた。最近、作られる時代劇の原作はほとんど藤沢周平さんの小説だが、中でも僕は「蝉しぐれ」の主人公の父親役が忘れられない。
派閥争いに巻き込まれ切腹を言い渡された後、息子と最後の面会をした父親は剣の筋がいいと聞き「はげめ」とひと言静かに言う。さらに、妻の名を口にし「頼む」と言い置いて去る。その短いシーンは、息子である主人公側から描かれていて、父親の表情は逆光でよく見えない。だが、緒形拳の少し軽みのあるセリフまわしに万感の思いが込められていた。
●アクションシーンに充ちあふれた時代劇
緒形拳さんの出演作で最も好きなものを挙げろと言われたら、迷わず僕は「将軍家光の乱心 激突」と答える。1989年1月14日、東映の正月映画第二弾として公開された。制作は前年、緒形拳さんは50をすでに過ぎていたが、このアクションに充ちた時代劇大作では、跳ね、飛び、斬りまくる。
今でもよく憶えているのだが、この映画は労働組合の仲間たちと一緒に見た。その頃、僕は日本出版労働組合連合会(出版労連)の中のひとつのジャンルで括られた共闘会議の事務局長という肩書きを持っていた。いわゆる専従ではなかったから、会社の仕事をしながら上部組織の役員をやっていたのだ。
その共闘組織には、議長がいて副議長が2名いた。事務局には僕の他に事務局次長が2名いて、総勢6名が4役と呼ばれていた。実に組合的な呼び名だと思う。僕の事務局長は書記長と同義で、組織の方針を作り会議を運営し、要求案を提起し、春闘や秋年末闘争を指導する。その頃は、12の出版社の労働組合をまとめていた。
この4役たちとは、よく呑んだ。春闘などが始まると、40を過ぎて独り身の事務局次長の一軒家に寝泊まりし、一週間のうちのほとんどを一緒に過ごすこともあった。しかし、特別な男たちではない。議長をつとめていた男は声がデカい単なる酔っ払いだったし、40過ぎて独り身の事務局長はAVビデオを豊富に所蔵していた。
1989年の正月が明けた月末近い木曜日から、我々は箱根の温泉旅館で「春闘討論集会」という集まりに参加していた。もっとも、木曜日の昼間から参加していたのは僕だけで、他の連中は木曜日の夜からやってきたり、金曜日の朝からの参加だったりした。
その討論集会では、まず最初に講演がある。労働組合が呼ぶのだから、講師は労働側シンパの傾向がある人たちだ。そのときは、評論家の佐高信だったような気がする。それが終わると、出版労連中央執行委員会の書記長から春闘方針と要求案が提起される。そのときの書記長は、小学館の「女性セブン」副編集長だった。
その提起を受けて、僕たちは討議をする。木曜の夜から土曜日の朝まで、旅館の座敷に座って、ただただ話し合う。夜は、もちろん宴会だ。呑み続け、明け方まで呑むのはざらだった。二日酔いの頭を抱えて、僕は12社の労働組合の代表者たちを仕切り、司会進行を担当した。しんどいことである。
そんな2泊3日を過ごし、僕はA議長とS副議長、U事務局次長と一緒に箱根からロマンスカーで新宿に戻った。こういうときは、気分転換をする必要がある。僕らはロマンスカーの中で充分に迎え酒を飲んでいたから、まだ明るい昼過ぎの新宿の雑踏を赤い顔をして歩いていた。
夜なら別だが、僕たちはそんな真っ昼間にうまくサヨナラを言うことができなかった。そんなに長く一緒にいたのに…と言われるかもしれないが、長く一緒だったから別れがたくなっていた。そのとき「将軍家光の乱心 激突」の看板が目に入った。「映画を見よう」と僕は提案した。他の3人が同調し、僕たちは映画館に入った。
映画が始まった。若君らしい子供が巨大な湯船に浸かっている。山の中の温泉場に作られた大きな湯殿である。奥女中が湯殿の窓を閉めようと立ち上がる。その喉を、いきなり矢が貫く。湯殿を警戒していた侍たちが、バタバタと雨霰のように飛んでくる弓矢に倒されていく。巨木から、山伏姿の男たちが飛び降りる。
ミサイルのような形に組まれた大木が湯殿を破壊し、山伏たちが侵入する。天井で爆発が起こり、数人の山伏たちが墜落する。桟になった窓から筋になって射し込む逆光に、湯気と煙が浮かび上がる。その空舞台に浪人者が颯爽と飛び降りてくる。スローモーションだ。逆光が浪人者の姿をくっきりと浮かび上がらせる。刀を構える。「緒形拳」のクレジットタイトルが重なった。
●ギャビン・ライアルの名作「深夜プラスワン」のような時代劇
我が子を憎み疎んだ三代将軍の家光は、長子暗殺を命じる。しかし、次期将軍になる長子の若君守り役を命じられた堀田家は、暗殺されると家名断絶は必至。堀田家は浪人集団を雇い、若君を守ろうとする。5日後の元服の日までに江戸城に入れば、堀田家の勝ちである。
7人の浪人集団を率いるのは、石河刑部(緒形拳)。集団の中には口は利けないが体術・棒術の天才もいれば、火薬を扱えば天才的な若者(セリフはほとんどないし面棒をつけているのでよくわからないが、若き織田裕二)もいる。彼らを追うのは伊庭庄左右衛門(千葉真一)と根来衆であり、老中から命じられた各藩の大勢の侍たちだ。
死地、また死地。アクション、またアクション。日光から江戸までを5日間で突破しなければならないというタイムリミットの設定。まるでギャビン・ライアルの名作「深夜プラスワン」のような、冒険小説の王道をいく物語だ。途中、つかまってしまった若君を救い出したり、絶体絶命の崖に追い詰められた後の脱出など、手に汗握る面白さである。
馬群が駆ける。鋭利な槍が雨のように降り注ぐ。投擲雷が投げらる。爆発と共に砂煙が上がる。人が跳ねる。馬上での闘いがあり、目も眩む崖を水面めがけて飛び降りる。竹林から切り出した竹で追っ手の馬を攪乱し、橋桁に仕掛けた爆薬が破裂し、追っ手が馬と共に川に沈む。
クライマックスは、石河刑部と伊庭庄左右衛門の一騎打ちだ。ジャパン・アクション・クラブ(JAC)を主宰し、この映画でも自らアクション監督を務める千葉真一演じる伊庭庄左右衛門と互角に闘う石河刑部の姿は、悲壮な表情をしないだけに余計に悲壮感が伝わってくる。飄々とした緒形拳さんの笑みを浮かべた姿が記憶に刻まれた。
そう言えば、悲壮な状況なのに淡々と、ときには飄々と演じる緒形拳さんの演技は、いつまでも記憶に残るシーンを作り出す。「必殺からくり人」の最終回で夢屋時次郎は、依頼されたことではなく自らの意志で老中暗殺を企て、五重塔に潜伏する。だが、狙撃は失敗し、時次郎は壮烈に爆死する。「ジャッカルの日」(1973年)や「気狂いピエロ」(1965年)を思い出す話だった。
その日、「将軍家光の乱心 激突」は、長時間にわたってこむずかしいことを論議していた頭をクリアにしてくれた。映画館を出て見上げた看板に書かれていた「おのれ、理不尽なり」というキャッチコピーを僕たちは気に入り、その後の会議では「反対」と言う代わりに「理不尽なり」と口にした。
あれから…20年近い時間が流れた。議長だった男は、その数年後に突然、自社の社長になった。やがて出版界でも有名な労働条件のよい会社に育て上げ、長く社長を勤め、今年、退任した。事務局次長のUは勤めていた出版社を辞め、仲間と小さな出版社を立ち上げた。最近、自ら城の本を出した。彼は、当時から城の研究家として有名だった。S副議長も60を越して、元気だと聞いた。
僕は、現在、会社では組合の要求書を受け取る立場になってしまった。時間の経過が僕を変えたのか、現在の労働組合が変質してしまったのか、ときには組合の主張に「理不尽なり」と言いたくなることがある。そして、そのことを淋しく思う気持ちが湧き起こる。あの頃、僕は労働組合の活動を通じて多くのことを学んだ。それは、今の僕を作った大きな要素のひとつだった。
先日、緒形拳さんの遺作になった倉本聰さん脚本「風のガーデン」(2008年・フジテレビ)を見たら、緒形拳さんの髪が真っ白で癌のためかひどく痩せていた。その老いた名優の姿に、長い時間が過ぎ去ったのだ、と強く胸に迫る何かが湧き起こり、遠く遙かな昔が甦った。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
気になるニュースのひとつは、ル・クレジオのノーベル文学賞。大学時代の恩師がクレジオの紹介者で、40年ほど前に来日したとき、僕の大学の剣道場を案内したという自慢話を授業で聞いた。僕らの時代、ル・クレジオはヌーヴォー・ロマン最大のスターでした。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
>
受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
>
< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
>
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■うちゅうじん通信[31]
うちゅう人のピカソ
高橋里季
< https://bn.dgcr.com/archives/20081017140200.html
>
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ピカソのことをここに書くのは、もう4回目くらい。ですが、私はピカソのことを考えるのが大好きなので、また書きます。12月14日まで、東京六本木の二つの美術館でピカソ展が開催されています。テレビでも紹介されていたりして、私は、ぼんやり私のピカソ体験のことを考えていました。
国立新美術館
< http://www.nact.jp/
>
サントリー美術館
< http://www.suntory.co.jp/sma/
>
私が20才くらいの時の話です。私のピカソ体験は、衝撃的でした。その絵の前に立ったとたん「光の玉が飛んで来て、私の額に当たったような」って、前には書いたと思うんだけど、本当はちょっと違います。
直径2メートルくらいのゴム風船の感じで、エネルギーの塊みたいなものが、ブォンと私にぶつかってきた。その風船の最初の先端が私の額に当たった感じ。光くらい速い感じの衝撃。なにか、エネルギーっていう感じだったけど、熱くはありませんでしたし、塊であって、光のように拡散する感じではなくて、額に「痛い!」って感じ。本当は痛いというよりも、びっくりしただけかも。
私は、そのエネルギーにブォンと押されて、少しよろけて、その途端に涙がワッっと出てきて。その涙も瞬間的に、大泣きって感じの涙で、止まらない。でも、私の気持ちは、感傷的でも感情的でもなく、自分の身体の変化に驚いているだけ。だって、別に、かわいそうな絵でもないし、小さめのキュービズム作品なんですもの。
それで私は、絵って、すごいなぁと思いました。だから私の中では、「感動」というのはこういう事で、マイナーコードの音楽を聞いて悲しい感じがしたり、ト長調の音楽を聞いて楽しい感じがするのとは別格の「体感動」ということが、あるのだと思っています。言葉にすれば「魂に響いた」と言うのが、近い感じです。
オトナには、大人の、絵画の鑑賞の仕方があるかもしれませんが、できたら、ただ、なんとなく絵の前に立つということをやってみてね。「別に見たくないんだけど、名画らしいから見ておこうかな。」くらいの感じで。20才の私は、たぶん歴史も世界情勢も、ちゃんと判っていたとは思えません。ピカソの名前も、ピカソ体験の後に、忘れないようにしようと思って覚えているだけなんだものね。美術史なんて全然知らない。ピカソが描いたのが、「女の人」だとさえ知りませんでした。「なんだこれ?」そういう時に、すっと入ってくる感動の仕方があると思います。
ピカソの名前を忘れないようにね、毎晩、眠る時に、お祈りを続けています。もう何10年も、少しづつ、お祈りの仕方を考えて、これで、まあピッタリな感じかな。という自慢のお祈りなので、書いておこう。
……天に居まします我ピカソ。願わくば御名を崇めさせたまえ。御国を来たらせたまえ。汝が世界を見るごとく、私が世界を見ますように。色と形と響きとは、限りなく我に与えられしものなればなり。タダビアルノーミ……。
さて、私は、絵画を観るのは、ピカソ体験で満足してしまいました。絵には、もの凄い力があるのだということをピカソが教えてくれたから、もっと感動したいとは、考えなかったんです。その後の私は、どうしたらそういう感動的な絵が描けるのか、という事ばかり考えました。
それでね、私は、アートとか、商業広告とかを分けて考える必要をまったく感じません。だって、あの、わけのわからないキュービズムで感動するんだから、私の絵が何かの広告だろうと、本の挿画だろうと、感動的な作品にできるんじゃないかと思うんです。ピカソの、わけのわからないキュービズムが私に教えたのは、「愛」とか「思想」ということでした。
もちろん、ピカソの絵には、キュービズムだろうと、どんな描き方をしようと、計算された視覚操作の技術がある訳で、間違いなくその場所に一本の黒い線をその幅その長さそのタッチで描き入れることができるかどうか、という事は、たくさんの名画を観賞したからと言って、できるようになる訳ではない技術だと思います。というのは、たくさんの野球観戦をしたからと言って、イチロー選手のバッティングができるようになる訳ではないでしょう?
そして、ピカソの絵でさえ、完璧な感動を呼びさます絵というのは、ピカソの生涯のうち、ほんの数点だったろうと思っています。そして、広告のような、デザイナーとの共同作業なら、最終的な出力ということがあって、どんな場所に、どういうターゲットに向けて発信するのかというディレクターやプロデューサーの仕事もあり、コピーの文字の大きさひとつでも、もしかしたら、70点の絵が120点の感動的なヴィジュアル作品に仕上がる可能性があると思います。
だから、仕事のイラストレーションに関しては、「これ以上はできませんでした。」状態で締め切りに間に合わせることができれば、あとはデザイナーを信じている感じです。
夢想、妄想、無理な理想かもしれないんだけど……たとえば殺人犯になる人がね、殺人をしようと思って準備万端で出かけるんだけど、私の絵を広告塔で見ちゃうの。それで、感動の涙が邪魔して、銃やナイフなんて使えない……そんなことになったらいいな、と思っています。
でも、こういう「事無きを得る」っていうことは、化粧水に似ていて、使っていたからトラブルが起きなかったんだということを、なかなか確かめることはできないんだけれども。
とりあえず、そういう志のある絵っていうのは、人を不快になんかさせないし、広告のコピーを心に留める邪魔にもならないし、美しい音楽に人が耳を澄ますように、ターゲットの心の目を注がせる力があるんだと思っています。
下手な鉄砲も数撃てば当たる、ではなくて、上質な願いを数多く捧げなければ、神様には届かない。奇蹟は、そういうふうにして創るのだと思うの。私のピカソがあったように、誰かにはピカソの青の時代が、誰かにはセザンヌが、カッツが、あるのかもしれません。
そういえば、絵画を観ることに、あまり興味がなくなったように、旅行も、よほどの理由がなければ、私は行きません。やっぱり20才くらいの時に、ひとりで小笠原に行きました。その時は、広告写真の青い海っていうのが、「本当にこんなに青いのかな? 印刷の時に色を変えるのかしら?」と不思議に思って、南の海を確かめたかったんです。海外でも良かったんだけど、小笠原は、その頃、海の透明度が東洋一ということでした。そして、一番近かったし、私は飛行機に乗るのが恐いので、船旅の小笠原がいいや、ということにしました。(映画タイタニックを観てから船旅も恐い)
小笠原の海は、広告写真より、もっと青かった。RGBの一番明るいブルーっていう感じでした。だから、私は、広告写真というのは、嘘っぱちの青にしているんじゃなくて、自然を表現しようとして、まだ、とどかないのだと知りました。
それからは、私は旅行に行かなくても、テレビの映像や風景写真で満足するようになりました。写真を見て、「綺麗だなぁ。でも本当は、もっと綺麗な景色が、あるんだなぁ。」と思うだけで幸せな気分になります。実際には、小笠原だって、人のいない海辺の写真を撮るのは難しいかもしれませんし、旅行に行ったら、自分の視界に入る景色というのは、旅行前のイメージよりは色褪せた感じがするものかもしれません。
最近では、風水の考え方で、吉方角に旅行に行って運を掴むなんていうのも楽しそうだな、と思いますが、仕事部屋は南向きでお気に入り。ここで、ひとりで作業しているのが、わりと好きです。
【たかはし・りき/イラストレーター】riki@tc4.so-net.ne.jp
・高橋里季ホームページ
< http://www007.upp.so-net.ne.jp/RIKI/
>
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■ところのほんとのところ[4]
個展が終わって、次はパリ
所 幸則
< https://bn.dgcr.com/archives/20081017140100.html
>
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「渋谷1sec(ワンセコンド)瞬間と永遠」写真展は、最終日にトークショーがあったせいもあってか、7日間で400人オーバーでした。
銀座のキヤノンギャラリーや、新宿のエプソンのギャラリーと違って、ところの個展を見よう! って思わない人はわざわざ来ないギャラリーコンシールの4F(すいません)、そこでこの人数は結構凄いとおもうんだけれど、今回、所幸則といえばアレだろ? って思ってる人達へのプレゼンテーションとしてはまだ弱いかもしれないな。
だって、所幸則といえばアレだろ? って思ってる人が16,000人ぐらいはいそうな気がするんだ。
さて、どうするかな? もちろんコマーシャル・フォト10月号や、キャパ10月号、アイデア330号、デザインの現場10月号、
渋谷経済新聞 < http://www.shibukei.com/headline/5600/
>
Tokyo Art Beat < http://www.tokyoartbeat.com/event/2008/3FD3
>
などでも写真をみつけてくれた人もいると思うけれど、今回の作品群はぜひ実物で見てほしい。
実際、大きいプリントで見た人は、受けた印象がずいぶん違うみたい。それはあまりの情報量の多さに気づく事が、大きなプリントじゃないとまず無理だからなんだと思うんだ。
まだまだところが投げた小石は小さいんだろうなと思ってるんだ。トークショーで田中力弥君(ロッキンオンジャパン、アートディレクター)と桑山輝明さん(シグマ)と話して結構盛り上がった後、クロージングパーティへ(トークショーは50人軽く越えました!)。
西麻布の有名なBAR AMRITAのオーナーサンペイさんに、「うちの店を一か月、渋谷にしてくれ!」って言われて。パーティのあとBAR AMRITAに呼ばれていくと凄い広い素敵なお店だ。高木由利子や伊島薫もやったそうで、申し込みが多くて2010年までいっぱいなので、やるのは2010年10月に決定。
その同じパーティに来ていた、コスモスのギャラリーでは2009年にやることになった。"新生ところ"をわかってもらうには、それくらいかかるかなやっぱり。ほんとうはまだ足りないんだろうな。
さて、今回ところがパリに行こうと思った元々の理由は、プリントを売りたいという思いだった。どうも日本のクリエイターや編集者達というのは、作家を大事にしない人が多いような気がしてる。ところはそこが不安なんだな。
最近、漫画家が原稿をなくされていろんな事があきらかになったけれど、あくまで氷山の一角だとところは思ってる。だからマスコミ全般に対する信用が揺らいでる、ところのなかでは。
それだけではなく、日本人には写真(もしくは絵)を買って飾るという気持ちがまずない。もちろん全員ではない、コレクターと呼ばれる人もいるけれど、半分は投機対象だったりするし、そもそも家が価値をなくす国なんだこの国は。
欧米では素敵な建築家が建てたものなら、その作品は価値がほとんど下がらない。焼き物が年期とともにいい味がでるように。だから住処を大事にして、そこを飾ろうとする。だけど日本ではまず10年も経てば建物の価値はほとんどない。そして、価値のないと思ってしまった人は、絵や写真作品を飾る人ことはまずない。
その責任が誰にあるのか、ところはあまり考えない。僕が頭を使うのは自分の作品についてに絞りたいから。写真も絵画も、数百万円〜数億円というのは本当は一握り。写真もちゃんとしたものが2〜3万円からある。絵画だってそうだ。ところの友人のパリの画家も安いものは8万ぐらいからあるんだ。
日本では1年で買い替える携帯に4〜5万、場合によっては10万もはらう。デジカメなんかもそうだ。ちょっとハイアマチュアになると、年に20〜40万デジタルカメラ機材に使ってる。もちろん個人の勝手です。何がいいたいかというと、日本人は写真好きではなく、写真機好きが多いということ。
ところで、今回の個展ではところの作品は大四つ切りで5〜6万から売ってました。半切は11万から、、いいとこ3〜4枚売れればと思っていて、それが本音のところです。
だけど、、なんとまあ15枚も売れました。これにはビックリ。1週間で15枚、マグレだと正直思ってます。だけど、個人個人の顧客の方が信用できるんじゃないかと思ってる、それは本当に切実に。だって1991年から2〜3年ごとにオリジナルプリントをずっと買ってくれてる人がいるんです。日本人もなかなかやるなあ、と思いたいところ。
【ところ・ゆきのり】写真家
CHIAROSCUARO所幸則
< http://tokoroyukinori.seesaa.net/
>
所幸則公式サイト
< http://tokoroyukinori.com/
>
都合がつかなかったそうで、見に来てもらえなかった柴田さんには、パリ用のセットがそろった時点で、自宅まで押し掛けて見てもらおうと企んでます。だって、タブレットを使い始めてからの作品を、最初に表紙に使ってくれた雑誌の編集長だもんね。この変わりぶりをみてもらいたいですよ。待ってて下さい。
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■編集後記(10/17)
・まだまだ篤姫。毎週と言っていいくらい、どこかの局で篤姫が出て来る。あ、NHKはもともと毎週だけど。水曜日は日本史サスペンス劇場で「大奥を去った篤姫はその後どう生きたのか大河ドラマが描かない明治の篤姫…完全再現」をやっていて、これはまあマトモだった。火曜日は新説日本ミステリーSPで「初公開・篤姫の恋文…勝海舟が愛人? 2人で家茂を毒殺」と、キミハ・ブレイク「篤姫は知っていた? 徳川埋蔵金大発掘」なんて怪しげな話が堂々と展開されていた。前者では、初公開の篤姫から勝海舟にあてた私信がまさしく恋文なのには驚くが、2人で家茂を毒殺説はうなづけない。この番組では、これで家定、井伊直弼に続き3人を殺した篤姫であった。宮尾本によれば、家定、家茂を毒殺した黒幕は慶喜である。後者は、TBSでかつて何度か放映された、糸井重里の羊頭狗肉番組だったが、今回は香取慎吾が新リーダー、とかいいつつ糸井も出て来た。ほとんど有効なコメントができない香取、相変わらずうさんくさい糸井の発掘ショーにくらべ、歴史的な解説部分はおもしろい出来だった。もっとも、消えた360万両の行方については、小栗上野介と篤姫が密議をこらしとしても不思議ではない、という番組作家の単なる希望だった。大河篤姫も最新の回を初めて見たが、宮崎あおいの天璋院、堀北真希の和宮、全然イメージ違うだろうが〜。宮尾本による篤姫は「堂々たる体格で健康に輝いており姑として威風ただしている」のだが、テレビの篤姫は小作りな少女のようで迫力ない。なによりも「人格見識ともに大奥3000人の女中たちの尊崇の的」というオーラがない。和宮よりも10歳年上に見えない。さらに原作には出て来ない「青春の仲間たち」と称される、小松帯刀、西郷吉之助、大久保正助、それに坂本龍馬らのどうしようもない軽さ。どうしてこんなうすっぺらいドラマが視聴率トップなのだろう。(柴田)
・確かに家の価値ってすぐに下がるよなぁ。ダイヤモンドみたい。/リコーR10をゲット。ケータイ並みの大きさ重さ。充電が必要とのことで、おあずけ状態。わんわん、食べさせろ。充電完了を待たず、30分後に立ち上げ、説明書を見ずに触ってみるが、大体のところはわかる。直感的で使いやすい。試しに家の中で撮影してみると、腕があがったような錯覚を覚える。写真展で見たあれやこれやの写真がAUTOで撮れてしまうのでは? 遠景はまだ試していないのだが、室内でのマクロ、暗い部屋に入ってくる窓からの光などとっても綺麗。どうもなぁと思っていた小物類や家具、壁などがR10越しなら趣を感じる。ずっこいわ〜。ポケットに入るカメラでここまで撮れるなんて。説明書はオートブラケット機能とかの個別箇所以外は読了。マニュアル撮影で撮影者の意図がどこまで織り込めるか楽しみ。コンデジでここまで撮れるならデジイチだと…と欲張りな気分にも。デジイチは本当に腕が必要だからなぁ……。/カメラケースのこと忘れてた! 純正がいいのかな。(hammer.mule)
< http://www.ricoh.co.jp/dc/r/r10/
> R10
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001EHE2N4/dgcrcom-22/
>
4万切りました
< http://www.rollei.jp/pd/MiniDigiAF.html
>
R10とは別の用途で
< http://www.vistaquestusa.com/
>
VistaQuestのでも
名優の姿に遠く遙かな昔が甦る
十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20081017140300.html
>
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●公開当時「まいりました」と平伏した映画
今週はいろいろな出来事があって、何から書き始めようかと考えていた。結局、一番気になったのは、緒形拳さんの突然の死である。ニュースは日本全国を駆けめぐり、テレビでも代表作が紹介された。それは「鬼畜」(1978年)であり「復讐するは我にあり」(1979年)であり、「楢山節考」(1983年)だった。
どれも立派な映画で、特に「復讐するは我にあり」の凄さには、公開当時「まいりました」と平伏した記憶がある。佐木隆三さんの原作は読み始めたらやめられない圧倒的な迫力があったが、映画は今村昌平監督の主人公の心の闇を突き詰めることへの執念が迸るような作品だった。
しかし、僕が思い出す緒形拳さんは、映画なら「狼よ落日を斬れ」(1974年)の人斬り半次郎であり、「影の軍団 服部半蔵」(1980年)の甲賀四郎兵衛であり、「魔界転生」(1981年)の宮本武蔵であり、「将軍家光の乱心 激突」(1989年)の石河刑部(いごう・ぎょうぶ)だった。
テレビドラマなら「豆腐屋の四季」(1969年)の松下竜一、「必殺仕掛人」(1972〜1973年)の藤枝梅安、「必殺必中仕事屋稼業」(1975年)の知らぬ顔の半兵衛、「必殺からくり人」(1976年)の夢屋時次郎が忘れられない。今もいくつかのシーンが浮かぶほど印象深い。とりわけ、夢屋時次郎の最期は記憶に刻まれている。
緒形拳さんは1937年の生まれ。亡くなったときは71歳だった。NHK大河ドラマ「太閤記」(1965年)はほとんど見ていなかったが、信長役の高橋幸治、石田三成役の若き石坂浩二に人気が集まったのは記憶にある。僕は翌年に放映された「源義経」はずっと見ていたから弁慶役は印象に残っている。
改めて僕が好きだった緒形拳さんを挙げてみると、ほとんど時代劇である。しかし、最初に賞を独占した「鬼畜」や俳優としての幅を広げた「復讐するは我にあり」、またテレビドラマとして高い評価を得た吉村昭原作の「破獄」など、一般的には現代劇のイメージが定着しているかもしれない。
元来、緒形拳さんは新国劇の大御所である辰巳柳太郎の付き人(弟子)としてスタートした人だから、チャンバラつまり殺陣の基礎はできている。いや、殺陣は新国劇のお家芸だ。殺陣ができなければ、新国劇の役者はつとまらない。緒形拳さんに続いて売れた新国劇の役者は若林豪で、彼の殺陣も見事だった。
もっとも、最近でも「隠し剣 鬼の爪」(2005年)や「蝉しぐれ」(2005年)「武士の一分」(2006年)など、数少ない時代劇が作られると、必ず重要な役で出演していた。最近、作られる時代劇の原作はほとんど藤沢周平さんの小説だが、中でも僕は「蝉しぐれ」の主人公の父親役が忘れられない。
派閥争いに巻き込まれ切腹を言い渡された後、息子と最後の面会をした父親は剣の筋がいいと聞き「はげめ」とひと言静かに言う。さらに、妻の名を口にし「頼む」と言い置いて去る。その短いシーンは、息子である主人公側から描かれていて、父親の表情は逆光でよく見えない。だが、緒形拳の少し軽みのあるセリフまわしに万感の思いが込められていた。
●アクションシーンに充ちあふれた時代劇
緒形拳さんの出演作で最も好きなものを挙げろと言われたら、迷わず僕は「将軍家光の乱心 激突」と答える。1989年1月14日、東映の正月映画第二弾として公開された。制作は前年、緒形拳さんは50をすでに過ぎていたが、このアクションに充ちた時代劇大作では、跳ね、飛び、斬りまくる。
今でもよく憶えているのだが、この映画は労働組合の仲間たちと一緒に見た。その頃、僕は日本出版労働組合連合会(出版労連)の中のひとつのジャンルで括られた共闘会議の事務局長という肩書きを持っていた。いわゆる専従ではなかったから、会社の仕事をしながら上部組織の役員をやっていたのだ。
その共闘組織には、議長がいて副議長が2名いた。事務局には僕の他に事務局次長が2名いて、総勢6名が4役と呼ばれていた。実に組合的な呼び名だと思う。僕の事務局長は書記長と同義で、組織の方針を作り会議を運営し、要求案を提起し、春闘や秋年末闘争を指導する。その頃は、12の出版社の労働組合をまとめていた。
この4役たちとは、よく呑んだ。春闘などが始まると、40を過ぎて独り身の事務局次長の一軒家に寝泊まりし、一週間のうちのほとんどを一緒に過ごすこともあった。しかし、特別な男たちではない。議長をつとめていた男は声がデカい単なる酔っ払いだったし、40過ぎて独り身の事務局長はAVビデオを豊富に所蔵していた。
1989年の正月が明けた月末近い木曜日から、我々は箱根の温泉旅館で「春闘討論集会」という集まりに参加していた。もっとも、木曜日の昼間から参加していたのは僕だけで、他の連中は木曜日の夜からやってきたり、金曜日の朝からの参加だったりした。
その討論集会では、まず最初に講演がある。労働組合が呼ぶのだから、講師は労働側シンパの傾向がある人たちだ。そのときは、評論家の佐高信だったような気がする。それが終わると、出版労連中央執行委員会の書記長から春闘方針と要求案が提起される。そのときの書記長は、小学館の「女性セブン」副編集長だった。
その提起を受けて、僕たちは討議をする。木曜の夜から土曜日の朝まで、旅館の座敷に座って、ただただ話し合う。夜は、もちろん宴会だ。呑み続け、明け方まで呑むのはざらだった。二日酔いの頭を抱えて、僕は12社の労働組合の代表者たちを仕切り、司会進行を担当した。しんどいことである。
そんな2泊3日を過ごし、僕はA議長とS副議長、U事務局次長と一緒に箱根からロマンスカーで新宿に戻った。こういうときは、気分転換をする必要がある。僕らはロマンスカーの中で充分に迎え酒を飲んでいたから、まだ明るい昼過ぎの新宿の雑踏を赤い顔をして歩いていた。
夜なら別だが、僕たちはそんな真っ昼間にうまくサヨナラを言うことができなかった。そんなに長く一緒にいたのに…と言われるかもしれないが、長く一緒だったから別れがたくなっていた。そのとき「将軍家光の乱心 激突」の看板が目に入った。「映画を見よう」と僕は提案した。他の3人が同調し、僕たちは映画館に入った。
映画が始まった。若君らしい子供が巨大な湯船に浸かっている。山の中の温泉場に作られた大きな湯殿である。奥女中が湯殿の窓を閉めようと立ち上がる。その喉を、いきなり矢が貫く。湯殿を警戒していた侍たちが、バタバタと雨霰のように飛んでくる弓矢に倒されていく。巨木から、山伏姿の男たちが飛び降りる。
ミサイルのような形に組まれた大木が湯殿を破壊し、山伏たちが侵入する。天井で爆発が起こり、数人の山伏たちが墜落する。桟になった窓から筋になって射し込む逆光に、湯気と煙が浮かび上がる。その空舞台に浪人者が颯爽と飛び降りてくる。スローモーションだ。逆光が浪人者の姿をくっきりと浮かび上がらせる。刀を構える。「緒形拳」のクレジットタイトルが重なった。
●ギャビン・ライアルの名作「深夜プラスワン」のような時代劇
我が子を憎み疎んだ三代将軍の家光は、長子暗殺を命じる。しかし、次期将軍になる長子の若君守り役を命じられた堀田家は、暗殺されると家名断絶は必至。堀田家は浪人集団を雇い、若君を守ろうとする。5日後の元服の日までに江戸城に入れば、堀田家の勝ちである。
7人の浪人集団を率いるのは、石河刑部(緒形拳)。集団の中には口は利けないが体術・棒術の天才もいれば、火薬を扱えば天才的な若者(セリフはほとんどないし面棒をつけているのでよくわからないが、若き織田裕二)もいる。彼らを追うのは伊庭庄左右衛門(千葉真一)と根来衆であり、老中から命じられた各藩の大勢の侍たちだ。
死地、また死地。アクション、またアクション。日光から江戸までを5日間で突破しなければならないというタイムリミットの設定。まるでギャビン・ライアルの名作「深夜プラスワン」のような、冒険小説の王道をいく物語だ。途中、つかまってしまった若君を救い出したり、絶体絶命の崖に追い詰められた後の脱出など、手に汗握る面白さである。
馬群が駆ける。鋭利な槍が雨のように降り注ぐ。投擲雷が投げらる。爆発と共に砂煙が上がる。人が跳ねる。馬上での闘いがあり、目も眩む崖を水面めがけて飛び降りる。竹林から切り出した竹で追っ手の馬を攪乱し、橋桁に仕掛けた爆薬が破裂し、追っ手が馬と共に川に沈む。
クライマックスは、石河刑部と伊庭庄左右衛門の一騎打ちだ。ジャパン・アクション・クラブ(JAC)を主宰し、この映画でも自らアクション監督を務める千葉真一演じる伊庭庄左右衛門と互角に闘う石河刑部の姿は、悲壮な表情をしないだけに余計に悲壮感が伝わってくる。飄々とした緒形拳さんの笑みを浮かべた姿が記憶に刻まれた。
そう言えば、悲壮な状況なのに淡々と、ときには飄々と演じる緒形拳さんの演技は、いつまでも記憶に残るシーンを作り出す。「必殺からくり人」の最終回で夢屋時次郎は、依頼されたことではなく自らの意志で老中暗殺を企て、五重塔に潜伏する。だが、狙撃は失敗し、時次郎は壮烈に爆死する。「ジャッカルの日」(1973年)や「気狂いピエロ」(1965年)を思い出す話だった。
その日、「将軍家光の乱心 激突」は、長時間にわたってこむずかしいことを論議していた頭をクリアにしてくれた。映画館を出て見上げた看板に書かれていた「おのれ、理不尽なり」というキャッチコピーを僕たちは気に入り、その後の会議では「反対」と言う代わりに「理不尽なり」と口にした。
あれから…20年近い時間が流れた。議長だった男は、その数年後に突然、自社の社長になった。やがて出版界でも有名な労働条件のよい会社に育て上げ、長く社長を勤め、今年、退任した。事務局次長のUは勤めていた出版社を辞め、仲間と小さな出版社を立ち上げた。最近、自ら城の本を出した。彼は、当時から城の研究家として有名だった。S副議長も60を越して、元気だと聞いた。
僕は、現在、会社では組合の要求書を受け取る立場になってしまった。時間の経過が僕を変えたのか、現在の労働組合が変質してしまったのか、ときには組合の主張に「理不尽なり」と言いたくなることがある。そして、そのことを淋しく思う気持ちが湧き起こる。あの頃、僕は労働組合の活動を通じて多くのことを学んだ。それは、今の僕を作った大きな要素のひとつだった。
先日、緒形拳さんの遺作になった倉本聰さん脚本「風のガーデン」(2008年・フジテレビ)を見たら、緒形拳さんの髪が真っ白で癌のためかひどく痩せていた。その老いた名優の姿に、長い時間が過ぎ去ったのだ、と強く胸に迫る何かが湧き起こり、遠く遙かな昔が甦った。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
気になるニュースのひとつは、ル・クレジオのノーベル文学賞。大学時代の恩師がクレジオの紹介者で、40年ほど前に来日したとき、僕の大学の剣道場を案内したという自慢話を授業で聞いた。僕らの時代、ル・クレジオはヌーヴォー・ロマン最大のスターでした。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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■うちゅうじん通信[31]
うちゅう人のピカソ
高橋里季
< https://bn.dgcr.com/archives/20081017140200.html
>
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ピカソのことをここに書くのは、もう4回目くらい。ですが、私はピカソのことを考えるのが大好きなので、また書きます。12月14日まで、東京六本木の二つの美術館でピカソ展が開催されています。テレビでも紹介されていたりして、私は、ぼんやり私のピカソ体験のことを考えていました。
国立新美術館
< http://www.nact.jp/
>
サントリー美術館
< http://www.suntory.co.jp/sma/
>
私が20才くらいの時の話です。私のピカソ体験は、衝撃的でした。その絵の前に立ったとたん「光の玉が飛んで来て、私の額に当たったような」って、前には書いたと思うんだけど、本当はちょっと違います。
直径2メートルくらいのゴム風船の感じで、エネルギーの塊みたいなものが、ブォンと私にぶつかってきた。その風船の最初の先端が私の額に当たった感じ。光くらい速い感じの衝撃。なにか、エネルギーっていう感じだったけど、熱くはありませんでしたし、塊であって、光のように拡散する感じではなくて、額に「痛い!」って感じ。本当は痛いというよりも、びっくりしただけかも。
私は、そのエネルギーにブォンと押されて、少しよろけて、その途端に涙がワッっと出てきて。その涙も瞬間的に、大泣きって感じの涙で、止まらない。でも、私の気持ちは、感傷的でも感情的でもなく、自分の身体の変化に驚いているだけ。だって、別に、かわいそうな絵でもないし、小さめのキュービズム作品なんですもの。
それで私は、絵って、すごいなぁと思いました。だから私の中では、「感動」というのはこういう事で、マイナーコードの音楽を聞いて悲しい感じがしたり、ト長調の音楽を聞いて楽しい感じがするのとは別格の「体感動」ということが、あるのだと思っています。言葉にすれば「魂に響いた」と言うのが、近い感じです。
オトナには、大人の、絵画の鑑賞の仕方があるかもしれませんが、できたら、ただ、なんとなく絵の前に立つということをやってみてね。「別に見たくないんだけど、名画らしいから見ておこうかな。」くらいの感じで。20才の私は、たぶん歴史も世界情勢も、ちゃんと判っていたとは思えません。ピカソの名前も、ピカソ体験の後に、忘れないようにしようと思って覚えているだけなんだものね。美術史なんて全然知らない。ピカソが描いたのが、「女の人」だとさえ知りませんでした。「なんだこれ?」そういう時に、すっと入ってくる感動の仕方があると思います。
ピカソの名前を忘れないようにね、毎晩、眠る時に、お祈りを続けています。もう何10年も、少しづつ、お祈りの仕方を考えて、これで、まあピッタリな感じかな。という自慢のお祈りなので、書いておこう。
……天に居まします我ピカソ。願わくば御名を崇めさせたまえ。御国を来たらせたまえ。汝が世界を見るごとく、私が世界を見ますように。色と形と響きとは、限りなく我に与えられしものなればなり。タダビアルノーミ……。
さて、私は、絵画を観るのは、ピカソ体験で満足してしまいました。絵には、もの凄い力があるのだということをピカソが教えてくれたから、もっと感動したいとは、考えなかったんです。その後の私は、どうしたらそういう感動的な絵が描けるのか、という事ばかり考えました。
それでね、私は、アートとか、商業広告とかを分けて考える必要をまったく感じません。だって、あの、わけのわからないキュービズムで感動するんだから、私の絵が何かの広告だろうと、本の挿画だろうと、感動的な作品にできるんじゃないかと思うんです。ピカソの、わけのわからないキュービズムが私に教えたのは、「愛」とか「思想」ということでした。
もちろん、ピカソの絵には、キュービズムだろうと、どんな描き方をしようと、計算された視覚操作の技術がある訳で、間違いなくその場所に一本の黒い線をその幅その長さそのタッチで描き入れることができるかどうか、という事は、たくさんの名画を観賞したからと言って、できるようになる訳ではない技術だと思います。というのは、たくさんの野球観戦をしたからと言って、イチロー選手のバッティングができるようになる訳ではないでしょう?
そして、ピカソの絵でさえ、完璧な感動を呼びさます絵というのは、ピカソの生涯のうち、ほんの数点だったろうと思っています。そして、広告のような、デザイナーとの共同作業なら、最終的な出力ということがあって、どんな場所に、どういうターゲットに向けて発信するのかというディレクターやプロデューサーの仕事もあり、コピーの文字の大きさひとつでも、もしかしたら、70点の絵が120点の感動的なヴィジュアル作品に仕上がる可能性があると思います。
だから、仕事のイラストレーションに関しては、「これ以上はできませんでした。」状態で締め切りに間に合わせることができれば、あとはデザイナーを信じている感じです。
夢想、妄想、無理な理想かもしれないんだけど……たとえば殺人犯になる人がね、殺人をしようと思って準備万端で出かけるんだけど、私の絵を広告塔で見ちゃうの。それで、感動の涙が邪魔して、銃やナイフなんて使えない……そんなことになったらいいな、と思っています。
でも、こういう「事無きを得る」っていうことは、化粧水に似ていて、使っていたからトラブルが起きなかったんだということを、なかなか確かめることはできないんだけれども。
とりあえず、そういう志のある絵っていうのは、人を不快になんかさせないし、広告のコピーを心に留める邪魔にもならないし、美しい音楽に人が耳を澄ますように、ターゲットの心の目を注がせる力があるんだと思っています。
下手な鉄砲も数撃てば当たる、ではなくて、上質な願いを数多く捧げなければ、神様には届かない。奇蹟は、そういうふうにして創るのだと思うの。私のピカソがあったように、誰かにはピカソの青の時代が、誰かにはセザンヌが、カッツが、あるのかもしれません。
そういえば、絵画を観ることに、あまり興味がなくなったように、旅行も、よほどの理由がなければ、私は行きません。やっぱり20才くらいの時に、ひとりで小笠原に行きました。その時は、広告写真の青い海っていうのが、「本当にこんなに青いのかな? 印刷の時に色を変えるのかしら?」と不思議に思って、南の海を確かめたかったんです。海外でも良かったんだけど、小笠原は、その頃、海の透明度が東洋一ということでした。そして、一番近かったし、私は飛行機に乗るのが恐いので、船旅の小笠原がいいや、ということにしました。(映画タイタニックを観てから船旅も恐い)
小笠原の海は、広告写真より、もっと青かった。RGBの一番明るいブルーっていう感じでした。だから、私は、広告写真というのは、嘘っぱちの青にしているんじゃなくて、自然を表現しようとして、まだ、とどかないのだと知りました。
それからは、私は旅行に行かなくても、テレビの映像や風景写真で満足するようになりました。写真を見て、「綺麗だなぁ。でも本当は、もっと綺麗な景色が、あるんだなぁ。」と思うだけで幸せな気分になります。実際には、小笠原だって、人のいない海辺の写真を撮るのは難しいかもしれませんし、旅行に行ったら、自分の視界に入る景色というのは、旅行前のイメージよりは色褪せた感じがするものかもしれません。
最近では、風水の考え方で、吉方角に旅行に行って運を掴むなんていうのも楽しそうだな、と思いますが、仕事部屋は南向きでお気に入り。ここで、ひとりで作業しているのが、わりと好きです。
【たかはし・りき/イラストレーター】riki@tc4.so-net.ne.jp
・高橋里季ホームページ
< http://www007.upp.so-net.ne.jp/RIKI/
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■ところのほんとのところ[4]
個展が終わって、次はパリ
所 幸則
< https://bn.dgcr.com/archives/20081017140100.html
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「渋谷1sec(ワンセコンド)瞬間と永遠」写真展は、最終日にトークショーがあったせいもあってか、7日間で400人オーバーでした。
銀座のキヤノンギャラリーや、新宿のエプソンのギャラリーと違って、ところの個展を見よう! って思わない人はわざわざ来ないギャラリーコンシールの4F(すいません)、そこでこの人数は結構凄いとおもうんだけれど、今回、所幸則といえばアレだろ? って思ってる人達へのプレゼンテーションとしてはまだ弱いかもしれないな。
だって、所幸則といえばアレだろ? って思ってる人が16,000人ぐらいはいそうな気がするんだ。
さて、どうするかな? もちろんコマーシャル・フォト10月号や、キャパ10月号、アイデア330号、デザインの現場10月号、
渋谷経済新聞 < http://www.shibukei.com/headline/5600/
>
Tokyo Art Beat < http://www.tokyoartbeat.com/event/2008/3FD3
>
などでも写真をみつけてくれた人もいると思うけれど、今回の作品群はぜひ実物で見てほしい。
実際、大きいプリントで見た人は、受けた印象がずいぶん違うみたい。それはあまりの情報量の多さに気づく事が、大きなプリントじゃないとまず無理だからなんだと思うんだ。
まだまだところが投げた小石は小さいんだろうなと思ってるんだ。トークショーで田中力弥君(ロッキンオンジャパン、アートディレクター)と桑山輝明さん(シグマ)と話して結構盛り上がった後、クロージングパーティへ(トークショーは50人軽く越えました!)。
西麻布の有名なBAR AMRITAのオーナーサンペイさんに、「うちの店を一か月、渋谷にしてくれ!」って言われて。パーティのあとBAR AMRITAに呼ばれていくと凄い広い素敵なお店だ。高木由利子や伊島薫もやったそうで、申し込みが多くて2010年までいっぱいなので、やるのは2010年10月に決定。
その同じパーティに来ていた、コスモスのギャラリーでは2009年にやることになった。"新生ところ"をわかってもらうには、それくらいかかるかなやっぱり。ほんとうはまだ足りないんだろうな。
さて、今回ところがパリに行こうと思った元々の理由は、プリントを売りたいという思いだった。どうも日本のクリエイターや編集者達というのは、作家を大事にしない人が多いような気がしてる。ところはそこが不安なんだな。
最近、漫画家が原稿をなくされていろんな事があきらかになったけれど、あくまで氷山の一角だとところは思ってる。だからマスコミ全般に対する信用が揺らいでる、ところのなかでは。
それだけではなく、日本人には写真(もしくは絵)を買って飾るという気持ちがまずない。もちろん全員ではない、コレクターと呼ばれる人もいるけれど、半分は投機対象だったりするし、そもそも家が価値をなくす国なんだこの国は。
欧米では素敵な建築家が建てたものなら、その作品は価値がほとんど下がらない。焼き物が年期とともにいい味がでるように。だから住処を大事にして、そこを飾ろうとする。だけど日本ではまず10年も経てば建物の価値はほとんどない。そして、価値のないと思ってしまった人は、絵や写真作品を飾る人ことはまずない。
その責任が誰にあるのか、ところはあまり考えない。僕が頭を使うのは自分の作品についてに絞りたいから。写真も絵画も、数百万円〜数億円というのは本当は一握り。写真もちゃんとしたものが2〜3万円からある。絵画だってそうだ。ところの友人のパリの画家も安いものは8万ぐらいからあるんだ。
日本では1年で買い替える携帯に4〜5万、場合によっては10万もはらう。デジカメなんかもそうだ。ちょっとハイアマチュアになると、年に20〜40万デジタルカメラ機材に使ってる。もちろん個人の勝手です。何がいいたいかというと、日本人は写真好きではなく、写真機好きが多いということ。
ところで、今回の個展ではところの作品は大四つ切りで5〜6万から売ってました。半切は11万から、、いいとこ3〜4枚売れればと思っていて、それが本音のところです。
だけど、、なんとまあ15枚も売れました。これにはビックリ。1週間で15枚、マグレだと正直思ってます。だけど、個人個人の顧客の方が信用できるんじゃないかと思ってる、それは本当に切実に。だって1991年から2〜3年ごとにオリジナルプリントをずっと買ってくれてる人がいるんです。日本人もなかなかやるなあ、と思いたいところ。
【ところ・ゆきのり】写真家
CHIAROSCUARO所幸則
< http://tokoroyukinori.seesaa.net/
>
所幸則公式サイト
< http://tokoroyukinori.com/
>
都合がつかなかったそうで、見に来てもらえなかった柴田さんには、パリ用のセットがそろった時点で、自宅まで押し掛けて見てもらおうと企んでます。だって、タブレットを使い始めてからの作品を、最初に表紙に使ってくれた雑誌の編集長だもんね。この変わりぶりをみてもらいたいですよ。待ってて下さい。
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■編集後記(10/17)
・まだまだ篤姫。毎週と言っていいくらい、どこかの局で篤姫が出て来る。あ、NHKはもともと毎週だけど。水曜日は日本史サスペンス劇場で「大奥を去った篤姫はその後どう生きたのか大河ドラマが描かない明治の篤姫…完全再現」をやっていて、これはまあマトモだった。火曜日は新説日本ミステリーSPで「初公開・篤姫の恋文…勝海舟が愛人? 2人で家茂を毒殺」と、キミハ・ブレイク「篤姫は知っていた? 徳川埋蔵金大発掘」なんて怪しげな話が堂々と展開されていた。前者では、初公開の篤姫から勝海舟にあてた私信がまさしく恋文なのには驚くが、2人で家茂を毒殺説はうなづけない。この番組では、これで家定、井伊直弼に続き3人を殺した篤姫であった。宮尾本によれば、家定、家茂を毒殺した黒幕は慶喜である。後者は、TBSでかつて何度か放映された、糸井重里の羊頭狗肉番組だったが、今回は香取慎吾が新リーダー、とかいいつつ糸井も出て来た。ほとんど有効なコメントができない香取、相変わらずうさんくさい糸井の発掘ショーにくらべ、歴史的な解説部分はおもしろい出来だった。もっとも、消えた360万両の行方については、小栗上野介と篤姫が密議をこらしとしても不思議ではない、という番組作家の単なる希望だった。大河篤姫も最新の回を初めて見たが、宮崎あおいの天璋院、堀北真希の和宮、全然イメージ違うだろうが〜。宮尾本による篤姫は「堂々たる体格で健康に輝いており姑として威風ただしている」のだが、テレビの篤姫は小作りな少女のようで迫力ない。なによりも「人格見識ともに大奥3000人の女中たちの尊崇の的」というオーラがない。和宮よりも10歳年上に見えない。さらに原作には出て来ない「青春の仲間たち」と称される、小松帯刀、西郷吉之助、大久保正助、それに坂本龍馬らのどうしようもない軽さ。どうしてこんなうすっぺらいドラマが視聴率トップなのだろう。(柴田)
・確かに家の価値ってすぐに下がるよなぁ。ダイヤモンドみたい。/リコーR10をゲット。ケータイ並みの大きさ重さ。充電が必要とのことで、おあずけ状態。わんわん、食べさせろ。充電完了を待たず、30分後に立ち上げ、説明書を見ずに触ってみるが、大体のところはわかる。直感的で使いやすい。試しに家の中で撮影してみると、腕があがったような錯覚を覚える。写真展で見たあれやこれやの写真がAUTOで撮れてしまうのでは? 遠景はまだ試していないのだが、室内でのマクロ、暗い部屋に入ってくる窓からの光などとっても綺麗。どうもなぁと思っていた小物類や家具、壁などがR10越しなら趣を感じる。ずっこいわ〜。ポケットに入るカメラでここまで撮れるなんて。説明書はオートブラケット機能とかの個別箇所以外は読了。マニュアル撮影で撮影者の意図がどこまで織り込めるか楽しみ。コンデジでここまで撮れるならデジイチだと…と欲張りな気分にも。デジイチは本当に腕が必要だからなぁ……。/カメラケースのこと忘れてた! 純正がいいのかな。(hammer.mule)
< http://www.ricoh.co.jp/dc/r/r10/
> R10
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001EHE2N4/dgcrcom-22/
>
4万切りました
< http://www.rollei.jp/pd/MiniDigiAF.html
>
R10とは別の用途で
< http://www.vistaquestusa.com/
>
VistaQuestのでも