●公開当時「まいりました」と平伏した映画
今週はいろいろな出来事があって、何から書き始めようかと考えていた。結局、一番気になったのは、緒形拳さんの突然の死である。ニュースは日本全国を駆けめぐり、テレビでも代表作が紹介された。それは「鬼畜」(1978年)であり「復讐するは我にあり」(1979年)であり、「楢山節考」(1983年)だった。
どれも立派な映画で、特に「復讐するは我にあり」の凄さには、公開当時「まいりました」と平伏した記憶がある。佐木隆三さんの原作は読み始めたらやめられない圧倒的な迫力があったが、映画は今村昌平監督の主人公の心の闇を突き詰めることへの執念が迸るような作品だった。
しかし、僕が思い出す緒形拳さんは、映画なら「狼よ落日を斬れ」(1974年)の人斬り半次郎であり、「影の軍団 服部半蔵」(1980年)の甲賀四郎兵衛であり、「魔界転生」(1981年)の宮本武蔵であり、「将軍家光の乱心 激突」(1989年)の石河刑部(いごう・ぎょうぶ)だった。
テレビドラマなら「豆腐屋の四季」(1969年)の松下竜一、「必殺仕掛人」(1972〜1973年)の藤枝梅安、「必殺必中仕事屋稼業」(1975年)の知らぬ顔の半兵衛、「必殺からくり人」(1976年)の夢屋時次郎が忘れられない。今もいくつかのシーンが浮かぶほど印象深い。とりわけ、夢屋時次郎の最期は記憶に刻まれている。
緒形拳さんは1937年の生まれ。亡くなったときは71歳だった。NHK大河ドラマ「太閤記」(1965年)はほとんど見ていなかったが、信長役の高橋幸治、石田三成役の若き石坂浩二に人気が集まったのは記憶にある。僕は翌年に放映された「源義経」はずっと見ていたから弁慶役は印象に残っている。
改めて僕が好きだった緒形拳さんを挙げてみると、ほとんど時代劇である。しかし、最初に賞を独占した「鬼畜」や俳優としての幅を広げた「復讐するは我にあり」、またテレビドラマとして高い評価を得た吉村昭原作の「破獄」など、一般的には現代劇のイメージが定着しているかもしれない。
元来、緒形拳さんは新国劇の大御所である辰巳柳太郎の付き人(弟子)としてスタートした人だから、チャンバラつまり殺陣の基礎はできている。いや、殺陣は新国劇のお家芸だ。殺陣ができなければ、新国劇の役者はつとまらない。緒形拳さんに続いて売れた新国劇の役者は若林豪で、彼の殺陣も見事だった。
もっとも、最近でも「隠し剣 鬼の爪」(2005年)や「蝉しぐれ」(2005年)「武士の一分」(2006年)など、数少ない時代劇が作られると、必ず重要な役で出演していた。最近、作られる時代劇の原作はほとんど藤沢周平さんの小説だが、中でも僕は「蝉しぐれ」の主人公の父親役が忘れられない。
派閥争いに巻き込まれ切腹を言い渡された後、息子と最後の面会をした父親は剣の筋がいいと聞き「はげめ」とひと言静かに言う。さらに、妻の名を口にし「頼む」と言い置いて去る。その短いシーンは、息子である主人公側から描かれていて、父親の表情は逆光でよく見えない。だが、緒形拳の少し軽みのあるセリフまわしに万感の思いが込められていた。
●アクションシーンに充ちあふれた時代劇
緒形拳さんの出演作で最も好きなものを挙げろと言われたら、迷わず僕は「将軍家光の乱心 激突」と答える。1989年1月14日、東映の正月映画第二弾として公開された。制作は前年、緒形拳さんは50をすでに過ぎていたが、このアクションに充ちた時代劇大作では、跳ね、飛び、斬りまくる。
今でもよく憶えているのだが、この映画は労働組合の仲間たちと一緒に見た。その頃、僕は日本出版労働組合連合会(出版労連)の中のひとつのジャンルで括られた共闘会議の事務局長という肩書きを持っていた。いわゆる専従ではなかったから、会社の仕事をしながら上部組織の役員をやっていたのだ。
その共闘組織には、議長がいて副議長が2名いた。事務局には僕の他に事務局次長が2名いて、総勢6名が4役と呼ばれていた。実に組合的な呼び名だと思う。僕の事務局長は書記長と同義で、組織の方針を作り会議を運営し、要求案を提起し、春闘や秋年末闘争を指導する。その頃は、12の出版社の労働組合をまとめていた。
この4役たちとは、よく呑んだ。春闘などが始まると、40を過ぎて独り身の事務局次長の一軒家に寝泊まりし、一週間のうちのほとんどを一緒に過ごすこともあった。しかし、特別な男たちではない。議長をつとめていた男は声がデカい単なる酔っ払いだったし、40過ぎて独り身の事務局長はAVビデオを豊富に所蔵していた。
1989年の正月が明けた月末近い木曜日から、我々は箱根の温泉旅館で「春闘討論集会」という集まりに参加していた。もっとも、木曜日の昼間から参加していたのは僕だけで、他の連中は木曜日の夜からやってきたり、金曜日の朝からの参加だったりした。
その討論集会では、まず最初に講演がある。労働組合が呼ぶのだから、講師は労働側シンパの傾向がある人たちだ。そのときは、評論家の佐高信だったような気がする。それが終わると、出版労連中央執行委員会の書記長から春闘方針と要求案が提起される。そのときの書記長は、小学館の「女性セブン」副編集長だった。
その提起を受けて、僕たちは討議をする。木曜の夜から土曜日の朝まで、旅館の座敷に座って、ただただ話し合う。夜は、もちろん宴会だ。呑み続け、明け方まで呑むのはざらだった。二日酔いの頭を抱えて、僕は12社の労働組合の代表者たちを仕切り、司会進行を担当した。しんどいことである。
そんな2泊3日を過ごし、僕はA議長とS副議長、U事務局次長と一緒に箱根からロマンスカーで新宿に戻った。こういうときは、気分転換をする必要がある。僕らはロマンスカーの中で充分に迎え酒を飲んでいたから、まだ明るい昼過ぎの新宿の雑踏を赤い顔をして歩いていた。
夜なら別だが、僕たちはそんな真っ昼間にうまくサヨナラを言うことができなかった。そんなに長く一緒にいたのに…と言われるかもしれないが、長く一緒だったから別れがたくなっていた。そのとき「将軍家光の乱心 激突」の看板が目に入った。「映画を見よう」と僕は提案した。他の3人が同調し、僕たちは映画館に入った。
映画が始まった。若君らしい子供が巨大な湯船に浸かっている。山の中の温泉場に作られた大きな湯殿である。奥女中が湯殿の窓を閉めようと立ち上がる。その喉を、いきなり矢が貫く。湯殿を警戒していた侍たちが、バタバタと雨霰のように飛んでくる弓矢に倒されていく。巨木から、山伏姿の男たちが飛び降りる。
ミサイルのような形に組まれた大木が湯殿を破壊し、山伏たちが侵入する。天井で爆発が起こり、数人の山伏たちが墜落する。桟になった窓から筋になって射し込む逆光に、湯気と煙が浮かび上がる。その空舞台に浪人者が颯爽と飛び降りてくる。スローモーションだ。逆光が浪人者の姿をくっきりと浮かび上がらせる。刀を構える。「緒形拳」のクレジットタイトルが重なった。
●ギャビン・ライアルの名作「深夜プラスワン」のような時代劇
我が子を憎み疎んだ三代将軍の家光は、長子暗殺を命じる。しかし、次期将軍になる長子の若君守り役を命じられた堀田家は、暗殺されると家名断絶は必至。堀田家は浪人集団を雇い、若君を守ろうとする。5日後の元服の日までに江戸城に入れば、堀田家の勝ちである。
7人の浪人集団を率いるのは、石河刑部(緒形拳)。集団の中には口は利けないが体術・棒術の天才もいれば、火薬を扱えば天才的な若者(セリフはほとんどないし面棒をつけているのでよくわからないが、若き織田裕二)もいる。彼らを追うのは伊庭庄左右衛門(千葉真一)と根来衆であり、老中から命じられた各藩の大勢の侍たちだ。
死地、また死地。アクション、またアクション。日光から江戸までを5日間で突破しなければならないというタイムリミットの設定。まるでギャビン・ライアルの名作「深夜プラスワン」のような、冒険小説の王道をいく物語だ。途中、つかまってしまった若君を救い出したり、絶体絶命の崖に追い詰められた後の脱出など、手に汗握る面白さである。
馬群が駆ける。鋭利な槍が雨のように降り注ぐ。投擲雷が投げらる。爆発と共に砂煙が上がる。人が跳ねる。馬上での闘いがあり、目も眩む崖を水面めがけて飛び降りる。竹林から切り出した竹で追っ手の馬を攪乱し、橋桁に仕掛けた爆薬が破裂し、追っ手が馬と共に川に沈む。
クライマックスは、石河刑部と伊庭庄左右衛門の一騎打ちだ。ジャパン・アクション・クラブ(JAC)を主宰し、この映画でも自らアクション監督を務める千葉真一演じる伊庭庄左右衛門と互角に闘う石河刑部の姿は、悲壮な表情をしないだけに余計に悲壮感が伝わってくる。飄々とした緒形拳さんの笑みを浮かべた姿が記憶に刻まれた。
そう言えば、悲壮な状況なのに淡々と、ときには飄々と演じる緒形拳さんの演技は、いつまでも記憶に残るシーンを作り出す。「必殺からくり人」の最終回で夢屋時次郎は、依頼されたことではなく自らの意志で老中暗殺を企て、五重塔に潜伏する。だが、狙撃は失敗し、時次郎は壮烈に爆死する。「ジャッカルの日」(1973年)や「気狂いピエロ」(1965年)を思い出す話だった。
その日、「将軍家光の乱心 激突」は、長時間にわたってこむずかしいことを論議していた頭をクリアにしてくれた。映画館を出て見上げた看板に書かれていた「おのれ、理不尽なり」というキャッチコピーを僕たちは気に入り、その後の会議では「反対」と言う代わりに「理不尽なり」と口にした。
あれから…20年近い時間が流れた。議長だった男は、その数年後に突然、自社の社長になった。やがて出版界でも有名な労働条件のよい会社に育て上げ、長く社長を勤め、今年、退任した。事務局次長のUは勤めていた出版社を辞め、仲間と小さな出版社を立ち上げた。最近、自ら城の本を出した。彼は、当時から城の研究家として有名だった。S副議長も60を越して、元気だと聞いた。
僕は、現在、会社では組合の要求書を受け取る立場になってしまった。時間の経過が僕を変えたのか、現在の労働組合が変質してしまったのか、ときには組合の主張に「理不尽なり」と言いたくなることがある。そして、そのことを淋しく思う気持ちが湧き起こる。あの頃、僕は労働組合の活動を通じて多くのことを学んだ。それは、今の僕を作った大きな要素のひとつだった。
先日、緒形拳さんの遺作になった倉本聰さん脚本「風のガーデン」(2008年・フジテレビ)を見たら、緒形拳さんの髪が真っ白で癌のためかひどく痩せていた。その老いた名優の姿に、長い時間が過ぎ去ったのだ、と強く胸に迫る何かが湧き起こり、遠く遙かな昔が甦った。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
気になるニュースのひとつは、ル・クレジオのノーベル文学賞。大学時代の恩師がクレジオの紹介者で、40年ほど前に来日したとき、僕の大学の剣道場を案内したという自慢話を授業で聞いた。僕らの時代、ル・クレジオはヌーヴォー・ロマン最大のスターでした。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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- 映画がなければ生きていけない 1999‐2002
- 十河 進
- 水曜社 2006-12-23
- おすすめ平均
- ちびちび、の愉悦!
- 「ぼやき」という名の愛
- 第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
- すばらしい本です。
- ものすごい読み応え!!
by G-Tools , 2008/10/17