私症説[13]ちからは無気力の真空
── 永吉克之 ──

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永吉さんが、今のような自堕落な生活をずるずると続けているのは、無気力によるものなんです。といっても永吉さんは、無気力というものを、気力が無い状態ではなくて「無気」という「力」であると定義していて、彼のずるずるした生活は、無気力が発揮された結果だとと考えているようなんです。

彼は、両親が生前にローンを完済したマンションに、ひとりで住んでるんですけど、現在、無気力がこれまでになく充実しているので、掃除だの整頓だのといったことは一切しないで生きていることができるんです。

床の上には、玄関から台所、トイレ、ベランダにいたるまで、雑誌やら弁当殻やら公共料金の督促状やら腐った鳥のモモ肉やら薬瓶やら鈍器のようなものやらが遠近(おちこち)に散らばっていて、永吉さんはそれらの上を平気で歩くんです。昨日なんか、注射器を踏み割って、足の裏を3針縫ったんですよ。それでもその圧倒的な無気力で、そろそろ掃除をしなくてはまずいという危機感を完全に圧殺してしまいました。

永吉さんは、どうせ世間は俺の力を理解できないだろうというので、この数年、部屋はもちろん玄関にすら誰も、唯一の肉親である弟さんさえも入れてません。インターフォンが故障してるんですけど、修理屋を部屋に入れるのが嫌だという理由で放置してあるんです。表に設置されたスピーカーの上には「故障中につき御用の方はドアをノックしてください」とぞんざいな字で書いた紙がもう3年も前から貼ってあって、すっかり変色して風にはためいてます。警察の家宅捜索でもないかぎり、他人が永吉さんの部屋に入ることはないでしょうね。

といっても、年中、無気力を維持するのはさすがにむずかしいらしく、力が衰える時期もあります。そんなときは、彼もついつい整理整頓や掃除なんかに手を出してしまったりなんかしたりするんです。



ちょうど無気力がかなり減退していたころでした。食卓の上がアレやコレやの物体に占領されていて、食事をするスペースがなく、台所で立食いをしていた永吉さんは、それらを片付けようという気を起こしたんですよ。

ところがです。わたしは永吉さんが片付けるところを、そばで見てたんですけど、テーブルの上に積み上げられた物たちを、両腕で丸抱えにして床の上に移動させただけで終ってしまったんです。あとは、嗚呼疲れた疲れたと5分ほどぼんやりしただけでした。いくら減退しているとはいっても、永吉さんの生存の根幹を支える無気力ですから、その影響を完全に抑えることなんてできないんでしょうね。

そんな具合で、永吉さんの家のなかの有様には驚きましたけど、それ以上に彼の「無気=力」という思想に、何やら計り知れないものを感じ取ったわたしは、それについての意見を、我が社のブログ「アワビの咲く丘」に掲載しようと思い立って、いそいそと彼の住まいを後にしたんです。

頭に残っているイメージを早く文字にしないと、興奮が冷めてしまって勢いのある記事が書けないので、急いで帰宅したかったのですが、永吉さんのお宅からわたしの家までは3時間以上かかるのです。そこで、ケータイメールで記事を書き、自分宛に送信しておいて、帰宅してからそれを清書しようと思い、夕方のラッシュ時の電車の中で揉みしだかれながら懸命に書きました。

幸い、そのメールが届く前に自宅に着くことができました。わたしは食卓の椅子に腰かけながら、ネクタイを引き抜いてそこらに放り投げると、背広の内ポケットからケータイを取り出して開き、コンビニおにぎりのセロファンをむしりとって床に叩きつけ、飯を丸呑みしながら着信を待ちました。

5分ほどすると、文字がひとつずづディスプレイに現れてきました。たしかに電車のなかから送ったメールです。全文が表示されるまでに1時間はかかりそうだったので、現れる端から原稿用紙にボールペンで書き写していきました。

写し終わると、原稿をスキャナーでパソコンに取り込み、それをテンプレートにして、Photoshopの文字ツールで清書したものをjpegで保存して、ブログに貼り付けました。なにしろ原稿用紙23枚にもなる長文だったので、終ったころには、東(ひんがし)の空が緑色に白み始めていて、わけのわからない巨鳥が一羽ゲヨウゲヨウと啼きながら飛び回っていました。

以下は、「無気力」についてのわたしの考えを述べたブログ記事からの抜粋です。ちなみに「無気=力」という思想については、まだ永吉さんが頭のなかで熟成を待っている段階で、誰にも話していないはずですから、わたしが先に発表したところで盗作にはならないと思います。もし、四の五の言ってきやがったら、いつでも相手になってやりますよ。

●無気力という「ちから」 2001-03-04 14:26:17

「無」とは存在しないということなのだから、力も存在しないと考えるならば、それは浅慮というほかあるまい。例えば、真空を考えてみるがいい。真空とは一般的には、いかなる物質も存在しない無の空間を意味するわけだが、実はこれが恐るべき力をもっているのである。

諸君は映画『トータルリコール』をご覧になったであろうか。アールドノシュツェ・ワルッネガーと、もうひとり(俳優の名前を忘れた)が宇宙服もつけずに真空の火星の地表に放り出されて、ふたりは目玉が飛び出して危うくくたばるところだった。それは体外と体内の気圧の差によって起きる現象なのだ。

「有」が拡張し「与える」力であるのに対して「無」は収縮し「奪う」力なのである。「無」である真空は、あのアールドノシュツェ・ワルッネガーの、全身に銃弾を浴びても死ななかった男の目玉をも奪い取るほどの力をもっていたのだ。しかし両者に優劣も善悪もない。人間はみな因業ババアだから、奪われるより与えられる方が好きだというだけのことなのだ。同様に、有気力に比べて無気力は表面的に見劣りするため、人は無気力を嫌うのである。

ところで、最近は、家庭のトイレのほとんどが水洗なので、バキュームカーというものを見なくなってしまったが、この「バキューム(vacuum)」という言葉は真空を意味する。真空の吸引力によって汚穢を除去するのだ。つまり「無」が、われわれ無辜の民を糞尿地獄での悶死から救ってくれたのだ。

キスマークもそれと同じ原理である。愛する者の首筋に唇をあてがい、口腔内を虚しゅうして皮下出血を出来(しゅったい)せしむるのだ。糞尿吸引とキスマーク。このふたつの例を挙げただけでも無の力、つまり「無力」がいかほどのものかお分かりいだだけるであろう。

したがって「無気力」も「気の無い力」であるとすれば「気」の抜けた後にできた真空の空洞に、弁当殻や脱脂綿や鈍器のようなものなどが流れ込んでくるのは理の当然であり、無気力に満ちた人の住居に、弁当殻や脱脂綿や鈍器のようなものが散乱しているのも、また理の当然である。

                 ■ 

真空とバキュームカーと無気力を関係づけている点にすこし飛躍があるとは思うんですけど、革新的な理論には、飛躍や矛盾やこじつけや本末転倒はつきものなんじゃないでしょうか。永吉さんもこの理論には反対しないと思います。

ブログに投稿し終えると、もう10年以上も寝起きしている自分の部屋を見回しました。ちょうどわたしも無気力が衰えている時だし、このゴミ集積場のような部屋をもう少し人間の住処らしくしてもいいかなと思いました。ただ、故障しているインターフォンは、修理にお金がかかるので、もうしばらく放置しておくことにしました。公共料金の督促状は、支払い期限まで2日あるので、これもとりあえず放置。

放置しておくとまずいものを優先的に処分しようというわけで、腐って悪臭を放っている鳥のモモ肉は生ゴミに出し、この間、踏み割って足の裏を3針縫った注射器のガラス片を用心深く拾って処分したんですけど、放っておいてまずいものって、結局それだけかと気がつくと突然、体中に、指先毛先にまで無気力がみなぎってくるのが感じられて、わたしは寝ました。

【ながよしかつゆき】thereisaship@yahoo.co.jp
このテキストは、私のブログにも、ほぼ同時掲載されています。
・無名芸人< http://blog.goo.ne.jp/nagayoshi_katz
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