[2816] フィッツジェラルドを巡る冒険

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《このところヲタと非ヲタの区別がほとんどなくなってきてる》
 
■映画と夜と音楽と...[456]
 フィッツジェラルドを巡る冒険
 十河 進

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■映画と夜と音楽と...[456]
フィッツジェラルドを巡る冒険

十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20100319140200.html
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〈悲愁/雨の朝巴里に死す/華麗なるギャツビー/ラスト・タイクーン/ベンジャミン・バトン 数奇な人生〉

●大根役者と言われたグレゴリー・ペックが演じた小説家

フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルドは、20世紀を迎える数年前の1896年9月にアメリカの中西部で生まれ、ヒットラー率いるナチスドイツがヨーロッパを席巻している最中に死んだ。1940年の暮れだった。44歳。当時としても早死にだった。未完を含む5編の長編小説と、多くの短編とわずかばかりの戯曲を遺した。

1920年、まだ24歳だったフィッツジェラルドは、「楽園のこちら側」という長編小説を発表し、華々しいデビューを飾った。彼自身にとっても、ローリング・トゥエンティーズの始まりである。1920年代、好景気にアメリカ中が浮かれ、人々はチャールストンを踊り狂った。フィッツジェラルドも美しい妻ゼルダを伴って、連夜、遊びまわり、湯水のように金を使った。

しかし、1929年、大恐慌によってアメリカが長い不況に陥ったのと同じように、フィッツジェラルドも若き日の栄光を失い、長い不遇の日々を送ることになる。妻ゼルダは精神に異常をきたして病院に入り、彼自身は力を込めて書き上げた長篇小説「夜はやさし」の不評に耐えながら、「昔は売れた作家」として自己憐憫に浸って生きることになった。

フィッツジェラルドの晩年は、愛人シーラ・グレアムが彼の死後に出版した手記によって描かれ、ハリウッドが得意とするメロドラマとして映画化された。ヘンリー・キング監督の「悲愁」(1959年)である。フィッツジェラルドをグレゴリー・ペックが演じ、コラムニストとして成功するシーラ・グレアムを知性派女優デボラ・カーが演じた。

デボラ・カーは「王様と私」(1956年)「めぐり逢い」(1957年)などを経て絶頂期にあった。しかし、グレゴリー・ペックはすでに15年のキャリアと30本近くの作品歴を持っていたものの、まだ代表作「アラバマ物語」(1962年)とは巡り会っておらず、大根役者と呼ばれていた。何を演じてもグレゴリー・ペックだ、と陰口を叩かれていた。

「悲愁」はデボラ・カーの視点で描かれた。もちろん原作がシーラ・グレアムだったのだから、その映画の主役は彼女である。経歴を詐称してアメリカの新聞社に入ったシーラ・グレアムが、やがてコラムニストとして有名になり、晩年のフィッツジェラルドと知り合い、愛人関係になる。そして、彼女の部屋でフィッツジェラルドが死んで映画は終わる。

「悲愁」では、フィッツジェラルドが過去の作家であることが、しつこいくらいに描かれた。旅行先でシーラ・グレアムに自著をプレゼントしようと思い立ったフィッツジェラルドが書店に入ると自分の本はなく、書店主に「昔はいい小説を書いた作家だったけどね」と言われる。

また、新聞を見て自作が劇場で上演されることを知り、ふたりで正装して出かけるが、それは大劇場に付随する小さなホールで上演される学生たちの公演だった。フィッツジェラルドは学生に声をかけるが、誰も彼を知らず、女子学生は「あの人、誰?」と友人に問いかける。「昔、売れた作家だったらしいよ」と友人は答え、それをフィッツジェラルドは耳にする。

そんなエピソードのたびにフィッツジェラルドは傷つき、グレゴリー・ペックは何度も失意の表情をしなければならない。次第に彼はアルコールに浸るようになり、酔っ払ってシーラ・グレアムの仕事先に現れ、彼女を困らせるようになる。「悲愁」を見たとき、僕は「フイッツジェラルドは、こんな困った奴だった」ことを描きたかったのかと思ったものだ。

●60年代半ばにフィッツジェラルドの小説を読んだ少年

1960年代半ば、兵庫県に住む16歳の少年が、フィッツジェラルドの小説を読んだ。やがて彼は18歳になり「グレート・ギャツビー」を読み、それは彼の生涯の一冊になった。その数10年後、今や有名作家となった彼はフィッツジェラルドの小説を訳し始め、50歳を越えて念願だった「グレート・ギャツビー」を翻訳した。

同じ1960年代半ば、四国高松に住む16歳の少年は、角川文庫から出ていた「雨の朝巴里に死す」という短編集を買った。表紙は、同タイトルのエリザベス・テイラー主演映画のスチルを使ったものだった。そして、その中の一編「冬の夢」が少年の心を捉え、続けてその小説家の代表作だと聞いた「グレート・ギャツビー」を読んだ。

集英社版「世界文学全集」第18巻は、40年後の今、作家になり損なった少年の書棚にまだきちんと並んでいる。その巻にはフィッツジェラルド「偉大なギャツビー」の他、ウェスト「孤独な娘」スタインベック「赤い子馬」オハラ「サマーラの待ちで会おう」が収められていた。「偉大なギャツビー」は「ライ麦畑でつかまえて」と同じく、野崎孝さんの訳である。

昨年の暮れ、四国高松生まれの少年だった男は、書店で兵庫県育ちの少年だった作家が翻訳したフィッツジェラルド作品集「冬の夢」が新刊で出たのを知り、読もうか読むまいか迷った挙げ句、先日、とうとうそれを読み始めた。そして、16歳のときと同じように、その一編は深く深く男の胸に沁みわたった。「ああ、なんて素晴らしい小説なんだ」と深い溜息をついた。

フィッツジェラルドを翻訳した世界的作家は、もちろん村上春樹さんであり、同じ頃に瀬戸内海を挟んで育った少年は僕である。僕が村上さんの「冬の夢」を読むことを躊躇したのは、以前の翻訳が躯にしみこんでいたからだ。「冬の夢」という短編を、僕はこの40年間に何度読み返したかわからない。その小説は、村上さんにとっての「グレート・ギャツビー」と同じ位置を、僕の中で占めているのだ。

フィッツジェラルドなら「冬の夢」、レイモンド・チャンドラーなら「待っている」、そして村上春樹さんの「午後の最後の芝生」...、この三つの短編は僕を惹きつけ、ことあるごとに僕は読み返す。それは、僕にとっての精神のクスリなのかもしれない。何かがあったときというわけではないが、電車でぼんやりと窓の外を眺めているときなどに、ふっと読み返したくなるのだ。

しかし、それらは長い間に一字一句が身にしみこんでいて、翻訳者による微妙な語句の違いが違和感を生む。だから、僕はチャンドラーの「待っている」が新訳で出たけれど、敬遠した。特にフィッツジェラルドの「冬の夢」のラスト・フレーズは僕を捉え、ほとんど暗記するほど読み込んだ。それくらい思い入れが強いものだから、僕は村上訳に二の足を踏んだのだった。

──「ずっと以前」と、彼は言った。「遠いむかし、ぼくの中には何かがあった。だがそれも今はなくなったのだ。去ってしまった以上、それはもうないんだ。おれは泣くこともできない。気にかけることもできない。それはもう二度と戻ってはこないだろう」(飯島淳秀訳・角川文庫版)

──「ずっと昔」と彼は言った、「ずっと昔、僕の中には何かがあった。でもそれは消えてしまった。それはどこかへ消え去った。どこかに失われてしまった。僕には泣くこともできない。思いを寄せることもできない。それはもう二度と再び戻ってはこないものなのだ」(村上春樹訳・中央公論新社刊)

●フィッツジェラルドを読むきっかけは「雨の朝巴里に死す」

僕がフィッツジェラルドの作品集を手にしたきっかけは、ハリウッドのメロドラマ「雨の朝巴里に死す」(1954年)だった。フィッツジェラルドが描くヒロインは、妻ゼルダがモデルなのだろうが、常に派手で遊び好きで奔放である。女王のように振る舞い、男たちを惹きつける。かしずかせる。この映画では、そんなヒロインをエリザベス・テイラーが演じた。

原作は「バビロン再訪」という意味だが、村上春樹さんは「バビロンに帰る」と訳している。間違いなくフィッツジェラルドの最高の短編小説だ。その素晴らしさについては、村上さんが口を極めて絶賛しているから、中公文庫版「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック2 バビロンに帰る」を読んでいただくのがいいだろう。

映画版はエリザベス・テイラーが美の絶頂にあるときに制作され、僕は後にそうだと知るのだが、ほとんどエリザベス・テイラー自身のようなヒロインを楽しそうに演じている。当時の二枚目スターだったヴァン・ジョンソンが主人公だ。僕は、彼が同じ年に出演した「ケイン号の反乱」(1954年)の副艦長として記憶している。

物語は原作と同じように回想として語られるが、原題はなぜか「私がパリを見た最後のとき」と変えられていた。「バビロン再訪」では意味がわからない、とプロデューサーが言ったのかもしれない。もちろん「享楽の都バビロン」は、象徴的な意味で使われている。

「雨の朝巴里に死す」は、フィッツジェラルドの死後14年経っての映画化だった。フィッツジェラルドは、晩年をハリウッドのライターとして糊口を凌いだが、彼自身の作品の映画化はほとんどが死後のことだ。代表作「グレート・ギャツビー」は彼の死の9年後に映画化され、日本では「暗黒街の巨頭」(1949年)というミもフタもないタイトルで公開された。

フィッツジェラルドも多くの芸術家と同じように、死んだ後に評価が高まったのかもしれない。彼自身を描いた「悲愁」が19年後に公開され、その2年後には同じヘンリー・キング監督が「夜は帰って来ない」(1961年)という映画を作っている。僕は未見だが、原作は「夜はやさし」なのだろうか。

しかし、「グレート・ギャツビー」が評判になるのは、圧倒的な人気を誇った頃のロバート・レッドフォードが、「華麗なるギャツビー」(1974年)に主演するまで待たなければならなかった。当時、ロバート・レッドフォード主演作は「華麗なる...」とつけることが義務(?)づけられていたのか、その映画も「グレート」が「華麗なる」に変わった。

僕の手元には今も、ギャツビー(ロバート・レッドフォード)とデイジー(ミア・ファーロー)がハレーションを起こしたような光あふれる緑の中を、当時、話題になったクラシック・ファッションに身を包み、手をつないで歩いている映画のワンシーンを使ったカバーの新潮文庫版「華麗なるギャツビー」がある。

しかし、そのカバーを外すと「グレート・ギャツビー」というタイトルが現れるのだ。訳者の名前は野崎孝となっている。野崎さんは後書きで「かなり改訂した」と書いてはあったが、それは僕が16歳のときに「偉大なギャツビー」として読んだ集英社世界文学全集版と同じだった。

●読者の心に住み着き永遠に立ち去ることのない哀しみ

「ラスト・タイクーン」(1976年)は、若きロバート・デ・ニーロが主演した、エリア・カザン最後の監督作である。原作はフィッツジェラルドの遺作であり、未完の長篇だった。彼が晩年を送ったハリウッドで見聞きしたことが、反映された。主人公のモデルは、プロデューサーであり撮影所長だったアーヴィング・サルバーグだと言われている。

その後、フィッツジェラルドの小説はテレビ映画として数本が映像化されたようだが、その中の一本を僕は見ることができた。何年か前にNHK-BSが放映した「華麗なるギャツビー」(2001年)である。レッドフォード版の影響で、またも「華麗なる」という形容詞がついた。「グレート」には複雑な意味があるのだから、今なら「グレート・ギャツビー」でいいと思うのだけど...。

さて、劇場公開作品としては長くフィッツジェラルドの小説は映画化されなかったが、昨年、「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」(2008年)が公開された。僕はイースト・プレスから同タイトルの小説が出たので、初めてフィツジェラルドの原作だと知った。

それと知って見ると、ある種の切なさが漂うのは、フィッツジェラルドの原作を使っているからかもしれない。監督のデビッド・フィンチャーは、本質的には殺伐とした映画を撮る人だから、こんな抒情感は表現できないだろう。主人公が老人の顔をした赤ん坊として生まれ、歳を重ねると若返っていくのも人生の悲しみを描くための設定であり、SF的には描いていない。

主人公(ブラッド・ピット)には、愛している女性(ケイト・ブランシェット)がいる。だが、彼女は年をとり、自分はどんどん若返っていく。彼らの年齢と外見が一致するのは互いに40を過ぎたときだ。いわゆる、人生の折り返し点である。だが、主人公の若返りは止まらない。やがて、主人公は彼女の前から姿を消し、老人になった彼女の前に認知症の少年(!)として現れる。

フィッツジェラルドは人が生きることの切なさを、見事なまでに描ける作家だった。それを僕は16歳のときに読んだ「冬の夢」で知った。心を捉えられた。鷲づかみにされた。最後のフレーズを、時々、ぼくはつぶやく。主人公のデクスターがそれをどんな気持ちで言っているのか、フィッツジェラルドが僕の心の奥底に刻印のように焼きつけていったからだ。

──人の魂が一度は辿らなくてはならない痛切な道程を、実に美しく描ききっている。そこには優れた文学にしかつくり出すことのできない、奥行きのある哀しみがある。読者の心に一度住み着いてしまったら、そこから永遠に立ち去ることのない哀しみだ。気がついたときには、心はその色に染められてしまっている。(村上春樹「冬の夢」のためのノートより)

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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酔っ払って怪我をしたときにメガネを紛失した。そこで、傷跡を隠せる黒縁メガネを買いにいったのに、買ったのはフレームのないスリーポイントのメガネ。そう言えば、10年少し前にもスリーポイントのメガネをしていたが、あれは帰郷して酔っ払い灌漑用水に落ちたときになくしてしまった。

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< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1447ei2007.html
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●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
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■Otaku ワールドへようこそ![114]
人生の線路は曲がるよどこまでも

GrowHair
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よく曲がる人生を送ってきた気がする。この曲がりっぷりにはもう大体満腹していて、最近は、ああ、なんだかいろいろあって楽しかったなー、と感傷混じりの振り返りモードに浸りつつあった。残りの人生は少し手抜きさせてもらって、お気楽に、惰性にまかせてフェードアウトしていけばいいかなー、なんて漠然と見通しを立てていた。

そうは許してくれなかった。目の前に、またしても新しい扉が現れた。え?そっちへ曲がる? 俺ももう今年48歳だぜ。今さら新しい扉なんて開けなくていいんでねーの? なんて躊躇していたら、自動ドアのごとく勝手に開いて、気がつくともう半歩踏み出している。

2月19日(金)、20日(土)に渋谷のルデコで劇団MONOT★SUCHT主催のイベントがあり、26日(金)に内輪の打ち上げがあったことは、前回書いた。けど、そのとき書かないでおいたことがある。自分でも信じてなかったというか、書いちゃったら後戻りできなくなるのを恐れていたというか。

●初めてのボイス・トレーニング──下北沢

歌手の青炎(セイレーン)さんから「一生のお願いっ(はぁと)」と拝み倒されて、その扉は開いた。青炎さんはMONT★SUCHTと近い位置で活動している。クラブ系のイベント、特にゴスでロリでファンタジーでホラーな「アラモード・ナイト」などに出ることが多い。'08年夏に、川口の鋳物工場跡のスタジオでMONT★SUCHTのプロモーション用写真を撮らせてもらったとき、一緒に来ていた青炎さんも撮らせてもらったのが、私との関わりの始まりである。

ルデコのイベントでは舞台には立たず、カウンターの向こうでハーブティーなどを作っていた。歌っているときのパワフルさとは対照的に、やや地味な、ふつうの女の子といった風情だった。飲み物は好評を博していた。その青炎さんからの一生のお願いとは、4月18日(日)のイベントで、一緒に舞台に立ってくれませんか、だった。え?

その方向性、目指してなかった、どころか、考えたこともなかったんですけど。「ぜったいにできるから」と総合プロデュースの奥井氏は言う。奥井氏は、かつてビクターの正社員・ディレクタとして歌唱指導に携わっているし、その前は渡米してボストンのバークリー音楽大学で作曲などを学んでいる。川口のときには、私がうっかり切らしてしまったコンパクトフラッシュを買い足しに街の電器量販店へ行くのに、BMW 850iに乗せてくれた。ルデコでは、蝶ネクタイ姿でバーテンダーとしてカクテルなどを作っていた。

私にはできるような感じがしない、と言ってみても、奥井氏は、いや、できる、と言う。うん、できるんじゃないかな。なんでも、牧師として黒い法衣をまとって立っていればいいそうで。生きた小道具。歌うわけではない。役としては簡単でも、私をもって他にできる者はいないのだという。じゃあ、練習というのも変だけど、聖職者のメンタリティに自分をアジャストしていこう、というわけで、翌日から酒断ち、メイド断ち、女装断ちの生活が始まった。さて、一番無理だったのはどれでしょう?

3月6日(土)、奥井氏のボイス・トレーニング教室「ヴァロワ・ヴォイス」へ初めて行ってきた。下北沢の本多劇場のまん前のビルの4階にある。舞台の話とは直接関係ないんだけど、せっかくの機会なので、体験レッスンを受けてみることにした。
< http://www.ness2000.com/
> ヴァロワ・ヴォイス

こと歌に関しては、小学生時代以来、強烈なコンプレックスを抱えてきていて、人前で歌うなんてことは、かたくなに開けることを拒み続けてきた鉄の箱だったのだが、21世紀に入ったあたりから、ようやくほぐれてきた。意外と見栄っ張りな私、体験レッスンとは言いながらちょっとでもいいところを見せようと、朝から2時間ばかりヒトカラでのどを慣らしてから赴いた。

中世ヨーロッパ風の内装、ピアノには燭台が据えつけられていて、左右にろうそくが2本ずつ。指導してくださるのは、青炎さん。まず、立ち方、呼吸法、口の開き方をそれぞれ教わる。これが、ひとつもできない。それから、音階があって、リズムがあって、曲の構成がある。あれもこれも同時にはとても考えられない。ひとつひとつ思い出したように意識すると、他のことが全部お留守になってしまう。いや〜、歌ってムヅカシイ! 上手い人を改めて尊敬。

だけど、たまたまうまくいくと、力まなくてもすごい声量が出る。ぶっとく、力強い声。自分の性別をいやというほど再認識させられる。'70年代アイドルの歌を歌うときは、この声じゃだめじゃん。というのは置いといて、あと30年早く始めてれば、ぜーったい人生変わってたはずだ、と激しく後悔。コンプレックスなんて、後で振り返りゃ、屁みたいなもんだ。

さて、自主的に聖職者もどきの生活をしていることを言うと、奥井氏は笑って、そんなのいいから、という。素のままでいいから、と。そう言われて、その日のうちにめげたのは女装断ちであった。あっふ〜ん。

●画廊にて展示中の人形を撮る──吉祥寺

下北沢から吉祥寺へ。「リベストギャラリー創」は五日市街道に面してあり、大きなガラス張りで、中がよく見える。吉村眸さんが人形作品を展示しているということで、見に行く。東京学芸大学の彫刻研究室のグループ展。吉村さんは、修士課程を修了し、研究生として在籍している。今回展示していたのは、2月6日(土)に昭和記念公園で撮らせてもらったリアル感・生命感たっぷりなのとはがらっと趣向を異にして、宇宙人の子供のようであったり、遺跡から発掘された朽ちかけた宝物のようでありながら、どこか現代的でもあったりするような、抽象的な美術品といった趣き。

展示してある、そのままの形で撮らせてもらう。私が撮っているときって、脳がアルファ波みたいなのを発しているっぽい。それが周囲にも伝播するのか、一緒にいた人からよく、楽しかった、と言われる。

月曜日、出社すると、「吉祥寺にいなかった?」と上司。なんと、五日市街道を車でたまたま通りがかって、私が撮ってる姿を見ちゃったそうで。被写体が人形なのを見て間違いないと確信したそうで。足を止めて眺めている人が何人かいたとのこと。私は撮ることに夢中で、撮っている自分の姿がどう見えるかなんて気にも留めてなかったが、なんだかインスタレーションみたいで人目を引いていたらしい。
< http://picasaweb.google.com/Kebayashi/302#
> 吉村さんの作品の写真

●画廊にて展示中の人形を撮る──浅草橋

吉祥寺から浅草橋へ。まだ3月6日(土)の話。パラボリカ・ビスで開催中の清水真理さんの人形の個展「夜想モンスター&フリークス展」で展示してある人形を撮らせてもらえる話になっている。すでに2回、見てるのだけど。2月27日(土)はRose de Reficul et Guigglesのパフォーマンスを見て、28(日)は寺嶋真里さんの映像作品「アリスが落ちた穴の中 Dark Marchen Show!!」を見て、そのときに人形も撮らせてもらっている。

けど、それはそれとして、配置もイベント用から展示用に戻してあるというし、もう一回、ちゃんと撮りたかったのだ。7:00pmの閉廊後に清水さんと会場スタッフのN川さんに居残っていただき、撮影者は私だけという、ちょっと考えられない絶好の環境を整えていただいた。

N川さんにはライトを持っていただき、あっちから、次はこっちからと指図する。どんな特権者なんだ、俺。清水さんには、人形の位置はここ、ポーズはこう、顔の向きはあっち、と指図する。いやいやほんとに、どんだけ偉いんだよ、俺。しかし、軽い気持ちで首根っこをつかんでひょいひょい動かせるのは作家本人をおいていないわけで、たとえ私が自分でやっていいよと言われたとしても、ずぇーったいにできましぇーん。

結局、延々4時間、11時までかかった。もうありがたすぎて、人生があと3回ぐらいあっても返せないのではないかと。もう、いつ上のほうから(下か?)お迎えが来ても、一点の迷いもなく、楽しかったと言える自信がある。まあ、これであと、撮る腕がプロ級でさえあったなら八方めでたしなのだが、アマチュアもアマチュア、コスプレイヤー撮ってるただのカメコだっちゅうとこがなんともかんともイタすぎる。もったいないオバケが出るぞ。せめて最後の最後まで、緊張の糸を切らずにがんばれたところが救いか。
< http://picasaweb.google.co.jp/Kebayashi/TiUESI#
> 写真

●心霊っぽい写真を撮影──青山墓地

翌日3月7日(日)は雨の中をロケハンに行っているのだが、その話は飛ばして、3月10日(水)、仕事帰りに夜の青山墓地へ。大の大人が4人集まって、お化けの写真を撮りに。待合せは忠犬ハチ公の墓の前、にしようかと思ったけど、迷ったら不安になりそうなので、撤回。

冥界の皆様方に起きてきていただいて、集合写真が撮れたりなんかしたら面白いに違いないんだけど、そういう方面にまったく才能のない私。演出する以外にない。3人には黒い服を着てきていただいた。

5月15日(土)、16日(日)の「デザインフェスタ」用の写真。去年の10月のときは美登利さんと組んで1ブースを借りて人形と写真の展示をしたが、次回は「妖怪横丁」の一員として参加することにしている。通路を挟んで12ブース借りて、妖怪関連の展示で固める。

三脚を据え、30秒間露光で適正露出よりも2/3段アンダーぐらいになるよう、ISO感度と絞りを調整する。光るものを黒子に持ってもらい、ゆらゆら動かしながら歩いてもらう。光の軌跡が写真に写り、黒子は写らないという寸法。エセ心霊写真の出来上がり。

ちょっとした発見。光の軌跡の中に、黒子の性格が写っちゃうんだなぁ。なんだか陽気な心霊写真になっちゃったよ。もうちょっと、うらめしや〜、な性格の人に頼めばよかったかな。

●春めいた公園で人形撮影──昭和記念公園

2月6日(土)に撮ったときは、雪が残ってて福寿草が咲いてて、めちゃめちゃ寒かった。風がどんどん強くなっていき、レフ板が帆をかけたように膨らんで、早々に切り上げたのだった。3月13日(土)、再び昭和記念公園へ。吉村眸さんの人形を撮る。

春! めちゃめちゃ暖かくて、人がいっぱいいて、クロッカスが咲いていた。今回は助っ人を連れてきてくれた。K村さん。やはり東京学芸大学を卒業し、職員として残り、木工が専門だという。初めてお会いするので、いきなりあんまりひどいボロを出さないよう、虚栄心というよりはいちおうの礼儀のつもりで多少は気取っていたのだが、よくよく聞いてみれば、Gallery 156の「臘月祭」のときに吉村さんと一緒に来てくれたのだそうで、ということは八裕さんにいきなりセーラー服のことをばらされてたわけだ。や〜ひ〜ろ〜。この徒労感をなんとしよう。

3人いるといい。カメラ、黒子、レフ板という分担ができるのだ。梅など、高い位置で花が咲いている場合、人形の腰のあたりを持って高さを揃えてもらい、黒子が写らないアングルで切り取るとラクできるのだ。位置、体勢、向きなどが音声入力で自由自在だし。そういう機械があったら欲しい気もしなくもないが、自立歩行してくれて、しかもかわいいなんて付加価値まで求めると、技術的なハードルも値段もそうとう高いだろうなー。

今回は、木瓜(ボケ)でそれをやった。この花を撮るときは、ピントをはずすのがコツである。......ということはない。この前の梅のときは、たまたまレンズのすぐ前を枝が横切っちゃって、激しくピンボケな意味不明のラインが生じ、しかもそれが人形の目にかかってヤッターマンみたくなってたのが撮れて、吉村さんにはやけにウケた。こっちは撮った覚えもないのに、ホームページのトップ絵にまで採用されて、複雑な気分。

このところ人形を撮る機会がますます増えてきて、いつも同じようにしか撮れなくて発想力の限界を露呈したのでは恥ずかしいので、いろいろ変わった撮り方を試してみたいところではある。ヤッターマンみたいなのが意図的に撮れるようになりたい。といっても同じことの二番煎じじゃしょうがないし。

自分としては、いつもと違った趣向で、広角レンズを使ってみたのだが。形がゆがんで写るのは、あんまりよろしくなかったかも。いろいろ遊び心を入れたショットを試みつつ、今回は催促の放送が鳴るまで撮っていた。
< http://picasaweb.google.co.jp/Kebayashi/204#
> 写真

●痛車のイベント「痛萌 2010」──福山

3月14日(日)は、6:00東京発ののぞみで福山へ。......の予定だったのだが、目が覚めてみれば7:00を過ぎてて。うぎゃーーーっ! シャワーも浴びず、パンツなんか前日から穿いてる女性用のピンクの縞パンに重ね穿き用の紺パンツそのままで、とにかくぱっと出かける。乗れたのは8:10東京発ののぞみだった。岡山で乗り換えて11:03に福山到着。

福山は去年の8月30日(日)のセーラー服カラオケ以来だ。あのときはリアル女子高生に大笑いされたんだった。別個に知り合った3人がたまたま福山近辺に住んでいて、しかも揃いも揃ってやたらと濃ゆいオタクだったもんだから、アニソンカラオケで結びつけちゃえ、と私が発案したのだった。そのときまで3人はお互いに面識がなかった。

ばんじょうさんは、デジクリの読者で、コスプレ撮影のことを書いたときに、たまたま同じようなことをしていたとのことでメールを頂戴したのが始まり。吉さんは秋葉原のメイド居酒屋「ひよこ家」で近くのお客どうして意気投合して知り合ったのが始まり。地元福山に帰ってからも、ラジオドラマなどで声の仕事を続けている。芸名は藤原響さん。ファルコンさんは、大阪でくうさん(やましたくにこさん)たちと飲んだときに知り合ったpinkpieさんの娘さん。イラストが上手い。

今回は、ばんじょうさんが中枢的スタッフとして関わっている、痛車のイベント「痛萌 2010」があるので行った。昨年に続き、今回が2度目の開催である。福山における幕張メッセみたいな位置づけのイベント会場「ビッグローズ」で開催された。痛萌企画の社長である藤井氏が代表で、ばんじょう氏は社長の右腕のような立場で奔走していた。
< http://www.itamoe.com/
> 痛萌企画

福山駅からタクシーを飛ばして約20分、ビッグローズに着いてみると、なんとっ、吉さんとファルコンさんがスタッフとして働いておるではないかっ! きみたち、あれ以来なんか面白いことになってるみたいだねぇ。うん、なんだかうれしいぞっ。ストラップとステッカーの販売コーナーで売り子さんをしている。そのイラストはファルコンさんが描いたのだそうで。仕事として描くのは初めてとのことで、めちゃめちゃ張り切りまくりで、徹夜して描いたりしたもんだから、ばんじょうさんは仕事が早いとほめていた。

だいたい去年のカラオケの時点では、あと1か月ぐらいで九州かどこかへ引っ越すなんて言っていたのに、すっかり福山に定着してるし。しかも母親の pinkpieさんも東京から呼び寄せて一緒に暮らしているというし。1月23日(土)に浅草でpinkpieさんの送別会があったんだった。そのときにはくうさんも来てたけど、大阪からなら東京よりも福山のほうが近いんでないかい?

カラオケでご一緒したばんじょうさんの奥さんも、私なんか恐れ入りましたと小さくならざるをえないほどのオタク。今回は、500円払って入場したのに、とぶーちゃら言いつつ、無料の飲み物を出す仕事をしていた。立派です。

イベントは盛況。この手のオタク向けイベントは大阪以西ではそんなに多くないそうで、中国地方や四国など広範囲から人が来ていた。30台ほどの痛車の眺めは壮観としか言いようがない。車が好きで、アニメが好きで、デザインのセンスがあって、器用にものが作れちゃうという嗜好・力量のコンビネーションが成立すると、こういうことになっちゃうわけだ。家一軒買えるというほどの値の張る車がアイタタタなことになっている。各自、「俺の嫁」が誰であって、リアルな女性には興味がない旨などを高らかに宣言している。ばんじょうさんもみずから痛単車を展示していた。

ステージ上では、アニソンカラオケ大会などが催されている。地元の地下アイドル的存在と思しき、若くて可愛い女性ユニットによる歌とか。盛り上がってた。ステージ前では、来場者も踊るし。その中にはコスプレイヤーもかなりの数いて、華やか。

私も何人かのレイヤーさんに声をかけて撮らせてもらった。たっぷりスペースがあって、ゆっくり撮れるのがいい。東京のイベントだと、人が多すぎて、壁際にレイヤーさんたちがかなり狭い間隔で立ち、その前にカメコの列がずらっと出来ることがある。撮った後も、次の人が待っているので、ゆっくりと話ができなかったりする。せせこましい上にあわただしい。レイヤーさんにとっても、休む間もなくカメコにご奉仕しつづけることになったりする。このイベントぐらいが適正でいい。

レイヤーさんもやっぱり鳥取とか徳島とか、遠くから来てるんだね。声をかけて撮らせてもらったレイヤーさんの一人から、翌日、長〜いメールを頂戴した。渡した名刺を見て私のウェブサイトを見てくれたのだそうで。人形の写真がすごくいいとベタ褒めしてくれている。カメコとしても、男性カメコは撮影を断ることが多いけど、なにか特別の雰囲気を感じた、とか。いやいや、ほんっと嬉しいっす。

ゆったり感のある地方のイベントだと、人の心のあたたかさに触れることがしばしばあって、とてもよいなぁ。オタクって、もともと人と人との垣根がやけに低かったんだよなぁ。このところヲタと非ヲタの区別がほとんどなくなってきてるのはいい傾向なんだけど、もともとのオタクのよさは薄れていかずに維持されるといいなぁ。
< http://picasaweb.google.co.jp/Kebayashi/2010#
> 写真

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp

近視のせいか、裸眼で夜景を見ると、ひとつの点光源が、まるでドンと開いた打上げ花火のように40個ぐらいの光の粒々として映り、しかも粒どうしが薄い光の線で結ばれていて、球形の網目のかごのようにも見える。やや縦長の。新幹線からの窓外の景色は光る樹の生い茂った林のようにも見えて、実にきれいだ。なんか別の星を観光旅行している気分。見せてあげたいけど、できないのがじれったい。カメラレンズにつけるフィルタでそういう効果のやつ、誰か開発してくれないかな? あるいは、画像処理フィルタとか。あ、そんなの自分でも書けそうかな。

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■編集後記(3/19)

・おそろしい罠が仕掛けられた、立方体で構成された迷宮からの脱出劇を描いた「CUBE」と、宇宙船という閉鎖空間で異星生物に襲われる「Alien」は、ともに文句なしの傑作映画だ。「エイリアン・イン・キューブ」DVDを見る。うまいこと考えたな。ふたつの映画の恐怖を合体させたわけか。「密閉空間に現れた正体不明のエイリアンと人間の攻防を描くSFアクション。極秘研究施設に謎のエイリアンが現れた。生き残った人間たちは"フロア13"と呼ばれる唯一の避難ルートを目指すが、そこは侵入も脱出も不可能といわれる恐怖の通路だった」とおいしそうな解説がある。ちょっと期待できるが、どうせBC級だからハズレて当然の覚悟はちゃんとある。原題は「THE DARK LURKING」で、じっさいエイリアンもキューブもまったく関係ないんだからあきれる。エイリアンではなくゾンビみたいな怪物に変化した研究所員たちであり、キューブのような密閉空間ではなくせいぜい換気ダクトの中の移動である。ヒロイン、傭兵、科学者らが怪物どもと戦いながら脱出をめざすというサバイバルホラーで、「バイオハザード」の亜流。でもヒロインはまったく活躍しないばかりか、とんでもないオカルト展開で変身という予想外のオチ。エイリアンとキューブを持ち出さなくても、そこそこまとまった映画で、タイトルや解説は完全な偽装だ。それを承知でおもしろがるのがBC級映画ファンの神髄である。(柴田)

・仕事でふらふら〜。ネタを仕入れることもできず。見つけても頭動かなくて広げられず。ということで、2chまとめサイトからの抜粋でお茶を濁させてくだされ。(hammer.mule)
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「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」って邦題完全に(邦題駄作、良作)
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これは思いつかなかった(確かに。でもテレビ多すぎる)
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なんか小難しい話をしてくれ(......読んでないけど)
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「ガビーン」を「ダヴィーンチ」に変えると芸術的になる
(大好き、こういう脱力なの)
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怒ってる犬・猫の画像を集めるスレ(さぼりたい時のために壁紙にしようか...)
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漫画の誤植を張るスレ(確かみてみろ!)
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ティッシュを9回以上折れる奴は神だと思う(既知ネタなので195と137動画を)