[2974] 老人たちの長く孤独な闘い

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《サブカルチャーは時間が経つとアカデミックになる》


■映画と夜と音楽と...[489]
 老人たちの長く孤独な闘い
 十河 進

■歌う田舎者[18]
 うさぎさんのために鐘は鳴る
 もみのこゆきと

■デジクリトーク
 MMORPGは次世代コンテンツメディアとなりえるか
 出渕亮一朗



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■映画と夜と音楽と...[489]
老人たちの長く孤独な闘い

十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20101210140300.html
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〈スペースカウボーイ/老人と海/ストレイト・ストーリー/八月の鯨/ドライビングMissデイジー/死に花/人生に乾杯!〉

●老人たちの経験と知恵が若者たちの体力と最新知識に勝つ

40年経って、宇宙にいく夢を叶えるために、70をとっくに過ぎてリタイアしていた男は、かつての仲間たちを集める。集まった4人の老人チームは、夢を現実のものにするために老骨にむち打って厳しい訓練に耐える。しかし、グラウンドを何周もして息があがり、フラフラになったひとりがこんなことを言う。

──アメリカは宇宙に死体を四つ打ち上げた初めての国になる。

「スペースカウボーイ」(2000年)は老人たちの経験と知恵が、若者たちの体力と最新知識を詰め込んだ頭脳に勝つ、まことに痛快な映画だった。そうして、夢を叶えた主人公(クリント・イーストウッド)は、宇宙服姿で悠々と宇宙空間を漂いながら「40年なんて、あっという間だ」と述懐する。そう、僕もこの歳になってわかる。40年なんて、あっという間なのだ。

老人を主人公にした映画が好きだ。子供の頃に見た「老人と海」(1958年)のスペンサー・トレイシーがたったひとりでカジキと格闘する姿に、生きていくうえで大切な何かを教えられた。もちろん、僕はその映画をヘミングウェイ原作の映画化作品だと意識して見たのだが、何日も小さな船の上だけで展開される孤独な老人の闘いに夢中になった。ラストシーンの徒労感に人生の深さを感じた。

それから40年経って見た「ストレイト・ストーリー」(1999年)の主人公も魅力的だった。70を過ぎた主人公は、10数年も仲違いしたままの兄が心臓発作で倒れた知らせを受け、死ぬ前に一度会っておきたいと願う。車を運転できない彼は時速8キロのトラクターに乗って会いにいく。途中、様々な出来事があり、様々な出会いがある。トラクターの旅は、彼にとっての孤独な闘いだった。

そう、僕は老人の孤独な闘いに共感し続けてきた。それは、どんな人の人生も困難である、という認識が僕の中に深く落ちているからかもしれない。長く生きることは、長い人生を闘い続けることなのだ。農夫であろうと、職人であろうと、商人であろうと、勤め人であろうと、生きる手段は違っても生き続けることは、それぞれの世界で懸命に闘い続けることだと思う。

もちろん、老人たちの映画を見て、しみじみとした気持ちになることもある。90歳のリリアン・ギッシュと79歳のベティ・デイビスが姉妹役で共演した「八月の鯨」(1987年)や、黒人の運転手と白人の老婦人の数10年に及ぶ交流を描いた「ドライビングMissデイジー」(1989年)を見ると、老優たちの表情や姿や仕草を見ているだけで、落ち着く。気持ちが安らぐ。穏やかになる。彼らの長い人生が伝わってくるからだ。

彼らは、急がない。走るなんて、無理だ。ゆっくり...、いや、ノロノロといった方が適切な形容かもしれないが、歩くのは若者の何倍もの時間がかかる。体力は衰えている。記憶力だって怪しい。耳は遠くなり、目はかすむ。髪は薄くなり、皮膚はたるむ。歯は頼りなく、やわらかいものしか食べられない。喋ろうとすると舌がもつれ、息が漏れて明瞭な言葉にならない。だが、それは老人たちが闘い続けてきた証であり、名誉の傷痕である。

●体力が衰え耳や目や歯が弱くなった老人たちの自虐ジョーク

もう30年近く昔のことになったが、ミステリ好きの間で「オールド・ディック」という翻訳小説が話題になったことがある。78歳の元私立探偵が主人公のハードボイルド小説だった。ハードボイルドな主人公はタフであることが前提だが、この主人公の場合は犯人を追いかければ息が切れ...というイメージと現実のギャップで笑わせてくれるのである。

ある意味では老人(老い)を笑いものにしているのかもしれないが、それは「スペースカウボーイ」でもしきりに使われていた、観客(読者)を笑わせるテクニックである。「スペースカウボーイ」の「宇宙に四つの死体を打ち上げる...」というセリフには、誰もがニヤリとする。それは、体力が衰え、耳や目や歯が弱くなった老人たちの自虐ジョークだからである。

一般的なイメージとして、ハードボイルドと老人はそぐわない。老人と犯罪も似合わない。老人チームが宇宙にいくというのも、突飛なアイデアである。だから、そういう一般的イメージを裏切る物語が発想されるのだ。それは映画だから...という絵空事なのだが、主人公が長い時間を生き抜いてきた老人たちであることで、観客が納得する何かが描けるのではあるまいか。

「死に花」(2004年)という映画も、老人たちが銀行の地下金庫から10数億円を盗み出そうとする、突飛な話である。しかし、初公開から6年経ってみると、刺激的なタイトルを持つこの映画の主要な登場人物だった俳優たちの中で、藤岡琢也、青島幸男、谷啓、森繁久彌がすでに亡くなっている。彼らは、死に花を咲かすことができたのだろうか。

藤岡琢也は映画の中でも死んでいく役だったが、その藤岡琢也が遺した銀行強盗計画を遂行する4人の男たちを演じた俳優たちで、現役で活躍しているのは山崎努と宇津井健だけである。僕が宇津井健を初めて見たのは、「スーパージャイアンツ・シリーズ」だから1957年、53年前だ。宇津井健は来年80歳になるが、今も元気にテレビドラマにレギュラー出演している。

山崎努を初めて見たのは、松本清張原作のテレビドラマ「顔」(1966年3月29日放映)か、ウィリアム・アイリッシュの「幻の女」を翻案したNHKドラマ「都会の顔」(1966年4月30日放映)だと思う。「都会の顔」は、今もよく憶えている。彼が誘拐犯人を演じた黒澤明の「天国と地獄」(1963年)を見るのは、ずっと後のことだ。山崎努が俳優座養成所を出たのは、半世紀ほど前。宇津井健より5歳若い。

俳優は死ぬまでやれる職業だろうが、それにしてもこのふたりのベテラン俳優は凄い。「死に花」のときには山崎努が68歳、宇津井健が73歳だった。普通の人に比べれば格段に若く見えるし、その歳にしては見苦しくない。老人斑や皺も目立たない。髪もフサフサしている。歯並びもきれいだ。動きだって、けっこうキレがよかった。

彼らはあまり老人ぽくないし、老人ホームの住人たちとは思えない。現実の老人ホームにいる人たちは、もっと老いを感じさせるだろう。しかし、老人ホームの老人たちが人生の最後に立ち上がろうとする「死に花」では、長い年月を生きてきた彼らの存在感がスクリーンを圧倒する。俳優としての長いキャリアが、演技を越えた何かを生み出す。

●デスペレートではない「ボニーとクライド」老夫婦バージョン

あまりなじみのないハンガリー映画だが、「人生に乾杯!」(2007年)という楽しい映画を見た。先日は、WOWOWでも放映していた。老人版「ボニーとクライド」である。邦題の「俺たちに明日はない」(1967年)ほどデスペレートではないが、明日なき日々を突っ走る老人カップルの物語だ。彼らは、何の希望も持っていないし、いつ死んでもいいと覚悟して生きている。

「人生に乾杯!」は、1950年代後半のある日、おそらくハンガリー動乱の頃のエピソードから始まる。ソ連指導の共産党政権時代、若い男女が出会う。そして、物語はいきなり現在にジャンプしてしまうのだが、説明のなさがいい。冒頭の短いエピソードで若い男女はほとんど言葉を交わさず、視線と仕草だけでコミュニケーションを成立させる。若い男女が恋に落ちる瞬間はそんなものだろう。

エミルは共産党員だが、下っ端の運転手である。ある日、密告のあったブルジョアの邸宅に出向く。そこの家族を逮捕し、財産を没収するためだ。彼は屋根裏部屋を調べるように命じられる。屋根裏部屋へいくと、屋根がミシミシと音を立てている。エミルが注視していると、その屋根が壊れて少女が落ちてくる。少女はエミルを見つめ、両耳のイヤリングを外すとエミルの手のひらにそれを載せる。

エミルはイヤリングをポケットにしまう。下から「今の音は何だ」と上司が言う。「本が崩れただけです」とエミルは答えるが、ソ連兵が上がってくる足音がする。エミルは少女を「こっちへ」と窓の外へ隠す。そして現在、集合住宅のある部屋のドアベルをしつこく押し続ける集金人を無視して、部屋に老人が隠れている。その老人が、エミルの50数年後の姿だと観客にはすぐにわかるだろう。

老女が帰ってくる。彼女は集金人がしつこくドアベルを押している部屋を通り過ぎ隣の部屋へいくが、集金人が諦めて帰るとその部屋の鍵を開けて入る。中には腰を痛めたエミルがいる。「薬を塗る?」とクールに言う老女が、あの少女なのだろう。老女の方は糖尿病で、インシュリン注射が欠かせないことが描写される。老夫婦には、かつての恋愛感情をうかがわせるものはない。

彼らは年金だけでは生活が立ちゆかず、それぞれ相手に「あなたの車を売りなさいよ」とか、「おまえのダイヤのイヤリングを売ればいいじゃないか」などと言い合っている。エミルはチャイカという自分が運転手をしていた古い公用車を、ウィンドバードと名付けて大事にしているのだ。妻のへディは「あの車を売れば...」とエミルに言うが、ガソリンさえ買えないのにエミルは頷かない。

数日後、差し押さえのために執行官がやってくる。男たちがエミルの大切な本を持っていこうとしたとき、へディが「待って」と声を挙げる。彼女は両耳のイヤリングを外し男に渡し、「ダイヤモンド」と言う。そう、50数年前、初めてエミルと会ったあのときと同じように...。彼女の夫への切ない愛が伝わる。そして、観客は改めて確認するのだ。あのとき、エミルはイヤリングをヘディに返したのだと...。

●緊迫した状況下で出会ったふたりには熱烈な恋の思い出が...

長く共に暮らし、今では遠慮のない言葉を投げつけ合う関係になっていたとしても、エミルとヘディは深く愛し合っている。エミルは駐車場の別の車からガソリンを抜いてチャイカに入れ、手入れだけは怠らなかった愛車を久しぶりに動かす。彼のポケットには、チャイカのトランクに放置されていたトカレフが一丁入っている。

エミルは郵便局の窓口でトカレフを見せて、有り金を入れて欲しいとスーパーの袋を差し出す。ヨタヨタと歩く、どう見ても80は過ぎているだろう老人が拳銃強盗だとは誰も思わない。エミルは腰の痛みをこらえて運転し、悠々と逃亡する。郵便局で奪った金では不足だったのか、再びガソリンスタンドを襲い、レジの金を強奪する。彼の目的は妻に新しいテレビをプレゼントし、彼女の大切なイヤリングを買い戻すことである。

だが、警察は目立つ年代物のチャイカの持ち主を調べ、そのナンバーからエミルが犯人だと割り出す。家にいるヘディの元に女性警部補と刑事がやってくる。その女性警部補と刑事は恋人同士だったのだが、刑事の浮気心が原因で別れかけている。その追跡側の人間の話が、老夫婦の物語と併行して描かれる。

ヘディは警部補に説得され、夫の逮捕に協力することを約束する。エミルから電話があり、鉱山で落ち合うことになったヘディの後ろから警察が尾けていく。だが、鉱山で数日ぶりに会ったエミルは、「会いたかった。おまえに会いたくなるなんて...」とつぶやく。その瞬間、ヘディには共に過ごしてきた50数年が甦ったに違いない。彼女は決心する。夫と共に生き続けることを...。こうして、ふたりの逃避行が始まる。

もっとも、映画はシリアスにはならない。サングラスをかけトカレフを構えたエミルと、それに付き従うヘディが銀行のロビーの真ん中で「金を出せ。さもないと脳みそをぶっ飛ばすぞ」と叫ぶのに、銀行は昼休み当番の女性がトイレにいっていて誰もおらず、ふたりですごすごと出てきたり、読書家のエミルはセリフをすべて何かの本から引用しており、「『脳みそをぶっ飛ばすぞ』は下品だったかな」と反省したり、とぼけたシーンが続く。

彼らは国中の評判になり、年金生活の老人たちに支持される。模倣犯も現れる。しかし、彼らが犯罪者であることには変わりない。指名手配され、賞金が掛けられる。しかし、この映画の老夫婦は「ボニーとクライド」より、たまたま正当防衛で人を殺し強盗を重ねることになる「テルマ&ルイーズ」(1991年)に近い。

しかし、どのような理由があるにせよ、犯罪を重ねた「テルマ&ルイーズ」をあのような衝撃的な結末にせざるを得なかったように、この老夫婦にも悲劇的な結末が待っているのだろうか。逃避行の中で、彼ら夫婦が子供を亡くしていることが明らかになり、どこかに悲劇の予感が漂い始める...。

最初と最後に描かれるふたりの出会いのシーンが、素晴らしく効いている。緊迫した状況下、ひとりは逮捕を逃れた少女、ひとりは党を裏切った下っ端の党員。そんな追い込まれた状況で出会ったふたりは、きっと熱烈な恋に落ちたことだろう。やがて世情が落ち着き、共産党政権が倒れる歴史的な変動を経て、年金暮らしの老後がやってきた。だが、彼らに安穏な生活は訪れない。残り少ない人生の最後で、彼らは最後の火花を散らす。闘い続ける。死がふたりを分かつまで...。

老人の死を思うとき、必ず浮かんでくるシーンがある。「赤ひげ」(1965年)である。保本登(加山雄三)は新出去定(三船敏郎)に命じられ、老人(藤原釜足)の臨終を見届ける。愛する者に裏切られ、子に背かれ、苦労ばかりの人生を送った老人の死。その描写は鬼気迫るが、「立派な人間が...またひとり死んだ」という新出の言葉を甦らせるたび、僕には老人が長い闘いを終えて死を迎えたのだという感慨が湧き起こる。

人は死が訪れるまで、闘い続けなければならないものなのだろう。それは、ほとんどの場合、孤立無援の闘いだ。エミルとヘディのように、最期まで共に闘えるのは幸せな人生だと思う。僕もそうありたいと願うが、相手がどう思っているかはわからない。「人生に乾杯!」では、警部補に「人生の伴侶を取り戻すのよ」と言われたヘディが、改めてエミルを伴侶として認識するのだけれど...。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
>
12月11日の土曜日、12時から渋谷宮益坂上のスペイン料理店「ラ・プラーヤ」で、ランチ付きショートムービー上映会があり、僕も参加します。食事代込みで2,500円。我が兄貴分カルロス(TBS「チューボーですよ」二度出演の渋谷の巨匠です)自慢のパエリヤが食べられます。参加は予約制なのかな。

●306回〜446回のコラムをまとめた「映画がなければ生きていけない2007-2009」が新発売になりました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1447ei2007.html
>
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
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■歌う田舎者[18]
うさぎさんのために鐘は鳴る

もみのこゆきと
< https://bn.dgcr.com/archives/20101210140200.html
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「僕のうさぎさん、髪の毛をさわってもいいかい」
「わたしもずっとあなたに髪の毛をさわって欲しかったの」

前回ストリップ劇場について格調高いコラムを書いたからには、劇場繋がりということで、宝塚大劇場についても一層格調高いコラムを書かねばなるまい。そんなわけで、紅葉燃える晩秋、タカラジェンヌのおわします大劇場に足を運んだわたしである。

冒頭の台詞は宝塚宙組公演「誰がために鐘は鳴る」の中の、ロバート・ジョーダン(大空祐飛)と、マリア(野々すみ花)のやり取りである......つーか! このセリフの方がストリップよりよっぽど恥ずかしいじゃねぇか! どうしてくれるんだ!

いや、ヅカファンの皆々様におかれましては、気を悪くしないでいただきたいのですが、こんな台詞吐かれちゃ、ほんとに恥ずかしくて舞台のどこを見ていいかわからなくなり、おろおろと視線を泳がせた揚句、じっと手を見る......になってしまうシャイなわたしなのであります。普通の男がかようなことを口にいたしましたら、間違いなく生卵をぶつけられることでありましょう。「もし、あなたが彼氏にこう言われたら?」と、職場のうら若き女子に問うたところ、「別れる」「ドン引き」に多数の票が集まりましてございます。

しかし、そんなわたしでも、過去に二度ほど宝塚にどっぷり感染していた時期がございました。一度目は第一次ベルばらブームの頃、二度目は天海祐希がトップスターに就任した頃でございます。第一次ベルばらブームの頃、花組の安奈淳オスカルにKOパンチを浴びて、「高校行かずに宝塚に入る!」と決めたあの遠い日々......。
「おかん。おら、宝塚に行きてぇ。バレエ習わしてけろ」
「まったく何を言ってるんだろうね、この子は。うちのどこにそんなお金があるってんだい。おとんに聞いてみな」
「おとん、いないよ」
「またあのバカ、パチンコに行ってんだねっ! うちはね、父ちゃんがこさえるパチンコの借金だけであっぷあっぷしてんだ。それだけでもうたくさんだよ!」

おかん......おら諦めねぇ、諦めねぇだ。アラベスクだってパ・ド・ブレだって、
鏡に向かってこっそり練習してきただ。おら、演技だって練習してんだ。あぁ、
うめぇ。おら、こんなうめぇもの喰ったことねぇ。ほら、泥まんじゅうだって、
こんなにうまそうに食べられるんだ。北島マヤにだって負けねぇ。

こっから宝塚さ行くには、まず飛行機で大阪に行けばいいんだって聞いた。お
らのお年玉全部かき集めたら行けるだか? 足りねぇなら出前ももっとやる。
航空券くれるんなら、年越しそば120軒でも届けるだ。だから、だから宝塚に
行かせてけろ!

......とまぁ、そんないたいけな少女時代を過ごしたわたしなのだ。あの時、バレエさえ習っていたら、今頃女王の教室で離婚弁護士やっていたのはわたしだったはずなのだが(違うだろ)。

それにしても「僕のうさぎさん」ですと? いったいどこから出てきたんだ、その台詞。まさかゲイリー・クーパーがイングリッド・バーグマンに「僕のうさぎさん」なんて言ってねぇだろうな。十河さん、言ってませんよね? とお伺いするのも畏れ多いので、調べましたとも。TSUTAYAでわざわざ「誰が為に鐘は鳴る」を借りて。

ちなみに宝塚版は「ために」はひらがななのだが、映画の方は「為に」と漢字である。そして、誰が為に鐘は鳴る・台詞分析委員会第4ワーキンググループが、170分にも渡る不眠不休の作業を展開した結果、ゲイリー・クーパーが「僕のうさぎさん」なんて言ってる箇所はひとつもないことを確認した。

ということは、「僕のうさぎさん」は宝塚オリジナルの台詞なのだ。なんでまた「うさぎさん」なんだ。来年が卯年だからか? するってぇと、来年が寅年だったら「僕のとらこちゃん」になるのか? 亥年だと「僕のうり坊」か? 海老年だったら......いやいや海老蔵の話はもうおなかいっぱい。世界各国でウィキリークス創設者の強姦容疑がトップニュースになる中、日本だけ海老蔵がトップニュースだなんて、本当に我が国は平和ですこと。おほほほほほ(高笑い) byマリー・アントワネット。

ちなみに冒頭の台詞の元になったと思われる、映画版「誰が為に鐘は鳴る」の該当箇所はこんな感じである。
「髪が乱れた?」
「乱してほしかった」
「僕もだよ」
こっちも十分恥ずかしいじゃねぇか。

第一次ベルばらブームの終わりとともに、宝塚はわたしの記憶の奥深くに封印された。しかしながら、宝塚ウイルスは再発率が高い。一度感染した人間は、いくら寛解したと思っていても、ちょっとしたきっかけでウイルスが増殖を始めるのだ。

宝塚などとっくに卒業したと思っていたわたしが再感染したのは、同僚に無理やり貸されたビデオ三本のせいである。「いやもうねー、今さら宝塚とか、ありえないから」と思っていたのに、一本目であの派手なメイクに、二本目でクサい台詞に耐性が出来てしまい、三本目の星組「紫禁城の落日」では、愛新覚羅溥儀(日向薫)の腕の中で、アヘンに身を持ち崩した正妻・婉容(毬藻えり)が死んでいくところを見ながら、テュッシュボックスを横に、鼻をかみつつ号泣していたのだ。こうなると完全に再発である。発病すると、クサい台詞もこうなってしまうのだ。

「髪の毛をさわってもいいかい」
くっさーーーっ!でもいいの。素敵だから。
「私も死ぬときは愛を残そう」
くっさーーーっ!でもいいの。素敵だから。
「千の誓いがいるのか、万の誓いが欲しいのか。命を賭けた言葉をもう一度言えというのか?......愛している。生まれてきてよかった」
くっさーーーーーーっ!!でもいいの。素敵だから(鼻血ブー)。

しかし、普通の男がやってはいけない。普通の男がやったら、即座にBGMは♪別れの予感byテレサ・テンである。岩場に座るときにも、脚の開き方や膝の角度まで計算し、カメラ目線で完璧なポーズを取れる男でなければ、生卵なのである。

ところで、髪の毛というものは、よくよく考えてみると、他人にさわられることがあまりない部位なのではあるまいか。美容院代をケチるために、おかんが髪を切ってくれた幼少期以降、美容師以外で髪にさわる人間というのは、そらあんた、乳繰り合うような関係の相手に決まっとりますやろ。女同士でも、せいぜい枝毛探しとか白髪探し的な実務的用件があるときにしかさわることはない。髪をさわるとは、セクシャルな行為なのだ。わたしの数少ないセクハラ体験のひとつも、髪の毛絡みである。

それはまだわたしがぴちぴちに若く、新入社員に毛が生えた程度の頃だっただろうか。ねずみ男似の上司が、飲み会の席で酔って絡んできた。「ね、ね、もみのこちゃん、髪さわっていい?」「は? 何言ってんですか。ダメに決まってます」「うーん、さわらせてぇん」「ぎょえー! やめてくださいってばっ」「あぁぁぁ〜ん、気持ちいい。髪の毛って素敵ぃ〜」髪に指を差し入れ、恍惚の表情を浮かべるねずみ男をぶん殴ろうとして気付いた。ねずみ男の頭髪に。......はい、そうですよね。髪の毛って素敵ですよね。すいませんすいません。ぶん殴ろうとしたわたしを許してください。誰がために髪はある。それはわたしの人生にふいに現れた哲学的問いかけであった。

※「誰がために鐘は鳴る」宝塚歌劇団
< http://kageki.hankyu.co.jp/revue/194/
>
※「誰が為に鐘は鳴る」ゲイリー・クーパー+イングリッド・バーグマン
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000LZ6EAE/dgcrcom-22/
>
※「ガラスの仮面」美内すずえ
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4592880013/dgcrcom-22/
>
※「女王の教室」天海祐希・羽田美智子ほか
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000BHZ0KM/dgcrcom-22/
>
※「離婚弁護士」天海祐希・玉山鉄二ほか
>http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0002L48RS/dgcrcom-22/
>
※「別れの予感」テレサ・テン
<
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【もみのこ ゆきと】qkjgq410(a)yahoo.co.jp
働くおじさん・働くおばさんと無駄話するのが仕事の窓際事務員。かつてはシステムエンジニア。

結局バレエを習うことができなかったわたしは、自分で稼げるようになって、今さらながらダンスのレッスンに通っているのであった。ちなみに今回の「誰がために鐘は鳴る」の場合、お芝居のあとのフィナーレで、歌とダンスのショーがあるのだが、舞台がスペインなだけに、男役が打ち揃ってマタドール祭である。いやいや、これはかっこよかった。悩殺されました。再び感染しそうで怖い。ところで「紫禁城の落日」を上演していた当時(1992年)、まだ存命中であった愛新覚羅溥傑が宝塚を鑑賞にやってきたそうである。いったいどのような感想を持たれたことやら。「くっさーーーっ! でもいいの。素敵だから」と身もだえされたであろうか。

◎追記◎
恐ろしいことが発覚した。この原稿を送信したあと、誰が為に鐘は鳴る・台詞分析委員会第1ワーキンググループの濱村隊長より、映画ではなく、ヘミングウェイの原作がうさぎちゃんであるとの情報がもたらされた。ま、ま、ま、マジですかっ!
< http://www.highbeam.com/doc/1G1-219309567.html
>
マジみたいです。ラビット言うてるやないですか。ラビット関根やないですよね。関根恵子でもないですね。ケイコ・リーでもないですね。ってことは、このクサい台詞は宝塚オリジナルじゃなく、ほんとーに本家本元の台詞だったのかっ! わたしとしたことが、な、な、な、なんということをっ!

「かような不始末をしでかしては、もう生きていくことはできぬ。かくなるうえは、腹かっさばいてお詫びしなければ、天に言い訳が立つまい」「殿っ、早まってはなりませぬ!」「このわたしの手で、そなたたち愛する家臣を幸せにしてやりたかったぞ」「殿っ」「花に散り、雪に散りゆく我が命。皆の者、達者で暮らせ。さらばじゃ」「殿ーーーっ!」くっさーーーっ! でもいいの。素敵だから。

しかし、どいつもこいつもヘミングウェイまで、クサい台詞を随所で炸裂させておるのぅ。まぁ、このくらいの台詞、ヘーキでほざくことができないヤツには、クリスマスにラブロマンスなんか訪れないということだな。
それにしてもヘミングウェイ、おそろしい子。

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■デジクリトーク
MMORPGは次世代コンテンツメディアとなりえるか

出渕亮一朗
< https://bn.dgcr.com/archives/20101210140100.html
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バーチャルワールドやバーチャルキャラクターは、私にとって十数年来の研究テーマのひとつである。

VRML(ウェブで表示する3Dデータの標準仕様)やマルチユーザーワールドの時代からずっと追っかけていたし、積極的に探しているわけではないが、老舗のActive WorldsやSecond Lifeのようなユーザークリエイト型ワールドものや、PC版の無料のMMORPG(ゲーム用語:説明はこの文全体で感じてください)を見つけると、気が向けばとりあえず覗いてみるようにしている。

最近見つけた某MMORPGは、「完成型」と自ら歌っているだけあってかなり力が入っていて、確かにいわば現時点での3Dリアルタイムレンダリング技術の集大成であるといってもよいものとなっている。

ワールドに入ると初期村ののどかな風景が広がるのだが、初めにたどり着いた小川にはちょっと感激した。水面はゆらゆら揺れて水底には揺れる魚の影が見え、水面はまた周りの風景やPC(ゲーム用語:アバターと同じ)の影をゆらゆら映している。

また、クエストを行うためにNPC(ゲーム用語:コンピューター制御のキャラクター)に話しかけると、すべてではないがちゃんと音声で話してくれるのだ。私はあの文字での説明は、どうも読むのがめんどくさくてなかなか頭に入らないのだが、音声での説明がいかに重要かがわかる。NPC、PCにはちゃんと瞬きや口パク、表情もついている。まだリップシンク(音声と唇の同期)はやっていないようだが。

さらにすごいのは、重要なクエストの説明時に時々ムービーが流れるのだが、その中に出てくる自分のキャラクターが、今現在の装備や自分固有の姿で登場しているのだ。つまり、詳細は分からないが、リアルタイムレンダリングと合成してムービーを作っているらしいということだ。

その他、細かいところでいろいろ工夫がされているのが憎い。川や池に入ってモンスターを倒すと、いったん沈んでから水面までぷかぷか浮かんでくるとか。空を飛ぶ船に乗ると進行方向と逆に髪や服がなびくところとかは、たぶん物理シミュレーションをしているのだろう。

地面はどこも平らとは限らず、でこぼこや斜面もあるのものだが、そういう所でキャラクターが戦う時でも、両足がちゃんと地についているところとか。まあ、若干地面にめり込んでいたり、浮いていたりはするのだが。これは、単に動作をモーションキャプチャーで取っているだけでなく、インバースキネマティックス(CG用語:この場合、足先の位置から逆に膝の曲げ等を計算すること)も使っているということだ。

この世界ではある程度PCのレベルが上がると羽が生えて飛べるようになり、また、新たな地域に進出できるようになる。初めての「町」で初めての飛行を試してみようとする。周りの人たちに初心者だと笑われるのではないかとおずおずと羽を伸ばして宙に浮いてみる。

方向転換しようとするが、どうも勝手がつかめない。町の上空に舞上がると、そこから見渡せる遠浅の海に巨大なキリンのような長い脚と、小さな頭を持つ象のような生き物が数頭立っていて、その不思議な光景に思わず見とれてしまう。この辺の表現とか、まるで一昔前のサイバーパンク小説みたいだけど、すでに現実です。

このMMOの倒すべきモンスターは、ムカデのようにたくさんの足をざわざわ動かして歩くトカゲとか、魚の頭と象の足と亀の甲羅を持つ砂漠をうろつく生物とか、モンスターというより幻想生物というほうがぴったりで、私はそういうのがけっこう好きなのでわくわくしてしまう。

もうひとつ、宙にに浮く逆三角形の島もこの世界の重要なイメージだ。宙に浮く島はMMORPGによく出てくると思うのだが、そのオリジナルは、イギリスのレコードカバーイラストレーターの巨匠、Roger Deanの描いたイメージだと思う。

彼のレコードジャケットと同じサイズの画集、Views(1975年出版)はとても刺激的で素晴らしいものだったが、そういった世界が3Dとなって、さらにその中を自由に冒険できる日が来たとは考えると嬉しいことである。

MMORPGの世界は、どれもほぼいわゆるファンタジーの世界をベースとしている。ファンタジーとは幻想・空想物語のことであるが、さらに「いわゆる」付きのファンタジーである。J・R・R・トールキンの「指輪物語」あたりを始まりとすると言われる、剣、魔法、竜を代表とする怪物、中世風、異種族間の対立等がテーマとなっている世界である。日本では、上橋菜穂子さんが代表作家であろう。

MMORPGには引きこもりの若者が家でずーっとやっているものとか、ネガティブなイメージが強く、未だ市民権を得ているとは言い難いジャンルだと思う。しかし、次のように考えてみよう。

ストーリーコンテンツを歴史的に見ると、小説は映画と続き(あるいは、漫画はアニメーションに)、文章だけの世界は、視覚や映像、音が付き、より現実の体験に近づいた。

私の祖父母の代は小説は低俗なものと言われたので、親に隠れて読むものだったらしい。また、私の親の代は映画は俗っぽいものとその親に言われたらしく、私の代は漫画やアニメはやはり親に俗っぽいものと言われたのだが、それらは今や日本の世界に誇るコンテンツと文化庁あたりにまで言われている。

つまり、生まれたばかりの文化は、初めはサブカルチャーなのであるが、時間がたつとアカデミックになる、それを昔から繰り返しているのである。

MMORPGは、インタラクティブ、リアルタイム3D、インターネットをキーワードとし、複数の時間軸を持ったメディアに基づくという意味で、小説、映画に続く新たなコンテンツメディアとなるかもしれない。次の点で新たなメディアだと言える。

・まず、大きな物語の中の登場人物の好きな役割になりきることができる。(RPG=role playing game=役割を演じるゲーム)
・その容貌も好みに設定することができる。
・広大な仮想世界の中を自由に移動することができる。
・大きなストーリーの流れはあるのだが、それをどんな順番で、あるいはペースで体験していくかは個々人の自由である。
・さらに、体験の途中で、他のプレイヤーとのコミュニケーションも関わってくる。

つまり、個人個人が異なる体験をすることができるコンテンツメディアなのである。

小説や映画には様々なジャンルがある。サスペンス、恋愛もの、歴史もの、恐怖もの、アクション、コメディ、アート、教育、スパイもの、刑事もの、SF、不条理もの等など。

同様にMMORPGを「いわゆる」ファンタジーに留めず、小説、映画に続く新たなコンテンツメディアと考え、サスペンス、恋愛もの、歴史もの、(以下同文)...のMMORPGを考えていけば、これはすごいパワーと可能性を秘めたものとなるのではないだろうか。

人は長生きしたいと願う。長生きするとより多くの体験ができるはずである。この意味で、自分が選択することができなかった(あるいは、だろう)、より多くの人生を体験してみたいという欲求は人間の本質であると思う。かくして、表現テクノロジーは、よりリアルな体験を生み出すものを追及する方向へと進んで行くのである。

参考:Roger Dean 公式サイト
< http://www.rogerdean.com/
>

【出渕亮一朗】ryoichiro.debuchi(a)gmail.com
コンピューターグラフィックス、インタラクティブアート分野のアーティスト
グラフィックス分野のプログラマー
< http://www.debuchi.com
>

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■編集後記(12/10)

・その後、あの原因不明の歯痛はどこへ行ったかというと......実はまだ二階にいるのです(って、「李さん一家」かい)。痛みは左下の一階はおさまり、左上の二階に移動。今度はいわゆる歯が浮く感じで、かみしめたり歯ブラシを強く当てると痛い。ものを食べるとき、左側の歯はなるべく使わないようにして凌いでいる。レントゲンも撮り、歯科医がていねいに口内をチェックしてくれたうえでの原因不明なので、とりあえず放置することにした。そのうち治まるという予感はある。昨日朝、左足の親指付近に切り傷のような痛みを覚え、何度も靴下を脱いで調べたがなにもない。妻に訴えると、そんな症状はわたしもよくある、そのうち治まると断言する。実際、じきに痛みが消えた。いままでも、体各部の苦痛や不調を訴えると、あまり同情や心配をしてくれない妻である。歳とったのだから、そういう症状は全部わたしにもある、でも黙って耐えているという。たしかに痛みにはまるで弱いわたしだ。よく我慢できるものだなと感心すると、出産の痛みに比べたらなんてことはない、そう言われるとスイマセンと言うしかない。東北大学大学院チームが、虫歯、歯周病の原因菌を99.99%死滅させられる新たな殺菌法を開発したと新聞報道。数年後に実用化できるそうだ。すばらしい。(柴田)

・誰が為に鐘は鳴る・台詞分析委員会第1ワーキンググループ隊長、濱村より打電! なんちゃって。「うさぎさん」に鳥肌した私と友人は、速攻本屋に向かいましたよ〜。翻訳版には「うさぎちゃん」。ヘミングウェイのは「Rabbit」。翻訳者がちゃんづけして余計にやらしい感じ。静かな書店で騒いでしまいました。宝塚版の「さん」はまだマシじゃないかと胸をなで下ろしました......なわけない〜! いくら宝塚が好きとは言え、批判する目は持っているつもりで、あり得ない展開、くさすぎる台詞などを無条件に飲み込むわけではないのだ。下手すぎるスターさん(でも脇では使えない華持ち)や、矛盾などには突っ込むさ。今回のだって抑揚のない話で、宝塚の舞台には向かないよなぁと思った。途中何度か寝てしまったさ(徹夜明けで寝ていなかったせいもあるが)。「誰がため〜」で思い出したのは、「(笑顔を浮かべながらの)もう逃げられないよ、子猫ちゃん」。校則に「不純異性交遊禁止」と書かれてあるような校風の女子校に通っていた。寄り道も禁止。が、中学からそのままあがってきた友人に誘われ、サーティーワンアイスクリームに行った(といっても店内で食べるわけではなく、店の前で立って食べるだけ)。見回り中の先生(超イケメン)が、私を見つけて発した言葉がコレ。見つかって説教を受けた後、生徒手帳を取り上げられ、職員室に取りにこいと言われたのだが、捕まったショックより、先生の言葉が衝撃的で、きっと一生覚えている言葉の一つだと。若くてイケメンで生徒に人気の先生だったが、私の中での株はダダ下がり。誰が為に鐘は鳴る・台詞分析委員会第4ワーキンググループ、もみのこ隊長! 現実に使う男性を発見したでありますっ!(hammer.mule)
< http://kageki.hankyu.co.jp/revue/193/
>
期待していなかったせいか良かったよ。「誰がため〜」よりおすすめ!