[3137] 死に臨んで望むこと

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《オリジナル曲「GrowHair のテーマ〜茶巾寿司は永遠に」》

■映画と夜と音楽と...[519]
 死に臨んで望むこと
 十河 進

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 アイドルへの道は険しい
 GrowHair



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■映画と夜と音楽と...[519]
死に臨んで望むこと

十河 進
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    〈戦争と平和/アンナ・カレーニナ/終着駅・トルストイ最後の旅〉


●「この本は読めん」と判断した「戦争と平和」

僕の手元に河出書房から出版されたキャンパス版・世界の文学「戦争と平和」の一巻と二巻がある。一巻が1967年12月20日、二巻が1968年1月20日の出版になっている。三巻は2月に出たのだろうが、僕は持っていない。全三巻だったのに、二巻まで買ってやめてしまったのだ。その理由は、たぶん「この本は読めん」と判断したからだろう。

定価290円でも、その当時の僕にとっては大きな出費だった。高校二年生である。財力はないし、その長大な小説を読む根気もなかったのだ。それでも、その本を買ったのは、リュドミラ・サベーリエワのナターシャが口絵の数ページに掲載されていたからだ。1965年から67年まで、3年間にわたって旧ソ連で制作された超大作「戦争と平和」のヒロインだった。14歳から17歳までの3年間、僕は毎年「戦争と平和」を見ていた記憶がある。

日本で第一部が公開されたのは、1966年7月である。中学三年生の夏休みだった。文部省推薦の割引券を持って僕は映画館に並んだ。オードリー・ヘップヴァーンがナターシャを演じた「戦争と平和」(1956年)は、テレビでズタズタにカットされたトリミング版を見たことがあったが、ソ連版は原作の完全映画化を謳い、結果的に7時間を超える大作になった。

主要な登場人物がアンドレイとピエールだというのは知っていた。オードリー版ではアンドレイはヘンリー・フォンダ、ピエールをメル・ファーラーが演じた。撮影当時、メル・ファーラーはオードリーと結婚していた。いや、僕が「戦争と平和」を見た頃、まだふたりは夫婦だった。僕は、メル・ファーラーの変な顔を見て「なんで?」と思った。僕は美女は美男子と結ばれるべきだと信じていたのである。

ソ連版「戦争と平和」でもアンドレイはキリッとしたいい男が演じていたが、懐疑的なインテリ青年のピエールは監督自身(セルゲイ・ボンダルチュク)が演じ、かっこいいところはどこにもなかった。丸い眼鏡をかけ、太り気味のピエールは思索的ではあったが、まったく行動的ではなく、うじうじと悩み続けるだけの男だった。10代半ばの少年が共感できる人物ではなかった。

キャンパス版・世界の文学「戦争と平和」が出た1968年の暮れ、ソ連版「戦争と平和は」すでに物語の半分以上は公開されていたと思う。公開作は、冒頭にそれまでの物語のダイジェストがまとめられていて、前作を見ていなくてもとりあえずわかるようになっていた。公開までの間が開いていたので、それは助かった。ダイジェストを見ると、それまでの物語が甦った。ダイジェストを見て「一部の頃のナターシャは、本当にまだ少女だったのだ」と僕は思った。

当時のソ連のことは五木寛之さんの「さらばモスクワ愚連隊」などを読んで想像していたが、依然として東西対立は続いていたし、ベトナム戦争を始めとして共産主義と資本主義の代理戦争は世界中で起こっていた。そんな時代だったから、僕はソ連が「戦争と平和」を制作したことや、それが日本で公開されることに何となく違和感を感じてもいた。

ソ連の女優であるリュドミラ・サベーリエワが日本でも人気が出て、映画雑誌のグラビアに登場したときは、さらに違和感を強くした。社会主義国の女優をアイドルのように扱ってよいのか、という奇妙に真面目な思いを抱いた。ハリウッド女優のような憧れの対象とすることに心理的なブレーキがかかったのだ。それでも、僕は清純なナターシャの澄んだ瞳が忘れられず、キャンパス版・世界の文学「戦争と平和」を二巻まで買ったのだった。

●冒頭の文章だけは多くの人が知っている「アンナ・カレーニナ」

「アンナ・カレーニナ」の冒頭の文章「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」(望月哲男訳・光文社古典新訳文庫)はあまりに有名で、僕もその部分は早くから知っていたが、実際に「アンナ・カレーニナ」を読んだのはずいぶん後だった。

大学生の頃にロシア文学を読もうと思い集中して読んだことがあり、おそらくそのとき一緒に読んだのだ。プーシキン、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、ゴーゴリ、チェーホフ、それにトルストイである。トルストイについては、とうとう「戦争と平和」が読めなかったという負い目が僕にはあった。だから「アンナ・カレーニナ」を読み始めたらやめられなくなり、一気に読み切ったとき、僕は達成感を感じたものだった。

同時に「アンナ・カレーニナ」の素晴らしさが身に沁みた。読了後の印象は、今でも鮮やかだ。世界を見る眼が確実に変化した。「嵐が丘」「アンナ・カレーニナ」「白痴」「フラニーとズーイー」「情事の終わり」「個人的な体験」「海辺の光景」「枯木灘」「忘却の河」...、そんな経験をさせてくれた本は、アト・ランダムに挙げてもそんなには浮かばない。

書物によって精神的に成長するということがよく言われるが、「アンナ・カレーニナ」を読み終わった僕はそれを実感した。僕は「アンナ・カレーニナ」を読むことで、読む以前の僕とは確実に違う人間になった。どう違うかは具体的に説明できないが、それは精神の深い部分での体験だったのである。「ドストエフスキー体験」とはよく耳にするが、同じように「トルストイ体験」もあるのだと思う。

「アンナ・カレーニナ」は長大な小説だから、映画化されるときにはアンナとヴロンスキーの不倫物語を中心に描かれることが多い。しかし、「アンナ・カレーニナ」はアンナとヴロンスキーの物語であると同時に、理想主義者である青年地方地主リョーヴィンと純情な美女キチイの物語でもある。キチイに振られたリョーヴィンが領地に戻り、小作人たちと農作業に励んで心の傷を癒そうとするシーンは、今思い出しても鮮やかだ。

「アンナ・カレーニナ」はヴィヴィアン・リー版(1947年)とソフィー・マルソー版(1997年)を見たことがある。改めて調べると、制作時期に半世紀の隔たりがあった。ヴィヴィアン・リーの「アンナ・カレニナ」(公開時のタイトル)は、ラストの鉄道自殺のシーンをよく憶えているが、ソフィー・マルソーの「アンナ・カレーニナ」はヴロンスキーと一緒に暮らしている何でもないシーンが浮かんでくる。

ヴィヴィアン・リーもソフィー・マルソーも時代を代表する美女だが、タイプはずいぶん違う。スカーレット・オハラの印象が強く、ヴィヴィアン・リーにはどうしても「激しい情熱」を感じる。アンナのイメージとしては、ソフィー・マルソーの方が近いと思うけれど、映画を見たときの印象では高貴さが足りなかった。そのため、ダメ男ヴロンスキーを愛してしまったアンナの精神的な悲劇が、下世話な痴話話になってしまった。

●トルストイの葬儀には一万人もの人が集まったという

「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」と世界的な名作を書いたトルストイについては、ほとんど知識がなかった。生年も死亡した年月日も知らなかったし、漠然と昔の作家だと思っていた。ただ、80を過ぎて家出をし、駅で死んだことは知っていた。悪妻に愛想を尽かしたのだと、誰かが書いていた記憶がある。だから、僕は世界的作家トルストイは、最期に野垂れ死んだのだと思っていた。

それは、まったくの誤解だったと「終着駅・トルストイ最後の旅」(2009年)を見てわかった。調べてみると、当時のトルストイは世界的な思想家であり、ロシアの人々からは聖人と慕われるような存在だったらしい。多くの崇拝者がいて、非暴力と平等や禁欲を提唱するトルストイ主義に共鳴する人も多かった。彼の葬儀には一万人もの人が集まったという。

有名人の葬儀には多くの人が参集する。石原裕次郎の葬儀のときの弔問客の多さを記憶していたので、調べてみたら3万数千人だったという。最近の記録では、ある自殺したミュージシャンのときには5五万人を超える人が弔問に訪れたという。情報があふれ、簡単に移動できる交通機関が発達した現在だからこその数字だ。鉄道は通っていたが、100年前の広大なロシアである。一万人もの人がトルストイの死を悼んで集まったのは、崇拝、尊敬といった気持ちからだったのだろう。

映画は、トルストイの秘書になった青年ワレンチンの視点で語られる。彼は後に作家になり1960年代半ばに亡くなったと映画の最後でクレジットされる。23歳の彼はトルストイに心酔し、禁欲的で非暴力主義である。彼はトルストイ主義を広めようとしているトルストイの盟友チェルトコフによって面接を受けるが、そのときチェルトコフはトルストイの妻ソフィアの言動をメモしておくことを命じる。ワレンチノは、モスクワからトルストイ伯爵の領地へ向かう。

ワレンチンを演じているのは、ジェームス・マカヴォイだ。「つぐない」(2007年)で魅力的な演技を見せた繊細な俳優である。ワレンチノはトルストイ主義に共鳴する理想家肌の青年だから、禁欲を実践しまだ女性を知らない。シャイで理知的で、世間知らずで...といった役だから、ジェームス・マカヴォイにはぴったりだった。とまどいや一瞬のためらいといった、細かい感情を視線の演技で表現する。

トルストイの領地には、トルストイ主義に呼応した人たちがコミューンを形成し、そこで農作業に従事している。しかし、宿舎の監督官は堅物で、その堅物をからかう奔放な元教師の美女マーシャがいる。マーシャは到着早々のワレンチノを誘惑し、その禁欲主義を嗤う。コミューンの主宰者チェルトコフや宿舎の監督官は、どちらかといえば教条的にトルストイ主義を信奉する頭の堅い人々のように描かれる。

●トラップ大佐とエリザベス女王が演じたトルストイ夫妻

「終着駅・トルストイ最後の旅」というタイトル通り、映画は最晩年のトルストイを描く。演じるのは「サウンド・オブ・ミュージック」(1964年)のトラップ大佐ことクリストファー・プラマーだ。新潮文庫の「アンナ・カレーニナ」のカバーはトルストイの写真が使われているが、そっくりにメーキャップしている。白く長いあごひげ、禿げた額、それだけで似てはくるのだが、キャリアの長いプラマーには大作家の趣がある。

世界三大悪妻と言われている妻のソフィア(他の二人はソクラテスの妻とモーツァルトの妻)は、エリザベス女王を演じてアカデミー主演女優賞を獲得したヘレン・ミレンである。この映画、ヘレン・ミレンが主役のように目立っている。ヒステリックで、暴力的で、ときに可愛さを丸出しにして甘え「あなたのために13人の子供を産んであげたのよ」と感情的になったり、父親に味方する末娘には「兄の代わりにあなたが死ねばよかったんだわ」とまで激高する。

ソフィアはトルストイ協会の幹部であるチェルトコフにそそのかされたトルストイが、財産や自作の著作権を放棄するのを怖れている。チェルトコフはトルストイ作品は民衆のものだと主張し、世界中にトルストイ主義を広めようとしているのだ。チェルトコフをあしざまに言うソフィアに「彼は大切な友人だ」とトルストイは諭す。しかし、ソフィアは「あなたは私たちを貧窮の底に落とそうとしている」と喚きたて、トルストイの遺産を守るために取り巻きたちを排除しようとする。

元来、トルストイは伯爵で広大な領地を持ち、多くの小作人(農奴)を使用していた。私有財産を否定するトルストイは彼らの待遇を向上させたり、小作人に農地を分け与えたりしてきた。平等と博愛主義をトルストイは実践してきたのだ。そして、死に臨んで財産や自作の著作権を放棄しようとしている。その頃のトルストイは、小説家以上のものになっていたのだろう。思想家であり、宗教家であり、トルストイ教の教祖だったのかもしれない。

そんなトルストイとソフィアを、ワレンチノは冷静に見ている。彼はマーシャと寝ることで柔軟性を獲得し、トルストイ主義一辺倒だった石頭ではなくなったのだ。だから、彼の目にはトルストイの言動の過激さも、チェルトコフの打算や政治的な行動も、悪妻呼ばわりされるソフィアの悲しみも見えるのだ。ワレンチノという視点を設けたことで、ソフィアは悪妻と言われるだけの存在ではない奥深さを獲得した。ソフィアの人間らしさが描かれる。

しかし、トルストイは妻に愛想を尽かし家出をする。といっても荷物を拵え、娘も秘書も主治医も一緒だ。そして、途中の駅で具合が悪くなり肺炎を起こし、駅長室を借りて寝付く。「トルストイ倒れる」の報は世界に発信され、多くの記者たちがやってくる。その駅長室で一週間、病の床につき、そのまま臨終を迎えるのだが、そこへやってきたソフィアを取り巻きたちが会わせようとしない。ソフィアが自分に都合のよい遺言を引き出すことを怖れているのだ。

●著作権を受け継いだ数年後にソフィアも死んでしまう

やれやれ大変だな、と僕は思った。これで心穏やかな死をトルストイは迎えられるのだろうかと思って見ていたが、最後にはソフィアに看取られて息を引き取る。さすがに、最後の息をし始めたトルストイに妻を会わせないわけにはいかなかったのだろう。トルストイの死に取り乱すソフィア。長く連れ添った夫婦には、ふたりだけの心のふれあいがあり、感情のもつれがある。

映画のラストに出るクレジットで、結局、著作権はトルストイの死の数年後、ソフィアが受け継いだことが知らされる。死んでいく本人に財産は必要ないが、生き続ける人間にとっては財産はあればあるほど役に立つ。だから、ソフィアは固執した。しかし、著作権を受け継いだ数年後にソフィア自身も死んでしまう。死に臨んで彼女は何を望んだのだろうか。

おそらく、財産がある人間が死ぬときには、似たような話が古来からずっと続いてきたのだろう。古今東西のミステリを分類したわけではないが、遺産争いを動機にした殺人事件はかなりの数が書かれているのではないか。「犬神家の一族」を始め、横溝正史の小説はほとんどがそうだ。もっとも、大した財産もなさそうな人が死んでも相続争いは起こる。

僕は、遺産を当てにするような人間にだけはなりたくないと思ってきた。大学を出るまでは多少の仕送りはしてもらったが、もう40年、自分で稼いだ金だけで生きてきたし、多少の蓄えも作った。くれるという遺産を拒否するつもりはないけれど、それは宝くじのようなものだ。当てにしていなければ、固執することもない。そう思うようにしている。

一方、中途半端な子供たちの生き方を見ていると、危うさばかりを感じる。最近、僕が死んだらこの子たちはどうするのだろう、としみじみと顔を見ることが増えた。順当にいけばまだ半世紀は生きる息子と娘は、今のような半端な生き方をしていると泣きを見ることになるのではないか、と心配になる。そう考える反面、もういい大人なんだから放っておけという声がする。死に臨んで僕が望むことは、子供たちが安心させてくれることだが、それは叶わぬ望みかもしれない。

トルストイは死に臨んで何を望んだのだろう。世界人類の幸せか。トルストイ主義の浸透か。世界から争いがなくなり、格差がなくなり、人々が平等に暮らせる世界の実現だろうか。家族のことは考えなかったのだろうか。1910年11月20日、トルストイは82歳で永眠した。駅長室で死んだ世界的大作家は珍しいが、その駅は今では「トルストイ駅」と命名されているらしい。共産党独裁のソ連時代でも、トルストイの評価は高かったのだ。

トルストイの家出と駅での客死を思うと、「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」というフレーズは、トルストイの身につまされた感懐だったのかもしれない。莫大な財産があっても、トルストイは不幸だった...、そんなことも連想する。トルストイの死から6年後の大正5年、夏目漱石が49歳で永眠した。40歳ほどの差はあるが、トルストイと漱石は同時代を生きたのだ。漱石の妻、夏目鏡子にも悪妻説がある。やれやれ、偉大な作家たちの妻は大変だ。

ちなみに「戦争と平和」第一部で澄んだ瞳と(月並みな形容ですが)妖精のような儚さで僕を魅了したリュドミラ・サベーリエワは、数年後、イタリア映画「ひまわり」(1970年)に出演し、ロシア女性の加齢による宿命的な変化には例外がないことを証明した。要するに、10代の儚そうな妖精時代は過ぎ、肉が付き始めていたのである。もちろん、まだ充分に美しかったけれど...

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
>

僕の住む地域は有名なホットスポットで、高い計測値が出ている。その中でも、近くの公園の芝生から市内で最高値が出たらしい。仕方ねぇや...と老い先短い僕は気にしないが、周囲は騒がしい。小さな子がいる人は気になるだろうし、これから子供を産む人も気が気じゃないだろう。放射能雨が降り続ける「ブレードランナー」的世界が現実になろうとは...

●第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」受賞!!
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●朝日新聞書評欄で紹介されました。紹介文が読めます。
< http://book.asahi.com/book/search.html?format=all&in_search_mode=title&Keywords=%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%91%E3%82%8C%E3%81%B0%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%84&x=20&y=18
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■Otaku ワールドへようこそ![140]
アイドルへの道は険しい

GrowHair
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アイドルの卵たちのライブイベントに、ワタシも混ぜてもらえることになりましたっ♪ 出演者のほとんどがリアル女子中学生・高校生です。ワタシも負けじと、セーラー服を着てステージに立ち、裏声で歌います。可愛さで彼女らに負けないこと、それがワタシのミッションです。今までもよく曲がる人生を送ってきましたけど、ほんっと、何が起きるか分かったもんじゃないです。ががががんばりますっ!

●超ラッキー

ものすごく欲しくてたまらないものがあるなら、強く念じ続けていれば、いつか手に入る、という法則があるみたいです。そろそろ50歳に手が届こうかというおっさんが、アイドルになりたいなんて乙女チックなこと夢見てるのはさすがに多少無理があるかな、という気がしなくもないですが、いやぁ、何でも念じてみるもんです。無理のありそうな道でも、開けるときは開けるんですな。いやぁ、ラッキー。

ワタシが歌うのは一曲だけですが、オリジナル曲です。両脇にリアル女子高校生アラレとリアル女子中学生愛菜(まな)を従えて、センターに立ちます。二人はCGMというアイドルユニットです。未来学園CGMからやって来た魔法少女二人組。

下北沢にある音楽スクール「ヴァロワヴォイス(Valois Voix)」で、去年の4月7日(水)から1年半ほど、ワタシは歌のレッスンを受けてきました。ものすご〜く上達しましたけど、始めた当初の状態というのが、小学生以来のコンプレックスがようやくほぐれてきて、やっと人前で歌うことに抵抗がなくなってきた、というまったくの初心者だったもんで、今でもやっぱり素人に毛が生えた程度のもんではあります。

しかし、40代後半から新しいことを始めても、全然使ったことのなかった喉の筋肉がちゃんと発達してきて、裏声が出せるようになったりビブラートがかかるようになったりしてきたのは、ちょっとびっくり、感動です。

スクールのオーナーは奥井友康氏。作曲家でもあり、企業CM等の楽曲制作を手がけた実績があります。米国ボストンのバークリー音楽院大学卒業後、ビクターの正社員として、ディレクターや講師を務めていました。ワタシを指導してくださっているヴォイストレーナーは菅原久美先生。ソニーMEオーディション特別賞受賞後、ソロ歌手として、ライブ活動し、CDを世に送り出してきた実績があります。

今度のライブでありがたくも畏れ多くも、オリジナル曲「GrowHairのテーマ〜茶巾寿司は永遠に(作詞/作曲・ちゃきら)」が初のお披露目となるわけですが、奥井氏と菅原先生のご尽力によるところが大きく、大いに感謝している次第です。

歌詞の中にもGrowHairが出てくるという、まさにワタシのテーマソングなわけです。カメコの歌です。被写体に萌え萌えしながら撮る歌です。軽快で、チャキチャキして、陽気です。どこか人を食ったようなトボケた可笑しさがあって、それもなんちゅうか、ワタシのキャラがよく表現されています。ネオテニーも出てきます。そこの振りは、ウーパールーパーのイメージです。そうそう、振りつきなんです。それも前奏・間奏・後奏までほぼ間断なく動いてます。

一曲歌い終わると息はぜーぜー、汗はだらだらです。いや、客観的にみて、それほど激しい振りって訳ではないんですが、まあ、普段ほとんど運動しないからこういうことになるわけですな。おかげさまで食欲増進、ここ2週間ほどは、いつもの2割増ぐらいの勢いでもりもりばくばく食べてます。育ち盛りです。

ヴァロワヴォイスには歌だけでなく、ギターやフルートのコースもあり、生徒さんはいっぱいいます。で、2〜3ヶ月に一回、生徒さんたち出演のライブイベントを開きます。けど、今度のは、正確に言うと、ヴァロワヴォイスが主催ではないのです。奥井氏は、もうひとつ、「ヴァロワアーティスト(Valois Artiste)」という芸能プロダクションのチーフプロデューサーでもあり、アイドルを育てて世に送り出そうとしています。そちらが主催のイベントなので、アイドル系のコたちだけで成り立たせようという趣向。それと、オーディション。アイドルになりたいと応募してきた人たちの、ステージ審査があります。

「枯れ木も山の賑わい」といいますけど、まあ、そんなようなもんで、「ドリフの聖歌隊における高木ブー的役割」と言って通じるかどうか分かりませんが、そんな役割で、ワタシも出ます。ま、一言で言えば、超ラッキー♪ ってわけです。

●夢としてのアイドル追っかけから、現実の交際へという成長モデルの崩壊

Yahoo! に「知恵袋」というコーナーがあり、誰もが質問を投げかけることができ、誰もが自由に回答することができるようになっている。恋の悩みからパソコンのトラブルまで、ありとあらゆる質問が寄せられる。そこに、「彼氏から別れを告げられたたけど、理由に納得がいきません」というのがあった。

彼氏は異常なまでにAKB48が好きだけど、私は今まで文句や愚痴などまったく言わず、コンサートやグッズ購入でお金がなくなっても「まあ好きなら仕方ないよね」と応援する形で見守ってきた。自分からAKBのグッズをプレゼントしたこともあった。なのに、ある日突然「今はもう彼女とか要らない。AKBだけに集中したい。本当にごめん。別れよう」と告げられてしまった。すごいショックで、理由に納得がいかない。とりあえず今は距離を置いて彼氏の気持ちが変わるのを待っているが、もう私のことなどまったく考えておらず、AKBのことしか頭にない。本当に苦しくて、テレビでAKBを見ると涙が出てくる、というもの。

いやはや、まことにお気の毒。そこまで尽くしたあげく、「やっぱりAKBがいい」と別れを告げられては納得いかないのはごもっとも。彼氏には「大馬鹿者!」と言ってやりたい。回答もだいたいその線。その彼氏は「現実がみえてない」「アナタにはもったいない」「自分の世界だけで生きている」「ただの腐れアイドルオタク」とけちょんけちょん。処し方としてはおおむね「おっしゃるように、しばらく距離をおいてみるのが賢明かと。けど、戻ってくるかどうかは難しいかも」という線だった。回答に対して質問者から「結局別れました」とのコメントが入っていた。

この一件自体は、お気の毒さまとしかいいようがなく、結末についても、まあしょうがないと思う。彼氏大馬鹿者、とは私も思う。が、それはそれとして、世の中で起きている現象として捉えたとき、気になることが2点ある。

まず、アイドルの追っかけという夢の追求とリアルな交際という現実との間で、どっちをとるか、あるいは、両方とるか、という選択肢がある状態に置かれたとき、後者を捨てて前者に走っちゃう「腐れアイドルオタク」が現実に生息しているということ(質問の投稿がでっちあげ〈いわゆる「ネタ」〉でないと仮定して)。

それと、彼氏は「ピーターパン症候群」のような、精神的に成熟して大人になることを拒否していて、いつまで経っても夢からさめて現実が見える大人になることができないガキんちょとみる回答が多かったこと。これ、私には、なんとなく個人の価値観に世の中みんなが同調すべきだと要求する「決めつけ」のような香りがする。2点を一言で言うと「成長モデルの崩壊」である。どういうことかというと......。

たしかに、アイドルとは、中学生、高校生のときにハマるもの、と世の中からみられてきたと思う。アイドルを追っかけるのは、現実の交際の練習のようなもの。たくさんいるアイドルの中から、「もし自分がつきあうとしたらこういうのがいいなぁ」と理想像を確立する過程。けど、それは決して手の届かないところに実る果実であって、現実に誰かと交際するようになれば、次第次第に興味が薄れていくもの。それが成長というもの。

会社の同僚のK島氏の言うには「アイドルを追っかけたところでせいぜい握手とかだろ? 現実に彼女と付き合えばそれ以上のあんなことやらそんなことやらできるはずで、容姿は多少劣ったってそっちのほうがいいに決まってると思うけど」と。どうしてサラリーマンってこういう非常に分かりやすいことをのたまうエロオヤジが多いんだろう、ってのはさておき。

しかししかし、と私は思う。現実現実っていうけど、それって物理学者の捉える現実とは意味が違うわけで。11次元とか、ちょっと直観的には捉えがたい、むしろ非現実的とも思える構造が、実は、より現実に近かったりするはずなわけで。それは、光速不変とか、二重スリット実験による干渉縞の現出とか、直感的にはおかしいと思えるような現象が現実に観察されているから、物理学者は整合性のとれた理論を打ち立てて、それに説明をつけないとならないことから、そうなったわけで。(チョー単純化して言うけど)光速不変から相対論が打ち立てられ、干渉縞から量子論が打ち立てられ、両者を統合しようとしたら、また変なことが起きたので、仕方なく11次元の超ひものほうへ行っちゃったというわけだ。

それはさておき「腐れアイドルオタクは現実がみえてない」という文脈での「現実」とは、それではなくて、「生きていく上で、社会の仕組みを理解し、自分を適応させること」「生活上の利便性」「損得勘定で生きていくこと」「家庭を築き、子供を立派に育て上げること」ぐらいの意味でしょう。大人大人っていうけど、それって、他者との関係を適当に良好に維持し、自分の立場を守っていくことで、生活に安定性をもたらすこと、むやみやたらと見果てぬ夢を追っかけ回さない自己制御がとれてること、ぐらいの意味なんでしょ?

でも、それなら、そこらで走り回ってたり飛んでたり泳いでたりのしのしうろつき回ってたりずるずる這い回ってたりじっとしてたりする野生動物だってやってることなんじゃないの? 人間が、野生動物が営んでいない文明を築き、文化的な生活を送っているのは、現実よりも上のレベルでものを考える能力が備わっていて、それをひたすら追求してきたからなのではないかと。

数学や物理学が発展をとげたのは、現実の生活の利便性の向上を狙ったからではなく、宇宙万物のメカニズムを理解したいという動機があって、抽象的な理論体系を追い求めてきたからである。実生活への応用は副産物なのだ。

プラトンのイデア論のように、今見えている現実の向こうに、抽象レベルの理想像があるはずだ、とする指向、仏教の西方浄土みたいなもんと言ってもいいかも。現実に観察することのできるごちゃごちゃした現象から、もろもろの雑音を捨象し、抽象レベルでエッセンスを絞り出したいとする願望。この動機こそが、人類を進歩発展させてきたのではあるまいか。と考えると、生活レベルの現実に適応するのが大人で、アイドルを追っかけ回したりして理想を追うのはまだまだ子供、とする成長モデル自体、そもそもどうなのかなぁ、と思えたりするわけで。

まあ、ハッキリ言っちゃうけど、野生動物レベルの現実適応性を備えたぐらいのことで、アイドル追っかけを低くみたりする資格を獲得できたと思うことができるということへの、根拠ってどの程度のもんなんでしょうか、と。まあ、家のことを立派に切り盛りしていくのは、それなりに大変なことだろうと思うし、誇っていいことだとは思うけど。K島氏のように、女とヤレることをもってリア充的な優越性を主張されてもちょっと困るなぁ、と。そういうのに背を向けて生きる人が私一人だけではなく、「現象」と呼べるほどまでに世の中一般に現れつつあるのだとしたら、「成長モデルの崩壊」が起きているのではないかと思うわけである。

ネオテニーとは、一見、成長の拒否、退行のようにみえて、実は適応可能環境の領域を広げ、種の保存の確率を高める、進化のストラテジーだったりするわけだ、っていうのは以前に書きましたね。そういう私は48歳にもなってセーラー服を着てキャピキャピ言っているわけで、こういうふうに生きたほうが、より高級なレベルに上がれるぞ、と言ってみたところでどれほどの説得力があるかは、まあ、さておき。

うん、ごめん。今回は「さておく」ことが多い。自分を上げとく棚がいっぱい必要だ。まあいいや、ここまで言っちゃったなら、ついでにもう一言「私のような生き方をモデルとして生きれば、あなたもシアワセになれますよ」と教祖様のような調子で言っておきましょうか。

●商業主義に踊らされているだまされやすい人たちなのか

アイドルに入れ込むのはリアルな恋愛への準備体操のようなもの、というのは一般論であって、私の場合はそうではなかった。今はAKB48の勢いがすごいけど、それにもかかわらず私の中では'70〜'80年代がアイドル全盛期として捉えられている。私が中学高校時代を過ごしていた時期で、以前にも書いたけど、倉田まり子と石川ひとみは似てないと叫び続けて青春時代を走り抜けた。

級友は、雑誌に倉田まり子の写真が載っているのを見つけると切り抜いて持ってきてくれたりした。「有効に使ってくれ」とか言いながら。なんだよそれ?親までもが、テレビに倉田まり子が出てるとわざわざ知らせてくれたりするのだが、見てみれば石川ひとみだったりして、けっこうムカついたりした。いや、石川ひとみもかなり好きではあったけど、それぞれいい個性をもっているにもかかわらず、混同されがちな点が腹立たしかったわけで。

当時、アイドル系の雑誌に「明星」と「平凡」があり、どっちだったか忘れたが、倉田まり子が日出学園に通っているという情報が載っているのを見ると、杉並区から目黒まで自転車で見に行ったりした。本人を、ではなく、学校を。それだけでけっこうドキドキした。ストーカーかいね?

なので、駿台予備校市谷校舎で浪人しているとき、シャープのショールーム1階の(当時)スタジオにラジオの収録に来ていた倉田まり子さんご本人と握手できたことは、今でも、私の人生の頂点だったのではないかと思っている。さて、そんな私ではあったが、私にとってのアイドルとは、つきあう相手としての理想像ではなく、自分がなりたい理想像であった。

なりたいけど、その願望は無茶すぎてとうてい実現しそうにないことだから、しかたなく、自分のできる領域でがんばろう、と励みにしていた。いわゆる「元気をもらう」という感じ。アイドルになり、その人気を維持するためのがんばりは並大抵でないのが伝わってくる。そのことに深く敬意を抱いていた。

一般的に言って、アイドルにはふたつの素養が必要だ。歌が上手いことと、可愛いこと。両方なくては成り立たないけど、'70年代から'80年代にかけて、力点は前者から後者へと移行していった。それはまあ、可愛ければ歌はどうでもいいじゃん、と、視聴者の側が選択した結果なのかもしれないけど。本業が女優の若いタレントが、おそらく知名度アップを狙ってあまり上手くない歌を歌わされたり、ポストキャンディーズを狙う3人組アイドルグループが濫造されたのはまだ許せるとしても、素人っぽい大集団によるアイドルグループが出てくるに至っては、こっちがなんだか白けてしまって、アイドルからもテレビからも興味が離れてしまった。

広く捉えれば、熱い時代から冷めた時代へと移行している時期でもあった。思い出すと、'70年代って、みんながみんな、付和雷同的だったように感じられる。駅の階段などで、電車が来てもいないのを承知でわざと走ったりすると、後ろを歩いている赤の他人たちが、みんなこぞってついて走る。で、ホームについたとき、「ただちょっと運動してみたい気分だった」というふうに柔軟体操なんかすれば、みんな「やられた」って顔するのが面白い。そんないたずらが成り立った。今はたぶん、誰もついて来やしない。

その後、時代は冷めていき、シラケ時代に突入したとか、若者が無気力無関心になったとか、よく言われた。何かに夢中になって熱くなっているよりも、裏の裏まで見透かしたような風情を装って冷めたコメントを放つほうがカッコいい、みたいな空気になってきた。そんな時代の流れで、アイドルに夢中になっていることに対して、冷ややかな調子で馬鹿にする人はけっこういた。いわく、商業主義に踊らされているだけの、かわいそうなやつら、とか。

そう言う人たちによると、アイドルに夢中になる人たちというのは、アイドルに着せられた純真無垢というイメージを、実生活においてもそうであると素直に信じちゃってる、カワイソウな人たち、ということになる。芸能界の舞台裏なんて、ホントはすげー汚くて、実生活でも清純な芸能人なんてどこにもいやしないっていうのに、作られたイメージにコロッとだまされちゃうなんて、おめでたいやつだなー。俺は、裏の現実が見えてるから、馬鹿みたいに一心不乱に応援しまくるファンみたいな子供っぽい振る舞いはとうていできないね、ふふん、みたいな調子。

自分のことを言われているのだとしたら、なんかズレてる、とは感じた。けど、冷めた目で批判する人たちは、アイドルファンのメンタリティを真剣に理解しようとして、そういう人をつかまえていろいろ聞いてみる、という努力をしてみるわけでもなく、そもそもそういう動機はなく、自分で作り上げたフレーム(枠)の中に、無理やりアイドルファンを押し込めて、侮蔑的な目を向けているだけのように思えた。作られたイメージに踊らされているのはいったいどっちだい? と。けど、よく理解しようという動機もない人に対していちいち真面目に反論するのも面倒くさく、言わせておくだけだったなぁ。

冷めゆく時代にあっても、何かに熱くなりたい、熱くなれる人たちはいるわけで。よく分かっていないし、分かろうともしていない外野からズレた批判を浴びせられていちいち反論するのも面倒くさいので、自分の嗜好を積極的に人に言ったりしなくなっていくのは自然な流れだと思う。ひた隠しにするわけでもないけど、聞かれなきゃわざわざ自分から言うこともない、という消極的隠蔽。かくて、熱い人たちと冷めた人たちとの間では、コミュニケーションが遮断され、生活圏は近くても、情報の流通においては分断されていく。こういうふうにして「情報の流通のセグメンテーション化」が自然に起きていくのだと思う。

アイドルとファン個人との関係性についてはそんな感じだが、社会とアイドルの関係性については、どうなんだろう、とも考えてみる。東京消防庁が、平成23年春の火災予防運動のポスターに、AKB48から派生したユニットである「フレンチ・キス」をモデルとして起用した。火の用心とフレンチキスとの関係について考えようとすると、迷宮に入ってしまいそうだが、ポスターとしては悪くはなかった。掲載期間が過ぎたら、頼めばもらえたりしないかなぁ、と頭をよぎったりしたくらい。

つまり、アイドルというのは、社会にとって必要とされており、存在意義が認められているからこそ存在しているはずなわけで。それって、いったい何だろう、というのは、今考え中なので、なにか思い至ることがあれば、あらためて書いてみようと思います。

●鋭意練習中、というかヤバい

そういうわけで、がんばって練習してます。はなからあきらめていたアイドルになりたいという夢、現実の活動として、向こうからこっちへ近づいてきました。これは、普通に考えるとちょっとありえない、大変なことだと思います。

しかも、今回、GrowHairをテーマとするオリジナル曲がいただけたので。私ががんばらなければ、他の人ってわけにはいかないのだ。なのになのに、練習がぜんぜん間に合ってない。前代未聞のヤバい状況。土曜が本チャンで、今日が水曜だっていうのに、いまだに振りがうろ覚え。一回通しで歌うと、どっかで必ずミスをするレベル。おいおい、練習でその調子じゃあ、本番でアガったりなんかすれば、頭の中が真っ白白になるぞぃ。

それと、振りを完璧にしておかないと、歌のほうがおろそかになり、上の空みたくなっちゃうぞ。元気いっぱいのムードだって出せないし。やばいやばいやばい。時間ないけど、がんばってがんばってがんばって、ラストスパートで巻き返します。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp

カメコ。あと、眼鏡を新調しました。フレームが赤の、小さいやつ。ホントは、それもセーラー服を着て買いに行きたかったんだけど、ちょっと時間がなく。でも、そうしたほうが分かりやすかったに違いない。ステージ用だと言い訳してるのに、お店の人はなかなか理解してくれなくて。両目の中心間の距離を測らないといけないので、ご本人を一度連れてきてくれませんか、と。だから、ご本人なんです、ってば。

そのイベントの情報です。
10月22日(土)11:00開場 11:30開演〜14:30 (午前からです、ご注意!)
場所:渋谷 TAKE OFF7
VALOIS Artiste presents...
パラシュートで降りたパリ@渋谷TAKE OFF7
女性アイドル&アーティスト・イベント
前売/当日:2,000円+D
出演・ヒカリ、アラレ、愛菜、中谷一恵、GrowHair、 VALOIS Artiste オーディション、CGM、HONEY ANGEL mayu
< http://www.ness2000.com/
> 音楽スクール「ヴァロワ・ヴォイス」
< http://kox-radio.jp/to7-top.html
> 渋谷 TAKE OFF 7
< https://bn.dgcr.com/archives/20101022140100.html
>
以前に書いた、ネオテニーのこと

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■編集後記(10/21)

・本の雑誌と日経おとなのOFFで、2011年上半期ベスト10の第1位に選ばれて、「2011年の大本命! 驚愕の面白さ!!」だというんだから読むしかないだろう。590ページもの長編SF冒険小説、高野和明「ジェノサイド」である(角川書店、2011)。コンゴの熱帯雨林に人類を絶滅に追い込む新種の生物が出現した、というイントロは期待度満点だ。この小説はスケールの大きな謎解きと脱出劇があいまって進行する、見事なエンターテインメントだ。敷かれた伏線も有効で、予想できないスリリングな展開にワクワクした。一気読みは無理だったので、三日読みで非常に満足。ただし、この作家は日本と日本人が大嫌いらしい。日本人傭兵は「誰からも愛される事のなかった、憎悪に染められた生涯」を無残なかたちで終わらされる一方、韓国人研究者にはこの上ないおいしい役を配している。唐突に関東大震災直後の朝鮮人殺害事件を持ち出し、「日本人の怖さは日本人には分からない」「愚かな先祖を持つと末代が苦労する」と主人公の一人の日本人に言わせ、アフリカ内戦の残虐な殺戮を描写して「南京大虐殺の際に日本人が中国人を相手にやった手口だ」と解説したり、ストーリーとは無関係の異様な自虐史観を披露する。無意味で愚かな行為だ。それはほんのわずかな分量だが、喉にささった小骨のごとく、読んでいる間中ひっかかっていて不快だ。そこがマイナスポイント。惜しかったな。作家のお好きな史観は別の作品で、それを主題で存分におやりになったらいかがでしょうか。(柴田)
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>
→アマゾンで見る(レビュー122件)

・ボイトレしたら、今からでも喉は鍛えられるのか。近所にないかな。声質が変わってきているのがわかる。腹式呼吸できてなくて普通ボリュームの声(大声は望まない)が出ない。お腹から声が出るのは笑う時だけ......。/打ち合わせがあるため、テーブル上のDMやカタログ、チラシなど大量のものを、えいやっと別の部屋に放り込んだ。ま、なんてスッキリ! 見た目だけでなく、気持ちもスッキリ。家人もご機嫌。これらのものは主に郵便受けに届くもの。請求書関連はすぐに開封して綴じるが、カタログ類やそれらについているクーポン、いずれ何らかのアクションが必要でリマインダー代わりに置いておくものなど、ついつい放置気味。普段、捨てることを考えてしまって消耗品以外はなかなか買わないのだが、いくら自分が買わなくても、届くものはどうしようもない。これでもだいぶシステム化していたのだが、忙しくなるとついそのシステムが崩壊し、一度崩れると戻すのに手間がかかる。手間がかかるもんだから、後回しにし、溜まり腐っていく。その溜まりを少しでも減らすために、DMの個人情報類をすぐに破棄するための45リットルゴミ箱並みの大型シュレッダー購入したこともある。これが「後でまとめて破って捨てる」だと、ボトルネックになる。休日にまとめて、なんて、いつ休みがとれるかわからないし、とれても片付ける気力や体力がないことも多い。ルンバを買った理由もそれで、休日にまとめて掃除なんて無理よ〜、常日頃からやっとかないと、である。Toodledoを使ってのGTDは、定期レビューしないから信頼性がなくて(だから規則正しい生活やって定期レビューの時間を......)、リマインダー代わりに「目の前にやることを置いておく」なのだし、たとえレビューしていたとしても、その「後で出番のあるもの」の置き場を決めていないから、ついテーブルの上なのだ。(hammer.mule)