私症説[42]リスキーなジョーク
── 永吉克之 ──

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●複合動詞

先週、父の法事で七年ぶりに甥の尚史に会ったら、彼の顔がすっかり照り流れているので、一瞬、別人かと思った。高校生の頃は、いつもどこか巻き落ちたようなところがあったのに、社会人になってからは人並以上に盛り跳んでいた。

彼は私を見つけると、塗り笑いをしながら近づいてきて言った。「叔父さん、ぼく来年、アフリカの国々に医療を投げ伸ばすために、日本を離れ被ることにしました」

彼のこの起き結んだような陽気さに、私は残し割ったような違和感を少し覚えたが、若さからくる持たせ打ちかとも思った。しかしその若さゆえに、彼が世間から引き吸われるようなことのないように、私がいつも彼を分け反らせ、時には曲げ溜めてやることも必要だと思った。そこで私は彼に率直に言い満ちた。

「尚史、日本人でも外国人でも、業績を寄せ振るためには、人間同士でこそ切り戻ることのできる、付き裁いた関係を作ることが必要なんだぞ。お前にそれを消し返すことができるのか?」
「はい。そのつもりでこれまで組み垂らしてきましたから」

短い言葉だが、この一言で充分、尚史の決意は伝わった。もう子供ではないのだ。私は何度もそう思い掘り倒し転がした。




●映画批評『大怪獣ガメラ』(1965年/大映)

私の評は、正直言って芳しくない。というのは、この映画は事実誤認やリアリティの欠如がはなはだしいからだ。それはご愛嬌ですまされる範囲をはるかに超えて、もはや子供向けの怪獣映画のようになってしまっている。

これは「ガメラ」という獰猛なカメと少年のふれあいを描いた作品だ。動物と人間の交流を描いた映画はこれまでもたくさんあったが、鈍重な動物の代表のようなカメを主役にした作品は、私の知る限り他にない。しかし、その独自性を無にするほど致命的な欠陥が多すぎるのである。

欠陥の第一はガメラの大きさである。体長が60メートル、体重は80トンあるそうだが、現在までに発見されたカメのなかに、そんな巨大な種類はない。もしそんな、シロナガスクジラよりも大きなカメがいたら、とうに発見されているはずだ。

第二に、ガメラは空中を飛ぶことになっているが、地球の重力の大きさを考慮すると、そんな大型の動物が飛翔することはおろか、跳躍することも絶対に不可能である。いや、みずからの体重を支えきれず、歩行することもできないだろう。

まあ、たとえ体長60メートル、体幅40メートルでも、体の厚みが5ミリなら、凧の原理で浮き上がり、気流にのって空中をクラゲのように漂うことは可能かもしれないが、そんなペラペラした平ベったい生き物が、大砲や戦闘機の攻撃もはねかえし、高層ビル街を火の海にし、人々を恐怖のどん底に落とし入れるということになると、もうこれは動物と人間のふれあいを描いたヒューマンドラマなのか、怪奇映画なのか、シュールなコメディなのか、わけがわからなくなってくる。

第三の欠陥は、ガメラが火を吐くことだ。しかもそれは火炎放射機のような猛烈な焼夷力を持っているのだ。

しかし、ウミガメも、淡水域に生息するカメも、リクガメも火は吐かない。たまに大阪の四天王寺に行くと、そこの池にうじゃうじゃいるカメを長時間眺めていることがあるが、まだ一度も火を吐いているカメを見たことがない。もちろん飛んでいるところも見ていない。

『ガメラ』の新作を作るのなら、改善すべき点はたくさんある。まず、体長はせいぜい3m以内に収めておくことだ。それ以上大きいと怪獣のようになってしまう。

また、空を飛ぶという設定と火を吐くという設定は破棄するしかない。空想映画ならともかく、どんな理由をつけても、そんな非現実的な設定では観客を納得させるのは無理だ。それに子供が観たら、カメとは空を飛ぶ動物だという誤った知識をもってしまう。

まあ、フィクションなのだから、獰猛な性格にするのはいいだろう。しかし、せいぜい家畜のニワトリを襲う程度にしておきたいものだ。カメに都市を破壊するだけの能力はないし、そもそもそんなことをしなければならない動機がない。登場人物の行動に動機が感じられないと観客がついてこられなくなるのだ。

『ガメラ』の次回作では、瀬戸内海の漁村を舞台に、漁師の子供が、たまたま網にかかった大ガメを少しづつ手なずけてゆくプロセスを物語りの中心にしてもらいたいものだ。

ところで、タイトルに「ガメラ」は使うべきではない。『少年とカメ』ではどうだろう。

●控えめな要求

絵里子といいます。なぜか私は、小さいときから、怪しくない男性を好きになる傾向がありました。小学生のときに好きだった初恋の先生も、初めてキスをした高校のときの彼も、同棲していた大学時代の恋人も、そしてもちろん今の主人もみんな揃って、怪しくないのです。

来月、男の子が生まれる予定なのですが、その子も怪しくない男性になってほしいと、心密かに願っています。

智恵よ。
私の理想の男の第一条件は、連続放火魔じゃないこと。これは譲れないわ。いくら動物好きで年寄り子供に優しくても、連続放火魔とはうまくやっていけないんじゃないかと思うの。

以前につきあっていた彼に対してもそうだった。会社に一年後輩として入社してきた彼を見て、どことなく頼りない感じだったけど「素敵、この人なんて連続放火魔っぽくないのかしら!」って、一目惚れしちゃったのよね。うふ。

裕美で〜す。大学の同じ学科に、澤田くんっていう、とっても気になってたのに話しかけることもできないでいた男子がいたんです。

もともと澤田くんを好きになったのは、彼がウサマ・ビンラディンじゃなかったからなんだけど、シャイなあたしが、そんな彼に話しかける気になったのは、あるとき友達から、実は彼がヒマラヤの雪男じゃないって聞いて、もうこの人しかいないって思ったからなんです。それで思い切ってお昼ご飯に誘ったら、気持よく応じてくれたんです。

そしてびっくりしたのは、澤田くんもあたしのことが好きだったって言うんです。それでもう嬉しくって「あたしのどこが好きなの?」って聞いたら、「男じゃないところ」なんて照れちゃって、真っ赤になって、とってもカワイイんです。

異性への要求は控えめに。それが、結局は少子化の解消につながるのである。

●他者に学ばない

ぼくは絵を描いているくせに、最近はあまり他人の絵を観に行ったりしなくなった。また、こうやってBlogを書いたり、メルマガに寄稿したりしているが、他人が書いたものはあまり読まないのだ。なんという不遜な。学ぶことを怠っていては遠からず破滅するぞ、と長く心の重圧になっていたのだが、最近は、それでいいような気がしている。

たとえばだ。味噌ラーメンを食べるのが大好きだからといって、他人が味噌ラーメンを食べているのを見るために、わざわざラーメン屋に行くだろうか。いくら登山に情熱を傾けているからといって、他人が登山しているところを見るために、わざわざチョモランマには登らないだろう。

また、どんなにテレビタレントに憧れていてテレビ業界のことが知りたくても、テレビを分解して内部を観察してみようとする人はいないはずだ。

この事実に気がついたとき、自分がいままで根拠のないことで苦しんでいたことを覚ったのだった。

●リスキーなジョーク

芸人の性で、文章を書いたり、人前で発言するときは、何かジョークを入れなければ気がすまない。役所で申請書に自分の生年月日を書きこむときでも「明治91年生れ」とかなんとか書きたい衝動に襲われることがあるが、係の人に殴られるかもしれないので、さすがにそれはしない。

ところで、デジクリの原稿を書いているときに、ふと思いついて、お、こりゃいいやと一旦は書いてみたものの、コレはへたすると真に受ける人がいるかも、永吉は日本語を知らない奴だと思うかも、と脱腸の思いで削除したジョークがある。

・蛇蝎のごとく好きだ。
・そんな気持ちは、雀の涙ほどもないよ。
・びた一文でいいからください。
・仏の顔もサンドイッチマン。

こういったジョークを読者が真に受けないようにするためとはいえ、文末に「なーんちゃって」「......んなわけないだろ」「(笑)」などをつけるといった、便利だが手垢にまみれた手法を使うのは芸人としての誇りが許さない。ましていわんや、

※「蛇蝎のごとく」の後には「嫌う」などの否定的な語を使うのが正しい用法なのですが、ここでは、笑ってもらおうと思って、わざと間違った使い方をしました。

......なんて注釈をつけるのは、芸人としては屈辱の極みである。

【ながよしのかつゆき/永吉流家元】thereisaship@yahoo.co.jp

今回も、私のブログに掲載しているテキストを使い回ししました。なぜ最近はこんなに書けないのか? いずれその真相を明かし、「なーんや、そうやったんかいな〜」と笑っていただける機会が来ることを願ってやみません。
無名芸人< http://blog.goo.ne.jp/nagayoshi_katz
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