ひらがなばかりでかくことに、どういういみがあるのか、じっさいにひらがなばかりでかいてみればわかるかもしれないというたんきゅうしんから……といえばきこえはいいが、かんじへんかんなどというめんどうなことをしなくていいから、というのがしんそうなのであった。
●ひらがなでかくことの《でめりっと》
なんといってもよみづらい。ともだちどうしでのめーるのやりとりなら、かってにしやがれ(かんとく/じゃん=りゅっく・ごだーる/ふらんす)だが、めんしきどころか、なまえもきいたことのないどくしゃからひらがなおんりーのめーるをもらったときは、さすがにあたまにきてぜんぶもーるすしんごうのへんじをかいてやった。というのはうそだ。
とくに、ふだんのかいわではつかわれないことばをひらがなでかくと、いっそうよみづらくなる。
たとえば「ひがのさ」などとかかれると、どこかのほうげんかとおもってしまう。「そりゃおめ、ひがのさぁ」「んだなぁ」なんてかいわがきこえてきそうだ。だから、ここはかんじで「彼我の差」とかけば、このかんようくをしらなくても、じぶんとあいてのさ、といういみであることがたちどころにわかるではないか。ひょういもじのべんりなところである。
ひらがなばかりのぶんしょうでとくにこまるのは、たんごがせんてんすのなかにまいぼつしてしまうことである。そのけっか「ぎなたよみ」がはっせいする。
▽「ぎなた読み」の由来[Wikipediaより]
「弁慶が、なぎなたを持って」と読むべきところを「弁慶がな、ぎなたを持って」と読むように、句切りを誤って読むこと。弁慶読みとも。
いくらなんでも、そんなよみまちがいするやつおらんやろ、とおもったが、ひとりいた。わたしだ。こどものころにがっこうで「ほたるのひかり」をうたうときはいつも、「ぞけさ」ってなんだろうとおもっていたのだが、これは「開けてぞ今朝は別れ行く」を「あけて/ぞけさはわかれゆく」とよんでいたのだった。
おりじなるのぎなたよみをつくってみた。
「こんどるすはだいじょうぶか」
・今度留守は大丈夫か
・コンドル素肌異常部下
ふう。これしかかんがえつかない。
●わかちがきにしてみる
おうべいのげんごは、たんごごとにすぺーすをいれるから、たんごがぶんのなかにまいぼつすることはない。にほんごのかきかたで、これにそうとうするのが「わかちがき」である。
わかちがきとは、「ぶんやぶんしょうをわかりやすくするため、ごとご、あるいはぶんせつとぶんせつのあいだをあけてかくこと。また、そのかきかた」とある。(だいじせん)
だから、どうしてもひらがなでかかなければならないじじょうがあるのなら、わかちがきで、たとえば こんなふうに ぶんせつ ごとに くぎれば かくだんに よみやすくなる。それでもまだ よみにくいのなら、ひんし ごと に わけて かく の も いい。いや それ でも よみ にくい と いう の なら い ち も じ ご と に わ け て も い い 。 た だ こ う す る と わ か ち が き の い み が な く な っ ち ゃ っ た り な ん か し て 。
●ひらがなでかくことの《めりっと》
「ひどい」「むごい」は「酷い」。「どれ」「いずれ」は「何れ」。「さいちゅう」「さなか」「もなか」は「最中」。「とげ」「いばら」は「棘」。
ちなみに、「あかぎれ」も「ひび」も「皹」もしくは「皸」とかくのだが、このふたつのかんじ、へんとつくりがいれかわっただけ。なぜこんなあんちょくなかんじがうまれたのだろうか。
「ぬるい」も「ぬくい」も「温い」とかく。「温かい」は「あたたかい」とよんでもらえるが、「温い(ぬるい)」も「あたたかい」とよまれてしまいそうで、いつも、つかうのをちゅうちょする。「温くなったビール」を「あたたかくなったビール」とよまれると、ほっとびーるのことだとごかいされかねない。
こういうときは、やはりひらがなをつかってかきわけるべきだが、そんなこといちいちいわれなくても、だれでもやっているのだろう。たぶん。
●ひらがなのこうせき
がいこくにりょこうをして、ああ、このくににきたのだな、とかんじさせてくれるさいだいのようそは、なんといってもそのくにのげんごだろう。
もう、にじゅうねんちかくまえのことだが、にゅーよーくにりょこうをした。はじめてのべいこくだったが、どちらをむいてもえいごばかり。ぜいかんのしょくいんまでえいごをはなすので、わたしは「こ、これは、まちがっておーすとらりあにきてしまったんじゃないのか?」とろうばいし、もうすこしで、にほんたいしかんにほごをもうしでるところだった。
まちをあるいて、えいごのかんばんばかりでは、そりゃだれだっておーすとらりあとまちがえるだろう。
がいこくじんりょこうしゃがにほんのまちをあるきながら、みせのかんばんにかんじがつかわれているのをみて、じぶんがちゅうごくにいるのかたいわんにいるのかわからなくなった、なんてはなしをきかないのは、ひらがながあるからである。
いっぽう、ちゅうごくにりょこうして、ちゅうごくごのかんばんをみて、じぶんがちゅうごくにいるのかほんこんにいるのかたいわんにいるのか、わけがわからなくなって、きがくるうがいこくじんがあとをたたない。
やはり、ひらがなはすばらしい。げんじものがたりだって、げんぶんはひらがなでかかれていたのだ。ひらがなだけでじゅうぶんだ。
【ながよしかつゆき/ぎぶんさっか】thereisaship@yahoo.co.jp
ここでのてきすとは、ぶろぐでも、ほぼどうじけいさいしています。
むめいげいにん < http://blog.goo.ne.jp/nagayoshi_katz
>
なんといってもよみづらい。ともだちどうしでのめーるのやりとりなら、かってにしやがれ(かんとく/じゃん=りゅっく・ごだーる/ふらんす)だが、めんしきどころか、なまえもきいたことのないどくしゃからひらがなおんりーのめーるをもらったときは、さすがにあたまにきてぜんぶもーるすしんごうのへんじをかいてやった。というのはうそだ。
とくに、ふだんのかいわではつかわれないことばをひらがなでかくと、いっそうよみづらくなる。
たとえば「ひがのさ」などとかかれると、どこかのほうげんかとおもってしまう。「そりゃおめ、ひがのさぁ」「んだなぁ」なんてかいわがきこえてきそうだ。だから、ここはかんじで「彼我の差」とかけば、このかんようくをしらなくても、じぶんとあいてのさ、といういみであることがたちどころにわかるではないか。ひょういもじのべんりなところである。
ひらがなばかりのぶんしょうでとくにこまるのは、たんごがせんてんすのなかにまいぼつしてしまうことである。そのけっか「ぎなたよみ」がはっせいする。
▽「ぎなた読み」の由来[Wikipediaより]
「弁慶が、なぎなたを持って」と読むべきところを「弁慶がな、ぎなたを持って」と読むように、句切りを誤って読むこと。弁慶読みとも。
いくらなんでも、そんなよみまちがいするやつおらんやろ、とおもったが、ひとりいた。わたしだ。こどものころにがっこうで「ほたるのひかり」をうたうときはいつも、「ぞけさ」ってなんだろうとおもっていたのだが、これは「開けてぞ今朝は別れ行く」を「あけて/ぞけさはわかれゆく」とよんでいたのだった。
おりじなるのぎなたよみをつくってみた。
「こんどるすはだいじょうぶか」
・今度留守は大丈夫か
・コンドル素肌異常部下
ふう。これしかかんがえつかない。
●わかちがきにしてみる
おうべいのげんごは、たんごごとにすぺーすをいれるから、たんごがぶんのなかにまいぼつすることはない。にほんごのかきかたで、これにそうとうするのが「わかちがき」である。
わかちがきとは、「ぶんやぶんしょうをわかりやすくするため、ごとご、あるいはぶんせつとぶんせつのあいだをあけてかくこと。また、そのかきかた」とある。(だいじせん)
だから、どうしてもひらがなでかかなければならないじじょうがあるのなら、わかちがきで、たとえば こんなふうに ぶんせつ ごとに くぎれば かくだんに よみやすくなる。それでもまだ よみにくいのなら、ひんし ごと に わけて かく の も いい。いや それ でも よみ にくい と いう の なら い ち も じ ご と に わ け て も い い 。 た だ こ う す る と わ か ち が き の い み が な く な っ ち ゃ っ た り な ん か し て 。
●ひらがなでかくことの《めりっと》
「ひどい」「むごい」は「酷い」。「どれ」「いずれ」は「何れ」。「さいちゅう」「さなか」「もなか」は「最中」。「とげ」「いばら」は「棘」。
ちなみに、「あかぎれ」も「ひび」も「皹」もしくは「皸」とかくのだが、このふたつのかんじ、へんとつくりがいれかわっただけ。なぜこんなあんちょくなかんじがうまれたのだろうか。
「ぬるい」も「ぬくい」も「温い」とかく。「温かい」は「あたたかい」とよんでもらえるが、「温い(ぬるい)」も「あたたかい」とよまれてしまいそうで、いつも、つかうのをちゅうちょする。「温くなったビール」を「あたたかくなったビール」とよまれると、ほっとびーるのことだとごかいされかねない。
こういうときは、やはりひらがなをつかってかきわけるべきだが、そんなこといちいちいわれなくても、だれでもやっているのだろう。たぶん。
●ひらがなのこうせき
がいこくにりょこうをして、ああ、このくににきたのだな、とかんじさせてくれるさいだいのようそは、なんといってもそのくにのげんごだろう。
もう、にじゅうねんちかくまえのことだが、にゅーよーくにりょこうをした。はじめてのべいこくだったが、どちらをむいてもえいごばかり。ぜいかんのしょくいんまでえいごをはなすので、わたしは「こ、これは、まちがっておーすとらりあにきてしまったんじゃないのか?」とろうばいし、もうすこしで、にほんたいしかんにほごをもうしでるところだった。
まちをあるいて、えいごのかんばんばかりでは、そりゃだれだっておーすとらりあとまちがえるだろう。
がいこくじんりょこうしゃがにほんのまちをあるきながら、みせのかんばんにかんじがつかわれているのをみて、じぶんがちゅうごくにいるのかたいわんにいるのかわからなくなった、なんてはなしをきかないのは、ひらがながあるからである。
いっぽう、ちゅうごくにりょこうして、ちゅうごくごのかんばんをみて、じぶんがちゅうごくにいるのかほんこんにいるのかたいわんにいるのか、わけがわからなくなって、きがくるうがいこくじんがあとをたたない。
やはり、ひらがなはすばらしい。げんじものがたりだって、げんぶんはひらがなでかかれていたのだ。ひらがなだけでじゅうぶんだ。
【ながよしかつゆき/ぎぶんさっか】thereisaship@yahoo.co.jp
ここでのてきすとは、ぶろぐでも、ほぼどうじけいさいしています。
むめいげいにん < http://blog.goo.ne.jp/nagayoshi_katz
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