先月58歳になった。57歳までは憚っていたが、これで吾輩はアラ還であると公言してもいいだろう。
50歳になった時、「50歳マニュアル」というコラムをデジクリに載せたが、それからもう8年にもなるのか。早い。早過ぎる。50過ぎてからは、8年も1年もあまり変わらないな。
50歳になった時、「50歳マニュアル」というコラムをデジクリに載せたが、それからもう8年にもなるのか。早い。早過ぎる。50過ぎてからは、8年も1年もあまり変わらないな。
ところでウナギという、にょろにょろした魚をご存知だろうか? 日本人ならみな土用の丑の日にはウナギを食べているはずだから、蒲焼きを思い浮かべれば、ウナギとはどのような魚なのか、あるていど想像がつくはずだ。
蒲焼きはどうでもいいのだが、ウナギは生殖がすんだらお役御免。あとはくたばるだけ。種のお役に立てなくなれば、従容として海の養分となり、水棲生物の仲間たちに恩返しをする。潔いではないか。
ところが人間はド厚かましいから、生殖能力がなくなっても、労働ができなくなっても、周囲の負担になってもノウノウと生きている。しかも、死んだあとも骸は棺に、遺骨は骨壷に収められて墓に入り、大地の養分になるのを拒否する。どこまで因業な生き物なのだろう。
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加齢による精神的および肉体的な衰えといえば、自分にもいろいろと思い当たる点があるが、最近とみに感じられるようになったのは気力の衰えだ。こいつに身を任してしまうと、ただでさえ怠慢な私は、月一のこのコラムすら書けなくなってしまうだろう。
かつては毎週コラムを掲載していた。しかも週に3〜4日の非常勤講師の仕事をこなし、自身の作品を制作そして発表しながらの寄稿だった。同じ自分とは思えない。当時は気力なんて意識していなかった。書いているのが楽しかったから書いていた。気力とは、それが衰えてきたときに初めて意識できるようになるものなのだろう。
スポーツ選手が引退会見で、気力の低下を引退の動機に挙げるのを何度も見ている。いわく「粘れなくなった」「負けても悔しいと思わなくなった」「優勝することへの執着がなくなった」など。
私も、かつて書いていたものと現在書いているものを比べると、粘性がなくなってきたような気がする。低カロリーで塩分控えめ、歯に負担のかからない、消化しやすい内容になっておりますので、ご高齢の方にも安心してお召し上がりいただけます。
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無名の作家が創作活動を続けるにはたいへんな気力が要る。なにしろ売れるかどうかわからないもののために膨大な時間と労力を費やすのだから。「継続は力なり」に希望の囁きを聴き取れるのは、せいぜい40代まで。60近い無名の貧乏作家にとって、それは溺れるものが掴む藁でしかない。
気力が衰えたというのと、やる気を失ったというのは違う。やる気はきっかけしだいで回復することができる。しかし気力の衰えは、体力の衰えに加えて本来の性向、人生観、生活環境などが作用しあって起こるものだから、冷水摩擦をしながら、精神一到何事か成らざらん! と唱えれば回復、というわけにゃいかんのだ。
だいたい、精神一到うんぬんは私の芸風にそぐわない。同世代人びとの心を希望の光で満たすようなことを書いて、読者を失望させるつもりは毛頭ない。
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『死にたくないが、生きたくもない。』(小浜逸郎著・幻冬舎新書)を読んだ。タイトルが気に入ったので買った。この本については、デジクリ編集長の柴田さんが以前、編集後記で紹介していたような記憶があったので検索してみたら、2007年4月23日号に載っていた。
7年前だから、柴田さんもアラ還だった頃だ。たぶん。そして、この本の著者も出版当時、アラ還(59歳)だった。
この本のタイトルはアラ還男性の心を共振させるような響きをもっているのかもしれない。私の心境にもっと近い表現をするなら、「死ぬのは怖いが、生きているのも面倒だ」といったあたりになるだろうか。
還暦を迎えると、60通りある干支のなかで、自分が生まれた年の干支(私は丙申=ひのえさる)と同じ干支に「還る」ことになる。だからまた赤ちゃんに還りまちょうね、というわけで、赤いちゃんちゃんこなんか着ちゃったりして祝っちゃったりするのだ。
しかし、60歳というのは、店をたたむ準備をするには早過ぎるが、店の拡張を計画するのもいささか億劫な年齢だ。そんな中途半端な年齢の前後にいるということが、アラ還世代を「死にたくないが、生きたくもない」心境にさせるのかもしれない。
この本の著者が推奨する、老いに逆らわない「枯れるよう」な死に方はまさに理想だが、やはり理想は理想だ。たとえ枯れていても生きている限りはお金が要るわけだから、私のように蓄えがなく身寄りもない人間は死ぬまで働くしかない。まだ箱の底にこびりついている気力の残滓をかきあつめるしかない。
だからといって、体力に頼る仕事はそろそろ限界。となると結局アレしかない。アレで食べていこうなんて無謀極まりないが、体力労働ができなくなったボンビーアラ還の私に残っているのはアレしかないことは、読者諸氏にもおわかりいただけるはずだ。
案外、アレがうまく行きそうだと思ったとたんに「もうしばらく死にたくない、できたら長生きしたい」に変わるかもしれない。
来年か再来年、アレが納得できる結果を出したら吹聴してまわるつもりだが、もしも失敗に終わった場合、それなりの覚悟はできている。そのときは、また皿洗いを始める所存である。
「死にたくないが、生きたくもない。」
< http://amzn.to/1hj9Lhu
>
「笑わない魚・50歳マニュアル」2006年
< https://bn.dgcr.com/archives/20060323000000.html
>
【ながよしかつゆき/戯文作家】thereisaship@yahoo.co.jp
『怒りのブドウ球菌』電子版 前後編 Kindleストアにて販売中!……「発売中」と書かないのは、「発売」とは「商品を売り出すこと」(デジタル大辞泉)だからです。「売り出す」を辞書でひくと、「売りはじめる」「新しい商品などを市場に出す」(同)とあるので、売りはじめてから(市場に出てから)すでに1年近く経っている拙著が「発売中」つまり「売りはじめ中」というのは適切ではないような気がして、無難に「販売中」にしました。
Kindleストア< http://amzn.to/ZoEP8e
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無名藝人< http://blog.goo.ne.jp/nagayoshi_katz
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蒲焼きはどうでもいいのだが、ウナギは生殖がすんだらお役御免。あとはくたばるだけ。種のお役に立てなくなれば、従容として海の養分となり、水棲生物の仲間たちに恩返しをする。潔いではないか。
ところが人間はド厚かましいから、生殖能力がなくなっても、労働ができなくなっても、周囲の負担になってもノウノウと生きている。しかも、死んだあとも骸は棺に、遺骨は骨壷に収められて墓に入り、大地の養分になるのを拒否する。どこまで因業な生き物なのだろう。
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加齢による精神的および肉体的な衰えといえば、自分にもいろいろと思い当たる点があるが、最近とみに感じられるようになったのは気力の衰えだ。こいつに身を任してしまうと、ただでさえ怠慢な私は、月一のこのコラムすら書けなくなってしまうだろう。
かつては毎週コラムを掲載していた。しかも週に3〜4日の非常勤講師の仕事をこなし、自身の作品を制作そして発表しながらの寄稿だった。同じ自分とは思えない。当時は気力なんて意識していなかった。書いているのが楽しかったから書いていた。気力とは、それが衰えてきたときに初めて意識できるようになるものなのだろう。
スポーツ選手が引退会見で、気力の低下を引退の動機に挙げるのを何度も見ている。いわく「粘れなくなった」「負けても悔しいと思わなくなった」「優勝することへの執着がなくなった」など。
私も、かつて書いていたものと現在書いているものを比べると、粘性がなくなってきたような気がする。低カロリーで塩分控えめ、歯に負担のかからない、消化しやすい内容になっておりますので、ご高齢の方にも安心してお召し上がりいただけます。
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無名の作家が創作活動を続けるにはたいへんな気力が要る。なにしろ売れるかどうかわからないもののために膨大な時間と労力を費やすのだから。「継続は力なり」に希望の囁きを聴き取れるのは、せいぜい40代まで。60近い無名の貧乏作家にとって、それは溺れるものが掴む藁でしかない。
気力が衰えたというのと、やる気を失ったというのは違う。やる気はきっかけしだいで回復することができる。しかし気力の衰えは、体力の衰えに加えて本来の性向、人生観、生活環境などが作用しあって起こるものだから、冷水摩擦をしながら、精神一到何事か成らざらん! と唱えれば回復、というわけにゃいかんのだ。
だいたい、精神一到うんぬんは私の芸風にそぐわない。同世代人びとの心を希望の光で満たすようなことを書いて、読者を失望させるつもりは毛頭ない。
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『死にたくないが、生きたくもない。』(小浜逸郎著・幻冬舎新書)を読んだ。タイトルが気に入ったので買った。この本については、デジクリ編集長の柴田さんが以前、編集後記で紹介していたような記憶があったので検索してみたら、2007年4月23日号に載っていた。
7年前だから、柴田さんもアラ還だった頃だ。たぶん。そして、この本の著者も出版当時、アラ還(59歳)だった。
この本のタイトルはアラ還男性の心を共振させるような響きをもっているのかもしれない。私の心境にもっと近い表現をするなら、「死ぬのは怖いが、生きているのも面倒だ」といったあたりになるだろうか。
還暦を迎えると、60通りある干支のなかで、自分が生まれた年の干支(私は丙申=ひのえさる)と同じ干支に「還る」ことになる。だからまた赤ちゃんに還りまちょうね、というわけで、赤いちゃんちゃんこなんか着ちゃったりして祝っちゃったりするのだ。
しかし、60歳というのは、店をたたむ準備をするには早過ぎるが、店の拡張を計画するのもいささか億劫な年齢だ。そんな中途半端な年齢の前後にいるということが、アラ還世代を「死にたくないが、生きたくもない」心境にさせるのかもしれない。
この本の著者が推奨する、老いに逆らわない「枯れるよう」な死に方はまさに理想だが、やはり理想は理想だ。たとえ枯れていても生きている限りはお金が要るわけだから、私のように蓄えがなく身寄りもない人間は死ぬまで働くしかない。まだ箱の底にこびりついている気力の残滓をかきあつめるしかない。
だからといって、体力に頼る仕事はそろそろ限界。となると結局アレしかない。アレで食べていこうなんて無謀極まりないが、体力労働ができなくなったボンビーアラ還の私に残っているのはアレしかないことは、読者諸氏にもおわかりいただけるはずだ。
案外、アレがうまく行きそうだと思ったとたんに「もうしばらく死にたくない、できたら長生きしたい」に変わるかもしれない。
来年か再来年、アレが納得できる結果を出したら吹聴してまわるつもりだが、もしも失敗に終わった場合、それなりの覚悟はできている。そのときは、また皿洗いを始める所存である。
「死にたくないが、生きたくもない。」
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「笑わない魚・50歳マニュアル」2006年
< https://bn.dgcr.com/archives/20060323000000.html
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【ながよしかつゆき/戯文作家】thereisaship@yahoo.co.jp
『怒りのブドウ球菌』電子版 前後編 Kindleストアにて販売中!……「発売中」と書かないのは、「発売」とは「商品を売り出すこと」(デジタル大辞泉)だからです。「売り出す」を辞書でひくと、「売りはじめる」「新しい商品などを市場に出す」(同)とあるので、売りはじめてから(市場に出てから)すでに1年近く経っている拙著が「発売中」つまり「売りはじめ中」というのは適切ではないような気がして、無難に「販売中」にしました。
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