私症説[65]自分が忘れたものくらい自分で思い出せよ、まったく
── 永吉克之 ──

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眼に見えて物忘れがひどくなった。脳細胞がプチプチという音を立てて弾けているのが聞こえる。特に酒を飲んでいる最中はプチプチのテンポが早くなる。

自宅の電話番号がしばらくのあいだ思い出せなくなったことがあった。その場にへたりこんでしまいそうになるほどの衝撃だったが、まあ、独り者だから自宅に電話をすることもないし、連絡先を聞かれたら携帯電話の番号を伝えることにしているので、そりゃ誰だって忘れるさ、と力づくで自分を納得させた。




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自然の摂理だからどうしようもないが、記憶力の衰えを緩やかにすることはできるらしい。私は、思い出せない人名地名や作品のタイトル(おもに「名前」が思い出せなくなる)などは、ググったりせずに、何日かかってもいいから自力で思い出すことにしている。これは「自助想起」(いま思いついた造語)と神経科学の専門家の間では呼ばれている。

以下は、一日以上かけて思い出した名前である。正解は伏せておく。記憶力に自信を喪失している御同輩に私と同じ絶望を味わって、暗澹たる思いに浸っていただきたいからだ。

1. 原発で働く父親とその家族を描いたアメコミのタイトル。
2. フランスの元大統領で、大相撲ファンの親日家。
3. パキスタン初の女性首相。自爆テロで暗殺された。
4. 日本の作曲家。安部公房原作『砂の女』などの映画音楽を担当。
5. 「ペギースー」のヒットで有名なアメリカのロッカー。

ちなみに、いまチャレンジしているのは、私の母の長兄の三人姉妹の末っ子、つまり従姉妹(いとこ)の名前。かれこれ半年以上頑張っているのに頭文字も思い出せない。だから多分、そんな従姉妹はいないのだろう。

そこで私は、《従姉妹んにゃく》というダジャレを思いついたのだが、それがどんなコンニャクなのかまでは、さしもの私の想像力も及ばなかった。

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アメリカの映画監督の名前を思い出すのにも手を焼いた、というか頭を焼いた。彼の監督した『シザーハンズ』も『エド・ウッド』も『チャーリーとチョコレート工場』も観たし、それらに主演したジョニー・デップの名前も瞬時に思い出したのに。

おかしなもので、当人の顔形や関係者など周辺的なものはアレコレ思い出せるのに、それらが、肝心の名前を思い出すきっかけになってくれないのである。

「何だったっけなあ。ファーストネームが、ジャックだったような......いやデイヴィッドだっけな? ああもう、喉まで出かかってるんだけどなあ」

煩悶しながら4〜5日経ったころ、仕事帰りのバスのなかで、ぼんやりと、夜の大阪港を照らす無数のライトの星団が窓外を走り去るのを眺めていたら、いきなり薬玉でも割れたように、ポンと、その映画監督の名前が飛び出てきた。ジャックでもデイヴィッドでもなかった。

これは、作品のアイディアが閃くのに似ている。何日も何日ものたうち回り、脳漿がカラカラに乾いてしまうほど脳味噌を搾っても、これだと思えるアイディアが出てこない。

考えるのに疲れて、いつのまにか忘れていたら、台所でキャベツを千切りにしているときに、誰かが囁いたかのように、いきなり思いつくのである。

滲み出すようにジワジワではなくて、やにわに、出し抜けに、不意に、唐突に、地雷を踏んだように思いつく(思い出す)のである。場所も時間も関係ない。

▼でものはれものところきらわず【出物腫れ物所嫌わず】
屁(へ)も腫(は)れ物も場所・場合に関係なく出るということ。
──大辞泉より

忘れていたものを思い出す、アイディアが浮かぶ、屁や腫れ物が出る。これらの現象が起きるのには、同じホルモンが作用しているものと思われる。

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自宅のあるマンションに出入りしている清掃業者が、毎年カレンダーをくれるのだが、そのカレンダーがドアに画鋲で張ってあるのに気づいて、一瞬、業者がご親切にも家に忍び込んで張ってくれたのかと思った。

張った人間がいるとすれば私しかいない。しかし、張った記憶がまったくないのである。

・業者が住居侵入して張った。
・自分が張ったのだが、その記憶が失われている。

どちらかというと、まだ前者の方が受け入れやすい。

飲むと簡単に記憶を失くすのは、自他ともに認める私の魅力だが、酔っていながら、カレンダーをドアに張るような高度な技術の持ち主ではないことも自他ともに認めるところである。

やはり、自分で張っておきながら、その記憶をすっかり失っているのだ。ああ、死にたい。

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話は逸れるが、私の家の壁やドアはカレンダーだらけだ。しかもそれぞれ年が違う。2015年、2014年、2013年、2011年、2008年、そして1997年。

カレンダーのコレクションをしているわけではないのだが、べつに邪魔にもならないので、そのままにしていたら、こうなったというだけのことだ。

カレンダーといえば、今年のは..................あれれ? 何を書こうとしていたのか忘れた。ちょっとお待ちいただきたい。

(6日が経過)

......だめだ。思い出せない。こいつはバカウケ、グランドスラムだと思ったのに......もの凄く面白かったのに......もう呼吸困難で窒息死するんじゃないかと思うくらい大笑いしたのに......。

それを忘れちまったんだぞ! だから、いつも言ってるじゃないか。何か思いついたら、すぐにメモをしなきゃダメなんだよ! 書いてる途中でTwitterを見たりなんかするから忘れるんだ!

『先生の愛した数式』読んだろ......『博士の恋した数式』だっけか? まあとにかく読んだろ? 80分で記憶が消えてしまう数学者だったか天文学者だったかが、聞いた話や起こったことをメモにして身体じゅうに貼り付けて、なんとか周囲のひとびととの絆を維持しようとする小説。小川なんとかという女性の作者だ。思い出したか? お前もそのくらいの努力をしろよな。

それが映画化されて......ええと、なんて名前だったっけ。『ルビーの指輪』を歌ってた人で、黒澤映画にもよく出ていたんだけど、その俳優が博士の役をやってたな。それと、博士の家に派遣される家政婦を樋口可南子がやってて、いいキャスティングだったと思うよ、あの映画。

あ、そうだ。博士とどういう関係にあるのか忘れたけど、かつての日活の大スターだった女優がなにかの役をやってたな。たしか『男はつまらないよ』シリーズでマドンナを演じてたんだよね。そう、石坂浩二と夫婦だったんだ。まだ夫婦かどうか知らないけど。

あ、違った。樋口可南子は『明日への記憶』の、若年性アルツハイマーと闘う主人公を献身的に支える妻の役だ。じゃ『博士の愛した葬式』の家政婦を演じた若い女優は誰なんだ。たしか「津」の字がついたと思う。津川雅彦じゃなくて、宇津井健じゃなくて、島津斉彬じゃなくて(みんな男やんか。しかもひとりは幕末の薩摩藩主やし)。

そういや『明日への記憶』で、若年性アルツハイマーに冒される役をやった男優は、なんつったっけ? 『ロストサムライ』に出てた、ハリウッドでも評価されてる俳優だよ。『硫黄島からの便り』で主役をやってた。あ、役所広司だ。そうだそうだ役所広司!

よし、記憶が鮮明になってきたぞ。

そうそう!『博士の愛した葬式』で家政婦を演じた、名前に「津」のつく女優は、財津一郎だった。

古いところでは『てなもんや三度笠』にも出演して人気を博した財津一郎だが、最近では、♪ピアノ売ってチョ〜ダ〜イ でしかその姿を見ることができなくなった。コメディアン出身だが、芝居も歌も巧く、一括りにはできない才能をもった人だ。個人的には、もっとも復帰を望んでいる女優のひとりである。

【ながよしかつゆき/戯文作家】thereisaship@yahoo.co.jp
ここでのテキストは、ブログにも「ほぼ」同時掲載しています。
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筆者は50歳前後で独身の貧乏アーティスト、元専門学校講師。デジタルアートの作品展で、彼の作品自体の妙なところに加えてその解説がやたらおもしろかったため、「日刊デジタルクリエイターズ」編集長から芸術についておもしろおかしいエッセイを書いてみないかと誘われる。

連載当初の数回は比較的まともだったが、徐々に独特の確信犯的思いこみエッセイに変身、その妙なおもしろさが爆発的な人気を呼び、本人も文筆の才能を開花(?)ますます不条理な世界を突っ走っている。

不自然なまでに誇張された表現、真実だかフィクションだか判別しがたい話、あたかも人生の本質であるかのように装っているが実は空疎な話、一行で済む話を何十行にまで水増しして書く根性、針小棒大。

内容は、芸術、人生、社会、言語などと分類できないこともないが、そもそもあまり意味のない内容なので、全部ごちゃまぜにして上・下各26編を掲載。それぞれタイトル下に、不条理イラストを添付。また個展などで発表した作品も20点ほど収録、そのタイトルと解説もじつに独特な世界。

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