《感情に賞味期限などなかった》
■ローマでmanga[93]
mangaセミナーと「天才的な企画」
midori
■メグマガ[06]
恋は鮮度が命
こいぬまめぐみ
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mangaセミナーと「天才的な企画」
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恋は鮮度が命
こいぬまめぐみ
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■ローマでmanga[93]
mangaセミナーと「天才的な企画」
midori
https://bn.dgcr.com/archives/20160129140200.html
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年が改まって最初のテキストになります。私の周辺のマンガ事情を通して、とくにmangaとの融合、イタリア人のmangaとの関わりなどを柱におしゃべりしていきます。
Scuola Internazionale Di Comics(国際コミックス学校)で、2016年度の私のセミナーが始まった。単に「manga・セミナー」と呼んでいたのを「manga構築法セミナー」と名称を改めて二年目だ。
名称は大事だ。名は体を表すのだから当然すぎるほど当然。「mangaセミナー」という名前だと、特にイタリアで広く読まれているジャンプ系、りぼん系のmangaの描き方のセミナーというニュアンスを与えるらしい。
つまり、「お目目ぱっちりであり、忍者やなんとか波で敵を倒す特殊能力の話だったり」が意味するところとなる。
実技として短編を作ってもらうわけだが、私がいくら「絵柄は問わない」、「ファンタジーは君たちにはまだ扱いきれないからやめてね」と言っても、セミナーに参加を決めた時点で「NARUTO」が頭に一杯になっているので、どうしても下手な二番煎じしか出てこない。
話はちょっと横道にそれて、その二番煎じにまつわって、多くの生徒が作品のテーマにファンタジーやSFを選ぶのはなぜか、という考察に行ってみる。
●若さという経験不足
学校の生徒はおおむね若い。5年制の高校を終えてすぐだと18歳から19歳。セミナーに来るのはたいてい一年生なので年代的には20歳前後の生徒が多い。
中にはコールセンターなどでアルバイトをして、学費を稼ぎながら通う生徒もいるが、ほとんどが親がかりだ。つまり、まだまだ狭い世間で生きている。
現実社会での困難に出会っていない。もちろん、それなりに困難や問題があるにはあるに違いない。でもそれは社会生活で出会うほど多様ではないし、細かくない。
例えば、税金の申告漏れがあったとか、ローンの支払に問題が出て銀行と話さなくちゃ……ということはあまりない。
学校生活で嫌なやつがいたら避ければいいが、仕事の上司やチームだったら避けられない、とか。自分のやりたいことは二の次にして育児をするとか。炊事をするとか。
社会生活とは対人関係、お役所関係、様々な書類、法律、規則の世界だ。自分の都合を横へ置いとくことを、余儀なくされたりもする世界だ。
その世界の中で否応なく、彼我の問題への対応の仕方とか、反応の仕方とか、細かくも深いところを見るようになる。
早い話が、義務の数が多くなるのが社会生活だ。親に養ってもらい、学校という世間の風から守られた温室の中では、細かい深いものの見方に至らない。もちろん、例えば音楽にハマるとか、ゲームにハマるとかで、すごく細かく深く知識を得たりする場合もあるけれど、そういう意味ではない。
別の言葉で言うと、社会生活=義務と規則の世界=人様との付き合いの世界では人間への興味を持たざるを得なくなる。
私も年を取れば取るほど、人様の反応の仕方(言葉使いとか)に興味が行って、さらに日常というものを面白く見るようになったけれど、若い頃は日常とはつまらないものでしかなかった。
日常生活に興味が持てなければ、夢の方へ行くしかない。この世でない場所へ行くしかない……ということではなかろうか。
そして、自分の中から「これを語りたい」「これを伝えたい」というものが出てくるのに、多くの人は人生経験が必要ということなのだろう。
●「manga構築法セミナー」
では、manga構築法セミナーだ。物事を人様に教えるに当って、私がこのセミナーで言いたいことはなんなのか、をまずわかってもらう必要がある。
セミナーを受けようという側と私の方で食い違うと、受ける人は困惑したりがっかりしたりする。
私は私が言いたいことが何なのか、方向がわかりきっているので、セミナーを開催した当初はそれを怠ってしまった。
mangaという言葉が入るし、例として生徒に見せる画像はmangaなので、微妙に私の言いたいことがずれて到達することが多々あったのではないかと思う。
なぜそう思うかというと、セミナーの一日目はクラス一杯に参加者が集まり(30人ぐらい)、回を重ねるごとに半減、半減して行って最後には4人から5人になることが多かったからだ。
つまり、課題をやる時間を削ってまで参加をし続けようという気にならなかったわけだ。最後まで残る学生に共通していたのは、学校に来る前から絵を描くのが好きで、自分でもストーリーを作ったことがある、ということ。
つまり、作品制作の経験を持った人には私が意図するところが伝わり、そうでないと伝わらなかったということだ。
学校のコミックス科は作画家を育てるところであり、それは市場がそれを要求するからだ。ストーリーを作る人、絵を描く人、彩色をする人がいて一つの作品にするのが普通なのだ。
mangaは一人で全部やるのを前提としている。だからセミナーでは物語の基本などもやる。物語ることを面白がってもらわないと困る。
mangaセミナーから「manga構築法セミナー」に名を変えてから、授業の最初に言うことを決めた。
「私は作家ではありません。ここでは絵の描き方の講義はありません。登場人物の感情を表現するためにはどうしたらいいかを講義します」
セミナーの名前を見て決める参加者も、おおよそわかって参加してきているので、話が通じやすくなる。
●「天才的な企画」の宣伝効果
一昨年から、クラスがふたつになった。それまでは午後3時からの一クラスが私の受け持ちだった。人数が増えたというよりも、学校の方針として希望者を全員詰め込んでしまうのではなく、一クラスを15人ほどに抑えて講義を聴きやすくした結果だ。二クラスで30人というのは、これまでの出発当初とほぼ同じ人数だから。
昨年は二クラス合計で最後まで残ったのが10人ほどだから、これまでよりは打率が良い。名を変えたおかげで、私自身も何を伝えるべきか、どう伝えるべきかがやっとはっきりしてきて、生徒にも伝わった結果とも言える。
今年はそれがなんと三クラスになった。参加者は計45人ほど。
名前を変えた、Facebookで特設ページを作った、ということの他に効果があった一件がある。「天才的な企画」だ。
11月20日配信のデジクリに書いたのだけど、「実績を作りましょ、と学校の原作家と作画家に呼びかけて企画を立ち上げた。題して「天才的な企画」。
原作家のストーリーを元に、私がMANGA構築法を使ったネームを作る。バリバリにヨーロッパ風の作風を持つ作画家が原稿を描く。
「MANGAの構築法とイタリアの才を合わせた新しいマンガ」をさっさと作ってしまおうというわけだ。なんでもっと早く思いつかなかったんだろう」というこの企画だ。
この企画に作家として参加している人が、「創作の考え方」というセミナーと「電子ブック製作法」というセミナーを持っている。
つまり、コンタクトをとっている生徒数が多い。そして私のセミナーより先に出発している。この人が「manga構築法」というものや、「天才的な企画」についてしゃべるらしい。
それが宣伝効果抜群で、私のセミナーの参加希望者が増えたわけだ。三クラスにまとめて募集を締め切った後、なお、まだ希望者の打診があるという。
大盛況! と言いつつ、初回は希望届けを出したにもかかわらず、欠席した生徒が10人ほどいた。二度目はどうなるかね。
「天才的な企画」に関しては、イタリアのさる出版社に打診したところ気に入って出版してくれることになった。さらに今月のフランス・アングレーム国際漫画祭へ持って行って、フランスの出版社に打診する。
https://goo.gl/m1LhSU
出版されるということは、manga界でネームという名のストーリーボードの演出いかんで登場人物の感情に重きを置くことができ、それが読者の登場人物に感情移入して行けるmangaであり、mangaと他の形態のマンガは融合できることを証明することになる。
なんとなくmangaっぽい目が若干大きめな明らかな表情、とか、斜めのコマ割、だけがmanga表現ではないことを世間に知らせることができる。
ある言葉を学習するのに、幼いころからその環境の中に住んで学習する場合は「なんとなく」覚えていく。成長してから別の言語を学習するには、ある程度文法を学習したほうが効果が高い。
mangaを読む学生でも、メンタリティがイタリアなので、作ってくる作品はどうしてもキャラの行動を追っていく作品になってしまう。
manga構築法は文法に当たる。三クラスになったセミナーがイタリアで新しいマンガを作るお役に立てることを切に願う、2016年の出発なのであった。
【Midori/マンガ家/MANGA構築法講師】midorigo@mac.com
上の奥歯の鈍痛に押され歯医者に通うことになった。昔々、騙されて(?)扁桃腺をザクっと切られてから、口の中で何か作業されるのはトラウマになった。
そもそも歯医者が好きっていう人はいないと思うけど。そのせいで、虫歯になっても、もうこれ以上は我慢できないとなるまで、親に言わず進行させてしまって、奥歯は全部大きな詰め物がある。
診察の結果、治療が必要な歯が四本。カプセルを被せる必要があるのが二本。
先日、初の治療に行ってきた。歳のせいで歯茎が後退し、エナメル質がない部分が出てしまっている三本に人口エナメルを施す治療をした。その治療にも歯垢をとったりで、あのキィィィィィィンというミニドリルを使わねばならなかった。
私が怖がるので麻酔をしてくれて、全作業は15分ほどで完了。冗談を言ったり、何をするのかちゃんと説明をしてくれる先生で安心できる。
患者の椅子にしろ、無影灯にしろ、ずいぶん進化してるのね。椅子には小さなスクリーンがついていて、診察の時に撮った口内のレントゲンを表示し、また、奥の見にくいところは小さなカメラがついたスティック状のものを差し込んで、そのスクリーンに映し出す。テクノロジーばんざい。
MangaBox 縦スクロールマンガ 「私の小さな家」
https://www-indies.mangabox.me/episode/32604/
主に料理の写真を載せたブログを書いてます。
http://midoroma.blog87.fc2.com/
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■メグマガ[06]
恋は鮮度が命
こいぬまめぐみ
https://bn.dgcr.com/archives/20160129140100.html
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以前、「生ものですので、お早めにお召し上がりください」という記事を書いたとき、それを読んでくださった方々からたくさんの意見や感想をいただいた。嬉しかった反面、あの記事を読んだという人に会うたびに、内心ではどう思っているのだろうかと勝手に想像して、少し胸を痛めていた。
「こいぬまは今はこうして楽しそうに笑ったりしているけど、でも別れて数時間でも経とうものなら、その感情も忘れてなかったことになっちゃうんでしょ。それって、人と会うモチベーションはどこから来るの?」
あれ以来、人と会うたびに感じる若干の後ろめたさも手伝って、記事を書き終えてからも、感情の賞味期限についてずっと考え続けてきた。
そんな最中に受けた大学での講義内容に、自身の体験をなぞらえてみたとき、そこに体系的な言葉が並走して、それらが私の頭の中で組み合わさって動き出した気がした。
感情に賞味期限などなかったのである。今回はそのことについて、講義内容に触れながら分析していこうと思う。
「身体の社会学」という講義は、われわれの「身体」は、全き「自然」の状態ではなく、「社会的なさまざまな力」によって方向づけられたり、形作られたりしているものであるとした上で、今日の身体のありようをさまざまな事例から明らかにしていくという内容であった。
その中でも、アイデンティティについて言及した回で、社会的なアイデンティティは、「分人」という概念に似ているというという考え方を知る。これは、平野啓一郎氏の「私とは何か 『個人』から『分人』へ」(2012、講談社)という著書の中での、「分人主義」に基づく思想である。
この思想は、人間の基本単位を考え直すものである。「(もうこれ以上)分けられない」という意味を持つ、individual(インディヴィジュアル)という英単語は、日本語では「個人」と訳されるが、最小単位としての「個人」にさらに細分化した「分人」という新しい単位を与え、人間を「分けられる」存在と見なす。
人間には、いくつもの顔があり、「分人」とは、対人ごとに存在するさまざまな自分のことである。恋人との自分、両親との自分、職場での自分、趣味仲間との自分……それらは必ずしも同じではないはずだ。
だからといって、他者と共存することは、「本当の自分」と「表面的な自分」を使い分けて、ときに「ニセモノの自分」を生きるということを肯定しているのではない。
そもそも、自分の中の核となるたった一つの「本当の自分」などというものは存在せず、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」であるという考え方である。
私という人間は、対人関係ごとのいくつかの分人によって構成されている。目の前の相手によって、それぞれ異なった分人を招喚させ、相手との反復的なコミュニケーションや環境の変化、新たな出会いを通じて、自分の中に形成されていく分人はカスタマイズされ、その構成比率は日々更新されていくという。
さて、この考え方を用いて「感情の賞味期限問題」を見ていこう。
彼と別れた直後、息を切らして終電に飛び乗った私は、数分前に何が自分を嬉しい気持ちにさせたのかを忘れてしまう。感情が揺さぶられる出来事が起こって、その後それとは関係のない何か別の行為や出来事が挟まると、それまでに抱いていた感情を忘れてしまうのだ。
忘れてしまうというより、リセットされてしまうと言った方が適切かもしれない。私はそれを「感情の賞味期限」と名付け、こういう感情を抱いたという「事実」は思い出すことはできても、抱いたそのときと同じくらいの鮮度で「感情」を思い出すことはできないことを、さも自分だけが体験している感覚であるかのように思い悩んでいた。
しかし、この感覚は、例の「分人主義」の思想を用いて考えてみると、至極真っ当なことであった。そして、おそらくこれは、何も私だけに限った感覚ではないはずだ。
上に登場する彼と改札で別れる直前まで、私の中には「彼とのコミュニケーションに特化した分人」がいた。「彼向けの分人」を生きていた、と言った方がわかりやすいかもしれない。
そして終電間際の改札で、別れ際の彼の一言は「彼向けの分人」の私を嬉しくさせた。そして終電に飛び乗った私は、数分前に何が自分を嬉しい気持ちにさせたのかを忘れてしまう。
そのときに私の内部ではどんな変化が起きていたかというと、彼と別れた後の私の中では、「彼向けの分人」は活動休止状態になる。
そしてそこへ、「終電向けの分人」(分人化は人以外にも起こり得る)が突如現れ、これまで「彼向けの分人」が支配していた領域まで、一時的に構成比率が増大する。それくらい、終電を乗り逃すまいと必死だったのだろう。
そして、終電に乗るという目的が達成した瞬間、「終電向けの分人」は萎んでいく。しかし、その緩急激しい分人の展開に脳の処理スピードが追いつかなかったため、直前の記憶が一時的に掻き消されてしまったのではないだろうか。
だからといって、「彼向けの分人」までもがいなくなってしまうわけではない。その証拠に、彼と次に会ったとき、私は自己紹介から始めるなどということはせず、また「彼向けの分人」を呼び起こし、前に会ったときの続きのような感覚で接することができるだろう。
しかし、数分前に自分を嬉しい気持ちにさせた何かは、もう思い出されることはないのかというと、そうではない。しかしそれは、自分一人だけで思い出すことは困難だろう。
なぜならば、私という存在は、ポツンと孤独に独立して存在しているわけではない。常に他者との相互作用の中にあるからだ。これは、記憶論の視点からも、同じことが言われている。
被爆体験の伝承を題材に、ある「社会」に共有された「社会的記憶」が次世代へと受け継がれていくメカニズムを学んだ「記憶と歴史の社会学」という講義で、アルヴァックスという人は「集合的記憶論」の中で、個人による思い出すという行為には、必ず他者やものからの刺激、あるいは助けが介在すると定義していた。
ここでいう、他者やものからの刺激とは、他でもない「彼向けの分人」と、それに付随するものである。それは、彼とのやりとりを文脈をたどって思い返すことで「彼向けの分人」を再び自分の中に呼び起こすことかもしれないし、「今日はありがとう」という彼からのLINEのメッセージかもしれない。
その分人にならなければ思い出せない文脈の感情がある。分人というのは、他者が存在しなければ発生もしないし、維持もできない。絶えず相手とのコミュニケーションを通じて更新され続け、鮮度を保ち続けている。
これらの考察から、「感情の賞味期限問題」は次のような結論に達した。
端から、感情には賞味期限などなかったのだ。そして、感情が揺さぶられる出来事が起こって、その後それとは関係のない何か別の行為や出来事が挟まると、それまでに抱いていた感情を忘れてしまう、リセットされてしまうというのは、感情が揺さぶられた出来事が起こったときの分人に再びなれない限りは、こういう感情を抱いたという「事実」は思い出すことはできても、抱いたそのときと同じくらいの鮮度で「感情」を思い出すことはできないだろう。
なぜならば、私たちの自己というものは、常に他者との相互作用の中でのみ存在しているからだ。その感情を抱いた分人を生きる私になることができれば、賞味期限などは関係なく、再びその感情に近いものに浸れるのではないかというのが、私が出した答えである。
終電間際の改札、別れ際の彼の一言は私を嬉しくさせた。彼に手を振った私は改札を抜け、電光掲示板の最終電車の発車時刻に目線を移す。
──あと1分。
少しだけサイズの大きいパンプスが踵から抜けないように気遣いながら、階段を駆け下りる。電車のまもなくの発車を告げるメロディーが耳に入る。階段からいちばん近いところで開くドアに駆け込もうと思ったその瞬間。右腕を掴まれた私は、後ろを振り返る。
「間に合った」
私たちをホームへ残した電車は、終点へ向けて発車した。俯いた彼は肩を上下させ、乱れた息を整える。ふと顔を上げた彼と目が合った瞬間、頭の中で嬉しさがこみ上げてくる。
──あれ、私いま何で急いでたんだっけ。
【こいぬまめぐみ】
Facebook: こいぬまめぐみ
Twitter: @curewakame
BLOG: http://koinuma-megumi.hateblo.jp/
武蔵大学社会学部メディア社会学科在学中。宣伝会議コピーライター養成講座108期。現在、はてなブログ「インターフォンショッキング」にて、「おもしろい人に自分よりおもしろいと思う友だちを紹介してもらったら、13人目には誰に会えるのか」を検証中。
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編集後記(01/29)
●すさまじく読後感がよくない「ルポ老人地獄」を読んでしまった(文春新書、朝日新聞経済部、2015)。朝日新聞がまた偏向したことを書いて〜ではなく、みごとなルポであり、その内容が前期高齢者であるわたしにとっても、恐ろしい現実であったからだ。2014年1月13日から15年3月30日まで、朝日の経済面を中心に連載された「報われぬ国 負担増の先には」がもとになっている。日本の社会保障などの仕組みは、消費増税や公的保険の保険料値上げなどの負担増に見合うものなのか、現場からの報告をもとに検証している。いまここにある「2025年問題」。10年後は団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になる。
下層化する老人たち、カネなし家なし人手なし 八方ふさがりの老人介護、老人ビジネスに群がる社会福祉法人、医療・年金制度は崩壊している、老後の沙汰はカネ次第 でいいのか……恐ろしい章立てである。目次を見るだけで気がめいる。「報われぬ国」と朝日がどこか嬉しそうに書いているが、高齢者が置かれている現状は、まさしくその通りなのだ。いま多くの老人たちが悲惨な環境にある。10年後はもっとひどい状態になるのは間違いない。けっして貧困層の問題ではない。介護や医療が必要になったとき、よほどのカネが出せなければ快適な生活は遅れないのが現実だ。老後の安心はカネ次第、間違いない。
受験地獄、通勤地獄、住宅ローン地獄に苦しんだ団塊の世代は、人生の終盤でも地獄が待っている。だが、じっさいは2015年どころか、現在進行形なのが老人地獄であった。医療、介護、福祉など高齢者を取り巻く現場はいま、恐ろしいことになっている。一部の法人が介護や福祉を食い物にしている現実、貧困高齢者に対する自治体の非情、介護職員や看護師などの賃金や労働時間などの待遇の劣悪さ、驚きとともに怒りがこみあげる。介護職を一般より10万円は低い賃金に抑えこんでいる現実をみると、経済大国・中国に対する莫大なODA供与などは即刻やめろと言いたい。介護職こそ超高給にすべきだと思う。
そんなイヤな現実を忘れさせてくれたのが(←皮肉)、エッセイスト・玉村豊男の「隠居志願」であった(新潮文庫、2015)。長野県東御市でワイナリーとカフェレストランを経営するセレブ老人。前期高齢者になったのを機に「世間の渦中から一歩離れて、好きなときに好きなことを少しだけやり、死ぬまでの時間をできるだけふつうに淡々と過ごす、そんな隠居に私はなりたい」というお方で、「老後の安心はカネ次第」をみごとに実証している。新聞連載をまとめた文庫で、毒にも薬にもならないエッセイ集だが、さすがは暮らしの達人と褒める人もいる。50点を超えるカラー植物画は素敵。画家でもあった。 (柴田)
朝日新聞経済部「ルポ老人地獄」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4166610562/dgcrcom-22/
玉村豊男「隠居志願」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101297061/dgcrcom-22/
●仕事中のBGM続き。多少好みの音楽から外れてしまっても構わない。カフェに行って好きなBGMじゃないからと店を変えるほどのこだわりがなければ。私にはないので、リラックスしすぎず、昼っぽいものがいい。
あ、あと乗りすぎない、意識しなくて済むジャンル。ジャズやボサノバのマニアとか、ピアノの音に敏感な人とかは別のジャンルを探してくださいっ。お琴で和カフェの雰囲気にしたいとか、アジアンでエスニックカフェにしたいとか。
音楽じゃなくて環境音がいいという人は「雑音」「雑音 BGM」「環境音」で検索したら、雨の音や雑踏、波の音やカフェの雑音が出てくるよ。「雑音 図書館」もあった。静かすぎて私には向いてなかった(笑)。
ホワイトノイズを含めた環境音アプリをいくつか持っているけれど、Youtubeで聞けるならいらないわと、端末からリストラできたよ。環境音の場合はスマホから出すことにこだわらず、スピーカーの性能も上げた方がいいように思う。集中しはじめるとどうでも良くなるけど。 (hammer.mule)
意外と良かった幹線道路。
駅改札口も。仕事用だと自然音より良かった。リラックスしすぎないからかな。
空港の案内板のパタパタ音やプリンターの音、広い空間に響くのが好き。アナウンスや人の声が入ってるけど意外と気にならない。
電車の音もいいよ。「走行音」で検索。長時間のものを。私は気持ち良くて寝そうになった(笑)。車両で全然音が違うのね。普段使う路線、通勤電車なら帰宅方向がおすすめ!(笑)
試験会場。