以前、「生ものですので、お早めにお召し上がりください」という記事を書いたとき、それを読んでくださった方々からたくさんの意見や感想をいただいた。嬉しかった反面、あの記事を読んだという人に会うたびに、内心ではどう思っているのだろうかと勝手に想像して、少し胸を痛めていた。
「こいぬまは今はこうして楽しそうに笑ったりしているけど、でも別れて数時間でも経とうものなら、その感情も忘れてなかったことになっちゃうんでしょ。それって、人と会うモチベーションはどこから来るの?」
あれ以来、人と会うたびに感じる若干の後ろめたさも手伝って、記事を書き終えてからも、感情の賞味期限についてずっと考え続けてきた。
そんな最中に受けた大学での講義内容に、自身の体験をなぞらえてみたとき、そこに体系的な言葉が並走して、それらが私の頭の中で組み合わさって動き出した気がした。
感情に賞味期限などなかったのである。今回はそのことについて、講義内容に触れながら分析していこうと思う。
「身体の社会学」という講義は、われわれの「身体」は、全き「自然」の状態ではなく、「社会的なさまざまな力」によって方向づけられたり、形作られたりしているものであるとした上で、今日の身体のありようをさまざまな事例から明らかにしていくという内容であった。
その中でも、アイデンティティについて言及した回で、社会的なアイデンティティは、「分人」という概念に似ているというという考え方を知る。これは、平野啓一郎氏の「私とは何か 『個人』から『分人』へ」(2012、講談社)という著書の中での、「分人主義」に基づく思想である。
この思想は、人間の基本単位を考え直すものである。「(もうこれ以上)分けられない」という意味を持つ、individual(インディヴィジュアル)という英単語は、日本語では「個人」と訳されるが、最小単位としての「個人」にさらに細分化した「分人」という新しい単位を与え、人間を「分けられる」存在と見なす。
人間には、いくつもの顔があり、「分人」とは、対人ごとに存在するさまざまな自分のことである。恋人との自分、両親との自分、職場での自分、趣味仲間との自分……それらは必ずしも同じではないはずだ。
だからといって、他者と共存することは、「本当の自分」と「表面的な自分」を使い分けて、ときに「ニセモノの自分」を生きるということを肯定しているのではない。
そもそも、自分の中の核となるたった一つの「本当の自分」などというものは存在せず、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」であるという考え方である。
私という人間は、対人関係ごとのいくつかの分人によって構成されている。目の前の相手によって、それぞれ異なった分人を招喚させ、相手との反復的なコミュニケーションや環境の変化、新たな出会いを通じて、自分の中に形成されていく分人はカスタマイズされ、その構成比率は日々更新されていくという。
さて、この考え方を用いて「感情の賞味期限問題」を見ていこう。
彼と別れた直後、息を切らして終電に飛び乗った私は、数分前に何が自分を嬉しい気持ちにさせたのかを忘れてしまう。感情が揺さぶられる出来事が起こって、その後それとは関係のない何か別の行為や出来事が挟まると、それまでに抱いていた感情を忘れてしまうのだ。
忘れてしまうというより、リセットされてしまうと言った方が適切かもしれない。私はそれを「感情の賞味期限」と名付け、こういう感情を抱いたという「事実」は思い出すことはできても、抱いたそのときと同じくらいの鮮度で「感情」を思い出すことはできないことを、さも自分だけが体験している感覚であるかのように思い悩んでいた。
しかし、この感覚は、例の「分人主義」の思想を用いて考えてみると、至極真っ当なことであった。そして、おそらくこれは、何も私だけに限った感覚ではないはずだ。
上に登場する彼と改札で別れる直前まで、私の中には「彼とのコミュニケーションに特化した分人」がいた。「彼向けの分人」を生きていた、と言った方がわかりやすいかもしれない。
そして終電間際の改札で、別れ際の彼の一言は「彼向けの分人」の私を嬉しくさせた。そして終電に飛び乗った私は、数分前に何が自分を嬉しい気持ちにさせたのかを忘れてしまう。
そのときに私の内部ではどんな変化が起きていたかというと、彼と別れた後の私の中では、「彼向けの分人」は活動休止状態になる。
そしてそこへ、「終電向けの分人」(分人化は人以外にも起こり得る)が突如現れ、これまで「彼向けの分人」が支配していた領域まで、一時的に構成比率が増大する。それくらい、終電を乗り逃すまいと必死だったのだろう。
そして、終電に乗るという目的が達成した瞬間、「終電向けの分人」は萎んでいく。しかし、その緩急激しい分人の展開に脳の処理スピードが追いつかなかったため、直前の記憶が一時的に掻き消されてしまったのではないだろうか。
だからといって、「彼向けの分人」までもがいなくなってしまうわけではない。その証拠に、彼と次に会ったとき、私は自己紹介から始めるなどということはせず、また「彼向けの分人」を呼び起こし、前に会ったときの続きのような感覚で接することができるだろう。
しかし、数分前に自分を嬉しい気持ちにさせた何かは、もう思い出されることはないのかというと、そうではない。しかしそれは、自分一人だけで思い出すことは困難だろう。
なぜならば、私という存在は、ポツンと孤独に独立して存在しているわけではない。常に他者との相互作用の中にあるからだ。これは、記憶論の視点からも、同じことが言われている。
被爆体験の伝承を題材に、ある「社会」に共有された「社会的記憶」が次世代へと受け継がれていくメカニズムを学んだ「記憶と歴史の社会学」という講義で、アルヴァックスという人は「集合的記憶論」の中で、個人による思い出すという行為には、必ず他者やものからの刺激、あるいは助けが介在すると定義していた。
ここでいう、他者やものからの刺激とは、他でもない「彼向けの分人」と、それに付随するものである。それは、彼とのやりとりを文脈をたどって思い返すことで「彼向けの分人」を再び自分の中に呼び起こすことかもしれないし、「今日はありがとう」という彼からのLINEのメッセージかもしれない。
その分人にならなければ思い出せない文脈の感情がある。分人というのは、他者が存在しなければ発生もしないし、維持もできない。絶えず相手とのコミュニケーションを通じて更新され続け、鮮度を保ち続けている。
これらの考察から、「感情の賞味期限問題」は次のような結論に達した。
端から、感情には賞味期限などなかったのだ。そして、感情が揺さぶられる出来事が起こって、その後それとは関係のない何か別の行為や出来事が挟まると、それまでに抱いていた感情を忘れてしまう、リセットされてしまうというのは、感情が揺さぶられた出来事が起こったときの分人に再びなれない限りは、こういう感情を抱いたという「事実」は思い出すことはできても、抱いたそのときと同じくらいの鮮度で「感情」を思い出すことはできないだろう。
なぜならば、私たちの自己というものは、常に他者との相互作用の中でのみ存在しているからだ。その感情を抱いた分人を生きる私になることができれば、賞味期限などは関係なく、再びその感情に近いものに浸れるのではないかというのが、私が出した答えである。
終電間際の改札、別れ際の彼の一言は私を嬉しくさせた。彼に手を振った私は改札を抜け、電光掲示板の最終電車の発車時刻に目線を移す。
──あと1分。
少しだけサイズの大きいパンプスが踵から抜けないように気遣いながら、階段を駆け下りる。電車のまもなくの発車を告げるメロディーが耳に入る。階段からいちばん近いところで開くドアに駆け込もうと思ったその瞬間。右腕を掴まれた私は、後ろを振り返る。
「間に合った」
私たちをホームへ残した電車は、終点へ向けて発車した。俯いた彼は肩を上下させ、乱れた息を整える。ふと顔を上げた彼と目が合った瞬間、頭の中で嬉しさがこみ上げてくる。
──あれ、私いま何で急いでたんだっけ。
【こいぬまめぐみ】
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武蔵大学社会学部メディア社会学科在学中。宣伝会議コピーライター養成講座108期。現在、はてなブログ「インターフォンショッキング」にて、「おもしろい人に自分よりおもしろいと思う友だちを紹介してもらったら、13人目には誰に会えるのか」を検証中。