《正しいやり方でWebサービスを使うこと》
■ゆずみそ単語帳[04]
欲望の新しい名前
TOMOZO
■グラフィック薄氷大魔王[491]
「完全スクエア液晶」他、小ネタ集
吉井 宏
■ゆずみそ単語帳[04]
欲望の新しい名前
TOMOZO
■グラフィック薄氷大魔王[491]
「完全スクエア液晶」他、小ネタ集
吉井 宏
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■ゆずみそ単語帳[04]
欲望の新しい名前
TOMOZO
https://bn.dgcr.com/archives/20160928140200.html
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「desire」という英単語をポジティブに日本語に訳すのが難しい。
たとえば高級リゾートホテルやスパの宣伝などにも、desireという言葉はさらっと使われていたりする。
これを「あなたの欲望のすべてを満たす贅沢なスパ体験」なんて日本語にしてしまったら、なんだかやたらにギラギラした、方向性の異なる施設のように聞こえてしまう。
この場合は「欲求」でも「願望」でも「希望」でも、ヘンである。
『リーダーズ英和辞典』の訳語は
(n)欲望、欲求、…心(欲)、好み、性欲、情欲、希望、願望、要求、要請、望みのもの。
この中では「望み」というのが一番穏当な日本語ではあるが、望みという言葉はお行儀がよくて、淡白でよそよそしい印象がある。
えーと、だめなら別にいいんですけど……と、最初から少しあきらめ気味な感じでもある。
その点desireは切実で、それが実現しないといてもたってもいられないのである。そういえば中年以上の皆様にはなつかしい中森明菜のdesireには、「情熱」というサブタイトルがついていた。熱いのである。
desireの兄弟にgreedというのがある。
『リーダーズ』ではgreedは
(特に富・利得に対する)意地汚い欲望、貪欲、強欲。2.食い意地、大食。と説明されている。
Oxford英英辞典では
desireは
A strong feeling of wanting to have something or wishing for something to happen
(何かを手に入れたいと欲する、または何かが起こることを願う、強い感情)とあり、
greedは
Intense and selfish desire for something, especially wealth, power, or food
(特に富や力、食物に対する烈しく、身勝手な欲望)とある。
desireとgreedの違いは、「身勝手」であるかどうかのようだ。
自分やまわりを傷つけることに頓着せず、欲求だけに盲目になっている状態がgreed。たとえば『千と千尋の神隠し』のカオナシは、迷えるgreedの権化でしたね。
「おいしいご飯が食べたい」と、心の底から願う気持ちがdesireであるのに対して、greedには、まわりの人が飢えていても自分の穀物倉に食料を貯め続けるとか、人の手からオニギリを奪って食べるとか、あるいはもうお腹がいっぱいなのに飽き足らずご馳走を目の間に並べてしまうとか、そういう前提がある。
desireが暴走した状態がgreedなのだといえる。
greedといえば、映画『ウォール街』(1987年)でマイケル・ダグラスが演じるゴードン・ゲッコーのセリフが有名だ。
The point is, ladies and gentleman, that greed ─ for lack of a better word ─ is good. Greed is right. Greed works. Greed clarifies, cuts through, and captures the essence of the evolutionary spirit. Greed, in all of its forms ─ greed for life, for money, for love, knowledge ─ has marked the upward surge of mankind. And greed ─ you mark my words ─ will not only save Teldar Paper, but that other malfunctioning corporation called the USA.
「いいですか、皆さん。他にもっと良い言葉がないのでgreedと呼ぶが、greedは善いものです。greedは正しい。greedは物事をうまく回らせ、はっきりさせ、道を拓き、前進する精神のエッセンスを表している。あらゆる形のgreed、生命や金や愛や知識に対するgreedが、人類を進歩させてきたのです。Greedは、この会社を救うだけではなく、アメリカ合衆国という、この機能不全の組織をも救うのです」
この臆面もない欲望礼賛のスピーチは、観客をはっとさせ、この人物の狂気スレスレで回っている自信とパワーをものすごくよく代弁して、80年代映画を代表する名セリフの一つにもなった。
日本語字幕でこのgreedがどう訳されたのか気になるところ。「貪欲さ」かな。いずれにしても、greedというネガティブな言葉が表すところの、普通なら眉をひそめるべきなりふり構わない自分勝手で迷惑な力を全面的に肯定したところに、このセリフの破壊力があった。
オリバー・ストーン監督の意図とはうらはらに、ゲッコーに心酔してしまった観客も多かったという。
ゲッコーはもちろん、desireとgreedをすり替えている。
これがdesireだったらごく当たり前のスピーチであって、ちっとも衝撃的ではないのだ。
こうありたい、こうなりたい、もっと知りたい、もっと速く動きたい、もっと遠くへ行きたい、もっと美しくなりたい、もっと美しいものが作りたい、あの人と一緒にいたい、これが食べたい。生きていたい。……というような強い望みは、すべてdesireである。
desireは、人がなにかをする原動力だ。人間だけではなくて、どの生きものにも備わっている、根源的な力なのだと思う。
植物が土と水さえあれば根を張ってどんどん葉をのばしていくのをみていると、生命活動というのはすなわち、desireそのものなのだと思わされる。
Desireがgreedに変わるのは、リソースを奪い合う他の個体との軋轢による。
ほかの木を枯らしても自分の場所を確保しようとする植物は、人間の目に強欲にうつる。
たらふく食べたいという願望が心にあるだけの間は平和だが、一つしかないオニギリを飢えた子どもたちと分け合わねばならないとなったら、そこには人がgreedにおちいる舞台が用意されている。
西洋社会、とくにアメリカでは、明らかにgreed(強欲)に陥っていない限り、desire(素直な欲求、欲望、望み)はデフォルトで礼賛されている。
ゲッコーのスピーチのgreedをdesireに変えれば、たとえば教会の牧師さんが日曜の礼拝で言っても不思議ではない。
「わたしたちはこのように切実な願いを持っている。このdesireが神の目にかなうものなのであれば、神はわたしたちを祝福してくださるでしょう」というように。
西へ西へと国土を広げてきたアメリカという国では、たぶんほかの西洋諸国よりもずっとこの傾向が強いのだ思う。
だだっ広い大平原に出かけていって家を建て、畑をつくり、街を築くには、強いdesireが必要だ。
それはもちろん、そこにもとから住んでいた先住民にとっては大変迷惑なことではあったが。
そのようにして道を切りひらき、成功した人をアメリカは手放しで讃えるし、たぶん多くのアメリカ人にとっては「自分のしたいことを追求するあまり、ちょっとばかり人の迷惑になってる人」と「desireがないように見える人」を比べたら、ちょっとくらい迷惑である人のほうに強く共感できるのではないだろうか。
desireがないというのはつまり、ちゃんと生きていないということ、という考え方なのだ。
それに対して日本語では、desire的な状況がかなり蔑視されている気がする。
これには仏教と儒教の影響があるのだと思う。
この世の苦しみから自由になることにフォーカスしている仏教では、「欲」は基本、真実の平安へと至る道の障害物として取り扱われる。
儒教はよく知らないけど、たぶん個人の欲望とはあまり互換性がない教えではないかと思われる。
かといって、日本にdesireのニーズがないわけではもちろんないので、そのニーズを受け止めてくれるのは八百万の神様たちであろう。
苦しいときに救いを求めて祈る対象は仏でも、個人的なdesireを聞き届けてもらいたいと願う先は、あちらこちらの神社の神様や、あるいは仏教にとりこまれた眷属たちでなければならない。
仏様のところにそんな願いを持っていっても、「まだわかってないね。万物は空なのだよ」とやんわり諌められてしまうに違いない気がするからだ。
日本では長いこと、仏教と儒教と、あらゆる場所にいるいろいろな神様に役割分担がふられてきた。
desire部門はおもに神様たちの担当だったけれど、そこに体系的な教義のバックアップはなくて、どちらかというとアドホック的なご担当だったと思う。
権力を持つインテリ層のほとんどは、仏教か儒教の勉強をしている人びとだったので、日本人の精神生活の中ではdesire的な状況は蔑まれる傾向にあったのではないか、なんて思う。
欲などはしょせん知恵や修行の足りない大衆のものだったのだ。庶民文化ではもちろん欲望が全開で花開いていたけれど、それも仏教や儒教が上に控えてフタをされていたために、ちょっと面白いねじ曲がり方をしてるんだと思う。
日本文化の中にデフォルトで入っている、ホンネとタテマエのこの二重構造はとても面白い。
言葉は文化が作るもので、その中で生活する人びとはその文化と言葉の影響を受ける。そして言葉は、何百世代にもわたって受け継がれている集合的な記憶と知識のあらわれでもある。
いまから千年後にまだ日本語を話す文化があれば、そこではdesire的な状況を示す日本語はもっと楽観的で気さくなものになっているような気がする。
【TOMOZO】 yuzuwords11@gmail.com
米国シアトル在住の英日翻訳者。在米そろそろ20年。
マーケティングや広告、雑誌記事などの翻訳を主にやってます。
http://livinginnw.blogspot.jp/
http://www.yuzuwords.com/
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■グラフィック薄氷大魔王[491]
「完全スクエア液晶」他、小ネタ集
吉井 宏
https://bn.dgcr.com/archives/20160928140100.html
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●完全スクエア液晶
以前ちょっと話題になってた完全正方形の液晶ディスプレイ、EIZO FlexScan EV2730Qの実物をたまたま見れた。
http://www.eizo.co.jp/products/lcd/ev2730q/index.html
本当に正方形なので思わず吹き出してしまう。そして見たことのない広さに驚く。フルHDの長辺だけの1920×1920。掛け算してみたら、シネマディスプレイなどのQHD(2,560×1,440)と画素数は同一。Webなど縦位置の制作物が多い人にはピッタリだろうなあ。
僕的には、ペンタブの範囲設定が狭くなってしまうため、描画含む作業には不向き。資料を表示しておいたり、Web閲覧にはよさそうだけど。
こういうのはピッタリな使い道を見つけて必需品になっていくんだろうけど、正方形ディスプレイが現状EIZOのこの製品しかない、ってのはやはり不安。
同様にLGやDellなどから出てる超横長ディスプレイも使ってみたいんだけど、やっぱペンタブでは操作範囲が極端に狭くなるのが弱点。
http://gigazine.net/news/20150106-dell-u3415w/
完全正方形ではなくワイドでもない、事務仕事に使うようなディスプレイが「スクエア液晶」として売られてるけど、売り場で見るたびにギョッとする。
以前のブラウン管のCRTはだいたいこの比率だったのに。今のワイド液晶が横長すぎるのに慣れちゃってる。ワイド液晶を縦位置で使うとバカみたいに細長くてびっくりする。
そういえば、「2001年宇宙の旅」に出てくるディスプレイは正方形だった。
●WACOMドライバの不具合?
ペンタブで操作してる時にキーボードショートカットを使うと、タイミングが一瞬遅れたり、再度キーを押さないと元に戻らなかったりする。
Photoshopだけじゃなく、Finderでウインドウをクリックしもアクティブにできなかったり、MODOでタブを選べなかったり。「キーーーッ!」ってなってた。Facebookでも何人もが同じトラブルに困ってる人がいる模様。
例えば、Spaceを押して手のひらツールでスクロールし、そのまま続けてcommand+Spaceで拡大するとき、手のひらツールのままになる。または、投げ縄ツールで選択した範囲をcommand押して移動しようとすると、投げ縄ツールのままになる、など。
素早く操作するためのショートカットで引っかかるとすごいストレス。
マウスで同じ操作しても問題無し、どのマシンでもどのペンタブでも起きるってことは、ペンタブのドライバが怪しい。
先週入れたドライバ、「WACOMタブレットドライバ Macintosh V6.3.17-5Jxmi for Mac OS X(7月29日更新の最新版)」を削除して再インストールしても同じ症状。あらためて削除してから一つ前のバージョン「V6.3.15-3Jxmi」にしたら、不具合は起きなくなった。(と思うけど、また同じ症状が出たら報告します)
心配なのは新MacOS、Sierraでどうなるか。
・SierraはScanSnapで問題が起きるそうで、しばらく入れられなさそう。
https://www.pfu.fujitsu.com/imaging/news/news20160914.html
●正しいやり方でWebサービスを使うこと
あなたは解読できる? 若者はインスタのハッシュタグをこう使う
http://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1606/19/news007.html
ハッシュタグを使うことで、思いがけないところまで拡散する効果があるらしい。そうやって想定外の使い方が発見されて、一つの文化みたいなものにまでなるのはよくある話。
いやしかし、本来のハッシュタグとして使ってる人、ハッシュタグで検索したい人にとっては、めちゃくちゃ迷惑なノイズになるんじゃないか?
1995年頃、ニフティの絵風蔵フォーラムに入りたての頃、ひとつの話題に対してコメントを続けていくやり方をテキトーにやってたら、すごい怒られた。パソコン通信のルールというか、システムにちゃんと乗っかるための正しいやり方でやってくれないと、他の人全員が迷惑する! とのことで。
Twitterの正しい使い方ではなかった「引用リツイート」が問題視されてたのも記憶に新しい。引用RTは本家も認めて機能に組み入れたのだった。
パソコン通信みたいにもともとある程度詳しい人が使う前提のものじゃなく、使い方やルールとか気にしない人たちが使う前提のサービスでないといけなくなってるんだろう。正しい使い方を気にする時代は終わってるのかも?
【吉井 宏/イラストレーター】
HP http://www.yoshii.com
Blog http://yoshii-blog.blogspot.com/
マカロニウエスタンDVDコレクション、ようやく5本目の「さすらいのガンマン」を見終わったところなんだけど。ラストで映っちゃいけないものが思いっきり映ってるんだけど、これって知られてるミスだよねえ? 検索しても出てこないんだけど。
・ショップジャパンのキャラクター「WOWくん」
https://shopjapan.com/wow_kun/
・パリの老舗百貨店Printemps 150周年記念マスコット「ROSEちゃん」
http://departmentstoreparis.printemps.com/news/w/150ans-41500
・rinkakインタビュー記事
『キャラクターは、ギリギリの要素で見せたい』吉井宏さん
https://www.rinkak.com/creatorsvoice/hiroshiyoshii
・rinkakの3Dプリント作品ショップ
https://www.rinkak.com/jp/shop/hiroshiyoshii
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編集後記(09/28)
●遠藤周作が自著で率直に不快感を述べているのが「生きざま」である。[私の知る限り「死にざま」という言葉は昔あったが、「生きざま」という言葉は日本語になかったと思う。だから「生きざま」なる言葉をテレビで聞くとオヤッと思う。そしてやがて「生きざま」という美しくない日本語が新しい国語辞典に掲載されることを憂えてしまう。そんな言葉は美しくないからだ。(遠藤周作「変わるものと変わらぬもの」)]。「ざま」は「ざまをみろ」などというように、人の失敗などを嘲ることばとして、古くから使われていたから、今でも抵抗感を抱く人は少なくない。わたしも大嫌いな言葉の上位に置く。
ところが「生きざま」を徹底的に擁護したのが三省堂「新明解」第四版だった。[いきざま【生きざま】その人の、人間性をまざまざと示した生活態度。「ざま」は、「様」の連濁現象によるもので、「ざまを見ろ」の「ざま」とは意味が違い、悪い寓意は全く無い。一部の人が、上記の理由でこの語をいやがるのは、全く謂われが無い]とある。そうだったのか、考えを改めまする。このことを佐々木健一「辞書になった男 ケンボー先生と山田先生」で知った(文春文庫、2016)。この本は、国民的辞書、三省堂「明解国語辞典」をともに作ってきた二人の編纂者がなぜ決別し、なぜ二つの辞書が生まれたかの謎に迫る。
見坊豪紀と山田忠雄、二人の編纂者の情熱と相克の物語は「ケンボー先生と山田先生〜辞書に人生を捧げた二人の男〜」と題して、2013年4月29日にNHK-BSプレミアムで放送された。そのドキュメンタリー番組の企画・制作過程での取材内容に、新たな証言や検証を加えて構成したのが本書である。日本を代表する二冊の辞書「三省堂国語辞典」「新明解国語辞典」の誕生と進化を追い、この二冊の編纂者である見坊豪紀(国語学者にして稀代の天才辞書編纂者)と山田忠雄(国語学者にして反骨の鬼才辞書編纂者)いう超人の実像を露わにする、まさしくミステリーといっていい組立で、知的興奮を堪能できる好著だ。
ケンボー先生は「ことばは、音もなく変わる」と言い、山田先生は「ことばは不自由な伝達手段である」と言う。「客観」VS「主観」、「短文」VS「長文」、「かがみ」VS「文明批評」、対立しながら互いに存在感を放ち屹立する。二人が残した国語辞典から、何万ということばの中から、二人の関係や心情の手がかりを探し出すという、恐るべき思い込みのアプローチ。そして辞書の中から発見した恐るべき事実。「新明解」に載る奇妙な記述の意味とは。まさに「字引は小説より奇なり」が次々と。面白い! というわたしは国語・漢和・古語の辞書を中学生の孫に押しつけ、専らネットに依存するたわけ者だ。 (柴田)
佐々木健一「辞書になった男 ケンボー先生と山田先生」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167906856/dgcrcom-22/
●「desire」のニュアンスは勉強になった。「greed」な人をしんどいと思っていて、desireも同様のギラギラしたものだと。欲についての考察にも頷く。欲しいものを我慢して(隠して)生きるのが美徳みたいなところあったよね?
正方形モニタいいな〜。資料を並べられるのがいい。ってツインモニタにすればいいのか……。/インスタのハッシュタグは、チャットの時のひとりごとコメントタグ(プログラミングの時のコメントタグ)だと思ってます……。突っ込まれる前に、ハッシュタグで予防しているなぁと。これに沿ったコメントつけてねって言われているような気がしますわ。
人のプログラムの修正を頼まれて、コメントつけて目印ついでに発散する時あります(「//なんでここれにこれ入れたの? ここは○○でしょ」「//難しすぎる〜。つまりここで××になるわけで〜」など)。もちろん納品前には削除しますが。されることもあると思います(笑)。
「ざま」を「ざまぁ」だと思って読んだことないです。「しにざま」「いきざま」は美意識のことだと。「ざまぁ見ろ」って使わないし、耳にしないからかな。漫画やドラマで、悪役が使う言葉。謙虚な言葉にも思える。「ざまぁねぇや」という主人公がいたり。
アメージングモデルエキスポ続き。先週の吉井さんの後記を読んで驚いた。吉井さんが怪物屋さんとお話されていたなんて! 怪物屋さん、昨年火事に遭われてニュースになっていましたよ〜。私は2014年まで知りませんでした。 (hammer.mule)
■ゆずみそ単語帳[04]
欲望の新しい名前
TOMOZO
https://bn.dgcr.com/archives/20160928140200.html
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「desire」という英単語をポジティブに日本語に訳すのが難しい。
たとえば高級リゾートホテルやスパの宣伝などにも、desireという言葉はさらっと使われていたりする。
これを「あなたの欲望のすべてを満たす贅沢なスパ体験」なんて日本語にしてしまったら、なんだかやたらにギラギラした、方向性の異なる施設のように聞こえてしまう。
この場合は「欲求」でも「願望」でも「希望」でも、ヘンである。
『リーダーズ英和辞典』の訳語は
(n)欲望、欲求、…心(欲)、好み、性欲、情欲、希望、願望、要求、要請、望みのもの。
この中では「望み」というのが一番穏当な日本語ではあるが、望みという言葉はお行儀がよくて、淡白でよそよそしい印象がある。
えーと、だめなら別にいいんですけど……と、最初から少しあきらめ気味な感じでもある。
その点desireは切実で、それが実現しないといてもたってもいられないのである。そういえば中年以上の皆様にはなつかしい中森明菜のdesireには、「情熱」というサブタイトルがついていた。熱いのである。
desireの兄弟にgreedというのがある。
『リーダーズ』ではgreedは
(特に富・利得に対する)意地汚い欲望、貪欲、強欲。2.食い意地、大食。と説明されている。
Oxford英英辞典では
desireは
A strong feeling of wanting to have something or wishing for something to happen
(何かを手に入れたいと欲する、または何かが起こることを願う、強い感情)とあり、
greedは
Intense and selfish desire for something, especially wealth, power, or food
(特に富や力、食物に対する烈しく、身勝手な欲望)とある。
desireとgreedの違いは、「身勝手」であるかどうかのようだ。
自分やまわりを傷つけることに頓着せず、欲求だけに盲目になっている状態がgreed。たとえば『千と千尋の神隠し』のカオナシは、迷えるgreedの権化でしたね。
「おいしいご飯が食べたい」と、心の底から願う気持ちがdesireであるのに対して、greedには、まわりの人が飢えていても自分の穀物倉に食料を貯め続けるとか、人の手からオニギリを奪って食べるとか、あるいはもうお腹がいっぱいなのに飽き足らずご馳走を目の間に並べてしまうとか、そういう前提がある。
desireが暴走した状態がgreedなのだといえる。
greedといえば、映画『ウォール街』(1987年)でマイケル・ダグラスが演じるゴードン・ゲッコーのセリフが有名だ。
The point is, ladies and gentleman, that greed ─ for lack of a better word ─ is good. Greed is right. Greed works. Greed clarifies, cuts through, and captures the essence of the evolutionary spirit. Greed, in all of its forms ─ greed for life, for money, for love, knowledge ─ has marked the upward surge of mankind. And greed ─ you mark my words ─ will not only save Teldar Paper, but that other malfunctioning corporation called the USA.
「いいですか、皆さん。他にもっと良い言葉がないのでgreedと呼ぶが、greedは善いものです。greedは正しい。greedは物事をうまく回らせ、はっきりさせ、道を拓き、前進する精神のエッセンスを表している。あらゆる形のgreed、生命や金や愛や知識に対するgreedが、人類を進歩させてきたのです。Greedは、この会社を救うだけではなく、アメリカ合衆国という、この機能不全の組織をも救うのです」
この臆面もない欲望礼賛のスピーチは、観客をはっとさせ、この人物の狂気スレスレで回っている自信とパワーをものすごくよく代弁して、80年代映画を代表する名セリフの一つにもなった。
日本語字幕でこのgreedがどう訳されたのか気になるところ。「貪欲さ」かな。いずれにしても、greedというネガティブな言葉が表すところの、普通なら眉をひそめるべきなりふり構わない自分勝手で迷惑な力を全面的に肯定したところに、このセリフの破壊力があった。
オリバー・ストーン監督の意図とはうらはらに、ゲッコーに心酔してしまった観客も多かったという。
ゲッコーはもちろん、desireとgreedをすり替えている。
これがdesireだったらごく当たり前のスピーチであって、ちっとも衝撃的ではないのだ。
こうありたい、こうなりたい、もっと知りたい、もっと速く動きたい、もっと遠くへ行きたい、もっと美しくなりたい、もっと美しいものが作りたい、あの人と一緒にいたい、これが食べたい。生きていたい。……というような強い望みは、すべてdesireである。
desireは、人がなにかをする原動力だ。人間だけではなくて、どの生きものにも備わっている、根源的な力なのだと思う。
植物が土と水さえあれば根を張ってどんどん葉をのばしていくのをみていると、生命活動というのはすなわち、desireそのものなのだと思わされる。
Desireがgreedに変わるのは、リソースを奪い合う他の個体との軋轢による。
ほかの木を枯らしても自分の場所を確保しようとする植物は、人間の目に強欲にうつる。
たらふく食べたいという願望が心にあるだけの間は平和だが、一つしかないオニギリを飢えた子どもたちと分け合わねばならないとなったら、そこには人がgreedにおちいる舞台が用意されている。
西洋社会、とくにアメリカでは、明らかにgreed(強欲)に陥っていない限り、desire(素直な欲求、欲望、望み)はデフォルトで礼賛されている。
ゲッコーのスピーチのgreedをdesireに変えれば、たとえば教会の牧師さんが日曜の礼拝で言っても不思議ではない。
「わたしたちはこのように切実な願いを持っている。このdesireが神の目にかなうものなのであれば、神はわたしたちを祝福してくださるでしょう」というように。
西へ西へと国土を広げてきたアメリカという国では、たぶんほかの西洋諸国よりもずっとこの傾向が強いのだ思う。
だだっ広い大平原に出かけていって家を建て、畑をつくり、街を築くには、強いdesireが必要だ。
それはもちろん、そこにもとから住んでいた先住民にとっては大変迷惑なことではあったが。
そのようにして道を切りひらき、成功した人をアメリカは手放しで讃えるし、たぶん多くのアメリカ人にとっては「自分のしたいことを追求するあまり、ちょっとばかり人の迷惑になってる人」と「desireがないように見える人」を比べたら、ちょっとくらい迷惑である人のほうに強く共感できるのではないだろうか。
desireがないというのはつまり、ちゃんと生きていないということ、という考え方なのだ。
それに対して日本語では、desire的な状況がかなり蔑視されている気がする。
これには仏教と儒教の影響があるのだと思う。
この世の苦しみから自由になることにフォーカスしている仏教では、「欲」は基本、真実の平安へと至る道の障害物として取り扱われる。
儒教はよく知らないけど、たぶん個人の欲望とはあまり互換性がない教えではないかと思われる。
かといって、日本にdesireのニーズがないわけではもちろんないので、そのニーズを受け止めてくれるのは八百万の神様たちであろう。
苦しいときに救いを求めて祈る対象は仏でも、個人的なdesireを聞き届けてもらいたいと願う先は、あちらこちらの神社の神様や、あるいは仏教にとりこまれた眷属たちでなければならない。
仏様のところにそんな願いを持っていっても、「まだわかってないね。万物は空なのだよ」とやんわり諌められてしまうに違いない気がするからだ。
日本では長いこと、仏教と儒教と、あらゆる場所にいるいろいろな神様に役割分担がふられてきた。
desire部門はおもに神様たちの担当だったけれど、そこに体系的な教義のバックアップはなくて、どちらかというとアドホック的なご担当だったと思う。
権力を持つインテリ層のほとんどは、仏教か儒教の勉強をしている人びとだったので、日本人の精神生活の中ではdesire的な状況は蔑まれる傾向にあったのではないか、なんて思う。
欲などはしょせん知恵や修行の足りない大衆のものだったのだ。庶民文化ではもちろん欲望が全開で花開いていたけれど、それも仏教や儒教が上に控えてフタをされていたために、ちょっと面白いねじ曲がり方をしてるんだと思う。
日本文化の中にデフォルトで入っている、ホンネとタテマエのこの二重構造はとても面白い。
言葉は文化が作るもので、その中で生活する人びとはその文化と言葉の影響を受ける。そして言葉は、何百世代にもわたって受け継がれている集合的な記憶と知識のあらわれでもある。
いまから千年後にまだ日本語を話す文化があれば、そこではdesire的な状況を示す日本語はもっと楽観的で気さくなものになっているような気がする。
【TOMOZO】 yuzuwords11@gmail.com
米国シアトル在住の英日翻訳者。在米そろそろ20年。
マーケティングや広告、雑誌記事などの翻訳を主にやってます。
http://livinginnw.blogspot.jp/
http://www.yuzuwords.com/
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■グラフィック薄氷大魔王[491]
「完全スクエア液晶」他、小ネタ集
吉井 宏
https://bn.dgcr.com/archives/20160928140100.html
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●完全スクエア液晶
以前ちょっと話題になってた完全正方形の液晶ディスプレイ、EIZO FlexScan EV2730Qの実物をたまたま見れた。
http://www.eizo.co.jp/products/lcd/ev2730q/index.html
本当に正方形なので思わず吹き出してしまう。そして見たことのない広さに驚く。フルHDの長辺だけの1920×1920。掛け算してみたら、シネマディスプレイなどのQHD(2,560×1,440)と画素数は同一。Webなど縦位置の制作物が多い人にはピッタリだろうなあ。
僕的には、ペンタブの範囲設定が狭くなってしまうため、描画含む作業には不向き。資料を表示しておいたり、Web閲覧にはよさそうだけど。
こういうのはピッタリな使い道を見つけて必需品になっていくんだろうけど、正方形ディスプレイが現状EIZOのこの製品しかない、ってのはやはり不安。
同様にLGやDellなどから出てる超横長ディスプレイも使ってみたいんだけど、やっぱペンタブでは操作範囲が極端に狭くなるのが弱点。
http://gigazine.net/news/20150106-dell-u3415w/
完全正方形ではなくワイドでもない、事務仕事に使うようなディスプレイが「スクエア液晶」として売られてるけど、売り場で見るたびにギョッとする。
以前のブラウン管のCRTはだいたいこの比率だったのに。今のワイド液晶が横長すぎるのに慣れちゃってる。ワイド液晶を縦位置で使うとバカみたいに細長くてびっくりする。
そういえば、「2001年宇宙の旅」に出てくるディスプレイは正方形だった。
●WACOMドライバの不具合?
ペンタブで操作してる時にキーボードショートカットを使うと、タイミングが一瞬遅れたり、再度キーを押さないと元に戻らなかったりする。
Photoshopだけじゃなく、Finderでウインドウをクリックしもアクティブにできなかったり、MODOでタブを選べなかったり。「キーーーッ!」ってなってた。Facebookでも何人もが同じトラブルに困ってる人がいる模様。
例えば、Spaceを押して手のひらツールでスクロールし、そのまま続けてcommand+Spaceで拡大するとき、手のひらツールのままになる。または、投げ縄ツールで選択した範囲をcommand押して移動しようとすると、投げ縄ツールのままになる、など。
素早く操作するためのショートカットで引っかかるとすごいストレス。
マウスで同じ操作しても問題無し、どのマシンでもどのペンタブでも起きるってことは、ペンタブのドライバが怪しい。
先週入れたドライバ、「WACOMタブレットドライバ Macintosh V6.3.17-5Jxmi for Mac OS X(7月29日更新の最新版)」を削除して再インストールしても同じ症状。あらためて削除してから一つ前のバージョン「V6.3.15-3Jxmi」にしたら、不具合は起きなくなった。(と思うけど、また同じ症状が出たら報告します)
心配なのは新MacOS、Sierraでどうなるか。
・SierraはScanSnapで問題が起きるそうで、しばらく入れられなさそう。
https://www.pfu.fujitsu.com/imaging/news/news20160914.html
●正しいやり方でWebサービスを使うこと
あなたは解読できる? 若者はインスタのハッシュタグをこう使う
http://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1606/19/news007.html
ハッシュタグを使うことで、思いがけないところまで拡散する効果があるらしい。そうやって想定外の使い方が発見されて、一つの文化みたいなものにまでなるのはよくある話。
いやしかし、本来のハッシュタグとして使ってる人、ハッシュタグで検索したい人にとっては、めちゃくちゃ迷惑なノイズになるんじゃないか?
1995年頃、ニフティの絵風蔵フォーラムに入りたての頃、ひとつの話題に対してコメントを続けていくやり方をテキトーにやってたら、すごい怒られた。パソコン通信のルールというか、システムにちゃんと乗っかるための正しいやり方でやってくれないと、他の人全員が迷惑する! とのことで。
Twitterの正しい使い方ではなかった「引用リツイート」が問題視されてたのも記憶に新しい。引用RTは本家も認めて機能に組み入れたのだった。
パソコン通信みたいにもともとある程度詳しい人が使う前提のものじゃなく、使い方やルールとか気にしない人たちが使う前提のサービスでないといけなくなってるんだろう。正しい使い方を気にする時代は終わってるのかも?
【吉井 宏/イラストレーター】
HP http://www.yoshii.com
Blog http://yoshii-blog.blogspot.com/
マカロニウエスタンDVDコレクション、ようやく5本目の「さすらいのガンマン」を見終わったところなんだけど。ラストで映っちゃいけないものが思いっきり映ってるんだけど、これって知られてるミスだよねえ? 検索しても出てこないんだけど。
・ショップジャパンのキャラクター「WOWくん」
https://shopjapan.com/wow_kun/
・パリの老舗百貨店Printemps 150周年記念マスコット「ROSEちゃん」
http://departmentstoreparis.printemps.com/news/w/150ans-41500
・rinkakインタビュー記事
『キャラクターは、ギリギリの要素で見せたい』吉井宏さん
https://www.rinkak.com/creatorsvoice/hiroshiyoshii
・rinkakの3Dプリント作品ショップ
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編集後記(09/28)
●遠藤周作が自著で率直に不快感を述べているのが「生きざま」である。[私の知る限り「死にざま」という言葉は昔あったが、「生きざま」という言葉は日本語になかったと思う。だから「生きざま」なる言葉をテレビで聞くとオヤッと思う。そしてやがて「生きざま」という美しくない日本語が新しい国語辞典に掲載されることを憂えてしまう。そんな言葉は美しくないからだ。(遠藤周作「変わるものと変わらぬもの」)]。「ざま」は「ざまをみろ」などというように、人の失敗などを嘲ることばとして、古くから使われていたから、今でも抵抗感を抱く人は少なくない。わたしも大嫌いな言葉の上位に置く。
ところが「生きざま」を徹底的に擁護したのが三省堂「新明解」第四版だった。[いきざま【生きざま】その人の、人間性をまざまざと示した生活態度。「ざま」は、「様」の連濁現象によるもので、「ざまを見ろ」の「ざま」とは意味が違い、悪い寓意は全く無い。一部の人が、上記の理由でこの語をいやがるのは、全く謂われが無い]とある。そうだったのか、考えを改めまする。このことを佐々木健一「辞書になった男 ケンボー先生と山田先生」で知った(文春文庫、2016)。この本は、国民的辞書、三省堂「明解国語辞典」をともに作ってきた二人の編纂者がなぜ決別し、なぜ二つの辞書が生まれたかの謎に迫る。
見坊豪紀と山田忠雄、二人の編纂者の情熱と相克の物語は「ケンボー先生と山田先生〜辞書に人生を捧げた二人の男〜」と題して、2013年4月29日にNHK-BSプレミアムで放送された。そのドキュメンタリー番組の企画・制作過程での取材内容に、新たな証言や検証を加えて構成したのが本書である。日本を代表する二冊の辞書「三省堂国語辞典」「新明解国語辞典」の誕生と進化を追い、この二冊の編纂者である見坊豪紀(国語学者にして稀代の天才辞書編纂者)と山田忠雄(国語学者にして反骨の鬼才辞書編纂者)いう超人の実像を露わにする、まさしくミステリーといっていい組立で、知的興奮を堪能できる好著だ。
ケンボー先生は「ことばは、音もなく変わる」と言い、山田先生は「ことばは不自由な伝達手段である」と言う。「客観」VS「主観」、「短文」VS「長文」、「かがみ」VS「文明批評」、対立しながら互いに存在感を放ち屹立する。二人が残した国語辞典から、何万ということばの中から、二人の関係や心情の手がかりを探し出すという、恐るべき思い込みのアプローチ。そして辞書の中から発見した恐るべき事実。「新明解」に載る奇妙な記述の意味とは。まさに「字引は小説より奇なり」が次々と。面白い! というわたしは国語・漢和・古語の辞書を中学生の孫に押しつけ、専らネットに依存するたわけ者だ。 (柴田)
佐々木健一「辞書になった男 ケンボー先生と山田先生」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167906856/dgcrcom-22/
●「desire」のニュアンスは勉強になった。「greed」な人をしんどいと思っていて、desireも同様のギラギラしたものだと。欲についての考察にも頷く。欲しいものを我慢して(隠して)生きるのが美徳みたいなところあったよね?
正方形モニタいいな〜。資料を並べられるのがいい。ってツインモニタにすればいいのか……。/インスタのハッシュタグは、チャットの時のひとりごとコメントタグ(プログラミングの時のコメントタグ)だと思ってます……。突っ込まれる前に、ハッシュタグで予防しているなぁと。これに沿ったコメントつけてねって言われているような気がしますわ。
人のプログラムの修正を頼まれて、コメントつけて目印ついでに発散する時あります(「//なんでここれにこれ入れたの? ここは○○でしょ」「//難しすぎる〜。つまりここで××になるわけで〜」など)。もちろん納品前には削除しますが。されることもあると思います(笑)。
「ざま」を「ざまぁ」だと思って読んだことないです。「しにざま」「いきざま」は美意識のことだと。「ざまぁ見ろ」って使わないし、耳にしないからかな。漫画やドラマで、悪役が使う言葉。謙虚な言葉にも思える。「ざまぁねぇや」という主人公がいたり。
アメージングモデルエキスポ続き。先週の吉井さんの後記を読んで驚いた。吉井さんが怪物屋さんとお話されていたなんて! 怪物屋さん、昨年火事に遭われてニュースになっていましたよ〜。私は2014年まで知りませんでした。 (hammer.mule)