《人のつながりの連鎖はまだまだ続いていきそうである》
■Otakuワールドへようこそ![247]
よみがえれ、浪曲
GrowHair
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■Otakuワールドへようこそ![247]
よみがえれ、浪曲
GrowHair
https://bn.dgcr.com/archives/20161216140100.html
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セーラー服姿の私を見て、まったく驚きもせず、「まぁ、かわいらしい(はぁと)」、ヒゲの三つ編みを見て「自分で編んだの?」と笑顔で優しく言ってくださったのは、浪曲の曲師(三味線奏者)である沢村豊子師匠。
12月7日(水)の夜、「深川江戸資料館」の二階の小劇場で開催されたイベント『噂の玉川奈々福 キネマ更紗』の終演後のことである。
そんなちゃんとした催しにA面で乗り込んでいっちゃう私に対して、眉をひそめることもなくにこやかに接してくださった豊子師匠のおおらかさが身にしみてうれしかったのだが、あまりに光栄すぎて畏れ多くて、少しだけ居心地が悪かった。
イベントでは、まず、田島空さんが浪曲師である玉川奈々福さんを二年間にわたって追っかけ続けて撮った映像が上映された。
浪曲のなんたるかが門外漢にも分かるようにと編集されており、なおかつ、一般の人々の目に触れることのない舞台裏の映像からは、気を張って芸の道に生きる人たちの波乱万丈が伝わってくる、通の心を揺さぶる映像でもあった。
続いて、田島さん、奈々福さん、豊子師匠、弟子の沢村美舟さんの四人によるトークがあった。豊子師匠はご機嫌で奈々福さんをいじり倒し、奈々福さんも負けじとツッコミ返す、笑いどころいっぱいの華やいだステージであった。
そして、奈々福さんによる浪曲。演目は、みずから創作した『金魚夢幻(ゆめまぼろし)』。右手首骨折からリハビリ中の豊子師匠に代わって、曲師を務めたのは美舟さん。
11月に観た「もどき」を別にすれば、浪曲というものを初めて鑑賞した私は、美舟さんの曲師だってすばらしいじゃん、と思ったのだが、浪曲をよく知る人によれば、合いの手がまだまだらしい。
おっさんがセーラー服を着て歩くと浪曲と出会う、というのは、まるで大風が吹けば桶屋が儲かる、みたいな素っ頓狂な話だが、実際、すごい偶然のような、なんの不思議もない必然のような、人と人との出会いの連鎖があってここへ来ている。
●始まりはラーメンから
ここから説き起こさなくてはならない。私が最初にセーラー服を着て公共の場を歩いたのは、2011年6月11日(土)のことであった。
京浜急行の鶴見市場駅から徒歩七分ほどのところにあるラーメン屋は正式名称がなく、通称「ラーメンショップ高梨」と呼ばれていた。そこのおっちゃんが立てた企画「30歳以上で、セーラー服着用で来店したら、ラーメン一杯タダ」に乗っかる形で行った。私が一番乗りであった。
心配していたようなトラブルは一切起きず、これなら平気だという感触を得たので、日常行くところは全部行ってみようと、以降の週末はたいていセーラー服を着て過ごすようになった。
翌週、18日(土)には、二番手と三番手が店に行った。三番手は女性であった。勅使河原由美さん。翌日にはツイッターでメッセージが飛んできた。写真をブログで使ってもいいでしょうか、と。
勅使河原さんは放送作家をしており、のちに、TOKYO MXの生放送のテレビ番組『おしあげ NOW』において、出演者の背後にわざと立つ形でゲリラ出演させてもらった。
そのことは、2012年12月21日(金)配信のこの欄に書いている。『番組ジャック?! 生放送中に出演者の背後に立ってみた』。
https://bn.dgcr.com/archives/20121221140200.html
●写真家・岩切等氏と路上でばったり
プロの写真家である岩切等氏に最初に会ったのは、路上で偶然遭遇する形で、であった。2011年7月30日(土)のことである。
それ以前から、人形を撮る写真家どうしとしてお互いの存在を知っていた。2009年12月26日(土)、人形作家・森馨さんの作品を見るために、私は銀座の「ヴァニラ画廊」へ行った。
森さんの人形とともに展示されていたのが、それらを被写体として岩切氏が撮った写真である。多くの人があまり美を感じないであろう無機質な建造物、たとえば、電車の軌道をくぐる幹線道路の地下トンネルの人気のない夜の歩道などを背景に撮った写真が、意外にも超絶かっこいい。すごい写真家がいるもんだ、と尊敬の念を強く抱いた。
総武線千葉行の電車を0:39pmに浅草橋駅で降り、私は徒歩で画廊「パラボリカ・ビス」に向かっていた。途中にあるブティックで、黒い幕を吊り下げ、中央に空けた穴からレンズを突っ込んで、店内を撮影している人がいた。なんだかプロっぽいぞ。
ちょっと眺めて立ち去り、道を間違えたことに気づいて引き返してきたところで呼び止められた。岩切氏であった。被写体は、人形作家・清水真理さんの作品、ではなく、清水さんその人。
岩切氏は、セーラー服を着る私をアートとみて、以後、私を被写体に撮りためてくれている。海外では、フランス、スペイン、中国で、国内では、福島県本宮、奈良県吉野、長野県小諸などで。
最近だと、9月17日(土)に横田基地で。やはり、無機質な背景に、ちょっとなまめかしい被写体というコンビネーション。岩切氏の本領発揮である。
写真:
https://goo.gl/photos/aCsA4qYdQWsV8xLw7
●浅草の新旧硬軟雑多な文化を集結させる塩澤政明氏
岩切氏は、2013年9月に浅草で開催されたファッションとアートのイベントに出展参加している。「第一回アサクサ・コレクション」である。
「イベント企画書」に記されている趣旨が、すごい。何がすごいって、14世紀のイタリアにおいてルネッサンスを巻き起こした原理と相通じるものがあるって点が、である。
引用------------------------------------------------------------------
「アサクサ・コレクション」とは、浅草で活動するさまざまな分野のメンバーが集まり、“新旧混在するいまの浅草が発散する魅力をもっと広めたい”、そんな想いで企画した、浅草を舞台にファッションやアートを集結するプロジェクトです。
浅草という町は昔から、諸国からあらゆる身分職業の人びとが寄り集う江戸一の盛り場であり、違いを違いのままに受け入れる“懐の深さ”があります。
ファッションとアートの新しい祭典「アサクサ・コレクション」では、この町に魅力を感じる多種多様な作り手たちが一堂に会し、「浅草初の屋外ファッションショー」を中核に、アート展示ブース市などで個性を競います。
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ルネッサンスがなぜ起きたかを説明する理論のひとつに「メディチ効果」がある。大金持ちのメディチ家は、あらゆるジャンルにおける卓抜した人々を呼び集め、相互交流を促した。
その結果、原始スープのようなカオス状態が引き起こされる。そこから豊かな文化が急激に花開いたのだとする理論である。
フランス・ヨハンソン(著)、幾島幸子(翻訳)『メディチ・インパクト(Harvard business school press)』ランダムハウス講談社(2005/11/26)
イベントは目的として三項目を掲げている。
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・浅草に魅力を感じる作り手たちの、発表の場をつくる。
・“猥雑の巷、来る者拒まず”という浅草の魅力を、この街を訪問するひとびとに発見してもらう。
・浅草の街びと、浅草への訪問客が「参加できるファッションとアートの祭り」を演出する。
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浅草文化の猥雑性をしかと認識し、何かが起きそうとの可能性を見据えてイベントを企画した慧眼の持ち主は塩澤政明氏。
塩澤氏は、服飾デザイナーである。「キャンディフルーツ」というブランドからメイド服を供給している。
http://www.candyfruit.com/
また、ステージ衣装のデザインも手がけ、アイドルグループ「アイドリング!!!」
や外国人ヒゲ女装パフォーマーのLadybeard氏などに衣装を提供している。
塩澤氏は、写真家・都築響一氏の下記の著書の中で紹介されている。
都築響一『東京右半分』筑摩書房(2012/3/24)
イベントは、2013年9月21日(土)〜26日(木)、隅田公園(吾妻橋から東武鉄橋)の地下にある長さ116mのトンネル内の「隅田公園リバーサイドギャラリー」にて開催された。
岩切氏は塩澤氏と直接の知り合いではなかったが、以前アシスタントを務めていた多田裕美子カメラマンが浅草出身だった流れから、参加の機会を得た。
2013年9月2日(月)、岩切氏からFacebookのイベント招待機能を通じてこのイベントへの案内が来ていた。けど、私はスルーしてしまった。ぜーんぶ、後から聞いた話である。
●古い映画館の所蔵するポスターを展示した田村U子さん
第一回アサクサ・コレクションへ出展参加した一人に田村U子さんがいる。U子さんは、福島県本宮の出身。「本宮映画劇場」という築102年の木造の映画館があり、そこの館主・田村修司氏の娘さんである。
往時の本宮映画劇場では、映画の上映だけでなく、浪曲の興行も頻繁に行なわれた。シベリア帰りの浪曲師・南篠文若氏は、本宮近くの町の劇場に住み込んでいて、本宮映画劇場でもよくうなってもらっていた。
しばらく来なくなったなーと思っていたら、歌手・三波春夫として売れっ子になっていたので、修司氏はたいへんびっくりしたとか。
閉館して、会社勤めするようになってからも、修司氏は、定年退職したら映画館を再開しようと、人知れずメンテナンスを続けていた。時々掃除し、電気代を払い続け、たまに映写機を回した。
そのわが道を貫く生き方は、都築響一氏の著書で描写されている。
都築響一『独居老人スタイル』筑摩書房(2013/12/19)
U子さんは、父親が収集して大事に保存していた古い映画や浪曲のポスターをアサクサ・コレクションで展示した。
このイベントには都築氏も出展参加しており、『東京右半分』の写真を展示した。また、初日には、トークを催した。
岩切氏とU子さんは、このイベントを通じて知り合っている。
●大叔父さんの名前をポスターに見つけた玉川奈々福さん
アサクサ・コレクションを見に来た人の中に、浪曲師・玉川奈々福さんがいた。奈々福さんは、以前、筑摩書房に勤めていて、都築響一氏の担当編集者であった。『東京右半分』、『独居老人スタイル』を世に送り出した人である。
なので、都築氏はもちろん、イベントを主催する塩澤氏のことも、本宮映画劇場の田村父娘のことも、よーくご存知であった。
本宮の実演浪曲ポスターを眺めていた奈々福さんは、その中に母方の大叔父さんの名前を発見した。広沢若夫氏。大叔父さんが本宮で実演していたことは、このポスターを見て初めて知り、これには奈々福さんもU子さんもびっくりだった由。
●本宮映画劇場百周年を祝うツアーが実現
アサクサ・コレクションの翌年の夏、40人で本宮映画劇場を訪れる一泊二日のバスツアーが実現した。
2014年7月16日(水)の朝、上野を出て、午後、本宮映画劇場を訪問し、二本松の西のほうの山中にある岳温泉「陽日の郷(ゆいのさと) あづま館」に宿泊し、翌日は三春駒の発祥地である「高柴デコ屋敷」や、それに隣接する「性信仰玩具 道六館」などを見学し、夕方、上野に戻るコース。
題して、『本宮映画劇場(祝)創建100年ツアー』。企画・主催するのは、アサクサ・コレクション実行委員会。
本宮映画劇場では、見学会、上映会、浪曲会の三部構成となっている。
(1)見学会:館内施設、田村修司氏秘蔵のポスター、映写室と映写機も、すべて公開!
(2)上映会:この催しのために館主がみずから編集した、過去の名作・珍作・奇作リミックスフィルム上映!
(3)浪曲会:気鋭の女流浪曲師・玉川奈々福による、福島ゆかりの一席。合わせる曲師は名人・沢村豊子師匠!
司会役を買って出たのは、都築響一氏。なんとぜいたくなキャストで、内容の濃ゆいイベントであることか!
壁には、浪曲実演のポスターが貼られた。郵政省の後援する『慰安浪曲まつり』。顔写真の下に「広沢若夫」と縦書きされている。大叔父さんの名前の書かれたポスターの脇の壁に、玉川奈々福さんがサインをした。
「2014.7.16」と日付が記入されている。慰安浪曲まつりの開催日は9月12日とあるけれど、何年のだろう。本宮映画劇場は、閉館してから50年経つのだけど。
最前列に都築響一氏、沢村豊子師匠、田村修司氏、玉川奈々福さんが並んで座る写真が撮られている。
広沢若夫氏が踏んだ舞台を、50余年の時を経て、奈々福さんが踏んだ。この年の夏にたびたび起きた、いわゆる「ゲリラ豪雨」にこの日も見舞われ、トタン屋根が機関銃のごとき轟音を立てる中、奈々福さんは負けじと声を張り上げた。
この時点で、私はツアー参加者の誰ともまだ出会っておらず、このツアーのことは知る由もない。ぜんぶ、後から聞いた話である。
写真はこちら:
https://goo.gl/photos/3DXiMjxMMavni3Ya8
●酔っ払いすぎてよく覚えていないU子さんとの出会い
私がU子さんと出会ったのは、本宮バスツアーのあった年の冬になってからであった。場所は浅草のバー「鈴楼」。
勅使河原さんから紹介したい人がいる、と、新宿の個室居酒屋で女装家のあしやまひろこさんに引合わせてくれたのは、2014年10月5日(日)のことである。
一緒に写真を撮りたいね、ってことになって、話が進み、撮影を岩切氏にお願いして、四人で浅草に集まったのが、11月1日(土)のことである。
二人並んで人力車に乗り、仲見世をそぞろ歩きし、撮影終了後はつくばへ向かうあしやまさんを見送って残った三人で、テーブルや丸椅子が道にはみ出し気味のお店が立ち並ぶ中の一軒「もつくし」でしこたま飲んで解散となった。
帰りがけ、岩切氏が「もう一軒、寄って行こう」と言って立ち寄った、氏の行きつけのお店が「鈴楼」である。
そこに、U子さんがいて、岩切氏へのあいさつもそこそこに、私に話しかけてきた。...らしい。私はぜんぜん覚えていない。
U子さんは悩んでいた。約一か月後の12月6日(土)に塩澤氏主催のイベント「第一回浅草紅白歌合戦」の開催が予定されている。紅組と白組それぞれ15組ずつが交互にステージに立ち、歌を競いあう、仲間内のイベントである。
U子さんは出ることにしているが、さて、演目を何にしようかと。そこへ私が入っていったもんだから、ピンとひらめいちゃった。『セーラー服を脱がさないで』。
私は二つ返事でOKしたらしい。覚えてないけど。後から振り返れば、ここも人生の大きな岐路だった。
最初のラーメンに行くか行かないかは、人生の大きな岐路だったことに間違いない。あのとき、YesかNかの選択肢のうち、Noを選んでいたら、その後の人生どうなっていたか、想像もつかない。真面目にこつこつ仕事して、平凡な人生をまっとうしていたのだろうか。
両方は望めない、って、前に十河さんが書いてたっけ。
鈴楼でのYesも、そこそこ大きな分岐点だったかもしれない。年末はすでに予定が入りすぎてて無理です、とか言って断っていたら、その後の出会いはぜんぜんなかったのだから。へべれけ酔っ払い状態で気がつかなくても、大きな岐路を通過していたりするからコワい。
ずいぶん前、アラブ首長国連邦(UAE)のナタリーが送ってきた本、Carlos Castanedaの「Separate Reality」(分離したリアリティ)に、一秒一秒のすべての時刻において、身の回りにあるすべてのものに意味があるのだ、というようなことが書いてあったっけ。
https://www.amazon.co.jp/Separate-Reality-Carlos-Castaneda/dp/0671732498
●元気すぎる中年集団に圧倒された第一回浅草紅白歌合戦
第一回からイベント名に「第一回」とつけているあたりに、毎年恒例にしようという塩澤氏の意欲が感じられる「第一回浅草紅白歌合戦」当日の2014年12月6日(土)、制服ショップ「コード」でスカーフを買うために中野まできたU子さんと4:30pmに駅で待合せし、「ビッグエコー」で小一時間合わせ練習した。しっかり練習してきているU子さんに対し、私のほうはボロボロだった。
一緒に浅草に向かい、会場に着けば、当然のことながら、U子さん以外は知らない人たちばかり。みんな自分の出番を控えているであろうに、誰も緊張しておらず、開演前から騒がしいまでに盛り上がっていた。
50人ほどいるうちの大多数は、中年というより初老に近い年齢にみえるけど、なんだこのパワフルな集団は!
われわれは、紅組から、15組中4番手の出番だった。ちゃんと練習してきているU子さんに申し訳ないくらいのボロボロな私だったが、とにもかくにも役は果たせた。
ここまで書いておいてから言うのもナンだが、ラーメンから紅白に至る流れについては、一度デジクリに詳しく書いている。
2014年12月12日(金)
異常にパワフルな中年たちが本気でふざけた『浅草紅白歌合戦』
https://bn.dgcr.com/archives/20141212140100.html
締めの一文に「人のつながりの連鎖は、まだまだ続いていきそうである」とある。コワいなぁ、そうなってるよ。
写真:
https://goo.gl/photos/MG62BhhXPkR1AcZF9
前置きが長くなったが、今回は、その続きのおはなし。
●エスカレートする第二回
2015年12月5日(土)、第二回がちゃんと催されている。U子さんと私は、紅白29組中、20組目の出番と、ずいぶん繰り下がっているではないか!
さあ、どうしよ? 定番中の定番はすでに披露しちゃってて、他にいったい何がある? 悩みに悩んで、体操着にブルマ。『アタック No.1』のオープニングテーマをやろう、と。「だけど涙がでちゃう。女の子だもん」。おっさんですが、なにか?
ブルマは嫌いではないので、すでに何着か持ってはいた。けど、着用している姿を人前に晒したことはなかった。しゃあない、やるか。
第一回の教訓がまったく生かされず、またしてもひどい練習不足で臨むことになるが、見た目のインパクトで乗り切れるので、パフォーマンスの良し悪しは二の次とも言える。実際、場を盛り上げる役を果たせたという点において、申し分なかったと思う。客席には、都築響一氏も来ていた。
どちらかというと醜悪に部類する恥かしい姿も、一度晒しちゃえば、本人にとっては爽快であり、ずっとその格好のまま鈴楼での二次会へ。
23:56浅草発の東京メトロ銀座線の渋谷まで行く最終電車に乗り、神田駅で中央線に乗り換え、中野駅で降りてウチに帰り着くまで、ずっとその格好だった。
神田駅まで一緒だったU子さんが撮った写真を見ると、ブルマの裾からはみパンしとるではないかっ! うわぁ、ハズカシイ。
写真:
https://goo.gl/photos/4KJfgwrZPfNKjzL97
●第三回の前に塩澤氏の還暦イベント
さて、今年。第三回もちゃーんと開催されるのだが、それより遡ること一か月弱、もうひとつ大きなイベントが催されている。塩澤氏の還暦祝賀パーティ『SHIO RED PARTY 60』である。主催するのは本人。
11月9日(水)の夜、浅草の会場はひしめき合い、後ろのほうからはステージがよく見えないほどであった。100人ほどいただろうか。かつて塩澤氏に衣装を作ってもらったことのあるLadybeard氏も来ていた。
塩澤氏に招かれたパフォーマーたちが次々にステージに上がり、持ち芸を披露した。その中の一人に奈々福さんがいた。
浪曲師(語り役)もでき、曲師(三味線奏者)もできちゃう器用な奈々福さん、この日は一人二役の弾き語り。「ギャラの関係で一人です」なんてエグい冗談言ってたけど、曲師の豊子師匠はリハビリ中で来られなかったのであろう。
この日の観客は、浪曲を実際に聞いたことの一度もない人たちが大多数であろうことに配慮してか、一番分かりやすいのをやってくれた。「これが浪曲と思われても困るんですがね」と冗談めかして断りつつ、『浪曲シンデレラ』。
ストーリーはみんながよく知っているあの「シンデレラ」だが、浪曲でやるとこうなる、というアレンジは、奈々福さんみずからの創作である。
これがめっぽうおもしろかった。登場人物たちが過剰なまでに情緒豊かで、時代がかった純和風なのである。元の話って、血のつながらない姉たちにいじめられてきたシンデレラが最後に逆転満塁ホームランをかっ飛ばす、スカッとするファンタジーだったはず。
浪曲師の手にかかると、場面場面で、登場人物の台詞に、それぞれの性格や立場からくる切実な感情が乗っかって、やけに現実感がある。情景が目に浮かび、おかしくもあり、涙ぐましくもあり。浪曲、いいわぁ。
今回のは「もどき」らしいけど、12月7日(水)に開催予定のイベント『噂の玉川奈々福 キネマ更紗』において、もうちょっとちゃんとしたのをやるとのこと。それ、ぜひ、行こうっと。
奈々福さんは11月15日(火)にブログに上げた「田島空監督のこと」というタイトルのエントリにおいて、このイベントについて告知しており、塩澤氏のパーティで撮った写真を一枚添えている。
田島空さんと二人並んで写っている写真、だったらなんでもないところを、中央に私が挟まっていて、唐突感がたまらない。
http://tamamiho55.seesaa.net/article/443989092.html
●さらにエスカレートする第三回
10月25日(金)までにエントリーする曲目を提出せよと言われるも、決まらず、締め切り破り。どうしよ、どうしよ。
セーラー服、体操着、と来たら、流れからして水着でしょ。水着に合う曲目って、なんだろう。早見優『夏色のナンシー』あたりかな?
決まったのは、塩澤氏の還暦パーティのときだ。U子さんがみんなに聞いて回るリサーチ。誰かが榊原郁恵『夏のお嬢さん』を挙げたとき、それだ、それっきゃない、なんで思いつかなかったんだろ、となって、決まった。
セーラー服ふうのデザインの水着って、なかったっけ? 検索してみると、何種類かあったが、上下の分離したビキニタイプのやつは、水着ではなくて下着だった。まあ、見た目で水着か下着か区別のつく人なんていないだろ、ってことで、それをポチった。
初めて着用したのはイベントの前日になってからだった。ショーツの小ささがヤバい。人に見せられるもんじゃないぞ、これ。けど、気づくのが遅すぎた。ええい、ままよ。使っちまえ。
12月3日(土)当日。セーラー服の下にセーラーブラ&ショーツを仕込んで浅草へ。シダックスで一人練習し、同所でU子さんと合わせ練習して、会場へ。
U子さんと私は、15組中、12組目。うわぁ、そんなに後ろじゃなくていいんだけど。じっくり聴かせる系ではなく、軽いノリ系なんだから。せっかく練習したのに酔っぱらってぐだぐだになっては申し訳ないので、ソフトドリンクで我慢する。素面でやるのは、それはそれで抵抗あるけど。
まあ、盛り上がるまいことか。バスローブを羽織って登場し、歌い出しでぱっと脱ぎ捨てると、やんやの喝采。アホのような熱狂状態が、最後まで引っ張れた。ふふふ、大成功!
サラリーマンの忘年会なんかでここまでやっちゃうと、さすがに引く人もいるだろうし、後で大目玉を食らいかねない。けど、浅草のあのノリノリな中年集団だとバッチリはまる。
さて、去年の流れからすると、私はこの格好のまま、雷門で写真を撮られ、電車に乗ってウチまで帰らなくてはならない。さすがにそれはどうなんだ?
去年と同じ、23:56浅草発の渋谷行終電になった。神田駅で一人になった。若者が警官四人がかりで連行されていた。その横をすり抜けるも、どうということはなかった。若者氏「あいつはいいのか!」って思ってたろうなぁ。
中野の呑み屋街を早稲田通りまで歩き抜けた。夜も更け、ちょっと肌寒い。もう夏も終わりか。
途中、野球の「中野塾」を覗いてみると、鈴木遍理氏が飲んでいた。前回書いた、桐朋高校の二学年上の先輩である。天啓に打たれたかのごとき目で私を見る鈴木氏。古い世界は終了し、たった今、新しい世界が始まりました。
一杯飲んで、新井薬師前へ。もう一軒ビバーク。1:30am過ぎ、入口の灯は消え、常連延長タイム。ひと騒ぎ起きる。ウチに着いたのは2:00am過ぎ。
このあたりが、社会人としての節度を保ちつつやれる限界だ。第四回があっても、もう見せるもんないぞ。
写真:
https://goo.gl/photos/NuNVA8956a74ouUQ9
●浪曲は元来の大衆娯楽芸能として現役復帰しつつある?
浅草紅白から四日後の12月7日(水)、「深川江戸資料館」にて、イベント『噂の玉川奈々福 キネマ更紗』が開催され、冒頭で述べたようなことになったという次第である。
田島空さんは、この日上映する映像の制作のために徹夜続きで、当日の3:00pmまで編集作業を続けてたといい、9日(金)にFacebookで「映像が間に合った思いと皆様の反応に感無量でした」と述べている。
奈々福さんは同じ日、Facebookで次のようにコメントしている。
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完成品を見たのは、皆さんと一緒、当日の上映でした。前日に田島監督から来たのは、ナレーションの入っていない、映像だけのもの。でも、当日見たら、また編集が変わっていた。
映像をどう切り出すかの腕については、以前に別バージョンを見て驚愕し、すんげいっ! と思い、だから万全、信頼してた。そして、激動の私たちを見つめる田島さんのまなざしが、とても優しいものであることも、わかっていた。だから、事前に見ていなくても心配していなかった。
実際、なんとリズミカルで、よどみのないつくりであったことよ。ナレーションがなんと弟弟子(※)だった。これがまた、うまかった。 ※玉川太福(だいふく)氏
ただ、本人からは客観的に見られず、見えるのは自分の欠点ばかり。喜んでいただけるのかどうか、わからなかった。映像見ながら笑ったり涙ぬぐったりしてくださっている皆様の様子に心底ほっとして。
こんなとてつもないことをしてもらったお礼を、どう田島監督に言っていいのか、気持ちが定まらずあわあわしているうちに、何の感謝も伝えられないままに、私は最後まで呆然として、終わってしまいました。
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二年間のうち、最初の一年分を編集した映像がYouTubeに上がっている。ナレーションは入っていない。映像演出が田島利枝さんとなっているが、空さんの本名である。説明文に「2016年奈々福後援会の新年会で上演された特典映像を再編したものです。もう一度見たい! というリクエストにお応えして公開します」とある。
2016年2月15日(月)に公開。14分58秒。
映像、トークに引き続き、浪曲師・玉川奈々福さん、曲師・沢村美舟さんによる、奈々福さん創作の浪曲『金魚夢幻』の実演。浪曲というものを初めて聴いた私からは、「すばらしかった」、「おもしろかった」以上のコメントができず、これじゃまるで小学生の作文だ。歯がゆい。
音声だけながら、奈々福さんによる『金魚夢幻』がYouTubeに上がっている。演じられたのは、9月8日(木)。曲師は沢村豊子師匠。28分48秒。12月14日(水)に上がったばかりで、視聴回数はまだ23回。
田島さんの映像の中で、今日は客席が満杯、と言っている場面があった。聞くところによると、浪曲のお客さんの入りが、このところ上昇傾向にあるらしい。
私がすばらしいと思うのは、この現象、浪曲の真の蘇りを意味しているようにみえることだ。
何十年も前に隆盛を極めた文化がいま、忘れ去られようとしていて、価値ある芸が消えていくのはもったいないから、がんばって保存していきましょう、といったノスタルジーの動機からではないのである。
浪曲が現役でポピュラーだったあのころ、高邁な芸術を人々がありがたがって鑑賞するというものではなかった。心に直接的にびんびん響き、笑って、泣いて、楽しむものだった。大衆娯楽芸能。
時を経て、時代背景が変わり、昔の浪曲は今聴いても難しくてさっぱり理解できないものになってしまった。そこを理解するには、基礎知識を予習しておかなくてはならない。で、なんだか深遠な学問みたいなものになっちゃった。そんな状態でいくら保存したって、博物館のミイラと同じ。
現代のシチュエーションに合わせて新作を創作してくれたおかげで、浪曲が、再び、聴けば分かるものになり、生きた娯楽へと蘇ってきた。そこが、ほんとうにすばらしいと思う。
小さいころ、銭湯に行くと、湯船に浸かって延々とうなっている人がいた。ふつうの歌とは違っていて、なんだか分からなかったけど、今、振り返ってみれば、きっとあれが浪曲だったのだ。
人々の心に沁み込んでいて、湯に浸かって気分がよくなると、自然と口から出てくるもの。浪曲がまたそんなふうになっていくと、いいなぁ。
「いつもこころに浪曲を!」
写真:
https://goo.gl/photos/wZE2SNe2aKRpyAFu9
【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
http://www.growhair-jk.com
ここに書くネタ、あったんです。しかも、ほんとうはいまこのとき主張しておきたいのです。けど、けど、時間と行数と私のパワーが尽きました。ばたっ。
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編集後記(12/16)
●そろそろ年賀状の構想を練らなくてはならぬ。なんとなく新潮文庫の安藤次男「百人一首」を眺めていたら、五十七番歌の紫式部「めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かげ」で、あれ? 翁かるた本舗の「小倉百人一首」の札を確認したら「夜半の月かな」である。今までずっとこっちだと思っていた。中公新書の高橋睦郎「百人一首」を見ると「夜半の月かげ」だった。いったいどうなっているんだ。こういうときは、小名木善行さんの名著「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」(2015、彩雲出版)を開かなくてはならぬ。この本では「夜半の月影」になっている。
「新古今集」に掲載されたこの歌の詞書には、何年かぶりにようやく幼なじみに会ったのですが、ほんの少しの時間で七月十日の夜に帰ってしまった、とある。じつはいままで恋の歌だと思いこんでいた。これは恋の歌のかたちを借りた友情の歌であった。おしゃべりしていた物理的な時間は半日くらいだったが、心理的な時間としてはほんの一瞬のことにしか感じられなかった、ということだ。ねずさんの解釈では、幼なじみは遠くに転勤する挨拶に来たのだ。その親しい友に「元気でまた都に帰ってきてね」という、女性らしい細やかな気遣いが詠み込まれているという。安藤次男、高橋睦郎にはない、独特の深読みだ。
冒頭の「巡り逢ひて」も、末尾の「月」も「巡るもの」である。「月影」とわざわざ「影」という暗い含みのある表現を用いるのは、何かそこにこだわりがあるからだ。あまり喜ばしくないこと、意に沿わないことが、紫式部か幼なじみに起きている状況とみる。紫式部は二十代半ば、父の転勤のため越前国で暮らした。地方転勤族の娘だった。幼なじみも家族、あるいは本人が転勤族であった可能性が高い。そこで暗いイメージの言葉が、今巡ろうとしているのは本意ではないことを暗示している。紫式部は別離の悲しみと、元気でまた会いましょうと、思いやりの心を歌にしているのだ。「月かな」より味わい深い。
「百人秀歌」やかるたでは「月かな」である。意味がとりやすいし、歌の印象も明るくなる。五十八番歌は大弐三位「有馬山猪名の篠原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」。彼女は紫式部の一人娘である。親の七光りだけでない、魅力的なキャリアウーマンである。また、五十六番歌は和泉式部「あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな」である。美しい天才歌人だったが、二人の夫に先立たれ、藤原彰子の厚意で出仕する。その女の園には紫式部がいて「人品行状がけしからん」と日記で書かれてしまう。藤原定家の撰歌、配列した意図を理解しながら読み解いていく必要がある、とねずさん。
末次由紀「ちはやふる」を9巻まで読んだ。すさまじい競技かるたの世界。メインキャラの中で一番好きなのは、大の古典好きで和歌を一番理解している呉服屋の娘、大江奏(かなで)ちゃんだ。おでこちゃん。カワイイ!(柴田)
小名木善行「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」
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デジクリトーク 「百人一首」が凄すぎた
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ちはやふる
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●スマホ料金見直しの続き。UQ。UQユーザーは、無料で「Wi2 300 公衆無線LAN」が使える。これは「Wi-Fiスクエア」「BBモバイルポイント」「UQ Wi-Fi」というステッカーのあるエリアで無線LAN接続できる。要申込。
アプリをスマホにインストールし、ログイン情報を入れておけば、あとは自動的にログイン処理をしてくれるので意識せずに使える。
ただし、エリア一覧を見てもらうとわかるように、どこにでも整備されているとはいえない。auと同じで新幹線内は繋がらなかったり。ショップが提供しているものが多く、そこに居続ける時に重宝するようだ。あとは外出先で大きなデータを落としたり、動画を見る時に使うぐらい。
高層ビルからだと、あちこちのWi-Fiにゆらゆら飛んでしまい、その度に自動ログイン処理をし、ずれてログアウト、また別のにログイン。なのでうっとおしくて、手動で切ることが多い。
が、裏を返せば、あちこちに移動してくれる優れもの。ポケゴー好きならわかりますよね(笑)。ポケスト密集地だと居続けたくなります(笑)。 (hammer.mule)
Wi2 300 公衆無線LA
http://wi2.co.jp/jp/300/
利用可能エリア
http://300.wi2.co.jp/area/2/
移動距離が稼げ、通常より広い範囲のアレコレをゲットできるであります