[4507] 40年の歳月が変えたもの

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《三つ子の魂百まで》

■Otaku ワールドへようこそ![273]
 40年の歳月が変えたもの
 GrowHair




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■Otaku ワールドへようこそ![273]
40年の歳月が変えたもの

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誰か渡しに来てくれるんじゃないかと、学校にいる間じゅう、そわそわと落ち着かなかった。帰り道も、誰か待ちぶせしてるんじゃないかと、心がふわふわしていた。しかし、何も起こらなかった。

そのころ、ちっちゃくてかわいい岩本宣子は、後にT中工務店の部長になるG神Y介と相思相愛だった。宣子はY介の家へ渡しに行った。

「バレンタイン? 何それ? キリスト教のお祭り? ウチは仏教だからいらねーよ!」。

宣子に同行したT内K美はブチ切れた。「あんたのためにわざわざ買ってきたんでしょ! もらってあげなさいよ!」。世の流行をよしなきことと高みから見下すG神の反骨精神は、K美の一喝で粉砕された。

へー、そんなことがあったんかい。聞いたのはつい先週、1月30日(火)のことである。去年の8月11日(金)にM下S子に捕獲されて以来、小学校時代の旧友たちとの音信が次々と復活している。

●積年の恨み、さらに積み上がり

「オレのことなんか覚えてないだろ」と今井洋一。忘れるもんかよ! 今でも恨んでっからな。って、今井が悪いわけじゃないんだけどよ。

幼稚園で、演奏会の準備をしていた。指揮者の候補は今井とオレだった。オレは、たまたまテレビで見たN響のオーケストラの指揮者を真似て、小さく繊細にタクトを振った。

今井は、元々ぴんと伸びた背をぐんと反らし、一直線一直線一直線のばかでかい三角形をぶんぶんぶんと空に描いた。

ふん、悪いけどよ、音楽的センスはオレのほうが遥かに上だな。ところが、あろうことか、先生は今井を指名したのである。

だいたい、先生もセンスがおかしかった。弱起の曲なのに、一拍ずれた指揮をするので、「先生、それ違うよ」と指摘しても理解されないことがあった。

半世紀もくすぶっていた恨みを今井にぶつけたのは、つい先々週、1月27日(土)のことである。今井こそぜんぜん覚えてなかった。

8人ぐらいいたっけ、中野の煮こみ屋で飲んだ後は、ビッグエコーへなだれ込んだ。

オレが杏里の『オリビアを聴きながら』を裏声でビブラートを効かせてていねいに歌い込んでいると、今井の野郎「オレ、この曲、好きなんだよな」と言って、勝手に合わせてくる。

棒調子で、声量だけはやたらとでかい。押しの強さに飲みこまれ、オレの存在が霞んだ。頭に来たので、ヤツが狩人の『あずさ2号』を歌ったとき、こっちから勝手に入りに行ってやった。

今度は、目立ちっぷりで、オレも負けねーからな。もともと男性デュオの曲だから二人で歌うのはいいとして、ハーモニーもへったくれもなく、それぞれが、お前じゃまだとばかりに、自分の世界に浸りきった。まわりはひいひい笑い転げている。

こういうのって、遺伝子に組み込まれているのだろうか。人類が種として生き延びるための知恵として、ダイバーシティ(多様性)を担保する機構が備わっているのかもしれない。

集団の中でどんな役割を演じるかは5歳の時点でもう顕現しており、オレはこの路線で行ける、と思ったら一生変わらないのではあるまいか。

永吉克之氏によれば、大阪の人は小学校を卒業するまでに、ボケへ行くか、ツッコミへ行くか、進路を決めないといけないというし。

「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものだ。

幼稚園でつけた自信が、その後の人生のドライブになっているのかどうかは知らないが、ヤツは東京理科大から、東京工業大学の修士課程に進み、現在は横河電機に勤め、社会的にもなかなかいいポジションをキープしている。強さと勢いにはかなわぬ。

●大人の世界のほころびの穴

大人には大人の世界ってもんがあって、子供にはなるべく知られたくなかっただろうが、あちこちにほころびがあった。

四谷大塚進学教室の「予習コース」の帰りだっただろうか、平日の夜、高円寺駅を降りて南口に出ると、労働者ふうのおじさんが声を掛けてきた。「帰れなくなっちゃったんだけど、このへんに泊まれるとこないかな」。

えーっと、別に観光地じゃないしなぁ。あったかなぁ。そうだ、吉原んちのほうに「旅荘金門」ってのがあったな。そこへご案内しよう。

玄関の引き戸をがらがらっと開けて「ごめんください」と言えば、奥から出てきたのは、首から上は厚化粧なのに、首から下は薄物をまとった女性だった。若くはなかったと思う。

事情を話すと、お二人様でないとお泊めできないという。え? 何? どういうこと? 背後からおっちゃん「なんだ連れ込みか」。鈍い私もこれで理解した。

「旅荘金門」は現在、「HOTEL ZOO」になっている。
http://www.hotelzoo.jp/


ウェブサイトでは「駅から近いのに、周りは閑静な住宅街なので、人通りが少ないのが特徴」と謳っている。また「裏手にもエントランスがあるので、お入りも、お帰りも、それぞれ別の出入り口からというご利用が可能」とも。はいはい、気が利きますね。

この特徴は金門から受け継いでいる。並行して走る二本の路地の間をつなぐ抜け道があった。石畳の周辺の玉砂利はセメントで固めてあった。

1月30日(火)、東京都杉並区立杉並第八小学校(通称: 杉八)の卒業式以来約40年ぶりに岩本宣子と再会できるのを楽しみに、私は18:23市ヶ谷発総武線三鷹行乗って、吉祥寺に向かった。

高円寺駅の手前、環七を渡るとき「爛漫」の看板が見え、あれは幼稚園のときすでにあったな、もうひとつ「太平山」の看板があったけど、そっちはもうないな、なんて思いながら南側の景色を眺めていると、「HOTEL ZOO」のピンクのネオンサインが目に留まり、あのときの一件を思い出した。

吉祥寺で吉原に会ったときに言うと、ホテルの素性について、まったく気づいていなかったという。石畳の抜け道を通ったことが母親に知れると「やめなさい!」と怒られたが、何が悪いのかさっぱり分からなかったという。

●鉄壁ではなかった銭湯の壁

銭湯に行かなくなって久しいので、よく知らないのだが、昔と構造が変わっているらしい。

もちろん、男湯と女湯の区別は昔からあり、二つの入り口にはそれぞれ「殿方」と「御婦人」の暖簾がかかっていた。入ると脱衣所があり、湯気で曇ったガラスの引き戸で隔てられた奥が湯殿で、湯殿のいちばん奥に湯船があり、その奥の壁には富士山の絵が描いてあった。

男湯と女湯の間は高い壁で仕切られているが、入り口を入ってすぐのド真ん中の高い位置に番台が設けられ、入り口を背にしてそこに座っている人も番台さんと呼ばれ、一人の番台さんが左右両方から料金を徴収していた。その位置からは両方の脱衣所と、湯殿が見渡せる。

私の家からは、環状七号線を渡った先にある「文化湯」がいちばん近く、番台にはみかんみたいな顔をしたおばちゃんが座っていた。

いま、子供のなりたい職業のランキングの上位にYouTuberが入っていることを嘆かわしいという大人がいるが、あのころ、男の子のなりたい職業は、圧倒的に風呂屋の番台だった。

世の中、全体的に緩くて、厳密に分別すべきものなんて、そうそうなかった。

番台の前には、どっちからでも押せばどっちにでも開く黒いパタパタ扉があり、子供がしょっちゅうお父さんとお母さんの間を行き来するもんだから、向こうの脱衣所がその度に丸見えになった。運がいいと、同じクラスの女の子がいたりした。

S井N美の証言によると、湯船の湯の中の壁に穴が開いており、手を入れてみると、なんか柔らかいものに触れたそうである。

規定では小学校を卒業するまでは親と一緒の側に入っていいことになっていて、大いに活用したかったが、3年くらいになったら一人で男湯に入るよう、番台から言われた。

教育上どうとか言うけど、あのゆるゆるな時代にあって、女の裸なんて、そんなにめずらしいもんじゃなかった。大人がよく冗談に「うらやましいな」なんて言うもんだから、だったら今のうちに目に焼きつけておいて、後で思い出せばいいのかな、なんて思っていた。

髪を洗う場合は加算料金を払うべし、というルールが女湯にだけあった。払うと「お髪洗い」と書かれたプラスチックの札が渡され、これを目の前の鏡にピトッと貼りつけておくと、髪を洗っていいのである。

札はそのまま放置して帰ってよく、ときおり、若い兄ちゃんが歩き回って回収した。「いやぁねぇ」という人もいたが、それほど真剣に嫌がっているふうでもなかった。

私はまったく見ていないか気づいていなかったが、あのころ、絶滅寸前ながら、三助(さんすけ)という職業がまだあったらしい。追加料金を払ったお客の背中を流して差し上げる職業である。

江戸時代初期までいたという「湯女」は風紀を乱すからと法律で禁じられ、三助はもっぱら男の職業であった。これがいる銭湯が嫌で避ける女性もいたというが、逆にそれ目当てでくる人もいたので、バランスは保たれていたらしい。

内風呂が普及して銭湯に行かなくなった今の世代には、せっけんがカタカタ鳴るフォークソング(※)なんてピンと来ないのかもしれない。

外の入り口脇にジュースの自販機があった。10円入れると紙コップがパタッと落ちてくる。それを手で隣りへ移し替える。すると、オレンジジュースが注がれる。

移し替えるのを知らないと、ジュースは空しく流れ落ちるだけ。色と甘みはあってもオレンジの味があんまりしなくて、なんか喉が痛くなるのだが、これがなぜか飲みたくなって、よく親にねだった。

※かぐや姫『神田川』

●親しかったはずなのに記憶から抹消されてる

小学校卒業までのことはゴミのような記憶が山とあるのだが、中学以降のことになると、ぱったりと抜けている。

午前中の休み時間、食堂にパンがどかっと積まれ、とろっとしたチーズが中に入っていて上にクルミが乗っかったのがすこぶる美味くて、卒業するとき、これとお別れするのが名残惜しいと思ったけど、それ以外にお別れするのが名残惜しいものは特になかった。

ずっと数学に恋してたんだっけ? 倉田まり子もかわいかったけどなぁ。

仲のよかったはずの友人が一人、私の中で完全に抹消されている。阿部将(まさる)。阿部に非はひとつもなく、薄情でたいへん申し訳ないのだが、会話や出来事も含め、まったく記憶に残ってないのである。

大きな船は水密隔壁でいくつかの区画に分かれていて、側面に穴が空いたとしても浸水が全体に及んで沈没したりしない機構になっている。それみたいなもんか、なんか大きな区画が丸ごと消えてる気がする。

競争率7倍の入試を突破して、中高一貫の私立男子校に進んだ私は、交友関係がそこで完全に分断していて、またがる友人は一人もいなかったことになっている。

阿部とは同じ学校になったことが一度もない。どういうふうに始まったのか、お互いに覚えていないのだが、おそらく文化湯だ。母親が誰かと仲よくなって、遊びにいらっしゃいよと誘われて、巻き添えに遭うことがたまにあった。そのパターンだろう。

南北に走る環七の東側、杉並第三小学校(通称:杉三)の学区域内に文化湯はあった。阿部もそっち側だった。杉八と杉三の学区域のうち、東西に走る桃園川よりも北側の人は区立高円寺中学(通称:高中)に進み、南側の人は区立高南中学に進んだ。

高中で阿部は岩本宣子と仲がよかったようで、阿部が私と再会したことを知った宣子は会いたいと言い、用事があって京都から出てきたタイミングで、1月30日(火)、阿部が吉祥寺飲み会を催してくれた。

吉原も高中だが、同じクラスになったことはなく、お互いの存在は知っていたけど、話したことはなかったという。吉原も吉祥寺で阿部と再会した。

M下に捕獲される前から、阿部との音信は再開していた。Facebookを始めた阿部は、私を探し出し、メッセージを寄越した。2016年11月21日(月)9:29pmのことである。

「高円寺の阿部将です、今は京都に住んでいます。40年近くのご無沙汰なので、思い出してもらえるように写真を送ります」。これだ。
https://photos.app.goo.gl/88g8WDAUpVXn3o9G2


向かって左から二番目、ミシガン大学への留学から戻ってきた石塚からもらったTシャツを着ているのが私だ。その右の白シャツが阿部。お互い痩せてたな。左端の辻と右端の赤野は桐朋高校の仲間だ。撮ったのはおそらく吉村行弘。

吉村と私はよく一緒に山に登ったが、あまりに強行軍なもんだから、一緒に行ってくれる仲間がだんだんいなくなり、誰か知り合いに山登りするやつはいないかと吉村から聞かれ、そう言えば阿部がいた、と誘ったのだった。すっかり忘れてた。

ケ: 思い出せないんですけど。環七の向こう?
阿: そう、高円寺5丁目です。中学生の時にパチンコを教えたのは私です
ケ: パチンコはやってませんけど
阿: 桐朋の同級生と高尾山などへ行く時に何度か誘ってもらったのだけど
ケ: うわー、思い出せない〜

阿部は京都で起業している。「株式会社洛歩」。大学で専攻した油脂化学の知識を生かし、オーガニックコスメ商品の製造・販売を手掛ける。
http://rakuho.jp/


会ったのは2016年12月22日(木)のこと。吉祥寺に宿泊するというので「美舟」にした。又吉直樹『火花』に出てくるお店。私が行ってみたかったのである。

2017年3月13日(月)には中野で飲んでいる。4月9日(日)、信楽へセーラー狸を撮りに行ったとき、京都から車で来てくれた。これだ。
https://goo.gl/photos/TMTBDRJwema4yZKg8


パチンコは、阿部んちになぜかあったのを私が気に入って、よく遊んでいたらしい。

5月7日(日)には京都で会い、「京都国際マンガミュージアム」や「京都大学吉田寮」を見ている。これだ。
https://goo.gl/photos/1JFVuRxKdhxGXfdr5


7月8日(土)にも京都で会っている。銀閣寺にいるとき激しい夕立が来て、砂山が崩れていった。傘がなくて雨宿りしていたが、閉園時間になったら追い出され、ずぶ濡れになった。寺は無慈悲だ。
https://photos.app.goo.gl/b3h82BnOY76RJgrF3


翌日、7月9日(日)は大阪で「シンギュラリティサロン」に聴講参加し、京都に戻り、愛$菩薩さんのライブへ一緒に行った。
https://photos.app.goo.gl/KyMVZ1mQhjMYMSr42


9月9日(土)、10日(日)、京都の「稲盛記念会館」と「京都府立京都学・歴彩館」で開催された『アーカイブサミット2017 in京都』に行ったときも、終了後、会場近くまで車で来て拾ってくれた。

あの学会は、京都大学の元総長である長尾真氏が委員長を務め、京都精華大学学長である竹宮惠子氏などの登壇する格式ばったものだった。セーラー服で行ったら、上司を含め、同僚3人と鉢合わせしてしまい、ちょっと気まずかった。

9月16日(土)、仲間内の飲み会をネットで生中継する『知に串刺せば香ばしい』を京都で催した。デジクリでレポートしている。
https://bn.dgcr.com/archives/20170922110000.html


これだけ会っているのに、記憶の一区画はまだ水没したままである。断片的には思い出してきていることがけっこうあるけど。人は、記憶の大きな一区画が欠落しても、その欠落自体に自力ではなかなか気づけないようになっているらしい。抜けたところは、記憶を適当に捏造して辻褄を合せちゃうものらしい。

自分の行動記録を"Diary.txt"にせっせとつけるようになったのは、そこにふと気づいて怖くなったからだったかもしれない。覚えてないけど。

1月30日(火)の吉祥寺飲み会は阿部がセッティングしてくれたのだが、岩本宣子も吉原利一もS井N美も杉八だったもんだから、話題の蚊帳の外に押し出され気味だったのは不運だ。しかし、長らく音信が途切れていた人たちとつないでくれたのは非常にありがたい。

私もそこそこ小さかったが、岩本宣子はもっと小さく、校庭での全校朝礼のとき、私の右前のほうにいて、ちょっとかわいいなと思っていた。5年生になるまでは、同じクラスになったことはなかった。

なのに、どういうわけか向こうはこっちを知っていて、朝礼の後、つかつかつかと寄ってきて「ちょっと頭がいいからって、いい気にならないでよね」と憎まれ口を叩いた。前半はいいとして、後半はなんなんだよ。私は岩本のブー子と呼ぶようになった。

しかし、ブー子はその一件をぜんぜん覚えていないという。それどころか、記憶の中で、私が勝手に急成長しているっぽい。記憶とは全く不思議なもんだ。

40年ぶりに会うのは妙な感じだ。小さな子供だったのが、魔法の光線を浴びて一瞬でおばさんに変身させられちゃったような。お互いさまだけど。

分かって会えばなるほど面影は残っているが、道でたまたますれ違ったとしたら、ぜったいに気づかない。

25歳になるという娘さんが、これまたかわいい。もう決まった人がいるとのことだったが。

写真:
https://photos.app.goo.gl/ZorIalaweB1v1w5v2


脳内BGMは荒井由実『卒業写真』。目線が入っていないのが、宣子とオレだ。小学校卒業時点での。宣子から向かって左へ二人目がT内K美、オレの左隣りがG神Y介だ。

まさかこういう人生を送ろうとは夢にも思っておらず、希望に満ちあふれてたあの頃のオレ、すまんな。

途切れっぱなしで終わるかなと思っていた音信が再開していっているのも、元はと言えば、セーラー服のおかげである。目立つというのはいいもんだ。人に薦めても、あまり同調されないのは理解に苦しむ。


【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
http://www.growhair-jk.com/



《さほど温暖でもなかった福建省福州》

2月3日(土)〜4日(月)、中国福建省福州に行ってきた。台湾から海峡を隔てた西北西に位置するので暖かいのかと思いきや、そうでもなかった。

しかし、降雪はめったになく、たまに降ってもせいぜい積雪3cmだとか。イベントのステージで、客席から手が挙がり、日本で雪を見るならどこがいいかと聞かれたんで、十日町をお薦めしといた。高さ150cmの雪の壁の間を走る飯山線はいいぞ。2月16日(金)〜18日(日)は雪まつりだ。
http://snowfes.jp/


羊羹氏から通訳でお世話になるのは、去年の8月14日(月)の雲南省昆明以来だ。その前に日本の社会科の教科書を読んでみたいと言っていたので、手土産に2冊持っていくつもりだった。

杉原誠四郎、藤岡信勝、他
『市販本 新版 新しい歴史教科書』
自由社(2015/6/3)

子どもと学ぶ歴史教科書の会(編集)
『増補 学び舎中学歴史教科書 ともに学ぶ人間の歴史』
学び舎(2016/10/1)

両極端に位置づけられるもので、それ以外のはすべて間のどこかに落ちるはずだという考えの下に選択した。

ところが出発までに後者が届かず、前者しか渡せなかった。中国にとってはおもしろくなかろう、右寄りのものである。今回やっと後者が渡せた。

さっそくぱらぱらっと読んでくれたようで、社会科、特に日本史においては、日本人の間でマジョリティから支持されている標準的な歴史観があるわけではなく、国内でも見解が割れていることはご理解いただけたようである。

特に、従軍慰安婦や南京大虐殺などのデリケートな話題については、どっち側の意見を述べたとしても、激しく突っ込んでくる人が現れそうで、恐くて話題にすることもはばかられるのだよ。

偏った考え方の人たちって、同調しあってクラスタを形成しやすく、エコーチェンバー効果で、信念をいっそう強化していきがちだ。激しく衝突して火炎瓶を投げ合うのも困るけど、互いに馬鹿呼ばわりして静かに分断されていき、全体的に弱体化しかねない今の状況も、あんまりよくないなぁ。

イベントでポスターを売っていると、エレキギターを持ってきた人がいる。ここにサインしてくれ、と。ももももったいない! サインしてあげる、ではなく、慎んでサインさせていただく感じ。

写真:
https://photos.app.goo.gl/Rk7Tdsj2cuZRdeeu1



《こいぬまめぐみさんが本の著者に》

3月9日(金)発売予定の書籍『でも、ふりかえれば甘ったるく(PAPER PAPER)』(日販アイ・ピー・エス)の9人の共著者のうちの一人はこいぬまめぐみさんだ。
https://www.amazon.co.jp/dp/4990933907/


こいぬまさんは、2015年10月27日(火)から2016年2月26日(金)まで8回にわたってデジクリに寄稿してくれた。
https://bn.dgcr.com/archives/%E3%81%93%E3%81%84%E3%81%AC%E3%81%BE%E3%82%81%E3%81%90%E3%81%BF/


この本については、Amazonに次のように説明されている。

悩みながら、もがきながら、噛み締めながら「今」を生きる。女性9人が自分らしく想いを綴る、それぞれの「幸せ」とは。彼女たちの「これまで」と「これから」をまとめたエッセイ・随筆集。

こいぬまさんは、Twitterで次のようにつぶやいている。

〈いやもうほんとね、この面々に私がいて大丈夫かって感じなのですが、手書き文字への変態性を買ってくださったそうなので、どうかよろしくお願いします。もう今からドキドキしています。〉

こいぬまさんの文章は、心の小さな動きをうまく言語化して掘り下げるのがおもしろくて、いいなぁ、と思ってたけど、本で読めるのは特段にうれしい。


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編集後記(02/09)

●中島恵「なぜ中国人は財布を持たないのか」を読んだ(日経プレミアシリーズ/2017)。筆者は17年春から夏にかけて中国各地を取材して歩いたが、どこに行ってもシェア自転車とスマホ決済の波に圧倒された。そして、出会った中国人は口を揃えて「現金は不要、スマホ決済のほうが圧倒的に便利だ」と言う。

中国ではウィーチャットペイの利用者が約8億3000万人、アリペイは約4億人で、両方使いも多い。この二つが、スマホ決済として最も幅広く利用されている。決済できる範囲は公共料金はもとより、ありとあらゆる場面で、都市部はもちろん内陸部の農村まで広がっている。スマホで決済できない支払いは、ほとんどないといっていい。16年のスマホ決済は日本円にして600兆円だという。

利用方法はいたって簡単。殆どの店にQRコードがあるから、スマホをかざして読み取り、金額をスマホに入力するだけ。すぐに完了し、残高から引き落とされる。中国の大都市では財布なしの生活が日常化しており、銀行に行くのはスマホが使えない老人だけで、しかも銀行が混んでいるのは年金支給日のみだ。

筆者は日本に住む中国人の友人に、自分の体験を興奮気味に、日本は遅れていて恥ずかしかったと語ると「あれは行き過ぎ、このままでは中国はどうなるのか、安心して現金が使える日本社会のほうが、よほど落ち着いていてうらやましい」と返される。中国ではスマホ自体がインフラになってしまったのだ。

インフラであるスマホを使わなければ、中国では生きていけない。スマホありきで世の中が動いている。高齢者たちもスマホを駆使しなければならない。スマホができなければ情報に乗り遅れるだけでなく、社会から脱落してしまう。中国人が一日中スマホをいじっているのは、生きていくために必死だからだ。

中国人の友人は言う。「日本社会は日本人が想像している以上に安心、安全。日本人自身は意識していないでしょうが、日本は社会と人とが信頼しあえる『相互信頼社会』なんです。おいしい空気とおいしい水があるだけじゃなくて、これは日本の財産。今は中国の華やかなIT革命に目を奪わ、一部の人が『日本は完全に遅れをとってしまったのでは……』と心配しているだけです」

中国は不便な環境だったからこそ、逆にスマホが飛躍的に普及し、ある面で日本を飛び越えた。経済用語で「リープフロッグ(カエル跳び)現象」「後発者利益」と呼ぶ。先進国が歩んだ進化の過程を、後進国が一気に飛び越えてしまう現象だ。今の日本と中国は、置かれている状況が違うのだから心配ご無用。

ニセ札問題は長いこと中国人を悩ませてきた。スマホ決済が普及して多くの人は、これでもうニセ札を掴まされる心配がなくなったと安心した。これがスマホ決済への移行によって得られた、最大の効用だったかもしれない。そして中国ではお約束の賄賂が、スマホ決済では跡がつくので渡しにくくなったそうだ。

スマホ決済の画期的なところは、中国ではこれまで実現できなかった「騙されにくい社会」に向かいつつあるということだと筆者は言う。いままでの「不信社会」をスマホが変えつつあると説く。しかし、もはや個人と切り離せなくなったスマホは、インフラであるだけに国家が容易にコントロールできるのではないのかとわたしは考える。人民統制に究極のツールがスマホだ!(柴田)

中島恵「なぜ中国人は財布を持たないのか」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4532263565/dgcrcom-22/



●プレゼントのご応募お待ちしております!/脳の容量が少ないらしく(たぶん)、すぐに過去のことを忘れる。覚えているのは強烈な印象の出来事や人だけ。知らぬうちに分身して、シフトのローテーションを組んでいるのかもしれない。

/Facebookアカウント凍結続き。いろいろ調べていて、IFTTTに行き当たる。

脱線するが、これを「イフト」と読むのだと半年前ぐらいまで知らなかった。ずーっと「アイエフティーティーティー」と読んでいた。

使い始めたのは2011年。最初のアプレットは見様見真似で作った天気予報通知。いま走らせているのは17個。認証しているサービスは32だが、使わなくなったアプレットがあるので整理せねばなるまい。

認証切れのため、たまにサイトにアクセスしては、対応サービスが増えていて驚く。今回アクセスしてみて、LINEまでサービスの中にあるのを知った。(hammer.mule)

プレゼント「グローバルWebサイト&アプリのススメ」
https://bn.dgcr.com/archives/20180130110100.html


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