[5024] 仁とは克己復礼に務めることである◇農業と気候変動と新型コロナ

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《それが仁だよ》


■まにまにころころ[179]
 ふんわり中国の古典(論語・その42)
 仁とは克己復礼に務めることである
 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito

■クリエイター手抜きプロジェクト[620]雑談編
 農業と気候変動と新型コロナ
 古籏一浩



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■まにまにころころ[179]
ふんわり中国の古典(論語・その42)
仁とは克己復礼に務めることである

川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito
https://bn.dgcr.com/archives/20200608110200.html

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ロこと川合です。新コロナ騒動、落ち着きつつある一方、再び感染が広がる地域もあったり、そんな中でアメリカでは新コロナどころじゃない状況が発生していたり。まあアメリカの話は別にしても、新章突入って感じでしょうか。

この土曜、久し振りにショッピングモール的なところへ買い物に出たのですが、人出は新コロナ前と変わらない感じでした。緊急事態宣言中を知らないので、戻ったのかそもそも変わらなかったのか不明ですけども。

経済云々を無視して言えば、まだもうしばらくステイホームで様子見するのが得策かなあと思ってはいるんですが、なんかいつの間にか季節も変わったので、涼しい服が必要になって。春服というか夏服というか。

季節と言えば、そろそろ梅雨。夏日が増えてきてるんで夏気分でもありますが、その前に梅雨ですよ。既に南の方は梅雨入りし始めていますが、今週後半には全国的に入梅ってとこじゃないでしょうか。

仕事も外出予定も何もなければ、雨自体は嫌いじゃないんですけど、外に出るとなると、面倒くさいんですよね。常に荷物多いタイプなので余計に。しかも自転車通勤始めたので。歩いて行ける距離だし、雨の日は徒歩かな。

そうそう買い物行った先で、紫陽花を見ました。梅雨入りを前にほぼ満開で。今週あたりどこも見ごろかも知れませんね。名所でなくてもあちこちで咲いていると思いますので、まだ密を避けてお楽しみください。

さて、新コロナや季節に続いて、論語も今回から新章突入です。


◎──巻第六「顔淵第十二」一

・だいたいの意味
顔淵が(孔子先生に)仁とは何かを尋ねた。

孔子先生は仰った。
克己復礼が、仁というものである。
一日、己に勝ちて礼に立ち返れば、天下が仁に心を寄せる。
仁をなすのは己によるものである。どうして他人によるものか。

顔淵は言った。
その子細をお聞かせください。

孔子先生は仰った。
礼にあらざれば、観ることなかれ。
礼にあらざれば、聴くことなかれ。
礼にあらざれば、言うことなかれ。
礼にあらざれば、動くことなかれ。

顔淵は言った。
この私、愚かではありますが、そのお言葉を実践いたします。


──巻第六「顔淵第十二」一について

克己復礼(こっきふくれい)という四字熟語の出典がこれです。

我欲に打ち勝って、礼に立ち戻った振る舞いをすること。自分がそうすることで、天下もまた仁に心を寄せるようになる、と。

ひとりひとりがそう心がけるようにという話であるとともに、為政者の心構えとしての話でもあります。天下人民に仁を求めるのではなく、己が欲望に勝ち礼を重んずれば、天下も仁に染まっていくと。

日本で新コロナによる死者が少ないのは民度が違うからだ、という趣旨の発言をした大臣がいましたが、だとすれば国民が仁を実践したのに対して、大臣の発言はいささか礼に欠けるところがあるというもので。この場合は、天下人民の側が仁をより実践して、為政者の方を感化していくべきなんですかね。

仁とは克己復礼に務めることである。
具体的には、
礼にあらざれば、観ることなかれ。
礼にあらざれば、聴くことなかれ。
礼にあらざれば、言うことなかれ。
礼にあらざれば、動くことなかれ。
これを実践することである。

これがこの章の要旨ですが、「仁とは何か」について孔子先生は、いつも通り、相手によって異なる答えを返しますので、実際に仁とは何であるかというのは克己復礼に限ったものではなく、なかなかに掴みにくいものです。

まあとりあえず、麻生さんには日頃から「礼にあらざれば、言うことなかれ」を実践して欲しいところですね。麻生さんに限らないですけど。

与野党問わず日本の政治家には、もう少し発言に気を使って欲しいです。ほら、フィクションの世界だと政治家って、口では上手いこと言いながら裏で悪事をはたらくものでしょう?

で、悪事に気づいた主人公が、化けの皮を剥ぐってのが王道じゃないですか。なのに、昨今の現実では表での発言からして微妙な政治家が多すぎて、主人公の出る幕なんてないという事態。

政治家たるもの、外面は聖人君子。悪事は裏で。そうあってもらいたい。


◎──巻第六「顔淵第十二」二

・だいたいの意味
仲弓が(孔子先生に)仁とは何かを尋ねた。

孔子先生は仰った。
門を出て(人に会う時)は、賓客に会うがごとくにし、民を使う時は、大祭に仕えるがごとくにする。己の欲せざるところは人に施すことなかれ。そうすれば、国にいても恨まれることなく、家にいても恨まれることがない。

仲弓が言った。
この私、愚かではありますが、そのお言葉を実践いたします。


──巻第六「顔淵第十二」二について

顔回の時とは違って、今度は同じ仁の話でも、人との接し方について。

人に会う時はいつでも、大切なお客さんに会う時のように礼を尽くしましょう。人を使う時は、大切な祭祀を執り行う時のように、丁寧に取り計らいましょう。自分がされて嫌なことは、人にもしないようにしましょう。

それが仁だよ、と。

さっきは、身を律して己の振る舞いを見つめ直しなさいと、内に向けた態度を。今回は、他者には礼を尽くしなさいと、外に向けた態度を示した話です。

仁とは何か。この後、もうひとつ続きます。


◎──巻第六「顔淵第十二」三

・だいたいの意味
司馬牛が(孔子先生に)仁とは何かを尋ねた。

孔子先生は仰った。
仁者はその言葉が訒(じん)である。(訒=しのぶ、控えめ)

司馬牛が言った。
その言葉が訒であれば、それで仁と言っていいでしょうか。

孔子先生は仰った。
仁を実践することは難しい。(自然と)言葉は控えめにならざるを得ない。


◎──巻第六「顔淵第十二」三について

司馬牛の発言は単なる揚げ足取りみたいなもので、スルーですね。

この司馬牛という人は、口数が多く騒がしい人だったと言われています。ここでは仁がどうのという以前に、それを踏まえて忠告しているんでしょう。

べらべらべらべらとうるさい司馬牛に対して、仁者というのは言葉が控えめなものだぞと。仁を知りたいならとりあえず黙れ、と。

司馬牛は、苦言を意に介さず、じゃあ言葉が控えめなら仁なんですか、と。

私ならこの時点で破門にしています。(笑)

口ばかりが達者で実践が伴わない人は、仁者ではありません。

そして、仁を行うのは難しいものです。

つまり、難しい仁の実践において言行を一致させるためには、必然的に言葉は控えめにならざるを得ないという話です。

口数が少なければ仁者なのかって、そんなはずはありませんが、少なくとも、仁者は口数が少なくなると。司馬牛、てめーはダメだ。

そんな司馬牛ですが、次章も司馬牛の話です。


◎──巻第六「顔淵第十二」四

・だいたいの意味
司馬牛が(孔子先生に)君子とは何かを尋ねた。

孔子先生は仰った。
君子は憂えず、怖れず。

司馬牛は言った。
憂うこともなく、怖れることもなければ、それで君子といっていいでしょうか。

孔子先生は仰った。
内に省みてやましいところがないなら、何を憂うことがあろうか。何を怖れることがあろうか。


◎──巻第六「顔淵第十二」四について

司馬牛の発言は単なる揚げ足取りみたいなもので、スルーですね。(再)

自身にやましさがなければ、憂いも怖れもないもの。だから君子は憂いもせず怖れもしない。そういう話です。

なるほどね、と思う一方で、そんなこともないだろうとも。世の中の憂いには、自身が関与しようもないことによるものだって多々ありますから。

新コロナによるあれこれなんて、それこそ憂慮することばかりですが、自分にやましいところがあるかどうかとは関係ないでしょう。

ですのでおそらくこの話も、あくまでもこの時の司馬牛に向けたものでしょう。

実は次章も司馬牛の話で、そこで司馬牛はまさに憂いているんです。


◎──巻第六「顔淵第十二」五

・だいたいの意味
司馬牛が憂いて言った。
人にはみな兄弟がいるのに、私だけいない。

子夏が言った。
私はこう聞いた。「死生には運命がある。富貴は天命による」と。君子は慎み深く過失を犯さない。人と恭しく接して礼を重んじていれば、四海の内はみな兄弟だ。君子はどうして兄弟のいないことを憂うだろうか。


──巻第六「顔淵第十二」五について

一人っ子がどうとかって話ではありません。この司馬牛、兄弟がいないと憂いていますが、兄がいたと言われています。カンタイという名の男で、孔子先生を襲撃したことのある人物です。

誰も覚えていないと思いますが「述而第七」の二十二で名前が出てきています。孔子先生が、カンタイなどに私をどうこうできるものか、と言っています。宋でカンタイに襲われたあとに言った言葉です。

詳しくは省きますが、何かと問題を起こす男で、そんな奴を兄に持つからこそ、司馬牛は「私にだけ(まともな)兄弟がいない」と憂い嘆いているのです。

それに対して子夏が、そんな兄がいることも運命であってお前のせいじゃない。君子にとっては人類皆兄弟、嘆くなよ、と慰めているんですね。

そう考えれば、さっきの章とこの章は逆の方が、話が繋がって分かりやすい。

兄のカンタイの振る舞いに、私には兄弟がいないと嘆く司馬牛。

君子にとっては人類皆兄弟となだめる子夏。

君子ってなんですかと孔子先生に尋ねる司馬牛。

憂うこともなく、怖れることもないのが君子だと孔子先生。

憂うことがなければ君子なんですかと、くってかかる司馬牛。

内省してやましいところがなければ憂わないだろう、と孔子先生。

君子が何かは分からないままのようなやり取りですが、要するに、ここでは、「お前のせいじゃない」って、みんなで司馬牛を慰めているんですね。

兄がやらかしたことも、そんな兄を持ったことも、運命であってお前のせいじゃない。内省してもお前にやましさはないだろう、ならば憂う必要はない、と。

憂いていないで、君子たれ、と。そうすれば世界中みんなお前の兄弟だよ、と。

あったかい仲間、やさしい世界です。


◎──今回はここまで。

今回の新コロナ騒動で、動画配信サービスが賑わっています。興業が打てないので、音楽ライブに始まって、舞台演劇、落語、講談、狂言などが続々と配信されるようになりました。

無観客で行うため、なかなか難しいようですけども、それぞれの世界に触れたことがない人がその世界を知る入り口として、お互いとても良い機会になったように思います。

未曾有の出来事に世の中が大きく揺れ動いていますが、その中でも何かしらの良い部分を見つけて、前向きに過ごしましょう。


【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
https://www.facebook.com/korowan

https://www.facebook.com/caputllc


 
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■クリエイター手抜きプロジェクト[620]雑談編
農業と気候変動と新型コロナ

古籏一浩
https://bn.dgcr.com/archives/20200608110100.html

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プログラム関係のネタが続くと編集長が退屈そうなので、今回は何となく過ぎ去ったのか、また来るのか分からない新型コロナのネタでも書くことにします。

現状、いくつかの仕事があるので、ここでは主に農業系に絞ってみます。給食・小売り関係およびコンピューター/情報関係、映像関係、イベント・講座関係は今回はパスします。

●気候が変わっても農作業は続く……

2月にあの船がやってきて、テレビで連日報道が始まりました。あの船とはダイヤモンド・プリンセスです。うちでは「コロナ丸」という愛称で呼ばれている船です。

コロナ丸の騒動が一段楽ついたと思ったら、今度は市中感染が発生。まあ、定番の流れ。この時は2月でしたが、けっこう暖かかった記憶があります。ところが、中国の武漢の経済活動が停止したせいか、この後だんだんと寒くなっていきました。

実は、この中国の経済活動が停止した影響で「普通に種をまいて普通に芽が出てくる」という、至って普通の出来事を1995年以降久しぶりに体験しました。

1995年までは冷夏もありましたが、それなりに天気はうまく循環してました。簡単に言えば、暑い夏に気温が上がって入道雲が発生して夕立が来る、という現象です。それまでは、これは当たり前だと思っていました。

ところが1996年頃から、この大気循環がおかしくなりはじめました。1996年には、怖さを感じる豪雨に襲われたりしました。1998年あたりからは、入道雲は発生するのに雨が降らず、夜も暑いままになりました。

21世紀に入ると夕立が深夜0時に降ったりして、夕立じゃなくて夜立ちみたいになったりすることもありました。

「なんで、こんな天気(大気循環)になるのだ!」

炭素少女のグレタさんが怒るのも、分からなくはありません。農業系では大気循環が狂ってしまうと、作物ができなかったりするからです。大気循環でなく農業政策的に失敗したシリアという国もあります。
参考:http://www.nikkei-science.com/201605_086.html


うちは田んぼと畑があるのですが、一昨年は田んぼに水が来なくて、ひび割れてたりしました。うちの田んぼは約100枚あるうちの下から7枚目なので、雨が降らなくなると水が来ないのです。

その時は、運良く田んぼの周辺だけ夕立が来て、助かったというような状況でした。さらに8年くらい前は、5月にまったく雨が降らず、これじゃあ田植えができないよ、みたいな有様になったりもしました(水利委員だったので苦情の電話が来る)。

それが今年は、例年より二週間くらい遅れの感じの気候になりました。中国の武漢がもっと早く経済活動停止になっていたら、普通に寒い冬が来ていたのかもしれません。

1980年頃は冬は氷点下20℃とか、寒い日がありました。諏訪湖が凍って御神渡りができるのは、当たり前の事象でした。今では、諏訪湖が凍ること自体が珍しくなってしまいました。

・諏訪湖
https://ja.wikipedia.org/wiki/諏訪湖


大気循環がおかしくなっても、農作業はやらなければいけません。基本的に例年通りの日程で、種まき、田植えなど定番の農作業が行われます。

うちの田んぼの場合、4月の最初の日曜日から作業が始まります。側溝にたまった石や泥を、スコップや鋤簾(ジョレン)ですくい上げます。東京や大阪の人であれば、コロナウイルス騒動の最中だから、皆マスクをしているだろうと思うでしょう。マスクをしていったのは私だけでした。

農作業にマスクは不要なので、誰もしていません。ということで、マスクは単なるアベノマスク同様にネタ扱いになり、作業前に車の中に放り込んでおきました。

まあ、これに限らずマスクしての農作業は、消毒作業とかでない限りはありえないでしょう。今も農作業の時はマスクはしません。マスクなんてしたら、苦しいだけで意味がないからです。

暑い中での農作業であれば、マスクをするほうが危険でしょう。どのみち数10メートル範囲には誰もいません。100メートル範囲に広げてみても、ほとんど誰もいません。

ということで、アベノマスクは未だに届いていませんが、今日も平和に農作業をしております。

余談ですが、3月頃に長野県最大のレタス産地である川上村で、外国人労働者が日本に来ることができなくなってしまったと、ニュースで流れていました。これをラッキーと思ったのか、まわりではとにかく大量にレタスを栽培するという博打に出ました。川上村のレタスの減った分を、こっちで生産して稼ごうという腹です。

さて、その博打の結果ですが、高値だったレタスも数日の差で価格が大幅下落。そして出荷しても赤字になるという、ありがちなオチになりました。下落した理由は大量に供給されたからというだけでなく、旅行・飲食関係での需要がきれいさっぱりなくなっているからのようです。農業って難しい……。


【古籏一浩】openspc@alpha.ocn.ne.jp
http://www.openspc2.org/


おかしくなりはじめた気候変動をネタにした「天気の子」は、2019年公開でした。最近天気がおかしいと、新海誠監督がインタビューだったかで言っていましたが、天気が狂いはじめたのは、それよりも25年くらい前からではなかったかなと思います。諏訪湖の御神渡りが発生しなくなったのは1992年からですし。

コロナの影響でほとんどのアニメが中断、もしくは1話からの放送に。でも、田舎だと1話から繰り返したりすることもあるので、これもある意味通常(長野県だと「ドラゴンボール」が最初から繰り返されたことがありました)。

それにしても、コロナ騒ぎの真っ最中に始まったアニメが「ハクション大魔王」ってのが、なかなかタイムリーな皮肉かと思ったり。

・創って学ぼうプログラミング
https://news.mynavi.jp/series/makeprogram


・8K/4K/ハイビジョン映像素材集
http://www.openspc2.org/HDTV/


・クリエイター手抜きプロジェクト
http://www.openspc2.org/projectX/

 

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編集後記(06/08)

●「論語」系の書物をふたつ、並行して読んでいる。ひとつは元大阪地検特捜部検事だったがまさかの獄に落ち、気も狂わんばかり日々を送る中で「論語」に出会い、生きる支えを得て立ち直り、2013に「塀の中で悟った論語」を著した田中森一である。納得のいかない罪状で収監されたエリートの、血尿を見る絶望の日々が壮絶で、論語が血肉となって起死回生する感動的な背景。

もうひとつは酒見賢一「陋巷に在り」新潮文庫である。この文庫は、1992から2002までかかった。単行本もあるようだが見たことがない。とにかく保存状態のいい文庫版全13巻が書棚にあった。すっかり忘れていたのだが、ここんとこ毎日、文庫本の整理とカバーのグラシン紙かけというマニアック作業中に発掘したのだ。カバーしていたグラシン紙を脱がしてみると、ほとんど新刊である。

カバー装画は諸星大二郎、この漫画家の作品も随分集めたものだが、オークションで売れ残ったのがまだ少し残っていて、時々読んでいるが飽きないものである。「陋巷に在り」第1巻は「儒の巻」。聡明で強い呪術の能力を持ちながら、出世の野心もなく、貧しい人々の住む陋巷に住み続けた顔回は、孔子の最愛の弟子である。師に迫る様々な魑魅魍魎や政敵と争うサイコ・ソルジャー。

第1巻の主要人物は、孔子は当然として、顔回と子路であろう。まだ途中までしか読んでいないが。巷で孔子の評判を聞いた子路は、礼を教えるなどという年寄り臭い腑抜けた男が意外に評判がいいのが面白くなく、ひとつ喧嘩を売って化けの皮を剥がしてやろうと、あからさまにふざけた格好でどかりと孔子の部屋に乗り込む。ぎろりとにらみをきかせる。普通の人なら萎縮する迫力。

ところが、ぎょっとしたのは子路の方だった。孔子の姿たるや、身長が9尺6寸(約2.1メートル)、身体は分厚い偉丈夫、容貌は恐ろしいが穏やかに笑みさえ浮かべている。すでに子路は負けているが、ひるんで尻尾を巻けば男がすたる。勇を鼓して孔子を侮辱しようと構えるが、孔子はニコニコと「勇力に自信がありそうだな。そこに学問を加えれば益のあること何に及ぼうか」と宣う。

孔子は言葉だけでなく、子路を迎えた態度といいその後の挙措動作といい一分の隙もない。礼で鍛えたものだろうが、動きが理にかなっており無駄がない。喧嘩をしても強そうだ。こいつは君子(できたおとこ)だなと思った子路は、「ご無礼つかまつった」と叫ぶと荒々しく出て行く。ビジュアルが目に浮かぶ。

しばらくして衣装を改めてまた現れる。まったく似合わない借り物であろう儒服のようなものを着て、「謹んで教えを受けたくお願い申し上げつかまつる」と言い、照れくさそうに孔子に束脩を差し出す。孔子は可愛げのある三十男の入門を許す。この子路入門のエピソードは何度読んでもユーモラスだ。

子路は「論語」で「ぼろぼろのどてらを着ても、狐や狢を着ている貴人と並んで立って、恥じるところがないのは由である」と評される。孔子は剛直一本槍の子路を、天寿を全うできまいと予言する。それは的中し、子路は畳の上では死ねなかった。1巻目でそうと知ったが、13巻までどんな活躍をするのか楽しみだ。子貢という弁舌の達者な高弟もいる。こんがらかってきた。(柴田)

酒見賢一「陋巷に在り(1)儒の巻」1996 新潮文庫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101281130/dgcrcom-22/



●デジクリサイトがリニューアル。トップページはタイトル表示となり、個別ページへ飛びやすく、個別ページはサイドバーなし、行間増など読みやすくなりました。吉田印刷所の笹川さん、ありがとうございます!!

/キャッシュレスの還元キャンペーンがほぼ終了の続き。近所のエディオンにマウスの実物を求めて出かけたが、ロジクールのものは置いていなかった……。

液体石けんミューズのセンサーつきディスペンサーが壊れた。少し前は、台所洗剤用に使っていたセンサーつきディスペンサーも壊れたんだよなぁ。どうせ壊れるならキャンペーン中にして欲しかった(笑)。

ミューズのディスペンサーは、機械音はするものの、泡が出ない。ポンプ機能
のトラブルのようだ。これまた分解すれば原因が判明するだろうけれど……。

ミューズのは、カートリッジ式を使うことが前提で、他の洗剤だと詰め替えるのに手間がかかる。アマゾンでディスペンサーを見ると、どう見てもサクラですよねっていう、変な日本語の「日本でレビュー済み」レビューがたくさん。日本メーカーのものはないのかなぁ。またミューズにしようかな。
                            (hammer.mule)

デジクリ公式
https://bn.dgcr.com/


ミューズ ノータッチ。これの旧型を約10年使っていた
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B084CMCGGT/dgcrcom-22/


例えばこのレビューは日本人のものじゃないでしょ
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B087NRZQ2Z/dgcrcom-22/