誰からも信頼されない者たちへ
── 小形克宏 ──

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去る4月18日に行われた、日本語の文字と組版を考える会の第13回公開セミナー『もう一度、組版』に参加しました。セミナーは『基本 日本語文字組版』(日本印刷新聞社)の著者、逆井克己氏の報告を中心として、あらかじめ同書を読んだ5人のコメンテーターの発言、そしてそれらを踏まえた公開討論という内容で行われたのですが、詳細はここでは割愛し、ここではコメンテーターの一人、西井一夫氏(毎日新聞社出版局)と一般参加者である僕との間で応酬のあった問題について書きます。

僕が西井氏の発言中強く印象づけられたのは、日本語をどう組んだら読みやすく美しいかという組版技術を「うわっつらの見てくれである」と一蹴し、むしろなによりも重要なのは何が書かれているのかという原稿の内容であるという部分でした。

このこと自体に異議を唱える人はいないでしょう。むしろ言わずもがなの大原則と言えます。ただし僕は氏の発言の端々に一種欺瞞のにおいを感じ、セミナーの終わり間際に概略以下のような質問をしました。

「西川さんの発言は、まず重要なのは原稿そのものであるという指摘でありました。同時に予算を管理する編集者としては、“孤立字”(行頭に1字と読点だけになってしまう現象)を発見したら、前の句読点や1文字を削除して、そのような無駄を省くとも仰いました。これはあくまでも氏へのいたずらな誤解を避けるための確認の質問なのですが、やはりそのような場合は文字校に編集者が修整をした旨を断っているわけですよね?」


むろんこの質問は、氏がそのようなことをしていないであろうとの意地の悪い見通しの上になされた、ちょっとしたバクチだったのですが、氏の回答は以下のようなものだったと記憶しています。

「その原稿が部内の同僚や部下のものである場合、特にそのようなことはしない。また外部の執筆者の原稿でも、あとで執筆者に文字校を見せることでクリアされると考える。なぜなら一文字と言えど自分の原稿を変更されても判らないならば、それは執筆者に問題があるのだから。そもそも変えても内容に変わりのない句読点と、支障があるものとがあるのではないか」

氏の回答の最中に僕自身がカーッとなってヤジり始めたので、正直言って再現に自信がありません。場内もザワつき、僕以外にもヤジをとばす方がいたように記憶します。制止する声があり、司会者も呼びかけて、会の進行は旧に復したのですが、その後も他の方からの質問に、氏がまたトンデモな回答を言い放つなど、まだまだ聞かせてくれる内容が続くのですが、それは近日中に『日本語の文字と組版を考える会』のウェブページ上でなされるセミナーレポートの公開を楽しみに待つことにしましょう。

帰宅後に僕がセミナーの感想文を会の事務局にメールとして送信したところ、これが本紙の編集長柴田氏の目にとまるところとなり、内容を編集長のアドバイスに従って、加筆削除したうえで以下に再掲載するものです。なお、原文は
http://www.pot.co.jp/moji/se13kans.html

で読めます。ここでは僕以外の方々の感想も掲載されているので、興味のある方はアクセスしてみてください。

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過去何回かの『日本語の文字と組版を考える会』セミナーで、僕は何度もデザイナーやオペレーターの方々の、悲鳴にも近い訴えを聞いてきました。安いギャランティ、早い納期、無茶な要求。

今回も女性が発言されていましたね、文字をこう組んだのには理由がある、その理由も省みずに勝手気ままをするのは、もういいかげんにしてくれ。なかなか心に迫るものがありました。彼女の発言は同業のデザイナーに対するもののように僕には聞こえました。でも、編集者としての僕は、やはり以下のように思わざるをえないのです。「しかし、編集者は何をやってたんだ?」と。

これは、自戒を込めて言うのですが、現在のDTP の現場で起きている混乱のほとんどは、実は編集者がしっかりディレクションをしていれば回避されるべき性質のものではないでしょうか。予算の編成権をもっているのも、発売日の決定権を持っているのも、それからデザイナー、印刷所の発注をするのも、みんな編集者です。

逆井さんは「この本をDTP ソフトの開発者に読んで欲しい」と仰っていましたが、僕は編集者こそ必読と思います。なぜなら、編集者はオペレーターが組んだ文字を鑑定する能力が求められるからです。仕事を発注する人間が、自分の要求通りに仕上がったかどうかを鑑定できなくては、存在意義を疑われかねません。

しかし、悲しいかな、過去何回かの公開セミナーを聞くと、もはやデザイナーやオペレーター、印刷所の現場の方々は、我々編集者に過大な期待を抱くのはやめ、編集者抜きでうまくやろうとしているかのようにも思えます。

例えばこれはセミナーに同席していた先輩が指摘していたことなのですが、コメンテーターの祖父江氏が2バイトのアポストロフィーが1バイト文字に隣接している原稿が手元によく来ることを指して、アプリケーションで自動的に変換できないのかと言われていましたが、これなどは編集者がデザイナーに原稿のファイルを渡すときにチェックしていればおこらない問題のはず。

どうも祖父江氏は、それがされていないことを普通に思っておられるふしがある。つまり、編集者は仕事をしていないのが普通っていうこと。つまり信頼ゼロ。いやはや。

ここで話は西井氏に戻ります。あそこでの応酬で僕が問題にしたのは、「行の短縮に関わる原稿改変」でした。実はこれってどうってことない問題なんです。

だって一言文字校に「ここをこう直せば1行短縮できますが、よいですか?」と書けばすむんですから(それすら無用と言う西井氏は論外)。

むしろ我々編集者にとって一番切実な問題は「ここをこう直した方が絶対に良くなるんだけど、さてどうする?」ってことではないでしょうか。すなわち、「内容に関わる原稿改変」。

プロのライターの書いた文章と言えども瑕疵はあります。締め切りにあせって書いた原稿ならばなおさらのこと。むしろそういう「キズ」がない原稿にお目にかかることの方が非日常、ってのが正直なところではないでしょうか。この場合、編集者がとる態度は、僕の知る限り3つあります。

1)筆者に無断で手を入れる。
2)そのまま入稿する。
3)筆者に断って変更する。

正直に申し上げます。僕はかつてさんざん(1)をやりました。お恥ずかしい。

今となっては大バカ者ですが、実際の話、入稿は早くすむし、あとで文字校を見せても何も言わない筆者が大部分でした。しかしです、やがて心あるライターは離れてゆき、残ったのは「編集者がリライトしてくれるから、いーかげんな原稿でいーや」という人間ばかり。

なによりこういうテキトーな編集者の仕事ぶりが一番見えているのはデザイナーなんです。僕がいくら注文を出しても「時間がない」だのなんだの言って対応してくれない。つまり「あんただって時間がないと言ってズルしてるんだろ」

って訳です。ま、当然ですね。

遠回りかもしれません、でも結局は(3)しかないんです。自分がなぜこの文章に違和感をもったか相手に伝える。そして徹底的に話し合う。もちろんこちらの言うことに納得してもらえる時もあれば、そうでない時もある。でも、その綱引きのなかで信頼感が醸成されます。なによりも、こうすることで相手の仕事を尊重しているんだ、ということがわかってもらえる。同じ姿勢をとることによってデザイナーやオペレーターの信頼も得ることができます。

「原稿の内容こそが大事」といわずもがなの原則論を振りかざす西井氏が、一方で僕が悩みに悩んできた問題を無神経な手つきでないことにしようとした時、

僕はキレてしまった訳です。

「文字校を出せば許される」って論理は、つまり「文字校を出しさえすれば、編集者は原稿をどう変えたっていい」ってことです。だれもそんな自分勝手なウソ信じないっつーの。氏のような頭ごなしの態度をとっている限り、編集者以外のポジションの人々の信頼は得ることができず、編集者は軽んじられ、したがって現在の出版業界を覆っているDTP の現場の混乱は収まらない。かように愚考するものであります。

小形克宏(おがた かつひろ)
1959年、東京生まれ。和光大学人文学部中退。フリー編集者。「手塚治虫はどこにいる」('92年 筑摩書房)、「手塚治虫の冒険」('95年 筑摩書房)「笑う長嶋」('98年 太田出版)など夏目房之介氏の単行本の企画・編集を多く手がける。他に「週刊アスキー」誌上で連載記事の編集を担当。最近は子供が産まれたので仕事は最小限度にして家事と犬の散歩の毎日。最近、文字コード論争を戦後の国語政策の歴史に重ね合わせるとすごく面白いことを発見、図書館で資料をコピーしまくってます。