[2386] センセイと呼ばれるほどの…

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<すべての人は教師である>

■映画と夜と音楽と…[367]
 センセイと呼ばれるほどの…
 十河 進

■Otaku ワールドへようこそ![69]
 人形の声を聞こう
 GrowHair


■映画と夜と音楽と…[367]
センセイと呼ばれるほどの…

十河 進
< http://bn.dgcr.com/archives/20080314140200.html >
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●数え切れないほどの教師の物語があった

過去、数え切れないほどの教師の物語があった。小説でも映画でもテレビドラマでも、教師を主人公にした様々な物語が生産され消費されてきた。最近、小説や映画では少し廃れた気がするが、テレビドラマでは相変わらずの人気のようだ。「金八先生」シリーズはずっと続いているし、何年かに一度の割合で熱血教師ものが話題になる。

しかし、現実の教師を思い出すとき、僕たちは何とドラマと違うことかと落胆する。学生時代、教師は大きな影響力を持つ存在だった。しかし、学校を出てしまうと教師について考えることはなくなる。やがて、結婚し子供が生まれ学校に通い始めると、今度は厳しい目で教師を見ている自分に気付く。

「夜回り先生」だの「ヤンキー先生」といった現実にいる型破りな教師が話題になると、それはそれで何となくフィルターのかかった目で見てしまう。信頼できる教師の何と少ないことか、などと親のエゴを丸出しにして嘆く。それでいて、子供のしつけまで学校のせいにする。

僕も、あまり大きなクチはきけない。教育熱心ではなかったし、放任主義に近かった。実は、しつけもきちんとしたと断言はできない。だが、結局、家庭環境がしつけになるのだと思う。口で言っても子供には伝わらない。親の背中を見て子供は育つというけれど、それは真実だと思う。親の日常の言動を子どもたちは敏感に見ている。

ただ、僕は父の日前後に行われる「父親参観日」には、欠かさず出席した。そんなときに他の父母の発言を聞いて唖然としたこともある。最近、教師を悩ませる親の話がテレビでもよく取り上げられるが、そんなことは昔からあったことだ。我が子のことしか考えない親は、いつの時代にもいた。

あれは息子が小学四年生の頃のことだと思う。僕は父親参観日の後の教師との懇談会に参加した。十人足らずの父母が残っただけだった。結局、僕は何も発言せず聞いていただけだったが、驚きの発言がいくつかあった。ほとんど、それはひとりの若いきれいなお母さんの発言だったのだが…。

「学校が下校の時間を知らせるチャイムを五時半に鳴らし『下校の時間です』というアナウンスをしているが、我が家では門限を五時にしているので、下校のアナウンスを五時に鳴らしてほしい」と、まず彼女は言った。教師が穏やかに「無理です」と答えると、彼女は「なぜですか」といきり立った。

「あなたのお子さんにだけ向けているものではないので…」と教師が答えても、彼女はまったく納得できなかったようだった。それからも、「先日、自宅のドアに子供が指を挟んだ。学校でも危険なのでドアの合わせ目にすべてゴムを張ってほしい」といった注文を次々に出してきた。

そんな話を聞きながら、教師という仕事も大変だなと思ったものだ。特に使命感も明確な目的もなく教師になった人は大変だろう。僕らの頃には「でも・しか教師」という言葉があった。「教師でも」「教師しか」という意味だ。大学時代にも「とりあえず教職課程をとっておくか」という連中はけっこういた。

●「センセー!」と呼びかける声で湧き起こった激情

喪主の母親が挨拶をし、主人公(テリー伊藤)と妻(薬師丸ひろ子)と子がガンで死んでいった父(加藤武)の出棺を見送る。そのとき、参列者の中から「センセー!」と男の太い声が飛ぶ。その瞬間、淡々とその映画を見ていた僕の中に、突然、エモーショナルな激情が湧き起こった。涙が吹き出すように流れた。

映画を見ていて泣いたことは何度もある。しかし、泣かせよう泣かせようとする「あざとい映画」が嫌いなへそまがりの僕は、いわゆる「泣かせ映画」では絶対に泣かない。そんな僕が、こんな風に突然の激情に襲われたのは初めてだった。自分でも訳がわからない気持ちだった。

父親は中学の教師として勤め上げたが、主人公には父親の教え子が自宅を訊ねてきた記憶も年賀状がきた記憶もない。父親は厳しい教師だったと評判で、同窓会に呼ばれることもなかった。ガンで入院しているときにも「おじいちゃんとこ、誰も見舞いにこないね」と主人公の息子が言うほど誰もこない。

そんな父親が自宅で最期を迎え、その葬儀の日、大勢の参列者がやってくる。感極まって「センセー!」と叫んだのは教え子に違いない。それに続いて何人かが「センセー!」と声を挙げる。誰かが「仰げば尊し」を歌い始める。やがて、それが参列者に広がり合唱になっていく。その中を棺が静かに運ばれる。

市川準の映画は好きだった。その静かさが、感情を押しつけない映像が、切り取られた風景の中に潜む悲しみが、僕は好きだった。市川準監督作品は、引いた映像ばかりの印象がある。何かを押しつけてくる映像ではないからそう思うのだろう。しかし、もっとはっきり見せてほしい、説明してほしい、と思う人がいるかもしれない。そういう意味では市川準監督作品は不親切だ。

だから、「あおげば尊し」(2005年)のラストシーンで突然の激情が込み上げてきたとき、僕は戸惑った。市川作品なのに、こんなにわかりやすいハッピーエンドでいいのか。だが、すぐに理解した。こう終わるしかないのだ。教師だった人間は一生教師、と劇中で語られるが、主人公の父親は教師として死んだ。その棺に「センセー!」と声が飛ぶ。それくらいの報いは当然じゃないのか。

──ガキのうちはいいんだ、どんなに怨まれたって。彼らが大人になったときに俺の教えがわかってくれれば、それでいい…、それがオヤジの口癖だった。

頑固で厳しい父親を見て育ち、自分も小学校の教師になった主人公は、「未完成な人間に『いい先生』と言われたって仕方ないじゃないですか」と職員会議で言い切った同僚の女教師にそう話す。「どんなに怨まれたっていいって、凄いですね」と言う同僚の女教師に、主人公は「きみだって同じようなことを言ったんだよ」と笑う。

その会話があったから、僕はラストシーンで突然の激情に襲われ、涙を流した。そして、自宅で死を迎え、最後まで教師として生きた父親を演じたのが加藤武だったことも、涙が流れた大きな要素になっていた。そのとき、僕は四十三年前に加藤武が演じた中学教師を甦らせていたのだ。

●何でも困ったことがあったら先生に言うんだぜ

加藤武は、笑った顔さえ怖い役者だ。石坂浩二の金田一耕助シリーズで「よーし、わかった。あいつが犯人だ」と、すぐに早とちりする警部を演じて人気があったように喜劇的演技もうまい人だが、容貌はほとんど鬼瓦と形容したいほどである。その加藤武が中学教師を演じたのが「キューポラのある街」(1962年)だった。

加藤武は生徒たちから「スーパーマン」と呼ばれる怖い教師である。主人公のジュン(吉永小百合)は、貧しい両親に高校進学が言い出せない。職員室にやってきたジュンの様子を見て、スーパーマンは「何でも困ったことがあったら先生に言うんだぜ」と言う。その何でもないセリフがひどく印象的で、僕はずっと憶えていた。

「キューポラのある街」が公開されたとき、僕は小学五年生だった。劇中のジュンの弟タカユキと同じくらいだった。だから、職員室のたたずまいもひどく懐かしい。街の風情も当時を甦らせてくれる。若き加藤武が演じた中学教師も「いたよなあ」というくらいはまり役だった。

1929年生まれの加藤武は「キューポラのある街」のときは三十三歳、「あおげば尊し」では七十六歳になっている。僕は「あおげば尊し」の死にゆく老教師が「キューポラのある街」のスーパーマンとあだ名で生徒たちに親しまれた教師に思えた。ベッドに寝たきりで、ろくに喋れず死にゆくだけの老人の姿を見ながら、僕は鮮明に「キューポラのある街」の教師を甦らせたのだ。

「あおげば尊し」の老教師は人生の最期に、息子の教え子に身をもって「死とは何か」を教える。その生徒は幼い頃に父親が死んだのだが、そのため「死」に興味を持ち、インターネットで死体の写真を見たり、葬儀場に紛れ込んで死体を覗いたりする。主人公はそんな問題児をうまく指導できず、悩んだ挙げ句、死にゆく父親の看護を手伝わせる。

生徒は「人間の死」に対して好奇心しかない。死にゆく老教師の写真を撮り、サイトに掲載しようとさえする。だが、息子の教え子のために老教師は自分の死を教材にするのだ。臨終が迫ったとき、老教師の手を生徒が握るシーンは、人が人に「教えること」の意味を深く深く考えさせる。

そう、「あおげば尊し」という映画は、実に今日的で深いテーマを内包している。「死」の意味を教えることは、生きる意味を教えることでもある。人は生まれたときから「死」を抱え込む。誰もが死に向かって生きている。いつくるかわからない「自分の死」に向かって、人は生きていかなければならない。そのときまで、どう生きるか、いかに生きるか、と人は悩む。

明日は死んでいるかもしれない、それなのに学ばなければならないのか…と問われたとき、「人は死を迎えるまで、しっかりと生きなければならない」という言葉は説得力を持つのだろうか。「死」の意味を教える。「死」を迎えるのは確実なのに、なぜ懸命に生きるのか、という意味を教える。何とむずかしいことか。

しかし、老教師の死によって、「死」への好奇心しかなかった生徒の心に死ぬことの尊厳のようなものが伝わる。それは、死ぬまで教師であり続けた、教師として生きた老人の姿が彼に何かを教えたに違いない。「いかに生きるか」と同じように「いかに死ぬか」は大切なのだと僕は思う。

だから「すべての人は教師である」と僕はこの映画を見て納得した。それは「反面教師もまた教師」といったシニカルな諦念でもなく、「我以外みな師」などという儒教的かつ優等生的な悟りとも違うものだ。僕自身が誰かの教師であるかもしれず、誰かから学ぶことは死ぬまで終わらない…、そんな感慨だろうか。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
今週は花粉症がひどく精神的にも落ち込んでいたので、「原稿は休ませてもらおう」と思ったのですが、マックの前に座ると書けてしまいました。連載も九年近くになり、週末の習慣みたいになっているのかもしれません。書くのに三時間ほど、ひと晩かふた晩寝かして手直し。そんなペースです。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1 >

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■Otaku ワールドへようこそ![69]
人形の声を聞こう

GrowHair
< http://bn.dgcr.com/archives/20080314140100.html >
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こう暖かくなっちゃうと、すっかり時期はずれで間抜けっぽくて困るんだけど、1月のことを振り返って書きます。コスプレのイベントで和歌山に行った話は前に書いたけど、目当てはもうひとつあったのでした。

●人形たちがひしめきあって、徐々に朽ちていく

奉納されたおびただしい数の人形が、拝殿から回廊から縁の下から境内まで、びっしりと並んでいる。和歌山県の加太という港町にある淡島神社である。人形に呼び寄せられたとしか言いようがない。去年の夏ごろ、いつか人形を連れてきて撮るためのロケハンのつもりで、長野県の高原の田園地帯へ行った。たまたま通りがかった神社は、高い杉の木立に埋もれるようにしてあり、神秘的な感じがしたので、立ち寄ってみた。回廊の隅に段ボール箱があり、奉納された人形が20体ほど、無造作に転がしてあった。

なんだか不憫な気がして、せめて最後の一花をと思い、箱から取り出してほこりを払い、回廊に立たせていちばんきれいに見える角度から写真を撮った。市松人形は、目がうるんでいるように撮れた。

その写真をミクシィのアルバムに載せておいたところ、和歌山に住んでいるマイミクさんが、淡島神社のことを教えてくれた。いつか行こうと思っていたら、1月にコスプレのイベントでカメコりに和歌山に行くことになった。その機会を利用して、イベントの前日に行ってみたのである。

1月12日(土)7:50東京発ののぞみに乗り、京都で特急に乗り継いで、和歌山へ。着いたら、雨がしょぼしょぼ降ってて、寒い。傘を買おうとしたが、折りたためない長い傘しか売ってなかったので、旅行の邪魔になると思い、買わず。

和歌山市駅までは鉄道よりも運行頻度の多いバスで行き、そこから南海加太線に乗る。海へ向かう、単線の田舎電車。のどかだ。まっすぐなところをゆっくり走っていても、なぜかよく揺れる。

終点の加太に着いたのは1時過ぎ。雨は止んでいるが、道はまだ濡れている。厚い雲が低く垂れ込め、また降り出しそうでもある。またしても長い傘しか売ってない。この寒さで雨にあたったら、相当キビシイ。けど、どうにかなるさと、買わずに歩き始める。

駅から10分ぐらい歩くと海に出る。加太温泉があり、いちおう観光地である。クエという高級魚の料理を出す温泉宿が何軒かあり、漁港からは釣り客のために舟を出すらしい。だけど、こんな季節のこんな天気の日なので、観光客はどこにも見当たらない。レストランなども開店休業状態。カモメの鳴き声がこれほどまでに悲しげに聞こえる光景もなかなかないぞ。

雨は上がったようで、少し明るくなってきた。さらに10分ほど歩くと、淡島神社に着く。どっしりとした鳥居をくぐり、左側に土産物屋が立ち並ぶ参道を進むと、正面に本殿がある。すごい数の人形。平らなところは、通り道以外すべて、密集した人形に覆い尽くされていると言ってよい。分かっていたのに、見た瞬間、ぞくっとする。いったい何千体いるんだ?

同じ仲間どうし、類別してある。本殿に巡らされている廊下には、歩く隙間がまったくなく、京人形に埋め尽くされている。正面の石段の左側は風俗人形、右側は市松人形。その下の縁の下には白無垢の花嫁人形。本殿の中には雛人形や童人形。境内には瀬戸物の人形。人形に限らず、招き猫、居酒屋の狸、蛙、象なども。般若や能面まで。

奉納された人形は焼かれるのもあるらしい。おそらく、すぐに灰にしちゃうにはしのびないほど出来のいいのが残してあるのだろう。だけど、残してどうなるものでもない。回廊や縁の下は、いちおう真上には覆いがあっても横から降り込む雨にはさらされてるし、海風が吹いて倒れればひび割れたりして、徐々に徐々に朽ちていく。結局は火葬か風葬かの違いしかないようだ。あと、犬葬とか猫葬とか。ウチの真紅も猫は天敵だと言っているが、黒猫が2匹、追いかけっこをしていて、京人形の間を縫ってすごい勢いで走り抜けていった。

持ち主にとって大切な記念だったであろう花嫁人形、芸術的にも価値のありそうな京人形、そうそう気安く処分するようなものではないでしょう。多分、持ち主が先に死んだのだ。形見分けのとき、みんな気味悪がって要らないというので、仕方なくここに行き着いたのではなかろうか。

何十年もの間、誰かと一緒に暮らし、かわいがられてきたけど、その人に先立たれて、引き取り手がなく、ここへ来てしまった人形たち。見る影もなく朽ち果てる前に、参拝者たちに姿を見てもらえるのが、せめてもの最後の供養になるのかもしれない。私は、一体一体、人形の声を聞きたい、気持ちが知りたい、そんな思いで、畏敬の念を込めて撮る。

地べたに置かれた瀬戸物の人形は、目の高さを同じくするよう、はいつくばって撮る。10体ほどの人形がファインダに収まるように構図をとり、数秒の間を置いて撮った2枚の写真は、後で見ると1体が動いている。だるまさんがころんだ? 夜になると、みんな動きだして、大宴会だったりするのだろうか。いやいや、風、風。たぶん。

人形の髪が伸びるという話をよく聞く。人毛の場合、空気中の湿気を吸って10%程度は伸びるので、不思議でも何でもないという人もいる。が、淡島神社のホームページでは、違う説を唱えている。

Q&Aのコーナーがあり、「髪の毛が伸びる人形があるとテレビ等で見ましたが、本当にあるのですか? また、なぜ伸びるのですか?」という質問に対し、「本当にあります。人形は見てもらったり遊んでもらったりするために生まれてきたものです。そのため、人から注目を集めるために何らかの怪奇的なことを起こすことがあります。悪いことを起こす人形は、まずありません」と答えている。

●人形は祟りません

人形は、悪さをしない。これは信じていいと思う。もともとは、作り手の善き心が込められて生まれてきているのだ。私はずいぶんたくさん写真を撮ったけど、変なものが写ったりすることもなく、また、体調に変化を来たしたりすることもなく、風邪ひとつ引かずに冬を乗り切った。祟られるどころか、守られているような暖かみさえ感じる。

「人形の祟りか?」と冗談めかして語られている話ならある。橘明(たちばなあきら)さんとは、美登利さんを通じて知り合った。彼も人形を作る。橘さんは、作った人形をワンフェスで展示していた。

※ワンフェス:ワンダーフェスティバル。東京ビッグサイトで年に2回開催される、ガレージキットのイベント。主催は海洋堂。

手作りの一点ものなので、それなりの値段をつけていた。けど、売れた。現ナマと引き換えに、その場で「お持ち帰り」していった人がいたのである。わーい、売れた、売れた、と喜んでいたのだが、直後に高熱と湿疹にやられて入院させられてしまった。直前に受けた定期健康診断では異常なしだったのに、である。帯状疱疹であった。その入院費用が、人形の値段とほぼ同じであった。

人形が自分の身を売ってご主人様を助けてくれたのだと橘さんは言う。私は、ふと浮かんだ疑問を、そのまま口にしてしまった。「だけど、トータルすると、何も増えてないじゃない。人形が減っただけで」「あ、そこには気がついてなかった」と橘さん。「やーい、売れたなんて喜んでるから祟られたんだー」とからかう八裕沙(やひろまさご)さん。八裕さんとも、美登利さんを通じて知り合った。彼女も人形を作る。

もちろん、みんな人形が祟るわけがないと知りながら、冗談で言っている。真相は、人形に魂入れすぎて、どっと疲れが出てしまったといったところだろう。身も蓋もない解釈だけど。

だいたい、橘さんのことを笑っている八裕さんのほうこそ、すごい話がある。これはコワいぞ、マジで。去年の6月、銀座のヴァニラ画廊で、オリエント工業が30周年を記念して人形の展示会を開催した。実用性を備えた等身大の人形で、シリコン製のは一体60万円もする。私も見に行って、デジクリにレポートしているが、八裕さんも別のときに見に行っていた。

展示されている十数体の人形の中に、一体だけ特別の雰囲気をたたえている子がいたという。画廊の主である森馨さんもやはり人形を作る人で、八裕さんと知り合いである。八裕さんは森さんに聞いてみた「ねえ、この子、なんか違うよねぇ」。「実は、」森さんは言った。

「この子だけ、出戻りで、処女じゃないんです」。汚れてたとか傷があったとかってレベルの話ではない。何が違ったかというと、「なんか、すごみがあった」んだそうである。私は何も感じていなくて、後で聞いてもどこ子だったかピンとこないのだが。

●人形が怖いのは……

人形は怖いという人が多いけれど、よくよく考えてみると、人形を構成している物質が怖いわけがない。では、何が怖いのか。

人形が映し出すのは、自分の心である。人形と対話しているとき、実は自分と対話している。一人二役を演じているということではなく、自分の中に住んでいる、別人格をもった二人の他者が対話しているのである。ユングだったかの心理学で言われることだが、自分の中には複数の他者が住んでいる。

私はこれを次のように解釈している。夢を見ているときを考えてみよう。たとえば、きれいな景色や精巧な芸術作品にめぐり合い、その美しさにはっと息を飲んでいる自分がいるとしよう。このとき、景色や芸術作品を創造したのは誰か。自分の夢の中のことであるから、他に誰がいるというわけではなく、自分である。

しかし、一方では、それに驚ろかされ、感動している自分がいる。自分で作ったものに自分が驚かされていては変なので、作った自分と驚いている自分とは、別人でなくてはならない。登場人物にも同じことが言える。彼らは他者であるように見えて、結局は自分の夢の中のことであるから、彼らを動かしているのは自分だ。なのに、言動に驚かされたりしている。

そういうわけで、どうやら自分の中には複数の他者が住んでいる模様だ。だけど、覚醒時にそいつらが勝手気ままに出て来て現実の行動の支配権を奪い合ったりしたら、「船頭多くして船山に上る」ようなことになって、混乱する。だから、覚醒時には、「意識」という唯一の自分が意思決定の支配権を握り、理性的に舵をとっている。

この「意識」は、他の人格がしゃしゃり出て来ないように、抑えつけている。だけど、あまり無理な抑圧は、精神の健康によくないとされる。そういうとき、人形はいい役割を果たす。「意識」という、威張っている自分と、抑えつけられて萎縮している内なる他者とのあいだに、対話のチャネルを開いてくれるのである。

対話によって、内なる他者に市民権が与えられれば、和解が成立し、緊張が解かれる。人形によって癒される、というのは、分析して言えば、そういうことなのではあるまいか。ひるがえって、人形が怖い、というのは、とりもなおさず、自分の中の他者たちのうちに、意識の側から存在を認めたくない誰かがいて、その人と対峙するのが怖いのである。わが内にある、開けたくない扉。

●淡島神社の雛流し

淡島神社に行ったことをミクシィの日記に書いたら、広島の友人が読んで、2月に行っている。そのときは、うってかわってにぎわっていたそうだ。3月3日に催される雛流しの行事を前に、雛人形を奉納する人がわんさと訪れるので。最終的には約36,000体になったらしい。

雛流しでは、雛人形がうずたかく折り重なった小舟が何艘もロープで繋がれ、大勢の見物客たちが見守る中、漁船に曳航されて入り江をめぐる。色鮮やかで華やかに見えるけど、人形の心中はいかばかりであろう。境内の入り口付近に句碑があり、「明るさに 耐えている顔 流し雛」と刻まれている。どう解釈するのが正しいのかはよく分からないけど、華やかな行事での、人形の心中の悲しみを察して詠んだ句なのではないかと思う。

人形を愛する人は、自分が死んだ後のことも考えておいていただければ。フィギュアやスーパードルフィーも、最後はどうなるのだろう。
< http://www.geocities.jp/layerphotos/Awashima080112/ > 写真

以下は、おまけ。

●「週刊将棋」の破天荒な観戦記

私の同僚の直江雨続君が観戦した対局のことが週刊将棋に載っている。

「それは、異様な光景だった」で始まる観戦記もまた、類を見ないものだ。見開き丸々2ページを占めながら、指し手の解説が一切ない。解説されているのは、対局者と盤側観戦者の心理。だけど、この特別な対局において、最も解説すべきは、それなのだ。

  第1期マイナビ女子オープン本戦準決勝第1局。
  矢内理絵子女流名人 vs. 鈴木環那女流初段。
  観戦記は片上大輔五段。週刊将棋 3/12(水)発売号。

プロ棋戦のスポンサーといえば、新聞社や大手企業が慣例だったが、それを打ち破る個人スポンサー制度が発足した。対局ごとに一口4万円を募り、勝者に賞金として渡される。制度導入後初の対局が本局で、4人のスポンサーがついた。4人とも、鈴木環那女流初段を応援する意味で名乗りをあげたのだった。

スポンサーの特典として、対局開始後と終了後の数分間、盤側で観戦できる。この対局に限り、昼食休憩後も、最初の手が指されるまで観戦を許された。息を殺して見守るファンの作り出す空気が対局者の心理に影響したり、ひいては指し手にまで影響したりするのか。そこが一番のポイントだった。

各小見出しの後の書き出しは、すべて誰かの心理を簡潔に記した文だ。

  矢内は、迷っていた。
  鈴木は、動揺していた。
  矢内は、リラックスしていた。ボーっとしていたと言ってもいい。
  直江雨続さんは、感激していた。
  矢内は、冷静だった。

一挙手一投足を見逃さず、めいめいの心の動きを克明に捉えた観戦記、緊迫感があり、まるで小説を読むような味わいだった。ブラボー!

●どこまで行くのか、秋葉原

鉄道喫茶とか、鉄道バーとか、大阪方面にいくつかあったが、秋葉原にも
"e;LittleTGV"e; ができた。走り出し好調のようだ。典型的には、鉄道模型のレイアウトが広げられ、店によっては、マイ電車がキープできるところも。
< http://littletgv.com/ >

女装した男のメイドさんがいる喫茶「雲雀亭」、人気急上昇。月に2回のペー
スで営業するが、3月8日(土)は2店舗同時開催にもかかわらず、終始列が出
来ていた。この繁盛っぷりを見ると世も末かと思えなくもないが、まあ、かわいいんだから、仕方がない。次回は3月29日(土)。
< http://www.hibari-tei.com/ >

段ボール肉まんの店「毬琳(まりりん)」は、昨年の12月12日(水)にオープンした。段ボールは、もちろん素材としてではなく、包装に使われている。原材料や賞味期限に細心の注意を払い、横浜中華街で実績のある肉まん専門業者と提携して本場の味を出しているという。
< http://www.akiba-maririn.com/ >

「Japan Times」は、日曜日の「タイムアウト(小休止)」コーナーで、ひと
つのテーマに沿った特集記事を1ページ半にわたって組む。3月9日(日)のテ
ーマはコスプレ。秋葉原のコスプレ英会話教室 "Cosplish" では、ガンダムのセイラ・マスに扮したスウェーデン出身の講師が教壇に。生徒たちに「好きなアニメは?」。「バンタンキャリアスクール」は、1月に「コスプレイヤーコース」を新設した。授業料56万円の3ヶ月コースの最初の授業には35人の生徒が集まった。生徒のひとりがなりきったというローゼンメイデンの水銀燈が「ヴィクトリア朝のメイド」と説明されている件について。水銀燈、一言どうぞ。「おばかさんねぇ」。
< http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/fl20080309x1.html >

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
甘糟りり子「ミ・キュイ」を読んでるとこ。リッチなセレブの、エレガントでファッショナブルなライフスタイルをフィーチャーしたストーリー。この本と物理学の本を両方とも面白いと思って読める人がもしいたら、それはぜ〜ったい、うちゅう人だ。「ミ・キュイ」とは、半生調理法。本では牡蠣の料理として出てくるが、検索するとチョコのミ・キュイがまず出てくる。山形の「清川屋」から、行きつけのメイドバーに送っておいた。2月のお返しね。

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■編集後記(3/14)

・GrowHairさんは、人形が怖いという人のために、安心して下さい、怖くありません、と言いたくて書いたということだ。でも、その心理学的な分析は、わかるような、わからないような。なんと言われようと、わたしは人形が怖い。いっぱいいたらなお怖い。GrowHairさんの写真を見たけど、市松人形はやっぱりだめだ。あの人形のいる部屋で、一人で寝るなんてことは絶対できないだろう。でも、どうしてそんなに怖いのか。いつから怖くなったのかというと、山岸涼子の「わたしの人形は良い人形」を読んでからだと思う。この漫画はとびきり恐ろしい。書棚にあるのに、いま取り出して開くことができない。寝る前に読めるものか。トラウマになる(という表現でいいのか?)超絶ホラー、よいこは読まないでください。つい、一緒に並んでいる「鬼」「押し入れ」「白眼子」なんてのを続けて読んでしまった。「押し入れ」は、ある姉妹が借りた部屋で起きた想像通りの話、……やっぱり読まなければよかった。わが家が引っ越しするとき、たくさんの人形が出てきた。義母がつくった日本人形や、娘が遊んだキャラクター人形など、山のように。まさか燃えるゴミの日に出すわけにはいかないので、妻と娘が群馬県藤岡市にある人形供養の神社に行って納めてきた。その娘にも子どもができて、またキャラクター人形や動物人形が増加している。もう遊ばなくなった人形をどうするか。市役所に相談したら、小さく切断して燃えるゴミで出してくださいという。そんなこと、できるわけないだろう。保存しておいて、何年か後にまた藤岡市を訪ねるか。わたしも行く。いい温泉があるということだし。(柴田)
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4168110443/dgcrcom-22/ >
アマゾンで「わたしの人形は良い人形」を見る

・確定申告がまだじゃ。仕事詰まってきとる。ヤバイ急がんと。じゃあの。
[写メ]                         (hammer.mule)
< http://ameblo.jp/shinji-takehara/ >  竹原慎二公式ブログ