うちゅうじん通信[25]究極の未来美生物<地平線>/高橋里季

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こんにちは。イラストレーターの高橋里季です。隔週金曜日までの2週間がとても短く感じる時と、久しぶりに感じる時があります。今日はなんだか久しぶりな感じ。

さて、究極の未来美生物の3番目に思いついたキャラクターは、「死を探す地平線」です。《地平線》というのが このキャラクターの名前。

「死を探す地平線」って、なんだか暗い感じかな〜? 私としては、カッコイイ知的キャラを想像しています。今までの「究極の未来美生物」についてはこちらを見てみてね。
< http://bn.dgcr.com/archives/20080620140100.html >


一億年後の未来、"男でも女でもない無性"という設定で好きなようにクリエイティブは進んでいくのですが、今の時点でも制約がいっぱい。

まず、無性ということなので、彼とか彼女という呼び方ができないから、名前を考えなくてはいけない。前回のキャラクターは"女の子"で、イラストはがんばったけど、設定はちゃんと考えていませんでした。まあ、無性ばっかりが登場しなくてもいいかな、と思って。

今回は、イラストの鉛筆下絵を眺めながら、一億年後の進化したヒトである《地平線》の服装や髪型を考えているところです。進化したヒトは、死なない身体になっていて、"食べる必要"もないし、したがって"殺す必要"も持たない美しい生き物になっているという設定でした。

すると、「死なないんだけど、服はやっぱり着るかな?」とかね、考えているの。少し考えたけど、私は服を描くのが好きなので、身を守る服ではなくて、自身を飾るための服を着せようと思います。

飾るということについて私は、「文化とは抑圧の手段として成り立つ」と思っています。食べるという行為には、もちろん獲物を殺したという行為が含まれるのだけれど、ヒトは、食べる時に食べられる恐怖を思い出したくないので、「獲物を殺した」という部分を意識から遠ざけるために食卓を飾るんだ、というのが私の考え。文化って分化のことだし、デジタル化のことだと思う。

抑圧とか無意識のフロイド的な話になると、「無意識に為す行為」というのが難しそうだけど、私としては、「本能的」とか「DNA的」なことを考えています。きっとね、文化も、もうすでにDNA的なことで、ヒトは、止めようと思っても止められないと思うの。文化的なことってね、「すべきかすべきでないか」を考えるレベルじゃなくて、「せざるをえないから、どうすべきか」という問題だと思うの。だから、もっといい方法という模索の方向性しかない感じ。

ひとつの行為から「死のイメージ」だけを分別して意識しなくて済むようにするのが文化の一側面だとして、私は、「食べる(殺す)のが恐い、セックスする(異性と合体して自分をなくす)のが恐い」という人が、現在でも大勢いるんじゃないかと思っているの。ラカンの本には「社会は無意識で出来ている」って書いてあったけど、そうゆう見方が、なんとなく納得できるな〜と思う。

「食べるのが恐い」「セックスするのが恐い」ということは、なかなか自分でも認めたくないことだと思うんです。この二つが「できない」っていうのは、たいがい「やりたいけど、状況や環境のせいで、できないんだ。」という言い方で説明されるけれども、私は、「心理的にできない」人が、現在でも大勢いるんじゃないかと思っているの。

この二つができなかったら、「本能(無意識)でできている社会という大きな縄張り」には受け入れてもらえない。その絶望は、「異性にもてない。」という説明になったり、「異性に興味がない。」という説明になったりするけれども、本当は、「恐くてできない。または、ヤルのが恐い。」ということを意識することがデキナイ感じ。

社会(=獣たちの縄張り)に入っていくのが恐い。獣になるのが恐い。思春期に、"自分は親の獣(本能)的な行為の結果、生まれたのだ"ということを事後的に知ることになる。文化としての言葉も様式も、全ては、恐怖を日常的には思い出さないために在ったことを事後的に知る。そうゆう恐怖を乗り越えなければ、オトナとして認めてもらえない。

壊れた本能しか持たない、半獣のヒトにとっては、「食べるのもセックスするのも子育ても、イヤイヤせざるをえない」のが本当のところ(脳内の快不快ということで言えば不快なこと)なんだけど、それをなんとかできるように文化的に「快楽」のイメージを飾る。でないと、死ぬとか絶滅するしかないんですもの。

こういうことをラカンは「性関係はない」と書いたのだと思っています。つまり、「性関係というのは、幻想であって、自分の脳内のある種の物質に"たとえば望ましいこと"という解釈を添付することによって、別種の快楽物質を脳内に発生させること」だと。

たとえば、嫌いだった味も、何度も「楽しい食卓」という思い出のイメージを貼付けてしまえば、そしてみんなで「おいしい」と認め合った言葉を貼付けてしまえば、その味によってドーパミンなりが発生するようになるんだと思うのね。

この「自己脳内コントロールの魔術」を使えなければ、対人関係は創れないし、この魔術こそが、"文化"と呼ばれているのだと私は思うの。たとえば、"ミームに反応できない脳"ということも在るのかもしれない。

では、究極の未来美生物の《地平線》が抑圧することって、なんでしょう?なんのために自身を飾らなければならないんでしょう? って考えていて、《地平線》は「死を探している」って思ったの。自分は死なない身体だし、死ということを見たことがないんだけど、「死ってどんなことなのか」が気になっている《地平線》。

《地平線》は、死=自分にとっての不可能に直面するのが、恐い。だから自分から死を探す。そして「見つからない」ことを何度も確かめて安心する。という、伝染性の病を抱えている。脳に。この病が、一億年後のヒトの「適応因」となるか「淘汰因」となるかという点には、物語り性があると思います。

《地平線》は、「なぜ、こんなに死が気になるのか。」自分でもわからない謎に突き動かされて行為する。世界の果ては、どこまで行っても見つからない。けれど、《地平線》はその病に気づきたくないので、身体(脳)のことを忘れていたい。

だから、自分の身体を自分から見えないようにする。コスチュームは、身を守る黒ではありえない。自分の意識から、なるべく自分の身体を遠ざけるための色はグレイ。身体の線を隠すボリュームライン。《地平線》の瞳も淡いグレイなのだけれど、その美しい瞳さえ、アイウェアで隠している。

一億年後のファンタジーなのだから、「透明人間になる装置」で、いつも透明なままでいるのでもいいな(なんだか考えるのが楽しくなってきましたが、この楽しさが、読者のみなさんにも伝わるといいんだけど)。

無意識に、そういうふうに身体を隠して、自分のことを「ガンマン」だと説明する《地平線》。けれど、もちろん肉体美よりは知性美が際立つ。

お気に入りの赤い銃で、何度も自分の身体を撃ち抜いてみる(もちろん死なないんですが)。その度に快感が得られるのだけれど、その快楽は3年目で突然とぎれる脳のしくみ。その時、恐怖が、竜巻みたいに、《地平線》を襲うのでしょう。

どうする? 《地平線》。というキャラクター。

今回は考えるのに時間がかかったので、イラストは下書き状態でお見せします。赤い拳銃を描くのが難しかったです。見てみてね。


【たかはし・りき】イラストレーター。riki@tc4.so-net.ne.jp

・高橋里季ホームページ
< http://www007.upp.so-net.ne.jp/RIKI/ >